はてなキーワード: フランス語圏とは
とりあえずチキンやマトンをバーベキュー串に刺して焼く(ケバブ)、量が多い、バスマティ米
玉ねぎが生で出てきて合わせて食べると美味しい
トマトっぽい煮込みもある
みんなご存知のそぎ落とすタイプのケバブ、キョフテと呼ばれるハンバーグもある
フムスもファラフェルもあるが、トルコに限らずシリアやレバノンでも食べられてる
どこまでがトルコ料理でどこまでがアラブ(地中海側)料理かよくわからない
本当はいろいろ料理があるんだろうがあまり日本で見ない(なので知らない)
コシャリ(細パスタと米の炊き込みご飯)が有名、ターメイヤというファラフェルに似たそら豆コロッケもある
水道橋にあるスフィンクスというお店でビュッフェやってるから一通り食べられる
サウジアラビアや湾岸地方は水が少なく、それを大切にした米料理がある カブサとか
あまり知らない
一押し、レバノン、シリア、パレスチナは中東随一の美食の国だと思う
旧フランス語圏、レバノン料理はヘルシーだとふれこみでフランスでめちゃ流行っているらしい
フムス(ひよこ豆の胡麻ペースト)、ムタッバル(焼きナスペースト)といった前菜にピタパンを合わせるだけでうまい
ファラフェル(ひよこ豆コロッケ)やキッベ(肉と小麦コロッケ)も。
煮込みはトマトとナスとインゲン、たまにモロヘイヤ。レバノンはタブーリといったパセリサラダもある
クスクスに地中海あがりの魚介をつけたり、一時期日本でも流行ったハリッサなんかもチュニジア
お酒もある
ある作品で「首都が国土の中央部にないのはおかしい」というツッコミが入ったという。
だが、そもそも首都は国土の中央部にあるものだろうか。現代を舞台に検証してみよう。(シンガポール、モナコのような都市国家は考慮しない)
お手本のように中央部にある国といえばまずここだろう
そもそも北部のフラマン語(オランダ語)圏と南部のフランス語圏の中間に作った都市なので
アフリカ大陸の南東にある世界で4番目に大きい島+付属島を国土とする島国である。
・ベラルーシ(ミンスク) ・スロベニア(リュブリャナ) ・ラトビア(リガ) ・バングラデシュ(ダッカ) ・イラク(バグダッド) ・チリ(サンティアゴ) ・エチオピア(アディスアベバ) ・コロンビア(ボゴタ) ・パナマ(パナマシティ) ・ナミビア(ウイントフック) ・ナイジェリア(アブジャ) ・コートジボワール(ヤムスクロ)
厳密な中央はヌベールあたりか? ともかくCatBは初手がここであるからお察し。
厳密にはもっと内陸へ行ったところだと思うけれど、海洋国家だし。
厳密な中央はもう少し南西だと思う。
北島と南島が主な国土で南島の方が広い。首都のウェリントンは北島の最南部。
中央はもう少し南だとおもうけれど、まあ。
・メキシコ(メキシコシティ) ・セルビア(ベオグラード) ・チェコ(プラハ) ・スーダン(ハルツーム) ・カメルーン(ヤウンデ) ・ペルー(リマ)
・アメリカ合衆国(ワシントンDC) ・カナダ(オタワ) ・ロシア連邦(モスクワ) ・ドイツ(ベルリン) ・イギリス(ロンドン) ・ノルウェー(オスロ) ・スウェーデン(ストックホルム) ・フィンランド(ヘルシンキ) ・デンマーク(コペンハーゲン) ・オーストラリア(キャンベラ) ・中国(北京) ・韓国(ソウル) ・インド(デリー)
・日本
日本の四大島と付属島が均一な平面であるとすると、重心の場所は能登半島と佐渡島の間の海上になるらしい。
・インドネシア
島国はこういうときは分かりにくい。日本と同様に重心を出すとスラウェシ島あたりになりそうな気がする。
・イタリア
シチリア島とサルディーニャ島まで含めて考えれば、ローマは中央付近か?
国土が三日月型の国も難しい。首都のザグレブは割り引けば中央付近かも?
マレー半島部だけを見ればクアラルンプールは中央の範疇かもしれないが、カリマンタン島部を含めた重心は大ナトゥナ島あたりだろうか? ただし、大ナトゥナ島はインドネシア領である。
まとめ
・巨大な大陸国家では、水運(特に海運)の都合上どこかの海岸や大河沿いが首都になりやすい(アメリカ合衆国、ロシア、中国、オーストラリア、インド等)
・一方向でしか海に面していない国も、海運の都合上その海岸線近くが首都になりやすい(アフリカのギニア湾沿岸で顕著。あと北欧)
トラバでもらった質問(anond:20190511155122)にお返事。
1.「注」、「参考文献」に該当する学術英語はそれぞれなにか。参考文献はreferenceやref.1とおもうが注はnoteでよいか。
「参考文献」についてはreference(参考文献)とかbibliography(文献目録)ですかねえ。referenceは文字通り言及した文献の一覧という意味があり、bibliographyだと包括的な文献目録という意味にもなるのですが(「ディスコグラフィ」とかと同じ用法ですね)、まあたとえば学術書で最後にずらっと言及した文献並べているような場合はどっちでもいいのではないかなぁと思います。英語の本読んでてもどっちも見かけるし。むしろref.1って初めて見ました。
「注」はnotesですね。
2.note、注とも形式が一意に定まっていないのではないか。メモを書き入れているという意味にすぎないと思う。「脚注」とあればたいてい被引用部分のページ下部にあるとおもうが、注と参考文献をそれぞれまとめて巻末に置く場合も想定しているか。また訳注と原著者注があるばあいはどこにどのようにおかれる(べき、または探し当てるべき)か。
本によるとしか……。英語の本でもfootnote(脚注)もあれば文末注もありますし、なんなら章末注もありますね(英語ではおしなべてnotesと書かれてますが)。注と参考文献をまとめて巻末に置いてある本もあります。そういう場合はまず注を置いてから参考文献書いてあるのが普通じゃない?
訳注と原注の区別はふつう凡例に書いてあるからそれを読めばいいと思います。書いてないのはダメな訳書ですね。これは本によって違うので統一的な書式とかは特にないんじゃないかな。
3.著作権法32条の引用では使用部分を改変しない(とはいえ(中略)くらいは許されるべきと考えられるが)、かつ出典を示すことがもとめられている。またその場合は出典が参考部分から切り離され結合が全くわからないような場合は正当な引用に該当しないとされている。これによりref(引用に添える出典)とnote(改変あり)の法的使い分けが成り立つだけでは。つまり、そもそも(少なくとも学術分野の)文書で他人の著作を引用するのであればいかなる形でも改変せず出典を示すべきであり、出典の形式を日本独特の形式である「注か参考文献か」で区別すべきものでもないのでは。さらに改変を許すのが注であれば注は学術文書には許されないのではないか。
日本独特の形式ってw 英語圏の人文系の学術書ぜんぜん読んだことないんですか? あっ、そっか、当該分野には詳しくないってご自分で書いてましたね。なら仕方ないか。
というか、この段落は全体的に意味がわかりません。改変の話はどこから出てきたんですか?
このように引用でない自己メモでも注にできることを考えると、出典を注に入れるのってかなりインフォーマルな形式であり、逆に注があれば良いんだろみたいなバカも呼んでしまうので、うまくないのでは。そもそも出典と注とで全く意味が異なるのだと思う。
いやー、そうかー、日本語圏のみならず英語圏でもドイツ語圏でもフランス語圏でも、なんなら中国語圏やロシア語圏でも通用する形式がインフォーマルかぁ。面白すぎますね。発想がいかにもガラパゴス。他の分野に対する知識が皆無でドヤ顔で物申して恥をかくという意味で。
で、notesは別に出典以外のことも書けるだろ、というのはその通りですね。だから私、出典を示す注と説明的な注は分けるべきだと思ってるんですけど、まあ難しいですよねー。author-date方式もMLA styleも向き不向きがあるからなあ。なんだかんだでfootnoteは見やすいよな、というところに帰ってくる感じ。
【カトリーヌ・ドヌーヴが署名した記事の翻訳の件】お返事を拝見しましたが、いろいろ問題点が残っているようです。目下時間的余裕を欠くためにぶっきら棒な指摘の仕方をすること、ご寛恕ください。テクストを読む際に、まして翻訳する際に当て推量はマズイですので、以下の諸点を改めてじっくり検討されるますように。(元記事: http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html)
参照サイトのhttps://fr.wikipedia.org/wiki/Galanterie は、la galanterieというきわめてフランス的なものを適切に説明しています。けれども、その内容の一面だけ取り上げて、「恋愛のお作法に乗っ取った男性からの誘惑の手順」というふうに「恋愛」や「誘惑」に直結させてしまうのは行き過ぎです。なぜなら、①そもそもフランス語圏の日常社会生活で言われるla seductionの意味するところは、日本語の「誘惑」よりずっと広く、一般的である。②男性が別に何らまったく誘惑の下心なく女性にドアを開けて差し上げる、席を譲る等のレディ・ファーストも、そこにごく淡い艶(つや)が伴っていれば立派なla galanterieである。③la galanterieをめぐって、それは男女同権原則を何ら妨げることなく男女関係を文明的にする作法なのか、男性優位のパターナリズムの表現なのか、という議論が頻繁に行われているという文脈がフランスには存在する。
■agression machisteについて:
前項の(3)からも分かるように、agression machisteは、(外見に反して男尊女卑を含意している)パターナリズムの押し付けを指しており、問題のテクストの賛同者たちによれば、la galantrieは agresssion machisteではない。ある種の「痴漢行為」はagression machisteの一つと言えますが、agression machisteすなわち「痴漢行為」ではありません。
■s'autonomiserに関して:
「自立」と「自律」は区別する必要。autonomieは「自律」です。また、現状の日本語では、「自立する」とは言いますが、「自律する」とは言いません。
■une conception substantielle du bienについて:
これの改訳例として私が「実体論的な善概念」としておいたのを「善の本質的な概念」に直しておられますが、それでは意味を成しません。この言葉は、哲学的で少し難しいのですが、まず間違いなく、道徳律をたとえば「他者の自由を妨げない」ことというように「否定的」な形式で考えるのでなく、「これがが善だ」というように実体論的に(あるいは、本質主義的にと言ってもいいでしょう)考える、そういう善概念を指しています。あとに出てくる哲学者のRuwen Ogienが世間の道徳を批判するときによく使う言葉でもあるようです。ですから、「実体論的概念」「本質主義的概念」と、「本質的な概念」はまったく異なります。ゆえにここは、せめて「本質主義的な善概念」とでも訳しておかないといけません。
■misogynieについて:
これは「女性嫌い」「女性蔑視」であり、「女性差別」の元になり易い性向ですが、「女性差別」と混同するわけにいきません。
■la liberte d'offencerについて:
「この概念が攻撃しようとするのは(神や国家指導者のような)『権力』『権威』とそれをアンタッチャブルなものにする空気」と断定(推量?)するのは早合点です。テクストに、Le philosophe Rugen Ogien defendait une liberte d'offenser... と書いてあるのですから、固定観念に囚われず、Ruwen Ogienの哲学思想を念頭に置いて理解しないといけません。そうすると、「人の気分を害する自由」あたりがやはり適切なのです(「中指を立てる自由」は論外)。
■la liberte de dire non a une proposition sexuelle ne va pas sans la liberte d'importuner :
「『ウザがられる自由』が男たちの側にあると解釈するのは…」無理ではないですよ。それどころか、その自由を相手(←ここでは男性)に認めるからこそ、女性の側がそれを「ノン!」と突き返す自由が生きるわけです。「ノン!」と拒否することがimportunerすること、ウザがられることではありません。なお、こういう間主観的関係が成立するのが男女間に限らないことは言うまでもありません。
■Pour celles d'entre nous qui ont choisi d'avoir des enfants, nous estimons...:
これを「子供を持つことを選んだ人々のために」とか、「私たちの中で子供を生むことを選んだ人達のために」と訳すのは、当該テクストの文脈の中では明らかに誤訳です。"Pour"はここでは、En ce qui concerne や quant aの意味なのです。著者(たち)は、私達のうちで子供を持つことを選んだ者についていえば、私達の考えはこれこれだ…、と述べているのです。
以上。
ねえねえ!
もう、桜ばかり見てないで私も見てよ!
桜いろ~舞うこ~ろ私はひーとりー。
なんて、ウソでーす。
うふふ。
海外はニュースでもドッキリ嘘つくから驚き桃の木山椒の木よね。
BBCでは木にパスタが生えてくるとかニュースでしちゃうのよ!
パスタ生えてくる木って欲しいわ。
そんな木あるでんて!
でね、
特にイタリア、フランスやベルギーとかなんかのフランス語圏では
4月1日のことを、プワソン・ダヴリルって魚の4月って言うの。
紙を魚の形に切って、
人の背中にバレないようにして貼るイタズラとかするのよ。
うけるー!
まあ、私も当時どんだけ背中に魚貼られたことか、
じゃなかった、スイミーかよ!ってね。
思い出すわ~。
必ず、魚の絵が描いてあって冗談って分かるようになってるの。
まあ、あんまり日本ではエイプリルフールと魚って結びつかないけどね。
私あれが欲しいわ。
ドッキリでしたー!テッテレー!って音が鳴って出すときに持ってるドッキリボード。
あれ欲しいわ。
うふふ。
ウソだけど。
今日もツイてるー!
朝起きて寒かったので、
と言うかもう4月なのにね。
なんて。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
http://anond.hatelabo.jp/20161108134523
Facebookのいいね!が異常に多い割にそのコメントを見れないのが大変残念ですが。
まず印象に残ったのは、"R"や"L"の発音の説明だったり、いややっぱりラリルレロは"L"だ、だったり、そもそもの基本的な部分で多くのご指摘を頂いていた点です。
これに関しては全面的に私の説明ミスor勘違いによるものです。すみませんでした。
上記の情報が全て正しい訳ではございません。
各自トラバやコメント、Google、Wikipedia等で正しい情報を得てください。
そもそも、発音、特に舌の動きが重要な発音を、説明に慣れていない者が動画も図解も無く説明できるはずがないんですよね。
次に、「ローマ字はそもそも何のためにあるのか、誰のためにあるのか?」という点についても知識不足でした。
自分の知識不足で色んな誤解を生んだのは間違いないのですが、その結果色んな方々からご指摘を得て、この場で自分以外にも多くの方がローマ字やその長所・短所について考える機会を与えられたのであれば、この記事は何かしらの役割を果たせたのかな、と思っています。
また、「英語の話者のことしか考えていない」という指摘もありました。
この記事では主に英語のネイティブスピーカーのみを対象にしていたつもりでしたが、ローマ字表記をどこの国の人に見せるかで、議論は全然違ってきますね。
あとは、「どうでもいいじゃん」というコメントも多かったんですが、これは実際に外国人に正しく読まれづらい名前を持った人と、そうでない人で大きく意見が別れているように感じました。
結局個人の価値観にも依るのでしょうが、私としては自分の名前ってやっぱり正確に読んでほしいんですよね。
一方で、正式な文書で記載されている名前は発音されづらい、というジレンマは経験してみないと伝わらないものなんだろうな、とも思います。
実際に、特にTwitterでは「自分もそうだったわー」「自分はこうしてたわー」というコメントが多く、『ですよね!!』と膝を叩きたくなるような気持ちでいっぱいでした。
今後としては、ローマ字表記を変えよう!という意識は無く、パスポートに記載されているローマ字表記と英語のネイティブスピーカー向けの発音しやすいスペルを上手いこと共存させていく予定です。
例えば、自分の名前がタナカリュウイチだったら"Ryuichi (Liu-ichi) Tanaka"というように、ローマ字と読みやすい表記を併記する方法を考えています。
実際にこういう書き方をしている方を仕事でも見たことがあります。その方は中国人でしたが。
この記事によって、こういう表記・併記方法がより一般的になれば幸いです。
ただし、これも地域によって要・不要を判断する必要があると思います。
コメントによると、例えばフランス語圏やロシア語圏に行くときは(Liu-ichi)の表記はいらないと思います。
何にせよ、ここ数年ずっと自分の中でくすぶっていた"Rya,Ryu,Ryo"問題がここまで話題になって多くの方の頭の片隅に残ってくれたこと、そして自分自身も色んな気付きを得られたことが何よりの収穫ですね。
唯一の心残りは、2016年にもなって「ワープロ」という言葉が思わず口をついて出てしまったことですね。
おっさんですね。
久しぶりに、アルジェリアのプロジェクト関連の記事を見かけ、まだやっていたのかと思った。
私はこのプロジェクトで、某社の現地事務所の統括担当として、雇用契約を結ぶ直前までいったが、ほんとうに行かなくてよかったと思う。
この案件に実際に参加した人の声がもっとネット上に上がってくることを願っている。
アルジェリア政府との契約段階においても、過酷な価格交渉をしてくるアルジェリア政府と、伊藤忠を含むJVとの間で板挟みになり、日本人の自殺者が出たと聞いている。
施工期間中においては、現場と宿舎との往復をするにあたって、つねに軍や警察の車両に囲まれて移動しなければならないと聞いて、まったく自由がないと思い、私は参加するのをやめた。
鹿島の場合、アルジェリア工事の代金支払いをめぐる交渉が長引いた一因について、「行政制度や商慣習の違いがあった」と説明する。
というわけだが、日本のゼネコンがアフリカの案件をやる場合、つねにコミュニケーションの問題があったことは言及されていない。
アフリカには公用語がフランス語となっている国が少なくない。アルジェリアもそうだ。
フランス語圏で働く場合、現地のさまざまなカウンターパートと、英語でコミュニケーションするだけでは済まない場合が多い。
政府に提出する書類、サブコントラクタとの間で交わす書類から、日々の会議録にいたるまで、すべてフランス語に訳さなければならない場合が多い。
だが、フランス語で仕事をすることのできる日本人のゼネコン社員は、ほとんどいない。
その結果、書類の作成や重要なミーティングは、少数の通訳・翻訳者をとおして行うことになる。
かぎられた人数の通訳・翻訳者は、そのほとんどが土木の専門家ではないため、ボトルネックとなり、コミュニケーションの速度を著しく遅らせ、精度を下げることになる。
このようなコミュニケーションを日々やっていると、日本人のゼネコン社員の間ではフラストレーションが高まり、現地政府の担当職員を含むカウンターパートとのあいだで、少なからず摩擦が起きる。
各社は、こうした海外での契約交渉に精通した人材の確保・育成に取り組んではいるものの、十分なリスク管理体制は構築できていないのが現状だ。ある準大手ゼネコン幹部は、「政府が間に入るODA(政府開発援助)案件や、日系企業が発注する工場建設などでない限り、海外の工事で資金回収をすることは相当難しい」とこぼす。
フランス語圏の漫画を日本ではバンド・デシネ、略してBDとして紹介することが多いわけですが、そのBDの世界で、ジョアン・スファールは例外的なほど多作、かつアニメや実写映画の監督を務めるなど多才なことでも知られています。一般にBD作家は日本の漫画家と比べると寡作なのですが、スファールの場合は、ほとんど日本の漫画家かというくらいに多作なようです。
スファールの作品の中には宗教に対する風刺もあります。ただし作風は、おそらく一般にシャルリー・エブドの風刺漫画から想像されるようなものとは異なっています。たとえば長編『ラビの猫』(これは自ら劇場用アニメ版の監督もしています)では「猫はユダヤ教の宗教儀礼を受けてユダヤ人になれるのか?」という設定からストーリーが展開します。(さらに付け加えると『猫』ではユダヤ教ラビがイスラム教修行者とある出来事を通じて意気投合するシーンが描かれます。さらに終盤は共に旅する仲間となります)
とりあえず、シャルリー・エブドで作品を描いたことによってスファールを「シャルリー・エブドの漫画家」と考えると誤解に繋がることは言っておきたい。
「スファールという漫画家はシャルリー・エブドに作品を描いたこともある」というくらいの理解が適当かと思われます。
ただし、スファールは、シャルリー・エブド襲撃事件を受けていくつもの作品を発表しています。
たとえばフランス語版ハフィントン・ポストの『Si Dieu existe』という作品。
http://www.huffingtonpost.fr/joann-sfar/carnets-dessins-si-dieu-existe_b_6602154.html?1423152000
猫が言います。
"Si Dieu existe, il ne tue pas pour un dessin."
「神様はいるよね、でも神様は1枚の絵のために殺したりしないよね」
最後に、日本語訳のある2冊の本を紹介してこの増田を終えたいと思います。
http://www.amazon.co.jp/dp/4861139562/
プチバンピ―学校へ行く