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はてなキーワード: 海水浴とは

2021-08-29

旅行が好きじゃない

コロナ旅行好きな人達が嘆いているが、旅行に興味のない自分からすると全くダメージがない。

自分旅行があまり好きではない。

国内の近場や、隣国ぐらいならともかく、いわゆる長旅は行きたいとすら思わない。

コロナ前に結婚していたが、パートナー新婚旅行結婚式を兼ねてヨーロッパを熱望していたのには割とうんざりした。

結局出発前にヨーロッパロックダウンし、旅行も式も流れた訳だが。

まず、移動費が苦痛だ。新幹線だの飛行機だの、座りっぱなしで長時間拘束されるのに、何万~何十万と払うのが納得いかない。

自費移動はできて2時間が限度。

自費でなければまあ我慢出来る程度だ。

ヨーロッパへの移動は16時間飛行機に乗って何十万も取られるのでそれが1番嫌だった。

移動費だけで国内の高級旅館滞在できてしまう。

ほかは、特に景色に感動がない。

かに建造物はまぁ素晴らしいと思うが、北斎天井画でも同じぐらい感動できるし、自然物にいたっては何か感情を抱いたことがない。

ものすごく美しい海も見たことはあるが、感想は「透明な海だな」ぐらいだ。むしろ気候の暑さの方が不快だった。

旅行の思い出も、遠出せずとも面白いことには面白い。何かに付随する思い出があるのはいいことだが、それは場所でもモノでも同じだ。

食べ物都内なら大体どの国の料理も食べられるし、庶民食生活資料を読めばそれで十分だ。

長々と書いたが、何が一番いやかと言われれば、この旅行が苦手というのを否定されたり嘆かれたりすることだ。

ちなみ全く海外旅行に行ったことがない訳では無い。ハワイ短期留学すらしていた。(推薦で自費ではないので行ってきた)

幼い頃に家族でも何度か海外へ行った。経験としてはいものだと思うがマストかと言えばそうでもなかろう。

ハワイで一度も海水浴していないと言ったら、物の見事に「もったいない」とブーイングを貰う。

海洋生物に興味もなければ、マリンスポーツにも興味は無いのだから仕方ない。

だいたい海水など肌も髪も痛むので御免だ。

旅行好きなパートナーが割と地雷で、あれこれ説得されるのが苦痛だし、魅力をとかれても実際に何も魅力を感じなかったことが実証されている。

旅行が苦手な人種に何を言っても無駄なので、大人しく全額旅費をもつか諦めるかして欲しい。

から、正直コロナで移動制限がかかっているこのご時世が心地いい。

海外旅行の話は出ないし、興味もない思い出話や素人風景写真を誉めそやす手間もない。

移動制限だけずっと続かないもんかなとは思ってる。

2021-08-24

今年の夏休み子供と一緒に海水浴に行けなかった

東京に住んでるんだけど神奈川千葉茨城海水浴場が閉まってる。

駐車場が閉まってるだけなので勝手に行って泳ぐこともできるんだろうけど。

去年の夏休みも行けなかったけど、まさか今年もダメになるとは。

たか海水浴だけど、長男来年から中学生なんだ。

たぶんこれから親と出かけることも少なくなるだろう。

なんか5-6年生って特別な感じがするんだよね。

遊びに行くとよくわかる。対等に遊べるというか友達感覚に近くなる。

しょうがないこととはいえコロナで失った2年は大きい。

2021-08-19

anond:20210819181817

学生のこと考えたらこその休校だけどね。

津波来てるのに海水浴やめないのと同じなんだから

2021-08-13

anond:20210813175313

なろう小説は娯楽だから温泉シーンとか海水浴シーンとか無意味あるじゃん落語うどんとかそばとか食べるシーンがあったりするのと同じ。

旅行行っちゃダメ

関東感染拡大地域に在住。

表題の通りだが旅行ダメかね、やっぱり。 

小学生の子供がいて、楽しみにしていた夏のレジャーキャンプ海水浴テーマパークが行けなくなってしまった。

ゴールデンウィークも楽しみにしていたが行けず、正月帰省できず、去年の夏も行けなかった。

夏のレジャーを楽しみに、がんばって宿題を早く終わらせていたので、キャンプ場も海水浴場もテーマパークも閉場と知って大泣きしている。

コロナから行かないかもしれないよとは話していたが、楽しみが勝っていたらしい。

そこで、県内の川遊びスポットくらいなら行ってもいいんじゃないか…と思ってる。

スポットまでの交通手段自家用車。ただ県内といえどだいぶ距離があるから、日帰り往復で運転するのはしんどい。できるなら一泊したい。

一泊するなら、高いけどもう部屋風呂と部屋食のところ予約する。

しかし、泊まるホテル部屋風呂、部屋食、移動は自家用車でも、たとえば途中でトイレ休憩で高速のSAに寄ったり、

外食する気はないけど、帰りの車中で小腹が空いてコンビニに寄ったりはすると思うんだよね。

こういうのはどの程度リスキーなのかなあ…

2021-08-07

栃木県民だが群馬コンプレックス

北関東民独特の感覚だと思うのだけど、栃木群馬茨城県民は互いに自分が上だと思ってる。

自分もその例に漏れず、栃木県こそ北関東のテッペンだと思っていた。

茨城県には親近感はあった。

あらゆる面で似てる。

茨城栃木と同じで観光アピールが下手だ。

他県からイメージ栃木餃子茨城干し芋くらいのもんだろう。

栃木県民だからって餃子が好きなわけでもなく、茨城県民だからって干し芋ばかり食べてるわけでもないが、他県からみたらそう思われてるのが現実だろう。、

製造業も、茨城は海、栃木県は東北道東北本線東北新幹線地理的には恵まれているのに、互いにパッとしない。

正直、HITACHIには嫉妬してるが、HITACHI本社東京だし、HITACHIカウントしなければ栃木県の勝ちだ。それに、今は県民所得としても栃木県が上なのだ

たぶん勝因は、茨城県民の自滅だと思う。茨城県民は怒りっぽく協調性がない。互いに足を引っ張りあってたから、平成の大合併まで村ばっかりだった。天狗党の乱から成長してない。

港を擁するからには、天下人を何人も輩出し東海地方を見習って欲しい。東海地方からトヨタホンダが生まれたのは偶然ではあるまい。

さて、前置きが長くなった。

故郷を離れて上京するまでは、群馬県のことなんてほとんど意識しなかった。

空気のような県であった。

海無し県の栃木県に生まれると、海水浴のために茨城に行くことはあるのだが(栃木海浜自然の家は茨城にある。租借地みたいなものだ)、群馬とはとんと縁がない。

草津伊香保くらいは聞いたことがあるが、温泉など栃木県内で間に合ってる。

焼きまんじゅうかいう具なしの小麦菓子があるとか、蒟蒻や葱を好むという情報は流れてくるが、別段憧れもしなかった。

群馬総理大臣を多く輩出したことは知っていたが、その中に特に思い入れがある人物もいなかったので、コンプレックスを感じることもなかった。初めて群馬の地に足を踏み入れたとき、道の広さに政治家の力を感じたがその程度であった。

群馬意識しだしたのは、埼玉生活圏にし始めたときだ。

思いのほか、埼玉はに侵食されていたのだ。

埼玉県民は牛を食べない。食卓は常に豚だ。

埼玉県民は蕎麦も食べない。蕎麦より小麦だ。未開人群馬県民みたいな食生活だった。

栃木県民は海無し県だというのに魚介類を好んで食べるというのに。

そしてロードサイドヤマダ電機栃木県の誇りコジマはすっかり埼玉から駆逐されてしまった。

カインズホーム群馬企業ベイシア系列と知った時は衝撃だった。

しかしたら、群馬は侮れないのかもしれないと思った。

それからだ、群馬企業を調べ始めたのは。

ベイシア系列ベイシアカインズホームオートアールズ、前述のヤマダ電機築地銀だこ、悔しいが強い。

栃木企業じゃ勝てない。

しかし、意識して見てみると、群馬企業不思議群馬っぽさがある。

赤青黄色緑のけばけばしさ、雑さと下品さの融合。

栃木県民が好むデザインダサいけど、あん下品さはない。

企業の実力じゃ負けたが、センス栃木の勝ちだ。

と思っていたのだが、実家帰省したときに母が

最近出来たオシャレでとっても美味しい」とべた褒めしレストランフライングガーデン、うーん、群馬臭…

2021-07-29

anond:20210729162326

さっきから何かと例えが下手な意見が目立つんだが同じ人か?

漁業が成り立たなくなるぐらいに海が干上がる天変地異なんて起こったらたぶん人類滅亡に近いシナリオになってるから全く例えとしておかしい。

海の例えでいうと、「最近ここの海では一部の魚に寄生虫があるせいで人が病気になってる」という状態の方が近く、そこで「医療科学を使ってその検知や治療をしていこう」と考えるか「じゃーもう一生我々は魚は食べるのやめよう、海水浴という文化も完全になくそう」と考えるかの違い。

2021-07-25

anond:20210723224430

交通事故まじでシンドイ。外でないほうがいいよ。

餅つまったらまじでシンドイ。餅食べないほうがいいよ。

風呂コケたらまじでシンドイ。風呂入らなほうがいいよ。

海で溺れたらまじでシンドイ。海水浴行かないほうがいいよ。

2021-06-08

大半の井の上の蛙、大海を知らず

沿岸部の山や海水浴へ行かないといけない

雲海も知らないかもしれない

あなたはどんな景色を見た蛙ですか?

どんな景色を見たいですか?

転職したくなったら便利なサービスがあるようですね

2021-05-28

anond:20210528090812

アラフォーだけど小学生の頃は海水浴の時も日焼け止め塗る習慣なんかなかったよ

夏休みの子供は日焼けして肩の皮が剥けてるのが当たり前、それこそよく遊んでる健康的な子供の証、って風潮

中学くらいか美容に気を遣う女子だと日焼け止め塗る子も出てきたけど

それも長時間野外に出るイベント時くらいで、毎日日常的に塗ってる子はいなかった

毎日使うのが当たり前という話が聞こえてきたのは大人になってからだな

日焼け止め重要

アラフィフくらいに聞きたいけど、昔は日常的に日焼け止めを塗るって概念なかったよね?(海水浴とかの時限定

アネッサができたのが1992年で、当時はデイリーユースではなかったと書かれていた。専用クレンジングなしで洗えるタイプが出たのは2004年から

なので自分中高生とき日常的には日焼け止めを塗らず、そのせいか大人になってから顔にシミができはじめた。レーザーで取ってるけど。

もし中高生の時からUVミルクがあってちゃんと塗ってたらシミもできなかったんだろうか。

2021-05-18

anond:20210517205623

演出意図が透けてみえると嫌って趣旨は分かるが、演出意図がなくてマジのリアルさで映像みたら、それはそれでってなると思うぞ。

楽しい海水浴デート映像がびみょーな薄曇り天気の映像だったら嫌でしょう。

やっぱり演出意図必要なんだよ。

 

まあそれはそれとして、葬式シーンの雨はセンスないと思う。

喪服の人たちがめちゃくちゃ暑そうにしている葬式とかだと、おっ、て思うし、思わせれるんだからそういうことすべき。

リアルさではなく、あくまでも演出意図としてね。

2021-02-27

山スキーするやつは命知らずのアホ、っていう人は多いけど、

俺にとっては海水浴すら自殺行為に見える

2021-01-17

anond:20210116135017

そこそこ田舎静岡県東部東海道線のまわりは本当に住みやすいと思う。

おすすめ理由を書く。

日帰りで海も山も行けるし、もちろん泊まりでも、時間有効に使える。伊豆箱根富士山周辺も、ゆっくり朝出れば昼にはつく。帰りも大和トンネル渋滞関係ないし。

一戸建てもそこそこ余裕ある建て方できるから春秋バーベキュー、夏はプールをどこのうちでもやってる。別にやらなくてもいいけど。

冬は・・・まり外にはでないけど、雪が降らないのがいい。本当に降らない。「冬型の天気です」とか、「日本海側では大雪です」なんて日はだいたい快晴。そんな日は富士山がよく見える。昼間は暖かいのと、車社会から、ダウンコートいらない。なんならニットで買い物くらいなら行ける。

あと、都会が恋しくなったら、東京横浜もそんなに遠くない。新幹線通勤する人もいるから。終電まで飲むってなると早めだけどね。

子育てに関しては、都会での保育園争奪戦はなんだったかと思う。名古屋でしばらく住んでいたとき保育園は入れなかった。でも、この辺なら、一番近くにスムーズに入れた。三人目が産まれときには保育園先生から「いつからいれるの?」って産まれる前から聞いてもらえた。近所の公園もすいてるから、こどもとキャッチボールをしたり、サッカーしたりはいつでもできる。日曜日もの昼前だと誰もいない。朝は老人がいる。大きな子ボールが、幼児に当たって・・・みたいなことは起きないくらいの密度

田舎のしがらみっていうけど、町内のゴミ掃除とかその程度。自分たちみたいに新しく引っ越してきた人もいるし、昔から農家の人もいる場所だけど。

子供山登りキャンプ海水浴釣り、なんでもすぐできる。大人だけなら、ゴルフテニスバイクツーリングもいいし、マリンスポーツも近い。

家の物置きやガレージ趣味のものをたくさんおいてる人は結構いる。インドア趣味も、ホームシアター楽器も音をそんなに気にしなくてもいいし、趣味の部屋も作りやすい。本もたくさん置ける。

あと最後に、水道水がおいしい。

2020-09-17

anond:20200917095922

裸で海水浴とか日光浴かな

やりたいけどこれやると犯罪なっちゃ・・・みたいな抑圧された気持ちってなくて

ざくっと考えたら裸で日光浴が一番やってみたいか

2020-09-08

競泳水着全裸水泳海女さんのふんどし

私事

他人迷惑をかけるつもりなどさらさらないが、全裸になるのが好きなので、オーシャンビューとか山の中の露天風呂とかが大好きだ。その好きが高じて、オーストリア混浴サウナにまで行ったことがある。そこには25メートルほどのプールがあり、遠慮なく裸で泳ぐことができて大変気持ちがよかった。サウナと往復しながらだとそれこそ整うわけだが、こういう場所日本にないのは残念だ。何も混浴しろとは言わないので、素っ裸で泳げる広いプールはないだろうか。

さて、昨日(anond:20200907075225)の続き、競泳水着についてである

本題、水泳水着歴史

以下の歴史は、wikipedia英語版の「History of Swimming」や「History of Swimwear」の拾い読みによる。

有史以前から人間は泳いできたが、大抵の場合全裸であった。ローマ時代にはビキニのようなものを身にまとった女性壁画が残されているが(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/27/PiazzaArmerina-Mosaik-Bikini.jpg)、これが水泳に用いられたという証拠はない(この古代ローマビキニには漫画テルマエ・ロマエから言及があった)。つまり絵画の水浴図で誰もが全裸なのは西洋画家猥褻妄想ではない。

水着歴史は、海水浴と入浴着との歴史が密接に絡み合っている。17世紀の終わりから欧州では公衆浴場女性ガウンのものを身に着けるようになったが、男性が裸で泳ぐことはしばらくは当然のことであった(河出文庫シャーロック・ホームズライオンのたてがみ」の注釈には、このシーンで登場人物全裸で泳いだと思われる、とある。また、E. M. フォースターのどの作品だったか忘れたが、全裸で泳いでいる男性悲鳴を上げる女性が出てくるシーンがある。「眺めのいい部屋」だったっけ? また、時代をさかのぼれば「デカメロン」で女性陣が男性陣の目を盗んで裸で泳ぐ場面がある)。

ところが1860年代にイングランドでは男性でも裸で泳ぐことが禁じられた。しかし、身体を見せることを極端に禁じたヴィクトリア朝反動だろうか、それ以来、全身を覆う水着から現代ビキニへと、肌を見せる方向に回帰しているし、ビーチによってはトップレスが許容されている(親が持っていた海外観光案内に、トップレス女性写真があって、面食らった覚えがある)。いまでも、ヌーディズムが盛んなドイツオーストリアなどの中欧では、裸で泳げる場所は少なくない。結局のところ、素っ裸が気持ちいのではないだろうか。

また、一部のスポーツ施設では、男性全裸で泳ぐことを学ぶことは珍しいものではなかった。昔のYMCAがそうだったらしい。また、驚いたことに、wikipediaの「naked swimming」の項目には、1900年頃に男の子が裸、女の子が着衣で泳いでいる写真がある。こういう日本CFNMエロ同人みたいな状況が現実のものだったとは、驚きであるリンクを直接貼るのはなんかまずそうなので割愛)。

なお、女性水泳の普及が遅れたのは、恥じらいとは別に生理時の衛生管理問題もあったそうである

ところで、意外なのが川や湖ではなく、海で泳ぐ習慣は比較最近のもので、17世紀ごろからのものだそうだ。海洋国家イギリスの娯楽としての海水浴歴史は、意外に浅いのだ。また、人が速く泳ぐようになった時期というのも驚くほど遅い。たとえば、1870年代にアマチュアによる世界記録が打ち立てられたのだが、1878年自由形100ヤードは、なんと76.45秒であった。ちなみに、マシュー・ウェッブ大尉イギリス海峡を泳いで横断したのもおおよそこのころだ(1875年)。古式泳法もそうだろうが、おそらく速く泳ぐことよりも、長く泳ぐことや、戦場での実用性が重んじられていたのだろう。

この時期はVictorian Sports Maniaと呼ばれる時期で、水泳は数十年にわたって英国世界リードする国家運動となったそうである。このあたりはジョン・サザーランド英文学史の本にも載っている。

競泳水着歴史

海水浴で使う水着とはまた別の歴史をたどったのが競泳水着である

https://www.glamour.com/story/the-evolution-of-olympic-swimwear

上記記事によれば、女性オリンピックで泳ぐことを許されるようになったのは1912年ストックホルムでのこと。競泳水着歴史は、ここから語られるべきだろう。

初めの競泳水着は絹でできていたそうだ。また、太もも露出は少しずつ増えて行ったが、1928年頃まではあまり下着らしく見えないように、下半身が少し膨らんでスカート状になっていたそうである

ナイロン製になったのは1964年で、1976年頃に少しずつハイレグっぽくなりはじめる。

1984年になると、どういうわけか突如かなりのハイレグになる。男性水着の面積が極小となったのもおおよそこの頃だし、日本でも時期的にハイレグ水着流行したバブルと被る。クレヨンしんちゃんハイグレ、懐かしい。で、話題を戻すと、以前の記事に書いたような女性スポーツウエアのハイレグ化の時期(60年代)とは、若干ずれていることがわかる。しかし、肌を見せることによるスピードアップには限界が見られた。

そんななか、2000年代に一気に普及したのがスピードボディスーツだ。今はこれが主流だ。簡単に言えば、水の抵抗を減らすために、大きな渦を減らし、小さな渦を作るそうだが、層流とか乱流とかその辺のややこしい話になりそうなので、省く。

女性ふんどし……?

つげ義春の「コマツ岬の生活」にはふんどし姿の海女さんが出てくる。これは能登地方のサイジと呼ばれるふんどし一種らしく、この地域では1960年代前半までこの姿であった(これも写真があるが、今までのスポーツウエアと違って乳房露出があるのでリンクは控える)。エッチマンガの読みすぎか、日活ロマンポルノの影響か、なんとなく海女さんといえば、ふんどしというイメージがある。「海女(あま)のいる風景」という写真集の表紙もそうだ。しかし、浮世絵を見てみるとほとんどが腰巻である。私も、太田記念美術館で見たことがある。

https://www.ijikasou.com/monthly/2016/06/

https://www.pinterest.jp/pin/309481805630462018/

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Yoshitoshi-Ariwara_no_Yukihira.jpg

これは恐らく、磯ナカネと呼ばれる別種の木綿の布である江戸時代のこと、おそらく江戸湾近辺では海女さんはふんどしではなく、この格好だったのだろうと推察される。

昭和時代、中にはレオタードをまとって漁をする人々もいたという。というか、今でもいるそうだ。レオタードの中に海産物しまうことで、取りすぎることを防ぐそうである

http://www.chie-project.jp/001/no15.html

たぶん、女性ふんどし使用は、生理用品としてのみに限られたのではあるまいか団鬼六作品をはじめとしたイメージから来ているかもしれないが、SM不勉強もので詳しくない。そのうち調べるかもしれない。

結論

今後の展望

考えてみれば、自分ふんどしについてそこまで詳しいわけではなかった。女性用の下着としてふんどしがどれほど用いられてきたか、あるいはそもそもふんどしとはどのような下着であったのか、その歴史についていずれ調べてみたい。

今回はここまで。疲れたので、ビーチバレーなどの詳細はまた今度。

2020-09-06

助詞いる?

助詞無し大丈夫 意味分かる

例文挙げる

 

漱石こころ

私その人先生呼ぶ。ここ本名書かない。世間体、遠慮違う。その方自然。私その人思い出す、すぐ「先生」いいたくなる。筆執る、心持同じ。よそよそしい頭文字とても使う気ならない。

 先生知り合った、鎌倉。その時私まだ若々しい書生。暑中休暇利用、海水浴行った友達「ぜひ来い」ハガキ送る、私多少金工面、出掛けた。私金工面二三日費やした。ところが私鎌倉着く、三日経たない、私呼び寄せた友達、突然国元帰れ言う電報受け取った。電報「母病気」断ってあったけれども友達それ信じなかった。友達ずっと国元いる親たち勧まない結婚強いられていた。彼現代習慣的、結婚まり年若過ぎた。しかも肝心当人気入らなかった。夏休み当然帰るべきところ、わざと避ける、東京近く遊んでいた。彼電報私見せる、「どうしよう」相談。私どうしていい分らなかった。けれども仮実際母病気、彼帰るべき。それで彼とうとう帰る事なった。せっかく来た私一人取り残された。

2020-09-05

https://anond.hatelabo.jp/20200904162414

この速度なら言える。

小学生から中学生にかけて似たような経験をしているので俺もしゃべってしまおう。

まず前提として俺は他人命令されたら絶対に断れないタイプのか弱い男の子だったということを念頭に置いて読んで欲しい。

お前は氏ねと言われたら本当に氏ぬのかとよく親に怒られていた。

また子供の頃は自我というものほとんどなく、あのおもちゃが欲しいと初めて言ったときは親にすごく喜ばれたと聞いた。

女の子みたいな体だったという自覚はないが中学とき女子の先輩に体を入れ替わって欲しいと何人かに言われたことがある。

前提はここまでだ。

それでは始めよう。

小学1年の頃

プールで着替えるとき一緒に行った近所のお姉さんに連れられて女子更衣室で着替えさせられるが、服を脱いだのになかなか海水パンツを渡してもらえないという意地悪をされ周りの人にずっとちんちんを見られ続けるという羞恥プレイをさせられる。

周りの人は助けてくれるわけでもなく興味深い目でじろじろと見られていたのを覚えている。

小学2年の頃

クラススカートめくりと抱き付きが流行先生に盛大に俺だけ怒られ1日女装させられる。よく考えたら他の先生が誰も止めなかったというのはどうなのか。

授業中にお漏らしをして羞恥プレイ自爆する。これは自分が行かなかったのが悪いのである意味仕方ない。

小学3年の頃

親の知人宅に預けられたとき1年から6年生くらいのその家と近所の女の子たちと男俺ひとりで脱衣カードゲームをしたが、自分が弱かったのかハメられたのか自分だけ全裸にされ大人たちが帰って来るまでずっとそのままの格好で家で遊ぶという羞恥プレイをさせられる。

トイレに行くときも年上の女の子が付いてきてトイレットペーパーで拭いてくれたのを覚えている。

また別の家では年下の男の子に服を脱ぐように命令されてそのままの格好で住宅街を通って近所の児童公園に連れて行かれるが偶然誰にも会わなかったため事件にはならなかった。

家族海水浴で横になって砂に埋められるという遊びをしていたとき、偶然居合わせクラス女子二人が来て一緒に俺を埋めてくれていたのだが、途中で海水パンツの中に手を入れてちんちんを触りまくられるという痴漢プレイをされる。

抵抗しようとすると親に動くなと言われたので最後までされるがままに我慢した。もちろん何があったのかは言っていない。二人が狂気の目で楽しそうにいじってた。

小学4年の頃

校舎裏でクラスの男女と脱衣じゃんけんをしてこれも簡単に裸にされてしまう。記憶が定かではないが次に出すのは何か言わされてたような気がする。

小学6年の頃

教室パンツを脱がされるなどの性的いじめに定期的にあうようになる。

中学の頃

卒業するまでいじめにあうが肉体的なものではなく教室や校舎裏で服を脱がされたり脱ぐように命令されたり全裸歩行させられるなどの性的いじめが多かった。

女子の間でも部活の先輩に謝罪するときは部室で全裸正座させられたと言っていたのでそういう意識学校だったのかもしれない。

そして。

記憶を辿ってみても高校以降学生時代はとくに何かあったということはないと思っている。

その頃からだんだん自我が出てきて自分のやりたいことをやるようになったと親から聞いた。

ちょっと魂が遅れてきた感じ。やあ、俺。

これを読んでみんなが自分立場だったらどう思うだろうか。

無感動な性格が幸いしたのか俺の場合はとくに他人を恐怖に感じたりということはそれほどなく普通に暮らしている。

もちろん今でもチンピラとすれ違うときは怖いけどこれはみんな同じだよね。

ただこのような経験が影響しているのか分からないけど当時のことを思い出してしまうので性癖がかなり歪んでいる。

ここには書いていないこともあるのでそっちが原因かもしれないけど。

そして社会人になってそれを自覚するようになってからまた事件は起きる。

満員電車に乗っていると女子中学生女子高生が股間をすりつけてくるという事件が起きるようになる。

顔は覚えてないけど目立つ制服だったのでそれが同じ学校だということだけは分かった。

転勤で東京を離れてそれは終わったんだけどあれは何だったのだろうか。

変なやつがいると仲間内で噂になっていたのだろうか。

今では田舎に住んでいるので満員電車存在しないし学校にも行ってないので平和だ。

公園散歩していると中高生カップルがベンチでガツガツやっているのを時々見るくらいで。

2020-08-18

金や権力があれば自慢したくなるんだな 浜辺ギリギリのところを何度も往復!海水浴客と接触しかける危険クルーザー

https://www.fnn.jp/articles/-/74763

>>伊藤 あはは、ありましたね。あのときは、フル装備をして、江田島から岩国山口県)まで瀬戸内海を高速ボートで移動している途中でした。

>>満潮の海に浮かんでいる鳥居の下をくぐれと命令したんです。

>>鳥居が近づいてきて、その下を高速で通過しようとするボートドライバーチーフがいきなり殴るもんですから

>>私が「俺が命令したんだ」と文句を言ったら、「ここは観光地です。来ている全員がカメラビデオも持っています

>>撮影されて夕方ニュースで出ますよ。私が生きている以上、絶対くぐらせません」と言われました。

>>それで渋々「写真だけ」ということで諦めました。

日本人よ、この覚悟理解できるか https://ironna.jp/article/929

2020-08-15

夏の懺悔

終戦の日は、Y君の命日です。

高校時代同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。

Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。

しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。

Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。

入学からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップ公立高校を落ちてきた人間でした。

はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。

から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。

入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。

第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。

「四位なのに、第一志望でこの学校にきたんだね。」

「こういう人も来るくらいの高校なんだから俺も勉強しよう」

その時の僕にはまだ、そんな理由勉強をはじめようと思う理由理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。

とは言っても、その後Y君が試験ライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラス文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラスクラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。

交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。

彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街引っ越してきたので、同じ中学校出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えますしかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。

Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いていますしかし、同じクラステニス部から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。

Y君と同じグループテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦メンバーに入ることはなかったそうです。

とき一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。

僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。

Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。

高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強ノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活休みになってY君が加わったことが何度かあります

Y君が、自分勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者発言賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。

僕らはみな自分に合わせて勉強スタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。

僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間文法勉強していた方が都合よかったのです。

そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。

時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベル英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。

学年上位の彼女場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。

すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベル問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。

試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。

Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分必要勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。

高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ模試のたびに奪い合うのです。

事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。

勉強をしたかテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。

正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。

僕は、努力方向性を間違える人間愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑対象でした。「三年の夏に部活引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。

当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。

みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学から日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命早慶国公立大学

Y君が目指したのも、早慶文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格絶望的なので記念受験だったと思います

日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベル大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。

先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力甲斐あって志望校合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベル大学です。

高校卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。

僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。

僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。

Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学教育学部合格したのも少なからず影響があったと思います

Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。

Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法レベル大学に手応えを感じていたそうです。高校時代担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専合格は決まっていました。

しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専入学一時金を払わなかったそうです。

かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイ変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後メールには、そう書かれていたそうです。

苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間けが成功評価できますしか成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。

三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています

同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。

二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察通報したそうです。海上保安庁警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。

沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。

暗く塩辛海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。

人生の遠回りを許さな日本空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。

彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。

彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。

こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。

今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れますしかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。

実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれ田舎風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。

今はまだ、入道雲青空に彩られたこ風景に罪の意識を覚えます

2020-08-10

anond:20200810183010

今年は海水浴も閉鎖されてるから

だいぶ減るんじゃないか

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