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2022-09-28

国葬雑感

安倍晋三最後に読んでいた本が岡義武『山県有朋』だそうだが、

これが本当の話か、自分は疑っている。

64年前に出版された岩波文化人古典を、安倍はきちんと読むような政治家だったか

かに、山県と安倍は、時代代表する権力者であることも、

山口にゆかりがあることも、顔が長いことも同じだが、出来すぎた話である

同書は山県に概ね批判的だった。

もし本当に読んでいたとしたら、どういう感想を持ったかは興味深い。

しかし、一月前に死んだ大隈重信国民葬比較して、

山形国葬が「ガランドウの寂しさ」だったことは有名な話で、

これだけ論議を呼んだ国葬スピーチを、山県の話で締めくくる菅義偉も、

それを素直に感動する不勉強国民も、ちょっとどうかと思うよ。

岡義武は山県の死について、こう書いている。

一方の安倍が、同様に忘れ去られるかは、これからのことである

[山県有朋の]支配の基礎は、民衆にはなかったのである

民衆は、彼にとっては、支配の単なる客体にすぎず、

従って、彼の権力意思支配機構を掌握することへと集中されたのであった。

彼は終始民衆から遊離したところの存在であった。

から見捨てられていた民衆は、それ故、また彼を見捨てていた。

そして、彼の死に対しても冷かであり、無関心であったのである


10/5 追記

驚くべし、流し読みかも知れないが、どうも読んでいたらしい。

しかし、さらに驚いたのは、同書を安部に勧めたのは、

山県を「信奉」していた右派経済人葛西敬之だということ。

普通に読んだら、嫌われ者山県有朋、という印象が残るはずの本を何ゆえ…、

と思ったけれども、官僚掌握術の参考になる、なんて吹き込んだのじゃなかろうか。

伊藤之雄山県有朋 愚直な権力者の生涯』はずっと山県に同情的だが、

葛西は気に入らなかったか、読んでいなかったかだろう。

で、安部感想は以下の通り。

2015年1月12日

今日官邸で開催された来年予算についての政府与党政策懇談会に出席しましたが、

週末三連休、一昨日はゴルフ、昨日はお墓参り河口湖山荘でゆっくと過ごしました。

その間、読みかけの「岡義武著・山縣有朋明治日本の象徴」 を読了しました。

知人から進められ手に取ったものです。明治元勲で彼ほど嫌われ、

同時に自身権力を集めた人物はいないでしょう。同じ長州人でありながら、

路線等の相違から権力闘争の敵対者となる伊藤博文とは対象的です。

伊藤の死によって山縣は権力を一手に握りますが、伊藤暗殺に際し山縣は、

「かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」と詠み

その死を悼みました。本心だった様に思います



あの本を読んで、ここをピックアップするか!?と思ったけれども、

安部最後まで赤城俊夫さんや山上徹也、社会歯車だったり、

社会に潰される吾々ゴマメのような人間気持ちをわからなかったように、

一般人総理大臣気持ちなんか、わかるわけがないのだ。

とすると、岡義武がさらりと書いた伊藤暗殺下りこそが、

100年後の権力者安部にとって最も心打たれたところだったというのも納得できる。

人間は、一般人学者総理大臣も、自分甲羅に似せて穴を掘る。

自分勝手に、都合よく物事解釈する。

岡義武は、「自著は権力者を自省させるに至らなかったか」と

あの世でガックリしたかもしれないが、山県有朋からすれば、

ついにわが「本心」を知る者あらわる、なんてところかもしれない。

だけれども、山県や安部のせいで、どれだけ人が死に、不幸になったのか、

ヘタクソな歌を書いて、それをわざわざ持ち上げやがって、というのが

ゴマメたる自分の率直な所感なので、「英雄英雄を知る」ではなく、

「同じ穴の狢」が山県と安部にふさわしい言葉だと思う。

2010-08-31

http://anond.hatelabo.jp/20100831224651

伊藤博文合併反対を2年で翻したのを確定事項のように言ってるが「そういう説もある」程度の話だぞ

近年の伊藤博文研究で最も熱心なのが瀧川一博先生

最新刊が四月に出たばかりの、中公新書伊藤博文』。

伊藤之雄先生も昨年本を出してるけど、こっちは不勉強でまだ読んでない。

瀧川先生伊藤をよく弁護してるよ。「ヤヌスの顔」、硬軟両面があったって。

韓国での「文明」を推し進めたって。

議会も設置して、自治をうながそうとしてたんじゃないかって。

でもさあ、あなたのような事実の認定は、してないな。

伊藤が二年で併合策に与した、という箇所は、この通り。

 伊藤が翻意して併合を認めたのは、一九〇九年四月である。この年の三月三十日、

小村寿太郎外相は桂首相に「対韓大方針」および「対韓施設大綱」を提出した。

それは「適当時機に於て韓国の併合を断行すること」を掲げ、韓国併合閣議決定を迫ったものだった。

桂としては異存はないが、懸案は伊藤の意向だった。桂と小村は、

伊藤が併合に反対であることを熟知していたのである。

 二人は伊藤に併合の直談判を行うことに決し、四月一〇日、相当の覚悟をもって上京中の

彼のもとを訪問した。だが、伊藤はあっさりと併合を承諾し、桂と伊藤は肩すかしを食らった(『伊藤伝』下、八三八頁)。

こうして最大の障害が取れて、七月六日に韓国の併合が正式に閣議決定されるのである。

あなたは、最新の研究でも支持されている、伊藤暗殺前に韓国併合に同意していたという物の見方を、

「『そういう説もある』程度の話」と一蹴するけれど、

では別の見解をいう研究者論文は、具体的にどんなものがあるのだろうか?

ぜひ見てみたいから、教えて欲しい。見てみないとわからない。

伊藤・桂・小村の会談の事実は、伝えられているものと違うだろうか? 

あるいは、伊藤が表向き続けていたかもしれない併合への慎重な態度の方こそ、

本心だったといいたいのだろうか?

そりゃあね、ここからの判断は、史料を読む側が決めることかもしれないよ。

だけど、総理大臣外務大臣の訪問を受け、同意をあたえたというのは、よほど重い決断じゃないの?

俺だったらそっちを取るよ。

伊藤があくまで併合反対に固執するなら、閣議決定につながる言質をあたえるようなことは、するわけないんじゃん?

あとさ、高宗を退位させたのも伊藤でしょ?

いくら併合に慎重な姿勢をとってたからって、植民地経営の矢面にたって色々せざるをえなかったんだから、

恨まれて当然じゃない?

仮に、山県なり桂の方が併合推進派だった、と安重根が知ってたとしても、やはり伊藤を狙ったんじゃないか。

ネームバリューが違う。初代韓国統監で初代総理大臣近代日本建築の立役者。

一泡吹かせるのが目的だろうに、山県有朋じゃ役不足だろう。

 
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