はてなキーワード: 市街とは
東京のうどん屋だと五反田おにやんまがまぁまぁオススメだが、それでもまぁまぁなのでそもそもうどんもレベルが低い
東京でレベルが高いのは立ち食い含めたそばが間違いない、個性のある地域の名店がほぼ各駅に存在してて値段を考えると相当面白い
で、本題の「マジで東京のパン、美味しくない。」は95パー同意だがおいおい日本の都かつパン消費量日本一たる京都を差し置いて勝手にパンの都を名乗るとは何事?
というわけで「コンビニでパンを買う奴はコンビニ社員か家族を人質に取られてる」が合言葉の京都の代表的パン屋を便乗紹介
ル・プチメックは京都市内を中心に展開してる京都のパン屋チェーンで今は大阪と東京にもある
とにかくハード系パンの風味とクラストが抜群に良く、ここの水準に慣れてしまうとそこそこな高級路線枠のメゾンカイザーですら「ちゃんとパンだけど香りと味が弱いな……」と感じてしまう
VIRONとポンパドール(ちなみに京都にポンパドールは存在しないしそもそも全国チェーンが少ない、理由は恐らく進々堂や志津屋といったご当地チェーンが強すぎるから)の価格で
勝負できる店が改札内に入ってるのが京都のレベルの高さの象徴で、最初の村から出たら即魔王レベルの所業だと思われる
京都駅改札から出ない人でも買えるので乗り換えのついでにでもオススメ
・ワルダー
京都河原町駅から麩屋町通を歩いてった所にあるドイツパンがベースの小さな店
正統派のドイツパンに酸味に特徴のあるバゲットから食パンに菓子パンまで何でもある(小規模店舗が多く、それなのにラインナップが異常に多様なのも京都の特徴)が
ここに来たら是非塩気のある惣菜パンを頼んで欲しい、どれもドイツパン的なずっしりとしたパンに酒に合う様なパンチの効いた大人の味付けがされている
特に山椒と七味を使ったバゲットやクセのあるチーズを使ったパンが絶品で、今書きながらよだれ出てる
地下鉄烏丸御池駅周辺は京都市街の中でも一際レベルが高く、パン弱者はその闘気にやられて気を失ってもおかしくはない
前述したル・プチメックの2号店やソフト系の美味いしろはとベーカリー、激渋な実力店の手作りサンドイッチの店 タナカ、新進気鋭のクルスといった店舗がある中で一際有名なのがこちら
ここはベーグルが著名で様々な味を加えたベーグルが手ごろな値段で楽しめる、無論ベーグルを使ったサンドイッチもグッド
個人的にはチョコレートベーグルがベストで甘さを抑えたチョコがベーグルのもっちり感と相まってたまらない美味さ、これで200円なのは本当に異常
無論ベーグルだけではなく、多種多様で工夫を凝らしたラインナップが200円前後で並ぶ絵面は東京のパン好きが見たら卒倒するのではないか
いきなり準急や各駅でしか止まらない市街地の外れでそこまでの有名店でもないここを紹介するのは宇治にある超有名パン屋たま木亭直系の店だからで、宇治に行って並ぶよりはまぁ楽だろという理由
基礎的なパンも間違いなく美味いのだが、ここの系統の特徴はやり過ぎな味の盛り具合
パンのバランスが重くなろうが関係なし、完全に振り切っており菓子パンというか菓子だし、おかずパンというかおかずみたいな異常物体が生まれる
このスタイルが気に入った方は黄檗のたま木亭まで突撃するといいだろう、ヘビーでどうかしてる美味い奴らが待ち受けているぞ
・アルチザナルとエズブルー
出町柳から今出川通り(こちらも御池と双璧を成すパン屋激戦区でル・プチメックの本店もこの通りにある)を御所の方に少し向かった所にある2件のパン屋
こんな高レベルな店舗が交差点を跨いで2店舗連続で並んでいるのは日本においてはかなりおかしな事だと思います
アルチザナルはオシャレでデニッシュ系が抜群、エズブルーは庶民派でたまごを使ったパン(エズブルーのものはタイプは違うが、京阪神にはたまごサンドへの異常な執着があるので機会があれば試して欲しい)がとても美味しい
なお、両店共ハード系は当たり前の様に平均点を余裕で超えているのが本当に狂っている
出町柳には下鴨神社から素朴系和菓子の頂点たる出町ふたばの豆餅という鉄板コースがあるが、パン好きならもう少し歩いてこちらの2店舗を回るのがオススメ
・まるき製パン所
阪急大宮から五条の方に少し歩いた所にある操業70年オーバーの有名店
いわゆる昔ながらのコッペパンサンドの店で値段を考えれば相当に美味しいが、グルマン的には味自体はここよりも美味いパン屋はいくらでもある
しかし朝一からの行列や地域の家族連れがカツロールにコロッケロール、あんぱんやらドーナツを大量に買っていく様はこの土地に根付いたパンの歴史を感じる事間違いなし
素朴で優しい味のハムロール200円で京都のパン文化を噛み締めろ
とりあえず行きやすい有名店を挙げたが、そういった店以上に市街周辺であれば朝8時前後位から開店するパン屋が文字通りどこにでもある事が京都最大の魅力
宿泊先のホテルでGoogleマップででも探してみるといい、朝からパンが食べれる所が絶対にあるから
カルネやらニューバードの話もしたかったがあまりにも長くなりそうなのでこの辺で
京都でもちゃんとした和食はランチで5千、ディナーで1万以上はほぼ必須だし店選びも難しいから、京都で下手な和食行く位ならパン屋や町中華を回るのがオススメだ
これは余談だが京都のパン文化はパン食を取り入れたのが早かったのが大きいのではないかと思われる
類似の例として中華や肉料理もあるし、何なら今は大阪からスパイスカレー文化が流入して大変な事になっている
つまり京都人は文化に関しては和で硬派気取りつつ実は超ミーハーなので、参考になった方はよければ東京のラーメン最新トレンドを教えて下さいお願いします
https://togetter.com/li/2120670
飛行機が市街の近くにある福岡が異常、とかそういう話では無くて
そもそも飛行機を中心街近くに作るっていうのは都市計画上ありえない
五月蠅いし危ないし高層建築できないし良いこと一つもない
福岡の発展を妨げている原因の一つに空港があるといっても過言ではない
ついでにいうと高速道路も郊外に降ろすべきで首都高とか阪神高速とか異常
そのせいで景観もへったくれもなくなってしまったが、逆にネオトーキョー的に東京の景観になってしまった
鉄道も郊外に作るようになっていたが大阪とか名古屋とか逆に駅周辺が発達してしまうっていうね
新宿のモザイク坂が先週で営業終了との事で話題になっていたが、知る人は少なかろうがあそこは実は高架道路なんである。
斜路の高架道路に階段設えたりタイル貼ったりしたのがモザイク坂だったのだな。
じゃあなんでこうなったのかというのには経緯があるのでちょいと書いてみたい。
モザイク坂は京王デパートと小田急デパートに挟まれているように見えるが、実は小田急の駅上の京王デパートに隣接した所を通っている。
1.南側が狭くなっている
という事に気付くはずだ。https://goo.gl/maps/LoyBvgAkdnU7oubeA
この斜めは何かと言えば、そう、モザイク坂の高架道路斜路が上にあるんである。
1966年に今の地下広場を擁する西口の立体ロータリーが完成するのだが、その前には大歩道橋があった。今のモザイク坂登り口横の京王入口付近から丸の内線入口付近まで続く広くて大きい歩道橋があり、国鉄駅や小田急駅に接続していた。
これは小田急、京王←→国鉄←→地下鉄や国鉄←→バスの乗換客がぶつかる事を避けて分離するためだったと思われる。ペデストリアンデッキの走りだね。
国鉄は商売下手&流通事業は基本的に認められていない為に市街活性化の為に駅ビルは民間が建てて運用する事になり、小田急は自社改札~地下鉄までの権利を獲た。
さてそこで困ったのが駐車場をどうするか。当時はモータリゼーションの途上だったが、自動車は富裕の象徴でもあった。ならば百貨店の高級イメージの為にも駐車場は欠かせない。
そこで小田急線のホームの上に高架式の駐車場を作る事にしたのである。
まずは丸の内線上にビルを建て(現小田急ハルク)、そのビルから小田急線改札までに本館を建てる。
更にホームの真ん中辺りの上空に鉄骨を組んだ人工地盤を建設して地上4階の駐車場にする。
改札上空にも鉄骨を組み建て本館と連結させる。その拡張本館と空中駐車場を繋ぐ。
そして本館横の京王デパートとの隙間を登り口とする高架斜路で駐車場に繋ぐ。また、線路を大きく跨ぐ甲州街道に出れるようにこっちにも高架道路を作る。
なんでこんな凝ったデザインにしたの?と言ったらあれですよ。当時完成供用開始された首都高速道路。あの「未来っぽさ」を模す為にわざとビルの隙間を縫う高架道路にしたんだと思われる。
それに小田急本館の横に入口を設けられるからアピールしやすい。更に完成した時は歩行者デッキがあるからそこに車入口を作っても歩行者の妨げにならない。
ところが空中駐車場が出来て数年後には西口の立体ロータリー工事が行われ、地上+歩行デッキの二重構造で歩者分離していた交通が地上+地下の二重構造になってしまう。
更に京王デパートが開業すると歩行者の通行も増えて車が歩道を斜めに渡って斜路登り口に行くのが危険になってしまう。
しかも登り口横に京王デパートの入口が出来てしまった。更に小田急線の一階改札出口の横でもあってバス乗り場にも近く、更に更に地下への階段も出来てしまった。
そんな人とバスとタクシーがひしめく所に車で斜めに入っていくなんてとんでもない。
という事でこの登り口は廃止するしかなくなってしまう。後には歩道のガードレールでも塞がれてしまい、プチ首都高の高架斜路はトマソン化してしまった。
大きい電鉄デパートの間に錆びたゲートで塞がれた寂れた廃道があるという光景である。この状態で10年以上放置されていた。
空中駐車場の方は甲州街道側から入れるからそのまま供用されていた。また、空中駐車場は二層構造になってて一階降りると荷捌き場があったようである。
小田急としても始発駅のデパートのすぐ横に「廃」なものがある状態でいつまでも放っておくことは出来ない。
そこにミロードの建設の話が持ち上がった。ホーム上空で開いている空間に甲州街道側に連結するビルを建てようという計画だ。因みに当時南口はかなり寂れており、古い跨線橋に改札があるだけで、しかも甲州街道の陸橋の真ん中に出てしまう上に小田急にも京王にも乗り換えが出来ずに不便であり通行する人も余りいないような状態だった。
そこに敢えて出店するとともに小田急線の改札も設けて人流を作ろうという計画だ。
そして放置プレイ状態の廃高架道路を通路として活用する事になったんである。
だからモザイク坂は1990年代の中頃まで「モザイク坂」とは一般には呼ばれずにミロードと呼ばれていた。
当初のモザイク坂は今の様に斜路+階段半々ではなくて全域が緩い階段になっており、坂の途中にはキヨスク形式の店というかスタンドが途中に2軒程度あるだけだった。
坂を上がった先は広くなっているがここが元の空中駐車場で、駐車場としては廃止。でも西口地下に駐車場が出来ているから問題がない。
ここの空中広場は大きなサンシェード的なテントが掛かっていたのだが、テントが掛からない切れ目が斜めに通るようにしていた。またイベントスペースとステージがあって芸能人が来たりラジオのスタジオがあったりした。
この広場は明らかにフランスや欧州の古都にある都市中庭を模していると思われる。アパート群に囲まれた地上数階の場所に広場があってマルシェやバザールが開かれている、あの宮崎アニメ的なイメージだ。
また階段途中に平べったいキヨスク的な店舗が点在するのなんかはモンマルトル的だ。多分デザイナーはフランスあたりの都市の構造を知っている人物なんじゃないかと思う。
こうしてミロードの付帯物件だったので2000年くらいまで駅南口の方に抜ける事は出来なかった。
広場の左の方にミロードへの入口があるのだが売り場に入ってしまい、更に階が違うのでエスカレータで下りる必要があった。電車に乗る時に売り場を通過するのは結構ストレスになる。
駐車場は廃止できたが、デパートでは重要な搬入口は廃止出来ない。そこでモザイク坂上の広場は結構複雑な事になっている。
広場の左側(東側)には店舗があるが、じつはこの上は荷捌き場と搬入車駐車場になっている。
最後は通り抜け出来るようになっていたドン付きの上はよく見ると面台のようにミロード躯体との間に何やらスペースがあった。
https://goo.gl/maps/aYLf6WuWewEhw2bd8
実はこれは搬入車用の道路で、甲州街道から急坂で登ってきてここでクランクを曲がって左側店舗の上で荷卸しをするんであった。
このクランクと甲州街道の搬入車入口間は急坂になっているが、この区間は高架道路である。つまりミロードの下の方は駅ホームでその上の方の端っこには高架道路があるというスカスカ構造だ。ビッグサンダーマウンテンみたいである。
2000年頃?開通したミロード通り抜け通路は登ったり下ったり構造が複雑で、特に変な出っ張りがあった。
https://goo.gl/maps/Wqd4ZQC9qPdAnWof9
こりゃなんだ?
右には高架道路が急坂で下って来ていてその真ん中へんなのだ。つまりはこれは高架道路の橋脚が出っ張ってるのを避けてるって事である。
また、旧駐車場のミロード広場が鉄骨の人工地盤、モザイク坂が高架道路という構造の為にジョイントが存在する。
広場と坂の接続部と、高架道路の橋脚の上の各橋桁間に一見、排水路やメンテナンスリッドのようなものがある。
https://goo.gl/maps/LBz4QRy4tYHpZkCd7
これらはジョイントのカバーで、大地震の際は各構造物の揺れ方が違うのではじけ飛んでしまうので危ない。地震の際には離れるべき…もう立ち入りできないけど。
またこのジョイントカバーは階段途中の店舗の中にも存在し、坂に対して直交だけでなく、それにT字に交わるものもあった。
T字になっているのは店舗の奥の方が小田急本館躯体に支持されているからと考えられる。明らかに本館に食い込んでいる店舗もあった。
また、高架道路には両側に腰くらいのコンクリ壁があるが、京王側にはそれが残っていたが
https://goo.gl/maps/dTeGpTE7c3S3KeLv6
小田急本館側は店舗の奥行きが拡大されており、撤去して本館躯体まで床を拡大する工事が途中で為されたと思われる。
利用していた人らやここで働いていた人らもここが高架道路の上とは思ってなかったんじゃないだろうか?
阪神大震災で数多の高速道路、鉄道の高架橋が落下してしまい、急遽全国的に落下防止装置、橋桁を巨大チェーンやワイヤで橋脚と繋げるあれの工事をしたのだが、モザイク坂はやってあったのだろうか?疑問である。
最近ずっと考えている
俺は近場のビジホに泊まりたいのか、否か
泊まるとして、いくつか候補がある
まず、まさに住んでる町の、チャリで10分ちょいで行ける駅の前にある、ややショボいビジホだ
ここには実のところ泊まったことがあるんだけど、そのときはまだこの町に住んでいなくて、しかも受験で来ていたから、今泊まればまた違う感慨がありそうだ
ただ、駅前の景色は見慣れてるし、あのあたりにはマジで何もないということは、もうよく分かっている
あるとするなら役場の近くのパン屋だけど、あそこには結構な頻度で行ってるからな
ただ、今度、ビジホのごく近くで飲み会があるんで、その帰りに「じゃあ僕は、ここ泊まっていくんで…」つってホテルに消えていったら、かなり楽しいだろうなと思う 二次会を断る口実にもなる
難しい 難しいところだ 朝飯バイキングは悪くない感じだけど、大浴場はない
大浴場は欲しい気がするなあ!
電車で30分くらいの、ギリギリ"町"ではなく"街"という感じがする場所にあるビジホだ
本質的な都会度が低く、風景的にはいま住んでる田舎とおんなじ感じで、建物も低いし、気を抜くと田んぼが目に入るような街並みなんだが、ショッピングモールがありその中にはカルディすら備えるという点で、やはりちょっと格上だ
そういう街に出かけて、広い道をプラプラ歩いて、ビジホに泊まり、モールに行ってカルディで買い物
悪くない気もする一方で、すべてが半端だ
半端に金を出して、半端に移動して、半端な街で、半端に過ごす そういう時間も悪くはないだろうけど、良くもないんじゃないか?という気がどうしてもしてしまう
駅直結のモールに行けば、ファッションに興味のない俺でも楽しめる店がいくつかはあるだろうし、最近カルディがデカくなったなんて噂も聞く
ドーミーインに泊まって、ひとりで夜泣きそばを食ったら、かなり満たされるだろうな
県庁所在地からさらに電車に乗って、南にある温泉街に行く 温泉もあるし、植物園もある
これは実際プランとしてはかなり魅力的である一方で、全然近場じゃねえし、普通に旅行だし、ビジホらしいビジホもねえ、という根本的な問題がある
この前泊まって思い知らされた
行ったら楽しかろうと思うが、問題は上述のとおりこの前泊まっていること
前は家族と行ったので、一人で行けば気分も違うだろうけどな
間違いなく楽しいだろうけど、近場か?というとやや疑問だ
近場すぎると虚しくなりそうで、遠すぎると完全に旅行だ
久しぶりに行ったんですけど予約制じゃなくなってたんですのね。けどチケット売り場がいっつも混んでるからオンライン購入した方がいいのですわ。
琉球が万国の架け橋となる様々な文化が集まる地であることが分かるとっても面白い展覧会でしたわ!
ローマやオスマンの硬貨が日本で出土してたなんて初めて知ったのですわ。錆び錆びでしたけど単眼鏡で見たら横顔っぽいものが見えたのですわ。
印象的だったのは螺鈿の使い方ですわ! ちょっと紫が入ったようなとってもきれいな色で、豪華絢爛ですわ。贅沢を慎む旨の訓戒が書かれた扁額の文字まで螺鈿で輝いてたのはちょっと笑ってしまいましたわ。
日本の螺鈿とはずいぶん違った印象でしたけど、やっぱり使ってる貝から差があるのかしら?
あと日本では螺鈿と一緒に使われることが多い蒔絵がなかったですわね。文化の差ですわ!
けど戦災によって壊れた美術品が多かったのが悲しかったのですわ。
言うまでもなく沖縄は凄惨な地上戦が行われた地であり、市街に大量の砲弾が降り注いだのですわ。いわゆる鉄の暴風ですわ。
そこで多くのものが失われ、それでもそこに住んでいた人たちは破片でも集めようとしたのですわ。今我々が見ている無事な美術品も、多くの人々の守り伝える意志がなければ見ることが出来なかった、ということを改めて考えさせられたのですわ。
こんなもん地上で爆発したらどうなるねん
https://www.youtube.com/watch?v=wtthhilAO3Y
昭和17年(1942年)5月、日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられる事になる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要な局面を迎えていました。
しかし、戦時中とは言え普段とほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。
ニシンの豊・不漁はその年の村民の生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに活気づきます。
そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体を発見します。
そして、素人目から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろう事に彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。
思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げる事にします。
数十分後、幸い移送途中で爆発する事もなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷と対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者が市街地にある派出所へと向かいました。
ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつの機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。
”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに「北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察部からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。
実は北海道の特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ます事になります。
その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。
こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理を地元警防団(警察や消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼する事が正式決定されました。
しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。
ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生する事もなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。
また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のようにも映っていました。
そこで、この機雷爆破処理作業を一般に公開、爆発の威力を見せる事で庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察の威信を確固たるものにするべく画策していたのです。
かくして、村役場などを介し回覧や口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配された事もあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます。
さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落の警防団員約150名が事前集結していました。
二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬の専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱する事になります。
通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知る事になった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます。
というのも、海中での爆破は一帯の魚介類を死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失う事を意味しました。
彼らにしてみれば死活問題だけに警察側からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退く事は出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。
粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。
こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。
発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていった事に加え、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険極まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。
それぞれ多忙な仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初と最後では大きく異なっていました。
初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体にロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います。
しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海で発見された機雷が、軟らかい砂から馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。
今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。
そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像をはるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートルに渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全を考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。
爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場は凄惨を極めたそうです。
現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見る事になりました。
そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団の代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています。
この大惨事により現場に居合わせた警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。
「一体誰のせいでこんな事になってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画を立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。
合掌
本当に伝統と格式のあるお家とか昔からの花街の人とかは言われるような陰湿な感じがあるかもしれないけど、普通に生きててそういう人と接することはないのでそんなに恐れることはないと思う。
京都人全般に他人との距離感が広めなので、冷たいって感じる人はいるかも知れない。他人にいちいち介入しない、直接文句をつけたりしないってのが人間関係の基本にある。だから気楽なことも多い。
(で、表立って言えないから嫌味とか陰口とかってことになる。そういうのは聞かなかったことにして澄ましてるのが正解。深く関わらなければ快適に暮らしていける。だから、深く関わらないといけないような場所には住まないほうが楽。たとえば、昔からの路地奥の町家とか、祇園祭の山鉾が立つような地域とかにあこがれて住む人いるけど、町内会に入って近所の人とのしがらみができるとむっちゃしんどいと思う。)
あと、地域の格として、一条からどんどん下がっていくということはなく、今は四条烏丸を中心にした四角形「田の字」って言われてるへんが地価が高い、良い地域ってことになってる。(はてな本社もそのへんにある)
その外だからといって何か言われるということもないよ。市内は、伝統的なスラムって言われてるような一部地域以外は、まあごくごく普通の住宅街。さらにその一部地域も開発が進んで昔ほど殺伐としてない。(古い街ならどこの街にもそういうとこあると思うけどな。元遊郭、元処刑場、川沿い海沿い町外れ、不法入国者が住み着いたところ。)
で、市街からちょっと離れると幹線道路沿いにファミレスとかパチンコ屋とかがあって休みの日にイオンモールに行ったらだいたい近所の人に会う、そういう普通の田舎町。五条通は夜になると暴走族がうるさい。
65年前の公園計画が突然再浮上 練馬の住宅街が騒動に「いまさら立ち退きなんて無理」 :東京新聞 TOKYO Web
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyo-np.co.jp/article/166651
これ見てたら法律を何一つ理解しないで行政が悪いーとか言ってるブコメが多くて笑っちゃった。
id:thirty206 そんな計画がありながら農地転用の許可をバシバシ出してきた区と農業委員会の責任が問われるべきでは?
最もスターを集めてるトップブコメがこれ。初っ端から全く農地法を理解してないのに責任が問われるべきとか言っててマジで笑える。
第四条 農地を農地以外のものにする者は、都道府県知事(略)の許可を受けなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当する場合は、この限りでない。
(略)
農地転用"許可"が必要なのは原則市街化区域以外(市街化調整区域とか)な。この記事で話題になってる練馬の住宅街は市街化区域だから農地転用にあたって必要なのは許可ではなく"届出"だよ。
市街化区域はそもそも農地の保全ではなく都市化を目的としたところだから農地の転用に許可は必要ないし、当然行政は制限できない。
知らないのはしょうがないけど「責任が問われるべきでは?」だとか言う前になんで宅地にできたんだろうということに頭を働かせるべきじゃない?
国民が財産権を自由に活用することを行政が不当に制限すれば良かったんだってさ。自分がどんなこと支持してるかわかってんのかな。中国共産党とかお好き?
第五十三条 都市計画施設の区域又は市街地開発事業の施行区域内において建築物の建築をしようとする者は、国土交通省令で定めるところにより、都道府県知事等の許可を受けなければならない。ただし、次に掲げる行為については、この限りでない。
(略)
第五十四条 都道府県知事等は、前条第一項の規定による許可の申請があつた場合において、当該申請が次の各号のいずれかに該当するときは、その許可をしなければならない。
(略)
三 当該建築物が次に掲げる要件に該当し、かつ、容易に移転し、又は除却することができるものであると認められること。
イ 階数が二以下で、かつ、地階を有しないこと。
ロ 主要構造部(建築基準法第二条第五号に定める主要構造部をいう。)が木造、鉄骨造、コンクリートブロツク造その他これらに類する構造であること。
三号は住宅なら当てはめるのは全然難しくないので、公園みたいな都市計画施設が作られることが計画されている区域内であっても住宅なら許可取れば建てられるのね。
誰が出したのっていうなら当然行政だけど、行政は上記の規定を満たしていれば"許可しなければならない"わけで。
国民の財産権を制限する重い制限だからだろうけど、規定を満たしたものを行政の都合で不許可にする裁量なんかないの。わかる?
当然許可するときに「都市計画事業の施行のときに除却すること」みたいな条件はつくだろうけどね。だから"容易に移転し、又は除却することができるもの"って書いてるの。理解できる?
そういう不利な条件があることを承知で買ったわけだよね。よっぽどな不動産屋から買ったんじゃなければ住宅持ってる人は許可書持ってるはずだよ。
それとも法律に逆らって不許可にすれば良かった?国民の財産権を不当に制限するとか俺はそっちのほうがヤバいと思うよ。
ちなみに「宅地転用(多分農地転用のことだろう。宅地を転用してどうすんだ)」は上のとおり。
id:ayumun 練馬区の都市計画図見たら、普通にその辺は「第一種低層住宅地」になってて、そりゃ住宅作るでしょ。それで前から公園にするつもりだったとか、行政がおかしい。作られたくないなら市街化調整区域にしとけよ。
これもひっでえな。公園は市街化調整区域にあればよくて市街化区域には公園必要ない論者なの?東京23区の公園全部いらない派?Cities:Skylinesで住民を苦しめるの好きそう。都市計画法何一つ知らないくせに市街化調整区域とかの用語使わないほうがいいよ。
いやわかるよ?市街化調整区域には原則建築物建てられないってことだけ聞きかじってこういうこと言っちゃったんでしょ?でもそれ全然レイヤーが違う話だから。
市街化調整区域は「市街化を抑制すべき区域」なの。間違っても市街化区域の中で公園を作ると指定したところに建築物を建てさせたくないからなんて理由で指定する区域じゃないの。
都市計画法は「都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与する」ことを目的とした法律で、公園というのものは市街地にあって住民の健康や公共空地のために必要なものだから。
仮に建築物を建てさせないという目的が達成できるとしても、そのために市街化調整区域にしていいわけじゃないの。そもそも別に建てさせない区域にしたわけじゃなくて、将来公園にするという区域にしただけだから。
気軽に市街化調整区域にすればいいって書いてるけどそれが土地の資産価値に多大な影響を与えるという意識ある?ないよね?
id:mutinomuti 開発する前に実施してたならともかく、開発を許可しておいて言い出すの責任者懲戒ものだろ(´・_・`)
これも id:tetsuya_m と同じだけど。
第三十三条 都道府県知事は、開発許可の申請があつた場合において、当該申請に係る開発行為が、次に掲げる基準(第四項及び第五項の条例が定められているときは、当該条例で定める制限を含む。)に適合しており、かつ、その申請の手続がこの法律又はこの法律に基づく命令の規定に違反していないと認めるときは、開発許可をしなければならない。
開発許可も同じく"この法律の規定に違反していないときは許可しなければならない"んだよ。
都市施設に指定されている区域だからといって不許可にしていいなんて基準はないので行政は許可するしかない。
法律の規定に従ったら懲戒処分されるなんて公務員は大変だなあ。
ちなみにそもそも公園が必要なのかとかそういう意見はあって然るべきだし真っ当な意見だと思うよ。
現状維持のほうがいいとか膨大な費用を払う必要があるのかとかそういう話し合いは大切だよ。
わかって買ったんだろとも思うけど、住民が署名集めて行政と話し合おうとするとか住民自治がしっかり機能していて良いところだと思う。
俺が笑ったのは法律を知らない、調べもしないで的外れなブコメ書いたりそれがスター集めてたりするところね。
ほんと”ブクマカって基本的に何も知らないにも関わらず、その極小の視界だけで鬼の首を取ったかのような放言をして恥じない精神性の持ち主の集団"って言われるだけあるわ。
初めて本当の意味で実感して草生え散らかした。
なんか伸びててビックリした。
whkr 素人からすると、プレハブ小屋ならともかく普通の住宅が「容易に移転し、又は除却することができるもの」だと言われると違和感があるんだけど。トラブル予防の為の規制が死文化してない?
素朴な感覚として俺も同じこと思うけど、重機使えば一週間くらいで更地に出来るものは「容易に移転し、又は除却することができるもの」って扱いなんじゃないかなあと。
ここではそもそも建てられないみたいだけど、例えばマンションとかと比べれば解体の手間が段違いだし。
あと法律の制定過程まで詳しくないから推測になるけど、トラブル予防ではなく財産権の制限を最小限にするための規定だと思う。
ブコメにも「都市計画決定後の公園や道路区域の私有地に建築を許さなかったら、都市計画道路は数十年かかったりするし大都市圏は謎の空き地だらけになってそう 例の公園も30年はかけていく事業のようだし即座の立ち退きでもない」と言ってる人いるけど、計画から実施まで何十年も私有地を使わせないのは過度な制限になるし無駄な空き地だらけになるから、実際に計画を実行するまでは活用できるようにしてるんじゃないかな。知らんけど。
htnmiki 住宅地になっちゃっとことが問題ないのはわかるんだけど増田的にはどう立ち退きさせるのがベターだと考えるか聞いてみたいな。立ち退きの実現方法が素人には見えないので。
1.何年もかけて住民を説得する。
2.説得が無理なら所有者が死んで相続するのを待つ。
何も5年以内にやらなければならないとかそういう計画じゃないだろうから根気よく話し合うしかないんじゃないか。立ち退き料は払うとしても結局所有者が同意しないとどうにもならないので。
1年2年で実現するのはまあ無理だろうけど10年単位でやっていくんじゃないかな。知らんけど。
fraction 増田読んだ。で、要するに貴重な自然守るため初めから市街化調整地域にしとけばよかったって話か。区が(ある程度)無能だったから後出しジャンケンで事実上市街化が失敗だったのほっかむりしようとしてるってわけね
「要するに」って言葉を使いながら俺が書いたことと全く関係ないことを語りだすのやめて欲しい。というか本当に読んだか?読んでこれか?
「法律がそうなのはわかったけどそういう法律が悪いから建てられないようにしたほうがいいんじゃないの」みたいなコメントちらほら見かけるし、実際公園とか道路を作る目的ならそのほうが早いと思うよ。
でも建築物が建てられなくなるってことは、一坪百万とかの土地の価値が一気に下がるってことだからね。地主からしたらふざけんなって反発は凄いと思うよ。
地主の数より利益を受ける人の数のほうが多いから地主が損するのは仕方がないって考え方も当然あるとは思うので、そういう法律にするのもいいとは思うけど。(憲法上問題があるかどうかは知らない)
いま、ウクライナにおける市民の損害は図形構造的進捗を見せており[和訳者註: 多角形に拡大しているということか]、我々への抵抗は強まるのみである。歩兵による市街への進入はすでに試みられており──20の空挺集団のうち、"限定的"成功を収めたものは一つのみである。モスルの侵攻を思い出してほしい。これは法則である──すべての国家で発生する。新しいものではない。籠城戦をする? ヨーロッパにおける直近の十年紀において──セルビアが最も好例であり、都市は籠城下においても年単位で機能を維持できる。ヨーロッパからの人道的支援車列は時間の問題である[5]。我々の条件的締切日は六月である。条件的というのは六月にはロシア経済は存在しないからである──何も残らないであろう。概して、来週には(ロシアにおいて)、二大勢力(主戦と反戦)のいずれかで崩壊が起きるであろう、単純に現在の緊張は持続不可能であるからである。我々は何らの分析も持たず、我々はこの混沌への予報を出せず、誰も何も何らの確証を持って言うことはできない(ロシアにおいて)。
直感に頼って行動するのであれば、そして高ぶった感情とともにするなら、それがポーカーゲームということにはならない。しかし我々はなんらかの選択肢が奏功することを祈って賭金を積み増すしかない。これにおける悲劇は計算違いを起こして全てを失うことは容易にあり得るということだ。概して、ロシアに出口はない。勝利の可能性のある選択肢はなく、敗北しかない──ここが瀬戸際だ。(英訳者註: 休憩。続きはあとでやる)(英訳者註: 続きの後半はもっと面白く、前向きなおどろきで終わる)
100%、我々は前世紀の過ちを繰り返したのだ、"弱い"日本を足蹴にして素早い勝利を得ようとして、わが陸軍がまったく壊滅状態にあることが判明した時の。そして我々は勝利まで戦い、そしてボリシェヴィキを陸軍で再教育のため徴兵した。そしてこれらかろうじてもののわかるボリシェヴィキどもは反戦標語を拾い上げあのようなことを始めたのだ…… :kyoumokawaii:
前向きな点の中から: 我々は懲罰部隊を前線に送ったようなことは徴候もないようあらゆることをなした。もし政治犯や社会的不要分子を徴兵したならば陸軍の士気は負の領域に入る。
敵(ウクライナ)は動機付けられている。怪物のように動機づけられている。戦いを知り、潤沢に有能な指揮官をもつ。彼らには武器と支援がある。我々は単純に人的破局(human catastrophe)の先例を樹立するであろう。
我々が最も恐れていることとは: 首脳部は古い問題を新しい問題で覆い隠そうとしている。大まかにこの理由により、2014年にはドンバスが起きた──我々は西側に対してクリミアでのロシアの春を攪乱せねばならず、ためにドンバスのいわば危機が西側の注意をすべて引き付けてくれねばならず、そして交渉材料になったのだ。しかしさらに大きな問題がそこで起きてしまった。そして我々はエルドアンにサウス・ストリーム(ガス)から4本のパイプを引き込むよう圧力をかけることを決断してシリアへ進入した。これはスレイマニ([イラン・]イスラム革命防衛隊)が自分たちの問題解決のため我々に意図的に誤情報を渡した後のことだ。結果として、我々はクリミア問題を解決することができず、そしてドンバス問題も去ることはなかった。サウス・ストリームは2本パイプに後退し、シリアは[和訳者註: ロシアの支援に]ぶら下がっている──我々が去ればアサドは転覆し我々はまぬけに映り、とどまることは難しくまた要点をなさない。
筆者はなにものが"ウクライナ電撃戦"を考えついたのか知らない。我々があらゆる事実の入力を受け取っていたならば、我々は最低限でも初期計画に議論の余地があり、大部分は再検討を要することを指摘していたであろう。大量の再検討がなされなければならなかった。
いまや我々は首まで[英訳者の表現]に埋まっており、我々は何をすべきかも理解していない。"非ナチ化"や"非武装化"は強固に定式化された変数をもちそれにより目的達成度を評価しえるものではなく解析的分類たりえない。[6] いまや我々は、いずれか精神的に破綻した助言役がヨーロッパに対して衝突を仕掛け、制裁緩和を要求するよう首脳を説得するまで待ったまま動けない状態にある──彼らは制裁を緩和するか、あるいは戦争になる。そしてもし西側が拒絶すれば? その場合において筆者は我々が、1939年のヒトラーのように真の国際紛争に引き込まれる可能性を排除しない[7]。我々の"Z"は鉤十字と等しくなるであろう。
局地的核攻撃の(ウクライナにおける)可能性はあるか? ある。軍事的目的のためではない。かような兵器は防衛突破の役に立たない。しかし他のすべて(西側)を恐怖させる目的を伴う。
橋の上から見た川は雪に覆われ、乱反射する日の光は無数の粒となってきらめいている。その上を通っていった何かの足跡が、蛇行しながら切れ目なく続いている。キタキツネか犬が夜明け前に現れ、またどこかへ去っていったのだろう。
麻布十番の店はシャッターが閉まっていた。貼り紙も何もなかった。あの味は永遠にこの地上から失われてしまったのか。喪失感にさいなまれ続けるよりは、かすかな希望にでもすがって失われたものを追い求めた方がよい。とは思っていた、が。
噂だけを頼りにやってきた土地。雪原。夏の間は田んぼか畑なのだろう。トタン屋根に木造の物置か家かわからないものがまばらに建っているほかは何も見当たらない。道路は山に向かって真っ直ぐ伸びているが、車は通らない。雪で段差のわからない歩道を歩く人もいない。
雪を踏みしだく自分の足音以外に音のない世界。冷気が頬にひりつく。マスクを顔からはがすと、自分の呼気で湿った内側からすぐに凍り付いて固くなる。
茶色いスズキアルト。路肩に止まって。テールランプの点滅。道から少し離れたところに、髪を後ろにまとめたロングコートの人が、こちらに背を向けてしゃがんでいる。近づいていっても動く気配はない。
「すみません」
その女性は立ち上がりざまにスカートパンツをたくしあげてからこちらを向いた。足元の雪には、黄色い尿が深く穿ったばかりの穴があいていた。
「どれくらい……」
「10km?」
「……」
「今行くところなので……乗ります?」
「すいません」
車は山に近づき、周囲が針葉樹林に変わり始めたあたりで脇道に入ると、木造の小屋の前で停まる。小屋の壁からは黒ずんだL字型の煙突が出て細い煙が立ち上る。ガラスの引き戸を開けて女性が入っていく。
「ばあちゃん、お客さん!」
小屋の中心には大型のストーブがあり、中は暑いほどだ。小さなカウンターの向かいは小上がりになっていて、樹脂製の天板を金属で縁取りした座卓が置いてある。
カウンター席に座ると、毛糸のチョッキを着た老婦人が現れ、こちらを一瞥してから、車を運転してきた女性の方を訝しげに見る。
「お客さんだよ!」
「あら。いらっしゃいませ」
「あ?」
「オ メ ガ ラー メン!」
油っぽい台の上のテレビがつく。また誰かの車がコンビニに突っ込んだらしい。店内に半分以上めりこんだ車体。散乱するガラス片。
さっき乗せてくれた人は店主の孫かなにかなのだろうか。割り箸の束を出してきて補充したり、カウンターをふきんがけしたりする。戸が開いて、海老色のジャンパーにニッカズボン姿の二人連れが入ってくると、いらっしゃいませええと声をかける。二人連れは小上がりに座る。孫は注文を取りに行く。
店主は寸胴鍋からアルマイトのひしゃくで黒い液体をすくい取り、丼に注ぐ。湯気が立ち昇る。
出てきたラーメンは東京でよくあるオメガ系のラーメンとは少し違っていて、輪切りのネギと肉厚のチャーシューが大量に載っていた。黒いスープは今まで食べたオメガ系のどのスープよりも熱く、油の層が表面を完全に覆っていた。北国にありがちな昔懐かしい醬油ラーメンに、どことなくスパイシーな風味が混じっていた。チャーシューはトロトロに柔らかく、甘辛く仕上がっていた。
食事を終えて店を出ると、外は吹雪いていた。地面から吹き上がる粉雪。前を向くと顔に雪が吹きつけて歩けないので、うつむいて頭を前に突き出すようにして進んだ。歩けば、市街行きのバス停があるだろう。歩き続けることができれば。
背中の方からクラクションの音。振り返ればヘッドライトに照らされて。茶色いアルトの窓が開く。もの問たげに見つめてくる目。
「すみません。行きも帰りも」
「バスは夕方まで来ないから、駅まで行った方がいいですよ。この吹雪だし」
ワイパーはひとときも停まらずにフロントガラスの雪を掻き落とし続けるが、数メートル先は真白で何も見えない。何の番組かわからないラジオの音がかすかに聞こえる。
車はすぐに白の中へ飲み込まれる。
辺り一面真白で、何も見えない。風はさらに強まり、歩き回ろうとするとなぎ倒されそうになる。もう一度辺りを見回す。駅らしいものは見当たらない。白。白。白。食後の身体の火照りはすでに取れて、雪の冷たさをじかに感じ始めた。
全ての人に当てはまるわけではないのは承知だけど、せっかくの正社員カード持ってるのにローンも組まずに失業すると機会損失がでかいよね。
決して大企業ではない非上場スタートアップに勤める単身30歳の若造でも正社員カードでそれなりにまとまった金を融資してもらえたので補助金使いつつ中古戸建て買って高性能化リフォームした。
結果的に都心から市街化調整区への地方移住になってしまったので車を買う必要があったが以前の生活費よりは安くなる。
建物自体は減価償却するので資産価値がないものとみるがこれで万が一失業してからもしばらくは快適なおうちで寝床の確保ができる。
当たり前だが被災したら終わりだけどそんなん気にしてたらどこにも住めないしね。
やっぱ健康第一よ。
今の会社に10年くらい居る。これまでどこも2〜4年くらいで辞めてて10社くらい経験してるけど、ここが一番長い。
まあ本当になんとか毎日をこなすのが精一杯なので、会社への貢献度は低く、よって影響度なんてほぼ無い。
通勤には車を使っている。会社に向かう途中に、市街に入ってから「逆トの字型」の信号無し交差点が一つあるんだが、これがまた誰も入れない。本当にどの車も入れない。その先のそこそこ近めが信号で、反対車線の右折車両も入れないため、タイミングが悪いと朝から周辺が大渋滞になる。
まあお察しの通り、隙間を開けたりして入れるようにしたんだ。右折車も絡むと2〜3台入れる事になってしまうこともあるから、後ろからクラクション鳴らされたことも数回ある。
でも俺は、ファスナー合流で全ての方向が少しずつでも流れるのがベストだと思うから、続けたんだわ。
5年くらい経ったときにふと気が付いたんだけど、皆入れるようになってたんだわ。10年経った今じゃ、周りの車のほうがスマートに入れさせてて俺のほうが下手な気がする。
たぶん皮肉で同じこと書いてるのいくつか見たけど、私は本気でこう考えてる。
結局のところ負けたら死ぬか死んだ方がマシな人生になると確信してる人間しか命を掛けて戦わないから。アフガニスタンでその立場にいるのは女性だよね。
政府軍の軍人がさっさとタリバンに降参した理由は家父長制の部族社会に逆戻りしても男である彼らは大して困らないから。
むしろタリバンが勝った方が占領地の女性を戦利品としてもらえたり、就労を禁止されて困窮した女性を第二、第三、第四婦人にできるメリットすらある。
そんな地獄に戻りたくないと願う女性を訓練して武器を与えれば必ず死ぬまで戦う。異教徒の侵略者(米軍)に訓練された女性兵士なんてタリバンの教義からすれば絶対に許されないから降参しても死刑だろうし。
腰抜け男しかいない中、女性が自分と家族と仲間を守るために今も戦い続けている。軍司令官や大統領まで逃げ出してもカブールの市街で最後の一人が死ぬまでゲリラ戦を続けると悲痛な叫びを上げている。
捕縛された女性兵士がタリバンにレイプされて公開処刑されるあり様がスマホ動画で世界に流れる。
これは世論が盛り上がる。
世界は、アメリカはなぜこのような悪を見過ごしているのだ? いったい男はどこで何をしているんだ?
徒労に終わった二十年間の戦争にウンザリしているアメリカ市民でさえ再派兵を求めるようになるかもしれない。
アフガニスタン政府には一応女性閣僚もいるみたいだから、亡命政府の暫定大統領にするのも良さそう。
大統領は女性、軍最高司令官もゲリラを率いる女性、政府高官のポストはタリバンに下った男どもに代わって亡命政府に参加した女性たちで占められる。
アフガニスタンのジェンダーギャップ指数は日本などぶち抜いて一気にトップ集団へ。現地ではイスラム過激派が女性にヴェールを被せて家に押し込める神権政治なのだが……
見てみたいなあ、女の戦争。
予言しておくと、こういう筋書きのハリウッド映画はきっと作られる。
さすがに米軍が女性を救う歴史改変はアメリカ人も恥ずかしいと感じるだろうから、アメコミ映画とかになるだろう。
もちろん敵もイスラム過激派ではない。
特に意味無く女性を虐めるキチガイ白人男が集まった架空の国際ミソジニスト過激派『インセル・プライド』に支配された小国で抵抗を続ける女性主体のレジスタンス。
彼女たちが追い詰められたその時、アイアンマンとキャップが降臨し非モテ男どもを蹴散らす!
そういうものを私は観たい。