2016-05-02

「堕ちよ、生きよ」とは、バナナ神話の事であったのか

人は必ずバナナを選ぶ

食べる事、そこから象徴される「変化すること」や「動因を満たすこと」を選択する、そこに帰結する

石の平穏はつまりクライン派ラカンが言う所のデストルドー終点涅槃原則の事を指すのだろう

人は生きている限り、完璧自分にはなれない

人は死なない限り、完全には、不変にはならない

完璧なこととは、何も変わらないものとは、生きていないものに他ならない

偉いのは…、美しいのは…、死んだ彼らだけだっ!!

俺達は卑小で、愚かで、猥雑で、この地面に這いつくばって必死に生きている…、それだけだ…!!

人が完全だった頃

それは全てが満ち足りて、自我境界もなく、即ち自他の境界もなかった頃の世界である

幼児的な万能感の世界で、他の存在もない人類補完的な世界のことである

父の名によって全能性が否定され、去勢され、不完全な存在となる

生き続けることは、一人で生きていけないことも意味する

同じことの繰り返しになるが、父の名によって言語が出現するのは自明であるだろう

そして、自らの言語現実として知覚されることは永遠にない

精神病を除いて

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