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はてなキーワード: 敵対者とは

2017-06-21

https://anond.hatelabo.jp/20170621201013

じゃあ神様信じない人が多数派日本教会でお祈りする人らは時間無駄にしているのか

>>現実に起きていることに左翼思想では対処できない。

降伏したら鬼畜米英に八つ裂きにされると日本政府が言ってたけど実際降伏したら鬼畜日本人より優しかったろ

ソ連連行された人らだって収容所で死んだのは一割以下で赤紙戦争参加を無理強いされた人より生存率が高い

中国収容された日本兵虐待されたことにしたいけど証拠が何もないか洗脳精神虐待ねつ造するし

一番残虐で非道なのは遠い国のだれかではなく身近なボスなんだ

敵が攻めてきたら話し合うぞ・逃げればいいは敵対者国家場合は間違ってない

2017-06-11

日常系って物語じゃないよね

かわいい女の子を眺めるだけ。それはそれで需要があるのはわかるけど、物語とは言えないよね。

物語主人公目的が、目的を達成する過程における成長が、葛藤が、目的を妨げる敵対者が、盛り上がる展開が、謎が、対立がある。

日常系にはそれらが、全部とは言わないが存在しない。登場人物日常を切り取っただけ。

下手な脚本を見せられるよりは女の子達の日常を眺めてた方が遥かにマシだと思うよ。でもそれが"物語"だとは思わない。

2017-02-13

イケメンになってわかったこと

むかし、ぼくはブサイクだった

ブサイクだった」と言っても、実は今とさほど変わっていない。昔、ぼくは今のようにオシャレにこだわっていなかった。

少なくとも「ブサイク!」と面と向かって言われるレベルブサイクではなかったが、ともかくお世辞にもカッコイイとはいえない類の人だ。

ひげは伸ばし放題、眉毛もボーボー、そういう感じの生き物だった。

小学校中学校と、運動もできずコミュニケーション能力も高くもないような、目立った能力と言えば勉学程度のぼくが全くモテるということがなかった。

そもそも「モテたい」とは思いつつも、「モテよう」とは思っていなかった。

田舎の小中学校では、本当に一部の人しかオシャレみたいなことはしていなかったと思う。

東京とか、名古屋とか、大阪とかによく行く家庭の子たちが、なんとなくオシャレ最先端みたいになっていた。

高校に入って、ぼくはワックスなる存在を知って、それをつけるようになった。

年代のオシャレな人たちは、雑誌を読んでいろいろと頑張っていたようだ(当時はようやくFOMAシェアmovaを抜いたような時代

高校は、割と偏差値が高い高校だったので、ぼくは友達を作ることはできなかったが、いじめらることもなく、基本的に1人で行動し、たまにクラスメートと話すような存在だった。

学校モテることはなかったが、なんだかんだあって、高校3年生までに2人と経験した。デート自体は5人ほどだったと思う。告白された回数?そんなものゼロだ。

大学関東の方に進学して、ぼくは「大学デビューのようなもの」を果たした。

髪の毛も一通り染め、一通りデートし、一通りセックスし、確か1年で20人近くとセックスしたと思う。

当時はぼくは自分のことを「そこそこイケメン」だと考えていたが、今思えばくそったれである。そもそも1年で20人はかなり少ない方の部類だ。

オシャレも疎く、単純に「周りのゴミ男子よりもマシ」なだけで、「レベルの高い女」が周りに寄ってくることはなかった。

当時はモバゲー出会い系化が問題となり、GREEがその代替として登場していて、GREEが狩場のようだった。

大学はその後いろいろあって中退した。

ぼくは地元に帰りニートを続けた。地元でも相変わらず女を食い漁って、いろいろとめちゃくちゃしていた気がする。

顔面レベルは相変わらず変化なし。

JKJDOL主婦、狭い範囲でやっていたせいか噂になっていたようで、ニートバイトを数年交互に繰り返したあと、いたたまれなくって僕は地元から東京へと出た。

何人かの主婦セックスをしたが、何もバレなかったのは本当に僥倖だった。今考えるととんでもないことだ。

そして、僕は東京ホストをやろうと思った。自分顔面レベルにある程度自信を得ていたので、いけるんじゃないかと思って突撃した。

結果は惨敗だった。美容レベルが違った。男でも化粧はする。化粧水乳液は当然。アイロンもする。シャンプーは女物。眉毛を整えてないやつは死刑。そういう世界だった。

女は引っかかりはする。ホストクラブに連れてきさえもできる。

ただそれは、ライバルがいない中で引っ張ってこれるだけで、ライバルがいる場合は無惨だった。

コミュ障だし顔面も良くはない。人生で一番ブサイクと言われまくった時期がここだった。

顔面グロい」「頭が臭い」「鼻がくさい」「耳裏がジジイ臭い」「なんかザコそう」「鼻でかすぎじゃね」と、不備やコンプレックスを的確につつく、酷い言われようだった。

そのおかげでマシになったものもあるが。

ぼくはホストをやめた。当時は新宿キャッチ全面禁止になった時期でもあって、キャッチで客を引っ張らなければお茶を引くレベル自分にはかなりのダメージだった。

金も稼げない。『ホストが月30万を稼ぐ』というのは、『女に60万を貢がせる』のと同義だ。大多数のホストは、現役の寿命が短い割に、平均年収程度も稼ぐことができない。

キャッチ禁止に関しては、「なんで禁止なんだ!」とは思っていなくて「禁止になるのは妥当」だと思っていて、そもそも生涯夜で生きていこうだなんてこれっぽっちも考えていなかったので、やる気もなくなっていた。

この時点で経験人数は100から200ぐらいだと思う。もう正確に数えてない。性病も2回かかった。

「まず顔、その後は勢いと雰囲気、そしてコミュニケーションだ」みたいになっていたと思う。ぼくはコミュ障なので、枕営業しかできなかった。

ホストをやめたあとは、今の職種についていて、誰にもこのことは話してない。女に関しては、ホストをやめたあと彼女やらセフレやらを何人か作って、そういう状態で今のままだ。

美容に関する情報を絶えず集めて実践しているので、日に日にイケメンになっていくのがわかる。

そして僕は、だんだん「イージーな女」「ブサイクな女」への興味を失っていった。

昔は誰でもよかったのに、今はもう誰でもいいなんてあり得ない。

何せ、向こうから寄ってくるので、いちいちセックスしていたらキリがないのだ。ちんこも疲れるし、割り勘でも金は使う。

そしてつけあがる女たち。連絡はくどい。おちおち自分時間も取れない。

だんだんめんどくさくなってくる。1日デートして1万のものを貢がれるより、1日働いて2万稼いだ方が楽だし、そもそも僕は「払わせるの悪いな」と思う程度の良心はあるので、貢がせることに向いていない。

セックスも、オナニーの方が気持ち良いぐらいになってきた。もはや基本的に、セックスとは向こう側がやりたがるものだ。

セックスで向こうが興奮するから、演技をする。そうするとまた向こうは興奮する。もう、どっちが女かわかったもんじゃない。

ニコッと笑う・手が触れる、そういったレベルでさえ女の人が惚れてくる場合があって、そういうのを目の当たりにすると、ぼくはそれにささやかな喜びを感じるとともに、なんだかとてつもなく虚しくなる。

彼氏がいようがおかまいなし。「彼氏いないの?」と聞けば、いようがいまいが「いません」の一択

ナン都市伝説だと思っていたが、伝説でもなんでもない。ありふれたことだ。とりわけ、居酒屋では。

「男が動物だったように、女も動物だったのだ」と思うといたたまれない気持ちになる。

ただ僕は、もう『あのブサイクだった頃』に戻りたくはない。はっきり言って待遇が違う。

女性から冷たい対応をされることは皆無だからだ。圧倒的に敵対者が少ない。

そして、実は女性からだけでなく、男性からも当たりがいいのだ。初対面の人に嫌われることはない。

そしてぼくは、ぼくがブサイクだった頃より、格段に性格がよくなってきていると思う。

世界が変わった」とまでは言わないが、ともかく、たか顔面の違いでここまで如実な違いが表れた。

得たものも大きかったけれど、何か大事ものも、同時に失ってしまった気がしている。

2017-02-06

長谷川豊バッシングファシズム

長谷川豊バカだけれど、長谷川豊を叩いてる連中も、何だか長谷川豊から叩いている」レベルに達してきていて結構キモい

長谷川が叩かれていたのは人工透析自己責任論であり、

議論されるべきなのは自己責任論の是非なわけだろう

でもその自己責任論が許せないあまり

もう自己責任論を論じた長谷川豊こそが人として許されないという話になってきている

人格議論は分けて考えるのが良識であり知性ではなかったのだろうか

はてな左派の連中に多いのだけれど、

結構言論弾圧的な態度をナチュラルにとるんだよな

自己責任論など口に出してもならない

口にしたもの問答無用正義の敵とみなすっていう

議論自体がまかりならんっていう

まかりならん議論をした人間は徹底的に潰すっていう

あいつらよく敵対者ナチスファシストだと攻撃するけれど、

それって自分のやってることを敵対者投影しているだけに過ぎないんじゃないか

まあ長谷川憎しで凝り固まっちゃってるヤツには何を言っても無駄だろうし、

長谷川を支持する人間は無条件でヘイトスピーカー愚民だ、民主主義危機だとか何とか言うんだろう

こういうやつらが暴走して紅衛兵化するんだろうが、

まあこういうやつらによって日本が滅びるのも案外オツものかもしれん

こいつらの主観の中ではネトウヨ日本を滅ぼすことになっているだろうが、

まあ日本が滅びるのは同じことなのでwin-winってやつだな

はーやくこいこい日本の滅亡~っと

2016-12-30

https://pbs.twimg.com/media/C02sDJTVIAAP7Oq.jpg

こういう漫画見せられるとさ、やっぱ女って敵対者ダサい男として描いて論破、みたいな性格悪い創作物ばっか読んでるんだね

女に良心はない、って本当としか思えない

2016-11-13

http://anond.hatelabo.jp/20161113075339

敵対者手斧を振るう奴がいなくなったから、次の獲物として棍棒を選んだだけ。

棍棒がいなくなったら今度は素手の奴を狙う。

2016-08-31

さらだけどデモンズソウルダークソウル(初代)はPS3ゲーム史上に残る大傑作タイトルだと思っている

デモンズソウルRPG3Dゲームに落とし込む、敵対者と協力者との緩いながらも濃厚な繋がりと革新的な要素を産み落とした。

そしてダークソウルはそれを地盤宇宙的なボリュームを生み出し、世界を作った。まるで本当に冒険しているかのような気分を味わえた。

 

残念ながらダークソウル2と3は初代の焼き直しにすぎない。

革新性も世界性も前述した2作に遠く及ばない。

プレイしながらも心躍ることは上記2作を遊んだからしたら何一つなかった。

フロムとしても上記2作を超えるタイトルはもう作れないと思っているだろう。

 

ブラッドボーンは、その中でも方向性を変えた良作。

遠距離攻撃をオマケとしながらも逆転を狙えるキーにしたのは面白い

世界観も申し分ない。

吸血周りのシステムFPS(Frames Per Second)とラグを落ち着かせることができれば名作に入れたかもしれない。

既存タイトルとは別のステージに上がれた可能性があるだけに、戦闘システムを作り込める時間があればと口惜しさが残る。

エンドコンテンツに対しては賛否両論があるが、個人的にはあの完成度では否定的意見だ。

2016-07-19

http://anond.hatelabo.jp/20160719190247

左側に理想論者が多いな。理想論者だから自分が善、敵対者は悪、という偏狭二元論にすぐ到達してしまう。

右側っていうのは、現実論者なんだ。善と悪で物事を計っていたら何もできない、というところに気づいて、そこから歩き出す。

俺は右側だが、悪呼ばわり大いに結構武力が悪だとはわかっているが、現に他国領海侵犯する国がある現実の中で、使えるのは武力だ。

ただな、左側の夢想意味がないとは言わん。その夢想人類がやがて到達すべき理想郷からだ。

から右側左側、両方がいることに価値があるんだよ。

2016-07-14

差別をするなと言うだけで友達を失くすとは思わなかった

暴力団を抜けろとか、覚醒剤を辞めろとか、むしろそういうことですれ違いになるならわかる。

金銭利益やしがらみや中毒症状なら、おいそれと辞めようと思って辞められるものではないのは、気持ちはともかく頭では理解してやれる。

でもたかだか日常会話で「チョン」だの「ニダ」だのいちいち言うな、反日在日だなんてくだらない敵対意識を持つのはやめろと言うだけのことが、ここまで伝わりもしないとは思わなかった。

しかしたら精神医学的には、それこそ覚醒剤並の中毒症状のある、一種病理なのかもしれない。でも、これはどうしても理解してやる気にはならない。

差別というのは人間性への挑戦だ。

どこまで行っても根は同じ人間同士であるという、人と人とが上っ面だけでも諍いを起こさず共生していける最低限の同意を、覆す行為だ。

人間いのちに対する敬意を持てない奴に、どうしてこちらから敬意が持てる?

差別主義者(racistの訳。本来意味は「主義」の有無など関係ない、人種差別する人、という意味)は人殺しと変わらない。かれを差別するものはわれも差別する。そういう、人間と言う種そのものに対する敵対者だ。

相手がどんな奴であれ、人を「殺そう」と思って殺す奴には本能が警戒する。俺のことだっていつ「殺そう」と思うかわかったものではない。少なくとも彼の選択肢には、彼に取って邪魔なやつ、いやな奴を、場合によっては殺す、という項目が存在するのだ。

俺にはもう、彼の「友人」に対する好意すら信じることができない。

彼は「友人」じゃなければここまで全てを否定する攻撃性を持つ事ができるのだ。「友人」じゃなくなれば、俺も何を言われるか、されるかわからないのだ。

そんな「好意」を、どうして素直に受け取れる?

彼とは明確に絶交したわけではないが、もう俺は彼を友達と思う事ができない。

彼に「友達」と思ってもらえるという自信もない。

彼という人間の中に存在するその選択肢に、ただピリピリとした危機感を抑える事が出来ずにいるだけだ。

2016-07-04

白紙投票

「若者は白票もあり」という意見 - Togetterまとめ

はてなブックマーク - 「若者は白票もあり」という意見 - Togetterまとめ

白紙投票するぐらいならどこかに投票しろという意見の方が優勢な感じなのだが、その最大の問題点は「デマゴーグであることが忘れられていないだろうか。

昨今の政治状況は「とりあえず選挙前に耳障りの良いことをいう」あるいは「敵対者を激しく攻撃する」という悪しき風習によって作られてきているのであって、「よく分からないけど良さそうで票を投じるのは害悪だ」と思った人が、政治的プレゼンスを表明できる唯一の方法が「白紙」なのである

2016-05-13

ヘイトスピーチ規制者の倒錯

ヘイトスピーチ規制を推進する人たちって、

敵対者ヘイトスピーチに非を唱える人も含む)に対して踏み絵を踏ませるというか、

「お前はヘイトスピーチ規制に反対する敵だ」ということを声高らかに宣言したがる人が多いなという印象

そのやりくちがさながら、ユダヤ人バッジをつけて識別しようとしたナチスのやり口にそっくりなんだが

2016-02-06

「反○○」の3つの位相

国とか民族とかに対する、反○○、ってすっごく便利なレッテルだけど、いくつもの位相が混在している気がしていて。

1.差別主義位相

これはダメだよね。「○○人は劣っている」「○○人を追い出さなければ」なんてーのはもう、アウトだよね。このレベルの「反○○」は逝っていい。政治的死ね

2.商売敵の位相

まあ、商売敵としての節度を守れるのなら、この「反○○」は別にいいんじゃないかな。「○○国の経済最近伸びているから、シェアを奪われないように××の施策を講じよう」「○○国の軍事力が近年増強されている。わが国もこれに対応して軍事力を強化しよう」ってのは言葉を置き換えてやれば別に普通企業もやってることでしょ。「反○○」というか「○○に対抗して」だよね。これは別に問題ない。対○○協調主義者から批判は浴びるだろうけど、それは経営戦略方向性をめぐる批判であって倫理的非難じゃない。

3.人権問題位相

○○国政府表現の自由を奪ってるとか、国内少数民族弾圧してるとか、戦時中犯罪について頬かむりしているとか、敵対者収容所に放り込んでるとか、そういう事例に関しては積極的に「反○○国(政府)」の態度を取るべきだろう。なによりも倫理的要請として。

問題はこの2&3と1をごたまぜにして主張するひとが一定数いることで。○○国政府人権侵害糾弾するのと同じ口で○○人への差別発言を撒き散らしたりする連中は、まあその、枚挙に暇がないというか。そういうのはほんとどうしようもないんでさっさと滅んでほしい。

2016-01-15

闘争欲求と感情と反知性と知的感情分析

人間には必ず闘争欲求が存在する。

他の生物を食べて生きたい、自分の居場所が欲しい、配偶者が欲しい、お金が欲しい、認められたい…等々。とにかく生きるために必ず備わっている欲求だ。この闘争欲求はもちろん人によって小さかったり大きかったりするだろう。大きい人間は上手く活用すれば大企業社長になったり研究者開発者として医者政治家として活躍できるだろう。いかに優れているかを競い合うということは効率化や新たなる発展性を秘める魔法行為だ。戦時下におけるコンピュータの発達など科学技術発展の背景には知る欲求だけではなくこの闘争欲求も大きく関与してきた。

 

しか闘争欲求が大きいにも関わらずその昇華の仕方を知らずに大人になってしまった場合は最悪の不幸が訪れる。他者との優位性を競い合ったとしても感情ベクトル最適化できなければわけのわからないデモに参加したり、様々な倫理性や論理性を見失い体と時間だけを浪費してしまうことになる。冷静になれ、怒りに身を任せるな。言葉にすれば極めて簡単に聞こえてしまうが、闘争欲求というじゃじゃ馬を乗りこなすにはクレバーになることが極めて重要でかつ困難なことである

 

冷静になるということはどういうことか?それは第三者視点を(完全ではないにしてもできる範囲において)獲得することである。ここでいう第三者視点とはタロウさんハナコさんマスダさんのマスダさんのことではない。全てを俯瞰的に見つめる神の視点である。もちろん全てを見通す神の視点などどこにも存在しない。必ず未来には不測の事態がどこかに待ち構えている。現実には神の視点だと信じている第三者視点までしか形成されることはない。しかし2者間の対立構造においてこの第三者視点の精度こそが最も重要勝敗を決する要素であり、また勝敗が決着した後でさえも重要な要素である。知るということは何よりも重要であり、知ることによって考えることができる。相手の意図や思惑を計算することができれば相手の好きさせることはないし、自分にとって一番効率の良い結果が出せる未来も思い描くことができる。しか感情に任せての行動には目指す方向やそれを実現するために行われる手法が相手から丸わかりであり、わざわざ第三者視点形成せずとも相手の意図情報一人称からでも考えることができる。正面から突撃しかしてこない騎兵が相手なら毎回弓で応戦したらいいだけだ。感情に任せての行動は戦う前から負けることが約束されている。闘争欲求が感情に任せて利用されると不利益しか生じないことは明らかだ。

 

闘争欲求が感情に任せて活用される場合、その当事者には成功者人格者と大きく異なる部分がある。それは着地点が設定されていないということだ。もしくは非常にあやふやものとして設定されている。何かと対決したり競う以上は勝敗という結果が産まれるが、その結果を正確に予測することはすなわち過程予測も行われる。望むべき結果を生み出すためには計算をしなければならず計算第三者視点作成したうえで冷静でなければできない。具体的な着地点を設定しないということはつまり過程である行動や手法が本当に実現させるために取るべき最適な答えなのかどうかを問われていないということだ。何が間違っていて何をするべきなのか、それを見極めることができない状態活動している。このような行為を続けても決して冷静な敵対者に勝つことはできないが、不適当闘争者はそれさえ気づかずにひた走り続け、決して満たされることのない闘争欲求はさら活動し、狂い始める。同じような狂信者たちが集まれさらなる大きな狂いの渦を形成していく。数こそ力とは言うが、数が力になるときは同じ方向を向いた瞬間だけである。統率のない集まりがそれぞれ違う方向を向いていても何も動かすことはできない。

 

闘争欲求は何かを成就させるために不可欠な欲求であるにも関わらず、その昇華のさせ方を知らない者たちは現実と剥離した世界に逃げ込んだり、狂った人間やはた迷惑団体へと変貌していく。彼らの本質のものが高度な戦略化した社会における被害者であり弱者ではあるのがが、社会へもたらす不利益もその数だけ存在し、また是正する個人も組織も無いためどのような時代においても反知性主義団体確認することができる。

 

かといって感情が必ずしも有害であるかというとそうではない。全ての行動原理は等しく感情という源泉に帰結する。我思うからこそ我あり。第一人称の持つ感情原発としてそれを慰め、褒め称えるために理性によって実現可能な道を切り開いていくことが一番人間的であり好ましい形であろう。また感情を分解していくことで論理的にも自分個人の感情形成パターン分析化することもできる。なぜ怒ったのか?なぜ喜んだのか?それを自分に問うことでさら自分感情と欲求の求める結果を洗練させることができる。

 

感情的なことは悪いことではない。問題は見つめないこと、知らないこと、考えないことだ。感情的人間でありたいのなら鏡で自分の顔を見るように、感情を理性で見つめるべきである。己を知りより深く自分感情を愛するべきである。さもなくば感情を愛することもなく理性的ですらなく自分意志で動いていると勘違いしてしま感情だけの操り人形になってしまうだろう。1+1を計算できるのは感情からアイスクリーム屋でお金を出せばアイスを食べれるのは感情のおかげだろうか?理性がどれだけ感情を守っているかを見直すべきだ。

2015-12-12

http://anond.hatelabo.jp/20151211191539

Cルート3章は主人公ライバルである勢力を軒並み倒し、自身が有力な勢力として自立する過程を描いている。

その倒すことになる勢力はルート選択によっては味方になっていたかもしれないものであって、最終的な敵である暗黒騎士団ブランタではない。

それらを何故倒すかというと、自衛のためという流れはあるものの、それぞれの大義を掲げていながら本質的には己の野心と欲望に突き動かされ、異を唱えるもの達を犬や豚のように殺戮していく輩達だと看破したかである

というわけで、倒していく敵こそが「駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚」ということになる。

しかし、傍目から主人公を見た場合、自らの大義も掲げず自分に当たるもの達を手当たり次第に倒しているようにも見える。つまり主人公こそが野心と欲望の虜であり、敵対者を犬や豚のように屠っているのではないかという見方もできて、それについての答えは4章に持ち越される。そういう意味のことを黒ランスロットに突かれるシーンがあったはずだ。

そして、カチュアを死なせることでこのコースが確定する。主人公覇王となってバッドエンドへ向かう。ギルバルドエンドに行くにはヴァレリアの全ての民族の支持をとりつけ、主人公が単なる「駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚」ではないことを証明しなければならない。

あるいはカチュアを救出し、彼女女王とし、自らは権力はおろか故郷であるヴァレリアからも去ることで、ようやく主人公の行動が「駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚」ではなかったということを証明する。それがグッドエンドということになっている。

以上、ネタバレ注意で。

2015-12-03

左の人達って敵対者をちゃん付けしたり、名前カタカナ呼びにしたり好きだよね。あれってなんなんだろ。

2015-10-29

敵対者言いがかりをつける→敵対者否定する→「疑われるようなことをやっているのが悪い」「やりそうだと思われていること自体問題」というのは無敵論法なのでやめよう。

2015-08-30

http://anond.hatelabo.jp/20150830101604

「誰が見ても明白な」「捜査の糸口」ってそんなもんだよ。全容解明がいきなりでてきてたら、それはもう内部のリークか敵対者による陰謀やろ。

2015-08-02

http://anond.hatelabo.jp/20150802091703

差別用語でも人を傷つける言葉でも何かの犯罪行為を推奨するような言葉でもないのに禁止を要求するのは

そこに政治的敵対者に都合の良い何かがあるから

2015-03-24

http://anond.hatelabo.jp/20150324155408

たぶん問題点認識してない?

フェミ敵対するオタクネトウヨかどうかが問題なんじゃなくて

オタクは等しくフェミから見ると敵対者ってところが問題点から

フェミニスト攻撃性を見ると左翼オタクでも攻撃してるようにみえ

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

ヒロイン

ほとんどの場合ラノベヒロイン必要不可欠である水島飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である

このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合ヒロイン傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。

一部の例外を除いて、ヒロイン主人公に惚れなければならない。榎本はヒロイン主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れ場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。

突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。

クーンツ登場人物個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為描写することの方が好ましい、という指摘である

中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。

従って主人公ヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。

さらに、この指摘は主人公ヒロインに惚れることについてもまったく同じである美少女であるツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。

登場人物オリジナリティ

水島登場人物オリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。

西谷は次のような指摘をしている。

ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクター名前だけを変えて自分小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです

五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島特に踏み込まないが、この点で大塚既存キャラクター抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。

確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚オリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。

一方、様々な属性ランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性オリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。

繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナル属性」に価値は無いと言っていいだろう。

プロット

プロットについての学術定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロット定義明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。

よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事配列」と定義することとした。

さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。

プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから

キングはこのようにプロットを練る必要などないとする。

このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツプロットに関して次のように述べている。

作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である

作家登場人物小説の方向や狙いをすべてまかせてしまえば、必ずみじめな結果におわる。

ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。

ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。

しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。

まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿キングは6週間寝かせるが、それは「プロットキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。

確かにキングプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。

宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。

このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。

プロットの手順

以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。

練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。

従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。

キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルプロット作成手順を提案しており、そのメリットスケールの大きい物語ができること、デメリット時間がかかることだとしている。

他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。

水島の提案はこの西谷後者の説に類似しているが、「ヒロイン出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである

榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的プロット作成できるとしている。

大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカードオリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロット作成できるとする。

割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為モデル主体、援助者、敵対者、送り手、対象受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。

これ以外ではさら物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。

プロットカードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家アイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のもの現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。


プロット構造

ラノベ作家陣によるプロット構造に対する言及曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。

いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及特にない。

水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。

あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーン最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。

確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。

さて、榎本は次のような構造プロットが持つことが望ましいとする。

クーンツもまた、古典的プロット成功パターンとして以下のようなプロット構造を推奨する。

念のため触れておくとクーンツミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルプロット必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンル必要十分条件最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。

大塚プロット構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロット本質的構造アラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさら抽象化したものだと言いうるだろう。

ところでクーンツの主張するプロット構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥風姿花伝における序破急概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。

フィールドプロット理想的構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。

フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。

PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。

映画脚本における理論であることからフィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。

クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。

なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画マトリックス」におけるMidPointはネオ救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しか物語をこれまで動かしてきた大前提崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

 
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