はてなキーワード: MARCHとは
同級生が朝早くから夜遅くまで働いて、疲れ果てて土曜はずっと寝てて
今日の日本で全人格的労働を求められることが広く知られている中で
起業することもなく既存の企業で働いていくことを、選んだのだから
自己責任だと考えていた。
その生活を選んだのは本人であるから、自己責任であると思っていた。
Cortezの立場をとるなら、これは公民権の問題であって、自己責任ではない。
子どもを持ちたいと願いながら、それが叶わない生活の中に制限されているのは
| 【全訳】米国史上最年少の女性下院議員がキング牧師ばりの演説
| https://courrier.jp/news/archives/150572/
| Watch Alexandria Ocasio Cortez’s Inspiring Women’s March Speech | NowThis
| https://youtu.be/TNJZhuZCYow
Hello! Thank you. New York City!
Are you all ready to make a ruckus?
Are you all ready to fight for our rights?
Are you all ready to say that in the United States of America everyone is loved, everyone deserves justice, and everyone deserves equal protection and prosperity in our country.
It is such an honor to be here, and I don’t think it’s a coincidence that we’re gathering here today, the weekend before Martin Luther King Day.
Because I believe this moment and where we are right now is a resurgence from where the civil rights movement left off.
And we are here to carry the torch forward.
Because when we talked about racial and economic justice, racial and social justice, we started to really extend those issues to the issues of economic justice, environmental justice, and the intersectionality and interconnectedness of all our fights.
Justice is not a concept we read about in a book.
Justice is about the water we drink, justice is about the air we breathe.
Justice is about how easy it is to vote.
Justice is about how much ladies get paid.
Justice is about if we can stay with our children after we have them for a just amount of time – mothers, fathers, and all parents.
Justice is about making sure that being polite is not the same thing as being quiet.
In fact, oftentimes the most righteous thing you can do is shake the table.
Last year we took the power to the polls.
And this year, we’re taking power to the policy, because we have taken back the House of Representatives.
This year we’re gonna organize.
This year we’re gonna fight for voting rights.
This year we’re gonna keep pushing, because 2020, we took – in 2018 we took the House of Representatives, and through 2020, we’re gonna take the White House and Senate, too.
That’s what we’re gonna do because we need to advance and fight for an America where all people are welcome and no people are left behind.
And I know that while this year has been historic, there’s a lot more congresswomen left here in this audience right now.
There’s a lot more city councilwomen.
There’s a lot more workers that will be building businesses.
There’s a lot more – and I know that there’s a future president out here, too.
Let us remember that a fight means no person left behind.
So when people want to stop talking about the issues
that Black women face,
when people want to stop talking about the issues
that trans women or immigrant women face,
we gotta ask them, why does that make you so uncomfortable?
Because now, this is the time that we’re gonna address poverty.
This is the time we’re gonna address Flint.
This is the time we’re gonna talk about Baltimore & the Bronx, and wildfires, and Puerto Rico.
Because this is not just about identity, this is about justice.
And this is about the America that we are going to bring into this world.
平均学歴MARCH程度の会社じゃあなあと鼻で笑われるかもしれないけど、東京特別区とか政令市とかみずほ銀行とか首都圏の第一地銀とかサイバーエージェントとか楽天なんかも平均学歴MARCHくらいだろう。
俺のとこは無名だけど東証一部上場の大手メーカー。売上1500億の本体社員数2000人弱ってところ。
新卒だと280万くらい。これはまあわかる。30歳主任で400万(申請上限36時間の残業代込)くらい。頭おかしい。
40歳の課長代理で600万くらい、45歳の課長(同期の多くはなれない)で750万くらい、50歳の次長(同期のほどんどがなれない)で850万くらい?、53歳の部長(同期のほとんど全員がなれない)でようやく1000万弱。
おかしくね?ずーっと黒字の超優良健全財務状況の大手企業だぞ?
確かに東京一工卒は少ないし、ニッコマ卒もそれなりにいるけど早慶や地帝はゴロゴロいて周り優秀な人ばっかって会社だぞ?
もしかして大卒者だらけでMARCH卒がボリューム層の会社ってこのくらい薄給なのが普通なのか?
東大卒が当たり前にいるレベルの会社じゃないと30歳600万、40歳800万、50歳1000万円みたいな年収水準にならないのかこの国は?
てか、粗利はどこに消えた?
今までなんとなく生きてきた。
なんとなくでもそれなりにこなすのは得意だった。
ただ、それなりにこなすことができれば満足して、それ以上の努力はしてこなかった。
漫画だと一夜漬けのシーンは数コマで終わるのに、学生時代に真似したところで一夜漬けを始めて1時間で眠りこけてた。
昔から将来の夢を見つけることもできなかった。
ただ、なんとなく生きていた。
この頃から目立ちたがりだった気がする。
テストの点数は右肩下がりだったが、問題のあるレベルじゃなかった。別に焦りもしなかった。
そこには確かな夢を持った同級生がたくさんいた。
きっと自分も高校の3年間でやりたいことを見つけられるんだと信じていた。
3年間で彼女がいた時期もあった。自覚は無かったけど、所謂青春がそこにあったんだと思う。
ただ、将来の話題になると、具体的には何も思い浮かばなかった。
卒業前に題材自由のミニ卒論を完成させなければいけないんだけれども、題材を考える時間が一番長かった。
大して時間もかけずに、陳腐な内容で適当にお茶を濁して終わらせた記憶が残ってる。
学科柄、就職を進路に決めている人が多い中、なんとなく進学を決めた。
成績も優秀では無く中の下に成り下がっていたので、推薦入試も使えなかった。
やりたい事がみつからないからこそ、少しでも有名な大学に進学しなければと考えていた。
そんな後ろ向きな目標で必死に勉強することも出来ず、受験勉強もなんとなくだった。
一般受験をする生徒は珍しいので、同級生や先生は応援してくれた。
現役時代ですらまともに勉強できないのに、浪人が出来るとは思えなかった。そのまま第二希望で1ランク下の大学に入学した。
就職した同級生は皆輝いていた。何とかして自分も輝きたくて焦った。
でも、何となくで入った心理学科の授業はまったく面白くなかった。興味も持てなかった。
時間だけは沢山ある中、ネットゲームに実装されたばかりの対人コンテンツでランキングに入ることが出来た。
ゲームのフレンドからは賞賛された、知らないプレイヤーに声をなんどもかけられた。
そしてなにより、自分の名前がランキングボードに載っている事が最高だった。
ただ、それも長くは続かなかった。
コンテンツの人口が増え、コミュニティや戦い方が成熟し、要求されるスキルが上昇していくのについていく事が出来なかった。
声をかけられることもパタンとなくなり、かといって追いつこうと練習することもなかった。
ランキング上位への熱意も冷め切って気づいた頃には、単位の全く取れてない留年確定の大学生がそこにいるだけだった。
留年して通学する貯金もなく、そもそも心理学への興味が一切なかったので大学は中退した。
兎に角働かなければ食っていけない状況に追い込まれて、SIerに就職した。
面接で「君と是非働きたい」なんて言われて浮かれたけど、今思えば誰にでも同じことを言ってるに決まってる。
最初に配属された現場はプログラミングのプの時も無い倉庫整理だった。
中高と体育会系の部活に所属していたので、上下関係には慣れてたし、挨拶や体力に問題はなかった。
「直接雇いたいから連絡をくれ」と言われたが、22歳の自分にはこれからずっと倉庫整理で食っていくなんて考えられなかった。
何と言えばいいのか、変なプライドがあったんだと思う。
小中高と目立ちたがりだった自分がそんな誰にでも出来る仕事をこなして爺ちゃんになるなんて考えたくもなかった。
プログラミングのプくらいはあるかもしれないが、
メインはExcelに書いてあるように操作して、PASSかFALSEをつけていくだけだ。
これもそれなりにこなすだけだったけど、最初の倉庫整理よりかは給料がよかった。
今まで買えなかった漫画、ゲームを買える経済的余裕もでてきて、
毎月の給料で今まで金銭的理由で楽しめなかったコンテンツを味わって2年が経った。
ゲームも漫画も楽しいけど、仕事は相変わらずそれなりにこなすだけだった。
といっても特段業務内容に変化は無かった。
このまま何となく勤続年数に応じて給料が上がっていき、何となく生きていくんだろうかと不安になったし、まあそれでもいいかと思うようになっていた。
けど、変わった。
年末、山手線の高輪ゲートウェイ駅開通のテレビCMを見たときに急に何かに気づいたような感覚に襲われた。
「あ、これがやりたいことだ」と感じた。
これ、というのが簡潔にいうと「自分が関わったのがわかる形で"何か"を作り、残したい」だった。
言い換えれば、自分の存在を認めてもらいたい、つまりは承認欲求が溜まりに溜まったものなんだろうか。
昔から目立ちたがり屋だった事、ネトゲでランキングに名前を残すことに躍起になっていたことからも、人より承認欲求が特に高いのかもしれない。
"何か"は別に高輪ゲートウェイ駅みたいに実体である必要もない。
なるべく多くの人にこれは自分が作ったんだといって見てもらいたい。
具体的ではないけど、夢に近いものをテレビCMを見て気づいた。
義務教育にプログラミングのカリキュラムが導入されているこの時代、スタートは遅いけど、まだ諦めるには早いのかもしれない。そう思った。
どうすれば「"何か"を作る事」に近づくことができるかを考えて、開発側の業務に移れるようPythonの勉強を始めた。
Progateでチュートリアルやった後に何に手を付ければわからなくて、既に壁にぶつかってる。
特にスキルも身につけずアラサーを迎えたITエンジニアだけど、この気持ちを言語化してみたくて書いた。
やりたい事が見つかったからなのか、敬遠していたFaceBookを見ることができた。
文化祭で映像を作ってた友人はYoutuberになってたし、高校卒業前に惚れてた笑顔が素敵な女の子は舞台俳優になってた。
MARCHは3ヶ月で余裕wwwwwww
ここのところ、東大とか京大を受験して合格した人々の投稿が続いているけど、それが何年前の話なのかはおいといて、細かく模試の成績とかを覚えていることに感心する。私は大学を出て就職してから25年以上も経っているので、あまり細かいことは覚えていなくても仕方ないと思っているけど、勉強が出来る人、努力家の人というのはそのへんからして違うのかも知れない。
私はそこそこ進学校で有名な公立高校に通っていたわりには、受験勉強にあまり熱意がなく、浪人覚悟で東大一本とか早稲田一本とかやってるクラスメートを横目に何とかMARCHのとある学部に滑り込み、自分より成績のいい友人に「合格おめでとう」と言わせた記憶だけが残っている。確か彼女は私が入った大学の中で一番偏差値の高いところを滑り止め(!)にしており、第一希望の国立大学に落ちたという理由で一年浪人した後、東大に合格した。
そういう人たちを見ていてすごいなと思うのは、とにかく努力家であること。そして努力を続ける根性があること。私はあまり受験勉強に熱心でなかったので、私大文系にすれば数学と理科を受験しなくていいからと理系の勉強をほとんどスルーし、保険のために第一希望と同レベルの大学や学部を何校も受けるようなことはせず、確実に受かりそうな大学しか受験しなかった。今思えば早慶ぐらい受験しておけば良かったかも知れないけど、うっかり合格してしまって大学生活で勉強について行くのに苦労したり希望の専攻に行けなかったりするとイヤなので受験料をムダにするようなことはしなかった。
だいたいよほどのエリートコースを目指さない限りMARCHぐらいの大学を出ていれば困らないと思っていたし、実際バブル崩壊直前に就職活動をした我々はそこそこ名の通った企業に入社する連中が多かった。飛び抜けて成績優秀な先輩や後輩はキャリア組官僚になったり司法試験に受かったりしたが、さすがにそれは一握りのエリート限定でまぁそれが妥当な結果だろうと思える状況だった。
で、無事就職するところまで行ったはいいが、自分の欠点として反省しているのは「(勉強でも仕事でも)ほどほどに足切りされない程度にやればいい」「完璧を目指して自滅するのはバカ」という認識がしみついてしまったこと。だいたい職場で優秀だと見なされる人間は、「結果を出すためにベストを尽くす」ことを旨とし、仕事のために自分の時間を犠牲にすることを厭わなかった。でも、優秀だと思われると激務ポストでいいようにこき使われ、嵐のような残業に耐えるわりにはさほど見返りがないので、全然そういう人々を羨ましいと思えなかった。
さらに私のやる気を失わせたのは、2~3年ごとに人事異動があり、異動のたびに前の職場で覚えた仕事がムダになることだった。結構専門的な仕事であってもきちんと研修が行われることは少なく、一所懸命勉強しても異動すればそれがパーになると思うと、自分は必要最低限の仕事だけこなして極力定時で帰れる職場こそ最高だとしか思えなくなった。当然そんなヤツが上司にいい評価をもらえるはずはなかったけど、まっとうに出勤して最小限の仕事をしている限り、上司も私の給料を減らすようなことはできないのだった。逆に優秀だと評価されている人間でも、多少給料に色が付く程度で、むしろ収入の差は自分の時間を犠牲にすることによって得られる残業手当によるところが多かった。
一番つぶしが効くのは、新人の女の子がよくやらされる「庶務担」というやつで、旅費や残業手当の計算をし、年末調整の時期が来れば書類を皆に配って書き方や必要書類の指導をする仕事だった。一緒に福利厚生や社会保険関係の手続きもする。あとは経理系の仕事で、予算の執行状況を見ながら消耗品を買ったり業者に支払いをしたりする仕事だ。私は今、勤続25年を超えてそんな仕事をしている。我ながら給料ドロボーな気がしなくもないが、どうしても仕事を生活費を得るための手段としか思えないのでどうにもならない。仕事自体にモチベーションを見いだせる人、「ベストを尽くそう」と頑張れる人がちょっとだけ羨ましい。
自分でも何が言いたいのか分からなくなってしまったけど、「仕事でも勉強でもモチベーションを持って努力し続けられる人は偉い」「家庭の事情などが許す限り、勉強(スポーツなどでも可)はやれるところまで努力した方がいい」というのがまぁ結論なのかな。ただ、仕事に関しては「優秀な人に仕事は集中する」「頑張り屋だと思われるとどんどん重荷を背負わされる」というのが鉄則なので、自分の会社で過労自殺とかが出るようなところに勤務している人は無理しすぎない方がいいと思う。長文なのに大した結論じゃなくてごめんなさい。
https://anond.hatelabo.jp/20190102063518
読んだらわたしも書きたくなったので書く。もう10年以上前の話ではある。
元増田と違い中学受験や私立とは無縁で、片田舎の公立中学、公立高校を卒業して京大に入学した。
勉強なんてほとんどしてなかったけど、テストでは常に学年トップで完全にお山の大将だった。
一方で家庭環境的にいろいろあった時期でもあり、また自分自身もいろいろ拗らしてた時期でもあったので、私立組やいわゆる英才教育を受けている人たちへの異常なコンプレックスがあった。塾なんかに頼るやつは元々馬鹿、私立高に通って高いお金出さないと勉強できないやつに勉強する意味はない、などと誰彼構わず吹聴していた。今思っても最悪の性格だった。
将来の展望なんてこれっぽっちも見えてなかった。大卒の大人は周りに全然いなかったし、もちろん官僚なんて言葉も知らない。そんな中、ある日法事だかお盆だか正月だかで叔父に当たる人と久しぶりに会った。聞くと某地方総合大学の工学部を卒業し、自動車系メーカで開発をしているとのこと。元々機械は好きだったので、その仕事をすごくかっこいいと思った。そしてそれ以上に、その人の身なりや車(といっても今で言うアルファードみたいな上位国産車)、余裕、羽振りの良さなど、あらゆるところに今まで自分の周りになかった、ハイクラスな何かを感じ、衝撃を受けた。今思えば(叔父には悪いが)お金持ちのモデルとしてはずいぶん控えめではあるが、それでもこの衝撃は大きかった。自分の目の前に一つの道が示されたような気がした。
そんな自分に両親はとても優しかった。自分の選択や意見をいつも全力で肯定し続けてくれた。今思えば自分の可能性を広げるための最大限の配慮をしてくれていたのだろう。
結局地元で2番目ぐらいの公立高校に行った。理由はいろいろあるが、自転車で通えるというのは大きかった。自宅からの公共交通機関のアクセスが最悪だったからである。
この高校は一応進学校とは銘打っているものの、毎年東大はゼロ、京大が1人いるかいないか、旧帝大に数人、といった感じだった。相変わらず高校でもお山の大将だったが、高校は全国模試があるので自動的に全国の高校生と比較される。片田舎の小さな小さなサル山で大将を気取っていた少年はここで初めて現実を知る。
1年生の夏、家族で京都に旅行に行った。古い街並みと近代的な景観が融合するこの街を、わたしはすぐに好きになった。さらに、この旅行の行程には京都大学観光が組み込まれていた。今思えば、両親がわたしのやる気を引き出すために連れて行ってくれたのかもしれない。ともあれ、権威のシンボルである時計台、自由を象徴する立て看板、鴨川と百万遍の街並み、どれもが自分の心を強く打った。
本気でそう思った。
そこから勉強を始めた。あんなに嫌いだった塾にも結局行った。恥を忍んで塾に行きたいと親に言ったときも、やはり親は快諾してくれた。塾は大手予備校講師のOBが地方でやっている個人塾だった。英語と数学を教えてもらっていたが、ここの先生方には現在に至るまでお世話になっている。勉強だけでなく、自分の見識を大いに広めてくれた恩人であり、今でも頭が上がらない。
高2の終わりぐらいまでは漫然と過ごした。学校の授業は地方国立やMARCH、関関同立といったところをターゲットにした内容であり、物足りなく思うことは頻繁にあった。しかし学校の授業でつまずいているようでは京大もクソもない、という信条があったため、まずは学校の授業で習った部分は確実に押さえることを一番に考えた。
高3になると全国模試のランキングに浪人生が入るので、順位や判定が一気に下がって焦った。先生方は「最初は下がるけと徐々に追いついてくる」と言っていたが、秋になっても成績は伸びずにただただ焦った。自分の立てたスケジュール通りにまったく勉強が進捗していないこともあり、更に焦った。焦りすぎてメンタルが不安定になり、何度も勉強中に発狂した。振り回したシャーペンは何本も折れた。親には意味不明な理由で八つ当たりを繰り返した。親はすべて受け止めてくれた。
高3の大晦日の夜、いつもどおり家の机で勉強していたのだが、うっかりそのまま寝てしまい、気づいたら新年を迎えていた。あまりの不甲斐なさに一人で泣いたのをよく覚えている。
受験勉強はチーム戦、という言葉がある。上でも書いたとおり、自分のいた高校は難関校の受験生が少ない。しかし逆にその分、似たような境遇の我々には妙に強い結束感があった。別に机を並べて一緒に勉強したりするわけではないが、模試の結果や参考書の話、志望校の話などをとりとめもなく話せる人が周りにいるというのはとても心強かった。模試の判定を見て落ち込んでいるときや不安でやる気を失いかけているときに鼓舞してくれたのは彼らであった。結果は人それぞれだったが、今でも年に一度は集まる良き友人たちだ。
【試験】
京大工学部はセンター試験の点数配分が恐ろしく低いので、気軽に受けた。特に数学は足切りラインを除くと全く評価されないのでろくに対策もせず、1A2Bともに85点程度だった。ただ周りの友人が満点を連発していたので妙な焦りだけが生まれた。
私立は早稲田と慶応を受けた。どちらも全く行きたいと思っていなかったが、練習だと思って受けた。初めての一人東京だったので異常に浮かれた。慶応の試験前日、下見ついでに少し街を散策したが、これがよくなかった。壮大に風邪を引いた。熱で全く頭が回らず、とうとう英語の試験の途中で医務室に運ばれた。医務室でひたすら泣いた。
京大2次試験の当日、出発前にわたしは親を呼び、これまで支えてくれたことへの感謝を伝えた。いろんな人に支えられてここまで来た。特に親の気苦労とサポートは計り知れない。そのことをどうしても当日伝えたかった。わたしも親も泣いてわけがわからんことになった。
当日は自分でも驚くほど冷静に試験に取り組めた。数学の試験は試験官に手紙を書いているような気持ちで答案を作成した。結果的に完答できた問題はなかったのだけれども。
ところで、新年を迎えたころから自分の中のルールとして「前期試験不合格を連想させるようなことは一切口に出さないし、心にも思わない」というものを設定した。「浪人したら…」「後期試験の対策は…」といったことを考えることも禁止した。発言の自由はおろか思想の自由まで侵害するという、今思えばドン引きするルールだ。バックアップを想定することは合理的であるが、その発想自体が心を弱くする、という根性論だった。今の自分は根性論が大嫌いだけど、ともかくその時はそれが最善だと思っていた。自分なりに必死だったんだろう。
合格発表の掲示開始時間には10分ほど遅れて到着した。すでに合否の熱狂から一段落しているところで到着した形だった。手足が震えていた。すがるような気持ちで掲示板を見た。番号があったので、また泣いてしまった。声を上げて泣いた。今までずっと無理をしてきて、辛かったんだということをその時理解した。その様子を見たアメフト部の人たちに囲まれて、胴上げされた。
【その後】
入ってから色々あったがここでは割愛する。卒業してからは某メーカで開発職をやっている。結局件の叔父と同じような道を選んだことになる。しんどいこともたくさんあるが、機械が好きなのでなんだかんだ向いていると思っている。
【さいごに】
一番お世話になった参考書の一つにチャート式があるが、この巻頭に記載されている「汗をかけ」という文章がわたしは世界で一番好きだ。短い詩なのでぜひ全文読んでほしい。
http://www.chart.co.jp/corp/00epitome/01what/asewokake/asewokake.html
「確実な道」を行く者は、「近道」を行く者よりも、汗をかかなくてはならないだろう。だが、その汗は、絶対に無駄にはらなない。君が、将来“かっこいい大人”“素敵な大人”になれるかどうか――それは、10代の時どれだけ「汗」をかいたかで決まるから。
恋でもいい。グラウンドの上でもいい。
そして、エンピツを握ってでもいい。
フィールドは何であれ、思い切り「汗」をかく人であってほしい。
元増田にもあったが、受験はその構造上どうしても他者との競争の構図ができがちだ。しかし自分自身の弱いところや意地悪なところや卑怯なところと徹底的に見つめ合い、自分の力で一歩一歩進むことに最大の意義がある。
すべての人に受験勉強というプロセスが必要とは思わない。ただ、受験勉強を通して得られるものは決して少なくなく、ただの公式・知識暗記ゲームにとどまらない、自分にとって大切なことを教わる大変よい機会だった。大学ではすっかり落ちこぼれ学生だったが、多種多様の人たちに出会い、自分の見識を常に広げ続けさせてくれた京都大学には本当に感謝している。
私の母は中高大と女子校に通っていたらしいけど、「もっと男の人と遊んでおけばよかった」と還暦間近のくせに愚痴ってる。大学ではなかったらしいけど中高時代はいじめや陰口が当たり前だったという。とにかく聞いていて嫌だったのは教育実習生と生徒が付き合うとか、講師と生徒が付き合うとかいう話。卒業したから問題ないでしょ?ってスタンスであったと。
...察しの良い方はお気づきかもしれないが、うちの両親がまさしくそれなのだ。私は狭い男女の環境だけでおさまるなんてまっぴらだ!しかも母は愚痴を言うわりに「他の女生徒ではなく自分が先生に選ばれた」という点にプライドを持っている。その話を聞くたびに私は絶対共学に行って、普通に男女問わず交友関係を保ちたいと思っていた。中学は公立に行きたいとゴリ押しして、勉強を頑張ってMARCHレベルの大学に行ける見込みのある高校に行けなければ両親のいた中高一貫校に行かなくてはならなかったので、勉強はとにかくひたすら頑張った(私がいたときには中学入学と、高校編入のどちらのパターンもあったので気を抜けば入学させられる状況だった)。
晴れて志望する共学校に通うことになった私は楽しくはつらつと通学した。共学に行けてほんとによかった。
そんな自分なので女子校に対するネガティブなイメージが半端ない。女子校なんて無理、絶対無理。ドロドロした陰険なとこなんて誰がいくか!異性への自意識ばっかり高めてさ。絶対いきたくないんだ。
うちの会社、世間的にはまぁまぁの大企業。地元ではまあまあ優秀だったから県内で3本の指に入るくらいの進学校へ。早慶〜MARCHが平均層で、例に漏れずそのへんの大学に現役進学し、4年で法学部を卒業した。
普通に就活して、学科のボリューム層ちょい上の企業へ4年前に入社した。一部上場のメーカー。普通より少しだけ年収は高くて、40代で1000万くらいに届くみたい。仕事内容はルート営業。サボっててもちゃんと数字取れるし、取れなくてもボーナスは殆ど変わらない。
去年結婚して8月に子供が生まれた。今は借家だけどそんなに高くないから助かってる。嫁さんは医療関係の仕事なので俺が倒れてもなんとかやっていけそう。でも今は子育てでそれどころではない。
地元の人からしてみれば、20代で結婚して子供もいて、世界各地に支社のある会社に勤めてる俺は成功者なんだと思う。けれどいい子ちゃんだった時代からぼくは何も変わっていない。人生が楽しくない。
残業代は出ないし社内の派閥はガチガチでいちいち面倒臭い。育休なんて聞けるような雰囲気じゃない。相変わらず残業は多く、専らマンパワーでなんとかすることを強いられている。つまるところ全く幸せじゃない。仕事が楽しくない。
相変わらず若手は抜けていき、より大きな会社へ取られていく。先輩も疲弊していて仕事中に会話は一切無い。役職付きの連中は出世争いに夢中で、総合的な売上と利益率は減り続けるばかり。
何なんだろう。この人生。
ゴールドマンサックスとかってMARCHからでも入れるもんなの