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はてなキーワード: ホモフォビアとは

2017-10-09

同性愛者が子どもを持つこと

最近社会がわりと同性愛者の存在を認めるようになってきたと思う

同性愛容認の風潮を読んで社会的評価のために理解を示しているとしても、それはそれで有り難く受け取るんだけど、そうもいかない話題がある

同性愛子どもの話だ

「本人同士の恋愛自由だけど養子を取るなんて子ども可哀想子どもを巻き込むのはいけない」

母親二人や父親二人に育てられたら子どもいじめられて可哀想、まともに育たない」

子どもに焦点を当てたこの言い分に一瞬納得しかけて、そこで自分の中に深く根を張るホモフォビアに気付いた

同性愛者の両親に育てられた子どもはいじめられて当たり前、同性愛である両親が悪いのか

どの親に育てられた子ども幸せか、誰が決められるというんだろう

父親母親が1人ずついる意味が「今までそうだったから」以外に何かあるのだろうか

母子家庭父子家庭祖父母のみの家庭で育った子ども可哀想なのか、父親母親が1人ずつの家庭で育った子どもは必ず正常に発達して幸せになるのか

同性愛者が子どもを育てることは大人エゴなのか、それじゃあ異性愛者が子どもを産み育てることはエゴじゃないのか?

人々は何のために子をなすの

……自分で書いておいて何が言いたいのかわからなくなってきた

同性愛者が様々な方法で(養子でも、精子提供代理母でも)子どもを持つことについてどう思いますか?

2017-10-01

淫夢ネタにしても、ネット民おもちゃにして盛り上がれるなら別にホモビに限らず

ノンケ向けのAVだろうが東方のボイスドラマだろうがYoutuberだろうがネタにしていくので

もはやホモフォビアだけで片付けられる問題でもないという

2017-08-29

https://anond.hatelabo.jp/20170829131155

たぶんキモくて金のないミソジナスホモフォビアなオッサンゲイ集団お茶したり宴会したりすることを支持してくれるなら

世の中キモ金オッサンがお洒落喫茶店でぺちゃくちゃぺちゃくちゃしゃべるの支持する社会になってくでしょ

2017-08-27

こういう性癖名前ってつけられてんのかな

むかし「女装少年家出中」ってゲームにドハマリした。

ハマったのは5年くらい前だけど、今でも続いてる。真くんが好きだ。

かといって、いわゆる男の娘が好きなわけでもない。

まあ与えられたら与えられたで抜きますよってスタンスではあるんだが。

他方で、いわゆるショタにもピンとこない。

少年愛」かというと微妙

確かに生意気なのは好きなんだけど...いわゆるショタ系に多いストレート生意気さはやだ。

ツッコミポジ」程度の理性ある生意気さ、とでもいうのかなー。

ボーイッシュちょっと影のあるアニメキャララブプラスの凛子とかAチャンネルトオルとかまどマギ杏子とか・・・年齢がバレるかも)

がもともと好きで、その延長って感じなのかなあ。

自分がなれなかった自分を見守っているのが好きなのかもしれん。

一応補足すると、俺がホモフォビアと近いのは重々承知だ。不快感を抱いた人がいたら申し訳ない。

はいえ、俺は無理に線引しておのれをノーマル側に置きたいわけではなく、少し自分欲望を掘り下げてみたいってところなんだよな。

ホモ?そのレッテルを受けるにやぶさかではないが。

そんなわけで、俺の性癖名前をつけてくれ。

※※※追記

なんかほそぼそと反応があって嬉しい。ありがとうございます。返信をいくつか。

確かにレッテル貼り不毛かも。

ただ他方、名前がつくとそちらに寄せたエロ同人が出てくるという・・・実利がね!

>>男がオナニーする時、自分女性という心理で抜く人も多いと聞いたので、それほど珍しくもないのでは。

無論、たとえばおねショタでは俺はおねえさんサイドにつく。

ただ、ショタがしっかり男を好きになってくれればなあという思いがある。

俺=女というわけではないんだよな。近いんだけど。

>>キャラクター性格的な類型の分類よりも、キャラクターの置かれている境遇とかシチュエーションのほうに自分投影するような感覚なのかしら

そうかも。

俺は妙に高二病(もう死語?)こじらせてて、たとえば理不尽環境にもあえて順応するのがカッコいいと思ってたんだけど(痛すぎだな・・・

そこでしっかり中二病やってる子を見ると自分がなれなかった自分を見てるようで愛おしい・・・という感じかな。

>>ちょっとマセた生意気な感じが好きとか?/内面より黒髪ショートスレンダーみたいな見た目が好きなんじゃねえのという気もするが。

ぐぬぬ・・・という感じ。

その点ではロリショタ共通するんだよなー。

ロリショタって安易な図式を掲げるつもりはないけども。

>>杏子がいるなら見た目だけで決めてるわけでもなさげだぞ。 /結城晴とかはどう?グっと来る?もう少し性格悪い方がタイプか?

デレマスまったく追ってなかったから初めて知った。

急いでスカイプアイコンしました。

>>陰のある女キャラ世間ささやかな反抗なり抵抗をするために男っぽく振舞うのを上から見てニヤニヤしてるなら広い意味でのSだと思うが、女装少年もありならMなのかも。

どっちもあるなー。

俺はMのほうだって思ってはいるんだが、「結局高みからニヤニヤしてるんでしょ?」と言われたら否定できんなあ。

2017-08-26

年収100万円「52歳ゲイ男性」の深すぎる苦悩

年収100万円「52歳ゲイ男性」の深すぎる苦悩

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170825-00185474-toyo-soci

普段ツイッターとかで弱者自己責任論振りかざすなって言ってるゲイリブ達が

この人に対してはお前が苦しいのはお前自身問題なんだからLGBTを絡めるなって

自己責任論を振りかざしているというダブスタ

これじゃあゲイから内なるホモフォビアが生まれるのも残当って感じ

ゲイ社会的弱者というだけで同じゲイから存在否定されてしま

だったらストレートとして生まれた方がまだ幸せになれたよね

少なくともこの国ではゲイ社会的弱者とか生き地獄しかいか

2017-08-23

https://anond.hatelabo.jp/20170823115749

ハリハー妄想って、そんなに子供有害か? 子供だって原作二次創作区別はつくだろ

いや、それがつくと思っているのは大人傲慢だと思う。

進撃の巨人みたいに公式二次創作本屋に並んでる世界で、非公式の(というかああいうのって著作権的にどうなってんだと心底疑問なんだが)二次創作BLアンソロジーが並んでるんだぞ。子供にそれを見分けろという方が困難だ。

しかしそれ以前に子供の話などしていない。

それを「毒薬」と見做すのがそもそもホモフォビアなのでは

ハリハーがOKならハリロンも許されるべきだよね

なんと説明したらいいのか……。そもそもホモフォビアなのか?と考えたが、それだと一次創作BLは許容できる理由にならない。

結局突き詰めて考えると、個人的二次創作BLが嫌いなのは腐女子用語で言うところの解釈違いというやつに落ち着く気がする。

腐女子にはハリロンが見えるらしいけれど、私には見えない。一方ハリハーは見えなくもないのでまだ嫌悪感を抱かない。

一方で、シュタインズ・ゲート主人公と萌郁のカップリング二次創作を見たら間違いなく嫌いだろうなと思う。男女のカップリングであっても原作的にありえないのは嫌、ということ。

そして多くの場合、非BL作品二次創作BLは、あまりにも原作キャラを歪めているように見える。そしてその上エロなんだから、もう毒にしか思えない。

から個人的に許容できる二次創作BLも探せばあるのかもしれない。例えば、ハンター×ハンターゴンキルアが手をつないで仲良くしている、という程度のBLだったら許容できるかもしれない。

とりあえず言えることは、男女差別という文脈のところに個人的二次創作BL嫌いを打ち込んだのは間違いだったということ。

次はもう少し冷静に語るようにしたい。

https://anond.hatelabo.jp/20170823112243

個人的には、一次創作BL大手を振って構わんが、二次創作BLは陰に入っとれ、と思う立場特にBL作品二次創作BLは。

BL作品二次創作BLBL志向のない原作ファンにとって毒薬しかない。

それを「毒薬」と見做すのがそもそもホモフォビアなのでは

ハリー・ポッター映画見た子供ハリーハーマイオニーカップリング見るのとハリーとロンのカップリング見るのは同じであって、

どっちも地下に潜るべきかどっちも大手を振って歩けるようになるべきかの二択しかないよね?

ハリハー妄想って、そんなに子供有害か? 子供だって原作二次創作区別はつくだろ

ハリハーがOKならハリロンも許されるべきだよね

この2つが違うと思うとしたらそれが差別だよ

2017-08-06

https://anond.hatelabo.jp/20170806224633

使ってる私もよくわかって無いけど

ホモソーシャル体育会系とか右翼とかの男って最高だよなみたいな男同士の強いつながりで

ホモフォビアホモ嫌ーいみたいな奴良くしらんけど

https://anond.hatelabo.jp/20170806224507

ホモソーシャルとかホモフォビアとか全然聞き慣れてないし意味もわからないんだが、ここの人たちはこういう単語精通してるのが当たり前なのか?

ホモソーシャルって何だろう

例えばオカマキモオタ女性蔑視石原慎太郎辺りは典型的ホモフォビアかつミソジニーホモソーシャルな人だろうと思うのだが、その石原慎太郎が大好きな三島ホモソーシャルでかつホモ三島が惚れていた美輪明宏の事は石原慎太郎死ぬほど嫌っている

何故だろう

ホモフォビアってホモ男役は好きだけど、ホモの女役は許せないとかあるのだろうか

それとも崇高な男が女のまね事をするのが我慢ならないだけで、ホモ自体は嫌いではないのだろうか

女を嫌いながら男って最高だよなと男同士でつるむ訳だからホモになる方がむしろ自然な気がするんだが、男が好きだけどホモじゃないと反発するあまりホモフォビアが出てくるのだろうか

ホモソーシャルってホモホモフォビアだけで構成されているのだろうか

その辺どうなんだろう

2017-06-26

https://anond.hatelabo.jp/20170626142748

ロリコンへの非難は、相手同意確認しにくいから、差別というよりも社会的タブーに近いのではと思っている。

獣姦タブーなのと一緒というか。(獣側の同意が取りにくいという意味で)

男性に発生しがちなホモフォビアも、「同意」というコミュニケーション存在が大きいんじゃないか

そして性的志向からコミュニケーションを分断しちゃうあたりがキモオタ作法という感じがある

2017-06-01

男女で飲みに行って女が泥酔したらセックスOKという風潮

これ、まあ、泥酔するのは不用心だとは思うよ。

でも、それで仕事相手とか上司レイプされたとして「枕営業意志があるから飲みに行った」ってのはおかしくないか

そのロジック通用するなら、たとえば営業先と飲みに行ってクライアント同性愛者だった場合「お尻を差し出して仕事取ろうという意図があった」とみなされるわけど、それでいいんだろうか、と思ったんだけど、そこまで考えて、あ、そういう発想があるからホモフォビアになるんだ、と思った。

たぶん、ある種の保守層にとって、恋愛だのセックスだの結婚だのにおいて「当事者間の意志で何かを話し合って契約する」という発想がそもそも存在しないんだ。

から同性婚にも夫婦別姓にも反対するんだと思うと全体に筋が通る。当事者間で決められないことだと思ってるから制度での縛りがないと困るんだろう。

もちろん、それで良いわけではない。

2017-05-19

男同士のフェラチオ流行っているのか?

実のところ男子が集まるとフェラチオは発生する

これは友情確認行為として行われる

友だちがいない、いても淡白な付き合いしかしていない場合には経験しないため、存在認識できないことはある

ちなみにこれは同性愛行動ではない

こうかくとホモフォビアだと思われるかもしれないが少々ことな

本気で舐めたいと考えるのはアウトなのだ

あくまでこれは友情確認行為からである

もちろんちんぽは美味しいので、男子たちの理性は遊びと本気の間で揺れ動くことになる

そこを楽しむことも醍醐味ひとつである

2017-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20170212215517

意味分からん誰が誰に何をそそのかしたんだ何を無効にしたんだ?

ゲイ男性オタク立場から上野千鶴子差別主義者として批判してるんだが

その典型的差別主義者が社会学者仮面被って東大のお偉方に媚びへつらって今の社会的地位築いて

自身ホモフォビア隠そうともせず同性愛差別をしそれを指摘するとゲイミソジニーだのゲイフェミは相容れないだの勝手なこと抜かして

やっとのことでアカーや伏見憲明上野批判でやっと差別止めたかと思えばそれでもLGBT差別をずっと続けた上野

その上野批判するのがガキなのか?また詭弁使って上野擁護か?ふざけんな

http://anond.hatelabo.jp/20170212213102

何言ってんだ

上野千鶴子に散々誹謗中傷されたゲイオタクの怒りだけど

男女二元論信仰して同性愛者に対して男女二元論から開放されてそんなに偉いのかとか見当ハズレなホモフォビア炸裂して同性愛差別して

ゲイはこんなに差別的なんですよと自分の教え子に言い回るその教え子に同性愛を隠して生きている人がいる可能性を微塵も考えずに

それを指摘するとゲイミソジニーだの自分ホモフォビアスルーして他人の有りもしない差別性をでっち上げ

挙句の果てには同性愛は異性を排除するシステムなので女性差別だと喚き立てるババアフェミ仮面被った差別主義なのは明らかだろ

2017-02-09

印象。考察なし

http://anond.hatelabo.jp/20170208235429

寝落ちしそうだし消えると悲しいか更新かさねる

率直に書く。総合的な感想考察は落ち着いたら書くつもりだけど、壁打ち悲しいから書かないかも。(というか他作品観劇したらもう書けなくなるだろうから、勢いつかないと現実的に厳しそう)

トゥルーエンドではないけどグッドエンドはもう前回観れたから、推理の旅を終えていいようにも思っている。あとやはり証人が足りない。私の観たルートより先の話が展開されないと推理が苦しいし淋しい。

初見と印象が違いすぎる。

何が変わった? 私が変わった?

私のライフは零である。救いがまったくない。ほんとつらい。

今回はまったくもやもやしなかった。ただあるがまま受け止めてほんと苦しい。

今作はもうずっと『諸戸と簑浦』の話しかしていない。だからうつらい。世界に二人しか居ない。つらい。

嗚呼明日原作既読の友人にいろいろ質問しよう……

時系列順に。

ちなみに『私』と『箕浦』と《わたし》と《みのうら》と簑浦が出てきます

冒頭。諸戸屋敷にいる『私』。これめっちゃ幽霊に見えた。

手記の内容は、すべて完全に諸戸についての内容。つらすぎ。

『私』は諸戸を「哀れ」と評す。まじかよ。

奥さんがお茶を入れてくれてそれを飲んだはずなのに、誰かいませんか?的なことを言う。え、やっぱこの『私』お亡くなりになってない?

そして諸戸登場。語り部の『私』と会話する。おかしくない?

登場キャラクターが天の声に話しかけたりしなくない?

から最初は『私』も諸戸も亡くなってて、死後の世界に見えてならなかった。

てゆか、今日見た諸戸がこわくてこわくて、ずっとすごいこわくて。諸戸の亡霊みがやばかった。成仏してない霊感

初見は王子様のような諸戸だったのに、何が変わった? 私が変わった?

『私』と諸戸は二人で一緒に過去を振り返る。

諸戸との最初の決別、夜の告白の時、聞いてる時の『私』はものすごく悲しそうな切なく美しい顔をする。嫌悪の色ではない。

『私』は諸戸に「性愛には応えられないけれど一緒に遊んだりした友情には感謝しているし君もそれを喜んでいるように見えた」的なことを言うのだけど、これ少なくとも2回目撃している。隠喩だったかそのままだったか…どこだっけ思い出せない丈五郎と道雄だっけ…? すごいつらい。

あのね『私』と『箕浦』が互いに演じた《わたし》と《みのうら》、《わたし》は未来をすべて知っているようで(諸戸の死を含む)、《みのうら》は生きてるからすごく生命力のある反応をする。『私』が《みのうら》になって井戸出たときなんて、それまでとのギャップちょっとびっくりした。

ここで振り返ったのは過去から未来ではないけれど、どうにも諸戸から時間を感じない。(ミスリーみあるけど)

似てきたなと私が感じたのは、この冒頭の『私』と諸戸、諸戸親子、諸戸と吉ちゃん。親子はアフタートークでも言われていたけど…というかあの世界は「諸戸と簑浦に関すること以外すべてカット」されているので、全部が諸戸であり簑浦であってくるしくて無理。常にライフ削ってくる。

大人になってから。『箕浦』は「ここからは僕が」と言って登場する。おかしい。どうして語り部の語る内容にキャラクターが介入できる?

から私は、ああこれは『演劇なのだな、と気付く。原作では簑浦が口頭でこの物語を語ってくれるのだっけ?それとも小説? ここではその語り口が『演劇なのだと。

箕浦』は『私』が初代に渡そうとした指輪意気揚々と奪ってくる。《みのうら》演じている『箕浦』は本当に生命力に溢れてる。

嗚呼だめだ寝落ちたらもう思い出せない…『箕浦』だけは「諸戸と簑浦に関すること」が何もない存在だったようにも思えてくるけど、もう私の記憶証人として使えなくなってしまった。

『私』は決して初代を「美しい」と言わなかった。まわりくどく魅力を説明する。その形容自体違和感は無いが、乱歩が連載初期から意図的言語を使っていたのなら、初代を「美しい」と表現しないのは変だ。簑浦にとっての初代の価値が軽すぎる。

箕浦』は何についても「美しい」と言わなかった。やはり簑浦は矛盾や歪さを抱えていないか? それを『私』と『箕浦』で同時成立させていないか。『私』と『箕浦』は別々の役割をもった役者

初代は証言する。正面を向いて淡々と切々と語る。あれは諸戸のことではなかったかしら。初代だけに存在する追加情報の時だけ『箕浦』を見て『箕浦』に話しかけてやいなかったか

『私』のかんばせが本当に何の欠点も無いようなほど美しく、そしてとても表情豊かで観客をガンガン見てくる。目が合うとかじゃなくて、観客の目を見てくる。後方でも目を見てくる。つまり語りかけ度がぱない。あいつはメッセージを発している。

対して『箕浦からはそんな様子を受けない。《わたし》を演じる時間が短いからかもしれないし、セリフが少ないせいかもしれないし、ずっと座っているから私の座席位置がかすらずそう見えなかっただけかもしれない。

いや、ほかの『役者』もそうだった。わざわざ観客の目を見てきたりしない。あれは『私』だけだ。

箕浦』はハッキリと「ぼくは幸せだよ」と胸を張って言う。

(正確な表現を思い出せない…2時間以上の空間を丸暗記してそれを体験した自分心理思考記憶して寝落ちリセット回避はこのセリフ量だと流石に無理ゲー過ぎ…でも記録に残すならちゃんとしたい…)

初代が亡くなった時に現場での出来事にしっかり対応していたのは『私』。泣き崩れてずっと耐えているのが『箕浦』。

深山木を訪ねてからは、未来を知っている《わたし》役の『私』は度々悔しそう・つらそう・悲しそうな表情をする。

『私』には彼を救えないから? ねぇ、これ『私』にもそういった感情がちゃんとある描写だよ。

初代と深山木さんを亡くしてから場面転換の際にオープニング曲しか聞こえない音楽が入る。唸りをあげて悶絶する『箕浦』。あ、ここ襲いかかる諸戸の唸りと重なる。

諸戸に関係ないところでも、疑心暗鬼セリフはすべて『私』が言っていたように思ったけど…いやこれは断言して大丈夫では。

しかし確実に《みのうら》の口から「諸戸を疑っている」主旨の言葉が出たときは『箕浦』が発言するし、

諸戸から「君は疑っているんじゃないのかい」といった疑心暗鬼を抱いている主旨の言葉が出たときに対面しているのは『私』と、徹底していた。

諸戸と『箕浦』が家で初めて会話している時、諸戸を見つめる『私』がくそやばい。愛憎ぶちこんだ流し目破壊力軽蔑目線でもあっただろうか?嗚呼ほんと駄目だ脳がリセットされて正確に思い出せない!

ああ、でもここで諸戸を見つめる『私』は、『私』を見つめる諸戸に似ている。それは性愛を込めた時じゃなくて島で秀ちゃんに夢中になってる『私』を見ている時のそれ。

子ども残酷」って諸戸が説明したとき、めちゃくちゃ学生時代の簑浦思い出した。

しかし諸戸の話題が《みのうら》への愛についてから事件推理パートに移ってからはクソつまんなそうに家ん中ブラブラして諸戸の推理聞き流してる風に壺にしなだれかかってる『私』だるえろかわい過ぎだった。「ねぇ~まだぁ~?」してる子猫ちゃんかよ。たぶん唯一私が萌えれて心を緩められたシーン。

ずっと『私』は推理パートつまんなそうにしていたのかなと思いきや、だるえろかわいいのあそこだけで、曲技団に刑事と行った時とか身を乗り出して聞いていた。

いや、あれは『箕浦』の代わりに演じていたのか?

あそこ本当に諸戸が『箕浦』のことを狙っていた。すごくこわい。じわじわ距離詰めてくる。こわい。あれなんであそこにそんな描写入れたんだろう。あの時の話題は何だっけ…おとっつぁんについて?

深山木からの荷物を受け取るのはこの後だったかしら。

秀ちゃんの手記。まじつらい。ぜんぶ諸戸と簑浦の話でつらい。

ぜんぶ諸戸と簑浦の話であるから、『手記の秀ちゃん』に母親が居ないから、この舞台での諸戸にも母親が居なかった。(正確に言うと丈五郎母親の話をするが、諸戸は母親の話を一切しない)

原作未読であるので自分確認できないのだが、諸戸が母親について告白する場面はそんなにカット必要位置にあるのだろうか?

諸戸が母親から性的虐待を受け、それによって女性嫌悪感を持ち女性は愛せなくなったこと。親から愛情が与えられず性行為でだけ情を向けられたから、諸戸が簑浦へ向ける愛情性愛以外の多様さをみせられないこと。これらは諸戸の歪な愛を単なる超自我とイドのせめぎあいにさせず、諸戸が『かたわ』と比喩できる大きな理由となっていると思う。

それがカットされたというのはものすごく重大なのではないか

ここにある諸戸は性的虐待を受けていない世界線の諸戸?

手記の後に諸戸がどちらと会話をしていたか覚えていない…記憶の砂が零れ落ちていくの恐ろしい…

おそらく『箕浦』と話している? 系図帳から暗号見つけるのはここか?

島へ行く途中の列車?船?の中、諸戸が「疑っている?」と問いただすのは『私』で、その話題が終わるとすぐに『箕浦』に入れ替わる。

だめだここですべきは事実の羅列ではなく印象という目撃証言を残すことだ。

島に着いた夜。寝ていた『私』と『箕浦』。『私』だけが起き上がり、秀ちゃんと出会う。

そこに現れる諸戸。

私はここにめっちゃ違和感感じて、それまでの流れでやっぱり諸戸も登場人物なのかな…って思ってた気持ちが吹っ飛んだ。なんでここに諸戸が居るの?って思った。『私』と同じ次元存在から

で、原作既読の友人に確認してもらったら、原作ではここに諸戸は居ないししばらく諸戸と合流しないって……

それから呑気に毬遊びをする『私』と『箕浦』を見て、ここでも彼らは『役者』として並列であるめっちゃ感じた。対話をすることはあっても、物理的に直接交流するシーンはここが…あ、いや初代の指輪を奪ったね。そことここだけのはず。二人存在しないとできない行為から

まだ全然考察とか感想にまで至れていないけど、直感だけの変な話しだけど、

諸戸と『私』が同列であることと、『私』と『箕浦』が並列であることは、次元が違っているのですよ。だから諸戸と『箕浦』は同列ではない。

あ、それが《わたし》と『私』か。

わたし》と諸戸は同列。『私』と『箕浦』は並列に役者

五郎に帰れと言われてから、諸戸を助ける決心をして、諸戸からメッセージを受け取っているところも、井戸の中も、『箕浦』はずーっと冒険譚の主人公だった。キラキラクワク輝いていた。秀ちゃんへの恋とか初代の復讐とか諸戸への心配とかじゃなくて、冒険に夢中だった。

諸戸からメッセージを読むのは『私』で、あいつまた俺に変な気を起こしそうでいやだわ~的な愚痴をこぼし、『箕浦』もそれに乗っかる。「同性愛理解できない」ってまた言う。「頭では理解してるけど全然わかんねー」って言うのはどこだっけ。いやほんとに『箕浦』には友情以外まったく無い。微塵もない。清々しいほどに無い。脈ナシにも程がある。

前述した「諸戸も登場人物なのかな…って」考えに変化しかけたのは、同じく前述の事情聴取のシーンで《みのうら》を演じる『箕浦』をそれこそ蛇のような視線で諸戸が見つめていたから。スポットライトの当たらないところで。その時『私』はスポットライトの中で刑事事情聴取を聞き入っている。(時系列ぐちゃってごめん。でも記憶が蘇ったものをとにかく書いて残す)

ひえええあんな完全無欠の究極ノンケみたいな『箕浦』に言い寄っても絶対無理だよ諸戸なんで気付かないんだよ異常だろ…ってぐらい怖かった。対してワンチャンありそうに見えるのは『私』。否定してるんだけどなんか匂ってならない。なんか否定だけを信じられない。

あれか? 「『好き』の反対は『嫌い』じゃなくて『無関心』」ってやつか?

(初見感想で書いた「《みのうら》も実は諸戸を愛していたのではないか?という容疑が浮かんでならない」のは、完全に『私』のせい。これは初見からそう。私はこれを初見で「諸戸カンチガイ乙‼」みたいに感じていたから、こいつは諸戸の疑心暗鬼が見せる簑浦だなと思っていた。)

諸戸は『私』を探しさまようラブファントムなのかと思っていたけど、全然《みのうら》演じてる『箕浦』も狙ってくる。

『私』と『箕浦』はだいたい一緒に舞台上に居るんだけど、諸戸が《みのうら》よりも『私』を優先して見つめたのは、

  • 箕浦』演じる《みのうら》が諸戸の手を握り返さなかった時
  • 箕浦』が寝ているところを抜け出して『私』が秀ちゃんと出会った時
  • 井戸の中で『私』に「嫉妬している?」と問いかけられた時

諸戸は簑浦を探しさまようラブファントムという印象に落ち着く。

水責めから『私』はもがき出す。水喰らって噎せるし《みのうら》と諸戸に水ぶっかける。

序章でも鬼との出会いを思い出してる時に喉を掻くから原作にも白髪化がいつか描写されてないそうだし諸戸生理的拒否られてない可能ワンチャン…!?って一瞬思った。違った。

箕浦』ずっと脅えていて本当にかわいそう。諸戸に抱き締められてもノンケ過ぎて嫌悪感すら無い様でだだ死の恐怖に脅えている。…って、そうだ。『箕浦』は諸戸の性愛嫌悪感すら返していないわ。性愛なんてもの存在しないようにしか見えない。

ホモフォビア過ぎて逆に男性とキャッキャする現象」が何か科学的に存在しているのですか?(そんな感想を見かけた。)気になるので詳しい方に教えていただきたい。

そーいや江戸川乱歩同性愛を「研究」していたんだよねえ…

それまで『箕浦』を抱きしめて必死告白していた諸戸(この時の諸戸何故か記憶してない。零れ落ちた感覚もない)が、『私』に「嫉妬している?」と問いかけられた瞬間、逆鱗に触れられたように(地雷ぶち抜かれたみたいに)目を見開いて、そのまま『箕浦から手を離し、表情も目線も変えず亡霊というか亡者みたいにゆらぁりと『私』の方に移動していき、「ああ、嫉妬している」と答える。

これほんとめっちゃこわい。ラブファントムこわい。ホラーフィクションでよくある悪霊に追いかけられていたのが御札を持った瞬間にこちらが相手から見えなくなってあっさり追いかけられなくなる・あるいは逆に結界崩壊してそれまで見向きもしなかった悪魔が突然こちらに向かってくる、あれ。完全にあれでこわい。ほんとこわい。

諸戸を否定して死んでたまるかと逃げ出す『私』。諸戸は唸り雄叫びを上げてから『私』を追いかけたっけ?

確かここ最前列目の前に諸戸が来たのに私は目をそらしてしまった。それまでずっと三人の内をを覗きこんでいたけど、目の合うところに居る諸戸の瞳を覗きこむことはできなかった。

そして遂に『私』を捕まえた諸戸。手を掴み上げ触る。

なんというかね、性的意図をもって犯そうとする時って、例えば、頬を触る(唇を奪おうとする脅迫)、腿を撫で上げる(局部に侵入しようとする脅迫)、みたいな仕草がイメージやすいんだけど。諸戸は手なんだよね。いや、手を撫でられるのも十分性的な接触になりえるし、手を撫でてくる痴漢とかクソ質悪いと思うんだけど(あれって痴漢に該当するの?冤罪増えそうだから流石に法的には該当しなさそうだよね?まじきもい腹立つ)、もっと分かりやすセクシャル表現にしても良かっただろうに、なぜしなかったのか。手なのか。

同じ手でも手を舐めるとか頬擦りするとか自分身体に触れさせるとか、方法はいろいろあるのに。

あ、そうだ。秀ちゃんは吉ちゃんの手を取って自分の胸に触れさせていた。超嫌がってたけどあれは同じ手の使用でも犯されている感がわかりやすい。

あえて手であることがわかりやすいのなら、それは何か。

井戸の中での死についてのくだりも、秀ちゃんの手記で隠喩されたまんまでほんとつらい。もう死んでしまいたいという諸戸の叫び

そうだここ『箕浦』も死んでしまいたいと絶望して挫折して復唱していたのに、『私』が水を挿したんだよね…亡霊を呼び起こしてしまった。

諸戸が嫉妬していることを認めたのが、《みのうら》と秀ちゃんが結ばれてしまうかもしれないことについてなのか。(そう明言してた気もするけど)

それとも「本当はかたわものではなく、簡単な手術で醜い自分を切り離すことができること」なのか。

醜い自分を殺したいけど、殺したらきっと自分も死んでしまうと思ってる諸戸…まじ…

助六さんに「生きたくなかったの?」って聞かれた時に、「世間に顔向けできない」と言った諸戸まじ魂抜けてた。心ここに在らず。ライフが0。助六さんに心の内を回答する必要いか大正解しかしイドの超自我破壊自我乗っ取りを止められなかったことは、この時の諸戸の回答もあながち嘘じゃないなと。

あれ?と言うか水嵩が増さなくなったって表現、昨日あったっけ?

私は水嵩が増さなくなったことを知ってるから、初見ではセリフがあったはず。

『私』と襲いかかる諸戸の図を見ている『箕浦』の表情は、「死者を冒涜せぬよう省略」と『箕浦』が言った場面しか見えなかった。

と言うかこのセリフ初見では聞き逃してたかテラびっくりしたんだけど!

【今】はいつだよ!?って疑問が再浮上した。

初見のとき、序章で『私』が「なお、現在では差別用語となる言葉が登場するが、当時のなんちゃらを変えないためそのまま使用します」云々言ってて、「えっ!?『現在』っていつ!?『当時』っていつ!? 『私』が執筆したとき? 乱歩執筆した時? 私が観劇している今? ねえあなたは『いつの人』なの!?」って、超混乱した。

やっぱ諸戸亡霊なのかあああ??????って。

まだ決めていない。

少なくとも、丈五郎を目にした諸戸や、井戸を出た時の諸戸は、『登場人物の諸戸』だったから。

それにしても《みのうら》になった『私』の生命力

佐藤さんの『私』は表情がくるくる変わるしよく動くし観客の目をガン見してきて語りかけ度がぱないけど、アクティブなのにどうにも《わたし》の時は幽霊っぽかったの間違いじゃなかったんだな。ってめちゃ思うぐらい「生きてるかどうか」がなんか明確に違うんだけど。演技力?すごない?やばない?

わたし》になった『箕浦』と、《みのうら》になった『私』も言葉を交わす。「語り忘れたことあるかな?」

ラストは『箕浦』が読んで、『私』が諸戸の訃報を初めて知ったような顔をしている。井戸で《わたし》役になってからの『箕浦』は、諸戸が鬼籍であることを既に知っていた。

箕浦』はあまり『私』も諸戸も見ない。助六さんと井戸脱出しようとした時から、『箕浦』は正面向いてどっしり座って痛ましそうな顔をしている。あれ…顔背けてるのかな…

座ってラストを読んだあと、やって来て『私』に手を伸ばす諸戸の手を宥めるように下ろさせる。

ああそうだ、『箕浦』に向き直った諸戸の表情は見えなかった。

そしてこの物語の語り部は諸戸を憐れにも思っていると序章で明言している。

諸戸の訃報を握り潰すところ。あれね《みのうら》の憎悪というよりも、醜い半身へのやりきれない憎しみに見えた。悔し泣きみたいに表情を潰すところは正直感情が読めなかったよ。ある意味復讐燃えていた『箕浦』の様子にも近かった。

今回は推理するために三人をずっとガン見するつもりでいたけど最前列譲っていただけたのでピクセルに余裕できて他の演者さんもかなりしっかり拝見できた。

2017-02-06

舞台「孤島の鬼」2017版を観劇して

※私の答えが見つかったので、現在最終解答を書いています

ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。

※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ

http://anond.hatelabo.jp/20170209222825

http://anond.hatelabo.jp/20170212024356

夜明けて昨日の話。

推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。

とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。

http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636

こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。

ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから観劇予定のある方は読まないでくださいね

まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。

こーゆー考察甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。

そこでまず強烈に思い浮かぶのが主人公であるはずの『私』。

『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在である共感し難い。

そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦感情移入できない。

ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)

これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……

それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、

そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。

でも、それっておかしくね?って思って。

ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。

自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、

いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、

どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。

目線だって絶対許せない地雷カップリングというもの実在する。

から「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。

でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?

これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。

この感情原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈押し付けなのか?

という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ

http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636

Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードから勝手妄想して、

江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。

諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。

観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。

田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩ブロマンス結晶として大正解

対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。

女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。

『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。

(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)

メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害物語カタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。

(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠片想いとして殺す……って、個人的めっちゃ萌える。)

作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷箕浦永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。

しかしそれが本当に『箕浦』のすべてだったのか?

舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。

私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。

でも、配役を知ったとき

美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、

佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年石田隼さんが20代箕浦過去の『私』」を

演じることが疑問だった。

いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。

「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはい観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在公表されてることは少なそうだけども。)

しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。

舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、

諸戸と出会い親交を深めた学生時代箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、

諸戸と別離大人になり恋人の初代との出会いから箕浦石田さん)は登場する。

石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。

 

「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦であるため、『私』の歪さから箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、

事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。

(皆さんは自分の体が深層心理拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれ意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)

箕浦』は諸戸の性愛を受け入れることはできなかった。

しか性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?

必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか

そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。

物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!

より妥当なところの分裂理由として「箕浦二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い

作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。

うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈ハッピーだよね。

(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)

(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性テーマ舞台大好物なんです。)

延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出表現もとても良かった。

諸戸の父親最期に対して、主人公である箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想セリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。

父親の変貌は、絶対他人箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。

父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親経験たからわかる。

河合さんの怪演は本当に感じるものが多くあった。

舞台というもの面白いもので、同じ現実を同じ密室複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものから

書籍映像物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。

たとえ自分複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。

演出による印象操作完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)

から舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい

そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観しかなく、原作者スタッフキャストが込めた意図真相はわかんないんですけどね。

舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」、とてもよい観劇でした。

2016-12-21

http://anond.hatelabo.jp/20161220022239

アンケートで100%なら納得するって言うけどまだ日本はその段階ですらないと思う

性的少数者が8%っていう数字はおそらく定期的に調査されてる電通アンケートだと思うけど、その電通アンケートって調査するたびに性的少数者割合が増えていってるんだよね

まり匿名個人情報漏れませんよっていうアンケートですら日本LGBTは嘘の回答付くくらい自分セクシャリティに関しては隠してるんだよね

 

 

企業アピールするLGBTフレンドリーだったりダイバーシティとかは、単純に差別なく雇用したり商品提供したりして、企業の利潤を最大化しようという資本主義本能みたいなものだし

金がものを言う資本主義於いてセクシャリティ多数派少数派なんて利潤の最大化のためなら何の意味もなさな

これは逆に言うとお金にならないなら用はないってことでまさに今日本で揺れ動いてることの一つ

積極的ホモフォビア配慮して同性愛者を笑い者にするか、LGBT配慮(口だけの場合多し)して分かる人には分かるようにフレンドリーさを出すか、どっちが企業の利潤を最大化させるのかということ

2016-12-13

ホモソーシャル見てBL楽しめなくなったというけど

現実同性愛者みたらさらに楽しめなくなるんじゃない?w

よくIPS細胞が発展すれば女1人で妊娠できる男なんていらないって主張あるけど

 

明らかにセクシャリティへの侮辱的な表現であるホモ」を男性同性愛者に対して使ってるうちは   

  

ゲイにとっては女なんて性的魅力もないしセクシャリティを踏み散らす存在だしはっきり言って全く、全くいらない存在からね。

ホモソーシャルとの違いはホモソーシャル構成員ストレート男性は結局家に帰って寝室では何の疑問も持たず女性と正常位でセックスする点だね。

ホモソーシャルミソジニーホモフォビア内包していることはわざわざ「ホモソーシャル」という言葉を用いていることからご存知だと思うけど

そのホモソーシャルを見てBLを楽しめなくなったって結局、男性ホモソーシャルを鏡として増田自身ホモフォビア自覚して自己嫌悪になったからじゃないの?

腐女子の「尊い」なんて「女性同士の禁断の愛」の「禁断」くらいにはホモフォビックだよ。

 

大体なぜかYOIじゃあの二人の愛を現実の愛を超えたものだとか崇高なものだとか愛の再構築だとかいってLGBTに影響を与えるとかレビューあるけど

世界LGBTムーブメントは「LOVE IS LOVE」なわけで尊いわけでも禁断なわけでもないんだよねえ。

http://anond.hatelabo.jp/20161213002005

2016-12-11

ホモフォビアという言葉安易に使わないでほしい

ホモフォビアという言葉心理学専門用語です

ホモセクシュアリティへの執着が高じた挙句自分の内部にも同性愛衝動があるのではないかという恐れに突き動かされて、自殺自傷したり同性愛者を殺したり危害を加えたりする人を指す本物の恐怖症です

単にゲイが嫌いだったりして差別する人は差別主義者と呼べばよいのであって、自分が詳しくもない分野の専門用語を雑に当てはめるのは好ましいことではありません

2016-12-10

同性愛はいけないことなのか?

最近、すごくもやもやしている。日常に潜むホモフォビアに。

別に誰が誰を好きでも良くない?って気持ちがある。

異性愛でも、同性愛でも、両性愛でも、人が人を愛するということは変わりないじゃないかと思う。

今の社会は寛容なようでいて、寛容じゃないんだなと思う。

私は同性の恋人と手を繋いで歩くことに、まだどこか抵抗がある。

しかしたら、異性愛主義者なのかもしれない。

普通のこと、とされていることを正義として受け取るタチなのかもしれない。

私は、レズビアンである

彼氏のこととか、将来の結婚願望について語る友人たちのことを羨ましいと思ったし、自分もいつか異性を好きになれるって思っていた。

でも好きになるのは女性ばかりであれ?って感じてた。

ずっと誰にも話せなかったし、悩んでいた。

親や友人にバレたらアウトだという意識があった。


でもそんな状況自体がよく考えたらおかしいんじゃないかと思い始めた。

あれ、なんで自分のことについて話せないんだって

自分も結局は、同性愛である自分自身差別してるんじゃないか

それがとてつもなくショックだった。

その差別意識は、異性愛であることが当たり前な社会の中で無意識に植え付けられたものだと思う。

異性愛者でも同性愛者でも、自由に生きられるような心地よい社会になればいいと思う。

「〇〇くんが好きなんだ〜」「私は〇〇ちゃんが好きー」と軽く言い合えるような環境なら。

セクシュアリティに悩む人が、減るんじゃないだろうか。


あなたは、異性同士が手を繋ぐのを想像してどう思いますか?

気持ち悪いと思いましたか自然に感じましたか?2人は友達だと思いましたか


あなたは、同性同士が手を繋ぐのを想像してどう思いますか?

気持ち悪いと思いましたか自然に感じましたか?2人は友達だと思いましたか



どちらも自然だと感じる人に、私自身もなりたい。

同性愛である私が同性愛嫌悪根底に持っているというのもおかしな話

メディア雑誌で笑い者にされてる姿を植え付けられてさ、それを見て自分もそうなんだってすんなり肯定できる?

私にはそんな強さはなかった。

でもこれでいいんだって思えたのは成長したからかな。

人に何か言われたくらいで、大切なものを失いたくないって思えたから。

好きなものを好きと言える世の中って、本当に大切だと思う。

きじゃないものを好きと言ってても、パンクちゃうよ。


たまたま異性愛者だった。

たまたま両性愛者だった。

たまたま同性愛者だった。



本来はこれくらいシンプルことなんじゃないかな。

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