はてなキーワード: 偽証とは
偽証指示してなくても出廷お願いするだけでもやっぱ買収になるもん?
f'(1)=1となる関数があるとする
また実用的にはあまり意味のない等式だが{f(x)}'=f'(x)である。(ご存じだろうがこの形の等式は積の微分法や合成関数の微分で意味を持ってくる)
今この等式の両辺にxを足せば、{f(x)}'+x=f'(x)+xである。
今、左辺の{f(1)}'は定数の微分を意味するため0である。
むしろ重要なのは、代入に対して「式に登場する同じ文字全てを同じ数あるいは文字で書き換えること」だという固定観念を持つ人ならば誰しも同じミスを犯しうることである。
教育を見直すべきではなかろうか。
参考
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10289671605
[B! あとで読む] 何故フェミや女性ってそこまで謝りたくないの?
https://l.pg1x.com/6QYyWc8My81jNpNW8
コイツを見てくれ。コイツをどう思う?いや単に晒し上げなんだけど(笑) これは単なる前置き。でもよく見てやってくれ。
コレで分かるのは「なんでこっち(正義のフェミ様)がクソジャップス共に謝らなきゃいけねぇんだ!」っていう態度である。
謝罪の対象を、刑法や民法の立脚点である「共同体の住人」とは見做してないんだよ、コイツラは。
だから謝らない。
もっともっと程度の低い言葉で言うなら「信頼も信用も無いから謝罪の対象じゃない」ってこと。
だがよ、フェミ様共よ。
信頼と信用がねぇのはアンタラも一緒だぜ?
・最悪の権威主義(上野筆頭に大学教授の肩書で相手に不足している知を担保してないことを揶揄する。同じ社会問題の、程度の低い問題を解決するのに知の高低なんぞ関係ない。むしろ低い人たちが認知できるように包括するのが、本来の知性や知識だろうが、権威主義者共が)
・集団による「その場の制圧」(民主主義の最前線たる議会では多数派ではないため、ここの現場で「動員」を掛けて、自己顕示ガス抜き抗議を連発する。ただのデモ屋共)
・責任の所在を有耶無耶にしての法的アクションを含めたキャンセルカルチャー(言わずもがなレターな。インナーサークルのことを外に持ち出して名誉を毀損されていた、ってのは俺の中では「じゃあ代々木出入りしている職員を籠絡して、やらかしてるのをオープンにしていいよな?」ってのと同じなんだけど?)
他にもでかいのは幾つもあるけどな、草津の件(偽証、自治体/町長への名誉毀損他)、Colaboのインチキ会計(都の問題は都の問題。Colaboの問題はColaboの問題。混ぜんじゃねぇよカス共)、などなど。
要するに「上から目線の共同体の隣人として信用も信頼もおけない、薄気味悪い輩」ってのがアンタラ、フェミの状況なんだよ。
最低限「悪いことは悪いと分かる程度の、信用はある(信頼はできないけど)共同体の隣人」に戻せるように「謝罪したら?」ってお話なんだけど、分かってないよね?
信頼も信用も、謝罪で歩み寄る側は「アクションを取ってる(革新)側」なんだよ? 「アタシらが気に入らん!」って暴れてるのはアンタラなんだし。
なんで保守、現状派が謝る必要があるの? 変革の価値に重きをおいているのはアンタラなんだから。
俺は昔から言ってるけど「オマエラが全員死んだ頃に、オマエラが崇めていたものが普通になるから時間だけが解決する」ツーてるでしょ? 今のオマエラフェミが満たされることは無いんだよ。時間しか解決しないんだから。
オマエラに足りないのは諦観。時間しか解決しないことを受け入れろ。
謝り方がなってねぇんだよ(笑)
ジャップのフェミナチが謝らねぇ理由は「運動が1歩でも後退するのを嫌っている」からだよ。
解説してやろう。
「運動」ってなんだ?
社会運動は、社会を良くするための活動だ、なんておためごかし夢想家のバカの価値観に寄り添ってんじゃねぇぞカス。
「運動」ってのを生み出したのは「学生運動の過激派」、要するに「活動する共産主義者」共の活動に過ぎねぇんだよ。
共産党と過激派は手を切った、なんておためごかしを誰が信じてるんだよ。信じてるのは共産オルグされてるバカはてなー共と、運動に参加した結果アイデンティティ化しちまったツイッタラー(笑)だけじゃねぇか。
代々木盗聴は「バレたから問題」なのであって、三叉路で警官焼き殺したのを指示したのは代々木だったってのは、亀井が不破にぶつけた戯言な?
学生運動過激派共は、非を認めれば総括、活動に手抜かりがあれば総括、真面目さと詭弁だけが取り柄のバカジャップのアイデンティティをそのまま共産主義運動に乗っけたバカどもだ。
安保闘争の時に、岸をぶっ殺せなかった(首相官邸に突入して、岸以下警察官僚全員ぶっ殺せばよかっただけ)のがオマエラの運動の敗北だよ(笑)
まぁ、コレに関しては公安警察が活動細胞のレポ員を微罪で片っ端から逮捕してたから、頭脳と活動体の分断が成功したからなのであって。
(レポ員逮捕→活動体の指揮に入るしか無い→隠れ家を出たとこで逮捕→活動体は放置。むしろ破壊活動させて全部しょっぴくまで警察は決めていた。でも、岸だけは首相官邸防衛のために自衛隊を呼びたがっていた)
……とまぁ、敗北者だからこそ「今の運動を後退させてなるものか!」が謝れない正体だよ。
要するに、フェミナチ共は共産党の運動の流儀をそのまま継承しているの。勿論オルガナイザーやメンターは何も言わないさ。でも、ルールは徹底している。
そりゃそうだ。これまで「運動」で「内々の実績」だけは作ってきたからな。「内々の実績(笑)」だけな。
要するに今のフェミナチ運動共は、「内々の実績(笑)=共産党の運動(笑)」としての価値に重きをおいてるから「謝罪なんか以ての外」なんだよ。
だって「敵」だもの。敵に謝るなんて、許されるわけ無いし、例え偽証だろうと「討つべき敵への攻撃」は「共産党とそのオルグされた連中の正義」でしかないからな。
つまりだ。
「ちゃんとした謝罪は、これまでの活動の導線を全部説明して、テメェが【謝ったら許されないドグマ】に毒されていることを示した上で、そうした【運動や活動と手を切って】本当の女性保護活動に立ち返ります」以外ねぇんだよ。
[B! 事件] ジャニーズ 元タレントら“子どもへの性犯罪 時効撤廃を” | NHK
このニュースには反対。性犯罪には時効があるべきだし、過去に行われた時効撤廃についても再考するべきだ。
理由は、「時間はあらゆる証拠を洗い流してしまうから」に尽きる。その証拠には、有罪の証拠だけではなく、無罪の証拠も含む。
あなたは昨日の夕食、誰と何を食べたか言えるかもしれない。行きつけのお店で友達とご飯を食べました。これがインスタに上げた写真です。店長も友人もそう証言してくれています。アリバイ成立。送検すらされない。よかったよかった。
だが、30年後にその店は残っているか? 店長や友人は生きているか? インスタの垢は削除していないか? そもそもインスタがサ終していないと誰が言えるのか? っていうか、その日に友達とレストランに行ったことを思い出せるのか? 増田は30年後に自分のアリバイを証言できる自信がない。
そうはいっても殺人であれば、たとえば凶器に残された指紋であるとか、第三者の目撃証言とか、そういったことが無罪の決め手になるかもしれない。
しかし性犯罪の多くは、証拠が残らないことが多い。親密な関係性で行われる性暴力というものは多くあり、その場合、証拠が残ることは極めて少ない。それはある一面では「訴追に足る証拠がないので、被害者が泣き寝入りを強いられたり無罪判決が出ることが多い」であるということだが、もう半面は「証拠が足りない状況でも訴追され得る」ということでもある。これは、無力な一市民にとってみれば、恐るべきことではなかろうか。
ジャニー喜多川による性暴力は、おそらく実際にあったのだろう。そこは疑わない。だが、性暴力について偽証する人というのは残念ながら存在するし(ウトロー事件、会津若松虚偽告訴事件、草津町長に対する冤罪事件)、被害者が間違った人を犯人として名指ししてしまうこともある(氷見事件)。被害者の家族が間違った人を警察に突き出したという事件もあった(貝塚ビニールハウス殺人事件)。そういった冤罪は、いつでも、どんな犯罪でも起こり得るのだ。自分が被害者になる可能性については多くの人が想像しているだろうが、自分が容疑者になる可能性についてはいったいどれだけの人が真剣に考えているんだろうか? あなたが何もやってなくても、警察が容疑をかけたら、あなたは容疑者になるのだ(容疑者というのは、「犯人」という意味ではなく「犯人ではないかと疑われている人物」のことである)。
増田は教職に就いていて、子どもたちと個別面談をしたことが何度もあるが、何年何月何日に教員室で身体を触られました、と言われたときにどう防御したらよいのかわからない。数ヶ月前のことだって記憶があやふやなのに、まして30年、50年も前のこととなったら。草津町長の冤罪事件では、「町議の訴える被害の状況と実際の町長室の家具の配置が違う」という点も町長側から反論として出されたが、何十年も経ったら教員室も模様替えしていて、「こんな犯行をできたはずがない」という弁護はできなくなっている可能性が高い。
もちろん、あまりに昔の事件の捜査・訴追については何らかの物的証拠(被害者を縛り上げたロープについた指紋とか、採取された精液とか、防犯カメラの映像とか)を必須にする、という運用がなされるなら、そこまで恐れる必要はないのかもしれない。しかし、残念ながら増田は日本の警察の良心をまったく信用していないので、時効によって、そもそもそんな昔の事件については捜査がなされないことを望む。
○ご飯
朝:ヨーグルト、バナナ。昼:なし。夜:おにぎり、味噌汁、唐揚げ。間食:ポテチ。
○調子
・はじめに
十数人の超高校級の才能を持った高校生たちが閉鎖空間に閉じ込められ、彼ら同士が殺人とその犯人を見抜く学級裁判を繰り返していくデスゲームものという骨子はそのままに、新しいストーリーが展開する。
魅力的がすぎるキャラクタ達、非常に残酷で救いの無い絶望的な展開、それらを丁々発止の議論で盛り上げていく。
今作はボリュームがあるのに加えて、かなり込み入った構成になっており、感想を書くのが非常に大変だった。
まずはキャラクタの魅力を語ってから、作品自体の感想を書こうと思う。
アクの強いキャラ達振り回されてきた歴代主人公の序盤の挙動とは違い、良い意味で最初から自分で物語を牽引していくタイプの主人公。
これが前向きで読んでいて楽しく、その積極さを応援したくなっていった。
他の面々に道を見出すシーンが多く、特に密接な関係となる超高校級の探偵最原終一との関係値がどんどんと変化していく様が好き。
しかし、この前向きさが、必ずしも正解とは限らないと批判されるエピソードが、幾つもあるのが今作の感想をまとめることの難しさの一つだ。
現実世界では何かを評するときに必ず良い面も悪い面もあるのが普通だが、フィクションとしての娯楽作品ではその辺はざっくりと抽象化してくれるものが多く、特に主人公の思想については過程はともかく、結論は肯定的に描くものが多い。
ここを多様的に肯定と批判が繰り返されるだけならまだしも、結論として肯定なのか否定なのかが明示されないのが本当にややこしくて、楽しくて、好きになった。
ダンガンロンパのテキスト主体の作品では初の女性主人公ということもあり、女性陣とは最初から距離感が近く、男性陣とは少し遠いのも、今までとの違いが楽しめた。
特に男性が嫌いな茶柱転子とは女性同士だからこその関係性を築くのが良きだった。
・王馬小吉がエグくて格好いい
彼の才能は超高校級の総督というよくわからないものだが、物語が進むにつれてその意味が否応なく理解できていく。
悪の秘密結社の総督を自称していて、最初から最後まで一貫して悪を貫いていて格好いい。
しかし、ここでいう悪がどのような意図の言葉なのかは、物語をそのまま書き下す以外ないぐらいに複雑で幾重もの意味を持っている。
彼の当番章は、僕がダンガンロンパシリーズでもし章単位の番付表を作るなら、一番に据えるかもしれない、それぐらい、好きで気に入ったキャラクタだ。
ただ、この好きを言語化するのが本当に難しい。
どこまでが本心で、どこまでが演技かも不明なシーンが多く、彼を好きなこの気持ちも、どの彼が好きなのかをはっきりできない。
ただ、正義や真実や希望といった、ダンガンロンパシリーズで「良い」とされてきた価値観と真っ向から対立する存在なのは間違いない。
それだけに、ある意味ダンガンロンパシリーズを包括して批判する評論家のような一歩引いたメタ的な立ち位置(物語の構造や超越的な設定の意味でメタフィクションと言っている訳では無い)なのが魅力的に写ったのかもしれない。
見た目は元気そうな少年なのも、悪なシーンとの対比が映えて好きなところ。
超高校級の才能であれば多少の無茶は飲み込める世界観だけに、超高校級の発明家というざっくりした才能はかなりの自由さだった。
一章からそうそうに発明家としての才能を発揮していく上に、自身の当番章ではまさに縦横無尽に活躍する。
そんな才能面での自由さ以上に、日常会話が成り立たないレベルの下ネタ好きっぷりに惹かれた。
女性同士という点を差し引いても、ドン引きレベルの下ネタが開幕から続く。
性的なネタを好み下品な言動ばかりで一貫して喋るキャラで、真面目な学級裁判での議論中でも容赦なく下ネタをぶっ込んでくる。
作中人物達からの人間性の評価、特に女性陣からのそれは散々で、めちゃくちゃ優秀な才能で活躍するにも関わらず、非常に嫌われている。
傍若無人な態度をとりながらも、相手に強気で来られるとマゾヒズムな感情を刺激されるのか恍惚の表情で命令を聞いてしまう辺りも、下ネタ好きキャラとして一貫した個性になっている。
性的に奔放で自由な様の娯楽的な面白さに、後付けで理由を付けてしまうのだけれど、ここまで自由だとある種の強い社会性からの解放すら感じられて、見ていて飽きない楽しいキャラだった。
あまりテーマとは関係のないコメディキャラだが、まさにそのコメディ部分が楽しめたし、清涼剤的な役割だった、性欲剤でなく。
・「嘘」
そんなわけで、必ずしも肯定だけで終わらない主人公の赤松楓と、どこまでが本心かがわからない王馬小吉の二人が好きだという感想を書いた。
これはゲームシステム的にも表現されていて、恒例のノンストップ議論で相手の発言を、証拠や証言で打ち抜く際に偽証をすることができる。
要するに議論を進めるためなら、それが真実でなくても良いというスタンスだ。
物語としても終始この「嘘」について取り上げられ、実際に起きた事件の議論という枠組みに収まらず、ある意味では倫理観、ある意味では普遍的な、様々な問いを議論していく。
非常に複雑な構造になっており、作中から得られる情報では絶対に真実には辿り着けない。
その上で、物語での言葉を借りると、誰を信じるのかを決めることが重要なのだろう。
主人公である赤松楓や、ある意味で名敵役である王馬小吉と言ったすごく主軸となるキャラクタですらその本心と、それに対する評価が多様なことが、まさにニューダンガンロンパV3全体の感想にそのまま繋がる。
このゲームが楽しかったのか、好きなのか、つまらなかったのか、嫌いなのか、自分の中で多様な意見が結論が出ないままにそのまま残っている。
別に物語として尻切れトンボなわけではなく、まさにこれが狙ったことなのだろう。
明確な結論を出さず保留し、ずっと考え続ける。
そういう結論がないことこそが結論の作品だったと、こうして感想を四苦八苦しながら書いて感じた。
・おわりに
こうやってゲームの感想を書くようになって以来、楽しむと自然と感想も書けるものだと思っていたのだけど、今作はかなりこのアウトプットに時間がかかった。
とにかく複雑で入り組んだ構成をしているゲームで、端的に何かを語ることが難しかった。
かと言って考えさせられる系の現実としての生き方に尾を引くお話なわけでもなく、あくまでフィクションとしての娯楽作品であることは貫かれている。
このゲームが好きなのか嫌いなのかすらもよくわからない、自分の中で整理が付きにくい。
この独特の読後感が唯一無二なのは間違いなく、アドベンチャーゲームというジャンルを飛び出して、ダンガンロンパはダンガンロンパなんだとトートロジーでしか評せない癖の強いゲームだった。
だから、「萌え豚がー」「美少女動物園がー」と、あんだけ、一方的に差別し続けて来たくせに、「私たち腐女子は男オタに差別されてるー!」と、事実と真逆の偽証を、平気で喚けるんだ。
ネトウヨ兼ブサヨな、糞フェミババアだらけのヤフコメを見ると、このどうしようもないくらい屑いだけのニュースに、なぜか同情票が集まっている。
いつも、もっと深刻な立場で、ストレスフルに追いやられている、派遣や失職した男が、ちょっと路上で声を荒げた、生活保護を断られてキレた、みたいな記事だと、ボロクソに叩いて、一切同情なんて示さない連中が、あんな同情の余地もないようなクソ女の事件には、「分かる分かる」と一斉に頷き合う。
要するに、同じ穴の狢なのだ。
彼女らにとって、こうした、加害と被害の転倒、自分が一方的に攻撃して喚き散らしてるだけの癖に、相手を悪者にする手段は、常套化しているのである。
だから、「萌え豚がー」「美少女動物園がー」と、あんだけ、一方的に差別し続けて来たくせに、「私たち腐女子は男オタに差別されてるー!」と、事実と真逆の偽証を、平気で喚けるんだ。
連中は、一生涯を通して、迫害する側の屑だったくせに、自分がイジメてきた相手が、同情されることさえ気に食わず、自分たちの方が被害を受けてたと他人に思わせるよう洗脳しているだけ。
こんな救いようのないクズ女が生まれたのも、全ては、マスゴミが、ただ若い女を釣って、ヤリ捨てしたいというだけで、甘やかしたから。
マスゴミが、男女で対立した時は、いつでも「悪いのは男! 女の方が一方的に攻撃してても、元凶は、目に見えない(つまり存在しない)女性差別のせい!」だとがなり立ててきたせいで。
その結果、この国の腐れ売女は、百%自分が悪くても、他人のせいだと喚き散らす癖がついたのである。
もし、それが、そのクズ女のせいだけじゃ無ければ、他に責任があるのは、そういう害毒をバラまいたマスゴミと、それに、下心だけで阿諛追従し、マスゴミ権力者に尻尾を振り、分け前に与かろうとしたクズ男だけだ。
まあ、大半のマスゴミ関係者は、ただの調教されたクソ犬に過ぎないから、都合で潰されるわけで、マスゴミの論調全てを操れるのは、ごく一握りの権力者だけなのだが。
でも結局、犬は犬として、利用価値がある限り、どんな屑行為を繰り返しても擁護されるのである。
逆に、弱みを握って、どんな悪さでもさせられるように、エスカレートさせていく。
その結果、マスゴミの中には、女を串刺しにしたり、首絞めしたりしないとイケなくなったようなケダモノが、わんさかといる。
ちなみに、小泉純一郎には、芸者の首絞めレイプ殺人疑惑があるが、彼がそれをやったのではなく、より高位の権力者の身代わりになった説がある。
そのご褒美に、総理大臣にまでしてもらえたのだろう。
そうやって連中はかばい合い、隠避し合って、陰で、バカ女を血みどろにして楽しんでるわけだ。
女を食い散らかすことに慣れたこいつらは、それさえ取り上げれば、欲求不満で発狂し、周囲の人間をボロカスにして、道連れにしながら苦しんで死ぬ。
殿ご乱心、というわけだ。
なお、それに釣られたバカ女が、散々弄ばれて捨てられた時、今度は、本当の被害を訴えると、こいつら嫌らしい畜生の偽善者どもは、糞フェミをまき散らしてた過去を忘れて、一斉に女を攻撃する。
このバカ女に味方なんていない。
他の女は、このバカ女を生贄に、自分たちが、マスゴミにチヤホヤされたいだけだから、何をされたってどうでも良い、彼女らの喜ぶ糞フェミイケメン動物園を作ってくれたマスゴミ権力者に、立てつくなんてけしからんと攻撃するだけ。
他の男たちは、散々こいつらバカ女が、糞フェミマスゴミに便乗して、何一つ非がないのに、一方的に叩かれ、マスゴミ工作で、無理やり黙らされてきたから、そのマスゴミが、手のひらを返してクソ淫売を攻撃すれば、ここぞとばかりに恨みを晴らすだけだ。
それを胡麻化すために、ミートゥーで茶番劇を演じて、安心させて身体を捧げるように促すが、もちろん、本当に被害にあった女が声を上げても、アメフトのスター選手にレイプされ、ネットバッシングされ自殺したアメリカ女や、セクハラバイデンみたいになるだけだ。
TBS支局長の糞レイプ魔みたいに、局内で枕強要しただけの癖に、相手の男が、ネットのネトウヨに支持されて、全てネトウヨのせいにしながら、レイプ男なのに、影響力を発揮してくれそうな時や、官僚を脅迫して言いなりにしたいときだけ、茶番劇が演じられる。
要するに、こいつらクソ淫売のカスバカ女のお陰で、レイプした相手が叩かれるかは、マスゴミの気分次第になっている。
実際、マスゴミが擁護すれば、どんなクソ男でも擁護され、どんな被害者も、嘘つき冤罪女として殺されている。
結局、ミートゥーなんていうのは、レイプ被害女が叩かれるかどうかも、マスゴミ次第にしようという運動なのだ。
ミートゥ―なんてほざいた途端、他のほぼ全ての男は、一斉に憎悪を向け、マスゴミが無理やり問題化した時だけ、怖くて叩くのは止めるけど、そうでない時は袋叩きにしようと狙われるだけだ。
それも全て、クソ淫売どもが、何も悪いことしてない男にも、罪悪感を植え付けて言いなりにしようと、精神的DVを繰り返したせいだ。
確かに、頭が悪く、まともに何も考える知性もないバカ男や、ものを知らず、簡単に洗脳されるアホ餓鬼なら、冷静に考えれば、自分が何も悪いことをしてないのに、悪いことをしていると思い込むかもしれないが、その場合、連中の殆どは、言いなりになるより、性犯罪者に親近感を抱いて、味方するだけだ。
そして、殆ど全ての真っ当な男は、ただ女への憎悪をたぎらせる。
もちろん、本当の意味で、女に同情する奴なんて、当の女を含めて、もう誰もいない。
ただイケメンが見たいだけのために、自分たちで自分たちを貶めてきたのだから、自業自得だ。
物を知らない馬鹿ガキは、ただ、周辺ルートからの説得により、当事者意識ゼロで、自分だけ、安全圏から一方的に殴れると思って、マスゴミががなり散らす相手を悪いと思って加勢するが、いざ、自分が標的にされるとみるや、百八十度態度を変える。
まあ、テレビを見てる視聴者のほぼ全てに、全く同じことが言えるわけだが。
そうやって、マスゴミは、大衆の大半には、当事者意識を奪い、「こいつらは、あなた方とは全く無関係な相手ですよ~wwwだから好きに叩いて良いんですよ~www」と騙して扇動し、叩かれる側を、常に少数派に設定する。
そして、あらゆるレッテル貼りで、国民を細分化し、最終的には、誰でも叩けるようにし、気づいた時には、自分たちの方が、叩かれる少数派にレッテル貼りされ、バッシングされているわけである。
マスゴミ工作員のVチューバーが、オタク相手の商売の癖に、オタクオタクと叩いてるのはそのためだ。
そして、そうした屑女と結婚するような、こういうバカ夫は、それを、家庭でも追体験し、ボロボロになる。(まあどうせ、和歌山カレー事件の夫みたいな感じで、都合が悪い時は被害者ぶって、妻を刑務所送りにしても、少し経って、自分に危害がこないと分かると、あれは自分も悪かった、妻は悪くない、逮捕した警察が酷かった、とかほざき出し、救ってくれた側を叩き出す。でもまた、自分が被害を受ける立場になると、助けてくれーと喚き出す。こういうマゾ豚男が一番クソだ。マゾ男に救う価値なし。助けた奴がバカを見る。助けずいれば、クズ女と一緒に破滅して悶え死ぬ)
全ては、連中が今まで犯し続けてきた、罪の結果に他ならない。
実際のところ、その罰ですら生ぬるい。
連中が、他者に与えてきた、莫大な損害は、こんなもの、取るに足りないくらい酷いものだ。
結局、連中には、ネットでも、クズ同士傷をなめ合う立場が残ってしまった。
男オタには、それさえ許さず、破壊したくせに。
ああいうイケメンオタク女と結婚しても、幸せになれるはずもない。
なぜなら、彼女らは、我慢して、アイドルでもホストでもない奴と結婚してやってるから。
つまり、男側が何もしてなくても、不満と憎悪を燃え上がらせ、勝手に被害妄想を募らせる。
そして、常に喧嘩しあってるか、一方的に精神的DVをし続ける関係になって、こういう事件を起こすか、もっと行けば殺し合う。
よく、アメリカのドラマで、老いていく妻に我慢できずに、殺して若い女に走る夫の話があるが、まあ、バイデンみたいな権力者は、そういうことを実際にやっても、殆どは、妻の方を、男女逆にして騙しているだけだ。
元々は、ボヴァリー婦人の時代から、恋愛小説に頭を犯され、恋愛小説のイケメン男しか我慢できない女が現れたわけだ。
作者は、そういう女を監視して知っていたが、女たちから憎まれるのを恐れたのか、それで誰も結婚しなくなるのを憂慮したのか、あれは自分だ、つまり男の方の問題だとデタラメをほざいた。
それに便乗し、今でも逆のことをやり続け、人々を騙し、紺本的な原因から目を離させ、結果、もっと酷い状況になった。
それでも、テレビや出版社が、そうした、クソコンテンツを再生産しなければ、自体は正常化するのだが、連中は、悪意と憎悪から、それらをバラ撒いている。
そのくせ、自分等は、そうして、クソ婬売化した女を知っているから、自分達が結婚すると、バイデンみたいに、「何で俺がやっちゃいけないんだ? クソ女は、みんな同じことやってるのに。まあ、俺らがそうするよう躓かせたんだけどなぁwww」と考えて、なんの罪悪感もなく、飽きた女を殺すのである。
要するにそれが、マスゴミで、イケメンコンテンツなんか作ってる連中の正体なのだ。
大抵の男は、そのようなことをする理由がない。
何故なら、女は待てば良いだけだが、男は追わないといけないからだ。
他に女がいない限り、妻だけ殺しても、なんの意味もないのだ。
まあ、もちろん、権力者というものは、常に、他に、女がいるものだが。
だから、妻に飽きた夫は、家族を捨てて失踪することはあっても、殺すことは、まずない。
現代社会にあっては、全てを捨てて失踪したところで、未来などないのだから、ポルノと風俗に逃げるくらいである。
中世においては、未知の土地で出世する、という妄想が、偽りのリアリティを帯びていたわけだが、無論、十中八九、ただ野垂れ死にするだけだ。
妻は、他に男がいなくても、ただ、そうした男を呼び込むために、夫を殺すのである。
ネトウヨ兼ブサヨな、糞フェミババアだらけのヤフコメを見ると、このどうしようもないくらい屑いだけのニュースに、なぜか同情票が集まっている。
いつも、もっと深刻な立場で、ストレスフルに追いやられている、派遣や失職した男が、ちょっと路上で声を荒げた、生活保護を断られてキレた、みたいな記事だと、ボロクソに叩いて、一切同情なんて示さない連中が、あんな同情の余地もないようなクソ女の事件には、「分かる分かる」と一斉に頷き合う。
要するに、同じ穴の狢なのだ。
彼女らにとって、こうした、加害と被害の転倒、自分が一方的に攻撃して喚き散らしてるだけの癖に、相手を悪者にする手段は、常套化しているのである。
だから、「萌え豚がー」「美少女動物園がー」と、あんだけ、一方的に差別し続けて来たくせに、「私たち腐女子は男オタに差別されてるー!」と、事実と真逆の偽証を、平気で喚けるんだ。
連中は、一生涯を通して、迫害する側の屑だったくせに、自分がイジメてきた相手が、同情されることさえ気に食わず、自分たちの方が被害を受けてたと他人に思わせるよう洗脳しているだけ。
こんな救いようのないクズ女が生まれたのも、全ては、マスゴミが、ただ若い女を釣って、ヤリ捨てしたいというだけで、甘やかしたから。
マスゴミが、男女で対立した時は、いつでも「悪いのは男! 女の方が一方的に攻撃してても、元凶は、目に見えない(つまり存在しない)女性差別のせい!」だとがなり立ててきたせいで。
その結果、この国の腐れ売女は、百%自分が悪くても、他人のせいだと喚き散らす癖がついたのである。
もし、それが、そのクズ女のせいだけじゃ無ければ、他に責任があるのは、そういう害毒をバラまいたマスゴミと、それに、下心だけで阿諛追従し、マスゴミ権力者に尻尾を振り、分け前に与かろうとしたクズ男だけだ。
まあ、大半のマスゴミ関係者は、ただの調教されたクソ犬に過ぎないから、都合で潰されるわけで、マスゴミの論調全てを操れるのは、ごく一握りの権力者だけなのだが。
でも結局、犬は犬として、利用価値がある限り、どんな屑行為を繰り返しても擁護されるのである。
逆に、弱みを握って、どんな悪さでもさせられるように、エスカレートさせていく。
その結果、マスゴミの中には、女を串刺しにしたり首絞めしたりしないとイケなくなったようなケダモノが、わんさかといる。
なお、それに釣られたバカ女が、散々弄ばれて捨てられた時、今度は、本当の被害を訴えると、こいつら嫌らしい畜生の偽善者どもは、糞フェミをまき散らしてた過去を忘れて、一斉に女を攻撃する。
このバカ女に味方なんていない。
他の女は、このバカ女を生贄に、自分たちが、マスゴミにチヤホヤされたいだけだから、何をされたってどうでも良い、彼女らの喜ぶ糞フェミイケメン動物園を作ってくれたマスゴミ権力者に、立てつくなんてけしからんと攻撃するだけ。
他の男たちは、散々こいつらバカ女が、糞フェミマスゴミに便乗して、何一つ非がないのに、一方的に叩かれ、マスゴミ工作で、無理やり黙らされてきたから、そのマスゴミが、手のひらを返してクソ淫売を攻撃すれば、ここぞとばかりに恨みを晴らすだけだ。
それを胡麻化すために、ミートゥーで茶番劇を演じて、安心させて身体を捧げるように促すが、もちろん、本当に被害にあった女が声を上げても、アメフトのスター選手にレイプされ、ネットバッシングされ自殺したアメリカ女や、セクハラバイデンみたいになるだけだ。
TBS支局長の糞レイプ魔みたいに、局内で枕強要しただけの癖に、相手の男が、ネットのネトウヨに支持されて、全てネトウヨのせいにしながら、レイプ男なのに、影響力を発揮してくれそうな時や、官僚を脅迫して言いなりにしたいときだけ、茶番劇が演じられる。
要するに、こいつらクソ淫売のカスバカ女のお陰で、レイプした相手が叩かれるかは、マスゴミの気分次第になっている。
実際、マスゴミが擁護すれば、どんなクソ男でも擁護され、どんな被害者も、嘘つき冤罪女として殺されている。
結局、metooなんていうのは、レイプ被害女が叩かれるかどうかも、マスゴミ次第にしようという運動なのだ。
ミートゥ―なんてほざいた途端、他のほぼ全ての男は、一斉に憎悪を向け、マスゴミが無理やり問題化した時だけ、怖くて叩くのは止めるけど、そうでない時は袋叩きにしようと狙われるだけだ。
それも全て、クソ淫売どもが、何も悪いことしてない男にも、罪悪感を植え付けて言いなりにしようと、精神的DVを繰り返したせいだ。
確かに、頭が悪く、まともに何も考える知性もないバカ男や、ものを知らず、簡単に洗脳されるアホ餓鬼なら、冷静に考えれば、自分が何も悪いことをしてないのに、悪いことをしていると思い込むかもしれないが、その場合、連中の殆どは、言いなりになるより、性犯罪者に親近感を抱いて、味方するだけだ。
そして、殆ど全ての真っ当な男は、ただ女への憎悪をたぎらせる。
物を知らない馬鹿ガキは、ただ、周辺ルートからの説得により、当事者意識ゼロで、自分だけ、安全圏から一方的に殴れると思って、マスゴミががなり散らす相手を悪いと思って加勢するが、いざ、自分が標的にされるとみるや、百八十度態度を変える。
まあ、ニュースを見てる視聴者のほぼ全てに、全く同じことが言えるわけだが。
そうやって、マスゴミは、大衆の大半には、当事者意識を奪い、「こいつらは、あなた方とは全く無関係な相手ですよ~wwwだから好きに叩いて良いんですよ~www」と騙して扇動し、叩かれる側を、常に少数派に設定する。
そして、あらゆるレッテル貼りで、国民を細分化し、最終的には、誰でも叩けるようにし、気づいた時には、自分たちの方が、叩かれる少数派にレッテル貼りされ、バッシングされているわけである。
マスゴミ工作員のVチューバーが、オタク相手の商売の癖に、オタクオタクと叩いてるのはそのためだ。
そして、そうした屑女と結婚するような、こういうバカ夫は、それを、家庭でも追体験し、ボロボロになる。(まあどうせ、和歌山カレー事件の夫みたいな感じで、都合が悪い時は被害者ぶって、妻を刑務所送りにしても、少し経って、自分に危害がこないと分かると、あれは自分も悪かった、妻は悪くない、逮捕した警察が酷かった、とかほざき出し、救ってくれた側を叩き出す。でもまた、自分が被害を受ける立場になると、助けてくれーと喚き出す。こういうマゾ豚男が一番クソだ。マゾ男に救う価値なし。助けた奴がバカを見る)
全ては、連中が今まで犯し続けてきた、罪の結果に他ならない。
実際のところ、その罰ですら生ぬるい。
連中が、他者に与えてきた、莫大な損害は、こんなもの、取るに足りないくらい酷いものだ。
結局、連中には、ネットでも、クズ同士傷をなめ合う立場が残ってしまった。
男オタには、それさえ許さず、破壊したくせに。
ネトウヨ兼ブサヨな、糞フェミババアだらけのヤフコメを見ると、このどうしようもないくらい屑いだけのニュースに、なぜか同情票が集まっている。
いつも、もっと深刻な立場で、ストレスフルに追いやられている、派遣や失職した男が、ちょっと路上で声を荒げた、生活保護を断られてキレた、みたいな記事だと、ボロクソに叩いて、一切同情なんて示さない連中が、あんな同情の余地もないようなクソ女の事件には、「分かる分かる」と一斉に頷き合う。
要するに、同じ穴の狢なのだ。
彼女らにとって、こうした、加害と被害の転倒、自分が一方的に攻撃して喚き散らしてるだけの癖に、相手を悪者にする手段は、常套化しているのである。
だから、「萌え豚がー」「美少女動物園がー」と、あんだけ、一方的に差別し続けて来たくせに、「私たち腐女子は男オタに差別されてるー!」と、事実と真逆の偽証を、平気で喚けるんだ。
そして、そうした屑女と結婚するような、こういうバカ夫は、それを、家庭でも追体験し、ボロボロになる。(まあどうせ、和歌山カレー事件の夫みたいな感じで、都合が悪い時は被害者ぶって、妻を刑務所送りにしても、少し経って、自分に危害がこないと分かると、あれは自分も悪かった、妻は悪くない、逮捕した警察が酷かった、とかほざき出し、救ってくれた側を叩き出す。でもまた、自分が被害を受ける立場になると、助けてくれーと喚き出す。こういうマゾ豚男が一番クソだ。マゾ男に救う価値なし。救った奴がバカを見る)
全ては、連中が今まで犯し続けてきた、罪の結果に他ならない。
実際のところ、その罰ですら生ぬるい。
連中が、他者に与えてきた、莫大な損害は、こんなもの、取るに足りないくらい酷いものだ。
結局、連中には、ネットでも、クズ同士傷をなめ合う立場が残ってしまった。
男オタには、それさえ許さず、破壊したくせに。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
やけに生活観のあふれるユダヤの十戒と比べて、キリスト教の七つの大罪は、完璧に戦時中、もしくは争乱に特化したつくりになっており、飢饉や疫病、戦争といった中世暗黒時代のかほりあふれる、無能な味方の割り出し方法となっている。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。
ホロコーストなんて今どき、それ自体を話題にすることは少ないし、日本の歴史問題の何倍も関心度は低いだろうとは思う。近現代とは言え遥か昔の話だし、同じ枢軸国がやったと言っても日本にはほぼ無関係だ。それに、日本でホロコースト否定論が世間を多少賑わせたのは1995年、阪神淡路大震災やオウム真理教で大騒ぎだった年に、文芸春秋社の月刊誌だった『マルコポーロ』が廃刊になった記事の一件だけである。・・・あ、例のT院長の件もあったな。
欧州では昨年か一昨年にスウェーデンがホロコースト否定禁止法を立法するかどうかの話があったくらい(その後どうなったかは知らないが)、ホロコースト否定論は今も珍しい話題でもない程度には問題にされることがある。現状確か、イスラエルを入れて20カ国弱の国で否定論を公然と主張することには法的な規制がある。ホロコーストの中心地でもあったポーランドでは、否定論ではないがホロコーストについて自国の関与を主張するような言論を禁止する法律が制定されたのも数年前。またアメリカでも、憲法修正第1条で言論の自由が広く認められているせいもあり、ホロコースト否定論の主張をしてもなんらお咎めを受けることはないが、FacebookやYouTube、ツイッターなどの主要なインターネットメディアでは厳しく規制されている(が、実際には消滅したわけでもない)。
いずれにしても、欧米と日本ではホロコースト否定論について、かなりの温度差があるのは事実である。日本では義務教育でホロコーストを習うことなどほとんどないのではないかと思われるが、欧米では必須としている国や教育機関は多いそうである。それでも、関心の大きさから、ホロコースト否定の主張に賛同するような人はもちろん欧米の方が圧倒的に多いだろう。翻って日本ではそもそも関心が薄いので、否定論が目立つことはほぼない。せいぜい、ナチスの軍服を着たとか、ハーケンクロイツの旗を公共の場で掲げたとかで、問題になる程度のことだ。その程度のことで神経質にビクビクしてタブー扱いするのもどうかとは個人的には思うけれど。
何故欧米で、ホロコースト否定が法的に禁止されたり、規制されたりするのか? 最も大きな理由はあんな悲劇を二度と繰り返さないためである。ホロコースト否定はデマであり、ナチの復興を許しかねず、そしてユダヤ人差別につながる。また犠牲者遺族たちの心を酷く傷つけるものでもある。だが、否定論に賛同する人たちはそんなことどうでもいいらしい、それは日本でも同じである。ホロコースト否定に賛同することが非常に危険な行為だなんて、多分考えたことすらないのだろう。
こんなツイートが私の網に引っかかった。
https://twitter.com/masami6666/status/1563353770092003328
ツイート内の画像で示される文書は、そこに書いてある通り「国家社会主義日本労働党(NSJAP) 山田一成」によるものである。ドイツのナチスとは日本語では正式名称を「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」と呼ぶ。従って、山田一成が日本のネオナチであることは否定しようもない事実である。ググればわかるが、ネット上の基地はこちらである。
また、Youtubeにある「密着24時!日本のネオナチ」というタイトルの動画で山田一成が紹介されているので興味のある方はご覧いただきたい。タイトルにそうあるくらいなのだから、山田自身がネオナチであることを否定してはいないということでもある。
ネオナチなのだから、ホロコーストを否定するのは当然である。ところが実は、傾向として、欧米の主流のホロコースト否定論者、いわゆるプロの歴史修正主義者たちは、ネオナチと結びつけられるのを嫌う。何故なら、思想的にネオナチと見られると、自分達が世間から信用されなくなることを知っているからである。欧米のプロの歴史修正主義者は、ほとんどの場合、ネオナチと関係があったとしてもそれを隠す。世間から信用を失くすと、修正主義者の目的である「否定論を世間的に認めてもらうこと」が困難になると思っているからに相違ない。『ヒトラーの戦争』という歴史書で欧米では超有名なデヴィッド・アーヴィングは、彼をホロコースト否定論者だと書いた歴史学者であるリップシュタット教授を訴えた裁判で見事に負けたが、裁判ではアーヴィングはネオナチの集会に出て聴衆を扇動していたことを暴かれた。しかしアーヴィングはその事実を誤魔化そうとしたくらいだったのである。
あるいはこれもその筋では有名な否定書、1970年台中盤から後半にかけて広まった『600万人は本当に死んだのか?』というホロコースト否定の古典的パンフレットがあるのだが、著者の名前はリチャード・ハーウッドとなっている。が、そのプロフィールに該当する人物は存在せず、本当の名前をリチャード・ベラルという。リチャード・ベラルはイギリスのナショナルフロント(国民戦線)という極右組織の出版物である「スペアヘッド」の編集長だった。何故、実名と実際のプロフィールを書かないのかは、当然、世間に信用されたいからであり、ネオナチが世間に信用されない存在であることを知っているからである。そのパンフレットは欧米の国会議員などに広くばら撒かれた。
かつて、雑誌マルコポーロ廃刊騒動の時に、問題の記事を書いた西岡昌紀とタッグを組んでいた木村愛二というジャーナリストがいたのだが、彼ですらもネオナチ呼ばわりされるのを嫌った。
なのに、上のツイートに賛同的意見を述べたツイートを発した人たちには、山田一成がネオナチであることなどどうでもいいらしい。山田が思想的に偏向しているのは誰の目にも明らかなはずなのに、そんなことを気にすることもなく、ホロコーストなかった説をあっさり賛同する。私たちは普通、ネオナチとか関係なくても、ネットで広められるだけのほんとかどうかわからない主張を、そのまま信用したりはしないと思うのだが、あまりにあっさり信用の方向に流れるのだから、呆れるというかなんというか。その賛同者の多くは、いわゆる陰謀論の方に傾倒するような人たちばかりであることは言うまでもない。
日本にも、ホロコースト否定論の方に賛同する人たちが意外に多い。多いと言っても私自身の感触だけであるが、Youtubeにあるホロコースト否定論の動画チャンネルには6000人強の登録者がいる。否定論動画としてはよくで出来ているので、否定論がどんなものか知りたければ『ホロコースト論争』で検索をかけて、同じタイトルの動画をニコニコ動画でご覧になるといい。Youtubeにアップされた同チャンネルの動画は何話分か削除されてしまっているからである。見ればわかると思うが、それ相当の知識かあるいは調査能力がないと、ホロコースト否定論には簡単には反論し難い。いうまでもなく、ネオナチの怪文書のようなものにあっさり釣られて賛同するような人たちに、その嘘・誤りが見抜けるようなものでは絶対にない。
まぁ世の中、そういうあっさり釣られる人もいる、だけの話なので、別にどうでもいいようなことなのかもしれないが、はてな・増田をご利用の賢い方々には、そんなことはないだろうと思いつつも、注意していただきたいものである。今回は、私のアンチホロコースト記事などはあえて紹介しない。たくさんあるので興味があれば参考にはしてほしいが、興味がなければ特に面白いものでもなく、時間の無駄になるだけだと思う。だが、一点だけ、怪文書に反論しておきたい。
見直し学派は、ホロコースト説は何年もの間に大幅に変わったことを指摘している。
とあるが、そう思えるのは単純な話で、戦後長らく、ホロコーストの実態がよくわからなかったからである。よくわからなかったと言っても、大勢のユダヤ人たち(や、精神疾患患者、同性愛者、ロマ人、その他)がナチスドイツによって死に至らしめられたこと自体は疑いようのない事実として判明はしていた。たとえば、ユダヤ人人口が600万人弱、戦前に比べて減っていることは1945年5月の終戦よりも前にわかっていたくらいだったのだ。何故わかっていたかというと、(これはある資料からの推測であるが)ユダヤ人はユダヤ人共同体の集会所となっていたシナゴーグで名簿管理されていたからであり、各地のシナゴーグの名簿を集計すればたちどころに判明するからである。また、ニュルンベルク裁判ではあのアドルフ・アイヒマンがユダヤ人の処分数はトータルで600万人だと語っていた、とアイヒマンの関係者が証言していたりする。それ以外にも多くの情報が戦時中からすでに世界中に漏れていた。ナチスドイツが極力、ユダヤ人絶滅などの非合法殺戮を極秘に行ったにも関わらず、である。そして、この600万人説は何度も研究調査され、現代までおおむねの数値として、主流の歴史学者からの異論はない。日本人研究者の柴健介氏も自著で「600万人以上」と推計している。
が、細かい話はよくわからなかったのである。たとえばあのアウシュヴィッツで殺されたユダヤ人の実数は当初は全然わからなかった。何故ならば、アウシュヴィッツで殺されたユダヤ人の大半は、囚人登録もされておらず、ガス処刑死体は焼却処分されて、残った骨などは砕かれて近くのヴィスワ川やソラ川などに捨てられてしまったのだ。アウシュヴィッツを解放したソ連は、絶滅された総計を400万人とした報告書を提出したが、死刑に処せられたアウシュヴィッツ司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスはそれを否定して最終的には120万人くらいだと自己推計した(記録を取ることを許されなかったので、ヘスでさえ推計するしかなかったようである)。このヘスの値が現在判明している犠牲者数(110万人)に非常に近いことが判明するのは1980年代後半まで待たなければならない。ソ連の400万人説は、それっぽく推計したようには書いてあるが、どう考えても囚人の生存者の証言を元にしているとしか考えられない。何人もの囚人が400万人くらいだと語っているからである。が、それらは皆、生存者自身が推計値、あるいは収容所内の噂だと語っているに過ぎないもので、囚人に正確な数字が分かったはずはない。
あるいはナチスドイツが最初に作った強制収容所であるダッハウ収容所のガス室についてであるが、ダッハウ収容所は米軍が解放した時に、何千体もの死体があったのだ。これらの死体の大半は割とすぐに餓死や疫病の死体だと判明したようであるが、ダッハウにはガス室もあった。そのガス室にはダミーシャワーがあり、毒ガスの元を投入するような仕掛けまであった。そのガス室のすぐ隣には火葬炉もあった。もちろんその建築物のそばにはたくさんの死体が山積みになっていた。こんな状況で、「ガス室で大量殺戮をおこなっていた動かぬ証拠だ!」と誤解するなという方が無理である。米軍には当然、マスコミの記者たちも従軍していたので、そうしたガス室殺戮の話はすぐに広まったのである。
ところが、よくよく調べてみると、ダッハウのガス室でのガス殺処刑の証拠は、ほぼないに等しい状態だったのである。確かに、ガス処刑については、裁判での証言者はいたが、たったの一人なのである。それ以外には一通の文書証拠と、イギリス人諜報員の捕虜が語ったとされる伝聞証言程度のもので、他には何もなかった。一方でアウシュヴィッツのガス室については、証言だけでも大量に存在するし、なにより加害者側証言もかなり存在し、その最大のものとしては司令官だったルドルフ・ヘスが事細かに証言し、自叙伝にまで書いているのだ。ガス室・ガス処刑があったことを裏付ける証言以外の証拠も豊富である。(もちろん修正主義者は証言は全て嘘であると主張し、アウシュビッツのガス室を裏付ける証拠など絶対に認めない)
これらの内容は、具体的に歴史家などが調べなければわからないものばかりなのである。ダッハウのガス処刑証言が一人しかいない件だって、裁判記録を調べなければ判明しない。したがって、ダッハウなどの収容所現地にたくさんの死体があったことが原因で、誤った説が戦後長らく広まっただけの話なのだ。そうした事実を、あたかも、ディープステートのような闇の陰謀者が、初期のホロコースト説が杜撰なので、それをもっともらしい説に変えていった、かのようにネオナチは主張しているのである。つまりは、ネオナチ・修正主義者は論点先取、最初から話を陰謀論・ホロコーストは捏造と決めつけていることがわかる。
ダッハウのガス室が捏造だと主張するのであれば、何故証言者がたった一人しかおらず(陰謀実行者は偽証証言者を何故たくさん用意しなかったのか?)、文書記録やあるいは物証としての死体解剖してもガス処刑された死体としか判別できない死体がなかったのか(陰謀実行者なのだからそれらを用意して当然だと思うのだが?)、説明がつかない。その実際にいた証言者(フランツ・ブラーハ)とて、たかが数名の処刑のその後の死体を見た、と言っているだけである。ダッハウのガス室が連合国による捏造なら、そんなあやふやな頼りない、犠牲者も少ししかいない証言がたった一つだなんて、あまりにも変である。
反論はそんなところ。こんな馬鹿げた幼稚な説でも、賛同する人がいるのはしょうがないかなーとは思うけど、何が事実で真実かを知りたいのなら、もうちょっと知恵を絞って考えてみるという気は起きないの? と思ったりはする。
もともと言論・表現の自由って、自分が考えた思想や意見を表現したり、他人のそれを受け取ったりすることで、人間は全体として向上していくんだ、っていうことから出てきた考え方だよね。特に政治の分野とかではそういう思想・言論・表現の自由がないとヤベーことになっちゃうし、実際に何度もなっちゃったから、やっぱりそういうことは自由にしようねとなったんだよね。
で、何がそういうものを守るのに大切な言論・表現で、何がそうじゃない言論・表現かを決めるのは、その決め方自体が権力にとって有利だから、こういう言論・表現はOKとかNGとかって線引きはなるべくやめて、幅を広くとっとこうね、ということになってるんでしょ。
でも、もっぱら読者の性欲を満たすために描かれてる暴力的・凌辱的なロリエロ漫画とかは、そういう意味での思想や言論はほとんど含んでないし、逆にそういう思想性や言論性を見出したらヤバいわけじゃん。女の子を連れ去って凌辱して主人公たちが満足して終わる漫画表現に思想を読み込んだら、女の子を連れ去っては凌辱して主人公たちが満足して終わる行為をストーリーを通して肯定するものだ、ってなっちゃう可能性が高くて、それは他者危害原則に抵触する扇動行為にあたるわけじゃん。だからこそ作者も、LOとかも、擁護派も、この漫画はそういう行為を実際に肯定するものじゃないよ、あくまで単なるフィクションだよ、と予防線を張るわけでしょ。実際に漫画の手口を真似して犯行した犯罪者が出てきても必死にその関係を否認するわけでしょ。
で、そういう「思想性がない」(と主張する)、フィクションの、専ら性的欲望を喚起するためのポルノグラフィって、理屈から言えば、法律で保護しなきゃいけない根拠も相対的に薄弱になっていくんだよね。そもそも今だって別に「表現の自由は絶対」じゃないし、それぞれの国で定義された価値の低い表現(増田が言ってるわけじゃないよ、法律学に「低価値表現」っていう概念があるんだよ)の一部には自由を認めてないわけだ。名誉毀損とか、わいせつ表現とか、ヘイトスピーチとか、優良誤認とか、医事法違反とか、著作権侵害とか、プライバシー侵害とか、偽証とか、法律で規制されてるNG表現は、今の日本の法律でもいっぱいある。
ちなみに性表現に寛容なイメージがある米国でも、性行為のみを描写したハードコアなわいせつ物は、写真や実写動画だけなくイラスト(二次絵)も言論の自由による保護物に該当しないとされてるし、ミラー・テストというわいせつ性判断の基準では
①平均的な人が、その所属する地域社会等のコミュニティのそのときの基準(contemporary community standards) に照らしてその表現物を見た場合、全体として好色的な興味に訴えていると考えるか。
の3項目で言論・表現の自由の保護に値するかどうかが判断されている。ちなみに米国では「正常で健康的な性的欲求を喚起するだけ」のポルノや性器描写は、ここでいうわいせつ物にあたらず、「裸体、性、または排泄行為に対する恥ずべき、あるいは、病的な興奮に訴えるもの」ということになっている(Brockett v. Spokane Arcades, Inc.)。ようはその社会・時代の文脈のなかで平均的人物像によって「異常な」性行為とみなされるものについては、思想の自由市場での取扱商品にはしませんよ、ということ。日本人にとってアメリカンポルノのストーリー・演出・演技が妙に「健康的」に見えるのは、そうでないと法に抵触するわいせつ表現になるかもしれないリスクがあるからなんだよね。ちなみに児ポはミラーテストに関係なく問答無用で違法。
だから「思想・言論・表現の自由」には「なるべく幅は広くとろう」とは言いつつも、その中身には中核と周縁とすでにNGと決められたものの3つの領域があって、周縁部では、表現の価値と表現のもたらす社会的害悪性との衡量が個別になされたり(わいせつ性の判断)、総じて社会的害悪性が認められたときには新たにNG枠に入れられたりしてる(ヘイトスピーチ法)、というのが実態だと思うんだよね。
で、そういう「NG枠」の側に一部のロリエロ漫画が加わるかもしれないことを、「これまでしっかり守られてきた表現の自由が、これを皮切りになし崩しにされる! 蟻の一穴!」みたいに煽るのは、ちょっと違うんじゃないかな、とも思う。体制が自由を認めた表現だけが許されているって意味では、今までもそうだったんだし、仮にロリエロ漫画が法的に規制されても、その規制の時に使われた理屈を保護法益が異なる表現に対してまで拡げるのは、そう簡単なことじゃない。「グレーからブラックに何かを移動させたら、他の表現もどんどんブラックに動かせるようになるぞ」という警鐘は、そういう現実的状況を踏まえない雑語りに聞こえるし、そもそも「ロリエロ漫画自体が法的な保護を受ける価値がある表現かどうか、そして実際に社会的害悪性をもたらすかどうか」を真正面から議論する自信がないから、「ここを規制したら他の表現の自由も脅かされるぞ!」という論法に頼ってるんじゃないの、って印象もある。
そういう人達が、「表現の自由」が脅かされることへの危機意識を、たとえば愛知トリエンナーレの「表現の不自由展・その後」をめぐるあれこれでも堅持してたのならまだ納得できるんだけど、いま二次元関連で「表現の自由」を強く主張する人達の中には、愛トリの時に「天皇に対する冒涜的表現は、人々が大切にしている価値観に対する攻撃」みたいな理屈で展示中止の抗議活動(威力業務妨害的なやつも含め)を正当化してた人達もいたんで、それについてはやっぱり「あなたがたのいう表現の自由って、結局自分が消費したい表現にだけ適用されるダブスタで、表現を区別するなという自分たち自身も十分セレクティブに振る舞ってるんじゃないの」という印象を持っちゃう。もちろんそのダブスタ批判は、かつて表現の不自由展を擁護していて、いま「非実在児童ポルノ」への規制論を容認してる人にも当てはまることなんだけど、さっきの衡量論にもとづけば、それは完全に対称の関係じゃないとも思うんだよねー。
(「ロリエロ漫画の害悪性の根拠を出さないと保護法益が決められない」というのは、そういうダブスタ系の人達よりもずっと筋が通った理屈だけど、わいせつ物陳列・頒布罪にせよヘイトスピーチ法にせよ、その害悪性の根拠が、国会や法廷の場でしっかりしたエビデンスのかたちで示されたことはないと思う)
千葉県警がVTuberとコラボした件だけど、フェミニストならモリカケ問題みたいにすればいいのにね。
フェミニスト議員連盟は、こういう萌え絵と公共機関のコラボに対して国会や百条委員会で証人喚問を起こせばいいじゃない?税金を使って女性差別と性犯罪を助長したと訴えれば、余裕で可決するはずだ。
証人喚問の証人になった者は、出頭命令を拒否したり、嘘をついたりすれば罰則を受ける。
「女性差別や性犯罪を助長するという認識がなかったのか」という質問に対して「いいえ」と答えたら、偽証の罪で逮捕して牢屋にぶち込むことができるはずだ。
近年だと厚生労働省とゆるキャンのコラボとかあるけど、フェミニストたちはこういう萌え絵と公共機関のコラボ関係者を片っ端から制裁を加えたいはずだ。証人喚問は、そういうことをするのに丁度いいはずだ。
無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人の十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。
せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
やけに生活観のあふれるユダヤの十戒と比べて、キリスト教の七つの大罪は、完璧に戦時中、もしくは争乱に特化したつくりになっており、飢饉や疫病、戦争といった中世暗黒時代のかほりあふれる、無能な味方の割り出し方法となっている。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。