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2016-08-27

上手い喩え話?

当時、合奏グループメンバークリスチャンがいて、そこから教会のご厚意で、ミサが終わった午後に練習することが何度かあった。

その時、たまたま合奏を聴いていたドイツ人信者さんからあなたモーツァルトおかしい」と言われ、後でそれを楽器先生に話した所

ヨーロッパ人の言うことはあんまり気にしないほうがいいよ」と言われた。

そこから現代ヨーロッパ人にとってのクラシック音楽の受容」という話になって、先生から出てきたのが以下の喩え話。

個人的にはかなり納得した。

同時に、海外で認められている日本人演奏家は、冗談抜きで凄い存在なのだと実感した話だった。

2016-08-18

今の寺はクソ(なのが多い)という話

http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150519/281311/

これ面白かった。漠然と思ってたことを明快にしてくれたというか。

要約すれば、原始仏教時代(ないし現在タイ)は、①僧侶模範的生き方をすること、②人生絶望した人を丸ごと受け入れることで、人々から尊敬され、お布施も集めることができた。

しか日本仏教はその歴史的沿革から①②をすることが不可能となっており、腐敗している。

はい原始仏教の教えを現代日本でやるのはキツすぎるから、その理念だけでも目指そうよ、というお話

考えさせられる。

2016-08-15

勧善懲悪エンタメと化した報道を誰が正すのか?

http://anond.hatelabo.jp/20160814193625

 

日本人には下世話で人格主義的な気持ち悪さがこびりついてる。

そう感じることは昔からよくあるけど、最近特に思う。

ベッキー?だかの不倫騒動週刊誌が持ち上げられるような風潮が

今年頭にあったけれど、あれも同じような気持ち悪さがあった。

あいマインド芸能ネタだけにとどまらない。

企業不正に関する報道ですらそうだ。

個人に善悪帰着させて、人間性に目をつけて叩いて。

勧善懲悪」欲求を刺激するような報道ばかり。

作る側も見る側も、頭が腐った低俗人間しかいないのかと思える。

普段は短文クソリプばかりの増田民例外ではないし、

なんせ国会ですらそんな感じがあるからね。

まあここで、そうやって「日本人は云々」と罵倒して終わりだと、

俺も頭が腐った人間とやってることは同じになる。

そっち側に堕ちてしまわないために、システム思考をしなきゃいけない。

平たくいえば「なぜそういう現象(問題)が起きるのか」を

環境(システム)の視点で解きほぐし、定量化し、マネジメントしていく思考だ。

ただしく「環境のせいにする」。

日本人がそういう思考が苦手なのは、それと真逆である

徳治主義的な価値観が根強く残ってきた、歴史的文化的要因が大きい。

から「悪い」事が起きると「人間」に原因があると考え、

「悪い奴」が湧けば潰し、湧けば潰しを繰り返していく。

でもこれだけ情報化が進んだ時代で、そんな前時代的なやり方を続け、

それが国民性だ、なんていつまでも言っていられないはずだ。

そういう意識はおそらく、誰もが持っていると思う。

なのにああい姿勢メディアがのさばってしまうのは、

やはり安易勧善懲悪ストーリーを消費したい欲求が人々の心に隠れているからだ。

当事者意識をもって真剣に考えてやる義理を感じないから、そんなエンタメ消費ができる。

実際、真剣に考えることを職業とするジャーナリストコラムニストなんかは

もうちょっとマトモに考えられる人もわけだし。

さあ、このへんまで印象論で外堀を埋めたところで。

日本報道レベルデータで示して、レベルを引き上げるプランを誰か示してくれ。

俺も結局、当事者意識や参画意識の欠落した一介のニートにすぎなかった。

から増田で滔々と駄文を垂れ流すくらいしか、抗議の仕方を知らないわけだ。

まあ、もう少しメタに捉えると、こういう卑屈さをみんな持っているんだろうね。

自分ときが世の中を変えられるワケがない」。

そう考えるから、発起してわざわざ「波風を立てる」ような行動を起こさない。

「和を以て貴しとなす」精神の負の側面だね。

これが腐敗の呼び水となり、結局は「異物」の排除に執着する心理につながっていく。

そういう空気を打ち破る離れ業は、一人のスーパーヒーローなんかじゃ成し得ないと思う。

日本人はよくヒーローカリスマリーダーを待望するけど、

それが生まれない原因がすでに自分たちの中にある。

そういう自己矛盾を打ち破るには、やっぱり個人の力ではなく、集団の力がないと。

シン・ゴジラもそういう事を言ってたんじゃないのかな?(金がないから見てないけどね)

ともかく若い世代パラダイムシフトと言えるくらいの思想的転換が訪れないといけない。

その兆候は、けっこうあると思っているけど。

そうやって「慣習」「常識」を批判的に見る若者たちが、

すんなり責任ある立場に立たせてもらえればいいんだけどね。

現実には、高い意識もつ若者ほど精神を病んで引きこもってしまいがちで、

しかも追い打ちをかけられがちなのは、一体どうしたもんだろう?

いずれにしろ一朝一夕に変わるものではないんだろうな。

ああ鬱々とする。

インテリの俺が全力でシン・ゴジラ批評するゾ

シン・ゴジラを観た。

エンタメとしては面白い

だが同時に庵野および日本映画限界を示すドキュメンタリーのような映画でもあった。

この映画は、

復興ありき、

再建ありき、

日本にはまだ力がある、

立ち直れる、

そういう答えがもう先にある。

出来レースっぽい。

結論はこれ。もっと詳しく読みたい場合は先に進んで欲しい。

日本万歳の大合唱で負の側面を覆い隠す

これは映画に限らず様々な場面で3.11震災後なんども繰り返されていることだ。

力があるって主張をかたくなに、ほとんど反駁不可能イデオロギーのように保持しているのは、

しろ思考停止の弱体化にしか見えない。

俺は出来る!って盲信しているやつは、強いんじゃなくて自分の弱さを直視できないだけだ。

もっとも、3.11以降繰り返されてるそうした自己欺瞞的な合唱に飲み込まれることは、まぁ仕方ない。

この作品を取り巻く精神的な状況からして、ほとんど不可抗力であるし、それだけで作品のすべてを否定するつもりはない。

しかし、せっかくゴジラほどの大怪物召喚しておいて結果やっぱり俺らスゲーの大合唱かよ、と思わざるをえない。

俺らスゲーの出来レースゴジラ以外の他のテーマでやってくれ、と言いたくなる。

ゴジラというキャラもっともっと掘り下げるべきテーマを蓄えた宝庫なのであって、ゴジラをそんな自己欺瞞物語なかに埋もれさせて浪費してはいけないのだ。

新たな危機に直面すればこそそれに見合った国の体制を改めるよう反省を強いられ、

新たにテーマを掘り下げればこそそれに見合った映画手法発明するよう強いられる。

しかしそうした危機テーマである当のゴジラが、ほとんど空虚存在であるがゆえに(たしかわずかだが神として語られ、放射能の脅威を連想させていても、しかしそれが物語構造のものに関わることはない)、

日本万歳のその国の概念のもの反省を迫る映画にはなっていないし、その手法に関して言えば新たな手法発明どころかエヴァンゲリオンとさして変わらない。

(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカ石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)

シン・ゴジラエヴァンゲリオン庵野確立した様々な設定を忠実に引き写している。そこには反省発明も見つけられない。

もちろん何の変化もないわけではないが、

そうした変化が結局は日本の閉鎖的で差別的視野に同一化する点、

自分に力があると信じたいがために他国と異性に対する偏見を利用する屈折した日本男性視点に同一化する点は、

この映画保守的ものにしている部分である

石原さとみによって日本を弱小国として見る可能性が排除される

たとえばエヴァンゲリオンにはなくてシン・ゴジラには見られる新しい部分は、政治の前景化であるとともに、(それがつねに〈日本の〉政治である限りで)他国政府との交渉だろう。

ここに石原さとみが登場するわけだが、彼女キャラクターは、自信を回復したがる日本男性の閉鎖的で差別的欲望奉仕している点で、やはりこの映画保守的ものにしている。

石原さとみのチャラけた演技は真剣に事案に対処している他のキャラクターに比べかなり浮いて見えるが、

しかしあれは日本男性の閉鎖的で差別的欲望からすると必然的な役柄になっているといえる。

演技がわざとらしいために良い演技とは言い難い、と思う観客もいるだろうが、しかしそういう演技も含めて必然的キャラのあり方だと思う。

日本米国の間に女性が入るというのは、日本からみて心理的必然性をもっている。

日本米国関係はいわばスネ夫ジャイアンであって、ジャイアンマッチョなところがあまりに出すぎると(たとえばジャイアンの力のみで事件解決したり、その力がスネ夫である日本に向かったりすると)、日本を守る日本人男性たちのプライドや虚栄心が傷ついてしまう。

そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。

かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的観点からでなく、あくま日本人の側から見られた変人だ。

ここでは常識人変人の対は、内部(日本人)と外部(外国人)という対と本質的に繋がっている。変人変人であるのは、その者が外部から来た外国人であるからだ。

「〜アルヨー」とか「〜デース」とかい言葉遣いキャラが、日本人の側から見られた変な奴の象徴であるのと同じで、

彼女の奇妙な日本語は、他の日本人男性と観客とに米国でなく日本から観点を持たせ、その外部から来た変人として石原さとみを見させる。

視聴者たちが米国目線から日本を弱小国として見る可能性が排除される。

このようなわけで、この映画日本男性精神性の問題をそのうちに含んでおり、その点ははっきりと批判されるべきであるが、

しかしその限界をはっきりと映画のなかで示しているという点においては、そうした限界の記録として、ドキュメントとして、歴史的価値が大いにあると思われる。

その点では逆にこの映画評価されるべきだろう。

これほどありありと、日本的および日本男性想像力限界を示した作品はなかなか見つからないのではないか

風立ちぬ』にも認められるドキュメンタリー価値

この点ではジブリの『風立ちぬ』も同じだろう。

あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機流線型フォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、

しかしそうした戦中日本精神限界性をはっきりと示していたという点においては、ドキュメントとして大いに価値をもっている。

今回のゴジラもまた、同じような価値をもっているといえる。

こうして、批判されるべき部分は評価されるべき部分ともなる。

したがっておそらく、この映画において賭けられているのは、シリアスコミカル関係性ということになろう。これはどういうことか。

正しい反応とは、それを積極的に笑うというもの

さしあたりこれまでの論述で明らかになったことは、この映画限界証言するドキュメントとしては優秀であるが、それはいわば限界にはっきりと居座っているからであって、丁寧になぞっているからであって、限界を越えようとしているからではない、ということであった。

まりエヴァンゲリオン踏襲し、ナショナルものジェンダー領域において日本男性の閉鎖的で差別的欲望奉仕するこの保守的映画は、

限界を自ら反復し、演じている、ということであった。

日本男性政治家米国女性シリアスセリフを交わす場面で、自身の力への欲望は満たされるだろう。

しかしまた、あることを反復し演じることは、つまりそれを真似することであり、その虚構性を示すことである

そう考えれば、シリアスものコミカルものに転じる。

そしてそれに応じて、批判されるべき部分は、評価されるべき部分ともなるのである

したがって、このように問うことができるだろう。

限界を反復することは、限界に居座ることであると同時に、限界茶化すことでもあるのではないか。つまり限界批判することでもあるのではないか

たとえばエヴァンゲリオンの設定を踏襲することは、新たな手法発明努力放棄することであると同時に、反復しているその設定を茶化し、批判することでもあるのではないか

そうであれば、シン・ゴジラへの正しい反応とは、それを積極的に笑うというものではないだろうか。

まりシン・ゴジラが何かを反復している限りでシン・ゴジラを笑い、またその反復によってシン・ゴジラが茶化しているものを笑う、と。

誰か、あの映画を見て笑ったものはいるだろうか。

あの映画は、諸手を挙げて受け入れられているように見える。

私はその反応をこそもっと批判したい。

2016-08-08

http://anond.hatelabo.jp/20160808162900

我々国民天皇陛下お気持ちを伝えてくださった。

ここに僕がどう受け止めたかを書く。

お気持ちをどう捉えるかは国民個々人に任せられたものであるからして、これは僕個人の受け止め方です。

あなたがたがどう思うかは分からないが、書かずにはいられないので書く。

「もう高齢から引退したいよ」という話でもなければ「憲法があるから言いたいこと言えない」という話でもないので、陛下尊敬する国民として重く受け止めたい。


天皇陛下お気持ちを表明(全文)/ NHK

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160808/k10010626811000.html

本日は、社会高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います

ツイッターなどを見ていて、陛下のこのお気持ちの表明に対して「憲法があるから遠回しに表現したんだね」的にとらえている人が多いように思いますが、僕はその理解では陛下お気持ちを半分しか分かっていないのではないかと思います

陛下は以前から、そして今回のお気持ち表明で「象徴」や「天皇という立場」に強いこだわりを表明されています

憲法があるから思っていることをストレート表現できないのではありません。違います、たぶん。

このお気持ちの表明をよく読み返せば、陛下が「象徴天皇であることを誇りに思われていることがわかるかと思います

僕は陛下のお言葉を聞き、何度も読み返して、

現状とこれから問題点に対して「私はこうしたい」や「こう変えるべき」ということを言わず憲法民主主義(国民国民の選んだ政治家)に委ねることこそ象徴天皇のあるべき姿であるという強い意思を感じました。

憲法があるから思っていることをストレート表現できないのではありません。違います、たぶん。

この観点をもって、陛下のお言葉を読み返してみてほしいです。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。
私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

天皇象徴であると共に、国民統合象徴としての役割を果たすためには、天皇国民に、天皇という象徴立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇象徴行為として、大切なものと感じて来ました。
皇太子時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

陛下は、ここで『天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。』と仰られています

ここは僕の解釈ですが、「直接的・短絡的な存在意義を問いにくい存在である象徴天皇とは何のためにいるのか、自分に何ができるのかを陛下が自問し、求道者的・修行者的とでもいうべき数十年があったように感じました。

日本国天皇とは」ではなく「象徴である天皇存在意義とは」を強く意識されてこられたのだと思います

繰り返しになりますが、現状とこれから問題点に対して「私はこうしたい」や「こう変えるべき」ということを仰らないのは、それが憲法で縛られているからでなく、自らが象徴であることを『天皇として~幸せなこと』と感じられているからであり、「象徴天皇自覚を育て続けてきたから」という陛下のご意思であると僕は受け止めています

象徴であることに強いご意思を感じるお言葉です。

天皇高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。
また、天皇未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇行為を代行する摂政を置くことも考えられますしかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

ここは重要な件です。

単にご公務を減らし、皇太子殿下秋篠宮殿下に任せるのでは「行うべき仕事をしていない人が象徴というおかし状態になる」、天皇存在意義が問われると陛下はお考えであると僕は受け止めました。

僕個人は陛下がご公務を減らしても天皇としての存在意義は揺るがないと思いますが、陛下は上記のようにお考えなのではないでしょうか。

象徴天皇は、その歴史的権威だけではなく、憲法法律によって成り立っています

血筋でなるのではなく国民存在を認められるからこそ象徴でい続けられる、陛下はそこまでお考えなのではないでしょうか。

代理やご公務の削減をしているのでは、「行うべき仕事をしていない人が象徴」では国民理解敬愛を得られるはずがないという強いご意思を感じます

天皇健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。
更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。
その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。

こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります

ツイッターなどで「我々国民負担を考えてくれる陛下マジ陛下」的な受け取り方をした人が多いようで、僕もそう思いました。

もうひとつ、書いておきたいことがあります

これは僕の勝手な推測ではありますが、陛下はご自身の力が及ぶうちに皇太子ご夫妻へバトンを渡してサポートしたいとお考えなのではないか、ということです。

残念なことに、世の中には皇太子家族を悪くいう国民がいます(国民が良し悪しを評価するのではなくサポートするべきではないのかと思いますが…)。

陛下とともに歩んでこられた皇后美智子さまも60年台から90年台にかけてバッシングをうけたことがあります(wikipedaあたりを読んでください)。

陛下秋篠宮殿下皇室全体で皇太子ご夫妻の即位後をサポートしていくことで次世代継承をより良いものにできるとお考えなのではないかと、勝手ながら僕はそのように感じ取りました。


めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。
そうした中で、このたび我が国の長い天皇歴史を改めて振り返りつつ、これから皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちお話しいたしました。 

陛下はご自身が『象徴天皇』≒『権能を持たないEMPEROR』であることを誇りに思われているのだな、と感じる件です。

あくまでも、お気持ちを我々と我々の選んだ政治家に委ねられているのですから

国民理解を得られることを、切に願っています

天皇陛下がですよ、大君大王でありEMPERORたる陛下がですよ、『国民理解』を、『切に願って』いるんですよ。

何度も言いますが、陛下は「こうしたい」とも「こうしたらいいんじゃないかな」とも仰っていません。

ただ、お気持ちお話になられ、それが我々と我々の選んだ政治家がどうするかに委ねていらっしゃるのです。

「もう高齢から引退したいよ」という話でもなければ「憲法があるから言いたいこと言えない」という話でもない。

こんなに自分職務真摯な方が、僕らにお気持ちを託してくださった、それだけで僕は胸がいっぱいです。

2016-07-11

左翼がしょぼすぎる理由

もともと左翼ってのは3種類のルートでなるものなんだよ。

まず、一番健全というか穏当なのが、ごく普通一般労働者収入などが低い人が、左翼的な言説を聞いたうえで「現在の苦しい生活から抜けられるのであればこの言説を支持しよう」って思うパターン選挙的に言えば、投票者。「だってお金もう少しほしいんご」って感じなので、ある意味一番罪がない。

二番目は、中途半端高学歴の人が現在社会絶望をこじらせて左翼にかぶれるパターン。昔でいえば学生運動だし、日教組系もそう。自分能力に(自意識過剰な)自信があるくせに、現在社会では(主に経済的に)報われてないと思ってこじらせている。単著もないのに社会批評とか政治系のブログとかを書いちゃってる人がまさにこのタイプ。要するにルサンチマンなので、どうしようもなくしょぼい。選挙的に言えば、(本来は)ボランティアスタッフとか青年候補者とか。

三番目は、現在資本主義的な社会で十分以上に成功を収めた末に、本人は経済的な充足を十分以上に確保して、余剰のお金を使うのならば左翼的活動――つまり貧困者の救済や差別撤廃文化振興に使おうと決意した人。昔でいうと篤志家と呼ばれた人たち。選挙的に言えば後援会会長や、熟練候補者とか。

しかし、日本において3は庶民から嫉妬で徹底的にたたかれる。寄付をしただけで偽善だと集中砲火を浴びるような社会なので、表に出ることが難しい。そもそも3の目的社会をよくすることなので、炎上処理とかがしたいわけではないのだ(2の目的承認欲求の充足なので、炎上を喜ぶ側面すらもまれにある)。

日本における左翼本丸共産党ですらおもに2を主力としているわけで、そりゃしょぼくて当たり前なのだ。2は当人たちが考えているほど能力も高くないわけで、当然実務能力も、政策立案能力もない。そんな能力があったら、現在社会でも十分に成功しててこじらせないですんでる。でも日本では2のまま理論武装と党内政治けが先鋭化して、なぜか長老なっちゃったり、意識の高い系芸能人傀儡として2の文脈に参加して政治家路線になったりする。

政治家リーダーなわけだから能力がある人の方が望ましい。しかし、日本左翼歴史的に「庶民のために」っていうのを護教的に叫びすぎて、本当に能力のある人、つまり現実社会で十分に成功している人を受け入れることができない。庶民庶民のためにっていう建前が壊れてしまうからだ。3を拒絶する構造なのだ。これが日本左翼がしょぼい原因。

ポルポト的な(非常に極端な)表現でいうならば、「優れているという特質は、優れているというだけで庶民側ではない証明なのだ」となる(ポルポトだったらこの時点で銃殺だが、日本は優しい国家なので嫉妬炎上派閥闘争フルボッコくらいで済む)。

アラサーヲタ読書遍歴

端的にいうと、バカの為の読書術のおかげで、ミリオタ歴史オタになりましたという感じ

高校時代
大学時代
社会人

2016-07-01

世界一周とか行った人が

自分の力で成し遂げた!ってどやってるの見るとかなりイラつく。

それ成し遂げるまでかなり他人インフラかいましたよね。

そもそも通貨自体過去文明が作り上げた歴史的インフラであって、学ぶべきことは自分で何でも成し遂げられるという誤解ではなくて、世界中どこに行っても人に頼らないと何もできないという事実でしょ。

本来目の前にあるちょっとしたことからだって学べることを、逆に世界一周してしまうことで学ぶ機会を遠ざけるとか。愚の骨頂とはこれいかに。

素直に遊びに行きたかったって認める人間のほうがよほど見込みある。

ポジティブはいいけど、何でもかんでもモチベーションにするのはやめましょうね。

【決定版】プログラミング言語を徹底解説!



http://cpg.hatenablog.com/entry/2016/06/30/193755

【決定版】プログラミング言語を徹底解説!

プログラミング言語は、200種類以上存在していると言われていますが、その亜種や野良プログラミング言語を含めれば、星の数ほどあります。たとえば今回紹介しませんが、ベーシックという言語だけでも、ファミリーベーシックプチコン3DSベーシック)、べーしっ君などがあります

今回はその中から厳選に厳選を重ねて厳選した、プログラミング言語を5つ、徹底解説します。

では早速解説していきます!!!

1.Perl

Perl歴史的に古く、sedawkといった歴史として語られる以前のプログラミング言語のいいとこどりをした、とても、素晴らしい言語だ。

モンスト以前のmixiや、みんな大好きはてブはてなブログは、Perlで作られています

学習する際は、歴史が古い分、Perl4の本も、たまに図書館に残っているため、気を付けなければなりません。

2.Perl

よく勘違いされるのが、「PerlPearlって似てるんでしょ?」。違います

何が違うかといいますと、文法から用途までほぼ全てが違います

Pearlとは?

Pearlとは真珠のことだ。あと、バンドメンにとっては楽器。それと、譲れない願いかPEARLCDを買った人も、いるんではないでしょうか。

Perlは?

PerlはAndoridにも、対応してたりします。

https://www.infoq.com/jp/news/2014/06/perl520

3.Perl

Webサービスを開発したい場合、真っ先にお勧めしたいのがPerlだ。

Perlの特徴として、[[TMTOWTDI]]があります。あとPerlを生み出したLarryは、プログラマの3台美徳として、 "Laziness, Impatience and Hubris"というすばらしい考え方があります

https://en.wikiquote.org/wiki/Talk:Larry_Wall

4.Perl

皆さんはAIをご存知ですか?

PerlAI(Artificial Intelligence)でググッテても、わかるように、2000年台前半からすでに話題に上がっており、最近流行ディープラニングでも、Perl6を使った話があるようだ。

http://ai.neocities.org/P6AI_FAQ.html

5.Perl

iPhoneで動くPerlもありますアプリあります

https://itunes.apple.com/jp/app/perl-programming-language/id486217730

だんだん書くのが疲れてまいりました。

http://blogs.perl.org/users/lestrrat/2013/09/perlmotion-perl-for-ios.html

あとはlestrratさんにおまかせします。

それとYAPCは去年で一区切りしましたが今年も、YAP(achimon)C::Asia Hachioji 2016 mid in Shinagawa あります!!!!!!

http://yapcasia8oji-2016mid.hachiojipm.org/

2016-06-30

エロゲにおける泣きゲー概観

エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである

しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアムフレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為エロと称するのであれば、その意味で泣きゲーエロゲの一ジャンルであることは間違いない。

泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったか技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。

2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。

だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。

ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。

1988~1996年

そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。

その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからであるエロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。

例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である

人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。

男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。

DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。

さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲー元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。

努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇きっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。

「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。

1997年

難病物は概ね、主人公ヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したもの涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一ノベルゲームシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである

この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。

前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。

1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。

おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。

そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴である。もし泣かすという意思で作られたもの泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。

MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。

はいエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである

1998年

ToHeartで泣かせる物語構造確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.スタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインルートで導入された。

当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。

本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独ジャンルを成立させられることを示していた。

今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。

1999年

6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。

特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチKanonは泣かすという目的で採っている。

Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代泣きゲー金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物であるリアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。

――一方で、ToHeartもONEもKanon加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴であるハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である

興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。

2000年

知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。

そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。

しかし、彼女無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。

もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔幸福記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。

悲劇象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。

2001年

ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。

鬱ゲである

MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。

そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。

男女関係修羅場シリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。

誰を切り捨てるかは、プレイヤー選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。

さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である

家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。

襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。

なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである

2002年

……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である

例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である

また、集団間の絆も広く扱われていく。

うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である

2003年

ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決はいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。

これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である

ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。

2004年

そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤー凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。

そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。

泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要位置に少女の悲劇と愛が配置されている。

そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である

としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。

そう捉えるならば泣きゲー歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。

2005年以降

いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である

例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くもの2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。

また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトル以下略)。

昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやす泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである

おわりに

リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲー元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。

かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。

どうか、幸せエロゲライフを。

2016-06-28

日本的にいうとスコットランド北海道、じゃない。

イギリスEU離脱問題で、Twitterとかで「スコットランド日本でいえば北海道みたいなものからー」という人が意外に多くてびっくり。

スコットランド北海道地理的環境は似ているけど、歴史的に言えば全然違うよ。

強いていえば、東北地方だよ。特にアイヌ文化がそこそこ残っている東北北部

まあ、北海道こそアイヌ文化の本場だけどさ、スコットランド的な意味では歴史性が全然違うんだよ。

現代では東北会津地方以外は「維新史観」に洗脳されて、他の地方との歴史連続性を当然視する向きがあるけどね。

そんなわけで、イギリスの各行政区分「国(country)」を日本にあてはめると、

イングランド

東北を除く本州の大部分。ロンドン東京遷都されずに京都がそのまま首都になった感じ。

あと、カンタベリー大聖堂のあるイングランド南東部は、お遍路とか宗教的聖地という意味四国に近いかな。

でも、実はイングランド王室って、発祥フランスだったりするので、日本に無理やりあてはめると

中国大陸発祥一族日本征服したことになってしまうので、まるで騎馬民族征服王朝説ですね(笑)

ちなみに、イギリスフランス文化的関係は、日本中国関係結構似てます

ウェールズ

九州に近い。王太子が「ウェールズ公Prince of Wales)」と呼ばれるように、他の地域に比べてイングランドとの一体性が強い。

九州宮崎県)が皇室ルーツであるように、かの有名な「アーサー王伝説」もウェールズに縁が深い。

ウェールズ人は怒りっぽいというステロタイプがあるけど、熊本人が怒りっぽい(肥後もっこす)というのとちょっと似てる。

スコットランド

上で述べたように、東北地方に近い。中央政府イングランド)にずっと対抗してきた歴史があり、文化や(遺伝子レベルで見た)人種結構違う。

東北地方地名にはアイヌ語に由来するものが多い(気仙沼の「ヌマ」とか)けど、スコットランド独自の語彙が少なくない(ゲール語)。

じゃあ、同じケルト文化圏コーンウェールとかどうなんだと突っ込まれそうだけど、強いていえば北陸東北日本海側あたりですかね?

北アイルランド

この地域こそ北海道に近い。でも、本当は朝鮮併合後日本から独立しなかった朝鮮半島、というイメージが最も似ている。

カトリックを中心とした民族運動についていけなかったプロテスタント系の住民が多く、アイルランド共和国から分離したので、

無理やりイメージすれば、今の北朝鮮にあたる地域平壌新義州あたり)だけが日本から独立しなかったという感じ。

ほら、こう書くだけでどうしてテロを伴う激しい独立運動が起きたか簡単理解できるでしょう? 最近はまったく平和ですが。

ついでに言うと、マン島とか王室保護領は、独自文化圏という意味沖縄および八重山諸島っぽい感じですかね。


<追記>

この前バラエティ番組で "United Kingdom" を「連合国」って訳したフリップを使っていたけど、

United Kingdom は「国連United Nations)」とは違って、United が形容している名詞単数形から

「(複数の)王国群の連合」ではなくて、「(複数王国が)統合された単一王国」が正しいのね。

実は「連合王国」という公式訳はちょっと誤訳気味だというのは業界(何の業界だw)では有名な話。

イギリスイングランド王室が各王国王位兼業することで、形式的に各王国の形を残しながらも

事実上統一国家になった王国なんですね。

から複数王国連合ではなくて、複数王国統合された単一王国理解するべきなんです。

2016-06-23

[]23(完):増田の眺望

 北方異民族を追い払ったことで増田島に泰平の世が訪れる。

共通の敵と戦ったことで各家にくすぶっていた敵愾心は冷却された。

それ以上に効果的だったのは増田家(八)が他の三家に送った軍目付の存在だ。

いざとなれば暗殺されるだけの存在みえて、彼らには赴任先の軍を「まじめに訓練する権限」が与えられていた。

増田家(五)の強硬な反対を押し切って付与されたこの権限によって、各家の軍隊雑魚ナメクジ化した。

 戦争を起こそうとしても雑魚ナメクジ同士のにゅるにゅるしたナメクジ試合になると悟って、

次世代当主たちは軍事面での野望を抱かなくなった。一方で海外から侵略者増田家(八)の戦略を洗練させた戦い方で、にゅるにゅると迎撃される事になった。

 最終的に増田島は以下の形に落ち着いた。

アルファマスダ家当主領国石高
増田家(八)大便公方(八)(六)半国(七)(九)560万石

 増田島の統一に中心的な役割を果たした増田家(八)は、石高にして全体の半分近くを領する。

増田島の中央位置するのをいいことに島中から名産品をかき集め、みやこの人間を飽食させる島最大の人肛を誇るうんこ生産国でもある。

 旧増田領(九)に運河建設して南と北の交流活性化平和の中でのさらなる発展を目指している。

 当主意向公衆便所の整備が熱心に進められ、多数抱える人口密集地が衛生的なことは海外商人にも感心されている。

 増田匿兵衛は自分戦争向きの人材だとして引退し、増田家(四)から預けられた増田五郎などの育成にあたっている。

 増田騎馬軍団は馬の機動力を活かして各地をむすぶ伝馬に新しい役目を発見した。

ベータマスダ家当主軍目付領国石高
増田家(四)鎮寇将軍(鎮北将軍あらため)増田出羽守(四)(一)(二)北半国(三)290万石

 増田家(四)は連合軍から制圧した旧増田領(一)を預けられる代わりに、(二)南半国を増田家(五)に、(六)半国を増田家(八)に割譲した。

ただし、海上の交易利権はより広く得ており、増田家(四)の廻船は大洋側でも盛んに活動している。

 当主北方異民族の来寇にそなえる意味公式に鎮寇将軍の名をたまわった。

狄人には和戦両様で対応し、彼らとの交易や旧増田領(三)を中心とする金山銀山の開発で豪華絢爛な文化を興した。

金製の馬糞ウニ模型など「出来は素晴らしいけど、なんで作ったの?」と言われる日々である

 増田家(八)はこの芸術品への対抗に金の雲細工を作らせた。後の金のうんこである

ガンママスダ家当主軍目付領国石高
増田家(五)東上管領増田金吾(五)(二)南半国(六)半国290万石

 まったく動かずに北と西から半国ずつ奪った増田家(五)は増田島全体の穀倉となった。

収穫期が訪れるたびに大量の穀物が北や西に送られ、ここでの穀物の出来が相場に大きな影響をあたえた。

 穀物の形で西に流出する栄養素を補うため、漁業によって得た魚を肥料にする方法が開発された。

その魚の栄養増田家(五)の穀物を食べた人々のうんこの形で海に流出し、潮に乗ったものであり、

ここに穀物うんこと魚(とプランクトン)を媒体とした元素の循環が完成した。

 また、受け入れたカラトラヴァ騎士団との交流増田家(五)を海の果ての国々との取り次ぎ役にした。

彼らは居住制限されながらも、布教と皮膚病を治す薬草の探査にあたっている。

 緯度が異なる旧増田領(二)の半分を手に入れたことは増田家を気象変動に強くして、飢饉の防止に貢献した。

なお、石高増田家(四)と互角ながら、鉱山商業収入では大差があり、文化的には他からゆっくりと遅れて行った。

デルタマスダ家当主軍目付領国石高
増田家(十)西国大宰相増田大学(十)(士)210万石

 増田家(十)は他の増田家に比べて独立性が低く、増田家(八)から干渉を強く受けている。

しかし、増田家(四)(五)の思惑もあって、第四の増田家として存在できている。

二位から四位の三家を足せば、石高では増田家(八)を上回るのである

 増田家(八)も西の外様大名を削るよりも、強い藩屏に育てる選択をした。

また、大陸との取り次ぎ役には歴史的増田家(十)が適任であった。

 歴代当主は気性のあらい増田家(士)の武士制御するのに苦労する。連中の雑魚ナメクジ化が増田大学最大の功績であろう。

その他

大名格の増田旗本格の増田商家になった増田消滅(吸収された)増田
(三)(九)(二)(士)(七)(一)(六)


 役目を終えた忍者たちは、走狗として煮られない自衛のために、集まって一つの村を作った。

文化背景の異なる彼らを結びつける手段として、俳句が盛んに利用された。

俳句でなくても「決まりきった単語」を用いて100文字以内で伝えるのが作法であった。

 より荒っぽい忍者コミュニケーション手裏剣を投げつけあった。

帰農した忍者が増えてから野良仕事に使う手斧活躍することもあったという。

 また、村内の政治的対立回避するためカラトラヴァ騎士団からもらった異国の犬が名目的な村長に推戴された。

村民独身おっさんばっかりだったので、将来性には乏しかった。

 ひとつの戦乱の果てに増田家は以上のように整理されたが、勝ち残った増田家が次々と分家増田家をつくったことは言うまでもない。世に増田の種は尽きまじ。

 なぜならこの世界未来のマースだ。

 そじゃーな!

前回

http://anond.hatelabo.jp/20160622000404

2016-06-20

初心者SEの俺がアジャイルとかについて考える

まず俺はウォーターフォール型の開発しか経験がない。

なぜならうちの会社官公庁とかそういうところ相手商売しているからだ。

ゆえにアジャイルにもDevOpsにもまったく精通していないし経験もない。

が、別にアジャイルもDevOpsも反発があるわけでもなくそこら辺のニュースを拾っては「あ~そういう方法もあるんだね」位で見ている。


http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.infoq.com/jp/news/2016/06/agile-dead-again

http://b.hatena.ne.jp/entry/simplearchitect.hatenablog.com/entry/2016/06/20/080807


で、上記の記事ブコメがたくさんつきまくってるけどわりと否定的ブコメが多いようだ。

ただ、ブコメの内容を見ていくとなんとなくアジャイルとかDevOpsが導入されない理由が見えてくる。


ようは、日本式予算ガッチリ決めて仕事をお願いするやり方とアジャイルのやり方があってないとか仕事を出す側がアジャイルをそもそも知らないとかそういうことなんじゃないかと。


結局、IT産業がどうこうってより日本の商習慣とか周りのやり方がアメリカンなやり方と全然うから使えないって事だよね?

これってそもそも「アジャイルは使えない」とか「ウォーターフォールは使えない」とかじゃなくて周辺の環境がどうこうって話だけなんじゃないの?

なんか本質的な部分を無視して会話してるから意味ないように見えるんだけど。


アジャイルを導入させたいんなら上級国民の人に働きかける以外にないんじゃないの?

あるいはヨーロッパとかはどうなってんの?とか

アメリカの実際の商習慣はどうなってんの?とか

日本欧米IT産業歴史的発展の違いとか、ぶっちゃけIT的な知識とかまったく関係ない部分調べなきゃ駄目だよね。

なんか最近挙がってくるアジャイルとかの記事がそういう部分を無視しすぎて意味ないなーとか思ってんだけどどうなんだろ。

2016-06-16

舛添問題についてのネタ消費と正義暴走

舛添問題世間を賑わせている。気になったことがあったので、備忘録代わりに記しておきたい。

まりにもこの事件は「ネタ消費」されすぎではないかと思う。僕が普段いる、いたって平和で脱政治的な(この時世脱政治的であるにはそれなりの努力を要するわけだが)場末ネットコミュニティの住人が一斉にネタ消費を始めたので驚いた。

むろんこれは単なる一例なので、ここから全体を語るつもりはないが、あまりにもネタ消費されているという傾向はないだろうか?

事件があまりにもしょーもないものから、というのはある。安心してネタ消費できるのだ。

また、猪瀬の辞任劇の反復だから、というのもあるだろう。

あるいは、STAP騒動や野々村議騒動、そして週刊文春音頭をとったある種のネタ消費で蓄積されたノウハウが、ここで一気に活かされた、という見方もある。

はいえ、このようなネタ消費は歴史的に掘っていけばいくらでもある、という意見もあるだろう。あまりにも現在特権化する必要もあるまい。

また、これは所詮東京出来事であり、多くの日本市民にとっては人ごと、という視点も考えられる。余談だが、最近ベタな「都会vs地方」という図式が盛り上がっているように感じられるのは気のせいだろうか?

原因と理由はこのように様々に探ることができる。とはいえ、とりあえずは僕があまりネタ消費に驚いた、という話だ。だって、辞任劇はまあいいとして、その後の都知事選挙五輪等はとてもシリアス問題ではないか

他方、ネットの様々なところを観測していると、保守リベラルを問わず、「正義暴走」を憂う意見も目にした。

法的にはおそらく問題がないにも関わらずかようにまで正義が吹き上がってしまい、それが健全批判として機能するならともかく、あれよあれよと辞任へと追い込まれしまった。この正義暴走っぷりは法治国家においてあり得ない事態である、と。

確かに、そう言われればそうだ、とも思う。

舛添問題をめぐっての、最初に述べた「ネタ消費」と、次に述べた「正義暴走」は全く矛盾した現れに思えるかもしれない。しかしおそらく、それは両立するものなのだ

この二つはコインの裏表をなしている、とまで言い切るつもりはないが、そんな光景ネットの片隅で認めた。ここに記録しておく。

2016-06-10

オタク差別されている!のか?

オタク差別されている!」とよく耳にする。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

そうだとしよう。だけど、すごくおおざっぱに言って「昔」と「今」とでは同じ「差別」でもその意味合いが違ってるんじゃないか

「昔」、オタクベタ差別されていた。仮にそうだとしよう。あの偉大なコミケを指して10万人の宮﨑勤が……と。

他方「今」、オタク差別されているとするなら、それはオタク文化社会に受け入れられる上でのアレルギー反応のようなものではないだろうか?

オタク文化はアレルギ=悪だというのか?」そういう価値判断を下したいわけではない。「ある異質な文化社会に受け入れられる際、必然的に一部の面倒な人から拒否反応が起きる」という現象を仮にアレルギーマークしてるだけで、悪だといいたいわけじゃない。僕はオタク文化が大好きだ。最近では「三ツ星カラーズ」という漫画オススメだ。

さて、普通に言って、オタク文化は浸透した。AKB国民アイドルだ。初音ミクラブライブくらいなら誰でも知っている。ガルパンはいいぞ。あるいはハリウッドの超大作にオタク的なエッセンス密輸入されているのを確認してほくそ笑んだり……色んなレベルはあるけど、着実に広まっていると言えるだろう。

「いや、オタクはまだまだ差別されている!」その指摘は正しい。この後触れる。

ラブライブとかってヤンキーオタクあいのこみたいな層にウケたものでしょ?それオタク文化って言えるの?」その指摘も正しい。後で触れる。

そんな中、「碧志摩メグ問題でも「のうりんポスター問題でもいいが、仮に「オタク差別されている!」と感じる事象があるとすれば、それはオタク文化が受け入れられようとしている上での、一種拒否反応のようなものとして捉えると色々とスッキリしてくるのではないか

「お前は「碧志摩メグ」や「のうりんポスター」をどう捉えているんだ!」それはここでは問題にしない。やりすぎと思うにせよ、そんな目くじら立てなくてと思うにせよ、ここではあえてフラット事象を眺めることによって得られるものに注目したいのだ。一応いっておくと僕は、「碧志摩メグ」や「のうりんポスター」はさまざまな当事者の心境や、そのコンテンツをつくるに至る具体的な文脈部外者による評価をどう判断するか、そもそも「当事者」と「部外者」をどのような基準で分けるのかいやそもそも分けられないのかなど多岐にわたる論点を抱えており、善悪二元論で語ることは危険だという立場だ。これを世間では日和見と言うらしい。

まり、すごく大雑把にいって「オタク文化差別されている!」という時の「差別」は昔と今とではその意味合いが異なっていると言うことができる。ここからが本題だ。

たとえば、最近オタク文化に馴染んだ若いオタクが「差別されている!」と憤るのはもっともなことだ。こんなに素晴らしいオタク文化拒否反応を示すなんて、と。

また、古風な「オタク観点から物事を捉えている人が「差別されている!」と感じるのももっともなことだ。かつてオタクは冬の時代を過ごしており、その余波は今でもあちこちに見出される。一貫した観点からオタク差別を捉えるのは妥当なことだし、有意義なことだとも思う。

しかし、昔ながらのオタク観点」をガッツリしょってるわけでもなく、かといって最近オタク文化に親しみはじめたわけでない、そんな中途半端な「オタクであるにも関わらず、「オタク差別されている!」という言説の歴史的に宿る差異にまったく無頓着であり、それなのに「オタク差別されている!」と無邪気に発してしまう、そんな人達が僕は不思議で仕方がないのだ。

これは「真のオタクは……」というタイプの語り口に所属するものでは(おそらく)ない。文章としては同じものが、文脈によって複数意味を宿すことについての注意力、恥ずかしい言葉を使えば「言葉に対する感性」の問題だ。

いまいちピンとこなかっただろうか?それなら申し訳ない。スルーしてくれれば幸いだ。

実は、僕はいくつかの具体的な顔を思い浮かべながらこの増田を書いている。あてはまらなかったり、なんか意味不明と感じたら、多分あなたにとって、それは的外れな問いなんだろう。

「そんな友人にも実は深い背景が……」と思われただろうか?一応、僕とその「顔」は深い関係を築いている。そして、僕のほうがどうやらオタクなのだ

「そういうことって別にオタクだけに限らず……」その通り。そういう見方を全く否定するつもりはない。これは別にオタク文化断罪したいのではなく、単に、実体験で感じたモヤモヤについての増田だ。

「そのような語り口自体増田オタクフォビア的な隠された政治性を暴露しており……」そういうつもりはないが、僕はその見方否定できない。すごくラフに言って「にわかオタク」的なものに疲れているのは事実だ。とはいえ、あくまで対人関係での違和感が根っこにあり、そいつたまたまにわかオタクで」……、という順序だ、ってことを理解してくれれば幸いだ。

この増田がどこかに届くことはできるだろうか?

2016-06-05

大阪人は、ビジネスセンスがあるかどうかは、人によるのではないか

大阪人は、ビジネスセンスがあるかどうかは、人によるのではないか

という話には、全面的賛同する。

全く、大阪人って商いの精神があるとかって言うが、センスがあるかどうかは、個人の資質に委ねられている気がするし、疑問があるよね。

端的にいって、東京の人は、『自分田舎から出ている』とか『田舎から出て来た人の集合体』という開き直りがあるように、予想するのだが。

大阪人には変なプライドがあると、思う。

  

  

(私は生粋大阪人でもないし、学生時代大阪で過ごしたわけでもない。出身は、北陸たまたま大阪府民になっている。)

 

大阪京都私鉄地下鉄の連絡の悪さを考えると、簡単には駅舎を作れない状況のように思える。

なんだろう、たぶん歴史的に、中国籍韓国籍同和問題ヤクザなどを抱えていて、

土地開発とかがスムーズいかないのだと、思う。

沖縄の例の辺野古用地の買収ほど、露骨政治屋名前は挙がってはこないが政治家も絡んでるのだろうか?)

いずれにせよ、利害関係の調整が難しいのだと、思う。

  

結局、日本政府とのパイプが出来ていないのだと思う。

それか、一時期、賄賂大阪府下の市長さんが建築業者とズブズブだったらしいが。

東京都知事お金の使い方が、ビックリするぐらいに、適当なんだろうなと、思う。

みみっちい。

  

東京政府からお金が流れるような仕組みがない。

群馬に、そのうち負けるのではないだろうか。

  

関西人の間の仲の悪さは、なんだか、埼玉千葉神奈川県民の仲の悪さとは、別次元のこだわりが、あるような気がする。

もちろん、東京でも、渋谷新宿上野とか、地域ごとの格差はあるのだろうが。

  

物理的な距離よりも、心理的距離が、大きいような気がする。

大阪府下でも、北側南側、例えば、豊中千里中央の辺りと、東大阪堺市とでは温度差があるような気がするし。

  

いわんや、京都と手を組もうとか、兵庫県と、とかって草の根レベルで交わりづらいのだと、思う。

文化が異なる。

  

それと、

大阪の人は、コミュ力があるようで、コミュ力があるのかなと、疑問に思うことも多いし。

単純にウルサイ・自己主張をするだけで、ダメな感じ。

東京でも、子育ての件では老年層と若年層との意識ギャップがあるようだけど。

それが、そこかしこで、見られる。

関西女性って、ディズニーランドコストコなんかには、ラブな意識が強い。

まり外資に弱い。

(今、述べている関西女性半径5メートル範囲に限るので、異論は認める。)  

結構感情的で、愛知県の人よりも、金の計算が出来ないのではないか、と感じる。

  

  

  

2016-06-04

ラノベエロゲ(とマンガ)の年表

ラノベとエロゲの歴史的関係 - Togetterまとめを受けて、富士見ファンタジア文庫テレビアニメ化作品をベースに、マイルストーン的にラノベエロゲギャルゲ)、ラブコメ漫画を並べたものです。あくまラノベが軸です。太字は富士見Fから刊行されている作品

追記:あとからいろいろ追加したり変更したりしていますスマホの人はページの最下部にある「PC版」というリンククリックしてください。発売月まではちょっと面倒なので。すみません

ラノベゲームマンガ備考
1988ロードス島戦記   
   ああっ女神さまっ 
1989無責任艦長タイラー   
  ドラゴンナイト  
   電影少女 
1990スレイヤーズ   
1991 プリンセスメーカー  
1992天地無用!  初出はOVA、のち小説
  同級生 エロゲにおけるドラマ性の強化
1993魔法戦士リウイ   
 それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ   
1994魔術士オーフェン   
 セイバーマリオネットJ  メディアミックス企画あかほりさとる
  ときめきメモリアル  
1995 同級生2  
  EVE burst error  
1996  ビジュアルノベル形式
  サクラ大戦  
  トゥルー・ラブストーリー  
1997召喚教師リアルバウトハイスクール   
  To Heart  
1998ブギーポップは笑わない   
 僕の血を吸わないで  ラブコメラノベ草分け
 マリア様がみてる   
 フルメタル・パニック!   
  ONE輝く季節へ 泣きゲー
  センチメンタルグラフティ  
   ラブひな 
1999スクラップド・プリンセス   
 ザ・サード   
 シスター・プリンセス  元は誌上企画、のちゲーム化・アニメ化など
  Kanon  
  加奈いもうと 山田一田中ロミオ
2000まぶらほ  富士見Fのラブコメ代表
  月姫 同人エロゲ奈須きのこ
  AIR  
  Phantom 虚淵玄
  カナリア ヤマグチノボル桑島由一
2001天国に涙はいらない  エロゲの影響を受けていると評される
 NHKにようこそ!  作中でエロゲ作りに励むなどする
  君が望む永遠  
2002戯言シリーズ  西尾維新デビュー
 伝説の勇者の伝説   
 風の聖痕   
  ひぐらしのなく頃に 同人ゲーム
   いちご100% 
2003涼宮ハルヒの憂鬱  2006年アニメ化され大ヒット
 ROOM NO.1301  複数ヒロインセックスする青春恋愛ラノベ
   魔法先生ネギま!ハリー・ポッター(1997)
2004ゼロの使い魔  作者のヤマグチノボルエロゲ出身
 とある魔術の禁書目録   
 乃木坂春香の秘密  オタク趣味を隠しているヒロインラブコメ
 BLACK BLOOD BROTHERS   
 ご愁傷さま二ノ宮くん   
 デビル17  セックスバイオレンスが特徴
  CLANNAD  
  Fate/stay night  
  ToHeart2  
   ハヤテのごとく!ノベライズは「まぶらほ」の築地俊彦担当
2005化物語   
 初恋マジカルブリッツ  セックス描写のあるハーレムラブコメ
 かのこん  MF文庫J萌えラブコメ路線
  つよきす  
  School Days  
2006とらドラ!  作者の竹宮ゆゆこエロゲ出身
 鋼殻のレギオス   
  マブラヴ オルタネイティヴ  
  キミキス トゥルー・ラブストーリー」のスタッフ
   To LOVEる 
2007人類は衰退しました  作者の田中ロミオエロゲ出身
  リトルバスターズ!  
2008俺の妹がこんなに可愛いわけがない  ヒロインである妹がエロゲーマー
 生徒会の一存  主人公エロゲーマー
 ハイスクールDxD  エロい
 いつか天魔の黒ウサギ   
   神のみぞ知るセカイ主人公ギャルゲーマー
2009IS〈インフィニット・ストラトス〉  作者の弓弦イズルエロゲ出身
 ソードアート・オンライン  Web版の連載は2002年から
 僕は友達が少ない   
 これはゾンビですか?   
  ラブプラス  
  STEINS;GATE  
2010だから僕は、Hができない。  作者の橘ぱんがエロゲ出身
 東京レイヴンズ   
  WHITE ALBUM2 丸戸史明
2011魔法科高校の劣等生  Web版の連載は2008年から
 デート・ア・ライブ   
   ニセコイ 
2012冴えない彼女の育てかた  作者の丸戸史明エロゲ出身
2013甘城ブリリアントパーク   

単純に「有名なラノベ」「有名なエロゲ」を知りたいなら他のリストを見てください。

ライトノベルのアニメ化作品一覧 - Wikipedia

統計表 ゲーム中央値/平均値順 ErogameScape-エロゲー批評空間-

エロゲが原作のアニメ作品の一覧とは (エロゲガゲンサクノアニメサクヒンノイチランとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

2016-05-27

安倍総理揶揄する人って認知がゆがんでると思うんだよね

今回のオバマ大統領広島訪問を見ながら思ったんだが、

今回の件でもtwitterとかで安倍揶揄する人が結構いた。

正直、認知が歪み過ぎてて神経症とまでは言わないけど人格障害レベルだと思う。

もちろん国会とかで安倍批判するのは当然なんだけど

今回の件ではオバマ広島が主役で安倍は脇役なわけで。

オバマスピーチ聞いて、オバマ被爆者代表が抱き合う場面を見てもなお

安倍揶揄する人って安倍しか視線が行かないわけだ。

安倍は何をしてるのか」「安倍何かやらかさねーかな」

今回の歴史的訪問を目にしても安倍揶揄する人たちは常にこの意識が勝ってしまう。

いつもそういう認知回路で物事を見てるんだろうけど

今回のような場合にその歪みっぷりが露になっちゃう。

から見てると、まあ、やばいよね。

オバマ大統領の所感と脳の不思議

現職米国大統領による広島訪問という歴史的出来事テレビで見た。

ベルリンの壁崩壊と同じような歴史の節目になるんじゃないか、なってほしいという希望とともに少し緊張もしていた。

 

耳をテレビに集中させオバマの声を聞き漏らすまいとしていたらオバマ発言がそのままダイレクトに脳に入ってきた。

なんという俺の英語力の進歩。集中しているからなのかと思っていたら俺が聞いているのは同時通訳による日本語だった。

 

そしてそのままNHKの19時のニュース

アナウンサーの声がとぎれとぎれにしか理解できない。

どうなってしまったのだ。疲れているのか。

それとも何かしらの体の異変前兆かと思っていたら、副音声英語を聞いていた。

 

ポンコツ脳の勘違いだが、何かを考えるときには人は言語ではない「何か」で思考しているのかなと思った。

2016-05-25

靖国神社エビデンス

靖国英霊感謝気持ちを伝えよう!と訴えてくださる方に質問です

現代科学の初歩的な共通認識では、脳の活動が停止すると意識消滅するとされています

まり英霊感謝気持ちを伝えようとするなら、英霊の皆さんの脳活動必要となるということでよいかと思います

ところが英霊の皆様は亡骸になられて久しく、脳活動どころか脳組織のものが失われて70年、構成していた分子もおそらく地球上に散逸している状態です。

このような状況で、英霊のみなさんに感謝が伝わるとするのは、あまりにも根拠が薄弱なのです。

どれくらい薄弱かというと、水素水でいうと、H800Oくらいであると思います

それにくらべれば、体組織が保存されていたキリストの復活のほうがまだましです。それでもH300Oくらいイッてると思いますすけど。

それでもなお、靖国英霊へのマジ感謝を訴えたくなるのですから、皆さんには何か理由があるはずなのです。

というわけで拙案ですが、みなさまの理由をある程度分類させていただきました。

自身の当てはまると思うものに丸をおつけください。あるいは下に属さないご自身カテゴリを教えて下さい

1.科学では計り知れない領域があるよ。英霊の皆様はそちらにおわしますよ。その領域水素水くらい神聖だよ(紅茶キノコ派)

2.SYI(支持者で有権者意見なので派)

3.中国の敵の敵は味方(三国志派)

4.そんなの信じてるわけねぇけどw、他人を従わせる快楽目的なんで(マイルドヤンキーリーダー派モコモコ団)

5.いたずらです。あとでテッテレ~奏でる(バラエティっ子派)

6.俺が童貞派遣社員なのは国民靖国神社への感謝が足りないせい(アイアムアヒーローときどき登場派)

7.愚民統治には、綿々と140年も続く歴史的根拠ある信仰で束ねることが大事だ(粉もんマキャベリ派)

8.俺が大川って総裁だァー!(プラモ作ってたら火事派)

9.神聖領域科学で計ろうとする増田がバーカ(水素水科学判断するな派)

2016-05-24

http://anond.hatelabo.jp/20160523231413

童貞なので女性と話す機会なんてないか生理についてなんてブルーバックスの『男が知りたい女の気持ち』とか『月経のはなし』などの本で読んだ知識しかなかったわ……。

それぞれ書いた人が女性男性とで違った視点で、前者はタイトルの通り、生理について以外にもセックスことなど広く扱ってるもので、実際の感覚だったりどう対処してほしいかの話とかもあってQ&A形式イラストはさみ話が進むので読みやすくてオススメ後者生理歴史的にどういうふうに受け取られてきたか世界各国での受け取られ方などの話もありデータを示しながら話が進む専門的な本だった。

『13歳までに伝えたい女の子の心と体のこと』という本も読んでみたが、ナプキンの交換の仕方や生理中の過ごし方など実際的な話に寄っており、少しスピリチュアルな話が入るのが気になる点ではあるが、ちょっと詳しい保健の教科書としてはなかなかおもしろかったので、この元増田が言っている基本レベルのことで感心するレベルの人にはおすすめできる。最初に上げた2つは中古しかないみたいだし。

2016-05-22

社会学者古市さんが叩かれる理由がまったく分からない

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23488282


社会学者古市さんが叩かれる理由がまったく分からない。

彼は社会学者としての立場から法律改憲論者と論壇で登って答弁しているわけだが、オレには佐藤氏と古市さんとの間で話がまったくかみ合っていないように思える。

正直、この佐藤という人を含め、古市さんを叩いてる人にはマーケット感覚がないんじゃないか?と思うんだが、具体的にどうやってそれを示したらいいのか見えてこない。

山本みずき氏との論壇でも同様だと思う。山本みずき氏にはマーケット感覚がない。一方で古市氏にはマーケット感覚がある。

議論レベルがかみ合ってない。山本氏佐藤氏も、社会の泥臭い面や言葉通りにいかない部分が見えてない。古市氏の方が社会を間接的に知る手段豊富で信頼できると思うんだが

同じように思ってる人はいないのかな。。。

一応個人的に考えてみた内容をまとめてみたので、知見のある方々の指摘や修正がほしい。

是非論駁してみてくれ。



両者の経歴から考察

個人的思考なんだが、『佐藤氏』と『古市氏』のバックヤードに目を向けてみた。

ソースwikipediaくらいしか簡単に示せるものはなく、佐藤氏のことはオレはほとんど知らないので、あまり知ったようなことは言えないんだが・・・

佐藤氏』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%81%A5%E5%BF%97#.E7.B5.8C.E6.AD.B4.E3.83.BB.E4.BA.BA.E7.89.A9

古市氏』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B8%82%E6%86%B2%E5%AF%BF



古市氏の背景は〝環境情報科学〟。人脈のほとんどは起業家、および新時代財界人






佐藤氏の両親は政治学者弁護士。つまり歴史と法に重きを置く典型的法学部タイプ日本法治国家資本主義として成功した社会主義タイプなので、佐藤氏は典型的右派保守的タイプ

一方で古市氏は環境情報から社会学へと転向した。つまりバックヤードとなる知識や感性科学者タイプ

ゆえに、古市氏の論じる分野には必ず〝マーケット〟がある。お金と結びついて物事を考える発言がきちんと身についている。またそこに時価がある。

ここで勘違いしてはいけないのは〝経済〟や〝金融〟ではない、ということだ。要するに〝政治色〟が薄い。よく言えば庶民的。別の言い方をすると〝資本主義的〟。

また彼は友人に起業家を持っており、堀江貴文を含め、財界との繫がりも多い。ほりえもんちゃんねるなどにもよく登場する。

これを〝強い者に擦り寄る〟と表現するものもいるが、そのあたりの〝評価〟は置いておいて、マーケット感覚を得られる環境にいることは間違いない。

http://blogos.com/article/154867/

例えばここで古市氏は『すき家企業社会にもたらした社会福祉ひとつ』と述べたことで叩かれているが、なにが間違っているのだろう?と思う。

マイクロソフトをはじめとする新時代新興企業の多くは、既存制度を上手に利用して新しい形の報酬従業員に還付している。

(※その代わり徹底的に税金を逃れている! ←善し悪しは置いておいて、事実そうである

どの国に所属しているかよりも、どの会社所属してその会社が与える福利厚生を受けられるか

ストックオプション行使できるか、金融資産を持てるかどうかが豊かさへと直結する時代になったのに、いったい何故古市氏の述べていることが的外れなのだろうか?

シリコンバレーでは福利厚生提供するサービスを行っている会社がYコンビネータ出身者によって起業されている。

ケータリングサービスタクシーチケット、社宅システムなど、上げればきりがないと思うのだが・・・

http://asread.info/archives/722

日本自衛権があることを古市氏は知らなかったと述べているが、これもある意味で間違っていないと思う。

実際のところ、実質的自衛権行使できなかったことには違いない。

 ・ミサイルを発射されながらもそれを撃墜できるのは日本駐在している二機の米軍潜水艦のみであること。

 ・敵国が領空侵犯をしても命令がなければ撃墜できない。引いては物理的に〝敵飛行機を押す〟という意味不明対処しかできない

これらの現行法脆弱さをどれだけ学者やSEALsは理解してるのだろうか?

http://trafficnews.jp/post/46566/3/

自衛権は認められているが、〝実質的に言って認められていない〟ことと一緒。

であるにも関わらず、古市氏が『日本自衛権って認められてるんだ…』という発言を〝知識がない〟〝教養が無い〟と評価する論調はいかがなものか。



佐藤氏の背景は〝法学政治






一方で佐藤氏にはマーケット感覚が無いといえる理由はここにある。つまり法律政治に関する学問を背景にしているところに問題がある。

この手の人間がやっかいなのは、やたらと知識や雑学は多く言葉言葉を返すのは上手いのだが、思考回路に多くの前提条件や知識条件が抜け落ちていることが多い。

言ってしまえばマリー・アントワネットタイプだ。




法学政治に強い人は〝市場の時価〟という観点が抜け落ちていることが問題






古市氏の発言法学政治に強い識者から叩かれやすいのは何故だろうか。

それは叩く者たちが〝歴史の変遷〟が、実は〝市場の変遷〟であること、をよく分かっていないからだ。

市場経済はより自然科学的だ。お金政治法律によって生まれたわけではない。自然に発生して、それが整備されて整えられた。実は人類進化の果てに手に入れた概念だ。

軍事力経済力のふたつは大国の力を現す両輪と考えられるが、実は歴史を手繰ると三番目の車輪があったことが分かる。その名も〝宗教〟。

そして現在過去も、急速に力を落としている車輪でもある。




歴史軍事力 ⇒ 経済力へと力が変遷している






鎌倉幕府の台頭に現れているように、歴史的に見ると既にこの頃から宗教の力は徐々に衰えを見せており、政治軍事力の二つが世界を動かしていたと言える。

表の世界での政治ほとんどが宗教と密接に関わっており、もっぱらここが市民政治の大きな接点であったと言える。

一方で軍事力実質的世界の掌握と統治を行う役割を担っていた。

少なくとも、日本においては明治維新サムライ不要となるまではそうだったのだ。

しか第一次世界大戦第二次世界大戦代表されるように、軍事政権は失敗を迎えた。

正しい仕方で行使されなかった軍事政権は、共産主義社会主義を生み出したからだ。

一方で米国のような市場経済を中心として発展した国は一定成功を収めた。士・農・工・商のうち、最後に勝ったのは商人というわけだ。



市場の時価〟と経済ルールを決める時代が到来しつつある。







マーケットは〝国の力が弱まりつつある〟ことを明らかにしつつある。既に鎌倉幕府時代から政府が持つ立法の力は軍事力経済力のどちらかを担保にしており、宗教アイドルでありスケープゴートであったに過ぎない。

そして過去〝政(まつりごと)=宗教〟が中心だった国家は、現在政治の中心を〝経済〟へと移している。

軍事政権実質的な掌握を行っていた政治は、現在では財界実質的な掌握を行う社会へと変化した。そしてそれは加速していく。

実際、国が提供する福祉よりも企業従業員提供する福祉の方が優れている場合が多い。しかマーケットに従った結果なので、相応の人材を兼ね備えており、無駄が無い。

パナマ文書にも代表されるように、国家の枠組みを超えた企業にとっては国境など存在しないも同然。

スターウォーズ通商連合のように、もはや国とは独立した別の政治形態と言って差し支えない。

戦後70年の間で形成されてきた常識などいくらでも覆る。今後の歴史は大転換を迎えると考えてまず間違いない。

その意味では、いまだに全時代的な歴史踏襲と繰り返し論議を重ねる、マーケット論の無き法学者政治学者が出る幕は実質的に言って存在しない。

宗教がその存在を弱めたように、政治もまた本質思想であり宗教であるから、その実質である軍事力経済力のいずれかに依存せざるを得ず、結果として時代に取り残される。

軍事力の台頭は世論が許さないだろうし、世界もそれを望んでいない。よって、これから重要になるのは、〝個人がどの市場経済所属しているかである


法学者政治学者歴史学者〟ではなく、必要なのは科学者〟と〝金融専門家〟であり、追うべきなのは経済史〟





世界を牽引してきたのは技術革新と金融だ。宗教を背景にした政治ストーリーを創り出す力があったが、現代ではその力は失われている。

闇雲に政治を追いかけても歴史を追いかけても真実は見えてこない。

必要なのは産業界歴史を追いかけること。経済史の発展と衰退の繰り返しの中に答えがある。

古市氏がどういう器なのかは知らないが、少なくとも歴史と現状を比較して将来を占う上で非常に恵まれ立場にいることは間違いない。

彼は川上の最新情報アクセスできることが可能で、新時代リテラシーも十分持っている。

法学者歴史学者も、企業の間接部門しかない。プロフィット部門ではない存在の者たちがとやかく言う論壇や議論意味はない。

その点は古市氏も同様だが、彼は自分立場弱者であることを自覚している分、市場に対する的確な論壇を展開できる下地がある。

叩かれるのがその証拠だ。叩いてる奴らのほとんどはマリアントワネットばかりなのだから、叩かれている姿を見てむしろ安心すべきだ。

2016-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20160521163144

React.js界隈の人に聞きたい

http://anond.hatelabo.jp/20160521163144

最近某所で、React使うとjQuery不要だ的なタイトル記事を書いちゃた気がするので一応反応しときます。長文ごめんね。

えーととりあえず、あのタイトルは実際のところ省略しすぎであり、もちろん本来は「場合によってはjQuery不要」「jQueryは要らないこともある」と長く書いた方が正確です(本文ではちゃんとReactが万能ではない説明をしてる)。でも多少釣りっぽいタイトルの方が読まれるようなので反省はしていない。

そもそも世の中にそんなにSPAがあるのか

世の中の絶対数は知りませんが、自分脳内ではもう「ページ遷移しない方がずっと楽に開発できてユーザ体験も向上するのに、敢えてそうしない理由がない」という至極単純な話なので、そこは悩むところではないです。ページを複数作り、<input type="hidden">とかセッション変数とか駆使する面倒ごとは、書かないでいいなら二度と書きたくない。

というか、ちゃんと書かれたSPAは使っていてSPAであることにそもそも気づかないので、「SPAから使いづらい」という主張はよく分かりません。GitHubTwitterサイトSPA的なことをしている故に使いづらいでしょうか。偶然タブを開いてたので調べたらそうだったから紹介しますが、例えばWebpackのドキュメントサイトは(Reactではないけど)SPAで、ブラウザMarkdownレンダリングしていますhttp://webpack.github.io/docs/ )。サーバサイドで動くスクリプトタスクゼロ個人的にはこういう使い方で十分嬉しいです。

何にせよReactのメリットが真に活きるのはある程度の規模以上だと思うので、小規模で導入してjQueryより短くならないことは普通にあります自分中の閾値としてはJSコードが数百行超えるならもうReact使う。

JSXを使うことに抵抗ないんですか?

んー、要するに「別物であるDartCoffeeScriptは許すけど、ES6で書く以上はES6外の独自構文を混ぜるのは許さん」という主張だと解釈したのですが、そういうことですか? 正直その主張を聞いたのは初めてです。歴史的JSXとES6は完全に独立して発明されました。最近になってBabelが両方同時に扱えるようになりましたし、Babelはまさにそういう拡張性を重視しているツールです。それは「ああ便利になったね」というだけの話であり、なぜ「ES6とJSXは混ぜるな危険」となるのかよく分かりません。現にこれが最も標準的で人気の組み合わせです。

JSXを使うことへの抵抗」ということなら、とにかく見た目にコレがキモいと感じる人が非常に多いのは事実です。現に、JSXより見た目がキモくないことを売りにしている仮想DOM実装一定の人気を博していたりします。でもそういうライブラリは「キモさ」軽減のために結局新たな構文やら独自コンパイラやらを編み出して柔軟性を犠牲にしていますJSXは「関数呼び出しのシンタックスシュガーJavaScriptに1個導入するだけで問題を概ね解決する」というシンプルかつ一番表現力の高い解決方法だと思います仮想DOM思想に逆らわない最も素直なやり方であり、将来長持ちする気がしています

はい所詮JSXシンタックスシュガーなので、使いたくないなら使わず本来関数スタイル仮想DOMを書いてReactを使ってもいいです。タイプ量が増えて若干見づらくなるだけなんで。

それと、JSXじゃなくてテンプレートでいいじゃん的に思っているようですが、テンプレート仮想DOMでもなければJavaScriptでもないので、速度や機能の面でReactがやっていることに遠く及ばないと思います

5年後のビジョンがありますか?

Reactはもう登場して3年経過して未だに勢いが増していますし、日常で困らないレベルコンポーネント集も揃っています。React-Bootstrapはいいぞ、心が豊かになる。そろそろ採用してもアーリーアダプターとも言えんでしょう。むしろ真に先端を見るのが好きな人に言わせりゃ、2015年なんて「Reactが淡々成熟していくのを見ているだけの、つまらない年だった」みたいな感じらしいですし。

Reactは現時点で既に3年に1回レベルのビッグウェーブであることは疑いようがなく、「これが10年に1回、つまりjQuery以来のビッグウェーブなのかどうか」については、そう信じている人と懐疑的な人がいる、という状況です。私はAngularもCoffeeScriptも「3年に1回」レベルに感じたのでスルーしましたが、Reactには「10年に1回」の方になりうる素質を感じています個人の感想です)。将来もっと凄いものが出るとしたって、それは「ベターjQuery」ではなくて「ベターReact」でしょう。通常は「3年に1回」レベルでも試したり仕事に使ったりして構わないと思いますが、10年に1回の技術でなければ使わない主義の方は、あと2~3年待てばよいと思います

保守性に関して言うと、Reactは典型的な「ひとつの事だけをとても上手くやる」系のライブラリです。考え方のコツさえ掴めば、記憶すべき要素はjQueryやAngularと比べても圧倒的に少なく、むしろそこらのテンプレートエンジンを覚える方が面倒なくらいです。10年後に見ても何をやっていたのか30分で思い出したいというのであれば、むしろAngularとかよりReactを採用すべきだと思います

2016-05-16

CoolとHotと変態

よく、歴史的Coolがカッコいい!の意味だった時代と、Hotがカッコいいの意味だった時代がある的な記事があるけれども、

なんであんなことになるのかのヒントが「変態」という言葉にある気がした。

変態」という言葉は、悪い意味言葉でなのに、それを肯定的意味で使うことで人々の耳目を集める効果があるということなのだと思う。

変態ガジェットみたいな使われ方。

Coolがカッコいい時代に、Hotをカッコいいの意味で使うことで注目を集める手法ということじゃないかな。

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