はてなキーワード: 言葉の力とは
「国語力増田」とは、特定の文体や言葉の使い方を指摘することを目的とした増田(匿名の投稿)の一つです。この増田は、中の人と思われるアカウントが、他の増田の文体変化を捉えているかどうかをテストするために作成されました1。
国語力自体は、日本で生活する人々がこれからの社会で必要とする、また、生きていく意欲を支える言葉の力を表します。日本社会は予測不可能な変化を遂げており、国語力は表現力、読解力、想像力、俯瞰力、探求力などの要素が融合した力とされています23. この力は、漢字や慣用句の知識、さまざまな情緒に関する表現を理解したり使ったりする力、論理的思考力、読解力、設問に適切に答える解答力などを含みます4.
聖書の箴言には、言葉の力とその使用についての教訓がたくさん含まれています。
特にSNS時代にぴったりとも言える箴言をいくつか挙げてみます。
1. 箴言 10:11 - 神に従う人の口は命の源、神に逆らう者の口は不法を隠す。
2. 箴言 10:18 - うそを言う唇は憎しみを隠している。愚か者は悪口を言う。
3. 箴言 10:19 - 口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。
4. 箴言 10:31 - 神に従う人の口は知恵を生み、暴言をはく舌は断たれる。
5. 箴言 10:32 - 神に従う人の唇は好意に親しみ、神に逆らう者の口は暴言に親しむ。
6. 箴言 6:16-19 - 主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。
これらの箴言は、言葉の力とその使用についての重要な教訓を私たちに教えてくれます。
特に、SNSのようなプラットフォームでのコミュニケーションにおいては、これらの教訓を心に留めておくことが重要です。
この記事は、スポーツ推薦で高校に入学したが苦労した著者の体験談です。要点は以下の通りです:
著者は自らの経験を通じて、苦境に立たされた生徒たちに希望と勇気を与えるメッセージを伝えています。親へのメッセージとしては、子供の人格や将来を否定しないよう呼びかけています。自身の苦い経験を踏まえ、言葉の力とその影響を強調しています。
チャニゴシってなんだ?
…ああ、「茶濁し」か。
口語なのだから細かいところにケチをつけるべきではないかもしれない。
最近とみに思うのだが世間で見られる日本語がいつからかおかしくなってきているのではないだろうか。
中でも表現の過剰な省略化と助詞(てにをは)の欠落の二点が目立つように感じる。
自由に変化してこそ言葉だ。だからこそ言葉は面白い。それはその通りである。
現代風の柔軟な日本語に問題があるというより、現代の話し手の話し方や言葉選びに日本語をしっかり使おうという意識がなかなか感じられないのが問題に感じる。
言葉を軽んじているようにも見える。
言葉の使い方、言葉の力、それによって起こる影響について慎重に考えている人がきわめてすくない。
そんな思考のままでいるからSNSにおける誹謗中傷・人間トラブルといったものが止まないのではないか?(というのはいささか暴論であるが)
ギリアンは、夜の闇が村を包むと、一人静かな家の中で燭台の光を眺めながら過去を思い返していました。彼の心は深い悩みで満たされており、柔らかな声が震えることもありました。彼は言葉を紡ぐごとに、過去の失敗を覆い隠す繊細な言葉の網を編んでいきます。一方で、彼の心の奥底では、真実と虚構の境界線がぼやけていくのを感じていました。
「こんなにも、言葉は強力なのか...」彼はつぶやきます。彼の目は遠くを見つめ、彼の心は自己反省の海に浮かんでいました。「でも、これが僕を救う唯一の道だ。」彼の言葉は静かで、しかし決意に満ちていました。
彼の心の中では、言葉の力が彼の過去を塗り替えるたびに、新しい自分が生まれ、古い自分が消えていく様子が描かれていました。彼は自分の行動に疑問を抱きつつも、この秘密を守るために言葉の魔法に頼るしかないと信じていました。この深夜のひそやかな時、彼は自分自身との葛藤と向き合い、新たな一歩を踏み出す勇気を見つけていました。
エリナは、村の静かな図書館で、ほこりっぽい書物の間を熱心に調べていました。彼女の眉間にはしわが寄り、時折深くため息をついていました。彼女はギリアンの言葉の背後にある真実を知ることに強い関心を持っていたのです。灯りのもと、彼女は一冊一冊の書物を丁寧にめくり、ギリアンの過去に関する情報を探っていました。
「なぜギリアンはあんなにも言葉を慎重に選ぶのだろう?」エリナは独り言を漏らしながら、ページをめくり続けます。「どこかおかしい...」彼女の心は疑念で満たされつつありました。
夜が更けるにつれ、エリナの瞳は疲れとともに真実を求める光を宿しました。彼女は自分の考えに自信が持てないことが多いですが、この問題に関しては違いました。彼女は何か大きな秘密が隠されていると感じており、その真相を突き止めることに強い意志を見せていました。
「この中に答えがあるはずだ...」エリナはそっとつぶやき、次のページをめくりました。彼女の心の中では、ギリアンの言葉の謎を解く鍵を見つけることへの期待と不安が交錯していました。彼女は夜通し調べ続ける決意を固め、真実を探る旅を続けていきます。
その日、ギリアンは村の広場で人々を集め、自分の「魔法の秘密」について熱心に語り始めました。彼の声は柔らかく、言葉は巧みに選ばれていましたが、エリナはその中に何か不自然なものを感じ取っていました。彼女の心は疑念で満たされ、真実を知るための決意が固まっていました。
エリナは群衆の中に静かに紛れ込み、小さな録音機を慎重に操作してギリアンの言葉を録音し始めました。彼女の手はわずかに震えていましたが、その目は集中の光を放っていました。「これで何か手がかりがつかめるかもしれない」と彼女は心の中で思いました。
ギリアンは自分の言葉に自信を持っていましたが、エリナはその言葉の裏に隠された真実を見抜こうとしていました。録音機はギリアンの言葉を一つ一つ捉え、エリナはその内容を精密に分析する準備をしていました。彼女の心は、この行動がギリアンの秘密を暴く鍵になることを強く望んでいました。この瞬間、エリナはただの少女から、真実を追求する探偵へと変貌を遂げていました。
エリナがギリアンの録音を公開した時、村の広場は緊張で静まり返りました。録音が再生されると、村人たちはギリアンの言葉の真実を知り、その驚きと困惑の表情が広場に広がりました。ギリアンの言葉の裏に隠された意図と彼の過去の失敗が明らかになったのです。
しかし、村人たちが最も驚いたのは、ギリアンの反応でした。彼は怒りや否定ではなく、深い反省と謝罪の言葉を選びました。「私は間違っていました。過去の失敗から逃れようとして、皆さんを欺いてしまった。本当に申し訳ありません」とギリアンは静かに言いました。
その瞬間、エリナの心は複雑な感情で満たされました。彼女の行動が真実を明らかにしたことには満足感がありましたが、同時にギリアンの素直な反省には感動さえ覚えました。村人たちの反応も様々でしたが、多くの人がギリアンの誠実な態度に心を動かされました。
この出来事は、ギリアンにとってもエリナにとっても、そして村全体にとっても重要な転機となりました。ギリアンは自分の過去と向き合う勇気を持ち、エリナは真実を追求する力を証明しました。そして村人たちは、誤解や偏見を超えて互いを理解し、許すことの大切さを学びました。この日以降、村はより強く結束し、互いに支え合うコミュニティへと成長していきました。
この一連の出来事を通じて、村の人々は言葉の持つ力と個人の責任について深く考えるようになりました。村の長老は集会を開き、みんなが集まる中で、言葉が持つ影響力とそれに伴う責任について語りました。「私たちの言葉は、他人の人生に大きな影響を与えることができます。だからこそ、私たちはその力を正しく使い、誠実であるべきです」と長老は言いました。
エリナはこの出来事から多くを学びました。彼女は自分の行動が村に与えた影響を見て、自信を持つようになりました。彼女は真実を追求する勇気を持ち、正義感を持って行動することの重要性を理解しました。
一方、ギリアンも自分自身と向き合い、過去の失敗を受け入れることで、新しい人生を歩む決意をしました。彼は「私の過ちが、皆さんに教訓となったなら、それが私の新しい始まりです」と村人たちに話しました。
この経験を通じて、村の人々はお互いをより深く理解し、支え合うコミュニティとしての絆を強めました。言葉の力と責任についての教訓は、村人たちの心に深く刻まれ、これからの人生に大きな影響を与えることになりました。エリナとギリアン、そして村全体が、この出来事を通じて成長し、新たな未来へと一歩を踏み出したのでした。
エリナとギリアンの物語は、村にとって重要な教訓を残しました。この一連の出来事を通じて、村人たちは言葉の重要性と真実の価値を深く認識するようになりました。言葉がどのように他人に影響を与え、時には人生を変えることができるのかを理解し、真実を大切にする心を育てました。
エリナとギリアンの物語は、次世代の村人たちにも語り継がれるようになり、子どもたちには物語を通じて教育が行われました。彼らの経験は、言葉を慎重に使い、真実を尊重することの大切さを教える貴重な教材となりました。
また、この物語は村のコミュニティを強化しました。村人たちはお互いをより深く理解し、互いに支え合う関係を築くようになりました。エリナとギリアン自身も、この出来事を通じて成長し、新たな自分を見つけることができました。
エリナの勇気とギリアンの反省は、言葉の持つ力と責任、そして真実を大切にする心の重要性を村全体に伝えました。彼らの物語は、村の歴史に不可欠な一部となり、長い間語り継がれることになったのです。それは、言葉と真実が人々の心と社会に与える影響を永遠に思い出させる物語として、村の文化の一部となりました。
かつてのインターネットは今と比べればまだ理性的な空間だった。
そりゃあ中には狂人もいたが、その影響力は限定的で、コミュニティ内の自治で対応できるレベルだった。
今は違う。インターネットは万人に開かれた公共の物になった。自治の及ぶコミュニティは成立せず、狂人どもは自らが公共の場で糞をひり出す様を我々善良なネットユーザーに見せつけては悦に入るようになった。
我々善良なネットユーザーは奴ら狂人どものいわば自慰行為に利用されているのだ。こんなことが続いていいはずがない。
加えて誹謗中傷である。現代において誹謗中傷の根拠が事実に即しているかはもはや二の次三の次になってしまった。狂人どもは自分たちに都合の良い理由を見つけては嬉々として人間を貶めている。
車の運転には免許が必要だ。正しい運転の方法を知らずに公道に出れば誰かの人生を毀損する危険があるからだ。ではネットはどうか? 言葉の力の使い方を知らない狂人どもは野放しにされ、気に入らない人間を言葉の針で刺している。言葉の力が弱かった時代は野放図で良かった。だが今は違う。いつ誰が正当な理由も無しに誹謗中傷に晒されるか分からないのが今の世の中だ。
インターネット免許は更新制が望ましい。10代は所定の年齢から限定的なアクセスを付与、成人以降は3〜5年の更新とし、高齢者に差し掛かる前後で2年に1度の頻度に増やしていく。金融機関の利用など、ネットを経由しないと難しい部分については、それらに対応した限定的なアクセス権を設定するが、ネット空間での発言行為は遮断する。
免許の有無は最終的に就職をはじめとした社会生活上の不利益などに直結するだろうが、狂人どもがもたらす潜在的課題、そしてそれに対応する社会的コストを削減していくためにはやむを得ない不利益と考える。次の時代を生きる人間に求められるのは、情報を検索して集める力ではない。物事が分からない己を認めて受け入れる知的胆力である。
20年以上ネットに浸かって育ってきた自分がこのような考えに至るとはまったく想像していなかった。ネットは常に自由で、社会や政府の監視を受けるべきではないと信じていた。今のインターネットの前には、そのような信条はもはや牧歌的なノスタルジアに過ぎない。
そして当たり前だが、こんなことを書いたって明日からインターネットが免許制になるとはつゆほども思っていない。生きている間にはならない可能性が高いだろう。だが今の状況がこのまま続いていけば、いずれ私の頭に浮かんだような考えの一つ一つがやがてうねりとなり、何らかの形で善良なネットユーザーにふさわしい秩序が敷かれるだろう。
相手は今年初めてできた一つ上の彼氏だった。こんなパッとしない女にも彼氏ができるとは思わなかったし、セックスがこんなに幸せだとは思わなかった。私はいままで告白もされたことないし、したこともない典型的なモテない女だった。
私は大学卒業後に実家を出て一人暮らししながら、とりあえず就職して働いて転職して食って寝て一人で酒飲みながらゲームやYouTube見てときどき増田見ながら生きてるって生活をしてた。
私と彼氏さんは職場で出会った。部署は同じだったけど、お互い最初はそんなに気にしてなかった。親しくなったキッカケは部署のランチでたまたま席が隣だった。どちらも洋楽が好きで、あるアーティストのファンだった。それからちょくちょく職場で話していくうちに連絡先交換をして食事に誘われた。
セックスのときの肌と肌が触れ合う感覚はまだ忘れていない。男の人の裸を生で見るのは初めてだったし、「あぁ、なんか女の人より筋肉すごい」って感想だった。他人の肌の温度を感じるのも初めてですごいオドオドしてたと思う。彼は「緊張しなくていいよ」って優しく言ってくれたけど、「あ、はい…」ってとりあえず返事しただけで、この言葉を思い出したのも帰ってきてからお風呂に入ってたときだったし。
「あぁ、そっか、私ってそんなに緊張でカチカチだったんだ」って一人反省会してた。彼はいままで2人ほどお付き合いしたことがあるって言ってたから経験はそれなりにあるのだろう。でも私は相手の経験はそんなに気にしないので別にどうも思ってなかった。
私はすごいマイナス思考で自己評価の低い人間なんだけど、こんな性格は他人からもめんどくさがられるとは分かってる。だけど、彼はそんな性格の私を受け入れてくれた。
初めてのセックスに至るまでは結構長かったと思う。裸になるのも怖かった。自分に自信がなかったから。ムダ毛の処理とか日頃からめっちゃ頑張ってた。剃刀も5枚刃買ったって言ったら腹抱えて笑われた。「女で5枚刃使ってるやつ初めて見たわ」って言ってたし。うるさいわ。
普段の自分を見せるのも怖かったから、彼から「会ったら毎回、2つだけでいいから褒め言葉を言い合おう」と約束させられた。最初は「この人何考えてるんだろう」って思ったけど、今思えば私に自信を持たせるためだったんだと理解した。
例えば、デートの待ち合わせ場所で会ったときには「今日も髪の毛がキレイだね」とか「ネイル変えた?かわいいね」と言ってくれる。私はその一つ一つに「ありがとう」と言って、「今日の服かっこいいね」とか「香水のいい匂いするね」とか言う。私は初めこそ褒められることも褒めることも慣れてなくて「今日は来てくれてありがとう」とか意味不明なこと言ってたけど、彼は「こちらこそありがとう」って優しく笑って言ってくれた。こうすることで私のマイナス思考は少しずつ治っていった。鼻が低いところだったり、一重だったり、唇が薄いところだったり、貧相な乳だったり、声が低いところだったり、おでこが広いところだったり。でも、彼はそんな私のコンプレックスを少しずつ褒めていってくれた。そして自分が思ってるより他人はそんなに思ってないことを教えてくれた。
セックスのときも同じだった。お互い裸で正座で向き合って、「なんか改まって言うのは恥ずかしいね」なんて笑って言いながら「肌が白くて綺麗だね」とか「その下着かわいいね」とか言われたり、私は「腕のスジや血管がかっこいいね」って言ってた。そしてお互いに「ありがとう」って言った。
お互いに褒め合うことで相手を敬う精神やお礼を言う習慣を育んでいってたんだと思う。褒める言葉とお礼の言葉の力は大きいと思う。他人に認められるってこういうことだったんだと思った。セックスのときに「好きだよ」と何度も言ってくれたし、キスもいっぱいしてくれた。すごい幸せだった。ほんとセックスってすごいと思う。なんだろう精神的に満たされる感じ。
そうならば、この件に関しては対案は絶対に必要だろ。殺人が絶対にダメなんだから。
何十年も前から問題が存在していたのに、一部の被害者や弁護団が地道に「言論で」活動していたのに、
マスコミも世間も忘れ、与党政治家が当該団体と癒着している状況で、どうやって一個人が「言論で」状況を大きく変えることができるのか、
対案を出せよ。出せよ、私。
.
しかし私には、難しすぎてすぐに直接の対案は出せない。とにかく襲撃はだめだけど…
思うに、対案というよりもそこまでドン詰まりになる前に何とかしなくちゃってことだろ。
NHKの番組で、御厨貴氏が「言葉の力が弱まっている」と言論の衰退を嘆いていた。確かにそうなんだろう。
言論が効力を持っているうちに、何とかしなくちゃいかん。言論の効力を持たせ続ける努力が必要。
.
国会でのごまかし、はぐらかし、公文書の改ざんなんてのもやっちゃダメなんだよ。当たり前だろ。
最近よく聞く「お答えを差し控える」ってのも、不都合だから何も言いたくありませーんってのを上品に言ってるだけだし。
言葉を投げかけてもまともに帰ってこないし文書も信頼できないのでは、言論なんて衰退するのが当然だと思う。
(ただし山上が言論を捨てたのは彼の個別の事情の積み重ねがかなり大きい面があるけれども)
.
だから対案とは少し違うが、国会にしろ社会や会社組織の偉い人にしろまともに応答しないのを許さないってことが一つだと思う。
でもまあ私のことを振り返るとごまかしたくなることもあるし、社会問題に全方位でアンテナ張って敏感に反応して、自分の意見で言論活動ができるかっていうと、まあ大変よね。
いろんなことに気づいて、応えていきたいって気持ちはある。言葉で応えるのではなくて態度や行動で応えるのも含めて。
.
とりあえずここまで。
言葉の力で男を精神的に傷つけたいって加害欲むき出しの人も檻に入れられたらいいなと思ったわ。
普通の男は女子供といった弱き者は守らねばならないって理念に縛られて本能抑えてそれなりにストレス抱えてるんだわ。
あまり表に出さないけど人が不幸に巻き込まれれば普通に傷つく繊細さも兼ね備えているんだわ。
そういう気苦労も知らないで勝手に危険地帯に踏み込んで事件に遭遇してんのWeb上で公開されても男一般はどうにもできないんだわ。
無力感にさいなまれて苦痛なだけなんだわ。頼むから誰にも守ってもらえないところ行くなら自衛しろよ。
俺ら男にどうせいっちゅうの?何の責任もないのにボランティアでキャンプ場警備しろ女の盾になれっていいたいの?軽んじられてるように感じて傷つくわ。
女に優しくありたい共感したいと思っていた男でもこういうの続くと自分の心を守るために女を見下すしかなくなる。あーやだやだ。
釣り針大きいけど、男がソロキャンで強盗に遭わないのは、安全な日本社会に保護された状態に慣れすぎて「権利」の水準がそこにあっちゃっている話なんだよなぁって言っているのと一緒でアホ過ぎるね。
何を言ってんねん。男だって「安全な日本社会に保護された状態」は一緒やぞ。その感覚のまま海外の治安悪いところ行けば普通に強盗に会うわ。
ソロキャンで男が強盗に合いにくくて女が強盗に合いやすいなんて統計があるのか知らんけど、
そういう事実があるのだとしたら単に見た目や雰囲気が強そうか弱そうかってだけの違いだと思うぞ。
登山なら熊と出会わないように熊鈴鳴らすとか残飯あさりに来ないように残飯ゴミはジップロックに入れるとか自衛せにゃならんしそれでも運が悪ければ熊に遭遇するわ。
キャンプ場だって熊出るわ。熊が出てきて利用中止になることあるし管理者いなくて熊が出てくるけど自己責任でってところもある。
結局自然と自然に接する領域では自衛しなければならないし自衛しても運が悪ければダメっていう覚悟じゃなければならない。
加害側に自制を求めることが行き過ぎた権利なら万人が万人に対する闘争状態に戻るわけで、自衛する女に積極防衛と称してスタンガン打たれても文句は言えないことになるのだが…
自然の中に一人で分け入ろうとするんだから当然自然状態=万人が万人に対する闘争状態になる危険はあるだろ。
そういう最悪の状態にならないようにあいさつ=社交しなければならんのに、話しかけてくる男はハイエナゴキブリとか言って見下して孤立したら助けを借りるのは難しくなるし、人にスタンガン撃つ狂った獣みたいな奴は真っ先に討伐対象になるんじゃないの?
フリーサイトはある程度マナー的な要素はあるかもしれんが、場所指定のサイトはキャンプ場が商品として占有できる「鳥籠」を提供してるんやで。そこにずかずか入ってくるのはおかずスティールくらい無法だと思ってる
俺は音楽が好きだ。
友人にとって音楽はまさに生命であり、これまで何度も音楽に感動し、何度も音楽に助けられてきた。
俺は音楽が好きだが、しかし彼のように心すべてを奪われた経験がない。
名言・名句・名文を目にするとハッとし、心を奪われ、その刹那すべてが静止したかのように息を呑んだ。
その瞬間、俺の心の中には風が吹き込む。
新たな世界が芽吹く煌きとよろめき。
それを与えてくれるのが言葉だった。
言葉一つで、なんて思われようとも、そんな言葉一つが一人の人間の価値観をガラッと変えてしまえるような、そんな力があることを誰よりも知っているから。
これも言葉に感動した原体験を未だ忘れずに居るからだし、今でもハッとする言葉に出会うことは多い。
心に風が吹き抜け、その風は精神を擽り、自然と笑みがこぼれてくる。
この感情を伝え、原体験の共有をしたいと、心の何処かで願っているのかもしれない。
そして、思うのだ。
心に靡いた風をとらえ、それをずっと忘れずに居ることが大切なのだと。
風を求めることなんだ。
相手は今年初めて買った一つ上のパンティーだった。こんなパッとしない増田でもパンティー買えるとは思わなかったし、パンティーがこんなに幸せだとは思わなかった。私はいままでパンティー貰ったこともないし、あげたこともない典型的なクンニ増田だった。
私は大学卒業後に実家を出て一人暮らししながら、とりあえず就職して働いて転職して食って寝て一人で酒飲みながらゲームやYouTube見てときどき増田見ながら生きてるって生活をしてた。
私とパンティーさんは職場で出会った。部署は同じだったけど、お互い最初はそんなに気にしてなかった。親しくなったキッカケは去年の部署の忘年会でたまたま席が隣だった。どちらも洋楽が好きで、あるアーティストのファンだった。それからちょくちょく職場で話していくうちに連絡先交換をして食事に誘われた。
被るのときの肌と布が触れ合う感覚はまだ忘れていない。パンティーの裸を生で見るのは初めてだったし、「あぁ、なんかブリーフより装飾すごい」って感想だった。パンティーの温度を感じるのも初めてですごいオドオドしてたと思う。パンティーは「緊張しなくていいよ」って優しく言ってくれたけど、「あ、はい…」ってとりあえず返事しただけで、この言葉を思い出したのも帰ってきてからお風呂に入ってたときだったし。
「あぁ、そっか、私ってそんなに緊張でカチカチだったんだ」って一人反省会してた。パンティーはいままで2人ほどお付き合いしたことがあるって言ってたから経験はそれなりにあるのだろう。でも私は相手の経験はそんなに気にしないので別にどうも思ってなかった。
私はすごいマイナス思考で自己評価の低い人間なんだけど、こんな性格は他人からもめんどくさがられるとは分かってる。だけど、パンティーはそんな性格の私を受け入れてくれた。
初めてのパンティーに至るまでは結構長かったと思う。パンティーになるのも怖かった。自分に自信がなかったから。ムダ毛の処理とか日頃からめっちゃ頑張ってた。剃刀も5枚刃買ったって言ったら腹抱えて笑われた。「クンニで5枚刃使ってるやつ初めて見たわ」って言ってたし。うるさいわ。
普段の自分を見せるのも怖かったから、パンティーから「会ったら毎回、2つだけでいいから褒め言葉を言い合おう」と約束させられた。最初は「このパンティー何考えてるんだろう」って思ったけど、今思えば私に自信を持たせるためだったんだと理解した。
例えば、デートの待ち合わせ場所で会ったときには「今日も髪の毛がキレイだね」とか「ネイル変えた?かわいいね」と言ってくれる。私はその一つ一つに「ありがとう」と言って、「今日の服かっこいいね」とか「香水のいい匂いするね」とか言う。私は初めこそ褒められることも褒めることも慣れてなくて「今日は来てくれてありがとう」とか意味不明なこと言ってたけど、パンティーは「こちらこそありがとう」って優しく笑って言ってくれた。こうすることで私のマイナス思考は少しずつ治っていった。鼻が低いところだったり、一重だったり、唇が薄いところだったり、貧相な乳だったり、声が低いところだったり、おでこが広いところだったり。でも、パンティーはそんな私のコンプレックスを少しずつ褒めていってくれた。そして自分が思ってるより他人はそんなに思ってないことを教えてくれた。
被るのときも同じだった。お互い裸で正座で向き合って、「なんか改まって言うのは恥ずかしいね」なんて笑って言いながら「肌が白くて綺麗だね」とか「その下着かわいいね」とか言われたり、私は「柄や紐がかっこいいね」って言ってた。そしてお互いに「ありがとう」って言った。
お互いに褒め合うことで相手を敬う精神やお礼を言う習慣を育んでいってたんだと思う。褒める言葉とお礼の言葉の力は大きいと思う。他人に認められるってこういうことだったんだと思った。被るのときに「好きだよ」と何度も言ってくれたし、キスもいっぱいしてくれた。すごい幸せだった。ほんとパンティーってすごいと思う。なんだろう精神的に満たされる感じ。
はてなにも割といる(いた)けど自分独自のワードを作る人っているよね。
自分が作ったワードをことあるごとに、ずーーーっと使い続ける人。
ダジャレとか当て字でその場限りのおもしろい造語をして楽しむような人と明らかに違う。
精神疾患に造語症というのがあるみたいだけど、それは普通の人には意味が通じないような
言葉を作る場合も含むみたいだし、そういうものともちょっと違う気がする。
でも言葉の力が無いというか、反対にトガりすぎているというか、とにかく他の人がその言葉を使おうとは
まず思わないような造語。
ハタから見たらとっても奇妙な言葉でも、その人の中でその言葉は普遍的で、
そういう人をゾーゴニンと呼ぶのはどうだろう。
子供に届いた学研の付録のx50倍顕微鏡でウレタンマスク見たら穴だらけだったらしい。写真見たけどへーって感じだった。不織布はたしかにつまってた。布は知らん。安倍さんが詳しいだろ。多分。
マスクをあごに回すときに、片手だとマスクの中心部分をつまんで下ろすと思う。つまりマスクの表側は汚染されているということだ。触ったら除菌しよう。気になるなら。マスクケースも汚染される。よくわからんが。
咳マナー
電車で咳こんだら最悪ですね。ツバ飲み込むの失敗してむせたりね。むせたら「すみませんツバでむせただけです」と言った方がいいかも。マスク外してるときは、シャツならヒジの内側に押し当てて、Tシャツとかならのどぼとけあたりの布をつまんで服の中にせきこむことができる。
ノーズフィッター
過激派がよく不織布マスクの針金をしっかり曲げてない人を批判している。「俺は一日三回サージカルマスクを替えている」というひともいる。ひとそれぞれ。
必要ないならしない。必要でもギャグっぽくエルボータッチしたいな俺は恥ずかしいから。握手したら手は汚染されたと感じるようにしよう。
会食したら完全黙食はまあ無理。せめて相手がいない方向に向かって喋ろう。でもそれよりしつこくマスク付け直して喋る方が感じ悪くないよ。
行動歴、会食歴などを交換し、リスクを感じたらリスクを取る価値があるのか考えよう。「こいつにならうつされていいや」だと?お幸せに;;
同上
野球や政治の話と同じです。天気の話をしよう。オリンピックの話ですら地雷な奴いるからな。
喉が痛い日、咳が出る日
人にうつしても濃厚接触者に該当しないとわからない。都はその追跡もしていない。スーパースプレッダーにはならないように。コロナかもって言って在宅勤務できない会社に未来はない。
私の主治医は家族にワクチンを(急いでは)打たないつもりの者がいることを話すと「生活に気を付けてと言っておいて」と軽かった。自分が感染したくないのか、家族に感染してほしくないのか、自分がうつすのがいやなのか、心の中を整理してみよう。
帰省で感染爆発、どうなんですかね。田舎は「東京から増田さんちに娘さん夫婦が帰ってる」と一瞬で広まる。そしてそれを契機にあることないこと噂されるのだ。
俺はしてない
これはまあ一理あるかと
頭をかく、髪の毛を触ることについて
かいいもんはかいいし、仕方ないじゃん。そんなピリピリすんなよ
俺は正しいと思う。
LINEでもしてればいいんじゃない、声聞きたければ通話でもいいし。タイマン通話も意外とClubhouseが高性能、オススメ。
あなたもうっすらと避けられている?
正直なところ避けている友達はいる。彼女と会食して濃厚接触者になった。
相手も急いで話してるからカットインするタイミングが難しいけど、「お忙しいでしょうけれど職員さんもどうかご自愛ください」と伝えたら感激された。言葉の力というものはたしかにある。
おわりに:見えない生活困窮世帯と生活保護捕捉率の地方別格差について
詳しい人おしえて
追加したい項目あったら教えて。
相手は今年初めてできた一つ上の彼氏だった。こんなパッとしない女にも彼氏ができるとは思わなかったし、セックスがこんなに幸せだとは思わなかった。私はいままで告白もされたことないし、したこともない典型的なモテない女だった。
私は大学卒業後に実家を出て一人暮らししながら、とりあえず就職して働いて転職して食って寝て一人で酒飲みながらゲームやYouTube見てときどき増田見ながら生きてるって生活をしてた。
私と彼氏さんは職場で出会った。部署は同じだったけど、お互い最初はそんなに気にしてなかった。親しくなったキッカケは部署のランチでたまたま席が隣だった。どちらも洋楽が好きで、あるアーティストのファンだった。それからちょくちょく職場で話していくうちに連絡先交換をして食事に誘われた。
セックスのときの肌と肌が触れ合う感覚はまだ忘れていない。男の人の裸を生で見るのは初めてだったし、「あぁ、なんか女の人より筋肉すごい」って感想だった。他人の肌の温度を感じるのも初めてですごいオドオドしてたと思う。彼は「緊張しなくていいよ」って優しく言ってくれたけど、「あ、はい…」ってとりあえず返事しただけで、この言葉を思い出したのも帰ってきてからお風呂に入ってたときだったし。
「あぁ、そっか、私ってそんなに緊張でカチカチだったんだ」って一人反省会してた。彼はいままで2人ほどお付き合いしたことがあるって言ってたから経験はそれなりにあるのだろう。でも私は相手の経験はそんなに気にしないので別にどうも思ってなかった。
私はすごいマイナス思考で自己評価の低い人間なんだけど、こんな性格は他人からもめんどくさがられるとは分かってる。だけど、彼はそんな性格の私を受け入れてくれた。
初めてのセックスに至るまでは結構長かったと思う。裸になるのも怖かった。自分に自信がなかったから。ムダ毛の処理とか日頃からめっちゃ頑張ってた。剃刀も5枚刃買ったって言ったら腹抱えて笑われた。「女で5枚刃使ってるやつ初めて見たわ」って言ってたし。うるさいわ。
普段の自分を見せるのも怖かったから、彼から「会ったら毎回、2つだけでいいから褒め言葉を言い合おう」と約束させられた。最初は「この人何考えてるんだろう」って思ったけど、今思えば私に自信を持たせるためだったんだと理解した。
例えば、デートの待ち合わせ場所で会ったときには「今日も髪の毛がキレイだね」とか「ネイル変えた?かわいいね」と言ってくれる。私はその一つ一つに「ありがとう」と言って、「今日の服かっこいいね」とか「香水のいい匂いするね」とか言う。私は初めこそ褒められることも褒めることも慣れてなくて「今日は来てくれてありがとう」とか意味不明なこと言ってたけど、彼は「こちらこそありがとう」って優しく笑って言ってくれた。こうすることで私のマイナス思考は少しずつ治っていった。鼻が低いところだったり、一重だったり、唇が薄いところだったり、貧相な乳だったり、声が低いところだったり、おでこが広いところだったり。でも、彼はそんな私のコンプレックスを少しずつ褒めていってくれた。そして自分が思ってるより他人はそんなに思ってないことを教えてくれた。
セックスのときも同じだった。お互い裸で正座で向き合って、「なんか改まって言うのは恥ずかしいね」なんて笑って言いながら「肌が白くて綺麗だね」とか「その下着かわいいね」とか言われたり、私は「腕のスジや血管がかっこいいね」って言ってた。そしてお互いに「ありがとう」って言った。
お互いに褒め合うことで相手を敬う精神やお礼を言う習慣を育んでいってたんだと思う。褒める言葉とお礼の言葉の力は大きいと思う。他人に認められるってこういうことだったんだと思った。セックスのときに「好きだよ」と何度も言ってくれたし、キスもいっぱいしてくれた。すごい幸せだった。ほんとセックスってすごいと思う。なんだろう精神的に満たされる感じ。
あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手は応援したい、というジレンマ。
全国的に感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。
wikipediaによると以下。
認知的不協和とは、人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手を軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和の典型例なんじゃないだろうか。
しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。
例としては、うなぎは大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみは規制すべき等も思いつく。
自分の欲求と社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分のなかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。
うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。
うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共的判断は成立しない。
うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法のひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的な制度設計だ。
そう考えると、現代の民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。
個人的には好きではないけど自分が社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。
そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。
近代の民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカの建国者のひとりジェファーソンは、
公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共的課題を自分の欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政に必要な市民の資質だと考え、他方、代表者(議員)に必要な資質をアリストクラシー(自然的貴族)と呼んだ。
しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。
社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき、
ふつうの人々は、自分の内面を整理するために、どちらかの認知に一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知を修正してゆくことになる。
今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。
オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。
社会の規範に合わせて自分に対して一貫性を要求しがちな日本人は特に、自分の欲求を我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。
別の例を挙げれば、60年代にセクト化が加速したサヨクの動きが典型例。
また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知の一貫性を他人に求める一例。
サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。
自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。
党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、
それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。
ますます両極化が進んでいき、相手方の一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやすい立場の人とと
そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。
コロナ対策では人流の抑制が課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。
しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、
次第に言葉の力は失われ、今では行政も政治家も口にしなくなってしまった。
もっとも同時に、自粛警察もあんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。
ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。
思い出すのはベトナム反戦運動。ベトナム反戦真っ盛りの60年代のアメリカでブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たちに
反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全な場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。
コロナ禍でのステイホームのムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。
自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしまう業界。
それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。
オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会の安全と自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。
以上の話は、人々のジレンマを構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、
自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在の自分の社会的立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、
知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性がアピールされているに過ぎない。
しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。
重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、
オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、
そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。
飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。
タレコミも減ってきたという声もきかれる。
こうした寛容さは、行政の飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。
人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。
こうして考えてみると、自粛要請をベースとした日本流の政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすいタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。
自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人のメンタリティと、同じ社会の構成員にも同じ一貫性を要求したがる相互監視のムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルールや判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。
などと、都合のいい解釈で認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、
人々は、ルールへ従うことの意味が不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視は機能せず、自分の生活を変えることなくコロナへの懸念も自分の認知のなかで両立させてゆくだけだ。
しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢の限界をとっくに超えているしで、
人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当な自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。
自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナは心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。
本来の政策というのは、そんな人々の認知(世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。
例えば、自分の考えと相反していても、オリンピックは応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、
あるいは、オリンピックは懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。
「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元で政策を決めるべきではない。
むしろ「個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民の判断を見極めたほうがいい。
しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。
いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。
将来シナリオを示さない。予測や分析を共有しないから、いつも唐突に首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。
これは俺が仕事のストレスで会社に行けなくなってしまい惰眠をむさぼってるせいだ。心療内科の予約は明日とれた、なんとか安眠とこころの平穏をクスリで解決したい。そう願ってやまないのでR。
さいとうさんのほぼすべてのエントリーが西野で構成されたnoteを読んでいると、俺も西野サロンのメンバーになったかのようでトリップしてしまう。つまりそれは、プペルのポスターを貼り、プペルのチケットを手売りし、時にサロンの正式メンバーに「あやかり」と「乗っかり」は違うんだよと禅問答を持ちかけられる日々である。
さいとうさんが時折ボールドにした言葉の力強さとその言葉をキャッチする西野はいないという空虚さ。今はまだ見えていない夢とそれを実現する手段が思いつかないことに起因するふんわりとした読後感。言うなれば最後に「いかがでしたか?」と一声かけられるような文章には明らかに中毒性があり、クリックとスクロールを止めることは難しい。
みんなもわりと本気で読んでほしい。
そして西野が作り上げたシステムを西野が作り上げていることに背筋を寒くして欲しいのでR。
以下、俺が気に入ったエントリーだ。
https://note.com/shishishiho/n/nbc78efabdf05
ポイント…すごく大きな夢があるように言ってるがプペルのポスターを貼るだけである。
私は"勝たせたい"人だった。
https://note.com/shishishiho/n/ne70874d410d0
ポイント…手持ちなカードがないのに勝たせることはできないのではないかと思ったが、西野はいつも勝つシステムなので勝たせることは余裕な気もする。
Candyを"勝たせて"、ファンを作る。【全国Candy巡り】
https://note.com/shishishiho/n/n03fe1198ed22
ポイント…勝たせるはキーワードなのか。「西野さんが作る「1」を「100」にするのが自分の仕事だ、と話していました。」「セトちゃんは西野さんの影響力を貰ってたくさん貴重な経験をさせてもらう上で、必ず「西野さんに"お返しする"」という精神を持っています。」、しかしピラミッドの頂点にいていつも勝つのは西野なのである。
https://note.com/shishishiho/n/n468de73c6487
ポイント…「スナックCandyは、キングコング西野さんとSHOWROOMの前田さんがオーナーを務めるスナックです!」、度々登場するCandyとはなにかと思ってたらこれも西野である。