はてなキーワード: テーマパークとは
でもな、もう限界やねんホンマ。
どこ行っても「ボケてる?ツッコんでる?」ってプレッシャーかかりまくりや。
しかもや、みんな無理してでもおもろいこと言わなあかん感じやねん。「俺、ほんまはおもんない人間や」って自覚してる奴まで必死でボケて、滑ってるやん。
いやもう、そこに自己防衛の笑いが発動してんねん。会話がもはや拷問レベル。
んで、ボケても誰も笑わんかったら「まあ、それもアリやな」とか言うて自分で納得してもうてる。これ、どんな精神修行の場やねん?笑いで鍛えられるとか、人生ちゃうやろ!
お笑い?もう昭和で止まってるわ。お笑いがおもんないってもう終わりやで。
今の時代、そんなパターンどこまで通用すると思ってんねん?しかもな、どこ見ても同じようなネタばっかりやん。
ツッコミ待ちしてるやつが目の前おったら、こっちも「いや、もうそのネタ古いで」ってツッコミたくなるわ。これな、ただのノスタルジーやねん。笑いが新しくなれへん、大阪は進化せえへん。ずっと昭和の栄光にしがみついて、未来見えてへんわ。
大阪は「昔はよかった」って言いすぎや。
なにが昔よかったん?
商人魂とか、もう聞き飽きたわ!進化せんとずっと過去に戻ってるやん。
商店街なんか、昭和からタイムスリップしてきたんちゃうかってくらい古びてるし、みんなそれが「味や」って言うてんのがあかん。ほんまにそれでええんか?
そろそろアップデートせんと、このまま滅びるで!何も新しいもんが入ってけえへんのは、どう考えても文化が詰んでる証拠や。
グリコの看板見て「大阪来たでー!」ってテンション上がるんはええけど、それ見たらもうすることないやん。カニの動く看板?あれが感動ポイントなん?カニの爪が動いたからって何なんや、別にカニが握手してくれるわけでもないやろ。
看板見て帰る街、大阪ってもうちょっとエンタメ要素なんとかならんかいな。
大阪ってな、街全体が無理して「おもろい街」や言うてるけどほんまそれが痛いねん。
タコ焼き片手に歩いてる奴ら見て、ほんまに楽しいか?って思わんか?タコ焼きなんかどこにでもあるやろ。
無理にでも「大阪来たら楽しまなあかん」って空気が漂っとるけど、実際は何が楽しいんかわからん。強制のお笑いか?
街中で「おもろいでー!」って叫んでるだけで中身スッカスカやねん。偽のテーマパークみたいな虚無感あるやろ?これ、ホンマにええんかいな。
何も変わらんし、新しいもん作ろう思っても誰かが「昔からこれでええねん」って止めにかかる。ほんで、また同じもんの繰り返し。もはや文化の墓場やで。大阪の文化がこのままやったら、未来はずっと昭和のままや。
「大阪最高や!」って自信満々に言うけど、その根拠が薄っぺらすぎるわ。
たこ焼きで何を誇っとんねん?
他所の街行っても、大阪の良さ語ろうとするけど、話してる途中で「あれ?これほんまにすごいんか?」って自分で疑い出すんや。そうなったらもう終わりやで。
プライド高いけど、中身は空っぽや。これ、ホンマに大阪を誇れるんか?って、もう心の中でみんな気づいてるんちゃうか。
ほな、最後に種明かしやけどな、実はこれ、大阪とは何の関係もない人間がChatGPTに書かせたもんなんや。大阪に住んだこともないし、深く知っとるわけでもない。
外から見て、ちょっとひねくれておもんないこと言うてみただけやねん。大阪のこと、ようわからんけど適当に「おもんない」とか言うてみただけやねん。
大阪に住んだこともないし、ほんまの大阪の良さなんか全然わかっとらんやつが、外から見て適当に文句言うてるだけや。
大阪を実際に知っとる人なら、「そんなもんちゃうわ!」ってツッコミたくなるとこがいっぱいあったやろ?せやけど、ほんまの大阪の面白さや魅力は、外から見ただけではわからんもんやねん。そやから、この話も笑いながら流してくれたらええねん。
でもな、ほんまのところはどうなん?
https://togetter.com/li/2434209
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2434209
そりゃそうだみたいな反応多いけど、後知恵だよな。
できないかな
具体的にはサイレントヒル(2、3、4、ホームカミングあたり)の世界に入りこみたいという欲望なので、ホラーという広い括りではなくただサイレントヒルのテーマパークであればいいのだが、そんな贅沢言えないから古今東西有名なホラー系の世界が複数集まって再現されてるテーマパークあったらぜひ行きたい
小規模から中規模の独立系お化け屋敷や脱出系パークがあるのは知ってるんだけど、ああいうんじゃなくて屋内にも屋外にも再現性の高いマップが大きく広がっていて建物の内部やゲームでおなじみの屋外景色の中を歩き回れるしクリーチャーも闊歩している、そんなディズニーランドみたいなホラー系(サイレントヒル)パーク行きたいなあ
40歳になったところでなんとなく藤子Fの大長編ドラえもんを読み返したので感想を覚え書き。
ドルマンスタインが外道。恐竜ハンターが「人間狩りはやったことないでしょう」と誘ったときに乗っかってきた辺りで、ドラゴンボールの魔神ブウ編に出てきた混乱に乗じて人を撃ってた外道二人組の雰囲気があった。しかしその後、のび太たちにティラノサウルスをけしかけたとき、恐竜ハンターが止めようかと思った辺りでドルマンスタインは「こっちの方が見たくなった」と言う。いやあド外道。幽遊白書で垂金の賭けに乗っかってた B.B.C. のメンバーとかにいてもおかしくない。
ギラーミンが有能。ギラーミンが出てくるまではチンタラしてたガルタイト鉱業のやつらが一気に引き締まって動くのが面白い。序盤ではケチな嫌がらせしか出来なかった三下も的確に爆弾しかけたりして動きがよくなるのがいい。
まあ、コーヤコーヤ星のガルタイト鉱業の支部長?の奴があんまり仕事をすすめる気がない「ゆるくやって給料もらえればそれでいい」タイプだったんだろう。ギラーミンに「嫌がらせはやってるんだがなかなか進まず」みたいなことを言ってるけど結局嫌がらせしかしてないあたり向上心もない。のび太が来なくても遅かれ早かれ更迭されそう。
しずかちゃんが序盤から何度も「おふろに入りたい」と言うのが、終盤で先取り約束機をしずかちゃんが持っている伏線になっているのに今更気付いた。巧妙だ。
敵のダブランダーは軍部を掌握してクーデターで政権を簒奪したんだと思うが、民衆の支持が本当に全くない状態で軍事に全振りの総動員かけてる有様なのでそのうち政権崩壊しそう。「姫が残されているから」以外に正統性を持ってないから時間の問題だろう。
あとブルスス強すぎ。折れた木だけを武器にして何人もの兵士と戦って生還するのは普通にすごすぎる。
前半のキャンプが楽しい。子供のころに読んだときは前半ばっかり読み返してた記憶があり、同じ感想だった。
敵のポセイドンは海底火山の活動を攻撃と捉えて報復してるあたりポンコツだし、人間の生贄を要求するあたりはコンピュータのくせに呪術に傾倒していて狂ってるとしか思えない。アトランティスの技術者はなんでそんなAIプログラミングをしたのやら。
魔界に乗り込んで一回いけそうな所まで行くが撤退せざるを得なくなり、なんとか立て直して再侵攻でトドメを刺すという王道、「カリオストロの城」の形式。魔界に入ってからのファンタジー世界でありがちな罠をかいくぐるところが楽しい。
ボスのデマオンは登場時点でほとんど詰みの状況まで作り上げていて手強かった印象。魔界歴程とドラミがいなかったらやりようがなかった。メジューサの石化もドラミが助けてくれなければあの時点で勝利確定だったはず。
大魔境に引き続いての出木杉解説がある。なんか民明書房を思い出した。
戦車を宇宙に飛ばして撃墜するところがアツい。大抵の作品で宇宙で活躍するのは戦闘機や戦艦であるところ、履帯つき戦車を宇宙空間に飛ばして無人機を撃墜するのは他ではあまり見ないなと思ってニヤニヤしてしまった。
ギルモア将軍は「大統領を倒して皇帝になろうとしている」らしく、共和制やめて王政にするとかどんな体制転換だ、銀河英雄伝説のルドルフ大帝か? という気持ちになった。でも例によって軍部・・というか諜報機関と無人機の部隊しか押さえてなさそうで、大衆の支持が全くないのでどうせだめだろう。ドラコルルは諜報機関の長として有能な感じ。ドラコルルが頑張ってるからギルモア体制が維持できてるんじゃないかな。
ギルモア軍の総戦力80万に対してレジスタンスは100人ちょっとであり、レジスタンスは「民衆の蜂起に賭けて動く」と言っていて「いやーそれはいくらなんでも無理では」と読んでて思った。しかしギルモアが劇中で動かしていたのは諜報機関と無人機だけ。総戦力80万のうち多くを占めるであろう有人戦力を全員動員するなんて出来ない、無理だろうという読みがレジスタンス側にあったのかも。
ミクロスが妙に人間味があってカワイイ。言いたい放題言ってくれるので全員シリアスな中での息抜きになってる。
今見るとリルルが神話を語る場面が印象深い。リルルが神話と同じ信念で来てるんだったらもう宗教戦争のような構図で、上官っぽいやつに何を言っても説得なんて不可能だろう。リルルが実質寝返ったのは・・リルルは現地に先に潜入して拠点確保など工作をする目的で作られているだろうから、現地で自然に振る舞うために現地人の感情などを理解する仕組みが組み込まれているのでは? など考察してみる。
あと森を焼くシーン、戦況が絶望的すぎてつらくなる。
世界観の謎解きがメインで明確な敵が居ないという新しい形式のオチ。でも風雲ドラえもん城とか隕石落下とかスペクタクルがあるし、スッキリまとまるので読んでて楽しい。
冒頭の自分だけの国をつくるところ、時代の歴史要素、時空乱流あたりのオカルト、ペガとドラコとグリという厨二かつペットとの別れという感涙シーン、中盤の大冒険、終盤の追い詰められてからの大逆転、と盛りだくさんですごい。
「ツキの月」のところがやっぱり面白い。大長編補正をそのまま正当化するすごい道具。子供のときはこんなんいいのか?って思ったけど今読み直すと結局こういうのが見たいんだよなあ、と思ってしまう。
終盤、戦ったことのない動物たちを陣地と作戦で戦力にするところ、子供のときはスルーしていたが、今見るとヒストリエとかドリフターズとか思い出すアツいシーンだと思う。
中盤の砂漠を彷徨うところやしずかちゃんの境遇が、これまでのどの大長編よりもヤバくて一手間違えると死にそうでハラハラする。シンドバッドが現れてからは、実質主人公がシンドバッドなのでは?と思うほど活躍するし、シンドバッドがのび太一行に諭されるところも名シーンと思う。おっさんが往年の生気を取り戻す話なのかも。
あと、序盤のアラビアンナイトと現実とが交錯する点を探すところ、子供のころはなんとなく見てたけど巧妙な構成だなあと感じた。
「竜の騎士」の行き違い展開や「アニマル惑星」のエコロジー思想を盛り込みつつも違う印象になっている。
中盤、かなり長い間のび太一人だけの逃避行になっていて、前作と同じくらいワンミス即死の展開をやっていて辛い。その後ドラえもんが復帰してもずっと緊迫感がある。
終盤の雲もどしガスで脅しをかけるところ、子供の時には「そんな物騒な・・対話でなんとかできないの?」など思っていたが、今読み返すと連邦最高議会での討論がとんだお気持ち表明大会になっていて、「地上人の意見も聞こう」と言いつつスネ夫やしずかちゃんを「証拠を出せ」と詰める感じになってて、あんな場で言い合いするくらいなら武力に訴えるわな・・とも思った。雲もどしガスを撃っちゃったからドラえもんの特攻が説得力を持ったような気もするし。
ナポギストラーの反乱について、「発明するのもめんどくさくなっちゃって、発明ロボットナポギストラー博士を作った」という説明がある。これが通ると言うことはナポギストラーの発想や発明品は流通させちゃうということで、もう倫理観や知性もナポギストラーに丸投げしちゃっている。そこまで投げたらそりゃあ反乱されるよね、という気がした。
作中では人間の身体が弱ることだけ言及されていたが、もうちょっと反乱待って数年やってたら知性も劣化しそうだし、そうなってからナポギストラーが「幸せになれる薬を発明しました」とかやったらそのまま征服完了しそう。
個々のエピソード・・伝説の武器の回収、ドラゴンとの戦い、敵の将軍との戦いあたりは王道でかっこいいん。ダイの大冒険とかロトの紋章とか読んでたときの気持ちになる。だけど、やっぱり最後の打ち切りエンドのような話のまとめ方が気になる。ジャイアンもスネ夫も呼べなかったし。大長編の連載スケジュールから言ってケツが決まってたから仕方ないんだろうけど。
妖霊大帝がトリホーを連れて夜襲をかけるところ、ダイの大冒険でハドラーがザボエラを連れてバラン戦直後の一行に夜襲をかけるところを思い出した。
明確な敵がおらず、「竜の騎士」や「雲の王国」のように対話エンドなせいか、子供のときは特に終盤なんだかよく分からないうちに終わった印象だった。
今見ると個々のエピソードは面白いし、しずかちゃんがダイジェストで語ったこともページがあれば描かれてたんだろうな、とか思う。「T・P・ぼん」とかでやりたいネタがたくさんあったんだろうなと感じた。
王道展開をやりつつ、「禁断の星」とか「忍法壁抜け」とかの伏線回収も忘れない、とても整った作品。
ハテノハテ星群の「鉱業で栄えたが衰退、土地だけはあるのでテーマパーク建設」というの、思い浮かぶ地名がいくつもある。
子供のときは、敵がしょぼい、小便小僧は結構すき、くらいの印象だった。あと透明ペンキを出すコマでドラえもんがポーズを決めてるのが子供ながらに違和感があって、「あーもう作者交代したんだ・・」という気持ちになったのを覚えている。
今見ると、藤子Fの遺作となったのもあって、どうしても制作背景が気になってしまう。あらかじめ話の概要を伝えてあったり、絵を任せる比率を増やしていたり、 Wikipedia に載ってる「種をまく者=藤子F本人」説があったり、その種をまく者の行動が自分が問題解決するのではなくのび太たちに託す形だったり、後に伝えることをとても意識してたのかなあ、と思わされた。
これが世界最大という超超巨大書店を、どーんと僻地でもなんでもいいから街が作れそうな平野に作ってほしい。その超超巨大さは世界第2位を突き抜けてほしい。
政府もテコ入れし、クラウドファンディングも募り、数多ある企業も全勢力が参入してほしい。もうとにかく全力をかけて作ってほしい。
「そんなことして失敗したらどうする?!バカじゃん?!」とか考えず作ってほしい。勝算とか考えず勢いで作ってほしい。
そこには和書だけではなく洋書もある。西洋の本だけではなく中国語の本、アラビア語の本、アフリカーンス語の本、とにかく片っ端から「いやこれいらんだろ」みたいな本だったとしてもすべておく。
なんなら和書が中央ではなく洋書が中央である。日本語を中心で考えてほしくはない。言語別に存在する知の量に応じた配分をしてほしい。
客層に応じてカテゴリ分けは必要だろう。1つの書店だけでなく複数の書店が統合してもかまわない。古本屋を集めてもかまわない。
「よくわからなくても物理の本を買うなら日本のここへ行け。たぶんあるから」という状態になっていてほしい。日本の中規模以上の書店はほぼすべてここに集める。
全勢力が協力してできた超超巨大書店を中央に据えて、その周りを他の超巨大書店が取り囲む。その周りは巨大書店。その周りは中規模書店、その周りには小規模書店。
海外からも片っ端から誘致する。必要なら補助金も出す。「バカなの?」とか「さすがに海外出店は難しいです」とか一蹴されるだろうが「まあ採算とれそうだからいいよ」と言われるまで粘ってほしい。
税金をたくさん投入してもかまわない。重要なことは「そこにある」「とにかく日本のここに来たらある」「お前のやりたいことは知らんけど本がほしいなら日本のここに行け」という願いが叶う場所だ。
例外を作ればそのブランドは失われる。このブランドこそが他国が追随不可能な圧倒性を生む。先行者利益だ。バカすぎて1つ1つで見るとデメリットしかない行為が、結合すると巨大な1つのメリットを作り出す。
どこかで手を抜くと終わる。そんなことまでする必要ないんじゃないのとか、それってめちゃくちゃ損しますよねとか言われようが、究極に本を集める。
書店と書店の隙間にはさまざまなカフェが立ち並ぶ。個人で経営するカフェからチェーン店が密集する。コンビニも立ち並び、公園には読書に適したベンチがある。公園は読書に最適化されている。
その街にはどこにでも椅子が置いてある。買った本をすぐ座って読む人向けのものだ。
この街には有名人が毎日のようにやってくる。たとえば「ビル・ゲイツが本を選びに来日!」など当たり前のことになるだろう。
読書家はこの街の付近に別荘をかまえる。なんにもなかった僻地の近隣に富裕層街が誕生し、地価がとんでもなく上昇する。意味不明なおいしい話だ。
一方で本を読むことが目的でない人間には居心地が悪い空間になる。この街に存在している人間はほぼ全員本かその周辺が目的なのだ。本以外が目的の人間は異様に目立つようになり警戒される。
街の中央部分は徹底的に、本、本、本、本、本、と本が存在するのが当然の本の密集空間になっている。普通の人間が「ここまですることはないんじゃ・・・だって採算とか・・・」とドン引きするぐらいの熱量で本で溢れかえっていてほしい。
地面に敷かれたタイルには、文章が書かれている。まっすぐ歩くと偉人の言葉などがそのまま読めるようになっているのだ。たとえば「良い本は私の人生におけるイベントである。」「本の無い家は窓の無い部屋のようなものだ。」「天才とは努力する凡才のことである」などという文が永久に書かれている。有名な書の冒頭部分だったりもあるし、古典文学もあるし、文学のみならず数式も書かれていたりする。それを読むだけで日が暮れる。
この街の広告はすべて本に関するものでいっぱいだ。ほかでは絶対に見られない、読書家にだけ向けた広告が撃たれる。「こんな難しそうな本の広告ある?」というのがそこここで見つかる。
たとえばベトナム語のマンガの新刊広告なども見受けられていてほしい。
この街にあるのは紙の本ばかりではない。電子書籍派のための書店もある。他では絶対採算がとれないような形の店であっても、「読書家が毎日のように集まることが普通」の街特有の書店ができる。たとえば巨大な8Kモニタにその人へレコメンドされた電子書籍が大量に表示され、立ち読みすることができるとか。「辞書専門店」や「単語帳専門店」や「栄養学書籍専門店」などがあったりもする。そういうものを作っても不思議と利益が出るのだ。
この超超巨大書店圏内部には研究所や大学なども誘致する。どのような言語でも関係ない。化学系のカテゴリが立ち並ぶ「化学通り」のようなところには実験器具専門店も立ち並ぶ。
そういうところは、基本的には英語がメインだ。英語の下に日本語が書かれている感じ。イメージ的にはハリーポッターだろうか。ときどき「なんで化学通りにオムライス専門店がこんなにあるんだよ」などということもあるかもしれない。秋葉原や神田にカレーがたくさんあるようなものだろう。
やや込み入ったところにはマイナーな本屋がある。「なんだよこの本屋・・・」という、見るからに異国感が漂う本屋だ。謎の部族の謎言語で書かれた謎の材質の本が置いてあるなど。ネクロノミコンのような本も見つかる。
石版などもなぜかある。読書向けの椅子専門店もある。「本のためだけの椅子専門店」が生存できる場所は日本ではここしかない。
しかし、この超超巨大書店群の主目的は「本の集積」である。そこから逸れるようなことがあってはならない。何か欲をかいて「ここに企業をうんたら」などとして利益を優先するとこの街はあっという間にその意味をなくし滅びるだろう。ありとあらゆる人々が周辺の利益を求めて集ってくる。そういうのを一蹴できるような体制であってほしい。
「この街意味ないだろ。なんで作った。赤字だろ」と罵られながらも存続する街であってほしい。そして、そう罵る人も、ひとたびその街に入ると「すげえ・・・この街は地球に必要だわ・・・」とどうあがいても認めざるをえないほど感動できる街であってほしい。街自体で見ると赤字なのだが不思議と日本経済が潤う源泉である摩訶不思議都市であってほしい。完全に未来へと投資された都市である。
この街では、夜もたくさんの書店が営業している。こんな大きな本屋が24時間営業できるのはこの街しかありえないとなっていてほしい。「夜眠れないな・・・本でも買いに行くか・・・」という人外の行動を普通にするような場所であってほしい。
街の周囲には民家が立ち並ぶ。ただしこの民家に住む民間人はややおかしい。本のために移住してきた狂信者たちだ。軒先には自分の選書が並び「1冊100円」などと書かれていることも多々ある。
富豪がゴッソリ買っていくことを見越して少し離れたところに在庫置き場がある。
富豪が「ではこの棚からこっちの棚まで」などと爆買いしていく。もはやテロリストのようなものだが、そんなことは気にせずまた入荷する。本はバカみたいに売れる。
この街は、「日本人なら1度は絶対行け」と呼ばれる場所になる。そしてひとたびそこに立ち入れば「世の中にはこんなに知識があったのか」「世の中はこんなに頭のいい人たちで溢れかえっていたのか」ということが、嫌でも全身の細胞に刻みつけられる。伊勢神宮みたいなものだ。それよりも神々しいかもしれない。
そして、全身の細胞で体感したその人は、格段に読書するようになるだろう。それは地元へ帰っても同じことだ。一流を目の当たりにした者は一流になる。
取次の問題も、書店が潰れかけている問題も、日本人が本を読まなくなってしまっている問題も、経済が深刻化している問題も、だいたい解決できるだろう。
誰か作ってください。
ちなみに国防にも役に立ちます。一度作ってしまえばここを潰すやつは「バカ」なので。ペンは剣よりも強し!
ただそれは、「本がたくさんあっても意味がない」のではない。逆。
それに「物理本を読む人が少ないから本屋が潰れちゃう」というのも逆だ。
「物理本を読みたいと思う人を増やす。そのためには本屋すべてが潰れることも辞さない」という情熱が正道である。
本というのは知の源泉である。だから知識がない人に迎合すれば、潰れるのは自然だ。知識がない側に与するのだから。
本の機能はそれとは真逆であり、全体を引っ張り上げるものである。知識がない側が「欲しい」と願える場にすべきなのだ。
ない側に媚を売っていれば潰れて当然。
「この本は今は読めないけれど、読みたいと思う」そういうものがない。
「この本は内容はちんぷんかんぷんだけど、そういう本の存在を知っている」そういうものもない。
ジュンク堂書店などですら、知らない人々が多い。大型書店の重要性を知覚できていない。入ったことがない人間もいる。
記事を読んでくれた人へ: 記事を読んでくれたのはありがたいが、たぶん自分が考えている規模と読んだ人が考えている規模に大きな差があると思う。
自分が考えているのは、もっとも小さく考えても深圳書城中心城の数十倍の大きさであり、既存の書店をちょっとだけ大きくしたものとか、蔵書が全く同一であるような大型書店が単に10個ある街という形ではない。
コーチャンフォーつくば店は50万冊、池袋ジュンク堂書店は150万冊、深圳書城中心城は400万冊、国会図書館は4685万点。Amazon Kindleは60万点。
自分が言っているのは、数億冊あるような書店群である。つまり、コーチャンフォーやジュンク堂書店や紀伊國屋書店は超超巨大書店(世界中の意味わからんハイレベルの本から選びぬかれ集まったエリート本屋)の周辺を取り囲む「日本区域最大の超巨大書店」の周辺を取り囲む「大型書店の1つ」という状態を考えている。ブックオフなどはその周りを取り囲む中型書店になるだろう。その周りを、身近にあるご近所の本屋さんがたくさんずらーーーっと並んでいるというような領域だ。いうならばこれが日本区域である。
世界の蔵書数はGoogleによると約1.3億冊であるらしい。日本区域内に別に中国語や韓国語の本があることもある。ただし日本区域の横には韓国区域だったり中国区域だったりする。その中国区域でもばかみたいにデカい超巨大書店があり、それを取り囲むようにジュンク堂書店並の大型書店があり、英語区域では……というような状態だ。言語別に分けられているだけでなく、「数学領域」で分けられていることもあり、そこでは「高校数学」の棚に世界各国の高校数学が並ぶ。数学の参考書を買いに来た高校生が、カメルーン人の中学生と仲良くなるみたいなことも想定できるわけだ。
地方のクソデカ本屋が数百個単位で入る「は・・・?」「この街が・・・全部・・・本屋さん・・・?」という規模の書店群である。
イメージとしては↓な感じ。
まもなく目的地の駅に近付く。電車にいる人々は全員が本を読んでいる。スマホを触っている人たちなど誰もいない。不思議な光景だ。多くの人がそわそわしている。初めて来た人たちが多いのかもしれない。
電車が駅に滑り込み走って降りる人々の後ろでのんびりと降りる。全く、はしゃぎすぎだろう。
降りた直後、本の形をした案内板が表れた。真っ先に飛び込んできたのは「↑ バベル中央書店」というやたらとデカい黒文字と、その下にあるやや大きな黒文字の「↑ 北区域書店」だった。
右を向くと・・・あれは・・・本の自動販売機?! 本を自販機で販売するのか。カルピスの作り方・・・自動販売機の歴史・・・Why could he make vending machines?・・・なるほど。
床には文字が書かれている。Station, State, Statue, Status. 何のことやらわからない。
改札を出る。改札を出ると、ああ、もうこれは本のテーマパークだ。最奥部に見える巨大な塔には雲がかかっている。おそらくあれが中央書店だ。その横には数えるのもバカバカしくなるほど書店が並ぶ。街には今まで見たこともないような人々で溢れかえっていた。ベンチでは読書をしている中東とおぼしき人が中国人らしき人と何やら議論している。彼らが話しているのは何語だろうか。
デジタルサイネージで目まぐるしく本の広告が入れ替わっていく。「サウダージにさようなら」「入門グロッキング」「般若心経の終焉」
子どものときに巨大書店や巨大図書館に人生で初めて行ったときとか、論文と大学と研究の仕組みと接したときに、知の偉大さに震えたことがないだろうか。
目に見えないものは見えないことが多い。たとえば、ライブ会場に行ったことがなければライブの偉大さは本当にはわからないし、「本当にこんなにたくさんの人がファンなのだな」ということもわからない。
いま「自分が考えるクラスの巨大な本の集積地を人類の誰もが見ていない」というのが問題であると思う。誰1人として。
そういう知がたくさんあることは存在としては知っていても、「それを見たことがある人は誰もいない」のだ。いわば、月は見えるけど、月に行ったことは誰もいないような状態だ。
神田の古本屋街や、既存の大型書店というのは、いわば地球上にある月に似たところでしかない。「たぶんこれとこれがこうなると月」というふうにしか想像できない。だが月に行かなければ月の隕石は無いのだ。
ほとんどの人は、目に見えないなら存在しないと感じてしまう。マッチングアプリで人間を左右にスワイプするとき、人間ではないように扱う。それは人間として存在しているのに。
一方、眼の前に相手がいるとき、同じように左右に指を振って弾くのは容易ではない。これが目の前にあるかないかの大きな違いである。
自分が言っているのは、そういう知の集積の偉大さが理解できなくてもとにかくそこに行けば、「ああそういうこと」「人類は偉大だったのか」と、誰もがたちどころにわかってしまう場所がほしいということである。
俺はエロ漫画家だ。
と言っても専業ではない。所謂兼業作家で、エロ漫画やイラストを描いている。
アカウントがバレたら本当に生きる糧を失うため割合はボカすが、本業と作家業で去年は1300万円程度稼いでいた。それくらいの規模のアマチュアだ。
増田に投稿しようと思ったのは、自分の感情や思考を吐き出せる場所をどこも作っていなかったからだ。俺の過失なのに、本当に申し訳なく思う。
女々しく、醜く、気持ちが悪いと自分でも理解しているが、感情を吐露したくてこの日記を書いている。
正確に言うと、女であることを武器にしている女創作者とそれに群がる男たちが許せない。
それは作家業に限らず、配信者やVtuberなど全てにおいてだ。
執筆の休憩がてらX(旧:Twitter)を覗いていると、ひとつのR18系の創作アカウントの投稿が目に留まった。所謂ちょっと攻めた性嗜好の開示イラストだった。
その投稿からアカウント本体のページに飛んでみると、本格始動から三カ月程度で、フォロワー数は三桁台。先ほどの投稿はフォロワー数からすれば十分に伸びていた。
俺はメディア欄を漁り、そのほとんどが一次創作であることに驚いた。
いまどき、一次創作にこだわる奴は馬鹿だ。名を上げたければ二次創作をやったほうが遥かに効率がいい。YouTubeで有名な某絵師もそれを認めているし、推奨している。
昔、一桁イイねがザラだった時代に数百のイイねがついたときを思い出した。その時はフォロワー数のエグい有名作家がたまたま俺の投稿をリポストしてくれた影響が殆どだったが、それでも、俺の絵が認められたような気がして本当に嬉しかった。今では数百数千のイイねなんて当たり前だ。
だから、二次創作で勝負しないなんて骨のあるやつだと。俺は勝手にシンパシーを覚え、応援の気持ちを込めて、フォローしてリポストもした。
それから1か月後、件のアカウントが気になり、メディア欄を確認した。
まぁ、分かっていた。描き文字の癖や画面の構成的に、女だろうとは予想していた。
俺は人じゃなくて、作品を観て評価しているのだから、こんな投稿は別にどうだっていいはずだった。
不意に、自分の指を見た。ごつごつとした男の指。幼いころの習い事で出来た傷痕。冬場だったからか、少しささくれが目立つ。
俺が同じ投稿をしたらどれくらいの反応が貰える?
俺の中でこと切れたのは、そこからまた1か月後のことだった。
そのとき、俺は1時間くらいかけたカラーラフのイラストを投稿していた。
少し手心を加えたカラーラフは労力の割に結構伸びる。フォロワーが勝手に完成形を想像、補完し、期待を膨らませる。
すぐさまイイねがつく。いつも通りの伸びだ。いまだに通知欄に溜まる数字を見ると心が高鳴る。この数字は俺の努力に対する報酬だ。
作品が売れるのも嬉しいが、拡散され、俺を知る人間が増えるのはもっと嬉しい。
肯定でも否定でも、コメントがつけば心が躍る。それがアンチでも、無視されるよりよっぽどいい。
通知欄を眺めていると件のアカウントもイイねをつけてくれていた。この前のネイル投稿以来、考えないようにしていたのだが、久々にアカウントを覗いた。
フォロワー数は四桁に達していた。ファンボックスなんかも始めている。いつも通りメディア欄を確認した。
そこには、セーターとスカート姿の首から下の自撮り写真があった。
300イイねくらいついていたか?
俺が、それくらいのアカウント規模の時は、300イイねも貰えなかった。
俺は、その300イイねを貰うために、様々な努力を重ねた。
休みが多く経営の安定している大手メーカーの内定を何とか勝ち取った。
二次創作はしてはならない。
消費者は作品を求めるのであって作者を求めていないと考えていたから。
それなのに、コイツは生まれ持った性別だけでこんなにも注目されているように思え、心底妬ましくなった。
そして、コイツにとって創作とは人生の一側面に過ぎず、それ以外は幸せで満たされ、煌びやかで充実しているとさえ思えた。
瞬間、今までの人生で抱いた不満や違和感の連鎖が始まり、俺の狭い世界は毒で溢れた。
女を強調したコンテンツばかりが伸びている。
卵子に群がる精子が如く、釣られた馬鹿な男たちが挙って金と時間を注ぐ。
俺のような男は才能があっても誰も見向きもしない。
結局は男の配下となり生きていくのに、どうしてそんな無慈悲なことをするのか?
大人しくしていろ。
俺は、世界は常に公正で秩序があり、自身は報われるべき存在の一つであると錯覚していた。
自身を正当化するため、自分の置かれた現実さえ捻じ曲げながら生きていた。
時間にして数分だったと思う。何か夢を見ていたような気がした。
そして、今までの人生がとんでもなく惨めに思えた。
エロ漫画家になりたいと思ったのは、学生時代の寮生活で貸してもらったペンギンクラブというにエロ漫画雑誌に心を動かされたからだ。
エロ漫画家に憧れるなんて変な話かと思うかもしれないが、モテない男たちが漫画雑誌を片手に賑やかに談笑する様を見て、もし俺の描いた漫画でこんなに楽しいひと時を作れたらどれだけ幸せだろうと思えた。本当に当時はそう思った。
できない、やらない理由を創作に押し付け、自分の人生を犠牲にして皆を笑顔にしているのだと本気で思っていた。
結果、エロ漫画を利用してチヤホヤされたいだけの、小さな世界に閉じこもった醜く浅ましいミソジニストに成り果てていた。
疲れても苦しくても、ネームを描き、作品を仕上げていたのは読者のためではなく、肥大化した自己愛をどうにかして慰めたかったからに他ならない。
俺はただ、誰かに認められ、愛されたい人間であることにようやく気がついた。
俺は今でも創作を続けている。もう習慣になってしまっているから。
VRChatでフレンドの話を聞いてVR演劇に興味を持ち、VR演劇のYoutube配信アーカイブを少し見てみた。
あらかじめ言えば、全編見るには耐えられず、飛び飛びで表現を確認しただけである。
ちなみに、実際にVR演劇をVRで1度だけ見たことがあり、それは全編見た。
私自身の演劇の関わりを話すと、学生時代は演劇が好きで、多いときは年間60本程度観劇し、自分で舞台を演出したことも何度かある。
最近は全く関わっていないけれど。
それで、VR演劇を見てみた率直な感想をいうと、現状ではVRで演劇の良さを表現できているとは思えなかった。
まず、個人的な考えとして、VRにも関わらずプロセニアムアーチの中でやる芝居はナンセンスだと思う。
正直言って、今の技術ではアバターにどんな細かい演技をさせたところで、リアルな人間から出るオーラに比べて、アバターから伝わるものは100分の1も満たないと思う。演技自体に魅力を感じない。
にも関わらず、VRという空間にもかかわらず舞台と客席をわざわざ分けて見れる部分を限定することは、あまりにもリアルに比べて不利な条件で戦いすぎていると思う。
勝てる要素がないどころか、演劇の魅力を一切表現できず、下手なお人形遊びを見せられているようにしか思えない。
お人形遊び感を更に増しているのが、アバターの統一感なさである。
アバターを統一感を持たせるのは大変だということはもちろんわかっているが、美少女とおじさんのアバターのテイストが違いすぎて、違うおもちゃの人形を使っている感がすごい。
前述のとおり、細かい演技も表現できないから、余計におもちゃ感。
それをカバーできる演技力もないから(当然で、一流のプロでも難しいと思う)、見るに耐えない。
そんな悪条件のなかでわざわざプロセニアムアーチの中で勝負する意味はどこにあるのだろうか。
やるだけ無駄。演劇の魅力を伝えるどころか、ただでさえ受け入れられていない演劇をよりつまらないものとして発信しているように思える。
その打開策として、最初は劇場のワールドだけど、開始すると劇場が壊れて、舞台セットが現れるといった演出を行っているのもあった。
プロセニアムアーチの破壊としての演出自体には、VRならではの表現方法としてなるほどとはおもったけれど、どうやら客席自体は固定で、観客は結局固定した位置から見ることしかできないみたいであり、プロセニアムアーチ自体は破壊しても、本質的な第四の壁の破壊にはならず、結局は同じことやっているなと思ってしまった。
第四の壁の破壊を目指したものとして、体験型VR演劇と銘を打った作品があり、これはなかなか挑戦的だとは思う。
観客自体がワールドを移動しながら、また物語としての役割を与えられて、役者から行動を促されながらストーリーが進んでいく。
これはVRだからこそ作りやすい作品ではあると思うし、VRならではの演劇を目指そうという気概は感じられた。
ただし、こういった体験型コンテンツというのは、現在はリアルでも相当アプローチをかけられている分野で、ネットコンテンツが全盛な今、リアルの生き残る可能性として大きく取り扱われているものだと思う。
単なる体験型として見ると、インターネットコンテンツとしては挑戦的かもしれないけど、やはりリアルコンテンツと勝負するとどうしても分が悪い。
もう一歩踏み込んだ演出がなければ、これも正直VRならではなものとも思えない。
VRでリアルに勝てる可能性のある分野はリアルでは再現できないほどの視覚表現を駆使することだと思うが、これは映像アーティストが本腰入れたらできるものであり、VR演劇を行うような団体でそれを駆使するのは、まだ厳しいと思う。VR演劇のほとんどは無料で、参加者の自己表現の範囲内だから、予算のかかることは難しいだろう。
映像アーティスト志望の人がVR演劇に可能性を見出してくれるような魅力を表現できれば、そういった道もできてくると思う。
現状でいえば、VR演劇は実際の演劇の何段も劣る環境下で、同じ舞台で勝負している印象があり、これでは勝負にならないどころか、演劇の魅力がほとんど伝わっていないなと思う。
もっとVRならではの視点での演出や構造を表現してくれれば、VR演劇の可能性を感じることができるのだけれど。
個人的には、VRならではの演劇演出というのは一つ思いついているものもある。
演劇ならではの良さを、更にVRで伸ばす事ができるという視点があると思う。
そんなに特異な演出ではないから、すでに誰かがやっていると思うし、もしかしたらうまくいっていないのかもしれない。
これについては、もう少しちゃんとVR演劇を見て、有効性が確信できたら書いて見るかも。
ちゃんと傾向がみえてきたら、VR演劇論的なものもできてくるんだろうね。
VRならではという意味では、まだまだ課題はたくさんあると思ってはいるけれど、私がVRChatを始めたばかりの2年前に見たVR演劇はVRとはまた違った視点で可能性を感じたことがある。
その演劇自体は、舞台上で行われる普通の舞台で、第四の壁を破壊する行為として、キャストが観客に語りかける演出があった。
それ自体はリアルな演劇のアプローチと一切変わらないものであったが、観客の反応が違った。
そのキャストが観客に語りかけるシーンは、登場人物の少女が競売にかけられるといった内容で、キャストが観客に対して「◯◯円からです。オークションスタートです」みたいなセリフ?(うろ覚え)を言って、観客を競売の参加者に見立てて問いかけた。
これがリアルならば、ほとんどの場合は観客は反応せず、あたかも観客が競売しているかのようにキャストが装い、劇を進行させることが多いと思う。もしくは観客に仕込みをいれるかだ。
でも、VRChatは違った。
観客が突然ロールプレイを始め「いくらだ!」「この娘ならこれくらいの価値はあるはずだ」みたいな声を上げ、演技をし始めた。
多分仕込みではなく、自然発生的に観客がキャストになったのだ。(仕込みだったら申し訳ないけど)
VRChatを行っている人がロールプレイをして遊んでいる人が多いからこそ、発生した事象だと思う。
また、それを行うことが許される空気がVRChatにはあるのだと思う。
いくらロールプレイに慣れている人でも、リアルの舞台で振られて、観客席からそのようなことができる人は少ないと思う。そして多分リアルだとその行為自体を嫌がる観客も少なからずいるだろう。
私はここに、新たな第四の壁の破壊の可能性を感じることができた。
これ自体はVRじゃなくてもできることであるが、ロールプレイという訓練をされた観客、また観客がロールプレイをして許されるという空気感。
これはリアルではなかなかできなかった文化の形成ができているということで、リアルよりもVRが進んでいるものだと思う。
これは反応がなければ白けるだけのリスクある演出だけれど、きっと演出側は観客がロールプレイをしてくれるという信頼の元行ったものだと思うから。
とにかくこれにはすごく感動した。
ライブのコールアンドレスポンスのような観客との一体感を演劇で出せるとは。
この舞台と観客の一体感というのは、ライブだからこそできるものだ。
そして、ライブ感というのはリアルに比べてVRではいろんな要素の欠落から、劣ってしまう部分がある。
けれど、観客側のアプローチによって、そのライブ感は現実にも勝る可能性を秘めていることがわかった。
演劇における観客との双方向コミュニケーションは、常に課題として挑戦されている分野で、それを解決できるなにかを感じ取れた。
今はまだ厳しいVR演劇というコンテンツだけれど、VRならではの演出と双方向コミュニケーションで、リアルを超えるような演劇体験ができるようになったらいいなと思う。
ただ、VRChatはすこしずつ流行ってきており、一般的なコンテンツとなってくると、参加者自体も一般化し、こういった要素は薄まってくるのかもしれないという危惧もあるけれど。
辛辣な感想にはなってしまったけれど、私がみた作品のクオリティが低いだけな可能性ももちろんあるので、良いVR演劇があれば教えてほしいところ。
余談だけど、VRのピアノの演奏イベントにいってきて、音楽はVRでもかなり楽しめるなと思った。
演劇の俳優は単純に技術の低い人が多いというのも大きな要素なんだとおもう。
演技は定量的な技術の積み重ねで表現するのが難しい分野なので。
音楽はある程度定量的な技術の積み重ねで行ける部分があるからこそ、定性的な表現の域に達している人も多いのだろうという印象はある。
演技も定量的に技術力がつけばいいのだけど、いろんな演技法があってもそうなっていないのが現状だと思う。
まあ、役者自体が他のジャンルに比べて、勉強不足ということも大いにあるのだけど。
ある人気漫画家が「障がい者ネタツイート」をした後、妹が自◯しました。
そのツイートはコロナ禍より前に投稿され、自◯はその数年後の出来事です。
4つ歳の離れた妹は「境界知能」でした。
いわゆるグレーゾーン。
本当にざっくりではあるのですが、『初恋、ざらり』や『君と宇宙を歩くために』の子たちをイメージして頂けると分かりやすいかと思います。
妹は成績面で不安はあれど生活面ではさほど問題がなく、進学も本人の努力と周りのサポートで上手く行き、周りも妹自身もあまり困難を感じていなかったため療育手帳を取得したのは高校卒業後でした。
進路や就職などで彼女自身が困難を感じ始め、医師や支援センター等に相談し、今後の人生を考えての判断でした。
取得の際、過去の発達傾向の証明が大変だったり、精神障害者保健福祉手帳の方が良いのでは?と悩んだりなど色々ありましたが、ここでは割愛いたします。
妹は最初、いわゆる「手帳持ち」になることに対して悩んでいました。
バイト先で複雑なことが出来なかったり、会話中に何を話しているか分からなかったりなど本人も自覚している部分はあったため、「今後のために必要なもの」と自分でも希望しつつも、心がついていかない状態でした。
友達にも変に気を使われたり、また「手帳持ちだ」というだけで心無い言葉を投げてくる者もこの世にはいます。
妹の辛さ生きづらさを理解して、私は彼女にしっかり寄り添って行こうと誓いました。
とは言っても何か特別なことをするわけでもなく、妹が心無いことを言われた際には「うわ最悪だったね」と一緒に愚痴を言い合ったり、気分転換に一緒にテーマパークへ行ったり、お店で見つけた美味しいものを一緒に食べたり、そんなふうにとにかく「普通の姉妹の日常」を大事に過ごしていました。
「寄り添う」というのはそれで十分なことだと思っていたのです。
「犯人の気持ちも分かる」「障がい者には生産性がない」「手帳持ちは寄生虫」などなど、世間に心無い言葉が溢れました。
もちろんほとんどの人が事件をあってはならない悲劇として捉え、そして心無い言葉を咎めてくれたかと思います。
妹は塞ぎ込みました。急に世間がみんな敵のように思えたとのことです。
また、「自分と◯された人たちは全然違うから大丈夫」と差別的に考えてしてしまう自分自身にも嫌気が差したようです。
真っ直ぐで優しい子です。本当に。
ところで言い忘れてましたが、妹は私や親の影響で結構オタクでした。
妹は事件からしばらく経った後、当時スタートした女性向けのとあるコンテンツにハマり「推し」を作ることで回復しました。
具体的なコンテンツ名は明記しませんが、女性向けですので見た目と声が良くて個性的な男たちがたくさん登場するやつです。
私も妹と一緒にハマって、CDを購入したりイベントに参加したりと楽しくオタ活をしていました。
世間の心無い声も、夢中になれるものがあれば聞こえてこないぞ!とでも言うかのように、妹はみるみる元気になりました。
そしてファンの方々の二次創作品も拝見させて頂いておりました。皆様その節は、素敵な作品をありがとうございました。
二次創作といえば性的なものもあるかと思いますが、障がいがあるからといって妹をそこから遠ざけることはしませんでした。
むしろ姉妹でオープンにすることで、何か間違いなんかが起こりそうな時に助けになれると思っていましたので。
よくいるオタクで腐女子な(便宜上そう書きますが、この言い方も最近は良くないんですよね。ごめんなさい。)姉妹だと思ってください。
そんな感じで、妹は幅広くAくんの魅力的なファンアートを描かれている方々をフォローしており、その中に「ある漫画家」さんもおりました。
ところがある日、その「ある漫画家」さんが、
「交通機関内でテンション上がって騒いだCくんが障がい者割引にされちゃった話」
といった感じのネタツイートを、フォロワー多数のツイッター上に放ったのです。
Cくんは、元気で明るいウェイ系のキャラクター。(心の内にはトラウマを抱えている等の裏もありますが、ここでは割愛します)
「その明るさゆえの異様なテンションが知的障がい者と間違えられちゃった。面白いねw」という意図の投稿のようでした。
バリアフリーの一環である割引制度を揶揄するだけでなく、障がい者への偏見を助長する投稿だと私は感じました。
もちろん、こういったブラックジョークを言ってしまうことというのは誰でもあり得るとは思いますし、この発言だけで差別主義者だとかは思いません。
実際、その漫画家さんご本人も所属されてる出版社もファンの方々も、その発言をあまり重くは捉えていなかったと思いますし、悲しいけれどそういうものなのだと思います。
しかしこれは、妹がやまゆり園の事件で受けた心の傷がまだ癒えていない時。
妹の心の拠り所となっているコンテンツのファンコミュニティで。
タイミングも状況も何もかもが最悪だったのです。
妹は限界でした。
バイト先での失敗を「◯ちゃんの真似~」と笑われながら真似されたこと。
要領を得ない会話をしてしまったときに、「お前ガ◯ジだなw」と言われたこと。
「自分と◯された人たちは違う」と考えようとしてしまったこと。
そういった辛い記憶が一気に押し寄せました。
楽しく好きな世界で過ごしていても、そんな気持ちに陥ってしまう。
妹は自分の存在に耐えられなくなり、「消えたい」と言いました。
そこから私たちは大好きだったコンテンツから離れ、心の防波堤を築くことに注力しました。
一緒にゲームを楽しみました。お家で映画も見ました。これまで通り姉妹で過ごす日常を大事にしました。
映画館やテーマパークは「障がい者割引」のことを思い出すから(また、コロナ禍もありましたし)断られてしまいましたが、そうでないものは妹も進んで楽しもうとしていました。
この世には楽しいことはたくさんあるし、無神経な言葉なんて無視すればいい。
しかしその数年後、その「ある漫画家」さんの作品がアニメ化されたのです。
それまでの間も全く視界に入れないことは難しくはあったのですが、映像化による世間への影響力は大きく、また、文字や絵ではなく映像で視界に入った際の精神への影響は大きいものでした。
「またあんなことを言われたらどうしよう」「心の内ではみんなに馬鹿にされていたらどうしよう」
「私みたいなのがAくんやコンテンツを好きになったのが良くなかった。」
「昔のことをずっと引き摺っていてごめんなさい。お姉にもオタ活辞めさせてごめんなさい。」
以前のように塞ぎ込みながら、そんなことを言っていました。
コップに熱湯が一気に注がれたような状況でした。
湯が溢れ出るだけでなく、熱でガラスが割れてしまいそうな緊張感。
申し込んでいたカウンセリングの予約日がもうすぐだという時に、妹は自○を図りました。
当時は医師や看護師の方々へも「救えなかった」という憎しみが向いてしまっていましたが、今思い返すと、まだコロナ禍の真っ最中に皆さん頑張ってくださっていたと思います。ありがとうございます。
とにかく、このようにして、妹は帰らぬ人となりました。
フラッシュバックより前はまだ、姉妹と友人でゲームだってやってたんですよ。
当時はまだスプラ2。あの子はマニューバー系をよく使っていて、そして上手でした。
『嫌な出来事を払拭し、自分の人生を明るいものにするために。』
つまり私がすべきだったのは、やまゆり園の事件の時、心無い言葉に向けて怒ることだったのかもしれません。
そしてあのツイートが投稿された時、「ある漫画家」さんに怒りの声を上げることだったのかもしれません。
五月蝿いお気持ち女と揶揄されても、厄介クレーマーだと嗤われても、その言葉で傷つく人がおり、一生引き摺ってしまうものだと声を上げ、妹と、妹のような子が、「え~そんなに怒らなくても~そんな気にしてないし」って逆に引いてしまうくらい、私が怒るべきだったのかもしれません。
いえ多分そうすべきだったんです。妹の嫌いなものが「世界」ではなく、「私」だったら彼女はまだ生きていたかもしれませんので。
温厚でいることで妹を笑顔に出来ると思っていました。
今は、ただただ、後悔があります。
どうか妹が天国か生まれ変わりか、笑顔で幸せでありますようにと無責任に願いながら、こうして今更何にもならない文章を残すことしか私には出来ません。
※こちらの投稿は「ある漫画家」さんに責任や謝罪を求めるものではありません。原因や責任は第三者にあるのではなく、きちんと対応出来なかった自分達にあると自覚しております。
すみませんついうっかり少し目にしてしまったのですが、現在その「ある漫画家」さんは作中でマイノリティの悩みを描いたりと、人権派なことをされているそうです。さすがに驚いてしまったので追記します。ブラックジョークを言う芸風を貫いていらっしゃるならまだ腑に落ちるのですが…もちろん誰が何をするのも自由ですし、極端な例ですが「元いじめっ子だったけど今は慈善活動をする良い人になっている」というケースも現実にはありますよね。でもどうしても、多様性とかポリティカルコレクトネスとかを謳う漫画家に不信感が湧いてしまいました。
だって、冒頭でタイトルを出させて頂いた『初恋、ざらり』や『君と宇宙を歩くために』のように、妹のような障がい当事者の目線を拾い上げようとしてくれる漫画家さんも、『スキップとローファー』のように、災害被害への支援など慈善活動をされている漫画家さんも、『作りたい女と食べたい女』のように、プライドフラッグを掲げてレズビアンやトランスジェンダーの権利を訴える漫画家さんも、『とんがり帽子のアトリエ』のように、世界で起こる虐殺や差別にNOを言う漫画家さんも、影では「交通機関内でテンション上がって騒いだ人が障がい者割引にされちゃった話」とか平気で言ってる可能性もあるってことですよね。
ちょうど道路公団から今のNEXCOになりかけの頃に家族でよく利用していたんだが
レストランもおしゃれになっておいしくなっていくのが目に見えて楽しかった
関西から東京までの道中でほぼすべてのSA・PAに寄って買い食いをするのが楽しかったことを今でも覚えている
浜名湖にはうさぎがいて驚いたり、ゲリラ吹雪で立ち往生して多賀の温泉に入ったりまるでテーマパークだったわ
海老名はフジサンケイグループが出資していたのか民営化直後からやたらとバブリーだったイメージがある
その頃のフジテレビは今と違って飛ぶ鳥を落とす勢いだったんだよな
デート観が「遊園地に行って観覧車のてっぺんで夕日を見ながらキスをする。やっぱこれっしょ!」しかない知人
東京ディズニーランド・シーに観覧車が無いことに驚いていた
府中にあるジェイルランドに行ったことがある。遊園地というよりはキッザニアみたいなテーマパークといった様相だった。雰囲気は暗くて、楽しいことは全くなかった。
広島や函館にも似た施設があるという話で、そこの卒の人とも話したことがあるが、塀の外は全部遊園地みたいに明るくて楽しく感じられるということで、意見の一致をみた。
丸2年が経過したので雑感
私事ですが、つまるところはディズニーへ行かなくなって丸2年が経過しました!!年50回は行ってたコロナ前の私からすると考えられない天変地異みたいなもんですね。
ということで双方似ている点も異なる点もあるので思ったこと適当に書いておきます。ディズニー側の情報に関しては完全に人伝なので古い可能性が高いのですが悪しからず。
・年パスもう要らないよ
圧倒的にコレ。寂しいですけどね、ひと頃のDオタとしてはね。
意外と年パスユーザーだった往年のオタクたちの中には「もう年パスは不要かな…」という層が多かったりします。復活して欲しいという声が根強いのは案外「年パス取扱時期に"買いたかったけど買えなかった"人たち」のような気が。
「もう慣れたから」
という辺りの雰囲気が強そうですね。
そう、結局コロナの前後に関係なくちゃんとディズニーが好きで、あそこを「替えの効かない場所」だと思っている人たちはどのみちパス代にしろパーク内諸費にしろ払うべきものは払ってきたし、今後もそうしていくわけです。オ社側もそういうオタクのことはちゃんと「お客様」として歓迎したい筈です。
結局のところ年パスの何が良かったかと言えば「最初に5〜10万円払えば1年間パーク入り放題だった」という点なのですが、裏返せば年パスにはこれ以外の機能が一切存在しません。なので年パスが無くなったからと言って変化することというのは思ったより少なくて、蓋を開けてみれば「一括払いにしていたパス代が都度分割になった」くらいの感覚差程度に落ち着きつつあるのでしょう。
実際、共通年パスは概算で月に1回程度インパすれば元を取れる試算での価格設定がなされていましたが、考え方を変えれば「月1回程度であればパス代を都度払いしても年パスを持っていた頃と額面はさほど変わらない」というわけです。ネットでの購入手続きが多少挟まる程度ですから面倒も思うほど多くありませんし。
個人的に思うのですが、今現在年パスが無くても困ることなくインパしているDオタたちがコロナ前どう過ごしていたかというと「月1以下の頻度で事足りていた人々」「遠方勢でそもそも回数を積めなかった人々」もさることながら、「パスがダブるのを承知でバケパの世話になることが多かった人々」というのも居たんですよね。首都圏在住で日帰り出来るけどバケパ課金してパス代も宿代もその他の費用も幾度となく出してきた、そういう人々が。
こういったDオタたちにとって年パスの存在はそんなにウェイトの大きいものではなかったんだと思います。そもそも年パスを持ってないか、持っていてもパス代を追加で出すくらいですからね。
それで結局、こうしてそれなりにまとまった金額をコンスタントに支出する真っ当な「お客様」たちは、年パス所持の有無に関係なくさほどダメージを受けることなく現在も元気にDオタとして活動されているようかもしれません。雑な言い方で恐縮ですが、「懐に余裕のあるゲスト」であればコロナ前とあまり変わらずオタクとして振る舞えるし、オ社もそういう人を招き入れたいわけで利害関係が一致しているのですよ。
一部の年パスユーザーの中には「自分たちの存在がパーク運営を大きく支えている」と豪語する人々も少なからず見受けられた過去がありましたが、本当のところを言えば年パスとその単純な所持者たちにはポジティブな影響力など殆どなかった可能性すらあるわけです。
Dオタアクティブ勢の事情としてはそんなところでしょう。まあ私が「年パス要らないよ」という理由は「もう用事がないから」なんですけれども。私自身ももう昔みたいに年10回20回それ以上のインパを必要とする身では無くなりましたので、「行きたくなったら年1程度でも良いかもな…」と思うなら年パスはもう御役御免です。
・年パスが無いと困るようなオタクは条件の良い界隈への移動が大凡済みつつある
「1年間入り放題」というだけのシンプルな設計ながら、当時の年パスの用途は案外と多岐に渡りました。「晩ご飯のために夕方からインパする」というのは割と有名ですが、「パーク内外でウォーキングをするため」「終日空いているレストランの隅で涼みながら勉強や作業に没頭する」「昼休憩と前後の空きコマを活用し大学を抜け出して昼ご飯やショーパレを楽しみたい」なんていう使い方もできました。
しかしこれらは副次的なもので、年パスを購入したDオタたちの大半が年パスに見出していた価値といえば、推しキャラに会えなかったり塩対応だったり、天候その他の事由によりショーパレがキャンセルになってしまったりという「体験価値の低下に対する『年パスあるし明日明後日また来れば良いか』という保険」の側面が一番強かったのではないでしょうか。
なので年パスが無くなったことに関するDオタ的な最大のデメリットは「保険が無いので軽率にリテイクが取れなくなった」というところになると思うのですが、しかしよく考えてみれば、これがDオタをやっていく上で致命傷になってしまう層というのは実はかなり少数派なのかもしれません。
例えばミキオタやミニオタ。彼らはインパすればショーパレに固定のグリ施設、場合によっては路上整列グリに至るまで推しに会えるチャンスというのは様々存在します。どんなに運が悪かったとしても「ミキミニを一度も見かけることなくパークを出る」方が厳しいのはご想像の通りでしょう。エントリーを全て外したならパレルで粘るかグリ施設を鬼ループすれば最低限の満足は得られる筈です。規模感に差はあるものの、ドナオタやデジオタも同様でしょう。
しかしこれがチデオタの話になったらどうでしょうか。今でこそジワジワと彼らの活躍の場も戻って来ていますが、コロナ休園明けのチデオタはなかなかに辛酸を嘗めたものでした。
①ドリミから丸ごと干されそのまま終了
②海で唯一の固定出演だったハロニュが復活せず終了
④グリ施設がない(ウエスタングリは人が集まり過ぎて一瞬で爆散した)
如何でしょう。マウビが始まって多少用事は出来たものの、それまでチデオタは両パークに対してマジで何も用がなかったわけです。結局マウビや海ジャンボリがあったとしてもどちらもエントリー制なので外れたら用無しですし、フリグリは必ず捕まえられる保証がありません(コロナ禍なら尚更)。
前者ならば「保険=年パス」が無かったとしても幾らか即日でリカバリーが出来ますが、後者の場合そこに確実性がないため、結構な確率で「チデに終日会えないまま金だけ払って歩き回って終わる」という負けゲーを強いられる状況が発生し得るわけです。ここにミキオタと同じ金額は出そうとは思えなかった心情を、どうにかご理解いただきたいものです……(チデオタより)。
チデと同様に「コロナで姿を消したキャラクター」は少なからずいたと思いますが、チデほど露骨に消えたキャラは他に居なかったのではないでしょうか。ショーパレに確定で出ず、フリグリ出現も怪しいキャラクターというのは元々多く存在します。何ならBIG8以外は全員そうでしょう。しかし元々そうであれば「BIG8のオタク」と「その他のオタク」では根本的な立ち回りと心構えが違ったように思います。「行けば会えるから会いに行こう」と「会えたらラッキーだから目的にし過ぎず楽しんで行こう」の違いですよ。コロナ前のチデは前者だったのが、コロナを機に一時期後者になってしまったわけです。
良し悪しの話ではありません。BIG8のオタクは、言ってしまえばアイドルオタクと性質的にはさほど変わりません。「行けば会える推し」が、パークに関わるすべての行動の目的そのものになっているのです。チデオタはその意味で、ある時突然に「目的」を奪われてしまった、ということなんですね。当てもなく彷徨い金を使い倒せるほど、誰も彼も持ち物を余らせているわけではないですよね…?
それでも中には、数年にわたる辛い時期をグッと耐え忍んで、今でもチデオタとして頑張っている方々も少なくないでしょう。それは彼らにとってチデが「他に替えの効かない存在だから」に尽きると思います。尊敬します……本当によく頑張ってこられたと思います。反対に私は「頑張らなかった側」なので…。私にとって10年間の最推しだった筈のチデちゃんは、哀しくも「代替可能な存在」だったわけですから……。
こればっかりはもう、個々人のオタクとしての在り方次第になってしまうと思います。現場回数を稼ぐために年パスを信頼していた私のような「ローコストで体力気力の限り現場をブン回したいオタク」と、オ社が求める「たまにの1回に"全力"を出してくれる"お客様"」とでは相性があまりにも悪い。私のようなオタクは最早、ディズニーリゾートに於いては「招かれざる客」になってしまった、そういうわけなんですね。
しかし、そういう経緯でディズニーからはみ出し者になってしまったこの私にも、そのままで転向できる新天地が存在したわけです。それがプロ野球マスコットの世界。結果的に私は冒頭の通り(オタクだったのに)丸2年もディズニーへ行かなくなり、代わりに野球場へ赴くようになったわけですが、私と同じように「年パスが無いとやっていけないオタク」たちは皆もう何処か異なるコンテンツへ良い加減に移住が完了している頃合いではないでしょうか。もし年パスが無いことに未だに困っているDオタが居るとしたら、厳しいですが恐らく巣立ちの時だと思いますので、他に楽しいことを見つけてみるのも一手かもしれません。
体感ですが、とにかく現場をブン回したい私のようなタイプのオタクであれば、回す現場や対象物は実はそんなに重要じゃなかったりするわけです。「割安で楽しく対象物と触れ合いたい」という風に簡略化すればコレ、別にディズニーじゃなくても野球場や他のテーマパーク、振り切れば地下アイドルだって全然良いわけです。
10年前のディズニーすら余裕で凌駕してくる(但し球団による)。
凄いですよ、根腐れしそうなキャラオタ皆マスコットオタに鞍替えすれば良いのにとさえ思う。非常におすすめです。
私自身は野球マスコット専門なので他のことはあまり詳しくないのですが、恐らくサッカーやバスケのプロチームにもマスコットは沢山います。川崎のロウルくんとかめっちゃ可愛いよ。なので地元チームのマスコットを応援するところから始めてみるのもアリじゃないでしょうか。
②5〜6時間で退散できる
④ちゃんとグッズもある
⑥それなりに通えば認知してもらえる(かも)
①③⑥はDオタならかなり嬉しいポイントではないでしょうかね。少なくとも私はそう思う。
細かな金額に関しては球団次第でピンキリですが、最安値で抑えるならいずれにしてもコロナ前のディズニーより入場料は遥かに安いです。外野席とか天井席なら1000〜2000円台だからね。
或いは千葉ロッテマリーンズのZOZOマリンスタジアムや阪神タイガースの甲子園球場なんかは試合前のマスコットショーを場外で行ってますので、何とやろうと思えば完全無料でオタ活が出来ちゃいます。良いんですか??
そうでなくてもマスコットと触れ合う機会は(本来キッズやファミリー等を想定しているであろうだけあって)チケットの種別に関係なく同等に与えられていますので、「兎に角中に入れれば良い!」と割り切るならコスパ最強です。
勿論もっとチケットに金額を出して座席に拘れば、試合中に動き回るマスコットを直近で拝むことも可能です。
②5〜6時間で退散できる
野球場は大体試合開始の2時間前に開場し、マスコットショーやふれあいイベントを経て試合開始、途中何度かマスコットの登場シーンがあったり、或いは場外でふれあいイベントを行ったりして3〜4時間以内には概ね試合が終わります。そう考えると余程長丁場でない限り、1回の現場は最長5〜6時間程度で終了することになります。勿論マスコットや自分の都合、天候などに合わせて遅く来たり早く帰ったりも可能ですし、先述の「無料でオタ活できる野球場」であれば最短5〜15分で退散移動が実現します。
仕事帰りや学校終わり、休みの日の午後用事前にちょこっと……ができるのも嬉しいポイント。
先述の通り、野球場で行われることやタイムスケジュールには大体決まった形が存在しているので、ディズニーのようにスケジュールのバラつきが生まれることはまずありません。「このタイミングに何処で誰が何をしている」というのが慣れればすぐ分かりますので、色々と余裕を持って行動することが可能。これは各球団のふれあいイベント(所謂フリグリ)に関しても概ね同様ですが……ルールはディズニーと同じです、具体的な時間と場所は是非ご自身でお確かめくださいね。譲り合いもお忘れなく。
④ちゃんとグッズもある
各球団マスコットの個性的で可愛いグッズも沢山あります!ブラインド仕様のランダムグッズからぬいぐるみ、プラッシュ、バッグ、その他諸々。野球場らしい文字入りフェイスタオルやKPOPにありがちなスローガンタオルがラインナップされているマスコットも中には存在します。グッズ欲を満たしたいオタクにもおすすめ。因みにぬいぐるみ系に関しては大体ディズニーの半額程度で買えたりします。安い!
各球団は1年を通して頻繁に限定ユニフォームをリリースするので、それに合わせてデザインチェンジを施した限定グッズも続々登場します。そして在庫さえあればシーズン後半やオフシーズン、次シーズンに入ってからもオンラインで購入できるのも有り難いところ。後から「あれ欲しかったな…」ってなることあるもんね。
野球マスコットのオタクをする上で外せない醍醐味といえばコレ。先述のロッテの「マーくん」と東京ヤクルトスワローズの「つばみ」の恋模様(?)はあまりにも有名。埼玉西武ライオンズの「レオ」は妹の「ライナ」に対し異様なほどのシスコンぶりを発揮したり、福岡ソフトバンクホークスの「ハリーホーク」や北海道日本ハムファイターズの「B・B」と何やら名状し難い関係性を披露したり、ヤクルトの「つば九郎」と中日ドラゴンズの「ドアラ」で毎年のようにディナーショーを敢行しチケットが即完売になるなど、どのマスコットも非常に個性が強く、遠征交流やオールスターゲーム等で顔を合わせる度に関係性がジワジワと変化していくリアル感はディズニーで絶対に味わえない野球マスコットならではのポイントです。グミニとかそういうのにうっかり惹かれちゃう人、どうでしょうか。
⑥それなりに通えば認知してもらえる(かも)
これは本当に場合によりけりですが、何度か会いに行くうちにこちらのことを覚えていてくれる有り難すぎるマスコットも結構います。勿論そこに最初から期待するのはおすすめ出来ませんが、フリグリ中に近況を聞いてきてくれたり、向こうから積極的に来てくれたりすると球団に金を落とすモチベーションが爆増します。(それでもディズニーより安く済むのが尚のこと有り難い)
タイミングが良ければワンショットでポーズ指定が出来たり、ショートムービー撮影で任意の動きを(常識の範囲内で)お願いできる場合もあり、フリグリの自由度がディズニーより遥かに高いのも嬉しいですね。フリグリ完全依存の元チデオタとしては尚更ね。
但し「つば九郎」や「ドアラ」のように選手顔負けでファンの多いマスコットたちに関しては個別ファンサがどうしても難しいですし、すべてのマスコットが同じくらい手厚くやってくれる保証は全く無いですから、基本的にはマスコットたちの成すがままに合わせるくらいが丁度良いでしょう。
こんな感じで、コロナ禍を辛く暮らした元チデオタの私ですが、今は自分に合った最高のコンテンツと出会い、ディズニーを離れて楽しくオタクを続けています!こんな生活も早2年!
野球場に年パスのシステムは(基本的には)ないので都度払いでも気にならないですし単価が安いですし、他にも良いこと尽くしで最高!オフシーズンで冬場に音沙汰が無くなるのだけが寂しいですが、野球がなくてもバスケとかはあるので二毛作も大いにアリでしょう(私自身に今のところその予定はありませんが)。
オタクとして若い10年の日々をディズニーに注ぎ込んだことは今では良い思い出です。もう真性のDオタでは無くなりましたがチデのことは今でも人並みに好きなので、その気になったらまたいつか会いに行きたいな〜、と思っています。
Dオタのみんな〜!いつもお疲れ様〜!
値上げとかホスピタリティとか色々大変だろうけど無理せず自分最優先してね〜!!
お互い楽しくオタ活続けてこうな!!
好きなアニメの原作者(監督)が差別発言した、テーマパークの対応、従業員、施設、会社が悪い。
私自身は匿名性のあるブログでこんな愚痴を書く小心者だからこそ、声の大きい人間が恐ろしい。
差別発言は確かにいけないことだが、作品まで嫌いになるのであれば作品から離れるべきだと思う。作品がそういうことを取り上げているからか、そういう方々が見ているのは重々承知している。だからこそ離れるべきだと思った。
私がこの作品で思ったのはあくまで作者の癖を書いているだけだということ。そういう方々用に作った訳でもなく、だからこそそういう方しか見てはいけない訳でもなく。癖を表すのにその表記が一番合うのだろうという感想だ。
そんなことに使うな!と声が聞こえてきそうだが、これは所謂ヘテロ恋愛作品にも言えるだろう。個人的にはそのくらいの感覚である。違うだろうが、これはあくまで個人的な感覚であり強要することはそれこそ差別ではないだろうか。LGBTQ+を差別する気は全くない。ヘテロの恋愛と変わらないと思っている。そういう方々はそれを望んでいるのではないのか?特別扱いこそ話が変わってこないだろうか。
原作者の差別発言に話は戻すが、確かにパワハラはいけないことだがファンに謝る必要があると思わない。法的措置や弁護士が絡んでいる可能性やデマの可能性もあるだろう。別の界隈で海外のファンやアンチが目立ちたくてデマを流した話を聞いたことがある為、可能性は潰せない。
それに謝れの連呼はどうかと思う。独断と偏見だが、そういう人は謝ったところで「そういう発言する原作者は〜」って言い出す。言い切れるくらいには自信がある。
テーマパークの愚痴は新しいエリアが出来てから見かけるようになった。確かに良くない点や改善点はあるが、バズるポストは下記の通り。
・嫌な対応をされた
この二つに関しては群を抜いてタチが悪いと思う。嫌な対応は、一番最初に入れるって言ってたのに!ホテルキャンセルしました!等も含む。
まず特別対応は、直近だと一部店舗でアレルギーメニューであるカレーを載せて、ここでカレー食べれますのポストや、キャラクターの鼻にサインを描くことを強要したこと等、ここ数日間でも上げたらキリがない。
確かに特別対応は気持ちがいいのかもしれないが、SNSに載せるものではないだろう。高貴な場所で高価なセットがある中でこの方法なら金を使いません!なんて言うのはナンセンスすぎる。個人的には本当に辞めてほしい。しかしバズる為にそういうことをする人は存在するのだ。
上記は承認欲求からくる一時期あったコンビニ店員の悪ふざけのようなものと同等の気持ち悪さがあるが、後者はそれにプラスしてご好意やご意見が追加される。それがいいものであれば良いが、私が見たポストの数々はそうでないものばかりだった。これに関しては様々な長文ポストがあるので割愛させて頂く。
これら長文ポストに言いたいのは、嫌なら見るな。年パスを持っていた有名俳優の一言を借りるのであれば、嫌いになるのはそっちの落ち度だぞ。