はてなキーワード: 性に対する偏見とは
身近な女の子ともっと話してみてはいかがでしょう?挨拶や雑談からでも大丈夫です。姉でも母でも祖母でも、スーパーのおばちゃんでも構いません。女の全てがフェミニストではないですし、寧ろ攻撃的なフェミニストは女性全体の極々一部にすぎません。その事をきちんと理解して生きなければ、貴方の世界には貴方を含む男性を差別する女性しかいない、辛い世界となります。
フェミニストにも言える事ですが、異性に対する偏見をなくし、個人個人として付き合っていく事が大切ですよ^ ^
それを辞めて男vs女という世界に身を落とした時、貴方は既に攻撃的なフェミニストの術中にはまっていることとなってしまうのです。
こう書いておいて流石に苦しすぎるでしょ。アンチフェミがミソジニー拗らせてることは決して少なくないことは否定しないが、元増田の時点でその可能性を排除するために「この世に女性差別が蔓延していることは理解している」とアピールしたつもりだったが、足りなかったかな?
あなたはインターネットに向いていないようですね。フェミニストが嫌いなのに、フェミニストの言動をつい追ってしまうタイプではありませんか?インターネットで情報収集を続け、気に入らない言動に対していちいち感情的になるのは、心の健康を害します。一度Twitterのフォローを整理したり、5chを覗かないようにしたりする事をお勧めします。
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それを辞めて男vs女という世界に身を落とした時、貴方は既に攻撃的なフェミニストの術中にはまっていることとなってしまうのです。
シン・ゴジラを観た。
だが同時に庵野および日本映画の限界を示すドキュメンタリーのような映画でもあった。
この映画は、
復興ありき、
再建ありき、
日本にはまだ力がある、
立ち直れる、
そういう答えがもう先にある。
出来レースっぽい。
これは映画に限らず様々な場面で3.11の震災後なんども繰り返されていることだ。
力があるって主張をかたくなに、ほとんど反駁不可能なイデオロギーのように保持しているのは、
俺は出来る!って盲信しているやつは、強いんじゃなくて自分の弱さを直視できないだけだ。
もっとも、3.11以降繰り返されてるそうした自己欺瞞的な合唱に飲み込まれることは、まぁ仕方ない。
この作品を取り巻く精神的な状況からして、ほとんど不可抗力であるし、それだけで作品のすべてを否定するつもりはない。
しかし、せっかくゴジラほどの大怪物を召喚しておいて結果やっぱり俺らスゲーの大合唱かよ、と思わざるをえない。
俺らスゲーの出来レースはゴジラ以外の他のテーマでやってくれ、と言いたくなる。
ゴジラというキャラはもっともっと掘り下げるべきテーマを蓄えた宝庫なのであって、ゴジラをそんな自己欺瞞の物語のなかに埋もれさせて浪費してはいけないのだ。
新たな危機に直面すればこそそれに見合った国の体制を改めるよう反省を強いられ、
新たにテーマを掘り下げればこそそれに見合った映画の手法を発明するよう強いられる。
しかしそうした危機とテーマである当のゴジラが、ほとんど空虚な存在であるがゆえに(たしかにわずかだが神として語られ、放射能の脅威を連想させていても、しかしそれが物語の構造そのものに関わることはない)、
日本万歳のその国の概念そのものに反省を迫る映画にはなっていないし、その手法に関して言えば新たな手法の発明どころかエヴァンゲリオンとさして変わらない。
(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波は市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカは石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国〉アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)
シン・ゴジラはエヴァンゲリオンで庵野が確立した様々な設定を忠実に引き写している。そこには反省も発明も見つけられない。
もちろん何の変化もないわけではないが、
そうした変化が結局は日本の閉鎖的で差別的な視野に同一化する点、
自分に力があると信じたいがために他国と異性に対する偏見を利用する屈折した日本男性の視点に同一化する点は、
たとえばエヴァンゲリオンにはなくてシン・ゴジラには見られる新しい部分は、政治の前景化であるとともに、(それがつねに〈日本の〉政治である限りで)他国の政府との交渉だろう。
ここに石原さとみが登場するわけだが、彼女のキャラクターは、自信を回復したがる日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕している点で、やはりこの映画を保守的なものにしている。
石原さとみのチャラけた演技は真剣に事案に対処している他のキャラクターに比べかなり浮いて見えるが、
しかしあれは日本男性の閉鎖的で差別的な欲望からすると必然的な役柄になっているといえる。
演技がわざとらしいために良い演技とは言い難い、と思う観客もいるだろうが、しかしそういう演技も含めて必然的なキャラのあり方だと思う。
日本と米国の間に女性が入るというのは、日本からみて心理的な必然性をもっている。
日本と米国の関係はいわばスネ夫とジャイアンであって、ジャイアンのマッチョなところがあまりに出すぎると(たとえばジャイアンの力のみで事件を解決したり、その力がスネ夫である日本に向かったりすると)、日本を守る日本人男性たちのプライドや虚栄心が傷ついてしまう。
そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性が日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。
かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的な観点からでなく、あくまで日本人の側から見られた変人だ。
ここでは常識人と変人の対は、内部(日本人)と外部(外国人)という対と本質的に繋がっている。変人が変人であるのは、その者が外部から来た外国人であるからだ。
「〜アルヨー」とか「〜デース」とかいう言葉遣いのキャラが、日本人の側から見られた変な奴の象徴であるのと同じで、
彼女の奇妙な日本語は、他の日本人男性と観客とに米国でなく日本側からの観点を持たせ、その外部から来た変人として石原さとみを見させる。
視聴者たちが米国の目線から日本を弱小国として見る可能性が排除される。
このようなわけで、この映画は日本男性の精神性の問題をそのうちに含んでおり、その点ははっきりと批判されるべきであるが、
しかしその限界をはっきりと映画のなかで示しているという点においては、そうした限界の記録として、ドキュメントとして、歴史的な価値が大いにあると思われる。
これほどありありと、日本的および日本男性的想像力の限界を示した作品はなかなか見つからないのではないか。
あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機の流線型のフォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争の悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、
しかしそうした戦中日本の精神の限界性をはっきりと示していたという点においては、ドキュメントとして大いに価値をもっている。
したがっておそらく、この映画において賭けられているのは、シリアスとコミカルの関係性ということになろう。これはどういうことか。
さしあたりこれまでの論述で明らかになったことは、この映画は限界を証言するドキュメントとしては優秀であるが、それはいわば限界にはっきりと居座っているからであって、丁寧になぞっているからであって、限界を越えようとしているからではない、ということであった。
つまり、エヴァンゲリオンを踏襲し、ナショナルなものとジェンダーの領域において日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕するこの保守的な映画は、
限界を自ら反復し、演じている、ということであった。
日本の男性政治家が米国の女性とシリアスにセリフを交わす場面で、自身の力への欲望は満たされるだろう。
しかしまた、あることを反復し演じることは、つまりそれを真似することであり、その虚構性を示すことである。
そしてそれに応じて、批判されるべき部分は、評価されるべき部分ともなるのである。
したがって、このように問うことができるだろう。
限界を反復することは、限界に居座ることであると同時に、限界を茶化すことでもあるのではないか。つまり限界を批判することでもあるのではないか。
たとえばエヴァンゲリオンの設定を踏襲することは、新たな手法の発明の努力を放棄することであると同時に、反復しているその設定を茶化し、批判することでもあるのではないか。
そうであれば、シン・ゴジラへの正しい反応とは、それを積極的に笑うというものではないだろうか。
つまり、シン・ゴジラが何かを反復している限りでシン・ゴジラを笑い、またその反復によってシン・ゴジラが茶化しているものを笑う、と。
あの映画は、諸手を挙げて受け入れられているように見える。
“政府は保育士の給料アップをうたうが「実際は園長ら現場任せで、全員の給料に反映される保証はない” これ放置してるのがまず低脳 滅びる国ってのをリアルタイムに見てるんだな
マジョリティ様の気分を害する、表現は抑圧されるべき。マイノリティの表現は許可が必要。
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コメントが真っ赤になってるところを見てネトウヨ互助会ってあるんだなぁとしみじみするためのまとめです
“反対運動は起きやすい。しかし「賛成運動」は起きない。この非対称性が、少数派による反対というものが、実態よりも大きくなっていくメカニズムになるのです。”
松下幸之助か誰かが「不良率1%で威張るな!その1%に当たったお客様にとっては100%の不良率だ!」と発破かけたとか読んだ覚えがあるがこの記事見てそれ思い出した。ヒドい目に遭ってる当人にとって統計など無意味。
「自分たちは進んでいて、自分たちの満足いくように動かないものは遅れている」みたいなアングルを組む奴がヘイトを生むんだってはっきりわかんだね
deep_oneAV女優の人権を守りたいなら逆に公的な免許制にでもするべきだろう。
マイノリティは人殴る武器でも自己実現の道具でもねえんだよ……
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guldeen◆求職中/父は要介護3 @guldeen 2016-09-01 21:29:48
@VoQn 製作企業側からすれば、「じゃあテメーらでまず作ってみてから言えや、コラ」という心境にもなりますわね…>抗議団体。テーブルの前にドッカと座り、自分は何もせず「メシはまだか」「こんなマズい物を食わせるのか」と威張り散らす亭主の姿にも似て、『傲慢』としか表現できません。
ぼうくん🌐 @VoQn 2016-09-01 21:34:06
@guldeen 喩え話にそのまま乗るのも話がズレるのですが、「広告を見て『こんなモノを出す気なのかあの店は!!』『さっさと閉業して撤退しろ』っていきなりブチかましてくる NOT 顧客」の方が近いです(要求は仕様変更から廃業まで範囲あるけど、義憤で腹癒せが本当の目的かと)
d.e.e.p_one
「一方的な圧力によって」いや、批判も言論。言論の自由において一方的圧力とは「権力によるもの」を指すのが普通。なお、外国の権力はたぶん数に入らない。日本の外務省が言ってきたら抵触する。
ueshin
オネエで売るというのは、ホモのパロディを自らかぶって笑われる役割をひきうけるということなので、差別あってこその商売。笑われることで身近な存在に近づけるというアプローチかもしれないが。
hi_kmd 現代日本にアイヌ差別がないとかいう人がいるけど、アイヌの民族教育を受けられる環境もアイヌ語で教育を受ける場もほとんど奪った差別的な同化主義の結果を「平等」とかいうの頭おかしいからな。
zyzy そもそも偏見で見られたくない、というのであれば、異性に対する偏見垂れ流しまくってる現状のオタコンテンツ全部アウトなわけで。ダブスタだよね。その上事件被害者より加害者に寄り添おうとするこれでは……。 考え方
houjiT 俺の感じる痛みだけ取り上げろ病、みたいな……。もうちょいスマートな名付け方したいけど、そんな感じ。お前のいうのは俺は痛いと思わない、だから俺の周りの差別だけを解けと。信用は得ない話法だね
第二に、件の発言が性差別的である可能性をわかって(=元ツイートの趣旨が「差別的価値観に乗るな」である可能性をわかって)あえて「他の可能性」を強調しているなら、「批判相手の発言は最善の相で理解する」努力を放棄した不誠実な批判になっている点。
https://twitter.com/frroots/status/1036234554917306368
不誠実ポイント
個人的には、女性の雇用差別云々は、オマエラ理系の大学で見たことねーんだけど?ということで、
理系の職場に女子が4割というのは、まぁ、むしろ、理系男子にとっては待遇改善じゃね?
まぁ、女子に数学求めることになるけど。平等に。そして、数学できなきゃ平等に低評価だが。
それはさておき、1つの職場に定年まで、なんて、日本独自の価値観で、いい悪いは別にして、アメリカでは3-5年で転職するのが常識と化していると思うが
べつに、アメリカが日本に負けているなんてことはないと思うぞ。
ただ、男子だから6割とか女子だから4割 というのは まぁ、割合がどういう割合でも、性差別的な性差別者の考えることだな。平等に扱うべきだろう。
たまたま面接に来た女子のほうが優秀なら女子9割でもいいだろうし、男子のほうが優秀なら男子9割でもいいだろう。
面接に来た人間を上から、公平にとればいいだけであって、性にもとづいて割合を決めるのは、(男性にとっても、女性にとってもどちらにとっても)性にもとづく差別だ。
性のことは、心の深い部分に影響があるテーマだから、男性も女性もそれぞれの言い分があると思う。
多くの男性が一生のパートナーが、できれば処女だったらうれしかった という風に考えると思う。
そういう男性が多くいることを知らず、処女のまま結婚したことが長いことコンプレックスだった女性の私が
それならもっと、処女を大切にするような文化だったらなあという思いとともに過去を振り返ろうと思った。
本当に、いろいろ悩んでいるので、文章にまとまりはないと思います。
けっこうつらい思いをしたので、つらい想いとともに混乱しながら書いているので
文章が整っていないのはごめんなさい。
まず、処女でコンプレックスだったのは、20歳過ぎて処女はひどいブスだけ、ということをたくさんの男性から言われたこと。
それがコンプレックスだったので、私は、処女だったけど、一生懸命自分を磨いて、結局モデルをやれた。
水着の仕事もあったので、グラビアだったり水着のモデルをやってても、私みたいな処女の人だってそれなりにいるんじゃないかなっておもう。
ここまでかくとオッサン乙、ってことになるとおもうけど
女性は男性ほど性欲が強くないし、一生の相手じゃないと体を許したくないと思う人は多いと思う。
話を戻します。
サークルとか合コンとかでモテるのは、男性受けする女性ですね。
清純派でおしとやかだったり、美人で女の子らしい女性が受けますよね。
で、そういう女性は、女性が憧れる男性からもアプローチされるので
女性は、性欲は強くないけれど、恋愛はしたいと思うものだから、ほとんどの若い女性は彼氏がほしいと思うのが当たり前ですよね。
だから、清純派で、清らかに見えても、だからこそそういう女性は、極端に潔癖でなければ男女交際をするのが普通です。
清純派のおしとやか美女がすごくもてて、いつも彼氏が途切れなくて、
片思いしているイケメンとも付き合えているのを、仲間内では知っているわけです。
そのモテる女性が「清純で、ピュアで男になれていなそう」ということで、さらにモテます。
自分が片思いしたような素敵な男性と付き合って別れたにもかかわらず
何も知らない男性からも「ピュアそうだからかわいい」とモテることになります。
それで、結局は、合コンでも、その女の子が選ばれることになります。
これは、自分のコンプレックスとかバカさを暴露することになるので
もう、叩かれてもいいのですが
自分は、ぶりっ子だったり、清純だったりはしませんでした。キャラが清純ではありませんでした。
嫉妬とか言われても実際そうなので構いません。
私は、自分が好きだなあと思うような男性と複数つきあえているかわいい女性がうらやましかったし
先にも書いた通り、モデルをしたことがあるので、ブスではありません。
でもコミュニケーションは下手でした。
同性からは、「ぶりっ子するな、自分のことをかわいいと思ってうぬぼれるなブス」
そういうことで、女性受けする自分のキャラ、というのを作るのに必死で
道化を演じました。面白い、芸人みたいな、明るい、自分の彼氏を横取りしないようなさばさばした女、というキャラです。
私は、小学生中学生時代に女性から集団で嫌われた経験が強烈だったので
しかも、それが、自分の素のキャラだと思い込むようになっていきました。
で、合コンにいくと
「君は男慣れして遊びなれていそうな感じがするね」
と言われてしまい、男慣れした清純派で非処女の女性に負けてしまうわけです。
男性は、清純な女性が好きでしょう。男性経験が少なそうなおしとやかな女性が好きでしょう。
自分が片思いしていた男性と付き合った後に何人もの男性と付き合ったような女性と比べられて
「あの子のほうが清純で、君は遊びなれてる」
と言われてしまったことかな。
そして自分は処女なのに遊びなれている女性だと思われてしまう。
そういうのがなんだか、とても悲しかった。
自分が片思いした男性が選んでいたのは、非処女だけど清純な女性だった。
それに、誘ってくる男性は、セックスをしない女性だなんて古風でダサイし、ブスしかいないと
散々洗脳してきました。
処女を捨てろ、ダサいといってきたのはむしろ男性のほうでした。
今思うと、結婚ではなく遊び用の女性として、男性たちは誘っていたのでしょう。
しかし、大学生ぐらいだと、そういう男性ばかりではないですか。
今思うと、学生ぐらいだと、童貞を捨てたいだとか、彼女がほしいとか、遊びのためにセックスしたいとか
そういう男性ばかりだったのだと思う。
しかし、何も性知識のない女性は、ああ、性にはオープンなのが当たり前な時代なのかなあと思ってしまいます。
私は、学生生活を通して、
セックスに臆病でいるなんて性に対する偏見だから、早くセックスを知ったほうがいいと
男性からも女性からも言われてひどいコンプレックスを持つくらいでした。
今思うとそれに流されなくてよかったと思う。
処女を捨てなきゃとせかされる環境が、いまでも日本には普遍的に存在していると思います。
将来自分が結婚する女性が処女だとかどうだとかは、あまり考えずに
処女と結婚したいと思う男性が大半ならば、結婚する女性以外とはセックスをしないべきなのに。
極端に乱れた女性でなくても
メディアもそうですし、先述したように遊び目的で性欲を持て余している男性が
結婚なんてずっと先で、青春や若者としての充実が先にやってくるという社会構造だから
処女が減るわけです。
イケメンで、ハーバード大出身で、年収が3000万円くらいの、
姉なのですが。
姉も、まあ兄弟なので若いころはモデルみたいなバイトもしてましたし
それなりにリア充でした。
姉は、特にビッチとかヤリマンとか中古とか、処女厨の人が言うような女性ではありません。
義兄は、処女とかこだわらずに、人柄と容姿で選んだのだと思います。
義兄自身、恋愛経験が普通にあるので、性に対しての極端な汚いイメージがなかったのではないかと思います。
それは、けっきょく、性に対するコンプレックスや過度の執着ではないかとも思います。
夫が初めての人でしたが夫は普通にモテていましたから恋愛経験が私以外に5人くらいありました。
夫に処女をささげた直後は
こんな、セックスという、刺激の強い、おおきなことを
他の女性ともしたことがあるなんて と
とても悲しく思いました。
ということではなくて
やっぱり、セックスというのは、心身ともにとても刺激の強いものですから
だから、こんな深いことを、ほかの女性としたこともあったなんて、悲しすぎる、と思ったのです。
他のひとと、あんなことやこんなことをしたんだと悲しい思いをするのは
処女厨のひととまんま一緒でした。
しばらくたって、慣れてくると、性に対してすごくコンプレックスや偏見を持っていただけで
大切にしようというのがメインになって、過去なんてどうでもよくなりました。
童貞厨てのはすくないけど、私は相手が童貞だったらうれしいと思う。
男性のほうが性病の罹患率が高いわけだし、過去に女性関係があれている人はエイズじゃないか怖いなっていうのもあった。
いわゆる「童貞くさい男」っていうのが「キモオタっぽいさえない男」っていうイメージがあったりするからなのかと思う。
女を口説けない男、みたいな。
処女を続けてきた自分からすると処女っぽい女っていうのも同じくらい恥ずかしいことだった。
好きな男に選ばれない女、みたいな。
そして、処女からすると、相手の過去の性的な関係はとても悲しかったし気になった。
最初のうちは。
性のことについていろいろ悩んだ時期もあって
それでいま落ち込んでいるので、
お読みくださってありがとうございます。
えーwちょっと何言ってるのかわかんないですねwww
つうか「同レベル」の話をしていたのに、何で「違うよ。ぜんぜん違うよ」みたいな話にシフトしてんのwww
話が全然繋がってないしわかりづらいよwwwどこが「丁寧な説明」なのwww
まず、「『女なんて男に寄生してニートすることしか考えてないんだよ』とか言うキモオタ」という例が何に係ってるのか。
これは性的志向についてじゃなくて異性に対する偏見の持ち方に関しての記述なんだから、その点において「同レベル」だという例えなんでしょ?
それに関しては、「偏見かもね~」というレベルで自分は「ある意味同類」。これが結論ね。
当然ここまではオーケーだよね?
話はそういう事じゃないらしいけどw
君が言っている「ホモを見いだす行為」は、そもそもセクシャルマイノリティでない人間の性志向を勝手に規定した上で、勝手にカップルを作っている状態。
その人らが「セクシャルマイノリティでない」とは限らないんですよ。
早い話「バス停でいちゃいちゃはしゃいでいた見知らぬ男性二人」みたいな状況だとセクマイかどうかなんてわかるわけないでしょ。
自分がオカズにされるかどうかではなく、自分の意志と関係なくホモセクシャルであることにされた上に、自分の意志と関係なく恋愛関係であるとされている点が、全然違う。
巨乳Tシャツ女子は自分の意思と関係なくヘテロセクシャルであることにされて、自分の意志と関係なくオカズ扱いされてんですよー。
なにがちがうのかしらん。ああ、妄想の主である男がより主体的に被妄想側に関わってこれるところとかかな。
というわけで、やっぱり「同レベル」だし、違うところなんかないよね。
なのに、欲望したいくせにされるのはイヤだというのはどうかと思うんですけど。どうなんですか?
あとそれ仮に「全然違う」として、何か変わることあんの?