はてなキーワード: 経済人とは
この日記は、日本がアメリカの政治に関心を持つ余裕はないと述べ、日本の行き詰まりと衰退を強調しています。アメリカは国内問題がありつつも、官僚や経済人の優秀さから大きな崩壊は避けられるとし、トランプのような大統領が出ても極端な政策が実行される可能性は低いとしています。一方、日本は産業の国際競争力が低下し、自動車産業も無策で、IT分野も世界に勝つ見込みがないため、経済全体が「ラストベルト化」する運命にあると警鐘を鳴らしています。
さらに、長期政権の自民党も問題解決できず、財政面や成長の見込みもないため、移民労働力に依存する形でのみ社会が支えられている現状を指摘しています。このままでは地方も徐々に衰退し、労働力不足や治安の悪化という危機に直面すると警告しています。将来への明確な改善策はなく、日本が人工知能などで奇跡的に復活するか、陰謀論に走るかのどちらかだと悲観的な見解を示しています。
トランプが誕生したぐらいでアメリカがどうにかなるわけでもないのはもうわかってる
どうせそこまで極端な政策は実行できない
まあ赤い州の若者が中絶とかLGBTとかでいやな思いする奴はいるんだろうけどどうでもいいよ
大きく動くのは結局アメリカ国内のゼロサムな話であり4年8年スパンでシーソーするだけ
国内治安だの薬物だの、トランプ以前どころか建国以来からずっと悪いんだからさ
トランプもほんとにヤバイ軍事侵攻とかをするほどの極端なバカではない
むしろ孤立主義の介入嫌いであってせいぜい困るのは米国民ではなく西側の軍事力の低い国
アメリカでトランプを産み出したラストベルトだが日本全体がラストベルト化して詰む未来はそう遠くない
トヨタホンダあたりもそのうちしれっと外国に逃げ出して日本の産業保護とか投げ出すだろう
まあ日産とかの弱小よりは耐えるだろうけど長期的にはもう終わりが見えている
それ以外の基礎的な工業はもっと耐えそうではあるが労働者を吸収できる規模は小さくなる
今はのんきしている業界も結局は日本語圏の工業マネーを吸い上げてるだけなんだから
医療だろうが文系コンサルだろうが工業死んだら端から壊死していくしかない
そしてトランプは対中融和に走るだろうから西側の工場路線で生き延びる流れも弱まって
日中共倒れになるまでデフレ輸出絶滅戦争をやる方向に行くと考えるのが自然だろう
本質はもう日本に投資を呼び込めず、国内マネーも集められず、研究もインフラ投資もできないというところなので
そこに目をつむって何をやってもあまり意味はないし政権交代しても変わらなそうである
もう成長しないのだから
債権がある奴らは国内労働者の低料金サービスを受けられてお得な成熟した衰退国だが
移民問題も米国はあくまで流入に苦しんではいるが呼べばいくらでも来るのだ
日本はもうそろそろ最初の段階、サービス業がアジアと同水準になりまともな人材は呼べなくなる
もしこの水準を超えたら一気に人手不足からインフレが爆発するか
それがいつ来るかは読めないが状況がよくなることはない
地方が壊死していくのをじりじり見ているだけ
みんな薄々分かっているから人工知能で世界革新レベルの奇跡の逆転に祈るか
逆に陰謀論に走ってそういう新技術へのアレルギーで自然派カルトになるかの二択
トランプがアメリカを救うのを待っている共和党信者よりよほど深刻に詰んでいるのだが
いや分かっている
以下は経済学における未解決問題のリストである。これらの問題の一部は理論的起源を持ち、一部は正統派経済理論が経験的観察を説明できないことに関するものである。
1950年代に始まった経済学における論争である。資本財の性質と役割、および集計的生産と分配に関する新古典派的見解への批判が争点となった。自然成長率が外生的か内生的かという問題が論争の核心にある。この論争の決着については経済学者の間で合意が得られていない。
マルクス経済学に特有の問題で、社会的必要労働時間に基づく商品の価値を市場の競争価格に変換する一般的規則を見出すことである。本質的な難しさは、直接労働投入からの剰余価値の形での利潤と、商品間で大きく異なる直接労働投入と資本投入の比率を、全投下資本に対する平均利潤率の傾向と調和させることにある。
消費者がすべての選択肢を購入できる場合、顕示選好理論は本当に消費者の選好を明らかにするのか。例えば、消費者が3つの商品を購入できる場合、AからCへ、そしてBへと購入順序が変わっても、これは消費者の選好がA > C > Bであることを示唆するのか。
一般均衡理論の定式化において、タトヌマン(試行錯誤)が重要な役割を果たす。初期契約が均衡をもたらさない場合、それは終了し、新しい契約が策定される。初期契約が解除されない場合、元のプロセスの誤差の程度に応じて、異なる価格セットにつながる可能性がある。
行動経済学の研究により、人々が認知バイアスの影響を受けることが明らかになった。これらのバイアスを経済モデルに組み込む統一的なモデルはまだ見られていない。
過去100年ほどの間、米国の株式の平均実質リターンが債券のそれを大幅に上回っている理由を説明することが課題となっている。
配当を支払う企業が投資家から高い評価を受ける傾向がある現象の説明が求められている。
これらのモデルには多くの重要な制限があり、特に歴史的な市場の動きを考慮できないことや、オプションを過大評価する傾向がある。
国内の地域間貿易が、法的障壁がない場合でも、異なる国の地域間貿易よりも実質的に大きいという観察結果を説明するフレームワークが現在存在しない。
多くの国の個人や機関が、グローバル経済でポートフォリオを大幅に分散させる能力があるにもかかわらず、外国株式をわずかしか保有していないという観察結果の説明が求められている。
消費が産出よりも国家間で相関が低いという経験的観察を説明することが課題となっている。
OECD諸国において、長期的な国民貯蓄率の平均が国内投資率の平均と高い相関関係にあるという観察結果の説明が求められている。
実質為替レートが多くのモデルが示唆するよりも変動性が高く、持続性があるという観察結果を説明することが課題となっている。
為替レートと経済の他の部分との間の短期的なフィードバックリンクが弱いことを説明することが求められている。
新古典派経済モデルの普遍的妥当性に関する論争が続いている。形式主義者は適切な修正を加えれば任意の社会に適用できると主張するが、批判者は合理的選択と効用最大化の普遍性に疑問を呈している。
金融に勤めるというのは金融機関の業務をやるということであり、金融機関の業務というのはマクロ経済とは大して関係のない実務なので、「経済人」と言えるようなものにはならない。
経済人ってのが民間企業勤務経験ありを指すなら、猪瀬は作家になる前に出版社で働いてたはずだし、百合子ですらJALのカイロ支店かなんかで働いてたんじゃなかったっけ?
人は合理的経済人ではなく非合理な存在だから、とリチャード・セイラーは言ってた
「みんなの力で暴力」の立て看板の全文は「「みんなの力で暴力追放」で、実は暴力事件が沢山あった地域だったっていう棘がバズってるけど、
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2306458
「暴力はいいぞ、ケンシロウ」のアミバとか「暴力は全てを解決する」のコマとか入れられているが、こういう看板のいう暴力って一般的な暴力じゃないのよ。民暴なのよ。
こういう看板は昔は沢山あったけど今は限られている。今は駅前、寂れた商店街、警察署が多い。
その看板の名義見た事あるだろうか?警察、ライオンズクラブ、ロータリークラブ、商工会、JC(青年会議所)が多いのだ。
ライオンズクラブ、ロータリークラブは共にフリーメイソンのスピンオフみたいな組織で経営者が多い。地域の実力者や法人が加入しているのでコネが欲しい経営者も加入する。
で、一番多く建てられた時期は平成の初期だ。
この当時、ヤクザ問題が深刻化していて、ハリウッド映画にも凶悪なYakuzaとしてよく登場している。
ヤクザは様々な犯罪を起こすが、国家権力、特に警察が重要視していたのが経済がらみの犯罪や犯罪紛い行為だ。
今では考えられないが、当時は会社の経済活動にヤクザが絡んで来るというのは当たり前の風景だった。総会屋などは商法改正でパージできたが、民事紛争でヤクザが出張ってくる事件屋とか、不動産物件を購入や落札したのにヤクザが居座っている占拠屋とか、会社間の債権がヤクザに売られて取り立てに来るとか、色々とキリがない。他社と揉めたら会社の前に右翼の街宣車が来て「糾弾」が始まったりする。
必ずしも金を要求されるわけじゃないが、どこかに対して経済的な見返りをしないと収まらない。その相手はヤクザの企業舎弟やヤクザに金払った会社だったりする。
一度関係が出来ると延々としゃぶられる。
こういう状態に関して警察が働きかけて「紛争でヤクザを使うな」と呼びかける為にそういう看板を設置させたのよ。「暴力団を使うな」じゃないのは、企業舎弟とか経由するからヤクザと直接の関りとならないから。
今はこの「暴力」追放が使われなくなったのは反社という概念が出来て浸透したから。
平成初期はその概念も無く、ヤクザがあちこちで経済活動に関与しているのは当たり前の状態だった。そこからヤクザを取引や紛争解決の場から排除しようという流れに持って行くための警察の活動が「暴力追放」という看板の設置だったわけ。
新暴対法は1991年に施行されたが、最初はあまり効力を産まなかった。
ところがそこから警察があらゆる手段を取るようになってかなり物騒な事件が続出した。例えばパチンコの三店方式は警察がパチンコ店主を説得して導入させたものだが、この導入初期には営業中の店への銃撃事件やダンプ突っ込み、バキュームカー逆噴射、店主の傷害事件などが起きている。
それらに対して警察は身を守るという約束をして用心棒を兼ねて警察OBの天下りをさせるようになった。パチンコもうけ過ぎの構造はこういう経緯があって出来たもんだ。
当然今までトラブル解決をヤクザに依頼していた会社はマル暴デカに脅されるし、企業舎弟との取引がある会社も切れと警告される。ヤクザは「警察と俺等とどっち取った方が安全か判るよな」と脅す。
そういう中で民暴という概念を啓蒙して流れ作るために警察が経済人の組合抱き込んで設置させてたのがああいう「暴力追放」看板なのよ。だから設置者がPTAとかじゃなくて経済団体ばかりなのだ。
ってー事で「暴力追放」看板は古い(平成初期)のばかりなのだ。21世紀に入ると反社概念が周りはじめて対反社条例などがどこにでも出来、「暴力追放」概念は過去のものになったから。
あと、ヤクザが地場産業企業とくっついていたので、市長がヤクザ関係者とかそういうのも普通にあった。
何しろ高度成長期まで遡れば、労働争議に会社にやとわれたヤクザが突入してストライキしてる側を殺したりとかもあったわけで。
地上げで、ヤクザ金融から金借りた債務者のどっかの経営者が普免しかないのに大型ダンプ運転してハンドル操作ミスって「偶然」地上げ受けてる家に突っ込んだり、放火されて死んじゃったりとか。
そういうの根絶するにはその犯罪取り締まるだけじゃなくて、面制圧して干す必要があり、それには経済活動から排除するっていう機運が必要だったのだ。
私の仕事のスタイルは、知識よりもIQに頼るという言葉がぴったりだろう。
Elasticsearchという検索システムを使いこなすにはどうすればいいのか、そんな問いに直面したとき、私は本を一冊読み込むような堅実なやり方ではなく、ドキュメントを目に焼き付け、実行しながら身につけるという方法をとる。
私はIQを馬力に例え、RQをエネルギー効率に例えることがある。
RQとは合理的知性のことで、知らない人もいるだろうから説明しよう。
「1/2で100円、1/2で-10円」の賭けと、「100%で50円」の賭けどちらを選ぶか、という問題に対して正しい答えが出せる能力がRQである。
私は学生時代にミクロ経済学を学んだことがあり、成績も優秀だったので、「合理的経済人」がどのような行動をとるのかは理解している。
しかし私は統合失調症であり、RQそのものは低いのだ。自制心がなく、ゲームなどにはまると抜け出せなくなる。
だからエネルギー効率よりも馬力で突き進もうとする。何かツールやフレームワークを学ぶときは、本を丁寧に読むのではなく、チュートリアルやドキュメントを一日で吸収しようとするのだ。
実は私は、引きこもり気味ながらも、スポーツは得意だった。特に体操はそうだった。
だから学ぶ方法も、マッスルメモリに頼るという筋肉質な方法になってしまうのだ。
私が設定するパスワードは長いのだが、これらはマッスルメモリで覚えている。
同じようにプログラミングも、「とにかく実行を試す。試行錯誤。トライアンドエラー。やってれば覚える」という感じだ。
パターン認識は、このような筋肉質な側面を持つのではないかと思うことがある。人工ニューラルネットワークも、同じようなものではないか。
馬力でなんとかしてきたことはわかった。ではなぜ地道な努力を避けてきたのか。それは、汎用性の低いものを学ぶのに時間をかけたくないからだ。
プログラミング言語ならまだ汎用性があるが、具体的なツールについては、その場で理解できるし、時間をかける必要がないと思うのだ。
私が数学が好きなのは、まさに汎用性という観点からだ。エドワード・フレンケル教授は汎用数学を「ペンキ塗りのようなつまらないもの」と言ったが、まさにそのペンキ塗りが仕事をするうえで重要なのだ。