舛添問題が世間を賑わせている。気になったことがあったので、備忘録代わりに記しておきたい。
あまりにもこの事件は「ネタ消費」されすぎではないかと思う。僕が普段いる、いたって平和で脱政治的な(この時世脱政治的であるにはそれなりの努力を要するわけだが)場末のネットコミュニティの住人が一斉にネタ消費を始めたので驚いた。
むろんこれは単なる一例なので、ここから全体を語るつもりはないが、あまりにもネタ消費されているという傾向はないだろうか?
事件があまりにもしょーもないものだから、というのはある。安心してネタ消費できるのだ。
また、猪瀬の辞任劇の反復だから、というのもあるだろう。
あるいは、STAP騒動や野々村議員騒動、そして週刊文春が音頭をとったある種のネタ消費で蓄積されたノウハウが、ここで一気に活かされた、という見方もある。
とはいえ、このようなネタ消費は歴史的に掘っていけばいくらでもある、という意見もあるだろう。あまりにも現在を特権化する必要もあるまい。
また、これは所詮東京の出来事であり、多くの日本市民にとっては人ごと、という視点も考えられる。余談だが、最近ベタな「都会vs地方」という図式が盛り上がっているように感じられるのは気のせいだろうか?
原因と理由はこのように様々に探ることができる。とはいえ、とりあえずは僕があまりのネタ消費に驚いた、という話だ。だって、辞任劇はまあいいとして、その後の都知事選挙や五輪等はとてもシリアスな問題ではないか!
他方、ネットの様々なところを観測していると、保守リベラルを問わず、「正義の暴走」を憂う意見も目にした。
法的にはおそらく問題がないにも関わらずかようにまで正義が吹き上がってしまい、それが健全な批判として機能するならともかく、あれよあれよと辞任へと追い込まれてしまった。この正義の暴走っぷりは法治国家においてあり得ない事態である、と。
確かに、そう言われればそうだ、とも思う。
舛添問題をめぐっての、最初に述べた「ネタ消費」と、次に述べた「正義の暴走」は全く矛盾した現れに思えるかもしれない。しかしおそらく、それは両立するものなのだ。
この二つはコインの裏表をなしている、とまで言い切るつもりはないが、そんな光景をネットの片隅で認めた。ここに記録しておく。