はてなキーワード: デストルドーとは
ぉれだ。 喜助だ。
でしゅわ。
かの有名な心理学の祖、ジークムント・フロイトは、人間には2つの欲望があるとしたんですな。
f:id:ryusukegotyou555:20200503105033p:image
簡単に言うと、生きたいっ!てのがリビドー!死にたいっ!てのがデストルドーです。
また、エチチチ!な事をしたいってのも自分のコピーを増やしたいという生物としての「生への欲求」な訳でありまして、またこれもリビドーと言える訳であります。
広義では恋もまたリビドーかもしれませぬな。
まぁこれは皆様馴染み深いでしょう。エチチチ!はともかく、恋に憧れたり、自分の子供が欲しいと思ふのは、人間として当然であります。
皆さん、死にたいという欲求はありませんでしたか?これ迄の人生で。
また、にっくきあいつをブチゴロカシでやりたいと思ったことは?ものを破壊したいと思ったことはないですかな?
あー、アイツが憎い!殺してやりたい!
こういった欲求も広義では「死への欲求」つまりデストルドーですな。
人間誰しも死にたいとか他人を攻撃したいと思うのはまた当然ですな。生きとし生けるものですから。
これも馴染み深いのではないですかな?
つまり私が言いたいのは、
人間は建前がありますから、生きたいな!と思うこともあれば、内心「死にてぇ・・・!!」と思うこともまた普遍的にあるということです。
要は「生への欲求」と「死への欲求」が釣り合っていれば、それでいいのです。
人間は釣り合いの生き物なんで「生への欲求」が満たされれば「死への欲求」も当然でてきます。
仲睦まじい恋人でも別れる時が来るように、可愛い我が子も鬱陶しく思える時があるように。
この10年は何とか生きてこれた
荒れた貧しい家庭環境で父は単身赴任し母と兄に罵られながら育った
友人なんて誰もいなかった
まともに読み書きもできない
テストは全て0点に近かった
空も街もどこまでも広がる灰色だった
まるでディストピアだった
うちには軽自動車すらもない
僕はこの深淵の暗黒に耐えられそうにない
ピンクフロイドやニックドレイクやジョイディビジョンやバウハウスやキュアやスミスを聴いて育った思い出しかない
もう終わりだ
こんな人生耐えられない
まともに就職もできない
灰色の街 灰色の空 灰色の服を着た人々 この光景をみると厭世的な気持ちになる
天の川銀河ごとでも構わない
もうこんな世界嫌だ
人は必ずバナナを選ぶ
食べる事、そこから象徴される「変化すること」や「動因を満たすこと」を選択する、そこに帰結する
石の平穏はつまり、クライン派やラカンが言う所のデストルドーの終点や涅槃原則の事を指すのだろう
人は死なない限り、完全には、不変にはならない
完璧なこととは、何も変わらないものとは、生きていないものに他ならない
偉いのは…、美しいのは…、死んだ彼らだけだっ!!
人が完全だった頃
それは全てが満ち足りて、自我の境界もなく、即ち自他の境界もなかった頃の世界である
幼児的な万能感の世界で、他の存在もない人類補完的な世界のことである
父の名によって全能性が否定され、去勢され、不完全な存在となる
生き続けることは、一人で生きていけないことも意味する
同じことの繰り返しになるが、父の名によって言語が出現するのは自明であるだろう
精神病を除いて
エヴァQを今更観て考察を色々読みふけっていたのだけれども、新用語の定義をうんうん唸って考察しているページばかりで、作品のテーマというか結局庵野はこれで何が言いたいわけ?というところを誰も言及していないので自分で書く。
※追記(2016/4/25):はてな内外からたくさんの反響を頂いて驚いた。投稿後、考えが変わったところもある(特に震災の影響を見逃していたこと、ヴィレの分離の意味について)のだけれど、もう一度全部見直して加筆修正する時間が取れない。近いうちに頑張りたい(ここ見てる人も少ないだろうが)。
新劇場版のテーマを考察するにあたって、まず旧世紀版のテーマを確認しておきたい。
結論から言えば、旧世紀版の中心テーマは(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしまう人間の悪辣さ、(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ、(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全、(4)馬鹿は死ななきゃ治らない、の4つである。以下詳述する。
旧世紀版において明かされる最大の謎と言えば、使徒とヒトとがほとんど同じ存在であるということである。そのことはミサトの台詞から良く分かる。
「私たち人間はね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。ヒトの形を捨てた人類なの。」
そして第24話において登場する渚カヲルに至っては、ヒト以上の容姿、能力、パーソナリティを持つ魅力的な存在として現れた。そのことはシンジも認めるところで、以下のように述べている。
「そうだ。生き残るならカヲル君の方だったんだ。僕なんかよりずっと彼の方がいい人だったのに。カヲル君が生き残るべきだったんだ」
しかし周知のように、シンジはこれを殺してしまう。TV版第25話第26話は主としてこの懺悔に費やされるが、そこで繰り返されるのは、ヒトを守るためには命令通りにカヲルを殺害するのは仕方なかったという言葉である。
シンジ 「結局、僕はこれに乗るしかないのか?好きな人を殺してまで。父さんやみんなの言う通りに、またこれに乗って戦えっていうの?母さん、何か言ってよ、答えてよ」
ここには、人殺しさえも上の命令であれば仕方ないとしてしまう人間の悪辣さが表れている。
そしてこの人間の欠陥は、エヴァンゲリオンの元ネタとしてしばしば監督自身が挙げる、岡本喜八『ブルークリスマス』、富野由悠季『イデオン』で繰り返し述べられるテーマでもあり、その両者の背景にあるのは第二次世界大戦である。
なお、エヴァ以降の作品であるが、インドネシアの大量虐殺を扱ったドキュメンタリー『ルック・オブ・サイレンス』においては、被害者の遺族になぜ家族を殺したと問い詰められた加害者が、シンジと同じ言い訳をしているのが分かる。
旧劇場版では、上記のようにシンジにカヲルを殺害させ、深い絶望(=デストルドー)に陥れ、そのデストルドーをトリガーとしてサードインパクトを引き起こしている。
その動機は、ゲンドウについては「ユイに再び会いたい」というもので、ゼーレにいたってはキリスト教的な原罪観から、人間を贖罪させたいというものである。どちらも身勝手な発想に基づくもので、到底人類全てを滅ぼす理由とはなり得ない。
ここには、若者を自己のエゴの実現のために利用する大人の悪辣さが表れている。
なお、エヴァには影響は与えていないが、深作欣二『仁義なき戦い』においては同様のテーマが描かれていて、その背景にはやはり第二次世界大戦がある。
周知のように、シンジは自分の価値をエヴァパイロットであることにしか見出せず、それを失って人に見放されることを非常に恐れている。
TV版最終話はほとんどこのテーマについての議論に費やされている。その一部を引用する。
以上のような問題を抱えた人類は、旧劇場版においてサードインパクトに突入し、シンジとアスカ以外全滅してしまう。
生き残ったシンジは、隣に横たわるアスカの首を絞めてしまう。これは(解釈の余地はあるが)シンジの対人恐怖症がまったく解決されていないことを意味している。馬鹿は死ななきゃ治らないのである。
以上の点を踏まえて、エヴァQでは旧世紀版のテーマをどう扱っているのだろうか。
結論から言うと、シンジは相変わらず人を殺し、大人に利用されている。これは旧世紀版との比較を表にしてみると分かりやすいかもしれない。
旧世紀版 | 新劇場版 | |
---|---|---|
殺した対象 | カヲル君(をはじめとする使徒) | ニアサードインパクト震源地の付近住民 |
殺害の正当化理由 | 上位の命令に従っただけであり仕方がない | 愛する綾波を救うためであり仕方がない |
罪の代償 | 深い絶望 | 周囲の非難 |
贖罪の方法 | 戦自に殺されることを望む | 2本の槍と13号機で世界の修復をする |
上記行為の結果 | ミサトに自殺を阻止され、戦地に送られるが、デストルドーをゲンドウ(とゼーレ)に利用されてサードインパクトが発動。人類はシンジとアスカを除いて滅亡。 | 世界修復の希望をゲンドウに利用されて、フォースインパクトが発動。目の前でカヲルの首が飛ぶ。 |
主な変更点としては、①殺害の正当化理由が「上位に命令されて・・・」という消極的なものから、「綾波を救う」という積極的なものに変化したこと、②贖罪の方法が自殺という消極的なものから、世界の修復という積極的なものに変化したこと、が挙げられる。
さらに、③「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなっている。
これらの変更の結果、エヴァのテーマは(その善し悪しはともかく)矮小なものとなった。すなわち、旧世紀版においては第二次世界大戦により露わとなった「人類の問題点」ともいうべき大問題が扱われていたのに対し、ここで扱われている問題はあくまで「シンジの問題点」である。このことは、愛する者のために人殺しをしてしまうというのはいかにもフィクションが好みそうなところで、現実でこれが問題となる例は少ないということからも分かるだろう。
さらに、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなったことでテーマはより普遍性を失っている。
上記の点を踏まえた上で、なぜテーマの変化が起こったかを考えてみると、私はエヴァの成功と自身の結婚が背後にあるのではないかと睨んでいる。
エヴァの成功により庵野は自身の生きる価値を見出すことができ、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題が解決できてしまった。
さらに結婚により、人殺しの正当化理由として「愛する者を救うため」という理由が俎上に載ったものと推測される。
Qの次回予告においては、次回作では「ファイナルインパクト」が起こることが示唆されている。しかし、それが仮に起きたところで解決される問題は、上記のようなシンジ個人の問題点で、我々からするとどうでもいい問題である。次回作はかなり小規模な作品になるんじゃないかと個人的には思う。
愚行権の定義だとか、公共の福祉に抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態の人間が社会と契約することで社会が成立するだとか
そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ
出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所
「Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった
そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた
結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメだからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった
人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした
もちろん、アニメというのは個性も能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものだから仕方ないし当たり前だ
人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する
だからこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ的描写の必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ
さて、細かい経緯を描き並べる
適当に拾い読みしてくれれば良い
碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシのジレンマになっている状態だ
「自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である
精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり、対象愛、つまり他者を他者として認め愛そうとはできない部分だ
(つまり、自分を愛していて、安定しているから他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)
描写としては「碇シンジが他者の存在を必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう
すべてを一つにしてしまう混沌を母的な存在とするなら、自己と他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である
父的側面の足りない碇シンジが自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する
(なお、旧劇の該当シーンで地球が細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想を自分は持っている)
ATフィールドの訳語が絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである
人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない
しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?
それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している
だから、アスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した
ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する
さて、旧劇における首絞めの理由に共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った
(例として、新劇・破における碇シンジが自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分の言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)
そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程や結論は間違いだったのかと思った
シンジのデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった
そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した
結論から言えば、人は完璧な世界(他者が居らず、自己愛だけが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ
坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである
生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない
そこまで考え、旧劇における結論は他者の存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った
碇シンジは他者を認めつつあり、自分の葛藤を自分なりに処理していくことができるようになるだおる
碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった
あの世界では、もう生きようと思っても生きられない
さらに言えば、その過程で碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界の人間の救いを奪ってしまった
そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ
そういう結論から、碇シンジの内面が何の関係もない他者の人生や世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だから、エヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない
いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い
現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界や他者が壊れないのと別に
セカイ系においてはそうした葛藤と世界・他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしまう