はてなキーワード: 亀山とは
「お母さんをひとりぼっちにしないでほしい。」
野口由美子
https://www.huffingtonpost.jp/entry/loneliness-children_jp_5c5a916de4b074bfeb164869
野口由美子
株式会社aegifフェロー、子どもの貧困対策センター「あすのば」PRボランティア
「お母さんをひとりぼっちにしないでほしい。」
あるシングルマザーから聞いたこの言葉に、中山真珠さん(23歳・大学4年生)は、社会から孤立する母親たちの心の底にある本音を聞いたような気がしたそうです。
子どもの貧困対策センター公益財団法人あすのばの大学生スタッフとして活動する中山さんは、子ども食堂を主催していた母親の影響で、子どもの貧困問題に関心を持つようになりました。しかし、今は子どもを取り巻く「大人の貧困」にも眼を向けたいと言います。
子どもの貧困が多いのは、ひとり親世帯です。父子世帯は19万世帯あるのに対して母子世帯は123万世帯あります。どちらの世帯も80%以上の親が就労していますが、父親の平均年間就労収入は398万円であるのに対し、母親の就労収入は200万円という調査結果が公表されています (出典:「厚生労働省の平成28年度全国ひとり親世帯等調査」)。
中山さんは、このような数字だけではわからない、シングルマザーの気持ちに触れる体験をしたそうです。その時ご自身が感じたこと、考えたことを語ってくれました。
# ここからなんとこのNPO、親が子供と引きはがされるということをやりだす
私は「あすのば小・中学生合宿キャンプ」(子どもの貧困対策センター公益財団法人あすのば主催、2018年3月24日から26日に千葉県君津亀山少年自然の家にて開催)で保護者プログラムを担当しました。この合宿は、ひとり親家庭などや、社会的養護のもとに暮らす小学生、中学生の子どもたちが参加し、高校生大学生世代のスタッフと親睦を深めます。
小学生も対象なので、まだ年齢が小さい子でも参加できるようにと、保護者も参加できる形にしています。でも、様々なバックグラウンドを持つ子どもたちがいるため、参加する子どもの中には両親がいない子もいます。そういう子たちへの配慮もあり、保護者が同伴した場合、合宿中は他の子と同じように子どもだけで行動し、親御さんには別に用意した保護者用プログラムに参加していただき、原則別行動をとってもらっています。
今回参加した保護者は5名、全員シングルマザーでした。到着早々親子同伴できないことを知ったお母さんたちは子どもと離れることに戸惑い、躊躇していました。
私たちは、保護者の方に、忙しい日常から離れてゆっくりした時間を過ごしてもらいたい、保護者の方を労いたいという学生のアイディアから保護者プログラムが用意していたのですが、お母さんたちはそういう「自分のための時間を持つ」という気持ちにはなれなかったようです。
「夜飲ませる薬があるんだけど、部屋に行ってもいいですか。」
と何かと心配そうなみなさんに
「一人ひとり 担当のバディ(学生スタッフ)がついていますから、彼らに任せていただけませんか。」
とお願いすると、
と返され、自分たちが全く信頼されていないと思いました。私の説明が悪かった部分もあったと思うのですが、完全に敵対心を抱かれてしまったように感じてしまい、私も、
「子どもたちに楽しんでもらうために、みんながんばって準備してきたので私たちを信じてください。」
と涙を流しながら訴えていました。
しかも、親がいない子供もいるから、全部親から引きはがすとかだれが聞いてもお前ら頭おかしいからさっさと子供を返せこのゴミ。ってふつうは思うわ。
これ、よくPRとか言っているな。
インタビューの中で中山さんは時折、「自分にはまだお母さんの気持ちがわからないと思う」と率直に話していましたが、それでも一生懸命、保護者の気持ちに寄り添おうとしていました。
いや寄りそうな。気持ち悪い。
子供と一緒にゆっくりならまだしも、公平にみんな引きはがすとかどういう理屈なんだよ。誰が理解できるんだこれ。
認知プロファイリングすると、子供が最優先、親はどうでもいい。
それがこのNPOということにしかならない。シングルマザーはあくまでも付けたしということを意味しています。金づるでしょ。この手のNPO法人は税金泥棒の汚いビジネスしかやっていない。
大阪発の場合だと、東方向は+30分、西方向は-30分で考えればいいかな。知らんけど。
片道4時間。
自分的には香川県は青春18きっぷを買ったときに必ず行く場所。瀬戸大橋を超えるときのテンションの高さと、やたらとガタンガタンいう音が旅情を誘う。
高松駅前の時点で、うどん屋が多くあるなら、うどんだけ食いたいなら、そこだけで満足できる。
時間かあるなら栗林公園まで行ったり、瓦町の方まで行ってもいい。瓦町FLAGの変わり方を年々眺める楽しみもある。
片道4時間半。
坂出での接続があまり良くないので、高松に行くより時間は掛かる。
こんぴらさんこと金刀比羅宮の観光が主になる。ここも香川なのでうどん屋も多い。
なお、こんぴらさんは奥社まで行く根性はなかったので、御本宮までしか行ったことがない。
片道4時間半。
さすがにしまなみ海道に行く時間はないので、尾道での観光がメインになる。
行きか帰りかのどちらかはロープウェイを使わずに歩き回ってみるのも一興。尾道ラーメンも食おう。
片道5時間。
18きっぷシーズンは智頭急行のフリーパスが発売されてるので、往復で使えればかなり得。
一応、行きは山陰線、帰りは智頭急行というルートの大回りならダイヤ上は割と可能。
鳥取と言えばやっぱり砂丘か。駅からはそこそこ離れてるので、バスの時刻表を要確認。
砂の博物館もセットで行こう。あと、生きたイカをその場で刺身にしてくれる店が好き。
片道4時間。
時間があるなら、少し西にある餘部で降りて鉄橋を見て行ってもいいかも。
外湯巡りのフリーパスがあるので、できれば替えの下着を何枚か持っていて、色んな温泉に入るのも楽しい。
今の時期だと、すぐに汗をかくから、温泉に入る度に下着は変えた方がいいと思うぞ。
ちなみに山陰線オンリーで行くのと、京都線~神戸線~播但線経由は、距離が1.5倍くらい違うのに時間は10分くらいしか変わらないから、気まぐれで使い分けるのもあり。
こっちは温泉には行った後、辺りをブラブラする感じになるか。とりあえず鰻を食う。
片道2時間半。
京都から意外と近い。時間帯によっては米原での乗換だけで行けるし、18きっぷ初心者にはおすすめ。
一応都会なので、目的なくうろついても充分楽しめる。
東海道本線で日帰りで行けるところまで行こうと思うと、静岡辺りが限界か。乗り換えで降りたことはあっても、観光で行ったことはないけど。
片道6時間
まあ、一泊して下の安曇野とセットで旅行した方が良いと思うけどな。
片道7時間
水の綺麗さで有名な安曇野の中心駅。
大丈夫、始発と終電で行けば、2時間半滞在できるから、大王わさび農園くらいなら充分行ける。わさびを買おう。わさび定食を食おう。
ちなみにVAIOの本社も安曇野にあるので、せっかくだから見物に行っても良いかも。
片道2時間。
新快速の最果て地点で、乗り換えなしで行ける。
敦賀と言えば原発だけど、美浜原発PRセンターに行くには時間が掛かるし、何よりバスの本数も少ない……。
スムーズに行ければ2時間くらいなんだけど、舞鶴線はとにかく本数が少ないから、計画を立てていかないと最悪4時間以上も掛かることになる。
西舞鶴で降りて、とれとれ市場に行って海鮮を食って、東舞鶴で観光する感じか。
なお、東舞鶴にある赤レンガパークと引き揚げ記念館では、戦争に対する空気が違いすぎて笑う。
片道3時間。
福井と言えば恐竜。ただし、恐竜博物館は勝山市にあるから福井駅から私鉄とバスを乗り継いで一時間以上掛かる。
東尋坊は、恐竜博物館と真逆の位置だから、日帰りで両方を回るのは無理だな。
だから恐竜博物館のコースと、東尋坊→芦原温泉のコースのどちらを選択する感じ。
片道4時間半。
福井にある盲腸線の九頭竜線の終点。名前はカッコいいが、何もない。駅前にファミマと道の駅はあるが……。
片道4時間半。
観光地が固まってるので、兼六園・金沢城公園→ひがし茶屋街→近江市場のコースは日帰りでも余裕で回れる。なんなら全部駅から歩いて回れる。
とりあえず着いたらチャンピオンカレーでも食って、海鮮は帰りにするか。
帰路は福井で40分くらい接続待ちがあるから、8番ラーメンでも食おう。
京都→大阪→和歌山→紀伊田辺→新宮→多気→亀山→柘植→草津→京都 で一周
乗り換えアプリで見ると多気で1時間の接続待ちがあるけど、到着後に少し待てば名古屋行きの快速みえが来るから、それで津まで行って、そこで晩御飯を食べた方がいい。
紀伊半島の南の方になると、海岸線スレスレを走ってるから、ようこんなとこに線路が引いてあるなと思う。
なお、白浜の日帰りはどう考えても無理だから、パンダが見たいなら泊まるか特急にしとけ。
京都→敦賀→金沢→富山→猪谷→美濃太田→岐阜→米原→京都 で一周
合計13時間57分。
金沢から富山は三セクを通るから1290円払う必要があるのをお忘れなく。18切符の特例は高岡から富山までだから、金沢からだと適用されないぞ。
全体的に余裕がない乗り換えなので、1時間ほど早く出発すれば、富山で1時間の乗り換え待ちが発生するから、そこでお昼を食べよう。寿司が旨いぞ。
高山本線は猪谷で一度乗り換えがあるだけで、美濃太田まで乗りっぱなしが続くし車内は空いてるから、弁当を買って車内で食うのもいいかも。鱒寿司を食おうや。
83歳で播磨で天寿を全う。
https://akoinfo.com/akogisi/gisikojin/terasakakitiemon.html
逃亡説は誤り
昭和になり立証される!
昭和十一年に伊藤家(伊藤十郎太夫の末裔)から多数の資料が発見されたことや伊藤武雄著「赤穂義士寺坂雪冤録」、渡辺世祐博士の「義士講寅寺坂吉右衛門信行」で逃亡説は誤りであることが立証される。
泉岳寺の門前で「寺坂吉右衛門が泉岳寺境内に入ろうとした所、寺内に入ってしまうと外に出れないのでかねて吉田忠左衛門が申し含めておいたことが無駄になる。とのことで★十二月十五日午前十時ごろ一同と別れ、十二月二十九日には播州亀山に帰り着いた」とある。
吉田忠左衛門の暇乞い状には
二月三日、忠左衛門が切腹の前日に十郎太夫に送った暇乞い状には「・・・吉右衛門のことはよろしくお願いいたします。うかつなことはしゃべらないようにお願いいたします」とあり、討ち入り前に逃亡した不忠の士への言葉ではないことが分かる。
現在、東海道本線と称されている鉄道路線、確かにほぼほぼ東海道に沿っているのだが、険しい峠は迂回するか長大トンネルで通過させていたりする。
箱根峠は箱根山の南から伊豆半島に連なる、ちょうど半島の付け根に当たる部分に丹那トンネルという長大トンネルを掘った。
トンネルができる前は箱根山の北側の高原を回る、現在の御殿場線ルートだったが、勾配がきつい上に荒天に弱い(土砂崩れ多発)ということで新線を建設したと。
鈴鹿峠に至ってはルートを大きく北に変え、名古屋から岐阜に北上、そこから草津までは中山道のルートをトレースするという大胆な施策で乗り切った。
というわけで鈴鹿峠の前後はメインルートからは完全に外れてしまったものの、実は鈴鹿峠に近い旧東海道を通る鉄道路線が、あるにはある。
関西本線・草津線ルートのうち亀山~柘植が、加太越と言われる鈴鹿峠の南を回る峠越えになっているのだが、現在ここを含む関西本線の亀山~加茂が存廃の危機に立たされている。
ここのルートは元々私鉄だったものを旧国鉄が買収し、それが東海道線とライバル関係にあるルートだったためか今の今までロクに近代化せず、低規格路線(しかも非電化)のまま放置してきた。
そのまま近鉄と名阪国道という大幹線に需要の殆どを吸い取られた結果、誰も当ルートを使わなくなり、これから何をするにも手遅れという惨状に。
本来だったらJR化する前の国鉄時代に、加太越と木津川渓谷という急峻で狭小なルートを、電化した長大トンネルによる新線建設とかで抜本的に改善すべきだったと思う。
その意味では、何もかもが遅すぎた。
ここまで需要が落ち込んでしまった以上JR西日本は廃線にしたいだろうから、どうしても残すなら上下分離方式を導入し、インフラのケツ持ちを三重県が全面負担するくらいしか手段がない。
それだって、誰も使わない路線に県民の血税を投入してまで延命する是非を大きく問われるだろう。
そもそも名古屋-亀山を受け持つJR東海も、近鉄を向こうにどこまで輸送強化に投資するか微妙だし。
あーあ、せめて近鉄の単線バージョンくらいに近代化した、今の智頭急行みたいな鉄道で加太越を味わってみたかったわ。
ということで、今度旅行する時は名古屋で車借りて新名神を京都まで走り、帰りは難波まで出てひのとりプレミアムシートに乗ろうと思う。
10月1日に適当に書き散らした文章(anond:20211001193856)が2週間以上してからTwitterでリツイートされているのを発見。
はてブを見るとまさかの500越えでびっくり。ブコメを一通り読んだが、言いたいことをわかってくれてるなという人もいれば、全然話がかみ合わないなという人、こんな視点があったのかという人もいて面白かった。
そのうえで、もうちょっと追加で書きたい気分になったので電気自動車の普及プロセスを考えるうえでケーススタディになりそうなディスプレイ産業の話をもう少し書いてみる。
ブコメでも指摘があったが、iPhoneXの前にサムスンがGalaxyで有機EL採用していただろうという話。そのことは当然知っててiPhoneXで有機ELが普及したと書いたわけだけど、その理由はなぜか。
年間の携帯電話生産台数って、サムスン電子3億台 / Apple2億台くらいで生産量はサムスン電子の方が多いわけだけども、Appleの2億台はすべてがハイエンド端末なので影響が桁違いだという事。(廉価版のiPhoneSEも世界的にはハイエンドに分類される。) サムスンが有機ELを搭載していたハイエンドモデルのGalaxyは全生量の一部なので、年度によっても変わるが5000万台オーダーくらい。なのでデバイス調達に対するインパクトが全然違う。
iPhoneXで有機ELが採用されて、いずれは全モデルが有機ELになる将来が確定 = 少なくとも2億台分の有機EL需要が生まれることで、韓国LG電子や中国BOEといったディスプレイメーカーは有機ELへの積極投資を決めた。
こうしてディスプレイの供給が増えることでさらに有機EL搭載の携帯端末が増えるという新技術の普及サイクルに入ることになった。有機ELの普及タイミングを読めなかったジャパンディスプレイは建設を進めていた白山工場は稼働後1年で需要を失う羽目になり、会社自体が傾くことになる。Appleのディスプレイ採用は、業界の投資動向に与えたインパクトが段違いだったのだ。
もう一つ大きいのが、Appleの有機EL採用によって携帯機器の有機EL搭載の流れが『不可逆的になった』ということ。ブコメでも誰かが上げてくれていたが、従来はPS Vitaのように最初は有機EL搭載モデルだったのが途中で液晶に代わるというような逆の流れもあったわけだ。ところが、iPhoneX登場以降は有機EL搭載モデルの後継機種が液晶になるような逆転現象が無くなった。iPhoneXの登場は文字通り市場を変えたのだ。
もうちょっと追記したいと思う。2000年ごろからの日本主要メーカーの次世代ディスプレイ技術へ投資スタンスについてだ。この時代の日系メーカーのディスプレイ技術への投資を振り返ることは電気自動車への投資戦略を考えるうえで、非常にいいケーススタディになる。当時の各社の戦略とその後の流れはざっくり書くとこんな感じだ。
・シャープの場合:次世代ディスプレイ技術の本命を液晶とみて集中投資。2004年に亀山工場、2006年に亀山第二工場、2009年に堺工場と大型投資を慣行するも、液晶パネルの需要変動による赤字に耐えられず会社が経営危機に。台湾の鴻海精密工業傘下に入り、経営再建を進める。
・パナソニック(当時は松下電器)の場合:次世代ディスプレイの本命を大画面化に向くプラズマとみて集中投資。2000年代半ばまで投資戦略は成功していたが液晶の大型化が進むとプラズマのメリットが薄れ撤退。製造子会社は5000億という日本製造業史上最高記録の負債を抱えて倒産。液晶への投資も視野に入れて、日立・東芝と合同で設立した液晶製造会社のIPSアルファテクノロジを子会社化、自社でパネル製造進めるも利益を出せずこちらも撤退している。
・ソニーの場合:次世代のディスプレイ技術の本命は有機ELと考え、液晶はそこまで普及しないと判断。当面はCRTを延命して凌ぐも液晶テレビの市場立ち上がり時期を読めず、パネル調達に不安を抱えてサムスン電子と液晶合弁会社を設立。日系メーカーの商売敵に技術を依存し、資金を出す行為に当時は批判が集まった。
20年後の後知恵で見れば、2000年ごろの判断として一番正しい投資戦略をしていたのはシャープで、一番大規模に投資していたのはパナソニックで、一番時流が読めていなかったのはソニーで間違いない。
だけど2021年現在、一番テレビ事業で利益を上げているのは一番時流が読めていなかったソニーだ。世界シェアは今でも3位を維持している(1位、2位は韓国のサムスンとLG、パナ、シャープは10位前後)。新技術への投資は出遅れたのだが、裏を返せば大規模投資による消耗を避けられたしその後の販売戦略で巻き返せたという事でもある。
そんなわけで、電気自動車への投資を全力で進めよという話が異様に盛り上がってるけども、別業界から歴史的な経緯を通してみれば「そんなに単純な話じゃないよ」と思ってしまうのである。新技術への投資戦略って、本当に、本当に、難しいのだ。
文章を書く時、頭の中で浮かんでいる支離滅裂な言葉の束が上手く繋がらない。だからいつまでたっても文字数が増えない。小さい頃から、空白の埋まらない日記帳や作文用紙が大嫌い。
小学一年生の時、「休みの日にあった事を書きましょう」と言われた。私は兄と遊んだ時の事を書いた。家の向かいに住んでいた兄の友達も一緒だった。だから作文に「お向かいの亀山(仮)くんも一緒に遊びました。」と書いた。お向かいの亀山(仮)くんって誰だよって笑われた。誰って、お向かいに住んでる亀山(仮)くんだよ。なんで笑われたのか20歳を過ぎた今でも分からない。勿論(仮)なんて作文には付けてない。
幼稚園の頃、幼稚園の授業(?)が終わった後に幼稚園で習字教室があった。見本を見ながら文字を書くだけだった。今は字を書くことが難しいとは思わないが、当時園児の私には地獄の時間だった。私は『の』という字がどうしても書けなかった。でも書いて先生に見せないといけなかった。そこで私は友達『の』が書ける友達に頼んで書いてもらった。その後普通にバレて怒られた。怖かった。先生に怒られることではなく、ただ1人だけ『の』が書けない事が。
次の習字教室がある日、字が書けない事が怖かった私は幼稚園に行きたくないと母親に駄々をこねた。だが、母親は「行きなさい」と取り尽くしまもなかった。絶対に行きたくなかった私は泣き叫び、習字道具を道路にぶちまけた。母親は私の事を引きずって幼稚園に連れていった。習字教室には結局それっきり行った記憶はない。
お題が与えられ、それについて文章を書きなさいと言われた時、全く書く事が無い時はどうすれば良かったんだろうか。全く無いなんて有り得ない、何かある筈だから、なんて言われても本当に何もなかったかのに。作文に嘘を書いたって、分からなければそれで解決するなんてその時は知らなかった。
もし、過去に戻れるなら、『の』が書けなかった私と一緒に『の』を書く練習をしたい、「お向かいの亀山(仮)くん」を笑われた私の作文は笑わず私が聞いてあげる、何も書けない私は私が代わりにテキトーな事書いてやるよ…なんてね…書ける気がせんわ、すまん。
https://inside.dmm.com/entry/20191107
このニュース見た。
派遣でも有期雇用社員でも雇い止めにルールが有ることは知っていたが、ぐぐってみると想像していたより制約がきついな。
契約書で「いつからいつまで」と書いていても仕事の内容や更新回数で実質的に無期雇用に近い働き方をしている場合、無期雇用と同じ扱いをしなくてはいけないようだ。
約束して文章にしても実質を重く見るわけだ。これだけ見ると弱者に優しくて良さげだけど、こういう文化が悪影響も与えている場面も多く目につく。
例えば法律に従ってふるさと納税をたくさん集めたら、趣旨に反するとか言って排除されたり。
契約書よりも実態が重くみられるなら、法律よりも国民感情とか雰囲気が重くみられるのは一貫しているとは思うんだよね。
個人的にはつらいけど。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
はてなブックマーク - かつらかぶり全裸で女風呂に侵入、62歳男逮捕
三重県警亀山署は10日、亀山市西町、会社員の男(62)を建造物侵入容疑で現行犯逮捕した。
発表によると、男は10日午前2時頃、同市小野町のビジネスホテルの女風呂に女性用のかつらをかぶって女装し全裸で侵入した疑い。
実は海外のいくつかの国では外科手術無しで性別を変更できるようになっています。
【発言】戸籍の性別変更、手術要件廃絶を 保険適用を考える | 共同通信 [2018/01/15]
―世界的な情勢は。
三橋「ヨーロッパでも、過去には公的な性別変更には手術が必要だったが、今や要件緩和は世界的な流れ。英国、スペインなど多くの国で性別適合手術を要件から外している。
スウェーデンでは、過去に手術せざるを得なかった人々に賠償金まで払った。世界保健機関(WHO)も2014年に、手術要件の廃絶を求める声明を発表した。
イギリスでトランスジェンダーの法的性別変更手続きがもっと簡単に! [2016/07/14]
これによってイギリスはアイルランドやマルタやデンマークと同じラインに立てるのです。
これらの国々では性別変更をするのに外科手術などの医療行為が必要ではないのです。
トランスジェンダーの権利はどれだけ支持されているのか。世界23カ国を調査 [2017/05/06]
ランキング3位のアルゼンチンは、2012年にジェンダー・アイデンティティの「自己決定権」を認める法案を可決し、新たな金字塔を打ち立てた。
これにより、西半球で初めて、手術や医師の許可がなくても、書類に記入するだけで法律上の性を変更できるようになったのだ。
トランスジェンダー擁護団体「トランスジェンダー・ヨーロッパ」によると、その後、欧州の4カ国がアルゼンチンの法律をモデルにした自己宣言法を採択し、さらに18カ国以上が同様の法案を検討中だという。
さてこの流れに日本も追随するとなると「性自認が女性で性別変更手続きをした男性器のあるトランスジェンダー」は女湯に入ることになるでしょう。
もし追い出したりしたらそれは差別です。