はてなキーワード: 職業病とは
僧侶の友人がいるんですが、その人すごく人に対して悪く考えるんです。
例えば何か私にアクシデントがあると、たまたまではなく「普段の●●が悪いから」みたいに言われます。
そういうわけじゃないのに毎回言われたり、こういう風にするべき、みたいに言われたり(その人の考え方が全部正しいとも思えない)、それ以外の方法をとると「私は言いましたよ。」みたいに言われたり…
正直言ってストレスなんですが、ふと「これはお坊さんの職業病なのでは?」と思いました。
「こういう風にするべき」というのもお坊さんのお説教みたいなのが癖になってるのかな?と思います。
「私は言いましたよ。」はやっぱり「仏様の教えにそわないといけない」みたいな?
相続で成り行き上賃貸マンションの大家になり10年が経った、約100部屋を自主管理している大家増田は、気の置けない友人と馴染みの店で呑んでいた。
「俺はどこでミスっちまったんだろうなあ」
「やっぱり最後の「賃貸マンションに入れてはいけない客・タトゥー入ってる人編」が内容キツ過ぎたんじゃないですか?そもそも、なんでこんなシリーズを書き始めたんですか?」
「シリーズにするつもりはなかったんだよなあ。最初の「賃貸マンションに入れてはいけない客」は、いつものようにクソ客の入居審査を落としたばかりで、その勢いでヤケクソで書いたやつなんだよ。だから短いだろ?もう消しちゃったけどさ。」
「ふーん。今までに増田で日記を書いたことはなかったんですか?」
「ないない。良心に誓ってこれが初めてで処女作よ。だから、こんなん書いてもさ、バカが愚痴ってるよって扱いで誰も読まないと思ってた。事実、載せた後は気にも留めてなかった。その日の夜にはてなブックマーク開いたらめちゃくちゃビックリしたぜ。トップに載ってるんだもんよ。ひっくり返ったわ。」
「それで図に乗っちゃったんでしょ。高校デビューのヤンキーとやってること変わんないじゃないですか。」
「いや、それが実は最初はかなり戸惑った。だって内容は大家の汚ねえグチで、全然褒められたもんじゃねえだろ?俺的にはむしろ、ネバーマインドが売れすぎて逆に当惑するカート・コバーンの気分だった。今の俺ならカート・コバーンのイタコができると思った。」
「あんたやっぱり調子に乗ってるでしょ。そんなこと言ってるとまた怒られますよ。」
「大丈夫だろ誰も聞いてねえし。あ、すいません、ビールおかわりね。
ただ、コメントを見ると、意外に俺たちの仕事は誤解されてるのが気になった。そして、注目された今なら読んでくれた人との双方向性を担保できると思って、その誤解を解きたい欲が出ちまったんだよ。
それですぐに書いたのが「賃貸マンションに入れてはいけない客・Q and A編」だった。今思い返せばこの時は調子に乗ってたのかもな。」
「でも、そのあとも3、4本目と書いてるじゃないですか。客観的にはずっと調子に乗ってるウザイ奴に見えますよ。」
「いや、「Q and A」を書いた後は、明らかに中身を読んでなくて、火に油を注ぐだけのようなコメントも出始めてヤベエなと思い始めてた。まあ内容が内容なので自業自得だな。文体も挑発的だし。なので俺的にはその後に書いた「外国人と老人編」と「タトゥー入ってる人編」は完全に敗戦処理。」
「なんでアンタが被害者ぶってるんですか。敗戦処理っていう割にはクッソ長いし。どうせノリノリで書いてたんでしょ?」
「いや、これはマジでそんなことなくて、俺なりのケツの拭き方だった。実際に外国人と老人は賃貸マンション借りるのに苦労してる実態があるからさ。騒がしくしちまっただけに、現場から見た処方箋を示したいと思った。まあ、結論は全然ダメだったんだけどね。」
「そうなんですか?結構多くの人に読んでもらえてたじゃないですか。内心キャッキャしてたんでしょ?」
「そんなことはなくてさ。俺が全ての記事タイトルにいちいち「賃貸マンションに入れてはいけない客」という文言を入れていたのは、連続性があるので最初から読まないと議論の内容が追えませんよっていう配慮だったんだけど、多分これは最初から読んでくれてた人にしか伝わってなかった。
外国人と老人編のときは、なまじタイトルに外国人と老人なんて入ってるもんだから完全に逆効果で、タイトルだけ見て、悪い意味で真逆の誤解をする人が明らかに出始めた。
この頃の俺はうまく伝わらんなと思って正直焦ってた。読む人に過度な期待をしてたな。ビギナーゆえの未熟さが出たとも言える。で、一旦全部消した。」
「じゃあそこでやめときゃいいじゃないですか。そのまま消えときゃいいのにまた出てきて未練がましい。」
「そのつもりだったんだよ。それが、なんか最初に書いたやつでタトゥーを入れてる人について書いたのがバズってたのをそのタイミングで知ってさ。
最初に書いた記事は勢いだけで書いたから「タトゥーを入れてる客はハズレだ」としか書いてない。これじゃ言い逃げじゃん。なぜ賃貸マンションの大家である俺がそう思うのか、反論できる形で、きちんと理由を示さないと誠実な態度ではないと思ったんだわ。
それで、我ながらダセえなと思ったんだが、また出てきた。
だから「タトゥーを入れている人編」は論理展開を丁寧に書いた。そうすると、違う主張をする人にとっては俺に対する反論がしやすくなるんだ。ただデメリットもあって、必然的にくどくて長くなっちまうんだな。これが完全に裏目に出た。やり過ぎ感が出ちまった。」
「そんな意図わかる人いないでしょ。あんたが一番バカじゃないですか?」
「うるせえ!俺はこういう人間だ!
でもコメントで1人だけ論理に飛躍がありますよと指摘してくれた人がいたぜ。あ、この人はそういう読み方をしてくれていて、俺がやりたい事の意図が伝わってるなと思って嬉しかったなあ。
内心ではタトゥーを入れてる人や、そういう入居者を受け入れている大家の実証的かつ論理的な反論を期待していたんだが、これは残念ながら皆無だったな。まあ、俺のアプローチ方法が悪かったと言えばそれまでだ。
で、また変な方向に議論が傾いてきて、だんだんコメントを入れてくれた人同士で罵り合うみたいになっちまった。ダメだこりゃと思ってまた消した。」
「で、こんなとこでくだを巻いてるわけですね。」
「ま、そういうことだな。
今回のは、俺的には山でわかんねえように野グソをしたつもりだったのに、その野グソが見つかって大騒ぎになっちまったみたいなもんなんだな。」
「あんた例えが下品すぎますよ。全国の賃貸マンションの大家さんに謝った方がいいですって。」
「まあ聞けよ。責任を感じた俺は、自分で出したクソを片付けながら、「なぜクソをしたのか」「なぜこんな色なのか」を一生懸命釈明していてまわっていたつもりだった。だが、そもそも野グソすんなって話だ。だから見る人が見れば、俺はどんどん蟻地獄に落ちていってたわけだな。」
「まあ、言われてみればその通りですね。」
「lady_jokerさんという人がな、どっかのコメントで俺のやってることを指して無邪気だと批判してくれてた。これは冷静かつ的確な指摘だと思った。前述のように俺の自意識は全く異なっていて、それは俺が内心あたふたしてたからだ。でも、洞察力のある人には俺の姿はそう映っていたということだ。要するに、もう潮時だってことよ。」
「いやいや、みんなもう飽きてたと思いますよ。でもコメントとか見ながら楽しんでたってことじゃないですか」
「それはそうだな。多分コメントは全部読んだな。
他のブコメではどんなこと言ってるのかもだいぶ見たな。見たっていうより入居審査と同じ目でチェックしたな。そうするとさ。こっちではAと言ってるけど、あっちではBと言ってるとか、そういうアラが見えちまう奴もいて、面白かったな。」
「あんたそれ職業病でしょ。入居審査でSNSチェックやりすぎてるから。気味悪いですよ。」
「そうだなあ。体に染み付いちまってるなあ。
コメント見る限り俺の印象だと、知的にハイレベルな層がトップ2割、標準レベルが5割、もうちょっと国語を頑張りましょうが下位3割ってとこかな。パレートの法則ってのはガチだ。」
「いいじゃねえか誰も聞いてねえし。ん?あの店員、おかしくねえか!?今俺と目があったら、目をそらしたぞ!」
「そう言えば、さっきビール持ってきたときもニヤニヤしてたような気が…」
「絶対盗み聞きしてたに違いねえ!おい!お前が盗聴してるのはわかってるんだからな!!」
-
-
-
-
-
店長…。増田さん、一人でお店に来てるのにブツブツ誰かとしゃべってるみたいで怖いんですけど…。
症状が出てるな。いいか、絶対に増田さんに何か言われても否定も肯定もするなよ。すぐ保健所に連絡だ!
※そうかこういうのは二次創作に見えてしまうのか…。なかなか難しいもんですね…。
●ちょろっと時事ネタ書きました
アニメとかweb小説とか見てるんだけど、時々これって現実的に無理だよねって考えるときがある。
もちろん批判したいとかじゃないから作品は普通に楽しんでみてはいる。
例えば有名どころで言うと、
高周波ブレードとか目に見えない速度で振動しているような構造なんだけどアニメ通りの構造は無理だと思ってる。
高周波メスとかはあるんだけど、こう言った物って長さは長くても30cmにも満たないんだよね。
物理で片持ち梁の話ってあったと思うけどブレードってこのイメージになるんよね。
さらに構造がクリアできても、ゆっくり動かすならともかく刀みたいに動かすのはダメ。
高周波系の物は細かく削っていくイメージだから接触時間が少ないとその回数が減るからね。
だから高周波ブレードで抜刀!とか言うのを見ると、ん?ってなる。
まぁこう言うのは考えずに見れば良いだけの話しだよね。
自分に不利になりうる情報は公開したくない、相手に何やってるか知られると自由がなくなるから嫌だ、嘘をつく必要があるときになんでも共有していると整合性がとれなくなるのでできるだけ秘密にしていたい
これはもはや不利になりうる情報じゃね?
2年前、4年くらい付き合ってた相手と結婚した。配偶者は営業職。結婚する前から思ってたことだけど、いざ結婚してみるとやっぱりギャップがすごかったので驚いている。
自分はWebエンジニアでOSSとか心理的安全性とか有用な情報はどんどんオープンにしていくという文化に馴染んでいる。なので便利そうと思った記事はどんどん家庭用Slackにシェアするし、日記書くチャンネルも作って思ったことやメモ、今やっていることをTwitterのように文字で書いておくようにしている。
これに対して相手はリアクションしてくれたり、興味のあることに関してはたまにコメントしてくれたりするけど、全然自分の考えていること、今何をやっているか、何に興味があるのかについて書いてくれない。Slackだからというわけではなく、口頭でもあまり共有してくれない。なんで?と聞いてみたら、自分に不利になりうる情報は公開したくない、相手に何やってるか知られると自由がなくなるから嫌だ、嘘をつく必要があるときになんでも共有していると整合性がとれなくなるのでできるだけ秘密にしていたい、という。ショックを受けたのでっ詳しく聞いてみたところ、これは別に自分に対しての信用がないわけではなく職業病だということだった。
営業職全員がこういうタイプというわけではないんだろうけど、自分の今まで経験した職場やコミュニティ、友人たちとあまりにも考えが違って驚いた。
「君の言っていることはすべて正しいけど、面白くない。」
何年か前に読んだ雑誌のコピーで、当時かなりの衝撃を受けたことを覚えている。
今でもたまにこのコピーを思い出してドキッとすることがある。
エンジニアという職業では特に、論理的に考えることが必須なスキルとなる。
エンジニアの仕事は、正しい方向へ向かうための判断を繰り返すことに他ならない。
ビジネスのためにどのようなシステムを作るべきか?アーキテクチャの選定はビジネス課題の解決になっているか?アプリケーションの実装はビジネスが意図した動作をするか?
職業病かどうかわからないが、日常生活でも無意識に論理的に考えることが増えたように思う。
エンジニアの仕事では論理的思考は役に立つが、日常生活ではむしろ邪魔になることがある。
日常生活で正しさが求められるシーンは限られている。
正しいことが他の何よりも優先されるのかといえば、当然そんなことはない。
正しさがある程度証明されたからといって、それが何になるんだろうか?
共感を求めている人に正論を叩きつけたり、別のコンテキストに立つ人間同士が正論を言い合ったりすることは、ほとんど無価値だし、むしろ憎悪の原因にしかならない。
エンジニアの仕事でさえも、論理的思考が邪魔になる場面があると思う。
論理的に考えることは、ある程度の時間がかかる。正しさの判断をするために時間をかける必要がない場面は、無限にある気がする。
正しい判断が求められず、速攻で理由もなく決めてしまえばいいようなトピックに関しては、論理的思考がコストにしかなっていない。
つまり、合理的でないが論理的に判断をしてしまうケースはよくある。
それでいても論理的に考えたくなってしまうのは、論理的思考がすべてを解決してくれるように見えるからだ。
もしかしたら人は根源的に、自分が正しいことの保証を求めるのかもしれない。
夢の中でさえ論理的に思考していることがある。もはや論理的思考に操られているのかもしれないと思う。
論理的思考に操られないためには、「正しさの判断が必要か」を考えることだ。
論理的思考はすべてを解決するわけじゃなく、正しさの判断にしかならない。
「感覚で考えること」と「正しくないこと」の両方を肯定する必要がある。
まず、感覚で考えることは、論理的に考えることの真逆というわけでもない。
それに、もし考えが論理的に正しくなかったとしても「別にそれでいいじゃん」と思える寛容さや「間違ってるけど面白いね」と思える柔軟さを大切にしたい。
「君の言っていることはすべて正しいけど、面白くない。」
何年か前に読んだ雑誌のコピーで、当時かなりの衝撃を受けたことを覚えている。
今でもたまにこのコピーを思い出してドキッとすることがある。
エンジニアという職業では特に、論理的に考えることが必須なスキルとなる。
エンジニアの仕事は、正しい方向へ向かうための判断を繰り返すことに他ならない。
ビジネスのためにどのようなシステムを作るべきか?アーキテクチャの選定はビジネス課題の解決になっているか?アプリケーションの実装はビジネスが意図した動作をするか?
職業病かどうかわからないが、日常生活でも無意識に論理的に考えることが増えたように思う。
エンジニアの仕事では論理的思考は役に立つが、日常生活ではむしろ邪魔になることがある。
日常生活で正しさが求められるシーンは限られている。
正しいことが他の何よりも優先されるのかといえば、当然そんなことはない。
正しさがある程度証明されたからといって、それが何になるんだろうか?
共感を求めている人に正論を叩きつけたり、別のコンテキストに立つ人間同士が正論を言い合ったりすることは、ほとんど無価値だし、むしろ憎悪の原因にしかならない。
エンジニアの仕事でさえも、論理的思考が邪魔になる場面があると思う。
論理的に考えることは、ある程度の時間がかかる。正しさの判断をするために時間をかける必要がない場面は、無限にある気がする。
正しい判断が求められず、速攻で理由もなく決めてしまえばいいようなトピックに関しては、論理的思考がコストにしかなっていない。
つまり、合理的でないが論理的に判断をしてしまうケースはよくある。
それでいても論理的に考えたくなってしまうのは、論理的思考がすべてを解決してくれるように見えるからだ。
もしかしたら人は根源的に、自分が正しいことの保証を求めるのかもしれない。
夢の中でさえ論理的に思考していることがある。もはや論理的思考に操られているのかもしれないと思う。
論理的思考に操られないためには、「正しさの判断が必要か」を考えることだ。
論理的思考はすべてを解決するわけじゃなく、正しさの判断にしかならない。
「感覚で考えること」と「正しくないこと」の両方を肯定する必要がある。
まず、感覚で考えることは、論理的に考えることの真逆というわけでもない。
それに、もし考えが論理的に正しくなかったとしても「別にそれでいいじゃん」と思える寛容さや「間違ってるけど面白いね」と思える柔軟さを大切にしたい。
「君の言っていることはすべて正しいけど、面白くない。」
何年か前に読んだ雑誌のコピーで、当時かなりの衝撃を受けたことを覚えている。
今でもたまにこのコピーを思い出してドキッとすることがある。
エンジニアという職業では特に、論理的に考えることが必須なスキルとなる。
エンジニアの仕事は、正しい方向へ向かうための判断を繰り返すことに他ならない。
ビジネスのためにどのようなシステムを作るべきか?アーキテクチャの選定はビジネス課題の解決になっているか?アプリケーションの実装はビジネスが意図した動作をするか?
職業病かどうかわからないが、日常生活でも無意識に論理的に考えることが増えたように思う。
エンジニアの仕事では論理的思考は役に立つが、日常生活ではむしろ邪魔になることがある。
日常生活で正しさが求められるシーンは限られている。
正しいことが他の何よりも優先されるのかといえば、当然そんなことはない。
正しさがある程度証明されたからといって、それが何になるんだろうか?
共感を求めている人に正論を叩きつけたり、別のコンテキストに立つ人間同士が正論を言い合ったりすることは、ほとんど無価値だし、むしろ憎悪の原因にしかならない。
エンジニアの仕事でさえも、論理的思考が邪魔になる場面があると思う。
論理的に考えることは、ある程度の時間がかかる。正しさの判断をするために時間をかける必要がない場面は、無限にある気がする。
正しい判断が求められず、速攻で理由もなく決めてしまえばいいようなトピックに関しては、論理的思考がコストにしかなっていない。
つまり、合理的でないが論理的に判断をしてしまうケースはよくある。
それでいても論理的に考えたくなってしまうのは、論理的思考がすべてを解決してくれるように見えるからだ。
もしかしたら人は根源的に、自分が正しいことの保証を求めるのかもしれない。
夢の中でさえ論理的に思考していることがある。もはや論理的思考に操られているのかもしれないと思う。
論理的思考に操られないためには、「正しさの判断が必要か」を考えることだ。
論理的思考はすべてを解決するわけじゃなく、正しさの判断にしかならない。
「感覚で考えること」と「正しくないこと」の両方を肯定する必要がある。
まず、感覚で考えることは、論理的に考えることの真逆というわけでもない。
それに、もし考えが論理的に正しくなかったとしても「別にそれでいいじゃん」と思える寛容さや「間違ってるけど面白いね」と思える柔軟さを大切にしたい。
いまや観光名物となった人が車を引き人を運ぶ人力車。その普及当時、引き手の車夫は過酷な仕事から心臓や肺が5年ほどで死んでしまうといわれたらしい…あぁ恐ろしい恐ろしい。おぉショッギョムッギョ。運動は足りてるので睡眠と瞑想と野菜不足だろうか。
https://twitter.com/noa_izumi1998/status/1405647209043922950
『人力車を引けばほとんどどの職工より儲かるので、何千人もの立派な若者が農業に従事するのをやめて人力車の引き手になろうと町に集まってきます。』
とはいえ車夫になってからの平均寿命は五年しかない、その多くが心臓または肺の重い疾患に罹かかると言われています。まずまず平坦な地面の上を、優秀な車夫は時速四マイル[約六・四キロ]で一日五〇マイル[約八〇キロ]走ることもあります。』
とある。
ん…どうなんでしょう。儲かるから就職するとしても死亡率が極端に高い…まあ現代でもベーリング海のカニ漁などがあるのでありえるのでしょうか。
気になる点はいくつか。
まず人力車が登場した時期。これはツイッターの前の文章にもあり別途調べることもなかったのですが。
『あなたも知っているとおり、この乗り物は日本の特色のひとつで、日に日にその重要性は増しています。七年前に発明されたばかりなのに、すでにある都市ではその台数が二万三〇〇〇近くに達しており、』
7年前に生まれた職業の平均寿命が5年と言われても感覚としてはちょっと引っかかる気がしますな。
なんだか仕事を始めて数ヶ月でバッタバッタと死んでいかないとこういうイメージはできあがらないのかな。
人を運ぶことの過酷さについても、そもそも人力車が初めての人を運ぶ仕事ではないわけで、大名行列のイメージかな?日本には駕籠があった。
人力車はそれと入れ代わるように入ってきたはずだ。
人力車は安全性の高さと運賃の安さ、玄関先まで届けられるという小回りの良さが大衆に受けて急速に普及し[16]、1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。これにより職を失った駕籠かき達は、多くが人力車の車夫に転職した。1876年には東京府内で2万5038台と記録されている[17]。19世紀末の日本には20万台を越す人力車があったという[18]。人力車夫は明治期都市に流民した下層社会の細民の主要な家業となり、明治20年代には東京市内に4万人余も存在したが、その後都市交通の発達により数を減少させていった[19]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8A%9B%E8%BB%8A
二人以上で運ぶ駕籠と車輪の力を借りる人力車のどちらが過酷な労働かはわからない。しかし運送業として駕籠から人力車へと系譜があると見れば駕籠の時代から平均寿命が短かったのでは?そんな業態で長年何万人と働き文化・職業が残り続けた。しかも(車夫と比較して裕福な?)他人と接する接客業で。これは発展途上国ゆえの残酷さなのか、実際のところは致死的とまではいかない重労働程度だったのか。気になりますな。
次に、おそらくなのだが、お抱えでなく流しの人力車ならばいわゆる自由業的な働き方になるのかなと思う。
ひとまず自由意志で体を動かす労働を体が壊れるほどする必要があるということは、それは貧乏暇なし。働けど働けど…ということなはずだ。
"ほとんどどの職工より儲かるので、何千人もの立派な若者が農業に従事するのをやめて人力車の引き手になろうと町に集まって"くるならば、他の職より稼いだ金で休息に充てられないものか?
久保田重孝'6)はこのバードの旅行記をとりあげて,これは人力車夫の職業病にふれたものだとしたが,筆者'7)は当時の日本人の平均寿命が40幾歳という時代で,人力車夫の若死を職業病としてしまってよいかどうかわからないと書いたが,現在の作業関連疾患に関係があると考えてもよさそうである。
横山'8)は当時の人力車夫には「おかかへ」,「やど」「ばん」「もうろう」の区別があるとする。「おかかへ」は月に幾程と約束を定めて紳士の家に「おかかへ」となった者,「やど」とは一名部屋住み車夫で,挽子がこれにあたる。「ばん」とは一定の駐車場に所属する株車夫である。
そして人力車夫中最も多いのが,貧民窟に住んで,車を借り,ひどい者は筒袖股引の衣裳まで借りて働く「朦車夫」で,車の借代は上等10銭,中等8銭,下等6銭で,3,4年前より2銭宛高くなった。この車夫の収入は日によってちがうが1日平均50銭くらいにはなる。
「家に女房あり,子供あり,如何に節約するも四十銭は之を要せん。残れる十銭を以て屋賃,衣服料,子供の小使等を除けば餘す所幾何なるべきか,特に不規則の労働に従ひ不定の収入に服する人力車夫の常として,途中不用の飲食物に金を捨てること多きを思へ、ば,束京市中五萬の人力車夫,知らず一日の生活
まったくもって儲かってないという。自由業ゆえの収入の不安定さまで述べられている。
バードさんに話した内容とは食い違うものがあるのか、やはりこれでも「他よりマシ」レベルの貧困さだったのかもしれない。バードさんに話した人が誰か、あるいは複数の聞き取りをまとめたものなのかはネット上ではわからないが、明治9年東京府管内統計表とほぼ同じ台数を述べておきながらの賃金、寿命への言及をしていたとしたら両方とも正しいと見るかちょっと変と見るべきか。
ひとつ付け加えると引用の横山は1871年生まれで、バードさんが居た時代ではまだ8歳?時代に多少ずれがあることは覚えておく。
あと平均寿命も。19世紀末で40ちょっとというのはわかっていたようなでも結構驚く数字で、重労働できる年齢になって酷使して平均寿命も短いとなると数年が寿命ないし廃業のラインとなるのも一理あるのかなと覚えるしだいだ。
2,3のwebページを見ただけだが、自分の感覚としては5年説はそういう印象が流布程度には信憑性があって、でもまあ誇張や比喩のようなものも感じて100%統計的事実として平均5年で死ぬと言った訳ではないのかな、と受け止めておく。
そもそも(バードさんに)誰が言ったかがわからないので町人の世間話の採集かもしれん。
ひとまず自慢げにトリビアとして吹聴できるレベルではないなと記憶しておく。
そもそも気になった原因の漫画版では、知識階層ではないが勤勉で聡明な作劇上、日本文化を解説する立場のキャラクターが自分の持つ知識としてセリフを披露している。だからまるで歴史的事実のように感ぜられてしまって調べたのだ。
作中では人力車が広まって何年かは書かれていな…かったと思うので、受け取りかたしだいではもう十何年も人力車が続きそのなかでの収束した寿命とも取れかねない印象だった。
原文のもひとつまえの「七年前に発明されたばかりなのに」というセリフも含まれていれば舞台が78年なので即座にまあうろんげだなと留保の立場で流せたのだ。
…
クリュソゴヌーッス
そして、チャールズダーウィンの『種の起源』の初版が発行された日だから進化の日、らしいです。
進化って今時あるんでしょうかね。
ポケモンとかぐらいでしか見たことがありませんが、人間が技術力を手に入れて服を加工したり必要な道具を作ったりすることは進化なのでしょうかね。
まぁよくよく考えればとんでもないことをしてるから進化といえば進化かもしれませんが。
まぁそれでもスマホの使いすぎで手にタコが出来てたりするのも進化かもしんないですね。
とはいえ時代の潮流に呑まれすぎないようにニュートラルであることを求められすぎる現代において多少なりとも体に癖が付いていた方が生きてきた証を体感できるようでいいのではないでしょうか。
変に癖がついて実は大病でした、とか笑えないもんな。
ということで本日は【定期的な検診よいか】でいきたいと思います。
定期的な検診よいか!定期的な検診ヨシ!