はてなキーワード: 帰結とは
素晴らしい慧眼と分析、恐れ入りました。
自分PR、就活の時点で自分の売り込みがどれだけ下手で苦手かはよく思い知りました。自己評価が低すぎるとか以前に、自分を外に見せるのが性根のレベルで抵抗あるのでしょう。
気心が知れてない、正にその通り。請負の人は基本的に人当たりがよいこともあり、それなりに雑談はするものの以前に「話しかけるなオーラが出ている」「壁がある」といったことを言われたのでまあお察しの通り、対人関係の構築が極めて下手です。
プライベートな関係についても然り。そもそも私用携帯の番号を教える相手が一人としていません。私用携帯に掛かってくるのは投資マンションのセールスぐらいです。テレビも見ない、野球も知らない、タバコも吸わない、酒も飲めない、昼食は食べない(食べるとナルコレプシーの如く眠気に襲われる)、と自ら付き合いづらい立場にいるのだからまあ当然の帰結でした。
これまでは騙し騙し何とかやってきたつもりだったけど、働くっていうのは本来のところではない部分での磨り減りが一番辛いんだとやっとわかった。自分はただ、怒られないように、周りに迷惑を掛けないようにしたいだけだったけど、人間関係を改善しようと思ったらもはやそういう次元の話では無いのだね。
人は必ずバナナを選ぶ
食べる事、そこから象徴される「変化すること」や「動因を満たすこと」を選択する、そこに帰結する
石の平穏はつまり、クライン派やラカンが言う所のデストルドーの終点や涅槃原則の事を指すのだろう
人は死なない限り、完全には、不変にはならない
完璧なこととは、何も変わらないものとは、生きていないものに他ならない
偉いのは…、美しいのは…、死んだ彼らだけだっ!!
人が完全だった頃
それは全てが満ち足りて、自我の境界もなく、即ち自他の境界もなかった頃の世界である
幼児的な万能感の世界で、他の存在もない人類補完的な世界のことである
父の名によって全能性が否定され、去勢され、不完全な存在となる
生き続けることは、一人で生きていけないことも意味する
同じことの繰り返しになるが、父の名によって言語が出現するのは自明であるだろう
精神病を除いて
目立ちたいなら目立ってもいいけど、ちゃんとツッコませろよ、俺達のおもちゃになれよ。
互助会と呼ばれる奴らは、はっきり違う点がある。
はっきり言うとだな、実力のあるなしはあんまり関係ない。実力がない奴が目立つのは昔からよくある。
互助的行為をしてることとか、それによってブクマ汚染をしてることについてはそれほど問題じゃない。
この点で比較するなら、確かに古参のやつらだって互助会と言えるからな。
今日のシロクマなんて僕はおおきなおっぱいが苦手ですだけで100ブクマだぜ。記事の面白さはそんなに重要じゃないんだよ。
むしろつまらん記事でもブコメによって面白くなることがあるのがはてブのいいところだからな。
そういうのはいいんだよ。 もともとそこ問題にしてねえっつー。
みんな本当の問題をごまかしてるから、アスペの集まりであるはてなウォッチスレの人間がギャーギャー喚くことになる。
わざわざ出てきて突っ込みマチとしか思えない記事書いてるのに、なんでお前らツッコまれたらびっくりしたような顔をしたりあげく被害者面するのかという点。
これがどうにも気に入らんのだよね。
他の人かどうかはしらんけど、違法でもないんだから互助的行為するなとは言わんよ。
でもさ、目立つことすんなっていってるたくて目立ちたいことしてんだから、どういう反応がくるかくらいは考えろよ。
ツマラン記事書いたらつまらんってツッコまれるのくらいは覚悟して欲しいしさ。
間違ったこと言ってたら批判されるのは当たり前だしさ。
ついでにいうと、ホッテントリってのはブックマーカーのおもちゃになることと引き換えに注目を集めてくれるサービスだからな。
そのくらいわかってやってくれよってことなんだよ。
はてなのルール知らなかった。でもはてなのルールって自分の思ってたのと違う。おかしいとか
人を批判するのはよくない肯定し合おうよとか、そういう自分ルールを喚いたりとか。
そういうのほんといいですから。やめて。
お前らが体験したのは球技のルールも知らず、ろくに練習もしてないからヘボプレイしまくってたまたまその様子を大勢の人に見られて笑われてるだけだから。
はてながおかしいわけでもないし、お前らがおかしいわけでもなくて、実力がないおまえらが目立ったことの当然の帰結だから。
わかる?
古参のやつらだって互助会だろうがっていうやつはこれが全然分かってないわけな。
でも、いざホッテントリになったら好き勝手言われるのくらい覚悟しろって。
好き勝手言われたくなかったら、もっと記事の書き方工夫しろって。
そういう発想や努力ができないくせに、目立ちたい目立ちたい批判されたくないって幼児みたいなわがまま言ってるからバカにされるの。
フミコフミオも最近まではあんまり叩かれてなかったけどしっきーと揉めた時にあれこれ言い訳したからすごい株下がっただろ?
http://anond.hatelabo.jp/20160413011057
正のエネルギーとは必ず正しいエネルギーたりえるでしょうか。仮にそうだとしても絶賛派の持つエネルギーはそれにふさわしいものでしょうか。
恐らくその根拠としては何事も賛美することや推進することこそが正のエネルギーだという思想なのでしょうけれど、悪事や間違いを推進することは正のエネルギーと呼べるのでしょうか。悪事や間違いを批判することも負のエネルギーなのでしょうか。
そしていきなりそのような立場に立ってしまうと、議論する物事の善悪や正誤の考察をする前提をすっ飛ばしてしまっているように思われてしまいます。そしてそのような所に絶賛派ラブライバーが宗教的だとか、盲目的で妄信的だと呼ばれる所以があります。
また、そもそも私的な体験の話をすれば、アニメ1期の時点では自分もアニメの内容の嫌な部分に目をつぶりながら作品全体の動向をポジティブに応援しようとしていたのです。しかし2期以降、先述のように作品展開の裏切りと汚染が加速拡大していくのを目の当たりにし、目を覚まして絶望するしか無かったのです。
とありますが、肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。
アニメ版を叩くだけの負のエネルギーを注ぐのでなく、自分の好きな初期作品の素晴らしさをポジティブに語るべきでしょう。
自分の好きな作品を褒めるために他の作品を叩く行為は忌み嫌われることを増田もご存知のはず。増田が良いと思うものをポジティブに語る事で初期作品への注目も上がるのではないですか?
アニメ版を叩き貶める事で初期作品が注目されるのでしょうか?むしろその行為はラブライブ!作品群の全体を貶める行為となっている事実に気づいてほしいのです。
と、絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります。そこがアイドルヲタクというよりジャニーズヲタク的で、女々しく感じます。
また、批判への批判ですら批判であることや、何かを肯定する時には別の何かの否定を孕んでいることが多いことも留意しなければならないように思います。
恐らく全てを好みの問題で済ませられると考えているから脳天気に、表立って批判する奴が悪いと言えるのでしょうが、盗作問題などをはじめとした不可解な部分、問題があると指摘した部分を深く検討していただけないと原案派への本当の理解や同情は難しいと思います。
悪い所があったり、悪いことをしていたりしてもそれを批判することは悪いことだという考え方にはぞっとするものがあります。まるで盲目的な自分達を認めてほしいから目を覚ますようなことを言わないでくれと言っているかのようです。
ただ単につまらない、嫌いというだけで批判しないで済む状態であれば態々大きく批判しなくていいかもしれませんが、そのような甘く生温い状況ではないことを2期以降に強く痛感したのです。その内容の説明は既に先の記事でも今回の記事でもしていますが…。
それと、乱雑な感情や論理から導かれる暴力的な賛美や批判と、真摯な感情や論理から導かれる賛美&批判を一まとめにして考えることはナンセンスだと思います。
そのような指摘をみても、やはりアニメと劇場版のラブライブや2013年以降の作品プロジェクト全体は、積み重ねや面倒臭い決め事を破棄して、表面的で浅いつながりで結ばれた妥協と馴れ合いの間に合わせで叶えた物語が好きな人に支持された作品だったんだなと思えてきます。
好きだからこそより高みを目指したい、好きだからこそ勿体ない部分を指摘する、批判するという発想がないのでしょうか。ラブライブはもはや好きとはいいがたい作品に成り果てましたが、自分は好きな作品でも問題のある部分については批判します。好きだからこそ正直で誠実に向き合いたいからです。その点の行動をするかしないかについては好みで問題ないとは思いますが。
あえて単純化して例えれば、ピカソのキュビズムの絵画に対して『もう少し現実に合わせてもいいんじゃないか』と主張するくらいナンセンスな議論なのです。
この点は先述のレストランの例えで説明もしましたが前提のズレがあります。ラブライブの場合、写実画というには写実的から程遠く、キュビズムの方向に傾かせたというには写実的すぎるという半端な状態です。それがいいといえばそれまでですが、それが悪いといえばそれもそれまでです。
そしてそれらが地味で不規則な所を見ると、ただのミスなのではないかという気がしてなりません。また、ラブライブは芸術作品という意味ではキュビズムの絵画と同じでも一枚の絵でも一つの彫刻でもありません。ストーリー作品、キャラクター作品、物語なのです。さらにあのアニメ内でも『みんなで叶える「物語」』などと言ってしまっています。
つまり、ラブライブという作品がキャラクター性や物語性の描写の在り方について審議されるのは当然ですし、ましてやそれを無視してしまうだけでなく、無視して見る方が正しいかのように主張する態度は、作品評価をする上で致命的な怠りがあるように思います。
増田の観たかったものは、キャラクターの内面をリアルに掘り下げたドラマ。誤解を恐れずに言えば、スクールアイドル版のアイマスじゃないのでしょうか?
アイマスといっても色々ありますが、本家のアイマスやシンデレラガールズ(一応双方アニメのとしておきます)などはアニメのラブライブよりはともかく、物語性などについても、キャラクターが多すぎることや、原作で主人公であるプロデューサーの存在が軸となりすぎていることもあって内面の掘り下げについて理想には少し遠い面があります。またアイマスは原作がギャルゲー風の育成ゲームで芸能界の作品ですし、そのような物語性やキャラクター性などの部分への描写を前提する要素がラブライブより少ないことがその部分において許されやすい部分はあるかもしれません。
ただ、アイマスは声優などの外部のネタをキャラや作品に持ち込む二次創作的な風潮がラブライブより強く、そこが支持されてもいますがそこは自分にあまり馴染まない部分ですし、そこはラブライブには真似してほしくなかったのですが結果的に追従するように似たような道を歩んでいってしまった印象があります。
それでも、アイマスの原作はゲームであるという絶対的な軸があり、キャラクター的にもその区分けを比較的大事にしているので、ラブライブよりはファンの棲み分けがしやすくなっているように思います。
自分はラブライブを応援する以前にアイマスが好きだったのですが、アイマス2の騒動で距離をとるようになりました。あれも作品公式の運営への不信感を感じる騒動でしたけれど、その後アイマスは先述の区分けのおかげでなんとか致命的に沈み込むことはなく持ち直していったように感じています。また、当時のファンの多くが大きく問題視して糾弾したのも現状に対して盲目的で内容に興味があるのか疑問を抱いてしまうラブライバーの多くとは違う点でしたね。あまり高く評価するつもりはないのですが、結果的にはアイマスの場合はファンの意思がある程度「プロデューサー」として作用し反映されたおかげかもしれません。
対して、ラブライブに期待していた広い意味でのコンテンツの在り方は前回の記事http://anond.hatelabo.jp/20160330020728で言及した通りですが、そこでも述べた通り、ラブライブというプロジェクトはファンの意思や存在を「みんな」の中から排除したものだったという気がしてなりません。
京極監督と花田さんは物語性の軛からラブライブ!を解き放った。漫画や小説では表現できないアニメならではの特徴を最大限利用してアイドルを表現したのです。
アニメならではの特徴を利用したとしても、アニメでも表現できることを怠りすぎていたので批判されていることも考えていただきたいように思います。
物語性を「軛」と表現していますが、それは致命的な配慮の怠りで思い上がりですね。絶賛派は似たようなことを言うのである意味信頼できますが苦笑します。
別のとある絶賛派の人はキャラクター描写について批判する人をキャラクター至上主義はダメと批判したりしていますが、裏を返すと絶賛派は表現至上主義なわけです。
また、キャラクター性や物語性の描写の拙さを批判する人達は別にアニメの表現や演出のあり方を否定していません。
対して絶賛派はあの表現と演出さえあれば物語性やキャラクター性の描写は不要だ、ない方がいいくらに否定的に捉えているわけです。表現や演出をそれらの免罪符のように扱っているのですから。
しかし、先述の例えのようにシリーズアニメにおいて表現演出というのはキャラクターや物語性の拙さを打ち消す免罪符に足るものではありません。
まあメタ的に、「アイドルやアイドルファンというのは実はこんなに狂気的で下らないものだ」というのを、アニメ全体を使って表現したというのであれば、それはある種のテロリズム的芸術として評価できるかもしれません。
そういうものはオリジナル作品で勝手にやったのであればそういう作品性も面白い、有意義だと手放しでいえた可能性があったと思います。しかし、元々の作品の指針としてコンセプトが違う原案が存在する作品を預かりながらそれを行い、それらを生かしたとは到底言い難い状態にある作品となったので好き嫌いを超えた善悪の問題で批判しているのです。
超現実的であったり表現主義的であったりする要素を作品にあってはならない要素だとは思っていませんし、何度もいうようにそこを特別に批判しているわけではありません。
せっかくのシリーズアニメ作品で、物語形式だったのですからそのような最重要の部分を十分生かして欲しかったのです。
そして批判派の多くは勝手なミュージカルをするなとか急に踊り出すなとかいうのを言っているのではなく、そのような表現主義的な意図があるとは思えない単純な所でもただのミスではないかというような違和感を抱く描写があり、その点への指摘や批判すら絶賛派が、全ては芸術的な表現だからそれでいいんだというように無理矢理擁護してしまうためにうんざりしているのです。
仰っているような表現方法などに特化しただけのものでいいのならオリジナル作品や、またはそれこそ、PVだけ作っていてくれればよかったと思います。
それに対して「いやあの形のアニメだからいいんだ」と主張する場合の理由は、おそらく知名度が上がりやすく人気が出やすいからでしょう。
確かにラブライブというコンテンツは人気が出て欲しかったですし、知名度さえ上がれば元のままで高く評価されることが可能なポテンシャルは十二分にあったと感じていましたが、絶賛派が表現主義的に評価するアニメを、あの形でアニメ化しなければならなかったとする根拠を考えると、人気が出た作品のファンを名乗りたいという表面的な所に帰結していくように思います。
今となってはアニメ化せずに人気が出なくてもアニメPV付きシングルがもう何曲も出ていた方がただのファンとしてなら幸せだったなと感じます。
表現方法などが優れているとしても、前の記事でも言ったようにかつての作品の在り方とそれらの表現手法などは両立できたでしょうに、最初からしない道を選んだことを批判しているのです。
また、それがオリジナリティに溢れていたならまだしも、元々の原案に沿うことを拒絶しながら他の無関係の作品は平気で参考にして適当になぞらせるようにストーリーやキャラクター設定を(前回の記事で説明したような)稚拙な配慮の下に歪ませてしまったことが甚だしく受け入れがたい問題点なのです。
「日本映画が面白くない」のは、観客を育てなかった当然の帰結 - あざなえるなわのごとし
こういう義心溢れるジャンルファンを装ったオポチュニストがはてなに沸く度に吐き気を覚えるんですが、互助会云々以前にこういうのどうにかしたほうがいいですよね。
とはいえ。
俺だってあまり邦画を観るほうではない。比率で言えば海外映画10本に対して1本観てるか観てないかだと思う。その狭い視点でいえば、観るに値する邦画はやはり少ない。しかしそれがクオリティの問題だと断言するほど自分に自信はなく、単に受け手としての完成の欠如、文脈の欠落があるだけなのかもしれない。
ともかく、褒めるにしろけなすにしろ、漠然と言及するよりは対象を明確にしたほうがいくらか生産的だと思う。
そういうわけでここ二三年で面白かった新作実写邦画を十本ご紹介したい。アニメ? 2010年代最高のアニメ映画は『たまこラブストーリー』だって言わなくてもみんな知ってるだろうから別に? いいじゃん?
菅田将暉がバカかわいい弟役なのでバカかわいい弟ファン必見だ。
ここで挙げる映画としては適当ではないかもしれない。監督こそ日本人だが舞台も製作も韓国。才能ある映画人が「日本で映画を作らせてもらえない」と愚痴りながら海を渡って取り上げたクソジャップファック映画であるからだ。
とはいえ、白石晃士は『コワすぎ』シリーズでの評価の高まりもあってか、最近再び日本での仕事を、それも比較的(ハンバーガーからチーズバーガーになった程度の予算規模だが)大きな仕事を任されるようになった。良い子のみんな、『貞子 vs 伽椰子』絶対観てくれよな!!!
本作はいわゆるPOVモキュメンタリー・ホラーの一つの到達点。
『桐島、部活やめるってよ』で華々しい評価を受けた吉田大八監督の最新作。
前作で描いた思春期における漠然とした不安から一転、中年期の主婦の不安定な欲望を生々しく切り取る。
とにかく宮沢りえがエロい。相手役の池松壮亮は本作と『愛の渦』でセックス俳優キャラを確固たるものとし、最近では寺島しのぶや斎藤工なんかとラブシーンやらされてる。
綾瀬はるか・長澤まさみ・夏帆・広瀬すず、と今日本で最もアツい若手女優四人のアンサンブルがグルーヴィーな姉妹映画。
ずっと一緒に暮らしてきた上三人に、ある日とつぜん末っ子として加わることになった広瀬すず。
彼女たちの距離感と関係性、そして姉妹を取り巻く「海街」の日常が瑞々しい。是枝裕和しか、日本でしか撮りえない日本映画の最高峰。長澤まさみは直球エロくて、綾瀬はるかはにおわすエロさ。
一人で頑張って頑張って頑張ってるんだけどもうだめだよ〜
ってなってる自家中毒コミュ症は今すぐ観るべき映画。おばちゃんのがっかりおっぱいも要チェキ。
『冷たい熱帯魚』以来のエクストリームサイコジャップマスカー映画。
リリー・フランキーとピエール瀧が大量殺人鬼コンビとなって世の弱者をぶっこみまくる。
だんだんと憔悴していく記者役の山田孝之もいい味出してる。池脇千鶴は特に脱がない。
ウルトラ低予算で頑張って作ってちゃんとめちゃくちゃ面白くなった地獄コミュニーケーション映画。俳優の一人がこの前何かで逮捕されてましたね。
キョロ充の辛さや居心地の悪さが『桐島』以上のリアルさと俗悪さで浮き彫りにされている下衆の極みエンターテイメント。
「何か新しい映画を見たい」ならこれをオススメする。観てる間ずっと背中に悪寒を感じるけれども。
女子更衣室を盗撮したことがバレて地元の学校をクビになった教師が十年ぶりに故郷へ戻ってきた。
彼のビデオにたまたま今芸能人として活躍している元女生徒の百合セックスシーンが映っていたことから事態はあらぬ方向へと転がっていくノワールコメディ。
アニメじゃん? って? ちげえよ。こんなモブが背景でガチャガチャうごいてるアニメがあってたまるかよ。
岩井俊二はファッキンサブカルファシストどものキングであり、我々の永遠の敵でありますが、ナチスドイツがリーフェンシュタール『民族の祭典』を、アメリカの人種差別が『國民の創生』を生んだように、彼らもまた日本映画の傑作を生んでしまったのです。
世に出てすでに3年近くが経過しようとしているブラウザゲーム「艦隊これくしょん ~艦これ~」。
ここ最近は、ローソンやすき家とのコラボが行われたり、本家ブラウザ版ゲーム以外にもPS Vita版やアーケード版のゲームが発売あるいはロケーションテストが実施されたりと、その人気は未だ衰えを見せていないように思える。
しかしながらその一方で、Twitterや匿名掲示板などでは「艦これの人気はピークを過ぎた」という発言も見られ、首を傾げるような思いをした方は私以外にもいるのではないだろうか。
いわゆるアンチ層の発言ならばともかく、個人の区別が可能なTwitterなどで熱心なファンからもこのような声が聞かれることもあり、ファンの間でも何らかの認識の違いが生じているように思える。
例えば、新規参入層と古参層との間の単なる感覚的なずれなのか、それとも何らかの指標として数字に表れてくるものなのか。
そう思って艦これの人気動向を分析していったところ、艦これの人気はある種の「二極化」が進んでいることが判明した。
・主として艦これの版権を持つ版元が関わる公式関連(ゲーム、書籍など)
・主にファンが中心として活動する二次創作関連(pixivやニコニコ動画など)
の動向を分析する。
公式関連の動向を分析するにあたり、まずはブラウザゲーム本編を取り上げる。
猫予報官氏(https://twitter.com/nekoyohou)による「艦これ」登録者数の推移を表すグラフが公開されなくなって久しいが、現在の登録者数は2016年1月時点で約370万人程度となっている。
要所ごとに数字を取りだして見ると、
となっており、2014年~15年の平均月間増加数は約8.3万人/月、アニメ放映期間中の3ヶ月は倍の約16.6万人/月、その後から現在に至るまでは約7.7万人/月と、増加量はやや落ち着いたとはいえ、今なお新規登録者数は増加していることが確認された。
このペースを維持した場合、登録者数は2016年5月にも400万人を突破するものと見込まれる。
次に、DAU(Daily Active User:日間の総ユーザーログイン数)とMAU(Monthly ~:月間の総ユーザーログイン数)の検証に移る。
DAU、MAUともに運営公式からの発表は昨年以降発表されていないが、有志の検証結果(http://togetter.com/li/933974)を元に算出すると、MAUがおよそ35万~40万人/月と推定できる。(つまり、毎月40万人程度のユーザーが少なくとも1日は艦これで遊んでいる)
最盛期のMAUが100万人、DAUが50万人程度だったことに鑑みれば大分落ち着きを見せたともいえるが、絶対数として未だ40万人規模の人数が少なくとも月に1度はゲームにログインしている以上、ゲーム本編の人気はなお高いと言えるのではないかと考える。
また、このMAU:40万人という数字は、2015年に検証されたMAU:40万~45万人と比較しても大差なく、現状は新規参入と引退者の割合は拮抗してある種の平衡状態を保っているものと推測される。
一方でDAUの算出は困難であるが、ゲーム内イベントの開催頻度に大きな変化もないため、最盛期のMAU/DAU比と同一の比率を維持していると考えるならば、おおよそ18万人程度と予想できる。
しかしこれは算出根拠としてはあまりにも推測根拠に乏しく、この予想DAUは信用ある数字とは到底言えないことを記しておく。
延期に延期を重ね、2016年2月についに発売となったVita版「艦これ改」は、累計販売数が20万本を突破した。
Vita発売ソフトの平均販売数が2万程度であることから、当初経済アナリストに予想されていた50万本には届かないものの「艦これ改」はVita発売ソフトの中でも屈指のヒット作となったと言える。
○50万本台
・マインクラフト(約59万本)
○30万本台
・ゴッドイーター2(約35万本)
・ペルソナ4(約30万本)
○20万本台
・SAW -ホロウ・フラグメント-(約24万本)
となっており、DQやFFなどの息の長い人気シリーズにも次ぐレベルのヒットであったと言える。
2015年以降に発売した書籍について、POSの情報から推定累積販売数を掲載している情報サイト(http://book-rank.net/rank/rank.cgi?mode=find&word=%8A%CD%82%B1%82%EA&booktype=2)のデータを用いて検証する。
いくつかの書籍を取り上げてみると、
・ 9巻:40,650 (初週販売数:24,400 2015/03/14発売)
・10巻:34,300 (同18,150 06/15)
・11巻:37,150 (18,050 09/14)
・13巻:24,300 (10,050 2016/03/14)
・ 5巻:45,300 (29,000 2015/05/15)
・ 6巻:32,450 (22,800 10/15)
・ 7巻:24,300 (10,050 2016/03/14)
○艦々日和
・ 3巻:11,350 ( 6,250 2015/03/20)
・ 4巻: 8,150 ( 4,150 09/26)
・ 2巻:18,450 (10,250 2015/07/09)
となっており、初週販売数、累積販売数ともに下落傾向にあることが判明した。
(発行日が新しい書籍ほど累積販売数が少なくなるのは時間経過という観点から当然であるが、このような書籍は大体発売後2~3週が売り上げのピークとなる傾向にある)
2014年以前の情報をまとめているサイト(http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n338043)も確認したが、この傾向は当時からすでに緩やかに始まっていたことが分かる。
一般に巻が進むほど購入者は少なくなること、また艦これは書籍の種類が豊富で人気が分散しやすいことを考慮すればある程度の販売数下落は容易に想定されうることではあるが、果たしてそれだけに帰結できるかと問われると、大いに疑問の余地はある。
・ 4巻:33,050 (13,150 2015/08/07)
・ 5巻:29,500 (14,150 2014/12/27)
・ 6巻:26,350 (11,100 2016/01/27)
・ 6巻:28,850 (13,150 2015/08/07)
・ 7巻:22,220 (22,200 2016/3/25)
・ 1巻: 5,550 (5,550 2015/01/24)
・ 2巻:12,350 (6,250 2015/04/25)
・ 3巻: 8,450 (5,050 09/26)
・初陣:53,700 (15,000 2015/06/01)
となっており、現在の書籍販売数は東方シリーズやFateシリーズに近い数字となっていると言える。
その他、特筆すべき事項としては
・「ローソン」とのコラボにおいて、首都圏を中心にコラボグッズが配布期間の終了を待たずして配布上限に達した店舗が多数見られたこと
・「すき家」とのコラボにおいて、コラボ初日に20人程度の行列が形成される店舗があり、一部店舗ではメニューの一部が売り切れになったこと
・3周年記念オーケストラコンサートの一般発売分が、初日に完売したこと
などを挙げておく。
これらは定量的に扱うことは困難ではあるが、定性的に見てもなお客観的に検証可能であることから列挙した。
(その②に続く)
いや、金がないとか暇がないとかモテないとか、そういうことじゃなくて。
女子高生痴漢絵師とか、女子中学生監禁学生とか、ああいうイカれた犯罪者がたまに出現しちゃうのは防ぎようがないことだとは思うんだけど、連中を持て囃したりネタとして消費したり犯罪者を擁護したりするオタクがかなりの数出現してきていてつらい。もちろん一般人男性にもかなりそういう連中はいるだろうから、オタクだけ取り出してそう言われるのは心外だと言えるかもしれない。でもネット上で目立ってるのは、明らかにオタクの二次加害者だよね。二次元と三次元は関係ないとか、架空の児童より実在児童の人権をとか、そういう旗印がどんどん汚れていくのが見えるのがそれらを未だに掲げ続けようと思っている人間にとってはつらすぎる。
昔は楽しく観れていた小説やアニメや漫画を見直すとたまに地雷にぶち当たってつらい。『涼宮ハルヒの憂鬱』のどぎついセクハラは流石に読んでた当時でもドン引きできたけど、『A君(17)の戦争』や『桐原家の人々』といったコミカルな作品に充満するホモフォビア、女に家事労働を押し付け男が世界の危機と戦う『サマーウォーズ』、同性愛者の尊厳を高らかに謳いあげるその手で異性装者をオモチャにする『ささめきこと』、『銀河英雄伝説』のひどさはもはや説明するまでもないし(あれだけの未来で理念的には民主制のはずで女性も大勢従軍している設定の同盟で内閣にひとりかふたりしかいない女性政治家に男ばかりの軍首脳部に妻に家事をさせてのうのうとしている退役元帥サマ)、それになんといっても『おおきく振りかぶって』の女子マネと女性蔑視(特に花井梓くん! かなりひどいよ君!)と「部活動」という枠組みでの児童虐待と保護者の動員というロイヤルストレートフラッシュ感あふれる組み合わせ、これらが全部スルーされるか美談として話を盛り上げるネタになってるのがつらいし何よりめちゃくちゃおもしろくて今でも好きな作品なのがつらい。桐青戦とか何度見ても胸が熱くなる。つらい。
オタク社会に蔓延る差別の存在がつらい。「腐女子」にばかり「自重」が求められ男性向けはそんなルールを気にせずのびのびと楽しめているという非対称がつらい。同じオタク仲間のはずなのに腐女子を叩く男オタクの存在がつらい。男ばかりがメインキャラで出てきて色々絡む作品に向けられる同性愛者差別発言の数々と、何よりそういう作品をこれまでなんとなく避けてきて嫌悪感を持ってきた自分の中のホモフォビアに気づいてしまうのがつらい。女性蔑視発言を垂れ流すオタクが一定数いるのがつらい。オタクの中に根付いてしまった外国へのステレオタイプや差別感情がつらい。フルメタアナザーで「うるせえ便衣兵!」ってセリフが出てきたときは本当に残念だった。好きな作家さんのtwitterなんて知りたくなかったと思ったことは一度や二度ではない。男性同性愛者向けAVを「ネタ」として使って出演者の名前を出して遊びまくる文化がつらい。
差別ではないけど残念な言動をするオタクが多いのもつらい。政治傾向は人それぞれで、別に自民党支持者だろうが共産党支持者だろうが公明党支持者だろうがそこに文句を言う気はないけれど、敵対する陣営にレッテル張りをして大きな主語で批判して炎上芸してる人がオタクの代表面してることがあって見ていて残念すぎるし同じ口で“オタク差別”を糾弾してたりするのほんと勘弁してほしい。アニメの聖地巡礼が流行る以前からその周辺ではトップクラスの観光地だった場所をつかまえて俺らのおかげで繁栄してるんだぜ的なドヤ顔する連中がいるのがつらい。自分の好きな作品やジャンルを絶対視して他の作品やジャンルを無根拠に蔑視する人、自分のかつての姿と重なって色々な意味でつらい(筋道立てて作品どうしを比較することが悪いと言っているのではない、念のため)。やめろ。やめてくれ。「最近のファンタジー」を殴るために『十二国記』を持ち出すな。
でまあこれらを「最近つらい」とか言っちゃえるのも俺が「普通のヘテロ男性オタク」だからで、女性オタクとか男性でも性的あるいは民族的マイノリティに属するオタクとかはこういう理不尽にずっとずっと僕らが呑気にしてるあいだにも耐えていたんだろうなって思うとほんと自分の鈍感さがつらい。本気で怒っている人を見るまで「ラノベ」を小馬鹿にした感じで語ってもいいものだと思っていた自分の醜さがつらい。そしてなによりも、油断しているとここまで批判してきたような認識がぽろっと口をついて出そうになるし咄嗟に「どこが悪いの?」とか思っちゃいそうだし実際ちょっと思ったりしてる自分の感覚の麻痺っぷりが、一番つらい。
オタクであることは恥じるべきことじゃないし、オタクコンテンツは素晴らしい。でもオタクの一部は、オタクコンテンツの一部は明らかにクソだし、そのクソさは切り離してはいさようならできるものじゃなくてグラデーションになって存在していて、多くのオタクは多かれ少なかれそのクソさに染まってる。全身か指先だけかの違いはあれど。もちろんそれはオタクだけの責任じゃない。オタクは同時に社会に生きる人間でもあって、このクソな社会には既に性差別がインプットされている。けれど少なくとも、そのインプットされた性差別を増幅してきたのは、オタク自身の責任だよね。
自浄作用? オタクのあいだに序列なんてない。ネットでクソなオタクをブッ叩くことはできるけどそこに強制力はないし自浄作用は期待できない。そして、自浄作用がないなら、論理的な帰結として何らかの公的な強制力でもって規制されるほかなくなってしまう。ああそうか、やっと気づいた、腐女子のやってた意味不明で抑圧的な自主規制ルールってコミュニティ防衛のためだったんだな。アンチスパイラルから螺旋族を守ってた螺旋王だったんだな。それにやっと気づいたときにはもう遅くて、10万人の宮崎勤が地上に満ちてアンチスパイラルに色々蹂躙されることになるんだな。俺は嫌だ。犯罪者扱いされずにコミックLOを読みたい。別に俺は『ろりともだち』の内容を実現しようとも羨ましいことだとも思ってない。俺たちの欲望を放っておいてくれればそれでいいんだ。ああでもなんで、お前らはそんな規制を呼びこむようなことを言うんだい。
ネットなんて見ないで作品だけ見ていれば、このつらさも少しは減るかもしれない。でもネットで得られるものは大きい。新しいカップリングの可能性。作品を愛好しながらそれを冷徹な眼差しで批評する視座。楽しい同好の士との会話。まだ知らなかった作品情報。そしてなによりも、素晴らしい二次創作。どれもネットから得られる果実だ。それがないとオタクはやっていられない。けれど果実の横には常に、横たわるクソの山がある。
そういうものばっかり見てるからそういうものばっかり見えるんじゃないかって? 確かにその通りだ。見ないようにすれば見ないでいることもできただろうし、実際そうやって過ごしてる人もいる。でもここは地獄インターネット。見えてしまう。目に、入ってきてしまう。みんなどうやってやり過ごしてるんだ。教えてくれ。多分今一番求められているのはそのライフハックだ。俺がいくらつらくなったって世の中のクソさは変わらない。それともみんなこんなつらさを押し殺して日常ツイートしてるのか。ブコメ大喜利してるのか。にゃーんとか言ってるのか。
オタクじゃなければ、別にそれでもよかった。うわーオタクキモいなー、で済ませられるから。あいつらには関わらんどこ、ちゃんちゃん、でおしまい。何が悪いの? みんな「マスゴミ」や「ヤンキー」に対してはそうしてるじゃん! でも残念ながら、俺はオタクだ。オタクの不始末も、それによって落ちるオタクの評判も、他人事じゃない。それが根拠のない迫害ならまだよかった。俺たちは被害者だと、迫害してくる奴らは敵だ、いずれ革命を起こしてひっくり返してやると、そう思えたから。でも、性犯罪の擁護、差別、他者への攻撃、これって全部身から出た錆じゃないか。こんな状況で一方的な被害者面なんてできるわけない。俺はそんなことやってないのに。そう思う。でも一方で、自分のアイデンティティはそっち側に置かれてしまっていて、叩かれるのがたとえ自分の所為じゃなくても自分がやらかしたことのように思えてこたえるんだ。
一部のラディカルフェミニストがピルや緊急避妊薬を蛇蝎のように嫌う背景には、「生殖の為に、女は有害な行為を受容させられる」「その過程においてコンドーム装着を受け入れさせることは、男への、女による影なる支配力の行使である」という、「男」へのマウント意識があるのではないかと思う。彼らにとって、生殖は選択不可能な苦行であり、反面、男への影響力を駆使するための手段でもある。そこに、産むことも性を謳歌することも万人に与えられた権利である、という意識はない。
一方、リプロダクティブ・ヘルス・ライツの整備に反対する保守層は、女性が人生に対する主体的な選択を行うことを、「ふしだらである」として忌み嫌うかたちで、その権利を奪おうとする。しかし、性教育の不徹底と、不完全な避妊方法である"コンドーム教"の盲信は、避妊失敗の社会的責任を、男性のみに背負わせる。女を妊娠させたとき、男は責任を取らねばならない。育児・出産によって労働の機会を失う女たちを「養う」ことで、男たちは権力を得る。生殖を巡るパワーゲームを維持するという構図において、彼らの利害は一致する。結果として、リプロダクティブ・ヘルツ・ライツの話題そのものを忌避する社会が完成する。
リプロダクティブ・ヘルツ・ライツを巡る議論においてのみ、本来なら敵同士であるはずの彼らの利害が一致する。この構図は、彼らのプロレスじみた対立が、本質においては「同じ権力構造の内部でマウントを取り合っているに過ぎない」のだ、という事実の証明に他ならない。男性のありとあらゆる性の営みを監視し・支配するラディカル・フェミニズムの主張は、結果として、敗戦と高度成長によって闇に追い遣られた「影なる支配者」としての女の復権に等しい。そして、一部のミソジニーをルーツとする保守主義者は、女性の社会進出を嫌う。育児出産が女の手に占有された世界において、女が労働によって金銭的自由を得てしまえば、男たちはパワーゲームに勝てない。男の欲望を受け入れ癒し、子孫を増やし育む機械である女と、女によって欲望を充足され、労働し、財を得て、社会を富ませる機械である男。どちらが権力を握るべきか。彼らの諍いは、どこまで行っても、同じ地点に収束する。
日本における家制度は、男尊女卑の見掛けを取りながら、男を肯定し、てのひらで転がし、そして扱き使う「女たち」の、影なる支配によって成り立ってきた。そうして労働力と構成員を吸い上げてきたのが、それぞれの時代における「社会」だ。人は社会に帰属し、「世間」の強制力は空気のように蔓延する。保守的な男女観に固執する限り、彼らは、どこまで行っても、彼ら自身を苦しめる抑圧から逃れ得ない。その事実を、このところネットで頻発する「アンチ・フェミニズム」の趨勢は象徴しているように思う。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツへの問題提起は、女が生殖への主体性を手にするための運動だ。しかし、同時に、男が「自らの意思で」生殖、もっと言えば異性との利害を伴った関係性に踏み込んでゆくこ権利を得る活動でもある。二者間の合意によってパートナーシップを構築するとき、男は「働かなければ価値のない生き物」ではない。そして、純粋な利害関係に基づくパートナーシップが、男性による労働の社会的価値を損なうことはない。出産・育児と労働を天秤に掛けるとき、労働を選択する女性ばかりではないからだ。
一般に、「金のない男」が若い女と恋愛できないのは何故か。女が打算的だから、男に養われ、楽をしようと意図するから、ではない。現在の日本社会においては、生殖そのもののコストが女性側に一任され、経済的負担は男性の側に強く圧し掛かる。金のない男はその負担を負うことができない、と判断される。それは合理的帰結に過ぎない。
単独で家族を養うに十分な社会的資本を持たない彼らが、現代社会において異性と関係を結ぶためには、ハンデを飛び越えるに足る利害調整力と、自分の社会的な立場を見極める市場観察力、利害の一致する相手を見出し、交渉する主体性と行動力が必要となる。しかし、アンチフェミニズムを標榜する視点において弱者男性の問題が論じられるとき、男女関係における責任問題の現実的側面に目が向けられることはほとんどない。
彼らの世界に、「主体的に選択し、行動し、異性関係を構築する」という選択肢は存在しない。その選択肢を得た個人は、現代社会においてもはや弱者ではないからだ。保守的な男性の世界観においては、「男性としての名誉」も、トロフィーとしての女も、世間に従い、勤労し、地位を獲得することによって、主体なき「社会」によって宛がわれる。しかし、社会全体の資本が不足し、そして、かつて公共財であった女が人権を獲得してしまったこの時代、トロフィーを得るためには、生まれながらのステイタスと弛まぬ努力、そして大いなる運が必要となる。加えて、トロフィーを獲得しても、幸福になれるとは限らない。双方が主体的選択と責任意識を放棄して「規範」によってマウントを取り合う関係性、外的抑圧によって維持された家族関係において、性的抑圧は再生産され続ける。
セックスが「男女の問題」ではなく、「主体的な二者間の問題」であるとき、生殖に関与する両者は、二人の協力者である。
男性側のアクションとしての、コンドームに代表される避妊手段、女性側のアクションとしてのピルやIUDの使用、リスクヘッジとしての緊急避妊薬の存在、性病検査の徹底。生殖に参加する関係性の帰着を見据えた上で適切な手段を選択することで、初めて、両性にとっての「主体的な生殖の選択」は可能となる。この状況下においては、「全てのセックスはレイプである」という命題は否定される。その上で、生殖に前向きな人々が、意思以外の諸要因を理由に断念せざるを得ない状況を減らしてゆくこと、が、理想的な(あくまでも理想的な!)「少子化対策」と呼べる。このことは、シラク三原則が成果を挙げたことによって実証されている。
しかし、この「現実的側面に対して、現実的に議論する」こと、そのものが、世間の一部の人々には(蛇蝎のごとく!)忌避されている。フェミニストを名乗る、ミサンドリーに支配された「女たち」と、家社会、部族社会の論理に連なる男女関係を信望する保守主義者の人々、女によって自らの居場所と財産と名誉を奪われたと盲信する「男たち」。インターネットにおける緊急避妊薬を巡る議論への反応から見て取れる。彼らはひとの良心や想像力をも支配したがるのと並行して、パートナーシップを構築する二者が対話し、尊重し合うことを志向するというごくごく当たり前の幸福を、社会の構成員から取り上げるべきだ、と主張する。生殖の主体的選択が一般化したとき、救われるのは"望まぬ妊娠をさせられた女性たち""中絶を強制される女性たち"だけではない。男らしさ規範による、自尊心の欠損や経済的な搾取に苦しむ男性もまた救われることになるというのに、である。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツを巡る議論は忌避され、遠ざけられる。問題提起を行えば、「フェミニスト」からも「保守主義者」からも袋叩きにされる。この風潮は、そのまま、日本におけるフェミニズム・リベラリズムの歪みの象徴であるように思われるのである。
正直言うと、感情的には私も校長の意見には賛同できてないから反論するのが心苦しいんだけど、個人的にはやっぱり今回の発言で免職に追い込まれるのは処罰が重すぎると思う。
「少子化は社会の問題で、個人に帰結させるべき話ではない」ってのは全くもって正論。
ただ、この国の教育のあり方として「お国のために滅私奉公しなさいよ」と教えることが罰に値することかというと、残念ながらそれは違う。
最初の投稿でもチラッと触れたけど、学習指導要領には個人よりも社会を優先させるような(ある意味においては個人の権利を制限することを是とするような)教育方針が実際に散見できる。
この校長の発言はある意味で現在の日本のマジョリティたちの意見を分かりやすくまとめたものであって、オブラートに隠されていた主張を明けっ広げに表現したに過ぎない。
「お国のために女性は我慢して子供を産んでくれ」という主張は個人的には賛同できるものではないが、処罰に値するほど「世の常識」から外れているとも思えない。
校長の思想が如何に誤っているとしても、それがこれまで是とされてきた主張であるならば、今回だけそれを処罰の対象にするのは公正ではない。私はそう思う。
この件についても「正すべきは社会の方であり、校長個人に帰結させるべき話ではない」のではないだろうか。
///
私は自分をリバタリアンだと自認しているので、感情的には今回の校長の発言には相当頭にきている。
http://www.dotafire.com/dota-2/forum/help/how-to-last-hit-like-a-pro-430
hresvelgr
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Quote | PM | +Rep by Leech » April 13, 2012 2:38pm | Report
spam the "S" key and right click the target you want to last hit at the same time,
Sキーとラストヒットを取りたい敵への右クリック連打を同時にする
release the "S" key when it's time to last hit and keep right clicking
ラストヒットのタイミングでSの連打を止め、引き続き右クリックを連打し続ける
cause sometimes if you don't your character may accidentally choose a new target.
そうしないとたまに偶然別の敵へ攻撃してしまうことがあるからだ。
※
条件節
if you don't (keep right clicking),
帰結節
将棋なんかの定跡では、「この指し方は、別の指し方に取って代わっられたのだけど、最近またこっちの指し方にもどった。」みたいなのが結構多い。
で、ふと思ったんだけど。世の常識ってのもこれあるんじゃないかと。
リア充的な行動が俺は嫌いなんだけど、彼らの行動の一部分は実は一周回って正しいと思うこともある。たとえばリア充の軽薄な歌とかも、実は哲学的な現代的な帰結と一致してたりすることもあったり。
で、こういうのがナゼ成立するのか。
それは、「完全に否定できるものは、そもそも成立しにくい」からだと思う。
たとえば、物理的な計算の上ではおかしい事象でも、実際の現実で成立してしまったら、それは理論のほうがおかしかったりと言うことだ。
物理なんかは、定量判断(数字の上での説明)と、定性判断(実際上そうなるだろっていう当然性から導く判断)の差に近いかもしれない。
たとえば、子孫を残すってことを考えるとネガティブで自殺率高そうな奴とかより、多少頭悪くても明るい奴のほうが現実のイザって時に動きやすいとか。あるいは、一定数論理厨が増えるとリア充が生まれる遺伝的な配慮がされてるとか。その当たりを女性が敏感に感じ取って、リア充と子供を作りたいと思うから、リア充的な人間がコピーされまくってる現状ああるとか。
人間が作った水槽でサカナが生きられるかどうかは不明だが、自然界をそのまま切り取って水槽に移せばサカナが生きられるのは明白なように。
アレだな、自然は屈服することで支配できる、みたいな言葉あったろ確か物理には。
リア充にはムカツクんだけど。最近は、そういうムカツキを『諦める』ことがブサメン低身長である俺の人生には求められている課題だと思う。
絶対に許せないような屈辱であっても、『自分は死んで生まれ変わったと思うなりして諦められる』ってのが理論厨の課題かなって。
そうやって諦められることによって、世の中丸く収まった分が、『利益』になるんじゃないか。
そういう諦めようとしても絶対諦められないようなことが、なぜか諦められる、その非自然な態度を持つことで初めて理論厨は理論厨たれるんじゃないか。
ギャンブルでアツくならないのは不可能なのに、それを可能にする投資の技術や理論体系があるから、ギャンブルの勝ち組は勝ち組になれてる。その態度は生理的な限界を超えているため、根本からメンタルを作らないと勝てるギャンブラーにはなれない。そういうのに似ている。
ギャンブルを楽しんでいては、勝てない。ギャンブルが苦痛な作業ゲーになるほど技術を確立してメンタルをフラットにしないと、ギャンブルは勝てない。
俺は、リア充みたいに人生を楽しめないが、楽しめないくらいじゃないと、俺くらいのブサメン低身長は人生+-0にもならない。
リア充からしたら、なんの不満も無いことでも、俺はイラつく。そういう理屈だから。
でも、一周回ってリア充が正しいかもしれないから、完全に理屈で咎められない内には、俺は諦めるしかない。
諦める能力が無いと、強く生きられない、将棋でいうなら、勝てない。
そこを諦める能力ってのは、人間の生理を超えてる。理屈で言えば絶対許せない。
許せないが、そこを諦められる能力が俺には求められてる。
そういう諦めを持てる知識体系や自分の社会的な立場や資産などが俺には求められている。
あっという間だった。
新卒で入社した大手SIインテグレータ子会社で、技術の無いSEとしてどうにかこうにか12年働いた。
技術は無いというよりは、まじめに身につけず逃げてサボった帰結。てめえが悪い。
幸いクビにはされなかったため、長くいた職場で培ったノウハウをもとに惰性で働いてきた、だけ。
目の上のたんこぶ・老害として会社に寄生する以外の選択肢は見えなかった。
目標無く上京して19年が過ぎ、家業が畳まれる(俺が継がなかった)タイミングで、帰郷した。
親の手伝いをして、切りがよいところで労働再開できんもんかな、と。
あわよくば、ネットで稼いだりできんもだろか、と。
ぼんやりと考えていた。
休みたかったのもあるし、たまりにたまった本を読んだり、買ったまま観てないDVDだのゲームだのを消化したかった。
政治やら法律やら歴史やら経済やら、社会と対峙したときに不足している知識を補充し、己の意見も固めたかった。
資格も取りたくなった。
が、まあ、何一つ、かたちにならないよね。
働いてたって、できる人はできる。
もともとできないものが、突如としてできるようにはならんのだよ。
目から鱗が落ちたり、雷に打たれたように衝撃を受けたり、いろんなものごとがつながっていったり・・・しないんだよ。
逃げずに生きろよ、お前。終わっちゃうよ?
この疑問はおそらく、「なぜ俺は三流の職場で働いているのか」という問いに帰結するだろう。
即ち、プログラマ女は平均的にプログラマ男より能力が上であり、彼女らは一流の職場で働いているということだ。
女を買いかぶるわけではないが、プログラマになろう言う女はまともじゃない。
中高生だった頃を思い出して欲しい。
(そもそも俺は中学・高校時代に女と話したことがほとんど無いからよく知らないが。)
男だったらクラスに2人か3人くらいいただろう。
そんなプログラマ女たちはその能力をいかんなく発揮できる一流の職場で働いているため、
フロントエンドは何なんだろう。やたらと女が多いよね。
なんかこの話年3回くらい誰かが言ってる気がする。
「私服」とは「私用の服」という意味で、「仕事用ではない」という反意語としての意味だ。
では「仕事用の服」とは何か。これは、日本では「制服」になるだろう。
uniはラテン語のunum(1)に由来し、「ひとつ」であることを示す。概念的には「まとまっている」に近い。
formは整っている、外形、枠などを意味するので、Uniformとは、つまり「外見を揃えている」という意味だ。
軍隊のほぼ設立時期から制服による「外見を揃え、見た目で判別できるようにしている」ことには意味がある。
中身の人間が入れ替わっても、組織内での立ち位置が明確になり、指揮命令系統が混乱しないからだ。
同様に、一般的に「制服」は、「その組織の人間である」ことを内外に示す。
「制服」とは、「人間を中身ではなく、服装によって規定し、組織を円滑に運営する為に強制する」ものだ。
「私服」とは、「外見によって立ち位置を明確にすることを強制されない服」という事になる。
エンジニアならば、言葉は様々だが、「型システム(Type system)」を理解している。
静的型付け(Static Typing)や動的型付け(Dynamic Typing)など、プログラムが円滑に動くために、取り扱いの単位に「型」をつける。
警察官の制服を着ていれば警察官として扱い、駅員の制服を着ていれば駅員として扱う。
さて、「制服」が、いわば人間の型宣言であるという説明をしたが、では「私服」とはどんな宣言になるだろうか。
「ダサいかどうか」を判別するブラックボックスがあり、そこに「私服」を入れて「ダサい」「ダサくない」の返答があれば十分だ。
それはUniformであり「規定された私服」はすでに「制服」だからだ。
常に「ダサくない私服」と判定されるのが「普通の服を普通に着た服」とするならば、それは「制服」ということになる。
それは暗黙的な宣言であり、私服ではなく「私服と呼ぶ、暗黙的に宣言した制服」となる。
さて、以上で「私服」と「制服」と「普通の私服と呼ぶ、制服」の話をした。
すると、エンジニアの私服がダサいのは、以下の理由から自明となる。
「私服」を着るのに、「普通の私服と呼ぶ、制服」を着るのは、論理的に矛盾する。
上の記事を書いた。
学生から好かれるまでは確率の話だったが、好かれた後にどう対処するか(要するに交際に応じるかどうか。)は倫理に属する話。
大学教員として20年以上過ごしてきて、学生と交際に至った例を見聞きした経験は相当少ない。
この手の秘密は完全に隠し通せるものではなく、ウワサとしてはあっという間に広まる。特に、口さがない大学生・専門学校生のコミュニティでは。
ただ、そういった話は、大学上層部が介入しない限り、ウワサのまま終わる。
そのようなウワサは毎年耳にはするが、学生×教員の接触総数から言えば、相当少ないと感じている。
自分の話をしてもたいした傍証にはならないが、大学教員を始めて以来、数十名から告白を受けつつ、結局、誰とも付き合うには至らなかった。
お泊まりセットをバッグに詰めた大塚愛似の女の子が、週末の夜、研究室までやってきて、今日は先生の家に泊まりたいです、という趣旨のことを言い出したときも、受け流して、自宅までのタクシーに乗せた。
大塚愛(当時19歳)にはわずかに心揺れたが、親へのアリバイ作りを友人たちに頼んでいたと後日聞いて冷や汗をかいた。もし泊めていれば、翌日には学科全員の知るところとなったろう。
一般女性から告白されて数十名を振ることはまずないので、上記の例でも分かるように、学生に手を出すことにはやはり特別の抑制が働くようだ。
にもかかわらず、ウワサは広まる。本人たちはバレないよう振る舞うが、「忍れど色に出にけり」は止められない。
ここは自分の経験論なので、根拠レスの与太話になって申し訳ないが、同僚教員たちや学生たちは見てないようで見ており、まあそうなのだ。
別に犯罪ではないし、教員が独り身であれば不法行為でもない。「自由恋愛」の一言で不問に付される大学もあるやに聞く。
学生とつきあう先生は、何割かの同僚から眉をひそめられつつ、学内政治がうまいか研究業績が抜群であれば安泰だし、そうでなければ程よいタイミングで外に出されるだけのことだ。
神戸の女子大学で20歳下の教え子さんと結婚に至った内田なにがし先生はきちんと愛を貫かれ、職もまっとうされたのだと思うし、ひとときの熱病から覚めた学生にポイされて職場も家庭も失った先生もいるだろう。
しかし、いずれも「自由恋愛」の帰結ですと言われれば、そんなものかなと言えなくもない。
もっとも、10歳も20歳も年の離れた男性が、同世代の男子学生が及ばないであろう経済力(と女性あしらいの経験値)を背景に、先週告白してきただけの女子学生に手を出すなんて事象は自由恋愛なのだろうか、チート恋愛なんじゃないの、という疑問もなくはないのだが、当職はそのようなトラブルを処理する立場にないので、この疑問はしばらくのそのままとしておきたい。
http://anond.hatelabo.jp/20160125135604
いろいろあった。
廃仏毀釈はいろいろ言われているが、理由の一つに明治政府が戸籍管理を寺社から奪いたかったいうのがある。
これと王政復古を背景とした天皇の権威向上もあって、神仏分離令から国家神道の成立となる。
国家神道は大日本帝国の実質的な国教だったわけだが、建前として、神道は宗教ではない、ということにされた。
これまたいろいろな理由があるのだが、外国との通商条約を改正するにあたり、キリスト教の排斥をしていると交渉の場に立つことすらできなかったとかがある。
初詣などが宗教行事ではなく、日本の慣習・習俗であるなどの論法はこのころに広まった。
GHQにより国家神道は解体された。昭和天皇の人間宣言が象徴的やね。教育勅語も墨塗りされた。
ただでさえ、宗教行事が単なる慣習に過ぎないとされていたうえで、宗教的な教義は完全に破壊された。
地縁から切り離された人間の拠り所として、本来なら宗教に大事な役割があったはずなのだが、前述のとおり破壊されてなにもない。
こういう拠り所を求める人間を鴨として新興宗教が猛威を振るったわけで。そうかそうか。
あらゆる宗教的な儀式は、外装だけを奪われて、商業的なマーケティング材料になっている。
心の拠り所を求める人は、多いが、それを宗教に求めることは少ない。
他の生物を食べて生きたい、自分の居場所が欲しい、配偶者が欲しい、お金が欲しい、認められたい…等々。とにかく生きるために必ず備わっている欲求だ。この闘争欲求はもちろん人によって小さかったり大きかったりするだろう。大きい人間は上手く活用すれば大企業の社長になったり研究者や開発者として医者や政治家として活躍できるだろう。いかに優れているかを競い合うということは効率化や新たなる発展性を秘める魔法の行為だ。戦時下におけるコンピュータの発達など科学技術発展の背景には知る欲求だけではなくこの闘争欲求も大きく関与してきた。
しかし闘争欲求が大きいにも関わらずその昇華の仕方を知らずに大人になってしまった場合は最悪の不幸が訪れる。他者との優位性を競い合ったとしても感情のベクトルを最適化できなければわけのわからないデモに参加したり、様々な倫理性や論理性を見失い体と時間だけを浪費してしまうことになる。冷静になれ、怒りに身を任せるな。言葉にすれば極めて簡単に聞こえてしまうが、闘争欲求というじゃじゃ馬を乗りこなすにはクレバーになることが極めて重要でかつ困難なことである。
冷静になるということはどういうことか?それは第三者視点を(完全ではないにしてもできる範囲において)獲得することである。ここでいう第三者視点とはタロウさんハナコさんマスダさんのマスダさんのことではない。全てを俯瞰的に見つめる神の視点である。もちろん全てを見通す神の視点などどこにも存在しない。必ず未来には不測の事態がどこかに待ち構えている。現実には神の視点だと信じている第三者視点までしか形成されることはない。しかし2者間の対立構造においてこの第三者視点の精度こそが最も重要な勝敗を決する要素であり、また勝敗が決着した後でさえも重要な要素である。知るということは何よりも重要であり、知ることによって考えることができる。相手の意図や思惑を計算することができれば相手の好きさせることはないし、自分にとって一番効率の良い結果が出せる未来も思い描くことができる。しかし感情に任せての行動には目指す方向やそれを実現するために行われる手法が相手から丸わかりであり、わざわざ第三者視点を形成せずとも相手の意図や情報を一人称からでも考えることができる。正面から突撃しかしてこない騎兵が相手なら毎回弓で応戦したらいいだけだ。感情に任せての行動は戦う前から負けることが約束されている。闘争欲求が感情に任せて利用されると不利益しか生じないことは明らかだ。
闘争欲求が感情に任せて活用される場合、その当事者には成功者や人格者と大きく異なる部分がある。それは着地点が設定されていないということだ。もしくは非常にあやふやなものとして設定されている。何かと対決したり競う以上は勝敗という結果が産まれるが、その結果を正確に予測することはすなわち過程の予測も行われる。望むべき結果を生み出すためには計算をしなければならず計算は第三者視点を作成したうえで冷静でなければできない。具体的な着地点を設定しないということはつまりは過程である行動や手法が本当に実現させるために取るべき最適な答えなのかどうかを問われていないということだ。何が間違っていて何をするべきなのか、それを見極めることができない状態で活動している。このような行為を続けても決して冷静な敵対者に勝つことはできないが、不適当な闘争者はそれさえ気づかずにひた走り続け、決して満たされることのない闘争欲求はさらに活動し、狂い始める。同じような狂信者たちが集まればさらなる大きな狂いの渦を形成していく。数こそ力とは言うが、数が力になるときは同じ方向を向いた瞬間だけである。統率のない集まりがそれぞれ違う方向を向いていても何も動かすことはできない。
闘争欲求は何かを成就させるために不可欠な欲求であるにも関わらず、その昇華のさせ方を知らない者たちは現実と剥離した世界に逃げ込んだり、狂った人間やはた迷惑な団体へと変貌していく。彼らの本質そのものが高度な戦略化した社会における被害者であり弱者ではあるのがが、社会へもたらす不利益もその数だけ存在し、また是正する個人も組織も無いためどのような時代においても反知性主義団体を確認することができる。
かといって感情が必ずしも有害であるかというとそうではない。全ての行動原理は等しく感情という源泉に帰結する。我思うからこそ我あり。第一人称の持つ感情を原発としてそれを慰め、褒め称えるために理性によって実現可能な道を切り開いていくことが一番人間的であり好ましい形であろう。また感情を分解していくことで論理的にも自分個人の感情の形成パターンを分析化することもできる。なぜ怒ったのか?なぜ喜んだのか?それを自分に問うことでさらに自分の感情と欲求の求める結果を洗練させることができる。
感情的なことは悪いことではない。問題は見つめないこと、知らないこと、考えないことだ。感情的な人間でありたいのなら鏡で自分の顔を見るように、感情を理性で見つめるべきである。己を知りより深く自分の感情を愛するべきである。さもなくば感情を愛することもなく理性的ですらなく自分の意志で動いていると勘違いしてしまう感情だけの操り人形になってしまうだろう。1+1を計算できるのは感情だから?アイスクリーム屋でお金を出せばアイスを食べれるのは感情のおかげだろうか?理性がどれだけ感情を守っているかを見直すべきだ。
今でこそ英国在住であるが、30歳の頃は外国人と英語で話すなんてことは到底考えられなかったおっさんである。
非アクティビズム「英語って出来ないんじゃなくて単にビビってるだけと思うのだけど」
http://daisuke-tsuchiya.hatenablog.com/entry/scary-learning-English
日本人が英語ができない理由を勇気や積極性の欠如に求める話は昔からよく目にするが、私は精神論だけでは解決しないと思う。勇気の欠如を否定しているわけではなく、勇気が出ないことには理由があり、そこを解決せずに精神論に帰結させても、一部の人以外はうまくいかないと思うのである。
古い話でしかも英語の話でもなく恐縮だが、むかし「要は勇気がないんでしょ」というエントリがはてな村で大反響を読んだ。
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080316/1205641886
アクティブなAが、彼女ができない非アクティブなBに説教する話である。Bは本当は彼女を作りたいのにいいと思ったコに思い切って声をかけることができない、いろいろ自分に言い訳して傷つくのが怖いだけで要は勇気がないんでしょ。ダセェ、とそんな説教である。読ませる素晴らしい文章だと思うが、これも精神論である。Bが草食系だが爽やか青年で、本当に積極性だけでうまくいく可能性も確かにあり、エントリにおけるBはそのエントリの筆者なのでおそらくそのケースであったのだろう。しかし多くの現実はこうだ。Aはイケメンなので女と話をするのが得意であり好きである。女性側も少なくとも悪い気はしない。Bは残念だがブサメンでキモメンなので今のまま変な積極性を出してもうまくいかない。痛い奴、気持ち悪い奴と評判を立てられ、最悪コミュニティーにいられなくなる可能性もある。
想像してみれば簡単に分かると思う。明らかにそういうタイプでない男が、何に影響されたのか、変に積極性を出して女性にどんどん声をかけているその姿を。痛いよね。男も女もお互いにツライよね。勇気がどうという精神論だけの話ではないのだ。簡単に想像できる話であり、だからこそ多くの彼女なしは積極性が出ないのである。もちろん積極性「だけ」で好転する例も否定しない。そういう例もあるだろう。しかしながら多くの彼女なしは、根本原因(の中で変えられる部分)にアプローチしないと、精神論で積極性を出せといっても多くは出ないし、無理矢理出してもツライ結果になる。女性に声をかけても嫌がられない、おかしくない程度のおしゃれと会話、要するに最低限の「雰囲気」を身につける努力を、勇気を出すことと両輪でする必要があるだろう。
何故上の例を挙げたかというと、多くの日本人が勇気と積極性だけ出して外国人に話しかけにいっても、それは長続きしないと思うからだ。ナンパや告白よりずっとハードルが低いのでどんどん試して欲しいが、多くの人は続かない。何故か。ここが大事だ。「多くの日本人は単語を並べて意思表示はできるが、それに対する相手の返答が聞き取れないから会話にならない」からだ。
俗に「日本人は過剰に間違いを気にするから英語が話せない」と言われる。まったく納得できない。会話で間違いを気にするレベルに達している人がどれだけいる?多くの人は間違いを気にするレベルではなく、会話が成立するかを気にしているのだ。
冒頭のエントリはこう言っている。
>既に日本人て話すためのスキルって持ってるんです。少なくとも日常会話レベルであれば。結構多いのが「言ってることわかるけど、どう返したらわからない。」ってヤツです。
私はむしろ逆だと思う。どちらかひとつと言われたら、聞き取れないことこそが問題だ。「パードゥン?」で1度はよい。2度聞き返してもなお分からない。どうする?打つ手なしである。ジ・エンドである。気まずい雰囲気だけ残して会話は終了。必要なことを聞くだけならできるよ。駅はどっちですか。指してもらえばいいし、最悪筆談だっていい。でもそれは一方的に必要なことを聞いているだけで会話とは言わない。
英語圏に旅行に行く人、入国管理官の言っていること聞き取れますか?スーパーでは?マクドナルドでは?使われているのは全部知っている単語だ。でも。聞き取れない。話すほうは勇気でなんとかなっても聞くほうは勇気ではなんともならないのだ。
あなたは会社のパーティーに出ました。フィリピンの子会社から日本にはじめてきたマネージャーが出席していますが、日本語ができないので端で寂しそうにしています。最近英語を勉強し始めたあなたはビビらず話かけました。
あなた「マイネイムイズタローヤマダ。ナイストゥーミーチュー」
カルロ「ハイヤマダサン、アイムカルロ。ナイストゥーミーチュートゥー。ハウアーユドゥーイング?ハウズエブリシンゴーイン」
あなた「(?エブリシンゴーイン?何だ?良く分からん。。。)サンキュー。サンキュー。」
カルロ「(??)(気を取り直して)ディヂューXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
あなた「パ、パードゥン?」
カルロ「ディヂュースペンXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXリデーXXXXXXXXXXXXXXXXX?」
カルロ「(イライラしながら)ディド ユー スペンド XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX?」
カルロ「・・・・。」
こんな感じになると思う。日本人は単語を知っていても発音をカタカナでイメージしているので、実際にはかけ離れている発音に慣れないと聞き取れないことが非常に多い。ネイティブほどゆっくりしゃべることは苦手だし、本人はゆっくりしゃべっているつもりでもゆっくりなのは最初の3単語くらいである。何度聞き返しても聞き取れない。一度目のパードゥン?はいい。2度目は相当厳しい。そして2度目でも聞き取れなかったら会話は終わりである。このきまずいツライ会話を多くこなしていくことだけでは英語は上達しない。100回もこなせば上達すると思うがそれまでに嫌になってしまうだけだし、機会も限られている。
繰り返す。話すほうは勇気でなんとかなっても聞くほうは勇気ではなんともならないのだ。
必要なのはもう少しリスニングスキルを高めること。本当の初歩、本当に簡単な会話でよいので、ネイティブの日常会話の発音を理解できるトレーニングをすることが大事なのだと思う。それは英会話学校でもいいがとにかく料金が高いので、スカイプ英会話がよいだろう。だが(上のカルロと違って)ゆっくり何度でも話してくれるフィリピンの人の講師でもハードルが高く続かない人も多いだろう。アプリやゲームなんかでよい。一文の英語をきちんと聞き取って書けるまで20回でも50回でも聞き返すことが大事で、ゆえに聞き返しの使い勝手がよいことが何より大事だ。CD音源などだとこの聞き返しが難しい。
この最初のリスクニングの壁を越えること、挨拶のバリュエーションと挨拶に続く幾つかの典型的な会話、趣味とか休暇はどこに行ったのかとか(多くの外国人は休暇のすごし方の話が大好きだ)、スポーツは何をやるのかなどを聞き取ることが多くの日本人にはできず、だから日本人は日常会話レベルの英会話もできない。多くの人にとって勇気だけでは解決しない問題となっているのだ。
すごくどうしようもないんだけど、本当に毎日ゲロ吐きそうなほどつらいから書く。
自分は30代に入ったアラサーの男で、本当にしがなく生きてきて、普通に働いてて、普通に友達がいて、たぶんそんなに駄目な人生は歩んでいない。
年収は多くはないが、まー平均よりはちょっと上くらいで、順調に役職ついている。
今、彼女はいないし、たまに枕にうっぷして「彼女ほしいいいいいよぉぉおふえぇぇぇえ」と叫びたくなることはあるが、
そうはいっても普通に毎日が楽しい。いやまあ、ゲロは吐きそうになるんだけど。
それなりの進学校から偏差値高い大学いって、普通にサークル入って、モテたいとか思って外見を磨いたりして、
それなりに男女交際して、会社入って、で、「結婚適齢期」ってやつにみごとに足をツッコんだ。
というかもう30超えてて、アラフォーが目の前に見えてくるから「結婚適齢期」はぶっちゃけすぎてる。
女の方がやり玉にはあがるけど、男もまー「どうなの?」ってしょっちゅう聞かれるようになる年齢だよな。
自分自身の結婚願望は大きくなくて、というのもたぶん「子供が欲しい」と思ったことが一度もないからだ。
別に子供嫌いではない。Facebookに流れてくる他人の子供へのヘイトを募らせることもないし、
姉の子供(姪)のことも「天使だ!」ってかわいがれる。めっちゃ貢いでる。
だが、子供が欲しいと思ったことがない。
なんなら「子供すごい好きで早く子供欲しいし結婚したい」っていう彼女のその言葉に気持ち悪さとプレッシャーを感じて
「無理だ!」と別れたこともある。若かったのもあるが。
「結婚」に重さを感じたわけではなくて無邪気な「子供が欲しい」という願望に気持ち悪さを感じた。
彼女に限らず、普通に「子供欲しい」っていう男にも女にも一定の気持ち悪さというか、異星人感をうける。
まじで「なんで?」って気持ちになる。
もちろん、厳密に言えば「出産」と「結婚」がイコールじゃないことなんてわかってる。
シングルでも子供を産んで育てることはできるけど、今の日本の法制度の中ではあえてそうするメリットもないし、
風当りが強いのは確かだから、まぁほぼ同義ということで話を進める。
個人的にはシングルどうのとか関係なく、本当に腹の底から「ほしいいいいいいい」って願って収入のある(もしくは親に頼れる)人は
男女共にそれを選べばいいと思うし、そこに「片親かわいそす」とかいう奴は地獄に堕ちろとは思う。
(まぁ女性がシングルになるのと、男が産んでもらってシングルやるハードル全然ちがうが)
話がそれた。
で、だ。俺が吐きそうになるのは、そうやって「結婚そんな興味ないな」と思っているのに
明確に「子供がほしい」とか「結婚したい」って願望があるわけでもないのに、
「結婚しなきゃ」ってプレッシャーに押しつぶされそうになる瞬間がめちゃくちゃある。
「他人の目線を気にするな」と言われても、なんというかこちらが気にしてなくても「うっとおしい」と思うことを言ってくる人は
めっちゃいるし、実際「既婚じゃない」という理由の面倒な押し付けみたいな圧力もある。
姉が結婚してるから、あたりまえに両親も俺に「結婚はー?」と聞かれる。
不細工でデブで非モテで彼女いなくて結婚できなかったら「やっぱり(とりあえず痩せろpgr)」
仕事ばっかりしていて社畜やってたら「やっぱり(仕事ばっかの男はびみょー)」
イケメンでちゃんとしててそこそこ市場ニーズがありそうなのに結婚できなければ「やっぱり(中身に問題が)」
ありとあらゆる論理で殴られる。
本当にうっとおしい。
なんでこんなに「結婚」だけでできそこない扱いされなきゃいけないのだろうか?
別に望んでない、といったらそれで済む話ではないのか?と厨二心が全開になる。
これだけならまだ外部圧だけの話だが。
「結婚してないとまともじゃない人」というレッテルのつらさもそうなんだけど。
ぶっちゃけ「こいつでも結婚できたのに」と誰かを見てしまうことがあって自分の汚さに辟易する。
同級生でももう結婚してるは当たり前だし、子供もいるが、正直「なぜこいつが?」とか、ある。
それこそイジメやったことがあるのとかもいるし、お顔立ちが残念な奴もいる。
その人たちは賢く、うまく、相手とゴールしたのかもしれないし、
すごく愛し愛されて結婚したのかもしれないし、
俺のようにめんどくさい拗れがなく、普通にレールが「結婚」を通過したのかもしれない。
でもなんでこの人たちできて俺はできないんだろう。
俺なにかしたっけ?とか。
あれ理想高かったっけ?とか。
別にステータス「既婚」を手に入れるための結婚とか本末店頭だし意味なくね?って頭ではわかってて、
でも「積極的未婚」なわけでもないし、
「既婚」ステータス手に入れられないとずっと外部に殴られるんだよなっていう想像たやすい未来を思うと暗澹たる気持ちになる。
別に付き合わないでもセックスはできるんだけど、いまさらそんな性欲をぶちまけるパッションはないし、
ただただ「かわいいねー」って言うだけならペット飼うだけでいいし。
世の中の婚活本とか、セオリー本とか、全部まるっと含めて「結婚したいなら行動しろ」って言われるし、
いやそんなことは知ってますよって思うし、別に婚活自体が嫌なわけではないし、彼女いらねぇとか、
嫁いらねぇとか、結婚墓場だからいやだとか思ってるわけでもないんだけど。
「結婚したいから結婚する」っていう強固な信念を持てないからどうしても「人ベース」になってしまうんだけど、
じゃあ「合う」人と、無事「ゴール」決められるようになるまでこの精神摩耗が続くのかよって思うとこれまた地獄で、
なんかつらくてつらくてつらくて吐きそうになるし、もう勢い余ってこの世から消えたくなったりする。
いいとしこいたオッサンがなにしてんだ…って自己嫌悪も振ってきて結構どん底だ。
多かれ少なかれの人がきっともってる感情だと思うんだけど、上手くいった人の話きいたって意味ないし、
もはや俺には祈るしか道が残されていないのでは!?という飛躍思想に帰結していくのだけども、
ここでまたフリダシに戻るのが「そんな結婚したいんだっけ?」「なんのために?」ってことなんだよね。
ごめんゴールも結論もないんだ。
とにかくこの出口のないメビウスの輪の中に囚われていて、吐き出さないと自分の吐しゃ物にまみれて死にそうだから書いてみた。
願う事は「結婚してもしなくても別に普通」な世界だけど、そんな世界がそんなくるとは思えないし、
その世界がくることを願うくらいなら「とりあえず」結婚してバツつけるほうが簡単なんではないかとも思うから
神様助けて下さいって神頼みしながら沈むこととする。
なんかもうとりあえずペット可のマンション購入して、かわいい動物と暮らすのが俺にとって一番いい生活なのかなー。とか思ったりはする。
夫婦同姓の強制が合憲だという、にわかに信じられないような最高裁判決が出ました。
「夫婦同姓」という制度は、江戸時代の武家文化が、とりわけ明治期以降に広められたものであり、古来の文化ではありません。氏は職業の家柄を表しているわけで、武士ならば武家の氏、商家ならば屋号、職人も師弟で名を世襲し、農家はその土地を表していたものです。江戸時代は、公的には氏を名乗ることは武士の特権でしたが、既に姓の通称が一般的には広まっていたようだと思われます。
江戸時代の段階でも武家の特権に憧れる人々は多かったでしょうが、明治維新で「四民平等」が施行されたのを機に、皆が「武家並み」を目指したものであることは想像に容易いでしょう。
江戸時代の政治、社会統制は、武家一般の信仰である儒教に基づいて行われてきました。儒教では、男尊女卑ですし、年長者を敬えだとか、先祖を尊べだとか、そういった「道徳」があります。こうした儒教の教義も、江戸時代以降には社会に浸透させられ、それが未だに「日本文化」だと信じこまれてしまっています。
氏は職業柄を表しているものです。ですから、現代の、「夫婦共働き」や、職業のいわば個人主義化の時代にあっては、夫婦同姓の強制というのは江戸時代からの儒教信仰の帰結でしかなく、合理性を欠いています。また言うまでもなく、「信仰の自由」に反しています。日本の、いわゆる「ガラパゴス」「鎖国」、閉じ籠り根性の表れだといえましょう。
「女性の活躍」などと誰かさんが言っていますけれど、まったくもって口ばっかりで、言行不一致ですよね。これからはとくに、労働者の実人口の減少を少しでも抑える必要があるはずなのに、結婚や妊娠や出産といったできごとのたびに就労から疎外されるような社会慣行が根強いのが現実です。
「日本古来の文化」と声高に叫ぶ人がいるようですが、そのほとんどは信仰です。しかも江戸時代以降の、ながくて数百年程度のものでしかありません。誇りが無いから、こうしたプロパガンダ、信仰にすがるのでしょうね。到底目覚めそうにないようですから、私は哀しいし、絶望的です。
形式的には「妻の姓にも合わせられる」といっても、それは養子婿のような形態に合わせた制度です。実際にはほとんどの事例で、夫の姓に合わせられています。
氏名というのは根源的なアイデンティティですが、そのアイデンティティを奪うということが未だに正当化されているわけです。そして、奪う側に「差別している」「加害している」という自覚が無いことがほとんどですし、さらには奪われる側にまで喜んで差別される人がいるというのも残念ながら事実です。
「選択的夫婦別姓」という案は極めて light な案です。「奪いたくない」「奪われたくない」という意思のある人だけが改姓を避けるのですから。