はてなキーワード: 原始仏教とは
こないだ、増田見てたら「私は悟った」みたいなことを言っていた人がいた。
単純に、非常に失礼だが、「馬鹿だな」と思った。
悪いけど、悟るなんてことはない。悟りを開くとか、生きて仏になるとか、そんな人はいない。
それは単に、仏教思想というか古代の仏教思想の説いたことを誤って理解してしまったがためにそんな解釈を生んでしまったのだろうと思っている。
根本的に誤っているのは、原始仏教が生まれた背景をものの見事にみんな無視するからである。
考え方がまるで逆で、当時の世間に流布していた思想からの脱却を、悟りを開いたとか、覚ったとか、多分そんな風に言ったのであろう。
要するに「輪廻転生」に象徴される、人は定まった運命の中でしか生きられないという、あの現代にも続くインドカースト的な考え方からの脱却に他ならなかっだ。
一切は空なりとは、つまり、輪廻転生であるとか、そんな迷妄な考え方・思想には実体などない、そういう意味なのである。
そんなの言ってたら、永久に人は苦しみから逃れられないと言っているようなものじゃないか、とゴータマは覚ったのである。これこそがほんとの悟り・覚りなのだ。
だから、釈迦牟尼世尊の超絶的な苦行の話が逸話として出てくるのである、そうした苦行には意味がないのである。
ところが、馬鹿で無知な民衆は、あの四苦、すなわち生老病死の「生」を「生きる苦しみ」と解釈してしまったのである。あるいは一切皆苦という言葉をこの世には苦しみしかない、などと全くの誤解をしてしまったのだ。
生老病死は、これは「死」は別なのである。これは四つではなく三つの苦しみ説く言葉であり、生・老・病の三つとも解決不能な苦しみのことを例としてあげたのである。
この言葉は、人は、生まれてはすぐ死に、病んではすぐ死に、老いてはすぐ死ぬ、ということを意味する。
考えてみたらわかる。原始仏教は今から2500年前の劣悪環境のインドで生じた思想である。人は生まれたら大半がすぐ死んだのである。乳児死亡率は今とは比較にならない。病んだって、その多くは治療方法すらなく死んでしまうし、老いたって病院や介護など期待できる世の中ではなかったのだ。
ブッダ達が言ったのは、古代インド思想の輪廻転生などのそれ以前の問題として、解決不能の苦しみ(生老病死)があるってみんな知ってるじゃないか、だったらせめて解決可能な苦しみをどうにか解決していこうではないか、というコロンブス的な発想の大転換だったのである。
このように考えれば、仏教はアホほど簡単なことしか言っていないことがわかる。
一切皆苦とは、修行者らに対するテーマのようなものである。現実の問題のみを解決していこうという超現実志向を表す言葉である。
一切皆空とは、この世には実体みたいな、どうにも出来ないものなどないと見よ、という極めて強い教えなのである。
諸行無常とは、輪廻転生みたいな、永久に変わらぬ事柄などない、という希望を与える言葉なのである。
諸法無我とは、神のような存在の意思に頼るのではなく、物事に対する法を見出し、その法に従って問題を解決していこうじゃないかという、当たり前のことなのである。
みんな世の中に出て、例えば大人は仕事という問題解決にあたっているはずであろう。
例え、どうにもならん問題があっても、ストレス発散くらいするはずだ。
少なくとも人権主義思想は、すべての人にとって平等な社会の実現の根本的思想になっている。
そして、私たちは、法律であったり、科学であれば法則であったり、マナーだったり、様々なルールだったり、あらゆる物事に対して法を実際に使っている。
つまり、とっくの昔に、仏教など不要の社会になってしまっているのだ。
私たちにとって、仏教は本当に単なる当たり前のことを言っていただけなのである、2500年も前に、だ。
だから、悟った・覚ったとか無意味なことを言っても何の意味もないのである。
原始仏教を学べばヒントは腐るほどある
一時期、小池龍之介和尚の本から原始仏教にハマって、ひたすら怒りのエネルギーをなくそうと瞑想やら何やらにふけっていた。
たしかにメンタルの調子はすこぶる良くなったのだが、どうも何をするにもやる気が起きなくなって困っていた。
次第に瞑想する気力すら起きず、いつのまにやら何ヶ月も瞑想をサボるようになっていた。
ふと先日、とてつもなく怒りを感じる出来事が起こった。しばらくぶりの感覚だった。
ただ、そのときはその怒りを直接対象に向けるのではなく、何か生産的な方向に向けてみようという気持ちになった。
非常にイライラしながら掃除洗濯、その他今までやろうとしてやっていなかった事柄を次から次に片付けていった。
その後、これまた久しぶりに爽快な感覚を覚えた。
そのとき何か悟ったような気がする。ああ、怒りのエネルギーは前向きに生きていくには必要不可欠だな、と。
確かに怒りの感情が薄らいでいけば、現実の辛さを受け止める力は強くなると思う。
一方で、やるべきことから目を背け、より問題をこじらせる方向に向いがちなのも事実だ。
悪く言えば、怒りの感情から距離を置くことは、人生から逃げることにも似ている。
小池和尚は怒りは良くないものだとおっしゃっていたけれども、自分自身としては、むしろ怒りと刃物は使いようだと感じる。
包丁だって凶器になれば人を悲しませるけど、料理に使えば他人を喜ばせることもできる。
生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。
世を苦行だと捉えるのが一般的な仏教の根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界からの脱出を意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすいエリート意識。
しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日を保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。
教義としてのオリジナリティは法然にあるのかもしれないが、親鸞は事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。
ここからは俺の独自の解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。
生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏に帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目でしかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。
結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。
ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗の門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。