はてなキーワード: 大前提とは
例えの部分で言うと、企業が求人広告に求めるのは人が集まるかどうかであって、多少そのメッセージを受け取る人がいてもどうでもいいんだよな(上回った結果、採用が集まらなかったり売上の低下に繋がるのであれば「広告として失敗」で株主が怒るべき)。企業は利潤の最大化を目的としているという大前提を理解していないように見える。
人並み程度に稼いでるだけの理解ある優しい彼くんの方を女は選ぶ
https://kuuhaku2.hatenablog.com/entry/2019/01/11/041919
>昨日、同棲していた子と別れた。
>大前提として俺はアスペだ。診断を受けたことはないがそう言われたことは数知れず、人の気持ちがわからないと言われる。仕組みとかを分析するほうが楽だ。アスペは共感性の欠如と定義する。
>今回別れた理由は、同棲している彼女が、ゲームで知り合ったおちんぽ騎士団と、ヨチヨチイチャイチャしてるのが気持ち悪く耐えられないから止めてくれ、と言ったのが発端だった。
>彼女は、これはあくまで冗談だし、セックスとかはしてない、だから全く浮気ではないしそれを気にするあなたは気持ちが悪いという。俺は、浮気を疑うとかではない、そいつらが会いにさえこれない地方のただのおちんぽ騎士だというのは知っている、だが気持ちが悪いから辞めてくれと言った。ここには妥協点さえ見つからなかった。
>俺は生き辛いから長生きしたい。生き辛いまま死ぬのは怖いし、生き辛くなくなる日がいつかくるという希望を捨てられないからだ。俺は人の気持ちがわからないけど、一緒にいたい人が欲しい。子供がほしいと最近は思う。自分の子供というジョーカーなら、出来損ないの俺でも愛せる気がするからだ。
スシローで皿ペロやコンビニでおでんツンツン並みに無くてクビなんだわ。何のための秘密保持契約(NDA)って話で下手したら賠償問題。だから、大炎上した
とりあえずエージェント使ってたらそのエージェントは二度と使えない
無限♾️投稿しているけど、マジでここ、なにが増田の理解を妨げているのかわからない。日本は法治国家だぞ?法律と契約に基づいてお仕事する。お気持ちで人員稼働させない
霊界から使命を得たガチスピの人でなくば、端的に基地外ですよね
脚本家のせいで死んだ、編集のせいで死んだ、小学館のせいで死んだ、日テレのせいで死んだ、原作ファンのせいで死んだ、ネット民のせいで死んだ、
いずれも正気じゃないですね
遺書も公開されていませんし、たとえ遺書にある内容が公開されても、それが事実かどうかわかるのも、亡くなった本人だけですよ?
もちろん、虐待・拷問などの物理攻撃を加えられていたとか監禁されていたとか死ぬよう脅されていたとか、
胸糞な旭川14歳少女イジメ凍死事件や類似する事件、くら寿司パワハラ焼身自殺事件や類似する事件、
自殺が裁判で労災と認定されるような事件とか、因果関係が明らかであるケースは除きますが、
それ以外の自死はさまざまな不幸がタイミング悪く重なった結果であって、何かひとつの不幸でどうこうは基本的にない
ここ理解出来ていれば、脚本家のせいで死んだ、編集のせいで死んだ、小学館のせいで死んだ、日テレのせいで死んだ、原作ファンのせいで死んだ、ネット民のせいで死んだ、
そんなイタコ芸は出来ないはずです
もちろん、自死に結びつくことにならないよう社会全体がフォローをするは大前提にあれど、それはそう
誰も今その話をしていないし、何事も命あっての物種だと思いますけど、理解はフツーに出来ます
anond:20240212062553 anond:20240212101950 anond:20240601075043
・脚本執筆経験のない原作者が自分で脚本を書くという要望が通った
・原作者と直接の打ち合わせが行われていない
ってのは確実っぽいけど、このように原作者の注文を通してもらえるのはマジで珍しい現場。最後のは特に。
まず大前提として、ドラマの脚本って作品ではなくて設計図なのよ。
家を立てるときに設計図がないと必要な資材や施工期間が割り出せないように、
脚本がないと必要なキャストやロケ地や撮影プランが考えられない。
ちゃんとしたルールもあるのでそれを知らない未経験者に書かせることも普通はない。
んで第一稿上がってきてもそれが一発OKになることはまずありえない。
Pや監督による意見を反映したり各所の事情に配慮したりと色んな手を加えて決定稿になる。
脚本家も基本はフリーランスで案件単位の受注してるだけの立場だからそれらに逆らう権限はないからね。
その一環で原作者チェックも入るわけだけど、
第一稿の時点で可能な範囲でスケジュールの抑えなんかは動き出してるから大きくちゃぶ台返しがあると困ってしまう。
でも原作者の口出しはなんだかんだ出版社との関係もあって局Pですら容易に拒否できないので、なるべくそういう事態は避けたい。
そこでどうするか?というと、原作者と同席での打ち合わせを行うのだ!
大勢の人間、しかもスーツ姿の偉い人や疲弊した現場スタッフを前に「こういう事情でここをこうしたくて…」と言われてはっきり否定できる人間はそうはいない。
文面でのやり取りではいくらでも要望を書き出すこともできるが、
リアルでの打ち合わせの時間内に出せる意見ならある程度数が限られる。
こうして一回打ち合わせをしてしまばもう「作者の了解を得たもの」にできてしまうので、
なんなら立ち上げのときの打ち合わせだけ呼んで「じゃ、後はこっちでやりますんで!」ってこともなくはない。
完全な憶測にはなるけど、今回の場合は漫画家も出版社もテレビ局も脚本家も全員経験豊富なので、
間に入る誰かしらが原作の内容を守るために良かれと思って直接の打ち合わせをさせなかったのかもしれない。
ただその結果として作者が最初に提示していたまず原作通りに書いてくれという条件も正確に伝わら無かったとか。
まあ間に入る各社で決定権握ってるのはベテランだけど窓口業務は経験の浅い若手がやってたりするんで、
ただでさえ複雑な工程を曖昧な基準で物事が進めなきゃいけないこの業界だと、その手の連絡ミスや行き違いは日常茶飯事だ。
ドラマ制作側が、原作者が首つっこまなくても適切にドラマ化をしてくれていたのならば起こらなかった事態だろうよ
その大前提である原作通りにというのも、いざとなればラストは私が書きますというのも脚本家に伝わっていなかったよね
原作者は小学館と日テレの「ドラマ化しましょうよ悪いようにはしませんから」攻撃に耐えきれなくて
連載中作品なので原作通りということなら、という条件でしぶしぶ承諾したんだろうよ
ドラマ化決定する前から主演女優がベリーダンス練習していて局側では既定路線
漫画連載を抱えながら2023年はじめあたりからドラマ化攻勢との折衝をして
決定した後は脚本監修の作業、さらにラスト2話は自分で脚本書く
作品の最終的権限を持つ原作者だからどれも他人に任せられないし悩みや苦労を分かち合えない
そうして放送もなんとか乗り切ったと思ったら脚本家がボヤいてる
そろそろ答え合わせをしたい。答え合わせをしたくて仕方が無い。
というかチビに聞きたい。
「本当にこの世界線でよかったんですか?」
結果論になってしまうが自分がもしチビなら思ってたんと違う世界すぎる。
確かに効果はあった。プロははく奪、ぼっこぼっこにたたかれ連日ニュースに。
自粛もするはめに。一瞬で築いていた?地位はなくなり無職の仲間入りをした。
暇すぎたのでもしよかったら暇な君も一緒に考えてもらいたい。
たぬかな炎上前
チビに対して特別何かミームがあったわけでもない。何より当時はまだ人権があった。
たぬかな復帰後
知名度を帯び、たぬかなは勢いを増した。(増したというかほぼ0からとんでもない知名度を手にした)
そして、何よりたぬかな復帰後で変わったことは
悲しいことがあるとすればチビ以外は人権発言に対してそれほど正義感もくそもなかったのである。
この前も都内でちびが人権が無いという話をしている学生を目にした。
炎上理由や当時の意見を見てみると「人権がないという発言は良くない。ちびにも人権はあるし、気楽にしてはいけないものだ」という内容が多かった。
しかし今となってはチビたちは人権をノリで奪われる日々になってしまった。
正直言ってたぬかなの功績はよくも悪くも確固たる持ちネタを取得し、世に広めたことだろう。
今じゃ若者で知らない人はいないだろう。だって普通にテレビでニュースになってたんだ。
なぜこんなことになってしまったのか?
一番引いたのはたぬかなのツイートのリプライに6000人のちびが終結して誹謗中傷していた
普通にひいた。
どんだけ攻撃性高いんだ。余裕なさすぎるだろ。
寄せられたリプライは
「プロはく奪ざまあ」
「160です。これでも頑張って生きてます」
などだった。
ねーよ。なんだよその質問。もう無いだろ。あるって言ってほしいのかよ。じゃあないよ!
これ面白いのをとったとかじゃなくて6000リプライをざっと要約するとほんとこんな感じだ(十件くらいしか見てないけど)
連日ツイートでもぶち切れお気持ち表明を繰り返したおかげで、ほとんどの人が「170センチ以下は人権が無い」というフレーズは知っている状態になった。
ほんとうにこれでよかったの?
前にとある有名人が「筋トレしてる人はバカ」とさんざんバカにしたインライがあったけどネットミーム化しなかった。
筋トレしている人がツイートで「俺たちが傷つけていいのは筋繊維だけだろ?」という流れが起こったからだ。
もし、これで腹を立てて粘着質に攻撃をしていたらネットミーム化し、筋トレしている人たちはバカにされていたことだろう。
むしろ有名人で影響力は数人しかみない配信者の比じゃない。それなのにミーム化しなかった。
しかし、攻撃性と余裕のなさが取り柄なとある集団が対象になったときは誹謗中傷を繰り返し燃やしに燃やして回った。その結果人権をはく奪された集団がいるらしい。
あの日に戻ってやり直そう。
やり直すのはたぬかなじゃない。誹謗中傷してしまう腐った根性を持った君たち一人ひとりだ。
もし、あの日燃やしていなかったらこんな気楽に「170センチ以下は人権ない」と言えるものではなかったはずだ。
前まではクラスで「170以下は人権ないだろ笑」と言ったならばよく思わない人が一定数ちび以外にもいただろう。というか言いづらいフレーズであった。
しかし、今となってはどんな人でも気楽に言える言葉の一つになってしまった。なんならどちらかというと笑顔になる魔法の言葉だ。
言った人をもし咎めようものなら「いや、ネタでしょ・・・」となり、至極まっとうなことを言っている人が空気読めないという流れになってしまう。
そんな世界線になった。
たぬかなを燃やして正解だったのか?意見があればぜひ書き込んでみてほしい。
当然、人の容姿を悪く言うことが良くないことだ。
ある著作者は原作を守るように伝えて、別の著作者は好きに改変するように伝えた
どちらのケースも原作の使用の許諾を与えることで人格権を保持していると言える
https://www.star-law.jp/news/nhk.html
NHK側は,平成23年11月に講談社との間でドラマ化の契約を締結し,
平成24年5月に連続ドラマとしてスタートするため,脚本の執筆や出演者の
一部内定などの準備を進めていたところ,平成24年2月に講談社から
「白紙にする」と一方的に契約を破棄された撤回されたと主張し,
ドラマの準備に要した費用等が損害にあたるとして6000万円余りの
損害賠償を求めていました。
ドラマ化されてしまうと心配したのも無理はない。脚本が承認されていない以上,
ドラマ化の契約が成立していたとは言えない」として,NHKの請求を
この判例に準じるならば、
脚本が出来上がって、承認された上で、脚本通りにドラマが作られるとしたら、
著作人格権は保持された上で、原作の二次利用の許諾されたことになる。
だから日テレも原作者の承諾を得た脚本で制作をしていることを強調している。
本気でそう考えているなら編集部は原作者に脚本を書かせるべきではなかった。
あくまで脚本家に脚本を書かせて、ダメ出しをする、NGを出すのみにして、
原作者自身で手を入れさせることはないようにしなければいけなかった
締め切りが迫っていようが、放送日が迫っていようが、
脚本が原作者の思いどおりに上がらない限り、許諾するべきではなかった
上記の判例に従えば脚本もできていないうちにドラマ化の契約は成立しない
出版社と放送局は別方法人である以上、ガバナンスは契約によるしかない
今後、出版社が本気で原作者を守りながら作品を映像化したいと考えるなら
このことを前提にして、放送日程スケジュールより先に脚本をもってこいと言い
脚本がてきていなければ許諾しないことを明確にして進めるべき
ある著作者は原作を守るように伝えて、別の著作者は好きに改変するように伝えた
どちらのケースも原作の使用の許諾を与えることで人格権を保持していると言える
https://www.star-law.jp/news/nhk.html
ーーーーーー
NHK側は,平成23年11月に講談社との間でドラマ化の契約を締結し,
平成24年5月に連続ドラマとしてスタートするため,脚本の執筆や出演者の
一部内定などの準備を進めていたところ,平成24年2月に講談社から
「白紙にする」と一方的に契約を破棄された撤回されたと主張し,
ドラマの準備に要した費用等が損害にあたるとして6000万円余りの
損害賠償を求めていました。
ドラマ化されてしまうと心配したのも無理はない。脚本が承認されていない以上,
ドラマ化の契約が成立していたとは言えない」として,NHKの請求を
ーーーーー
この判例に準じるならば、
脚本が出来上がって、承認された上で、脚本通りにドラマが作られるとしたら、
著作人格権は保持された上で、原作の二次利用の許諾されたことになる。
だから日テレも原作者の承諾を得た脚本で制作をしていることを強調している。
本気でそう考えているなら編集部は原作者に脚本を書かせるべきではなかった。
あくまで脚本家に脚本を書かせて、ダメ出しをする、NGを出すのみにして、
原作者自身で手を入れさせることはないようにしなければいけなかった
締め切りが迫っていようが、放送日が迫っていようが、
脚本が原作者の思いどおりに上がらない限り、許諾するべきではなかった
上記の判例に従えば脚本もできていないうちにドラマ化の契約は成立しない
出版社と放送局は別法人である以上、ガバナンスは契約によるしかない
今後、出版社が本気で原作者を守りながら作品を映像化したいと考えるなら
このことを前提にして、放送日程スケジュールより先に脚本をもってこいと言い
脚本がてきていなければ許諾しないことを明確にして進めるべき
データなど載せず考えず想像、感覚100%でダラダラ書いた素人の戯言です。ハード事業は撤退秒読み、ゲーパスは縮小必須、Xboxブランドの存続は不明と考えている。
ハードが売れない
サービスが伸びない
大前提としてMSはハードの販売台数を公表していない。色々理由を付けているがぶっちゃけ売れてないから数字を出せないだけ。まあ箱が売れてないのは肌感覚や各種データ等で何となく分かると思う。
「でも、撤退する程では無いんじゃないの?」と思われるかもしれない。ただ、後述するゲーパス含めてもう伸びしろが無い。20年以上PSと戦い続けたが1度も勝てなかったしこれからも勝ち目がないのは言うまでもない。良くて現状維持、下がる可能性の方が高い。好転する兆しも起爆剤も無い。PS4に虐殺された箱1より売れてないと言われている今世代。そんな中ハード事業を続けるメリットは薄い。
ハードが売れないからソフトも売れない、市場の狭いからソフトラインナップは充実しない…。と何も良いことがない。今の箱は逆ザヤと言われており売れば売るほど赤字が膨らむ。(出血覚悟で更に安売りしたが、そもそも売れなかったので赤字が広がらなかったギャグみたいな話もある)
撤退論を後押ししているのが、MSのタイトルをPSや任天堂ハードでも販売するマルチ展開をするのではないかという噂。フィル・スペンサー氏の説明を聞いてみないことには真偽は不明だが、私的にこの流れは時間の問題だと思っていた。
箱が売れてないんじゃ始まらないしね。PSでも出した方が売れるし儲かるそんな事はMSも分かってる。それでもなお独占タイトルを有してハード事業を続けてるのはゲーパスを含めたエコシステムを形成したかったから。
今のMSの思惑を整理する。ハードをばら撒きゲーパスへの入口を作る。ゲーパスで安定した収入を得て、その利益で更にタイトルを増やし相乗効果を狙う。ゲーパスはPCでも展開しているからコンソール市場さえ手中に収めれば後はこっちのもの。市場の強者PSを脅かしハードが覇権を握れば自然とゲーパスユーザーは増え好循環が生まれる。概ねこんな感じだろう。
残念ながら最初のハードの普及の段階で躓いた。ハードが売れないんじゃその上にあるサービスも伸びず現状動きようがない。打つ手がないから何も出来ない。
資金が潤沢なMSとて成長しなければ事業が整理される。何兆円もの資金を投じてもなお一向に成長を見せないお荷物のゲーム事業を続けるにも限界がある。投資家や株主の多くは希望なんて無いんだからさっさと辞めてAIに回せと思ってるに違いない。
最初に撤退秒読みと書いたが即撤退は無いと思う。ゲーパス向けのDL専用のハードでお茶を濁してゲーパスと共にフェードアウトするのが落とし所か。いずれにせよ撤退する材料は揃ってる。
ハード事業と共に柱にしたかったのが月額料金を支払うとゲームが遊び放題になるサービス「GamePass」(通称:ゲーパス)。今MSが最も推している、というよりはPSに勝てるルートがここしか無いから力を入れている。2500万人までは会員数を公表していたが今はブラックボックス。恐らく3000万人程度と予測されている。勝負をかけている一方傾かせている原因はこいつだと思ってる。
ゲーパスの最大の魅力はフルプライスのゲームを発売日からプレイできる事(通称:デイワン)。ゲーパスの売りになるのは何か?そう大型タイトルだ。しょぼい小規模タイトルを集めた所で大した強みにはならない。インパクトのあるAAAタイトルを月額料金で発売日からプレイできるこの思惑はわからなくもない。
実際、他社タイトルだけでやるなら大した問題ではない。大金を払って権利を買い広くユーザーから徴収してペイしていく。サブライセンスでリスクを最小にしながらコンテンツを充実させていくのは動画配信サービスなどで一般的に行われている。人が集まらず上手く機能しなくても失うのは金だけで済む。
ところがPSに勝ちたい、ゲーパスとハードの魅力を高めたいMSは買収を重ね自社タイトルを揃える事に注力した。ゲーパスの売りになるような企業の買収を重ねれば重ねるほどゲーパスのペイラインはどんどん上がっていく。価値のある物を揃えれば相応の費用がかかり、それに伴い成長も求められる。
しかし、共存関係にある肝心のハードが売れない。ハードが売れてゲーパスも伸びる算段が崩壊しているのでハード同様手詰まりを起こしている。先行投資で拡大して首を絞め続けてきたがこちらも想定より伸びていないのだろう。
(27年に1億ユーザーを目指していたらしいが箱が売れてない現状不可能と言っていい。むしろよく2500万人まで行ったなとまで思う。)
方針を変えるにも難点がある。まず自社タイトルのデイワンを辞めたとしよう。ゲーパスの魅力が死ぬ割にさして大きなリターンは得られない。
次に一部タイトルのマルチや時限マルチ等で独占タイトルの解禁。現段階で出来る現実的な所はここだと思う反面、買収を繰り返した末路がこれかとユーザーは失望する事に違いない。噂程度の現状でさえ荒れてるのに信頼は0になる。PSを買えばMSのタイトルも遊べるんだからハードはますます売れなくなる。
もちろん収益的な面もあるから値上げという選択肢も無くはないが、仮に今後さらなる買収をした場合、それに応じたユーザーが増えてないことが原因なので根本的な解決には至らないと考えている。
どっちにしろ信頼を失うのは避けられない。ジリ貧のこの状況を脱却するには…いっそのこと両方、自社タイトルのデイワンを辞めてマルチ展開しか無いように思える。ハードは死を迎え(元々死んでるから撤退云々言われるんだけど)、ゲーパスも確実に落ちるので今までやってきた事は完全に失敗に終わる。
それでも今後ハードを持たず伸びていくなら確実に売って収益を上げタイトルを育てる。ゲーパスで安売りを続けてもしょうがない。結局この原点に戻るしか無い。
「ハードが無くても他ハードでゲーパスを」などえらい楽観的な意見を見受けた。少なくとも今の方針を続けるなら恐らくPSや任天堂はゲーパスを受け入れない(何らかの変更は必須)。当然その変更はゲーパスの魅力が失われる物なので会員は減りゲーパスを維持するのは更に厳しくなる。
自社の旧作タイトルのみに絞ったサービス、EAやUBIがやってる内容に変えれば生き残ることは出来る。現在のゲーパスは死んでしまうが今後MSが大手サードパーティに転身するのであればこの道しか無いと思う。
正直撤退してほしくはない。競争がない市場は停滞を招くだけでPS一強になられるのは困る。が、買収を繰り返し腐らせていくだけのMSのやり方自体は支持できない。場を荒らすだけ荒らしてそして私も消えようなんてクソ迷惑。
ただ、現実問題厳しい立場にあって、何らかの動きがあるのは間違いない。吉報か凶報か分からないけど来週の発表を待つしか無い。
BALENCIAGAやBOTTEGA VENETAやJIL SANDERの靴を持っているし
FendiやGucciのカバンも持ってるし財布はValextraだ
Alexander McQueenのシャツやPRADAのジャケット、Our LegacyやLOEWEのニット、AMI ParisにVETEMENTSのプルオーバーも持ってるし
しかし断言するが、絶対に俺はブランド物が好きというわけではない
証拠とはいえないが、ユニクロやZARAの服もあるし、最も多く持ってる靴のブランドはNIKEだ
ちなみに今、貯金してSaint LaurentのSac de Jourというカバンを買おうとしている
https://www.ysl.com/ja-jp/441571B681U1000.html
しかし、別にSac de Jourじゃなくてもいいし、サンローランである必要もない
ぶっちゃけ金持ちでもないから、カバンに50万円も出すのはバカバカしい
その100分の1の値段で、10年は使えるカバンを買えるはずだ
Sac de Jour 並みの品質と材質と質感を備えており、幅40cm前後で縦長ではなく、一泊程度ならできる収納力があり、男性が持っても不自然ではない
天才エディ・スリマンが描いたと言っても疑わないほど美しいデザインの安いカバンを教えてくれないだろうか
ちなみに安い以外の条件に合致するカバンとして、エルメスのバーキン40とかいうやつがあるが、あれは安くてもSac de jourの4倍くらいするらしい
並行して何品も料理できない。
世の中の自炊ガチ勢、主婦の皆様はどういう流れで料理を準備しているのか教えて欲しい。
以下自分語りだから読まずに料理ライフハックだけ教えてくれるのでも全然嬉しい。
一人暮らし歴は長いが数ヶ月に一度しか料理をしてこなかった。昨年から広いキッチンのある家に引っ越したためウキウキで料理をするようになったが自身の効率の悪さに辟易してきた。
クラシルでレシピを見ながら食材を用意し、洗って切って、茹でている間に次に使う食材を洗って切って、その合間にもレシピを見て、炒めて、投入する調味料をレシピ見ながら用意して、火加減見ながら味見して、ようやく1品出来上がる。一つ一つが出来上がるのは嬉しいし楽しいけれども、ようやく1品出来上がった後にさらに副菜、スープ等々を準備する気が起きず主菜とご飯だけの時も多々ある。
一度に3食分程度作るので連日料理できた日は作り置きも含めて品数が増えるが、ほぼ前日と同じメニューになるため、自分1人の時はいいけれど将来結婚して誰かに振る舞う時には嫌な顔されるのかな〜と考えてしまう。
→ガチ勢たちは各料理のレシピを覚えているのか?感覚で作るの?私の場合、自分の味覚に頼って感覚で調味料を混ぜ合わせてもあんまりおいしくならない、どうせ料理を作るなら美味しいと思えるものを食べたい。
→干し椎茸の戻した水って使えるのかな、キャベツって何日保存できるのかな、とか一々調べる時間が毎回ある。これは自炊継続してたら解決するかな。
→全く同じ料理を毎日作るなら作業効率ガチれる自信はある。でも毎日違うもの食べたいよ〜。毎回違うものを作るから手順が想像できておらずよくフリーズする。ポンコツすぎて悲しい。
○少し潔癖
→汚れた調理器具やボウルがシンクに溜まっていく様や、作業場が食材や水で汚れていくのが耐えられず、お片付けタイムを頻繁に挟んでいる(もちろんノロノロ片付けしている)。生肉を扱うときは特に慎重になり、ビニール手袋をつけたりゆっくりと作業するため時間がかかって仕方ない。気にしすぎだなと自分でも思っているので、自炊を継続してたら色々おおらかになって効率重視で動けるようにならんだろうかと未来の自分に期待してる。
今考えつく効率悪化の原因はこれくらいか。改善点があれば教えて欲しいです。
効率悪いなと思いながらも、お惣菜買うより自炊した方が美味しいことにようやく気がついたのでこれからも料理は続けたいと思う。なんなら効率を諦め、キッチンスツールを買って、座ってyoutube見ながらダラダラ料理する方向にシフトしようか考えている。
今でも業スーのカット野菜や食洗機など楽できるよう色々導入しているがもっと短時間で楽に料理できるようにならんかな。
なんの気なしに投稿したら沢山のアドバイスと温かい反応があって嬉しい、皆様本当にありがとうございます。
中にはすごく具体的な案や情報を書いてくれた方もいてとても助かります、順番に実践していこうと思う。参考になる本やサイト、料理家さんの紹介も嬉しい、少しずつ調べてみます!
その中で、効率重視すぎる方法は増田の希望したアドバイスじゃないのでは、と書いてくれた人もいた。
私は、そのとき食べたいものを美味しく作りたいっていう“趣味としての料理“が好きなのは大前提として、現実問題、仕事の都合上まとまった調理時間が毎日作れるわけではないので時間とエネルギー消費を最小限に抑えた“家事としての料理“を知ることが今の自分には必要だし、両方のベクトルで上達できたらな〜と甘いことを考えてたりする。
なので効率全振り情報を教えてもらえるのは助かるし嬉しい、私にとっては目から鱗な方法ばかりで本当に参考になったのでぜひ実践していきたい。
理想を言えば、毎日美味しくて華やかな食卓!だけれども私は頭も体力もキャパが広くないので、色々試行して折衷案というか自分の中での落とし所を探っていければな〜と今回自分で思いました。
これを知れただけで十分な収穫だった!手際のいい人は常日頃使いこなしてるんだろうな、と勝手な思い込みがあったので気が楽になった。
【並行して使うためじゃなく火力が違うので用途によって使い分けるための3口】
そうなんだ〜〜〜〜〜〜〜?!?!?!全く知らなかったので驚いた。尚更、無理に3口使って効率よく!同時作業!みたいな考えが削ぎ落ちたので良かった。
【死なせてるとは】
折角の3口コンロを活かせてない→生かせてない→死なせてる の言葉遊びのつもりで書いたんだけど余計なノイズになってしまったねごめんね
【慣れ一択】
>感覚リセットすべきのは、したり顔で語っとうお前じゃー! id:Shin-Fedorさん!
すまんかった。id:fugunokamatari氏
呼ばれたのでお返事しよう。
>カロリーナは、前田拓摩の奥さんへの立派な加害者だし、責任は夫である前田拓摩と同等にある。
同意する。不倫に被害者がいるとしたら「裏切られた配偶者」だけであり、不倫者はどっちもクソである。
で、俺のブコメだが
>「当初は離婚済みと説明されたが、交際が深まった時点で実はまだ既婚と判明」って、川谷ベッキーの時と同じだ。というか大半の不倫劇がこのパターン。相手が既婚と判明した瞬間に関係をリセットするのを常識にせよ
俺が伝えたい事は以下のような話である。
あんまりカロリーナ氏前田氏という個人にフォーカスした話でもない。
不倫する奴って「よーし遊びで妻子を裏切って不倫しちゃうぞー」みたいな奴はあまりいない。
裁判沙汰になってるものだけ見ても、「お互い割り切りセフレでした」みたいなケースは実は少ない。
じゃあどういうケースが多いのかというと
「本人たち的には正当化できており、不倫の2文字から目をそらした恋」
みたいなパターン。
例えば広末と鳥羽は、完全に二人とも酔っ払っている事が明るみになった。
年齢は関係なく、50でも60でも恋愛脳で気が狂うことはよくある。
恋愛感情で気が狂う→しかし不倫という悪行を引き受けるのが不愉快だ→なんらかの正当化を行い、2人で幼児退行化する
といったフローなんじゃないだろうか。
これは不倫に限った話ではない。
例として挙げると、俺は差別者だし、杉田水脈さんも差別者だし、はてブ民も差別者だが、
なぜなら人間は自分が悪党だなんて考える事もおぞましく耐えられないので、
差別も不倫もなんらかのロンダリングを脳内で行う必要があるわけだ。
こういうアホな事例が古今東西で繰り返され、何度も報道されているにも関わらず、
次から次へと恋愛脳で爆死するアホが現実世界で後を絶たないので、
「相手が既婚とわかった瞬間に、それまでの甘ったるい夢は全部捨てろ」
という常識を広めたいのや。
これは別に男女問わずの話だが、広く一般に「男側が既婚、女側が独身」のケースが多いので、
「男側が加害者ってことか」みたいに受け取られるかもしれんな。男女逆でも当然同じことです。
福原愛と不倫相手だって、上原多香子と不倫相手だって、彼らの中ではふわふわした夢の中で自己正当化できているはずや。
客観的には「全てはまず離婚してから」しかないはずなのだが、そこまで覚悟決めて現実に向き合える強さが既婚者側にはないのや。
だってせっかくの現実逃避のための不倫なのに、シビアに覚悟決めて現実に向き合うって、矛盾してるからね。
俺はカロリーナ氏を悲劇のヒロインだとは思わなくて、よくそこらにいるような、恋愛脳で気が狂ったアホだと思っている。
それを前提に、一部にレスをすると、
>また、「そもそも前田夫妻はインスタ相互フォローであり、奥さんのインスタの方で仲睦まじい写真が多くUPされている。タグ付けもされているから検索も容易。これで最初は既婚者と知らなかったとは信じがたい」という指摘も存在する。
その指摘を見ていないのでアレだが、恋愛脳で気が狂った人間は、何もかもを自分に都合よく解釈する「恋愛脳バイアス」がかかる。
ベッキーは「川谷夫婦がすでに破綻しており、すぐ離婚する」という川谷の都合の良い話に全乗っかりしてしまった。
ベッキーやカロリーナがアラサーとかは関係なく、また男女の別も関係なく、
恋愛脳で頭がおかしくなった2人は、常に自分たちに都合よく世界を解釈し、幼児退行して、
「これは不倫とかそういう悪いやつじゃないから。まだ法的に離婚してないだけだから」
と脳に霞をかけて生きているんだよ。
それで、人にもよるだろうが、インスタでフォローしてる人のさらにそのまたフォロー先とかって言うほど確認するやろか?
俺は直接の友人知人のポストは見てるけど、そのまた先のご家族とか全く把握してないからよくわからん感覚や。
まあ仮にちらっと見えたとしても、後ろめたい&現実を見たくないカロリーナ氏は現実を直視する勇気はなかったのではないだろうか。
(ちなみにカロリーナ氏と前田氏も相互なの?そうでないならますます、見てなくてもおかしくないでしょ。都合の悪い現実を見たくないだろうし)
そして前田拓摩の方も、恋愛脳で幼児退行してカロリーナと同じぐらい幼い思考をしていただろう。
いや不倫してる奴らって本当にふわふわしたままごとみたいなやりとりしてるよ。
川谷ベッキーや、鳥羽と広末のLINEだかメールの文面を見ても、現実逃避感が強い。
でも不倫がバレると、一気に甘ったるい夢からさめて現実に向き合う事になる。
不倫相手を人生から切り離し、顔面蒼白で家族に許しを請う事になる。
>次の言い訳「交際が深まるまで既婚者と知らなかった」を真に受けるなんて正気か??? 状況証拠・暴露を加味して判断すれば、最初から既婚者と知って付き合った可能性は相当に濃い。
「最初」をどこに置くか次第だが、交際初期から既婚者だと気づいていた可能性はあるな。
「離婚済みと説明された~」を「事実上離婚状態と説明された~」にすれば、
ほとんどの不倫カップルに該当する平凡な物語に回収できると思う。
本格的に恋愛脳になってしまうと、都合の悪い情報は脳が拒否するようになるのや。
もはや後には引けなくなり、サンクコストというかコンコルド効果というか、
川谷ベッキーケースも、妻を裏切っている状態を受け容れられない川谷が「もう離婚は秒読み段階で、後は手続きぐらいなんだよ」と半分自分に言い聞かせるように説明し、
ベッキーも「なんだ、もう事実上離婚状態なんだ。じゃあ奥さんに悪いとかいうこともないよね!!よかった~」と自己暗示をかけたのだろう。
人間の脳はそのようにできている。
俺の人間理解は「人間そんなに強くないので、自分の悪行を引き受けられない」という立場であり、
カロリーナ前田カップルもまた不都合な現実から目をそらしつつおままごとをしていた可能性が極めて高いと思う。
なぜなら大半の不倫はそういうものであるからだ。彼らもまた平凡な俗人だとみなすのが合理的ではないか。
不倫カップルが「世界に一つだけの物語」と錯覚しているものの正体は、ごく凡庸で典型的な不倫でしかない。
後世のためにも、「恋愛脳で酔っ払って現実から目を背けつつキラキラ不倫する人々」に事あるごとに冷たい水をかけていきたい所存だ。
俺は「狡猾なおじさんが判断能力のない若い女性を騙した」という前提には立っておらず、
これに辿り着いた。
炊飯器最強。
キャベツ、ほうれん草、カボチャ、ブロッコリー、白菜、豆とかそのへん。
で、水入れて好きな調味料や出汁入れて、炊飯。15分くらいしたところで強制終了して取り出す。
食べる時にレンチンするだけでいい。
3日に1度、ご飯を炊く。発芽玄米。(これはめんどいけど健康のために食べてる)
で、炊き上がる20分前くらいに魚を数匹放り込む。大体鮭とかタラ入れてる。
これでご飯+魚が出来上がる。
★おまけ 卵焼き
小さい器に卵2個割って、醤油垂らして、少しだけかき混ぜる。
混ぜすぎない。
朝作って半分に割って朝晩で食べたりする。
炊飯器にさつまいも放り込んで玄米モードで炊く。甘くておいちい。
ほぼ毎日これらを食べてる。(お菓子作り趣味だから別でおやつ食べることもあるけど)
今のところ色々試してこれが1番楽。
野菜を千切って洗うのは確かにダルいが…そこが1番時間かかる。
カット野菜は新鮮さや薬品が気になるので結局自分で千切ってる。
それ以外は炊飯器入れて放置するだけなので時間かからなくて良い。
買ってきたものやウーバー食べる方が楽やんけとも思うけど、金銭面・健康面考えるとどうしても自炊がいい。
https://anond.hatelabo.jp/20240130181925
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「脚本家」がストーリーを全部考えて、番組制作のすべてを仕切ってるわけがありません。
ドラマとは「有名タレントを何人も動かして・複数の会社が連携して・億単位のカネがかかるプロジェクト」です。その一員である脚本家の仕事が、「自分の好き勝手に脚本を書くこと」であるはずがありません。
脚本家の仕事とは、「企画が決まってから」プロデューサーの依頼を受けて、脚本を「受注生産」する仕事です。もしも「脚本家が好きに内容を書ける」っていうんなら、「企画すら定まってない段階で、作品の方針からキャスティングまで脚本家が独断で決めて、予算すら勝手に変えて、なんの相談もしない」「原作者や芸能事務所とのあいだに無用のトラブルを産んで、自分は知らぬフリで、その解決をプロデューサーに全部押し付けてる」「そんなクソムーブを繰り返しながら、なぜかコンスタントにTV局から仕事を受け続ける」という、ありえない話になってしまいます。
原作選びは脚本家の仕事ではありません。使うタレントは芸能事務所の営業で決まってます。それぞれのタレントをどう活かすか、(配分はどれぐらいとか、イメージが下がる役は出来ないとか)そのためにはどんなキャラクターが必要か(つまり性別の入れ替えなども)。これらは企画段階で整理されて、脚本家にはどうしようもできない範疇のことです。
多忙なタレントを何人も使うのに、そこの調整を事前にしなかったら、差し戻しの繰り返しで、ドラマなんて永久に撮れません。たとえば、「事務所や局が一番売り出したい新人」が演じるキャラクターを、もし見せ場もなく脚本家が殺したら、どうでしょうか。事務所やTV局のプロデューサーは何も言わずに従いますか? 脚本家にお伺いを立てて変更をしてもらいますか? そもそも、事前に通達しますよね。
予算によっても脚本の内容は決まってきます。番組の予算によって、タレントの出番やロケにいける場所まであらかじめ大まかに決まってるし、そこを調整してないと撮影自体が成り立たちません。その方針がある程度決まってから脚本が依頼されるし、都度、調整しながら書いていきます。極端な話、制作途中で予算カットや、打ち切りの可能性すらあります。
つまり「プロダクションの段階でいくつもの問題が生まれるようなストーリーを、好き勝手に書く」なわけがないのです。むしろ、「新たな問題を避ける」、もしくは「企画段階で発生した問題をうまく解決しながら脚本を書ける」ことが重宝されるのです。
面白いストーリーよりも何よりもまず「金をかけてゲットしたタレントが、どれだけ長く画面に映り続けるか」が大事なのです。タレントビジネスなのですから。いざ脚本家が脚本を書きはじめたら、タレント都合の問題が出てきます。それはすなわちストーリーを左右するコアの部分。「え?このタレントさんは暴力が事務所NG? 喧嘩して和解する大事な場面が原作にあるんですけど、、、わかりました書き直します」とか、「キスNG」だとか「おばかタレントだから頭良さそうな役はダメ」だとか、割り込みで「ここの事務所のアイドル使うことになったから、印象的な見せ場を作って~」とか、そういう糞みたいなこともしょっちゅう起きます。
芸能事務所からしたら、一番おいしい仕事は「大企業のCM」で、短い撮影で一本当たり数千万。とにかくCM契約をゲットすることが大きな目標なのです。二番目がドラマ。通算で数千万。映画が一番下で、一本あたり数百万~千万。撮影に時間がかかる割にギャラが低いから、「面白いストーリーの作品で、いい演技をする」とか、事務所からしたら大して魅力的な話じゃない。それよりも、ドラマで「お茶の間の好感度を上げる」方が大事。ドラマっていうのは「タレントのいい印象を数か月間TVに映して、大手CM契約をゲットする絶好のチャンス」なのです。
そういう力学があるのです。
「芸能事務所のパワー」の例でいえば、能年玲奈が一瞬ですべてのTV局から干された件がありましたよね。 事務所の機嫌を損ねたら、あれぐらいは普通にできちゃいます。もっと小さい揉め事なら腐るほど起きてます。脚本家には役者を決める権限がないんだから、上の方でそうなったらもう書きなおすしかありません。脚本家は関係なく、タレントの都合で「キャラクターが制限される・ストーリーが変わる」なんてのは、TVドラマの「大前提」でしかないんです。
そういった裏事情はほぼ伏せられるから表に出ないだけです。「ストーリーが迷走してる!」とか「なんであのキャラの出番が減ったんだ!」「なんでこの脇役が主人公みたいになってるんだ!」となった時、それは脚本家理由ではなく、TV局と事務所都合の理由が多いのです。逆にもし、脚本家がキャラクターの出番を好き勝手に増減させたら、事務所とTV局にとっては迷惑です。もっとも、昔の大御所脚本家や海外ならあり得るかもしれませんが。
今の時代において、「大して有名じゃない脚本家」の方がTV局よりも偉いなんてことはありえません。好き勝手に脚本を書いていたら、TV局に強い影響力を持つ芸能事務所が「うちのタレントになんてことをしてくれたんだ!」って揉めそうなのは明らかですよね。(繰り返しになりますが、能年問題やジャニーズの権力を思い出してください)そういう芸能事務所との無駄な揉め事をTV局は一番避けたがるし、そうなったらTV局側は「脚本家を切るだけ」です。コンスタントに仕事を受けるなんて、できるわけがない。それぐらい、「力の差」があるのです。
脚本家の仕事ってのは、その前提を乗り越えて、ドラマがスムーズに撮影できる脚本を書くこと。間違っても好き勝手に改変することではありません。
これを踏まえたら「原作通りにドラマを作る」「脚本を書く」のがいかに難しい課題か、わかると思います。別に誰か一人が悪いわけじゃありません。ただ多額のカネが動く映像作品では、ストーリー制作と関係ないはずの「出資者」や「関係者」が力を持つため、ストーリーを変えてしまうことはよくあります。
ちなみに原作の話で言うと、出版社からしたら製作決定の時点で「利益しかない」。内容がどんなにクソでもゴミでも、「超有名タレントを使った広告が3か月の間、毎週1時間も数百万~数千万人のターゲットに打てる」からです。それだけの広告を打てば絶対に原作が売れるし、ドラマ化の原作料まで入る。ドラマがクソでも、原作ファンが「原作は素晴らしいから!」と口コミしてくれることまで約束されてる。デメリットがないんです。
もちろん、だからといって出版社が原作改変を許すとは限りません。あくまでこれらは「前提」「一般論」の部分であって、実際に何があったかの内部事情は「関係者による説明」がなければ、すべて憶測、妄想に過ぎません。
どんな件であっても、立ち入ったコメントは控えるべきです。
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なぜ煽った?
原作者のブログすら読んでなさそうだけど、大前提で『セクシー田中さん』は未だ連載中で完結していない。
なのでドラマではオリジナルの最終回を作る必要がある。最終回でも田中さんの恋愛は決着つかないまま「2年後~」となって男キャラ放置で消化不良という感想は多かった。
このドラマに関わらず、そもそもドラマの9話10話(最終話)というのは物語を終わらせるために話が一気に動きだす回であって、それまでの1話から8話までの通常回が好きだった視聴者が「途中までは面白かった」と感想を漏らすのはどのドラマでもよくあることで、これは例え脚本家の脚本であろうが、原作者の脚本であろうが、「最後は物足りなかった」という感想が出てくることは避けられないこと。
昨日のジャンプ買った?
・ 「アイシールド21」という作品にはひとつの欠点もないと感じる信心深い人
増田もそう思ってるよ。嘘じゃない。
看過できない仕上がりだったとも思っている。
なのでここにその旨のお気持ちを記録しておく。
・今回の読切に少しでも思うところがあった人
・「アイシールド21」という作品全体を通じて積年の思いがある人
向けの内容である。
・筆者について
・はじめに
・読切のストーリーについて
・作画について
・まとめ
の順で触れていく。
あと言っておくが「アイシールド21」の21周年は心から祝っている。
おめでとう。読切企画を実現してくれた関係者各位、先生方、心からありがとう。
・往年のアイシールドファン。連載開始から最終話までリアルタイムでジャンプで読んでた
・連載後半は2ちゃんのアイシスレ見たりもしてた(本スレがアンチスレを兼ねる様相で当時はおどろいた)
かきおろし読切の制作が決定したという作者の告知があってからこの日をずっと楽しみにしていた。
完結して十何年もたった作品の続きが読める、
こんな奇跡はまたとない。
発売日、即ジャンプ買って読んだ。
………………。
昨日からSNSは「アイシールド21が読めて嬉しい!」といった歓喜の声にあふれている。作品名でトレンド入りもしている。
いちファンが作品に真剣に相対したいち記録となることを信じてせっせとこれをネットの海に流している。
まずあの話、どうでした?
…とは思えなかった。
というか読切では当然のように「ヒル魔とセナ、双璧のW主人公」みたいな雰囲気が醸されているのだが、
という確認がなされないまま作られている印象だった。
ヒル魔というキャラクターが大いなる魅力や影響力をもっている、そのこと自体に異論はない。
彼の求心力とある種のカリスマ性が、読者並びに各種ファンダムを今なお牽引していることにも異論はない。
(原作者が格別の思い入れを注いでいることにも、この際異論はないものとする)
それでも、少年漫画としての「アイシールド21」に考えをはせるなら、第1話の構造からいっても、
この物語は「アメフトを通して描かれる小早川瀬那の成長譚」でなくてはならないはずだ。
……にもかかわらず、本作はそこをぶらしていった。
連載半ばから、ヒル魔は悪い意味でどんどん主人公化していった。
そしてそれが改善されていないどころか、全面化していたのが今回の読切だった。
思えば、最終話の落としどころはまだマシだった。
セナの結末とは別のレイヤーで、ヒル魔の着地点を描いていたからだ。
最京大・炎馬大・バベルスという別の進路をとり、三国志の道を選ぶ。
ここの3人が対等なライバルとなる結末は、
にもかかわらず読切で披露されたのは
「セナvsヒル魔、NFLにいくのはどっちだ!?」対決………って、
武蔵と栗田の立場がなさすぎて、あんまりじゃないのか????????
(※さらに言うなら武蔵に至っては読切に影も形も出演がないの、本当にあんまりだったと思う。回想の円陣にもいないとはいったい…。
※この点について「読切から興味をもった読者に武蔵の存在を伏せたかった・ネタバレを防止したかったからでは」という擁護意見も目にしたが、
そうであるなら円陣では後ろ姿で顔が見えないように描いたりすればいいだけだし、現在軸の観客ポジションにはいてもいいはずである。
読切の大筋を
という骨子にするのならせめて
セナ率いるドリームチーム vs デビルバッツ創立時メンバー3人が再結成するドリームチーム
…みたいな構図にはできなかったものだろうか。
さらに「AIをしのぐのは人間の勇気」みたいなテーマを(是非はともかく)導入したいのだったら、
半端にセナを主人公とせず、いっそいさぎよく「読切なので主人公はヒル魔です。セナは脇役として登場してもらいます」などとして構成してしまうほうが、
まだ「作者のエゴ」と「読者」と「読切作品としての完成度」、すべてに対して誠実な仕上がりをみたのではないだろうか。
このあたりの整合性のとれていなさ、ちぐはぐさが、読み味の違和感、納得感の薄さにつながっているように思う。
(※余談だが、アイシールドがスポーツマンガとして傑出している点であり特色のひとつに、
「天才と凡人」というテーマを残酷なまでに描いているところが挙げられると思う。
それを思うと、読切からその要素が完全に排除されていたのも惜しむべき点だった。
その意味においても、読切では
「身体能力においてはある種の天才であるセナと、今度はそれに挑む身体的凡人ヒル魔」
といったふうにセナとは別の視点≒ヒル魔視点から描いてしまうほうがいっそ面白かったんじゃないだろうか。
原作者のヒル魔描きたい欲も、キャラファン読者の需要も両方満たされただろうし
本作の新たな面を見せることができたんじゃないか、等々。
後述するが、原作者と編集者はそういった検討すらしなかったのだろうか)
「セナvsヒル魔の試合」という今回の読切が、アニメ最終話の追認に近いものになってしまっていることにも絶望しかない。
アニメのアイシールドはあらゆる意味で筆舌尽くしがたい出来栄えなのだが、満を持した読切がそれと今さらカブるって、そんなことがあっていいのか。
村田先生、みんなご存じ、少年漫画界屈指の超絶技巧ハイレベル画力の持ち主。
すなわち『ワンパンマン』のようなアップデートされた村田先生の作画で、
…というファンの期待は儚くも裏切られた。
今回の読切の作画、
……そうか……。
初期からずっと絵がうまくて、
どんどん画力が凄みを増していって、
20巻あたりになってくると最強に脂がのってきて、
強いこだわりや作品愛を感じられて、
あのすばらしい絵が、だいぶ淡泊でラフな方向へ変わってしまった、
そんな、あの頃の絵柄…
遠くにいるキャラには顔描き込みさえなく、
そんな、あの頃の絵柄…
それを誰も指摘しないままジャンプでお届けされていた、
そんな、あの頃の絵柄………
…………そうか………。
掲載日もガチガチに21周年に合わせているわけではなさそうだし、
読切制作告知はずいぶん前に行われていたし、
そんなこまごまとしたミスをチェックして修正する手間すら…惜しかったのだろうか。
もしや、アイシールド、描きたく……なかったのだろうか。
憶測にすぎないけれど、したくもない想像が膨らんでしまう作画がただただ悲しい。
なぜこんなにも失望感が大きいのか。
失望感を覚えるということは、
そもそも「アイシールド21」という漫画に何らかの幻想を抱かせるような霧でもかかっていたんじゃないだろうか。
その正体は何か。
理由をたどると「原作・作画の分業制でつくられた作品であること」が挙げられると思う。
そもそも、原作者の稲垣先生のほうはそこまでキャラの扱いに手厚いタイプではないと見受けられる。
かと思えば突飛なタイミングで再登場させたり、
桜庭のアイドルヘアや阿含のドレッドをある日突然無慈悲に剃り上げてファンを阿鼻叫喚の渦に叩き込んだり等々
(事実アイシ、ドクターストーン、トリリオンゲームと3本つづけて大ヒットを飛ばしている優れたストーリーテラーであるわけだし、どれもとんでもなく面白いし)
バックボーンを想像させる表情や振る舞いなどの魅力を付与して、
色んなキャラの色んな一面を描きまくってくれた。
別冊として出たデータブックでは各校の全チームメイトの顔カットを100人単位で書き起こし、
人物紹介には毎巻のように「ウォーリーを探せ」のようなぎっしり楽しい一枚絵を用意し、
神龍寺戦完結巻にいたっては、カバー絵などの余白をフルに使って、
アイシはただストーリーが面白い・アメフト題材に新規性があるというだけではなく、
そういう層のファンを獲得したという意味でも、商業的な成功をみた。
これは原作・作画別れているからこその、やや特殊な事例であると思う。
それは村田先生が魔法をかけてシナジーを起こしたキャラなのだ。
そして時を経て、魔法は解けていった。
何かのきっかけで、のっぴきならない理由で、本作を作画することへの情熱が失われてしまったのかもしれない。
読者にそれを知るすべはない。
ともあれ、作画による丁寧なフォローや補足はされなくなり、ありし日の熱量は失われ、
原作がある意味むき出しとなった結果が、連載終盤のアイシールドともいえる。
読切でも、魔法は解けたままだった。
そのことが残念でならない。
長々と書いてきたが、ぶっちゃけ少し真面目に作品に相対していればこのくらいのことはいくらでも思い浮かぶはずと思う。
なのにお出しされてきたのは、
そういう出来栄えの読切だった。
これに関して「編集者何やってんだよ」という視座を欠くわけにはいかない。
読切をつくるとなって、まともな打ち合わせの一つもしなかったのか?
批判されている点は?
少しリサーチすれば情報や感想は玉石混交いくらでも掘り出せるはずだ。
それを作品化するとして、最良の形とは?
精査していればもう少しブレや迷走は防げたはずだ。
編集者は作画クオリティ面にまでは口出しできないかもしれない。
にしても、あきらかな作画のミスを校閲し指摘することはできるはずだ。
「どうせ手を抜いたって、愛がなくたって、ファンなら喜んでジャンプを買い、涙を流してありがたがるだろう」
と、作品の知名度にあぐらをかいた編集部によって読者全員がナメられていること、
それが記念読切から透けてみえてくることが、作品を愛読してきた者として慚愧にたえない。
期待は捨てているけれど、改めて言いたい。
そして少しでも反省したなら俺らに誠意を見せてくれ。
すなわち、ファンもアンチもぐうの音も出ずに拍手喝采してしまうような、素晴らしいクオリティに練り上げた「アイシールド21」短期集中連載とか企画してください。金とアンケートならいくらでも出します。わあわあ言うとりますが未だにアイシールド大好きなんです。よろしくお願いします。ほんとマジで。
当然ながらn=1の隙自語。
原風景のひとつは母が洗面台で化粧をしている姿。BBクリームをペタペタ塗っている。なんで化粧をするのかわけを尋ねると「化粧をしたという事実を作るためだよ」とめんどくさそうに答えていた。BBクリームと口紅を塗った母の姿に、なるほど化粧をした姿だ、と思った。美しいとも醜いとも思わない。憧れるでも羨むでもない。それはたとえば「大人になれば働かなければならない」なのと同じように、やがて自分がせざるを得ない、めんどくさいなにか、それ以上でもそれ以下でもなかった。
そんなわけなので、身だしなみにに対してうっすら苦手意識を抱いたまま小中高と進んだ(無論、二次元のオタクにもなった)。大学生になって一人暮らしを始めたが、身だしなみのレベルは依然として低かった。髪を根元から乾かすと寝ぐせがなくなる、ということさえサークルの先輩に教わるまで知らなかった(実家の家族はみな、わたしのことをくせっ毛だと思っていた)。母は化粧は嫌いだが服を買うのは好きで、セールで買い込んだ服を段ボールいっぱいに詰め込んで、コメや野菜と共に仕送りしてくれた。不十分な身だしなみに、試着もしないまま買い与えられた服を身にまとうわたしは、今思えばいかにもちぐはぐだった。自分で服を買うようになったのは社会人になってからだ。余談だが、その後わたしは服を買うことにすっかり目覚め、母に似た服道楽の道を歩むことになる。
化粧っ気のないわたしの周囲には、化粧っ気のない友人が集まり心地よく過ごした。たまに接触する化粧っ気のあるひとびとは、おおむねみな優しかったが、話していると気づまりすることも多かった。オフ会でお会いした年上のお姉さんは、髪にパーマをあてたわたしを見て「それなら、せめて眉は整えた方がいいよ」と優しく言った。サークルの先輩は「このメイクポーチ(の中身)でどうやってメイクするの?」と不思議がった。今思えば、それはどれも本心から心配や優しさからのものだったが、わたしのなかの「やっぱり化粧って苦手だ」を補強するには十分だった。
その頃わたしは、十代ゆえの傲慢と偏見ゆえにすっかり「化粧」そのものを敵視するに至った。化粧とは、無知で不器用な自分の前に立ちはだかる、理不尽に高い壁に見えていた。それを強要する(ように見えた)社会も、それに迎合する(ように見えた)化粧上手な美人も、みな嫌いで、自分を害する「なにか」に感じられていた。
就活時は化粧をしたが、化粧下地なんて知らなかったので素肌にREVLONのリキッドファンデーションを塗った。
そんな自分も少しずつ変わっていった。転機は判然としない。
大学院に進学し、尊敬できる先生や先輩、同期に出会えた、卒後も専門性を活かせる職に恵まれ、「クラスルームの隅」以外に自分の居場所を見つけられたこと。自分で服を買うようになったこと。そしてなにより、年を追うごとに性格が丸くなり、「十代ゆえの傲慢と偏見」から解き放たれ、化粧上手な美人を見て素直に尊敬できるようになったこと。
化粧が苦手だったが、でもそれが悔しくて、無知なりに調べては挫折してを繰り返した。独学だったのでひどく回り道をしたが、ほんの少しずつだが経験値は積みあがった。またインターネットが発達し、「周囲の人」以外からTIPSを学ぶ手段が飛躍的に増えた。コンタクトもマツエクも試してみた。気になることはひととおり勉強した。
それでも、「上手」には程遠い。
あるとき、一念発起して資生堂銀座本店の「メイクアップレッスン」に申し込んだ。一時間半くらいつかって、マンツーマンでメイクを教えてもらえるやつだ。理想の顔面比とは、という話から始まり、「あなたは少し目と目の間が離れているから、目の間隔が縮まって見えるように、このように陰影を入れましょう」などとしっかり教えて頂ける。説明は理論だっており、納得できるものだった。そして完成した自分の顔を見て、「ふうん。わたしの顔面がベースだと、プロの技術でもこれが『限界』か」と理解した。
①「己の顔面を“理想の顔面比”に近づけること」。そして②「化粧した顔になること」。
①の理想の顔面比は残酷なまでに「正解」が存在する。①の達成難度はそのひとの持って生まれた骨格に依存する。美容整形はそれを打破する有効な手段だが、高価だ。
②は一種の符丁のようなものだ。この記事は、この増田(https://anond.hatelabo.jp/20240129142710)
をきっかけに書いたものだが、勝手な想像だがその元増田筆者はおそらく自他問わず「化粧をした顔」が好き(=かわいい、という認識)なのではないかと思う。なので「化粧をしたらブスでもかわいい、ブスなんていない」という結論になるのではないかとわたしは考える。対照的に、わたしは化粧をしたひとの顔を見ても「化粧をした顔だな」とは思うは、「=かわいい」とは思わない。「化粧をした顔」そのものに美を感じるのは、それは一種の価値観であり、文化的なものである。ゆえに符丁、と書いた。(関係ないが、化粧っ気のない人間は、他人の化粧に鈍感だ。化粧を自らして初めて、他人の化粧を認識できる、ところがある)。
今のわたしは、眉はしっかり整える。ファンデはしないか、してもごく軽く。アイメイクはたまにする。常にマスク(マスク社会万歳!)。美容室には定期的に通う。服はそれなりに気を遣う。メイクした方が似合う服、というのはぜったいにあるので、それが着られないのは少し残念ではある。
WEARでたまにファッションスナップを上げる。画像加工で顔は消す。プライバシーのあれもあるが、己の顔は別に好きではないからだ。首から下は、まあ悪くはない。
クレ・ド・ポー・ボーテの化粧品の見た目が好きだ。でもお金も時間もアテンションも有限だから、優先度をつけてやるしかない。わたしの人生において、化粧は、優先度はあまり高くない。
以上、化粧が苦手改め、化粧が苦手なりに愛憎入り混じった女の人生語りでした。
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【余談①】化粧の文化的側面については興味があるので、もし良い書籍を知っている人がいたら教えてください。文化史などの側面から語っているややお堅い雰囲気の書籍だと嬉しい。
【余談②】メガネについて。化粧をするなら大前提として、メガネを外せ、コンタクトをしろ、というのがあると思う。自分は(何言ってんだと思われそうだが)自分のメガネ姿にアイデンティティを感じているが、近眼メガネ族は化粧界においては驚くほど透明化されている。自分が「化粧はだいたいでいいや」と思う理由のひとつがこれだ。
【余談③】メイクアップは嫌いではないが、スキンケアははっきり言って嫌いだ。詐欺まがいの商売が多すぎる。ひとの悩みに付け入って高いものを買わせる不健全な業界だと思う(本当に人体に対し効能があるものは薬機法下では医薬品なので、そもそもそ医薬品ではないスキンケア商品の段階でどんぐりの背比べだろって思う)。日本皮膚科学会のホームページにある「皮膚科Q&A」だけ読んでれば十分や……まあ高いスキンケア用品つかってプラセボで良くなる可能性もあるとは思うが。
炎上させてるX民たちは「震災対応に問題はなかった」「ボランティアは来るな」って大前提を持っているため、この方の「避難所の飯が足りない」というポストや「ボランティアが個人で物資を届けに来てくれた」というポストは自分たちに不都合で、「震災対応は問題だ」「ボランティアは必要だ」という敵対主張の材料にされるから有罪だったってこと。
逆に「避難所に物資足りない」と主張するX民たちによる「もう避難所は問題ない」などの主張する人への批判が集中してるケースもある。
https://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-451.html
”犯罪の告発は、明らかな虚偽が認められないかぎりはいったん信用して受理しなければなりません。”
これ本当?
上記の記事、これがなされるべきという大前提のもと論理が展開されていくが、これって本当に正しい?
警察など法的措置の振る舞いと一般人の振る舞いをごっちゃにしてない?
AさんがBさんをレイプ魔で告発した場合、みんな一旦Bさんはレイプ魔だと信じるべき?
そのあと法的にAさんが虚偽の告発したとわかった瞬間、みんなはBさんは無実の人間だったと手のひらを返すべきってこと?
法的な捜査の手順としては正しいけど、一般人の挙動としては手のひらクルックルでアホに見えるんだけど。本当に本当?
息子が殺人の容疑で逮捕されたとき、母親が「自分の息子がそんなことするはずない」と発言するのは間違ったこと?
母親は息子にかけられた容疑を一旦信じるべきってこと?
「松本さんがするとは考えられない」みたいな擁護や、「まだ断定的なことは言えない」といった玉虫発言は許されず、
「松本さんはレイプ魔らしい」で一旦話を進めるのが正しいコメント?
捜査の方針としてはわかるけど、コメンテーターの振る舞いとしてそれって本当に正しい?
本当に本当?
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
nanaminoさんに100文字では足りないお返事。
本当に個人的な見た目の好み(ルッキズム全開で)を言うなら、私は(追記:今回の候補者の中では)安井南さんの顔が好みです。でも彼女の顔もべつにいわゆる「和顔」ではないね、。歴代のミス日本を見てもいわゆる和風美人な人ばかりではないしバタ臭い感じの顔の人がずらっと並んでいる(古いたとえで恐縮ですけど、吉永小百合じゃなくて原節子って感じ。「有色人種としての美しさ」って言われても定義は難しそう)。
ちなみにハリウッドの俳優たちの多くは(まぁ米国なので当然ではあるけれど)結構多様なルーツを持っている。世界はだんだんゆっくり、そういう方向(どんどん混ざっていく)に向かっていくのでは。
あと、まぁ悪い大人の顔をして言うのなら、ミスコン運営サイドは西欧的ルッキズムというよりも「お、ウクライナルーツなのか、反戦アピールできるし、(ミス日本をありがたがるような保守層から見たら)革新的に見えるんじゃね?」みたいな下種な話も出てたんじゃという気もしています。
なのでまぁミスコン止めろもう、というのなら共闘できるよ。でもその戦いは別の誰かや戦っている相手を差別する言葉を使ってするなら、なんかいやだなー、という感じです。