はてなキーワード: 帰結とは
「明らかにレベルが低い文化をやらされる」のがいやだってことだ。やるんなら、『文学、哲学知識アピール』とかなら大歓迎。
性的欲求は、金があるから高給ソープいくらでもいけるからあんまりないな。
原始的なままの勝負で闘争するより、ファッションで代替してその欲求を抑えている説か。
そのためのゲームをやってますってのはあまり聞いたことが無い。本能ではファッション厨は理解しているのかもしれんが。
理解したわ。
でも、そのせいで貧乏な服を買うのが痛い奴らをいじめている構造になってるって意味で、やっぱりリア充のファッション押しはクソだっていう元の論に帰結するな。
劇場版『ハーモニー』の公開から一週間が経過し、『ハーモニー』LINEスタンプとか『ハーモニー』Tシャツといった危険信号を無視して戦場に足を踏みいれたオタクも大半が死んだ。不満はいろいろとみかけるが、もっとも多いのは「謎のピンクの日本」と「ラストの『愛してる』」のふたつのようだ。ところがどっこい、このふたつは同じものである。
賢明なる読者におかれてはマイケル・ラザフォードの『1984』を思いだしていただきたい。本作においてはビッグ・ブラザーの支配する全体主義国家がモノトーンに近い暗い色調で、対照的にウィンストンが恋人と逢引きするシークエンスが鮮やかな色調で撮影されている。原作ではこいつらが明るくて前向きの元気ハツラツの若者だったら全人類のハーモニクスはおきなかったといわんばかりの〈次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ〉の老人たちが、劇場版では思わぬ躍進をとげ、全人類の情報をにぎり管理する巨魁となっていた驚きはまだ記憶にあたらしいと思う。そう、劇場版『ハーモニー』の主題は全体主義との対決なのである。「『ハーモニー』のテーマは全体主義との対決じゃないだろ」といわれても、それは脚本を書いた山本幸治にいってほしい。となると日本がピンクの単色で描かれていた理由もわかろうというものだ。対照的に学生時代の回想は背景の自然を強調して鮮やかな色彩で描かれている。劇場版ではトァンとミァハはAからはじまりセックスまでしているのが、いかにも国家と個人の対立らしい。『1984』でウィンストンと恋人は逢引きするたびにセックスして、むしろセックスするために会っているのではないか、さすが1948年、現代の草食系の若者とはちがうと思うがそれはどうでもいい。
劇場版をみてなんで意識を消滅させるかわからなかった観客も多いようだが、それもそのはず、意識を消滅させる根本の動機である生命主義社会への違和感とか、生きづらさにたいするトァンの独白はばっさりカットされている。劇場版で意識を消滅させるのは、単純明快に「ヤツらに管理されない」という〈次世代~〉の老人たちへの反逆である。シュタウフェンベルクはその手先なのでもちろん同情の余地はないし『働きマン』の上司よろしく最後の最後で態度を変えてトァンをねぎらったりもしない。というわけで、根本的に意識を失いたくはないわけである。しかし〈次世代~〉の老人たちの管理支配体制を脱するために意識は消滅させなければならなくて、トァンが「でもミァハは、私が好きだったミァハのままでいて。愛してる、ミァハ」といってミァハを射殺するわけである。なので、『Ghost of smile』の歌詞も惜別を唄うものとなっている。死んで悲しむくらいなら殺すまえに意識を失っても生きていたいかどうか確認くらいしたらとツッコむのは無粋である。
では劇場版『ハーモニー』は原作とはちがうはなしなのかといわれたらそのとおりである。とはいえマーケティングを考えれば当然で、J・G・バラードにならった個人の精神世界がそのまま世界に直結する内宇宙(インナー・スペース)の物語でも、ノイタミナをみている女子大生に「生きづらいから全人類の意識を消滅させる」といったら、「ナイーヴすぎる」とか「周りがみえてない」とか「『ガキ使』をみれば意識が必要だってわかるよ」とかいわれて終わりである。もし「テクノロジーと情報過剰の帰結として自動車事故でセックスを疑似体験する」などといおうものなら、「なにそれ。キモ」といわれるのがオチである。
それでは劇場版『ハーモニー』が原作への理解にもとづいて制作される可能性はなかったのか。たとえばタルコフスキー監督である。リリシズムと内宇宙(インナー・スペース)への理解があり、ついでに日本通のタルコフスキーなら『ハーモニー』を完璧に映画化してくれるにちがいない。タルコフスキーなら映画を『007』さながらのニジェールのドンパチではじめたりはしないだろう。学生時代のトァンが自宅でふつうに起居するところからはじめて日常生活をしばらく撮影するにちがいない。そしてトァンと出会うシーンになるが、だいたいこんなカットのはずだ。
①ベンチに座るミァハ(遠い)
②トァンの後ろ姿
① ② ③
そこでミァハとの会話がはじまる。途中からキアンもくわわるが、ともあれえんえん一時間くらいずっと会話がつづく。そこでようやく十三年後になりキアンが自殺する。トァンも政府高官だとわかるだけで詳しい説明はないだろう。物語が淡々と進んでコーカサスに登攀し、なんか濛々たる霧に覆われて半分くらいみえなくなっているバンカーにはいる。もちろん内部は水浸しだ。ミァハとトァンの対話がはじまるが、水中に没している十字架を写すカットが意味深に挿入され、「ちょっと待ってくれ」といいたくなるが映画はとまらない。ミァハとトァンの対話がまた長い。そして最後で唐突にトァンがミァハを射殺し、瀕死のミァハをずるずると屋外まで引きずっていって、だんだん白霧が濃くなってゆきホワイトアウトする。ショットが替わり、チェチェンの広大な大地を少女が遠景に去ってゆくところを長々と写し、クレジットが表示される。BGMに思いっきりヘンデルの「メサイヤ」が流れ、オタクたちが「やっぱり宗教モチーフで全人類のハーモニクスが『最後の審判』に読み替えられてたじゃねえか!」といきりたつが当のタルコフスキーは原作者と同じく夭折していてこの世にいない。いたらいたでコーカサス山脈に撮影に都合のいい海や湖がないからブチ切れそうだ。というかミァハたちの会話がえんえんと一時間もつづく劇場版『ハーモニー』なんてどう考えてもつまらないし、正直なところ①②③とか書きはじめたあたりからどうでもよくなっていた。劇場版『ハーモニー』はあれはあれでいいと思う。
アニメ「アイドルマスター シンデレラガールズ」が最終回を迎えてから、約半月が経過した。
作品そのものの感想は視聴者それぞれに思うところがあり、また既に多数の感想記事が上げられていることから割愛するとして。
《溶鉄の尖峰、ヴァラクート》アニメとしての『ビビッドレッド・オペレーション』(http://wasasula.hatenablog.com/entry/2014/06/29/012233)という記事があった。こちらをリスペクトし、今回はシンデレラガールズとはどういうデッキなのか、について迫りたいと思う。
シンデレラガールズの原作にあたるゲームは、いわゆる普通のフォーマットのゲームではない。現在スターライトステージが稼働中とはいえ、アニメ制作段階では、アニメの原作と呼べるものはソーシャルゲームのみであった。
ゲーム内の登場人物は100人を軽く超えている。とてもじゃないが、通常の60枚構築ではゲームの、その中のキャラクターの魅力を表現できない。その上、構築にあたってデッキビルダーは「特定のカードをデッキに入れること」を要求された。
そこで発想の転換が行われた。アニメ「シンデレラガールズ」はスタンダードのデッキではなく、統率者戦、EDHのデッキとして構築する。
EDHとは、伝説のクリーチャー1枚を統率者として指定し、統率者が持つ色の99枚ちょうどのハイランダーデッキを構築する多人数戦用のフォーマットである。
大切になるのが統率者選びだが、入れたいカード、入れなくてはいけないカードが5色に散らばっていた時点で選択肢は狭まっていた。5色の伝説クリーチャー、《大祖始》。
Progenitus / 大祖始 (白)(白)(青)(青)(黒)(黒)(赤)(赤)(緑)(緑)
伝説のクリーチャー — ハイドラ(Hydra) アバター(Avatar)
プロテクション(すべて)
大祖始がいずれかの領域からいずれかの墓地に置かれる場合、代わりに大祖始を公開しそれをオーナーのライブラリーに加えた上で切り直す。
後は、強いカードを片っ端から入れていくだけだった。幸い、資金は潤沢にあり、必要なカードは全て手に入った。
《歓楽の神、ゼナゴス》と《化膿獣》による一撃必殺。
美しく高い性能を誇る、《悪斬の天使》。
《玄武岩のモノリス》《ブライトハースの指輪》による無限マナ、そして《ゴブリンの大砲》。
赤と青、相反する二色により生み出される速攻持ちの無限トークン。
アニメ第一話、デッキを用意してゲームを始める直前の統率者顔合わせ……その時提示した《大祖始》を見て、対戦相手……つまりは我々視聴者は、「とんでもないデッキがくる」と覚悟をした。
アニメ「シンデレラガールズ」とはつまり、以下の様なデッキだった。
統率者:大祖始
悪斬の天使
鏡割りのキキジキ
やっかい児
士気溢れる微集兵
修復の天使
シルヴォクののけ者、メリーラ
台所の嫌がらせ屋
包囲サイ
壊死のウーズ
石鍛冶の神秘家
歓楽の神、ゼナゴス
荒廃鋼の巨像
化膿獣
ボガーダンのヘルカイト
シヴのヘルカイト
ボロスの反攻者
瞬唱の魔道士
山賊の頭、伍堂
聖別されたスフィンクス
精神を刻む者、ジェイス
求道者テゼレット
Mana Crypt
魔力の櫃
ダークスティールの鋳塊
殴打頭蓋
梅澤の十手
寺院の鐘
危険な櫃
頭蓋骨絞め
demonic Tutor
吸血の教示者
忌むべき者のかがり火
ぶどう弾
苦花
ティムールの隆盛
歯と爪
arcane denial
サイクロンの裂け目
至高の評決
神の怒り
塵への帰結
汚損破
スフィンクスの啓示
出産の殻
意外な授かり物
青の太陽の頂点
時を越えた探索
全知
渦まく知識
生体融合外骨格
剣を鍬に
四肢切断
流刑への道
欠片の双子
ファイレクシアの闘技場
Tundra
Underground Sea
Badlands
Scrubland
Volcanic Island
Bayou
Plateau
Tropical Island
神聖なる泉
湿った墓
血の墓所
踏み鳴らされる地
寺院の庭
神無き祭殿
蒸気孔
草むした墓
聖なる鋳造所
繁殖池
下着売り場が目立つ場所にあることの是非論で見たし、それ以前にも似たような話題でしょっちゅう見るんですけど。
「生殖活動だの、生理だの、泌尿器やトイレだの、下着だの、授乳だの、そういうのは性的なものでない、エロいものではない。エロいと感じる方が知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」
みたいな意見あるじゃないですか。
あれを言ったり賛同したりする人って本気なんですかね。
まあ本気なんでしょうが。
じゃああの人らにとって、文句なく性的でエロくて欲情するのが相応しいものってなんなの?
性器?
でもろくでなし子とか、或いはあんな過激なパフォーマンスせずとも「性器もただの体の一部でしかない」とか言う人いるし性器もダメなんじゃないの。
互いの身も心も人間性も理解し、尊重し、愛しあい、合意を取った上で発生するセクシーな雰囲気、その帰結としての欲情やエロティシズムこそが正しく、そこにのみ真の性の喜びがある、みたいな話なんでしょうか? まあこれは冗談ですけど。
なんかもう、お互い顔も見えないローブを着て性器だけ接触させて正常位をし、できるだけ快楽を得ず射精したら即離れるセックス以外は異常、みたいな話になってきそうだなってああいうの見ると思うんですよ。
どっちかと言うと、全てが正しい欲情かな。
アヌスに興奮しようがおっぱいに興奮しようがチンコに興奮しようが唇に興奮しようがホクロに興奮しようが虫さされに興奮しようがウンコに興奮しようが、それでいいんですよ。
人は何を好きになってもいいんですよ。
結局、「~にエロを感じるのは認識や知識に歪みがあるから」みたいな意見は、「受け手が嫌がったらセクハラ」みたいな感覚で「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」ってのを知的っぽく言おうとしてるんだと感じるんですけど、人が人に向ける好意悪意劣情愛憎にまで、正常異常の判断を下すことはすべきでないと思います。
欲情については、むしろ「する側が欲情したらそれは妥当な欲情」でいい。
意図せぬ部分について欲情されること自体が不快な人は結構いるし、私も知人にオナペットにされてたと知った時はオワーッとなったけど(知人がわざわざ私にそれを教えて楽しんでたわけではないので知人に罪はない)、そりゃあもう仕方ないよ。
嫌われるのが不本意だからって、他人が自分に抱く嫌悪や憎悪に「正しい嫌悪・間違った嫌悪」と裁きをくだすのはおかしいでしょう。
いや個人レベルでは「あいつに嫌われるのはまあわかる、筋が通ってる。逆にあの野郎が嫌ってくるのは不条理だ、誤解だ、おかしい!」とか思って当たり前ですけど、そういうんじゃなく、社会的に、一般論として「こういう嫌い方はよくてこういうのはダメ」なんて主張するのは変だ。
「博士の異常な愛情」なんて言葉は、映画タイトルという一種のポエムだから魅力的なのであって、真面目に人間の行動と心の善し悪しを議論する時に使うもんじゃあねえと思いますし、それが愛情じゃなく欲情でも一緒です。
論点がズレててよくわからないと言われたので補足しておきます。
メインは前半で、「生殖や性器が性的なものでない」という見方に納得できないということです。
じゃあそういう人らにとって文句なく性的なものの定義ってなんなのよ、と疑問を投げています。
後半は、「生殖や性器が性的なものでない」と考える人は「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」という気持ちを秘めてそうだと推測した上で、正しい欲情も間違った欲情もないのだと反論しています。
なので後半は、「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」という気持ちが背景にないタイプの「性器≠性的」説には関係ない話ですね。
私は、ある人の性的な興奮を喚起させるものである、ということがその人個人にとっての正しい「性的なもの」の定義だと考えています。
世の中には色々な人がいるので、ほぼ全てのものが誰かにとっては性的なものになりえます。逆に、あらゆるものが性的でない、そそらないものにもなりえます。
で、個人の感覚の集積、つまり多数決によって、社会通念としても性的だとみなされるものが曖昧に決まるのでしょう。
ある人にとって赤く見えることが「赤いもの」の定義であり、人間の多くが赤いと感じることで社会的にもそれは赤いとされる、みたいな感じです。
なので、本文では異常な愛情や欲情などないと言ったけど、マイナーな欲情の仕方は、社会通念や常識からはなんとなく異常として扱われてしまうことは残念ながらありえるとは思います。
社会通念のあやふやさが表れたどうも尻座りの悪い部分ですが、仕方ない。
私が納得できないのは、
「生殖活動だの、生理だの、泌尿器やトイレだの、下着だの、授乳だの、そういうのは性的なものでない、エロいものではない。エロいと感じる方が知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」
という意見の口ぶりが、エロいと感じる個人の感覚・性的好みを愚かで間違ったものだと断じているように見えることです。推測ですが。
後半はそのものズバリですし、前半も「(誰にとっても)性的なものでない(べきだ)」というニュアンスを感じます。
間違った好みなどない、というのが私のスタンスですから、反対します。
それとも、ああいう意見を言う人たちは社会通念に焦点を当てているのでしょうか。そのつもりで解釈してみます。
「生殖活動だの(略)、そういうのは性的なものでない、エロいものではない(と考える人が多いから、社会的には性的なものではないと扱われている)。エロいと感じる方が(少数派の感性を持っていて、世の中に対する)知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」……みたいな。
多数決で負けた感覚がおかしいとされちゃうことを私はあんま歓迎しないんですが、現実社会としてはそうせざるをえないですからね。
でもこれだと、本当に列挙されてる物事が社会から性的と扱われてないかはあやふやなものになってくる気がします。
多数決と繰り返してますが実際に決をとるわけでもないですし、それに少数派と言っても三割票くらい取れてれば一応認められたりしそうですし。
生殖活動や生理や下着に興奮するのがそんなに少ないかどうかは非常に微妙なところですね。それを少しははっきりさせるためにこの手の論争が役立つかもですが、まあ所詮ネットというコップの中の嵐。
……やっぱり社会的な話ではないのかもしれない。
推測ばっかしててあれなんですが、更に推測で話をします。
元々の本文では欲情されることが不快だから性的さを否定してるのではないか、と書きましたが、一方で実用的な理由で性的さを否定する人もいそうです。
生殖や生理や下着が社会通念として性的だと認められると、隅に隠せと言われて、大変息苦しい思いをすることが予想されるので、それをさけるため性的さを否定する、みたいな。
でも私は、個人が何を性的と感じるかを裁くべきではないと思ってますし、ということは自由にされた個人の欲情の集積である社会通念としての性的認定をコントロールするのも難しいだろうと考えます。
とはいえ世の中の息苦しさが増えるのは私も好ましくないですから、「性的に感じる人が多いかもしれんけど、便利だから堂々と下着も売り買いするし産婦人科にも入るし学校でうんこもするしゴムも買うし夢精もするんだよ!」と開き直り、その方向で社会に働きかければいいのではないでしょうか。
性的に感じる人が本当に多かったら、そういう姿に欲情されたり、ましてオカズに使われたりするかもしれませんが、それは犯罪行為に至らないのであれば甘受したほうがいいと思います。
性的なものを隅に隠せという主張は、「私の好みとしてついつい性的に感じてしまうのに、性的に感じることはよくないとされてるから、目につく場所におかれるとこっちも目につく場所でよくない欲情をしてしまって困る、隠せ」という理由があったりもします。(単に周囲の雰囲気に合ってないから隠せ、なんかグロいから隠せ、などもありますがそれは置いておく)
性的に感じることを無理に禁じようとし、欲情を悪徳とするから、性的とされかねないタイプの欲情をそそるものを排除してくれという声が上がるのであり、逆に「堂々とディスプレイするよ、でも性的に見てもそっちも堂々としてていいよ」とすれば許しあいになってくれるんじゃないでしょうか。その思想を広めるのに多少時間がかかるとは思いますけれど。
もし、性的に感じる人が一定数いるある物を、堂々と見せても咎められない社会であってほしい、けれど性的に見られたり欲情されたりするのは嫌……という全てを望むんだとしたら、それはやはり片っ端から精神的去勢をし、欲情能力を物凄く限定するしかないような気がしますし、私はそれには反対です。
育児が楽と言う人の共通項は、夫婦共働きで、子育てに積極的かつ家事・育児スキルの高い旦那がいることだ。
なので、将来的に結婚して子供を産みたいと考えているなら、仕事を継続しつつ、家事スキルの高い相手を見つけることこそが、イージーモードへの近道。
男は仕事、女は家事育児という分業制による当然の帰結として、旦那が積極的に家事・育児に関わることなどなく、女性だけが休む間もなく家事育児に忙殺される日々が続く。
共働きでスキルの低い旦那を持った場合はさらに難易度は上がってしまう。
しかしながら、仕事によって、オン・オフの切り替えが出来るという効能は非常に大きい。育児による精神的な負荷の肝は、オンの時間が継続することだからだ。
やはり、共働きを前提にしつつ、色恋沙汰はいったん脇へ置いといて、育児に協力的かどうか(他者愛の大きさ)と家事スキルの高さ(家事スキルと育児スキルは比例する)を最優先事項として結婚相手について検討してみてほしい。
結婚相手として優れた男性は、自己アピールが下手な傾向にあるため、恋人としては物足りないかもしれない。しかし、惚れぬいて結婚した旦那が育児に非協力的なために憎しみの感情を増大させるよりは、お互いに協力しあって「育児、案外楽かも」と思うことのほうが人生においては大切であり有益でもある。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20130616222956
この増田は、「社会を運営する上で必要だから生まれた責任とそれに伴う自由の範囲」と、「〜し得るか、という形で語られるところの本質的な自由」をごっちゃにしている。
無邪気に自由意志を信じて疑わないお気楽さから出た発想だと思う。
>ただ、結果が悪い要素を含む場合、どこでなら止められたのか?という点
>生み出したものは、生み出された物がどうなるかについて本来は全く責任なんて無い。
や
>よって、子供を生むことは全くもって悪ではない。
この増田の方が「人間には生き方や感じ方を自分で変えられる自由があると信じたい」感情を押し付けているように思えてならない。
自己責任論一般に通じる事だが、背後にこういう感情があってそれをことさらに強調している人間もまた、自己効力感が危機的状態に陥っているんだろうな。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20130616222956
この増田は、「社会を運営する上で必要だから生まれた責任とそれに伴う自由の範囲」と、「〜し得るか、という形で語られるところの本質的な自由」をごっちゃにしている。
無邪気に自由意志を信じて疑わないお気楽さから出た発想だと思う。
>ただ、結果が悪い要素を含む場合、どこでなら止められたのか?という点
>生み出したものは、生み出された物がどうなるかについて本来は全く責任なんて無い。
や
>よって、子供を生むことは全くもって悪ではない。
この増田の方が「人間には生き方や感じ方を自分で変えられる自由があると信じたい」感情を押し付けているように思えてならない。
自己責任論一般に通じる事だが、背後にこういう感情があってそれをことさらに強調している人間もまた、自己効力感が危機的状態に陥っているんだろうな。
「地方への移住」においては、「仕事の少なさ」や「収入の減少」、「プライバシーの欠如」が問題になりやすい。
しかし、それらの問題は、割と覚悟したうえで移住することが多い。
直接自分に関わることではないため、あまり語られることは少ないと思うが、
実際に移住してみると、これこそが最も大きな問題ではないか?と思う。
ちなみに、
全国の県庁所在地を都会的な順に並べると、下から数えたほうが早いというぐらいの田舎である。
とはいえ、山々に囲まれ「最寄りのコンビニまで車で10分…」というほどでもない。
広島や金沢や熊本などでは、本記事の内容は当てはまらないかもしれない。
まず最初に言っておきたいのは、
これは、いわゆる民度を指しているわけではないということだ。
「田舎は隣の人が勝手に敷居をまたいでくる」という話でもない。
地頭が良い、悪いという話でもない。
単純に、知識が少ないのだ。
都会に住んでいるとき仕事でそこそこ活躍していた方は、田舎の会社に入ると次のような人々に悩まされるはずだ。
・社会人なのに、いまだに勉強の仕方がわからない。つまり、自ら学ぶという姿勢が一切ない
・もちろん、アメリカやヨーロッパ、アフリカなんてのは言わずもがな
・ビジネス用語も厳しい。メールのマナーを話しても???という感じ
・中学、高校、あるいは小学校で習ったことでさえ、知っているか怪しい
・その結果、ビジネス会話が成り立たない
・ただし、自分の興味がある分野には詳しい。また、地元の情報やしきたりにも詳しい
・テレビ番組にも詳しい。毎日バラエティ番組を観ている人が多数
これは、最下層の学校に通っていたヤンキー…といった話ではない。
それでも全然、いる。
しかし、圧倒的に知識がない。
ここでいうのは、仕事に使う知識だ。
つまり、どういうことかというと、あなたが田舎の会社に入社すれば、
東京や大阪の場所を知らないのが当たり前という人々の中に入ることになる。
自然の帰結として、あなたの価値観に一撃が加えられることになる。
そんなはずはない、と思う。
しかし、そうやって褒められる場面は増えるばかりだ。
「15+42がよく暗算できるね!」
「頭が良い」という評判を得たりもする。
逆に、「おれは子供か!?」と何とも言えない気分になるかもしれない。
しかし、
甘美な響きのはずの「頭が良い」という褒められ言葉が、
やがて、実はそこまで評価されていないことに気づくはずだ。
田舎では、「頭が良い」ということは、さほど良いことではないのである。
お酒に強かったり、車の運転がうまかったり、
バーベキューで率先して火を起こせたりするほうが
考えてみれば当たり前のことだ。
田舎では「頭が良い≒仕事ができる」はそれほど重要ではないのである。
だが、こうしてあなたはショックを受ける。
この価値観の違いは顕著になる。
この違いは、そのままモチベーションの違いとなって現れる。
あなたは一人だけで頑張っているような感覚になるかもしれない。
大きくは次の2点である。
・現状を正しく把握できない
・長期的な計画が立てられない
まず前者。
知識が少ないということは、言葉が少ないということ。
つまり、自分が今置かれている状況を客観的に分析できないということだ。
その結果、
「去年と同じ成果が出たから良かった!(かけたコストが増えているので、去年と同じでは全然だめ)」
「うまくいかなかったけど、よく頑張った!(主観的評価になる)」
「どうしてうまくいかなかったかよくわからないけど、次はもっとたくさんの人を絡めればうまくいくんじゃないか?(原因がわからない。ちゃんと分析しよう、という話にならない)」
「……(原因を分析しても、それをじゃあどうすればいいのかわからない)」
ということが起きたりする。
続いて後者。
現状がちゃんと把握できないから、長期的な計画が立てられてないのか、
いずれにせよ、長期的な計画というのは、シミュレーションの連続なので、
これは、市場環境の変化が早くてとても計画が立てられない、という話ではない。
長期的な計画がなければ、目標にブレが出てくる。
昨日は西に行ってたけど、今日は東、という状況がよく出てくる。
割り切っているのか、そんなものだと思っているのか、
とにかく問題にはなりにくい。
※ここで言っている「長期」というのは、一般とは違って半年〜1年ぐらいを指している。
先週の放送で、人間は心理的に5つのパターンに大別できるというのをやっていた。
企業では、この5つのパターンの人間をうまくブレンドして配置すると、成功しやすいらしい。
一番役に立たなさそうであるが、外国の会社ではこのブラックリストタイプをうまく組織に組み込むことが重視されていたりもするらしい。
詳しくはこのページにまとめられている。
http://medianow.jp/etc/psychological-diagnosis/
地方では、このブラックリストタイプが特に生きづらい印象を受ける。
新しいものを好む性質である以上、彼・彼女らが都会に出て行くのは仕方がないだろう。
新しい風が吹き込まなくなる。旧態依然とした状態を守ろうとする。
結果、その地方は、新陳代謝がうまくできない組織になってしまう。
…という推論を組み立ててみたが、いかがだろうか?
当たり前だが、仕事を優先したいのならば、地方に行くべきではない。
地方でもうまくやっていける人は、
・どうしても地方でやらなければいけない理由がある人(家が地主だ、介護がある等々)
のどれかだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20151019063108
元増田へのコメント見ても、当人の気質の問題に帰結させようとする人が見受けられるけど、ぶっちゃけノンキなもんだなあと思いますわ。貧富の格差が広がってきてるのに富の再分配が適切に実施されていない社会では、元増田のようなメンタリティの人が増えていく―自分は他人にも社会にも優しくされたことなんてないから、自分も他人や社会に優しくする義理はない!って風潮が蔓延していくんだぜ?
電車つながりで思い出したけど、隣に座った見知らぬ乗客に突然殴られたって話が少し前あったじゃん。あれは極端にしても、そういう殺伐とした社会の実現へと着実に向かってるのが今の状況でしょ。妊婦だのベビーカーだのが公共交通機関を利用するのはどんどんハイリスクになっていくかもしれない。少なくとも、車内でウトウトする乗客なんつー牧歌的な情景は、今後10年で見られなくなるかもしれないわな。
けっきょく”あいつらの性根が腐ってるから”って切断処理したんじゃ済まないんだよ。”あいつら”と同じ社会に生きていく以上”俺ら”の問題なわけ。
貧困層を犯罪者予備軍扱いすると左巻きのはてなーは激怒するかもしれんけど、置かれた状況や立場が人の衝動や行動を左右することは社会心理学なんかでもうわかりきってて、そりゃ個々人で見れば己の良心で踏みとどまる奴もいるだろうけど、総体としては貧すれば鈍ず人々なのですよ。そしてもはや、社会互助やら道徳やら説くだけでは、そんな人々の行動を変えることはできないわけでしょ。”あいつらの性根が腐ってるから”って糺すポーズで自分の品位の高さアピールして悦に入ってる場合じゃないだろっていう。事態は既に、社会福祉orモヒカンって状況よ?社会互助を尊ぶ人々こそ”あいつら”をどう救済するのか考えないと、社会互助が成り立たなくなる時代がすぐそこまできてるんだって危機感を持てよ。
いや、俺が知らないだけで、もしかしたらみんな既にゲーテッドコミュニティに移り住んでるのか、それともトゲ付き肩パッドの準備が万端なのかもしれないけど、そのいずれでもない連中が元増田に石投げてるんだとするとホントにノンキだなとしか思えなかったからさ。
組体操の話題で思ったんだけど、学校教育の体育って質が低いと思う。
指導要領はあるのだろうけど、それに沿って指導しているのか甚だ疑問。
順々にステップを踏んでいけば、出来なかったことが出来るようになる、わからないものがわかるようになる、という経過を辿れた試しがない。
大人になってから体操教室に通ったり、水泳教室に通ったり、ダンス教室に通ったり、スポーツジムのパーソナルトレーナーについてもらったり、いろいろしてみたけれど、どこもちゃんと理詰めで教えてくれたし、怪我しないことを第一に考えてた。
子供を相手にするのと、大人を相手にするのでは勝手は違うのかと思ったが、体操教室の先生が幼児を指導してるのを観察すると、移ろいやすい子供の気分をコントロールしつつも、放任にはせず、偶然できちゃうのではなくて、順序を踏んで出来ることを基本にしてた。
例えば倒立を教える時に、ただ逆立ちで長く維持できるのを良しとはしてなかった。
何分立っていられるかではなくて、逆立ちではなくて器械体操の「倒立」であることを重視していた。
やってはいけないことの説明から始まり、正しい転び方の説明から始まり、そのあとに倒立の指導に入る。
その間も、もちろん子供たちが飽きないように上手に機嫌をとりながら。
基礎的な体力をつけるための筋トレのようなことも、飽きないように遊びの要素も交えつつ、かつ安全な方法でやっていた。
なぜ学校の体育がアレなのか、いろいろと考えてみたのだけど、体育の思想が軍隊教育のそれそのままなんじゃないだろうか。
集団行動を学ぶことが第一、チームプレイを学ぶことが第二、個々の能力を伸ばすことなど目標として三番目以下なんじゃないだろうか。
クリスマス(2017)だしもう別れたんでこっそり復活させとくわ
まさか三十路を越えた童貞の俺に恋人ができるなんて思わなかった。
インターネットでリア充を気取る輩どもも、非モテをこじらせてリア充をうらやむ芸風の輩どもも、俺は気にくわなかった。
だから、そういう話で場が盛り上がる度に「そんなことより聞いてくれよ、うちのオカンがさ!」と、だれも聞いていないオカンネタをツイートしてどうにか居場所を確保していた。
おかげでオカンは毎朝起きるとアルミホイルをシャクシャク噛みながら口笛でダイアルアップをしてインターネット株取引にいそしむ化け物になってしまった。この場を借りて深くお詫びしたい。
だが、インターネットでしずかにこじらせていた俺にも好意をむけてくれる奇特な女子が現れたのである。
快活でやさしくてユーモアと好奇心を兼ね備えた年下の才女であり、たいへんかわいらしい。性格カタログと化した往年のエロゲでもなかなかここまでストライクなものはないだろうという高級物件である。
もちろん、俺は三十路童貞よろしく魔法使いとしての矜持をたずさえ、しずかにはげしくこじらせていた。
これはもう確実に騙されているに違いない。
三十路超えの売れないふぁぼられないブクマもつかない顔も目と鼻と口と耳がワンセットついているだけでたいしたことはなく、悪いことに肉は最近落ちなくなってきたうらさびれたインターネット芸人崩れを好きになるわけがない。
そうだろ?
だから当然の帰結として、生身の人間に触れずにオッサンが考えた二次元の女子の一挙手一投足に日夜情欲を昂ぶらせていた自分であるがゆえに、生身の女子がくれる好意の質を勘違いしてとらえているのだろうと手前勝手に得心した。
さもなくば、その好意に乗せられて暴走する俺をどこかで観察してあざ笑っている集団がいるのだろうと考えた。
そういう面白い催しがあるのならば、どうせなら観察する側にいたいものだ。
三十路半ばで人生に対するそれなりのあきらめを身につけた俺は、半ば自嘲とともにイグアスの滝にノーロープで飛び込む芸人になったつもりで好意に乗った。
手もつながずにデートは終わった。中学生男子よろしくゆだった頭がその重要さに気づいたのはデートが終わった後だった。
好意を向けられた相手にデートに誘わせたあげくなにもしなかった俺に、相手は失望しただろう。したはずである。
なにもなかったということは、さすがにかけるコストとして俺が笑いものにされている可能性は低い。
というかそもそも俺は罠にかけて笑いものにされて面白いようなキャラクターではなかった。
こうして浮かれて血迷った頭が人に決断の時を誤認させるのだなあと深夜の公園で砂山に頭をうずめて泣いた。
ふがいなさが、自責の念となり俺を毎夜責め立てるようになった。釣り逃した魚は大きいのであるし、俺はこうしてこの失敗を人生における最大の失敗として二月に一度くらいの頻度で悪夢に見ながら死ぬまで一人であることを責められ続けるのだろうなと覚悟を決めた。
いい夢を見たのだと思って、宝石箱にしまって生きよう。そう思っていたらまたデートに誘われた。
あるデートの時、意を決して家に呼んだ。
向けられていた好意につきあってみたような気持ちでいたはずなのに、いつしか呼吸ができなくなっていた。
胸は本当に苦しくなるのだと知った。右室ブロックの気があるらしいです。ヤバい。
さすがにこの頃になると、お互いにお友達同士のおつきあいではなく異性として認識しているに違いない。
何度となく繰り返された三十路のくたびれたオッサンの咲きかけの恋と葛藤、不完全燃焼のデートの度に膨らんではしぼんでいるのである。
他人事としてみるとこんなに気色悪いものはないのだが、明らかに相手も俺のアタックを待っているのである。
恋に狂った本能はそうだと断じている。しかし、「騙されるな、社会性を失うな」とこじれた理性もまたささやくのである。
「貴様の薄汚い下半身由来の欲求がそういう自分に都合のいい思考を招いているのである。一緒に居て楽しい女子と二人でいられるだけで身に余る幸福だというのに、お前は自分からその幸福を靴で踏みにじろうとしているのだ」
と大脳皮質に棲む天使(メイド服)と悪魔(ブレザー)がドルビーサラウンドでささやく、最近二人の意見が食い違うことがなくなってきた。
いやいや、とはいっても、女の子家によんで、お茶とお菓子だけ飲んでおしゃべりだけして帰るわけないでしょ、平成何年だと思ってんの。
二一世紀に生まれた若造どもが青い性欲をもてあまして図書館トイレ駐輪場でよろしくやってるんですよ中学生じゃないんだからそんな――
――手も、つながずに、デートは終わった。
待ってください、みなさん。ウンコを投げないでください。座布団を持って行かないでください。
みなさんのおしかりはごもっともです、自分でも、こんなに恋愛に向いてないとは思わなかった。
ふがいない右手を切り落としたい衝動を押さえつけて、メールで謝罪文を打ち、その勢いでおつきあいをお願いした。
リンゴが地面に落ちるがごとくオッケーがでた。
客観的に見るとなんなのこのウブなネンネちゃんとしか思えないし、実際そうだ。
相手もここまでつきあってくれるというのは相当の変人か暇人だし、この際もうちょっと押していこう。
ここにきてようやっと足が動きはじめて恋人的な段階が進んでいくわけです。
話が長くなってきたんでノロケはこの辺にしまして、タイトルの伏線を回収したいと思います。
途中段階はとばしますけど初行為をするべくホテルに行ったわけです。
泡の出る風呂とか照明とかで遊んで、テレビをつけて、AVはやめようってんでNHKにしといたんですよ。
あとは存分にイチャイチャして、照明を落として、消毒剤の臭いがするシーツの上に彼女の身体を横たえて、服はうまく脱がせなかったけど、ブラのホックは一発で外せて。いざや鎌倉うちてしやまんって時テレビの音が耳に入るわけです。
非常に耳慣れたBGM。そう、俺はこのBGMをよく知っている……荘厳で重厚で、悲哀をたたえた力尽くで精神をゆさぶってくる力強い音楽……!
彼女の肌の色がまぶしくて目をつぶるだけで経験したはずもない二〇世紀中盤の白黒映像が走馬燈のように流れ去っていく……。
『映像の世紀』
この文字列見るだけであのテーマソング「巴里は燃えているか」が耳に蘇る方多いんじゃないでしょうか。
わかりますよチャンネル変えるとか、音量下げるとかすればいいんですよ。そんなことはわかってるんですよ。
でも壮大な音楽と、うすっぐらいナレーションをバックに慣れない愛撫とかしてるんですよ、背中にファスナー付いてないかとか、カメラがしかけられてるんじゃないかとか、この反応は演技ではないのか、とかそういうことを考えるのに三十路半ばおじさんは必死なんですよ!! チョビ髭の男が演説してる中、ゴムを付け替える俺の身にもなってくださいよ!! ていうか早くしないとこのままだとあのシーンになってしまうじゃないですか!! だが焦るほどになにもかもうまくいかない!! 東京が焦土に!!
なかばやけになってテーマソングのリズムに沿って腰を動かしてたら、新型爆弾が落ちました。
人間としていろいろ申し訳なくなります。この映像とBGMが強力すぎて、俺は今後彼女と肌を重ねる度に「巴里燃え」が自動的にかかる身体に改造されてしまったわけです。
ちょっとした背徳感は恋のエッセンスとかそいういうおためごかしをすっとばして不謹慎きわまりない初体験です。ヒンズー教徒だった前世の俺が牛肉でも食ったのかと言わんばかりの仕打ちに心折れつつも、焦土となった都市の映像に負けない励起状態を維持しようとしている俺に、彼女がようやく口をひらいてくれます。
そう! 俺はずっときみの一言を待っていたいまからでも遅くない助かった! このいまいましいテレビ消そう! 消そうと言ってくれ! この状況がちょっと面白いのはわかるが俺のチキンハートはもう耐えられないんだ!
枕元にあるリモコンをたぐってなんでもいいからチャンネルを変えてくれ――! はやく!
このままでは俺の爆弾が――――
「ん、――不発弾?」
イケませんでした!
(最後の部分をオチ補正のため追記しました、わかりにくくてすみません)
(まだわかりにくいですよ)
(オチがなくて無理やり付け足すからこういうことになるんですね、わかります)
(うるせ-!)
『女性に人気のある男性芸能人が結婚した時』と『男性に人気のある女性芸能人が結婚した時』、痛いファンの怒りが結婚した芸能人本人に向かうか、結婚相手に向かうかはその痛いファンの性格の違いによる。
統計を取ったら、『女性ファンの怒りは芸能人本人に向かいやすく、男性ファンの怒りは結婚相手の男に向かいやすい』ような結果がもしかしたらあるのかもしれないが。個別の事例だけ見ると『ファン個人の性格の問題』に帰結する。
ただ、一つだけ違うことがある。
女性に人気のある男性芸能人が結婚した時、一定の割合で「悪魔の子だ」といった風に「生まれてくるかもしれない子供」を呪う人が出てくる。男性ファンでそういうことを言い出す人はまず見ない。
これもジェンダーの違いというやつなのか。
ぼくの考えは1ミリも変わらない、どころか、この確信は強固になっているので、あらためて書いておきましょう。
わかりますか。専業ブロガーのブログはダメなんです。もう、読んでて全然面白くない。
異論がある?異論は認めません。じゃあ面白いブログを教えてくださいよ。ぼくは本当に、ブロガー専門で生活している人のブログで「面白い!」と思った試しがありません。
なぜか。教えて差し上げましょう!
1. 守りに入っている
まさにイケダハヤトさんが書いてる「まだ東京で消耗してるの?」のブログは象徴的で、あれつまらないと思うんですよ。イケハヤさん見てますか〜?つまらないですよ、最近。
いや、イケハヤブログは良くできてますよ。セルフメディアとしては日本一だと思います。煽り見出しの選択もうまいし、それとは分からないようにこっそりとチマチマ稼ぐマネタイズもうまいです。
でも、決定的に「面白くない」んですって。
何かと言うと、ブロガーは「攻められない」んです。自分の居場所であるブログを、自分を、守らないといけません。彼は自分のブランディングを傷つけることができません。
サラリーマンはブログで生きているわけではないし、匿名でも書けるので、ブログには何でも書くことができるんですよ。他人に読まれなくても、自分にとって面白いことは何かと考えるエントリーを自由に書くことだってできる。一方でイケハヤの記事は炎上に溢れていますが、それは模倣可能で、もはやコモディティなんですよ。
最近流行ってるじゃないですか、毒のある炎上って。「ブログ芸人」はアートではなく、ビジネスの領域の「テクニック」に堕しました。イケハヤは一つの時代を築き、今終わりかけているのです。勝手ながら、次の変化に期待しています。
…と、イケハヤに対して愛の刃を振るってしまいましたが、要するに「もうつまらない」んです。専業ブロガーの最高峰の集大成ともいえるイケハヤですら、もう面白くない。小銭ねらいの炎上より本当に言いたいことを優先する覚悟が、これからのメディアには求められるのです。
イケハヤには言わずもがな、守るものがあります。ブロガーであるイケハヤが文章を書くとき、イケハヤは「こんなこと書いたら炎上しないかも」という恐れが頭をよぎります。そしてイケハヤは、結論を変え、文末のエッジをねじり、「笑い」と「愛」を手放してしまうのです。ああ!
自分を燃料として炎上するセルフブランディングのブログからは、もう「面白いもの」は生まれてこないんです。炎上のテクニックを極める方向にしかいかない。あとは意識高い系とか社畜批判コンテンツ。ツイッターの大学生のアカウントでいいじゃん、それ。あとは「◯◯が超つまらない理由」とかね。NAVERまとめでいいじゃん、nanapiでいいじゃん、それ。あなたの貴重な人生を割いてまで書く意味はない!
2. 変化が遅すぎる
まぁそりゃそうで、「毎日10時間ネットばっかり見ているイケハヤ」と、「毎日3時間しかネットを見ずにあとはハードな仕事をしたり美味いモノを食ったりしている田端信太郎」がいたら、後者の方が経験値もあがるし女にもモテるんですよね。専業ブロガーは経験値が少なすぎるんで、変化が見えないんです。
イケハヤのようなブロガーは、一日中ブログのことを考えています。データを見て、PDCAを回しています。毎日のように書いているので、ブログを書くスピードも上がります。
イケハヤは今や、1日15本の記事を生産できます。毎日10本更新を365日続けて、3,650本。兼業ブロガーはせいぜい1日に1本でしょうから、365本。そりゃ、記事の濃さは違いますよね。はい論破。…小銭稼ぐなら、薄い炎上記事を量産するより要領のいい方法がいくらでもあるのに。
読者は、イケハヤの変化を望んでいるんです。みんなドラゴンボールが好きですよね。孫悟空がいつまでたっても成長しなかったら、飽きるじゃないですか。
変化しなければ、成長しなければ、面白くないのです。ブログのPVと、チャリンチャリンと落ちてくる小銭ばかりが気になって、狭量な考えのブロガーに終わるんではなくて、多様な考えの人と沸騰的なコミュニケーションを取るような情報量の多い経験に徹底的に時間とエネルギーを注いで、人生の幅を拡げるべきなのです。そうしなければ、イケハヤは主人公にはなれません。イケハヤはいつまでたってもイロモノか、懐かしのブログ芸人の域にとどまります。
3. みんなと同じようなことしか書けない
ブロガーとして成功するために知っておくべき、真理を伝授しましょう。目ん玉洗ってよく読んでください。
この2つの真理から導き出されるのは「専業ブロガーは他者との交流が決定的に欠如しているがゆえに、どれだけ頑張っても同じようなことしか書けない」という帰結です。
面白い文章が書きたければ、自分が面白くならないといけません。面白い生き方をすれば、あなたの文章能力が低かろうが、あなたのブログは読まれます。
あなたの生き方が薄っぺらで独善的でつまらなければ、どれだけ技巧を凝らしても、ブログは面白くなりません。面白がられたとしても、一発ネタで終わりですね、せいぜい。テクニックレベルの話は、すぐに飽きられます。
イケハヤは社会的には珍しい立場でもなんでもなく「新卒で入った大企業を1年で辞めて」「次に入ったベンチャーも1年で辞めて」「社会人3年目に独立して」「ブロガーとして生計を立てており」「東京を捨てて高知の山奥に家族で住んでいる」という、割とオリジナリティの高いバックグラウンドを有しているつもりのようですが、この程度のドロップアウトした人間などいくらでもいますし、書く文章など大して面白くないですよ。
イケハヤ程度の人間なんて無数にいるんです、この日本において。その立場を選ぶかぎり、イケハヤは「その程度のこと」しか書けません。ニートのブロガーの方がよっぽど面白いですよ。ニートの方が珍しい存在ですから。
クリエイターになりたければ、まずは環境を選べ、ということです。あなたが他者の相反する利害に揉まれるような混沌とした環境にいればいるほど、生み出すものは面白くなります。専業ブロガーに甘んじているかぎり、差別化ができないのです。
4. 応援したくならない
イケハヤのブログって、あんまり応援する気にならないんですよねぇ。だって、別に誰が応援しなくてもイケハヤは生きていけるわけですから。
一方で、たとえば宮森さん。いろいろ捨てて実家に戻り、ブログを書きまくっているようです。これはもう、応援したくなりますよね。たまにブログを見て、面白い記事を見つけては拡散しています。でもいつか家を出るような気がしますし、ぼくはそれを勧めますね。ブログで食うのはいいけど、イケハヤのマネはして欲しくないものです。
イケハヤも現在、ブログで活動していますが飯は3食食ってます。食欲の問題は別ですから。月収もやっと3万円超えた程度なのにね。しかし、イケハヤはあのブログで生きていこうと決めたようです。それは自分が生きるために、他人の生き方をけなしながら炎上しつづけるということです。そんな生き方の価値が、他の人よりそんなに高いものなのでしょうか?
メディアづくりにおいて「応援される」という要素は超重要です。面白い存在であれば応援されるし、応援されればさらに面白いものを作れるようになります。しかしイケハヤのような拙い炎上芸も、かなり飽きられています。だからこそ彼にも焦りがあるのでしょう。
住宅ローンの記事なんて、自分さえ儲かれば他人をだましてもいいという領域まで行っちゃってます。あれには呆れました。これまで珍獣を見るようにして面白がっていたまともな大人たちも、あの記事で読むに値しないブログだと決めたことでしょう。個人的には謝罪エントリーがあってもいいと思うレベルです。
もちろんイケハヤは「安全な立場にいる以上、あなたは応援も、期待もされません」というはずです。そりゃそうでしょう。彼はそれでしか生きていけないんですから。しかし、あんな記事を書くような危険を冒すことに何の合理性もありません。
普通の人は「これから起業して社会を変えてやろうと思っているんです!」なんて浮ついたことは口にしませんよね。言ったとしたらアホ扱いされます。そもそも社会とは、他者との齟齬が渦巻く空間なのですから。だれか一人がコントロールできる社会の、どこが豊かなのでしょうか。そんな貧しい社会を願っているなんて、よほどのコンプレックスがあるか、あるいは何も考えていないかどちらかでしょう。
まあ「でも、リスクヘッジのために会社は辞めませんけどね(てへぺろ)」とか言ってたら、それなりに考えている利口な人なのかもしれないなと思いますが。これと一緒です。
武雄市の公務員を辞めて高知に来たイケハヤのアシスタント・里本さんは、「公務員辛すぎて辞めました。ブロガーになりたいです」と、なんか死にそうなメールをイケハヤに送ってきたそうです。イケハヤは手を差し伸べて、応援してあげないといけないと思い、彼が公務員を続けていたら、イケハヤは応援していませんからね、と言ってるそうですが、ぼくにはどうでもいいです。ただ里本さんには、しばらく世話になったら丁寧にお礼を言ってイケハヤの元を去った方がいいと思います。マジで。
「アルケミスト」でそんな表現があったと思いますが、後ろのドアを閉じるから、前のドアが開くんです。…なんて言いますが、そんなの詭弁ですよ。後ろのドアを閉めたら、前も閉まって閉じ込められる可能性の方が高い。前のドアが開く保証なんかないですって。
そんな詭弁を弄しているうちは、誰もイケハヤに注目しないし、応援もしてくれません。誰でも自力だけじゃ面白いものは作れませんよ。
…なんて、自分の利益のために他人を煽ってアフィリエイトを踏ませようとするなんて、しょぼい商売じゃないですか?
イケハヤはそれをわかっちゃいない。
イケハヤやはあちゅうはサギを突き詰めるために、引っ込みがつかなくなって、全裸になっているわけですが、そろそろ目を背けられるときが来るでしょう。今はもう、そういうサギが求められている時代じゃないんですよ。ぬくぬくコタツに入って読むに値する本物の作家の本でも読んで、ネットの作家気取りをバカにして過ごしましょう。以上、サラリーマンのみなさまにはどうでもいい話でした。騙されるなよ。
連日のパクリ騒動について静観決め込んでたけど、デザイナー連中が一向に本音を吐こうとしないからそろそろ苛ついてきた。
デザイナー連中はいつまでオリジナルが大事だとかすました顔で言っているつもりなのか。
それならば聞くが、君たちはいつピカソやダリや北斎を超えたのか?
自分たちが過去の作品に習って学校で体系的に学んできたことが自分たちのデザインがそもそもパクリの上に成り立っていることを示す確固たる証拠ではないか。
それが何か。
「一部のパクリデザイナーを見て全員をそう思わないでほしい。」「一生懸命に素材を撮影したり手で書いたりしている人がかわいそう。」
笑止千万。ヘソで茶を沸かしてやるからまずはこれ飲んで落ち着け。
それなら手書きしたり自分で素材撮影したりすればそれはオリジナルだと言えるの?
その構図にモチーフやインスパイアがあってもそれはパクリとは言わないってわけ?
それなら聞くが、既存の素材を取り込んでフォトショで加工することと何が違うの?
だからもうみんなではっきり認めなさい。そんなことは全て綺麗事だということを。
一度でもデザインに携わったことのある人間に聞くが、自分が創りだしたそれが全く何の影響も受けてない完全無欠のオリジナル作品だと言い切ることができますか?
だったらなんでライターが持ってきたどっかで見たような写真と文章を、デザイナーはどっかでみたようなレイアウトで配置しつづけるの?
まともにデザインなんてしたことがないような連中がいうならまだしも、プロ連中がそれをいってちゃダメだろ。
だったらインスパイアされた相手にいつも許可とってライセンス料払ってるの???
パクった佐野研二郎が悪いんじゃなくて、デザインはパクリなんてない崇高で潔白なものじゃないとダメって思っている世の中にあるわけ。
パクリ問題の本質は、パクることの是非ではなく、ライセンスの支払いやら法的効力に全て帰結することにあります。
だって違法じゃなければデザインなんてみんなパクりなんだから問題にしようがないんだもの。
それを世の中がパクリそのものが悪なんて顔してるから、世の中のデザインは窮屈でしょうがないんだよ。
例えばスペインの片隅にある劇場にどうやってアポとってライセンス料契約とかを結べばいいわけ?
どんなに似てようが、国も違ければ法律も違う上で、違法になり得ないなら別にかまわないのよ。
だって、デザイナーはそれよりも重要な使命を負っているのだから。
彼らがやっていることはもっと崇高なの。
世界中から集めた数多あるデザインを適切な場所に適切なデザインで再構築と再配置するという大きな使命を担っているんだ。
世論に押されてだんまり決め込んでないで、デザインなんてパクリだ何が悪いってさっさと開き直ることだね。
どうせ事なかれ主義の法律が追いついていないだけな瑣末な問題だ。
現に中国で生まれたラーメンが日本で姿を変えアメリカに持ち込まれたことで多くの人が喜んでいるではないか。
自分たちの行いが正しいと信じているなら、変えるべきものは法だ。それこそ一国の首相が認めていることではないか。
問題提起してさっさと法改正させないと、それこそデザインの死が訪れてしまう。
パクリ問題でもとのデザインがあればだれでもデザイナーになれるって言ってる奴いたな。
だったらお前はなんで世界的デザイナーになれてないだ?デザイナーにかぎらず、少なくとも実業家くらいにはなっているはずだろ?
くだらないこと言ってる暇があったら自分の足元よく見ろよ。
世界をめぐる情報は、早さ、量、質ともに人類がかつて経験したことのない水準に到達しているのだ。
その世の中で自分以前にオリジナルが存在しないことを証明するのは、いわゆる悪魔の証明というやつで、証明する労力と見返りが釣り合うことのない問題だ。
結局はそれが違法であるか否かという点でしか問題として取り上げることは困難なのだ。
そんなことにリソースを割き続けることは人類にとって単なる損失だ。
今の世の中で高く評価されるべき能力は、世界中に点在する様々な要素を、今、それを求めている場所に求めている形で再構築する能力だ。
そういう意味ではいつまでもデザイナーなんて呼び方に酔いしれてないで、さっさとコーディネーターとでも名乗り直すことだな。
いずれにしても君たちの行いは求めてられていることなのだ。
ネットがつまらなくなった。ここ数年ぽつぽつとそういう話を聞く。
面白かったと言われる頃のサイトもフラッシュ黎明期やニコニコ黎明期の動画もほとんど今でも見ることができる
新しいコンテンツは続々増えている。
なのになぜ、つまらないと感じる人が出てきているんだろう?
それは単純に老いたから?ネットのコンテンツに慣れきってしまって刺激が足りなくなってしまったからだろうか?
それも理由の一つではあるだろうけど、ネットのコンテンツは爆発的に増加して動画やゲームも取り込んでいる。
本も読めて、ネット上の友人と話すこともできる。仮想体験も含めれば、ネットは現実の娯楽のほとんどを網羅しそうな存在だ。
そのネットに飽きた理由が単純に老いであるならば、それは人生を飽きかけてる仙人のような存在なんだろうか。
それはなかなかないんじゃないかと俺は思う。
ネットはつまらなくなったと思うけど、現実はまだまだ俺にとって面白いのだ。
じゃあ、ネットが変質したのか?と考えるとそれはあると思う。
いまや検索で何かについて調べると、ネイバーのようなまとめサイトや、企業広告、妙にべた褒めした口コミが目につく。
もちろん検索の方法やアドオンでそれなりに回避はできるけど、面白いコンテンツを探すのがとても大変になった。
いくら面白い物があっても、それを楽しむためにかかる時間や手間が大きければ敬遠する人が出るのは当然だ。
ディズニーランドの待ち時間や自炊の手間暇を嫌う人がいるのとおんなじだ。
そして、情報を得るためのネットだけでなく、情報を発信するためのネットも、変質したと思う。
ネットは昔、一般人でも情報発信ができる革命みたいなものだって言われてたけど、今は人数が増えて、区画整理されて
普通の人はだれからも見てもらえないような有象無象になった。昔は小さなブログやお絵かき掲示板でもコメントが付いた。
ネットも昔は小さいコンテンツしかなかったから、たくさんの人が少ないサイトに集まってたんだと思う。
そして、発表の場はどこでも良かったけど、いまはツイッターやニコニコやpixivみたいな発表に合った場を使わないとまずい。
そしてそこで見ると、誰かの作品というよりニコニコやPixivのコンテンツとして見てしまい、作家の独自性が薄まる気がする。
絵師のサイトが乱立してた時代ってサイトにはその人の個性が溢れてて好きだったな
あとは、お金儲けのために情報をがむしゃらに発信する人が増えて、劣化した発信者が増えたんじゃないだろうか。
変な動画を乱発しているユーチューバーや、機械が作ってるようなまとめサイト、ブログを見るとそう思う
ちょっと前に流行ったmixi、フェイスブック、Lineのような部外者の立ち入りを禁止する閉鎖的コンテンツも
ネットがつまらなくなった原因じゃないかと思う。普通の人の適当な発言や日記はそういうところに集まってしまって
商業性や政治性の高い発言ばかりが集まるところの情報しか集まらなくなって、それをまとめるサイトが増えて
なんてことのない日常の会話や面白い話がオープンなネット上では増えにくくなってるのだと思う。
ネットが分断されて区画整理されて、新しい面白さは大きなサイトに閉じ込められ、昔ながらのサイトや良い情報を供給するサイトは
検索対策をした商業サイトや膨大なつまらないサイトに埋もれてしまった。
ネットを使いこなせば、昔のように楽しめるだろうけど、有象無象が増えすぎたり、良いコンテンツは奥の方に行ってしまった。
そして、検索による開拓は大変な労力が必要になり検索も億劫になって、昔ながらのサイトにあった知人やお気に入りのリンクはなくなってしまって
ネットが巡回ばかりになっている徘徊老人のようなだらだらとしたネット徘徊者も増えてるんじゃないかな。俺のことだけど
そういう考え方もアリ、そういう正論もある、という所から見た歪んだ世界を表現したいのだろうけどそういう考え方は無いしそういう正論もないよ。
その思考の原点となる「負ける」って何に対してどうなる状況を言っているのか言ってる本人もわかってない。
資本をたかめることか経常利益をあげることか給与を多くすることか社員の品質評価をたかめることかどれかを決めかねたあげく、だれかに良いといってもらえそうなものは全部と思っているのだろう。
マラソンで何回優勝してもドーピングしたり無理な走行で寿命を縮めたり公害や事故にあったり外的要因から非難をされたりする可能性を含めていないようだ。
そもそも何に勝つのかも考えてないだろう。
個人という単位で方向性を問うなら個人の価値に帰結するものだ。
個人が会社の仕組みについて問うのであればそれは個人と会社の関係性であって会社の方向性という個人に影響はあれど個人の意思決定等とは全く関係のないものである。
結局、勝ち負けや会社や休日といった人気ワードを撒き散らしたレプリカで本質を突いた気になっているまたは気にさせるこを目的としているだけということになる。
例えて言うなら、プリンセスダイヤをちりばめた本物のお姫様ペンダント、という夜店で売ってるプラスチックの玩具と同じ意味合いを持つ。
それが本物であるという思い入れが個人にあるならそれはそれでいいだろうし、その個人の思いが本質でありつづけられるのは個人の心のなかだけという程度のことは理解できるだろう。
その人気のワードをちりばめているという事実だけで馳せる思いを共感しようとさせるのは、一般に気持ち悪いということも理解しているのだろう。
そんなに気持ち悪いアピールをつかって企業は単純で愚かな選択をしていると非難してみても、それは夜店の玩具の剣を昼間平日一般人にひけらかしてみようという行為に見えて滑稽だ。
そのしたいことに合致した内容を用いれば望み通りになるのだろうけれども、それでは期待した反応ではない。あくまで冗談であることはわかってほしいが真剣にそれをやっている姿が滑稽とも見せたい、というところから導き出された経験不足の結果だろう。
したいことを実践するのであればそんな安物のワードではなく世界的に有名な成功者の例を出してそうでもしないとどこに到達できないと明確にすれば良い。
しかし実際に身を呈して目的を達成する価値を言いたいわけではないのだろう。それをバカにしたいのだが著名人を露骨にバカにするのも批判しかあつまらない、それをバカにする自分の愚かさを指摘されて不快になる程度は想像がつくのだろう。
どこにでもある良い話系のなかに、そういう表現者がこまったとき先人からもらったありがたい一言というのはだいたい定番としてよくあるだろう。
安っぽい見かけで表現したいことを全部詰め込んでみました、といって満足できるのはその本質をしらない子供だけだということに主観的では気がつかないものなのかと呆れることも多いだろう。
実際世の中には、家に居場所がないから会社に毎日出たいむしろ帰りたくないという人間がいる。そしてそれは非常に邪魔で迷惑だ。
しかし家庭という問題を会社の評価と結びつけらえない場合、数値的には非常に優秀な人材に見えてしまう。
そんなことは想像がつかなかったのだろう。実際これは人事として非常に困難な対応を迫られる問題だ。
最終的には、きみの渾身のパフォーマンスに対して観客は困り顔で笑っている様子になる。
表面的にみればきみは満足な公演結果だろう。しかしそれはきみの想像している結果の方向性と合致してはいない。
満足な結果に成功を確信しつつ前進していけば、その間違った方向でいつか「どこで間違っていたのだろう」と振り返ることになる。
その時のためにここに記しておこう。
ここもきみの分岐を間違えた一つだったと。
これは愚にも付かないただのポエムだ。それ以上でもそれ以下でもない。増田にありがちな、特に読む必要の無い、駄文というものだ。登場するものはイニシャルとかではなくただの連番を振ることにする。
僕は心が壊れてリタイアをしたことがある技術者だ。今の会社にはちょっとした縁があって拾われた。技術自体は多少は持ってるもの実質未経験な上、コミュニケーションに難があるがそれでも良いということで採用された。
入社してすぐ上長である1.から「ほんとごめん」っていきなり謝られた。当時はいやな予感はしたものの全く何を謝られているのか理解できなかったが、配属されたプロダクト2.のことだった。2.はとにかくスピード勝負で立ち上げられたもので、度を超えて醜悪で、かつ誰も全容を把握していないという度しがたいものであった。
もちろんこれには事情もあって2.が立ち上がった時点で主流だった3.というプロダクトはかっちりしているものの開発スピードが極度に遅いモノだった。仕組み・制度・人員様々な事情はあったが、おそらくはプロダクトに対する依頼者4.と開発部署の人間関係に起因するものではないかと僕は推測している。推測する理由は、その後に深まる部署間の対立と、2.が度々抜け穴として使われていた事実からだ。
2.のプロダクトのリーダーをやっていてつらかったのは、プロダクトの実情と、周りの認識の乖離によるものだ。2.は抜け穴として扱われる以外にもスピーディな開発ができると期待されるものだった。だが、実際には極度の複雑性を持つために、何かを犠牲にしなければ高速な開発など到底望めないものだったのだ。しかも、なぜか「簡単」という印象も先行していたこと、そもそも僕自身がリーダーという未経験の業務を社会復帰直後に負わされたこと、前任担当者と入れ替わり入社したこともあって実質引き継ぎがなかったこと、ほぼ人員が割り当てられない (一時期は担当者が僕一人になっていた) こと、重要な機能を実現するにはふさわしくないにもかかわらず、3. の連携プロダクトとして、重要な機能を実現してしまったことなど…。書くにはきりが無いのでここらへんにしよう。
後ほど2.から離れた後に何人かから2.に関する外的な評価を聞いたが、「どうしてあんな簡単なプロダクトに苦労するところあるの?」みたい話に帰結していた。ぼくの評価に関してははまぁそのようなものだろう。1. からは「好きなようにしていいよ」と言われていたので、本当はチャンスだったのかもしれない。ただ、僕にはそれを好きなようにできるだけの経験が全く無かったのだ。またコミュニケーションの問題もあって、復帰直前などは対人恐怖が強かったのもあって、ステイクホルダーがあまりにも多く関わる2.のプロダクトを切り盛りするにはふさわしくなかった。
2.のプロダクトに関わっている間に社内情勢はがらりと変わる。技術者の部署が分割され花形となる主流派と傍流に散っていくことになる。また、給与レンジの変更があったときに実質引き下げを行われ、僕の給与は高卒と同程度となった。詳しいことは特に書く気はない。まぁ僕はつじつまさえ合っていればいいといういい加減な人間なので給与に対する不満はあっても、曲がりなりにも生活できてるのならそれでいいかと考えていた。
僕の不満はむしろ待遇に対するものだ。選択肢がどんどん狭まっていく労働を強いられているということが我慢ならないのだ。主流派には興味深い技術も多い。僕は最近悟ったのだが、技術的チャレンジに意欲が極度に強い反面、平凡な糞くだらない開発には全く興味もわかないのだ。そして、興味の無いことに対する作業効率がきわめて悪いのだ。まぁ一端その話は置いておこう。
2.のプロダクトから離れた後部署内の様々なプロダクトを転々とすることになる。あるプロダクトのリーダー5.は10歳年下だったが、僕のことを最初から見下して「○○君」と呼んだり「こんな程度の引き継ぎ、教えなくてもわかるだろ」と言ったりしていた。後ほど上長8.から窘められたのか「○○さん」と呼ぶようにはなっていたが。またプロダクトのメンバー6.には質問をしたときに「あうぇあうぇうぇうぇうぇー」とか意味不明な奇声を上げたりされた。詳しい台詞はもう覚えてないが、とにかくすごくふざけた感じの返答しかしてこなかった。別に6.は他の人に対してそのような言動をしていることは全く無かったのだが。
実際のところ、僕が今の会社でトラブルのあった人間関係としては、5.と6.と給与実質引き下げの直前の部長くらいしかなかったが、実は僕が認識していないだけでもっとあったのかもしれない。後ほど語る7.とは人間関係のトラブルはあったものの仕事では全くからみがなかった。
話を戻すが、5.と一緒に働くのはとにかく苦痛だった。思い出すだけで吐き気がしてきてつらいので詳しいことは書かないが、僕はとにかく精神的に荒れていてSNSに愚痴を吐露し続けたり、会社を休職しようかと思っていたが8.に相談をしたときに「休職すると、現時点ですでに下限の給与がアルバイト並に引き下げられることになるし、とにかくやめておけ。なんとかがんばって出社しろ」と言われた。8.との幾度かの面談で、大体2.や僕の評価について知ることになる。
もう詳しく覚えていないのだが、このタイミングだったか、入社以来友人関係のあった7.と喧嘩別れをした。7.の日頃の考え方、言動にとにかくムカついて反感を感じていたのだ。日頃から7.はSNSで僕に対する当て付けをエアーリプライで飛ばしまくっていた。まぁ7.の言動などから推察するに、彼も僕には反感を抱いていたのだろう。お互い、ソリの合わなさを我慢して友人関係を続けていたのだが、この時に「我慢をし続けるのは本当に良くない」と悟った。ただ、一つだけなるほどと思ったことがあった。
当時、待遇の不満に対して、転職を考えていたのだが、そのことを知る7.に「転職しても根本解決しないのでは?」と言われたことだけは確かにそうなのかもしれないとは思っている。後に別の人物にも近いことを言われたし実際そうなのだろう。もう一つ印象深いことを言い残していて「おまえは本当に開発が好きなのか?」と。先ほども書いたが僕が好きなのは技術的なチャレンジであって、平凡な開発には興味の欠片もないのだ。「コードを書いてさえいれば幸せだ」というタイプの人種とは全く違う。
さて、話を戻すと、僕はなんとか欠勤することもなく出社を続けた。その後、5.は別チームに飛ばされ、一時の心の平穏を得ることになる。この平穏な時期はほとんど「死にたい」と思うこともなく生きていられた。
だが、最近また精神状態が悪化することになる。実はそのトリガーが何だったのかを全く思い出せない。平穏期に意図的に待遇に対する不満を忘れていたのが再度噴出することになる。時期だけは覚えていて、大体6月末だ。7月以降、僕は考え方を切り替えた。「我慢すると、いつか破綻を来す」睡眠時間を削ってオフタイムに技術的なチャレンジをすることになる。
僕は人格的には最悪なタイプだ。客観的に見て僕は僕と仲良くしようとは欠片も思わないだろう。コミュニケーション能力は無くはないが、きわめて偏っているので、コミュ障と言ってもいいだろう。仕事に関する能力にしてもさほど高くはない。頭が良いわけでもないし、あまり効率的ではないし、何より興味の無いことに対して僕は露骨すぎる。狙ってやっているわけではないがどうしてもそうなってしまうのだ。
技術的チャレンジだけでなんとかやっていけないだろうか?と、考えている。ここで問題になるのが僕の学歴のなさだ。ドロップアウト組なので学そのものが無い。だが、僕は技術的なチャレンジにしか興味を持てないのだ。友人からは「贅沢な悩みだなー」と言われた。実際そうなのだろう。仕事をえり好みするというのはきわめて贅沢な悩みなのだろう。部署の壁もある。
さて、僕の生きる理由の希薄さについて説明せねばなるまい。僕は生きる理由が希薄なのだ。ドロップアウトした頃の後遺症なのか、未だに希薄なのだ。存命の父親に迷惑をかけたくない、痛いのはいやだ、技術的チャレンジをしたい位しか生きる理由もないのだ。趣味はなくもないが、生きたい理由になるほど強くもない。生きることに必死になれないのだ。贅沢な悩みで、死を選んでもいいかなと考えてしまう程度には。
僕はリミットを定めている。それは借金が限界まで行ったらというものだ。最近手持ちの金が尽きて、最大200万円のカードローンを契約した。これが限界までいったら、その時はもういいかなと思っている。それまではがんばろうという思いなのだ。
駄文につきあってくれてありがとう。別に何か取り立てておもしろみのある事件があったわけでもない。無能な男が、平々凡々な日々のやりとりや、しょうもないことに心が摩耗してしまって、心が悲鳴を上げていたので、誰かに聞いてほしくて文章を書いた。ただそれだけのしょうも無い駄文につきあってくれて、本当にありがとう。
さも人間関係が実りであると帰結したそうに見えるが、人恋しいのか?
出会い系で無料で出会えたとかセフレが出来たとか彼女ができたとかあるが
あんなのにひっかかりたいのか?
実際の人間関係がどれほど重たくて面倒でしんどいものか知っているから
いままで構築してこなかったんじゃないのか?
実際問題、お金で買える。キャバクラいけばいいしスナック行けばいいし
縁故だとか情だとか法的関係だとかで重く軋む生活を続けざるを得なかったり
あたたかい家庭や、やさしい恋人なんかは金銭に換算すると0だが
その価値はお金ではかれないからしかたなく0といえなくもないほど
高価なものだ。
ガソリン代やメンテナンス費用で「なんのためにいきているのか」を
お金で買える車は処分のしようがあるが、あたたかい家庭ややさしい恋人は
維持できなくなったらどうするんだ。
とどのつまり、いま0でないならいま0になる程度に無駄遣いしても
その選択肢に満足できないかもしれないが、ほとんどの人間の欲求を
金銭変換できてる世界がいまここにはある。
http://webbingstudio.com/weblog/cms/entry-773.html
小規模の商用サイトでは、フォームを暗号化する際には、共有SSLを利用するのが当たり前となっています。独自ドメインのSSL証明書を取得すると、フォームを通して得られる収益よりも、維持費の方がはるかに高くなってしまうからです。
とこの記事では書かれていますが、一体どこで「当たり前」なんでしょうか?
SSL証明書の取得費用は、サーバーホスティングによって額がまちまちなのは確かですけれども、
安く独自SSL証明書を取得して利用できるサーバーホスティングは山ほどあります。
WEB制作者として「自分が良く知っているだけ」のサーバーのレンタルをクライアントに押し付けてはいませんか?
また、小規模商用サイトにしても、仮に年額35,000円のSSL証明書をつけ、かつ、月額3,000円のサーバーを借りていたとすると
月額でいえば6,000円くらいの負担ですが、
いくら小規模とはいえ、広報活動の中核をなすWEBサイトであるならば、
月額6,000円をペイできないとすると、
(というか、効果測定をしていないだけ?)
共用SSLのリスクに関して言えば、この記事が引用している、高木浩光氏の書かれている通りではあります。
cookieが取得できてしまう結果として、一番最初に狙われるのは、管理画面へのログイン。
いわゆるセッションハイジャックです。
ログイン状態を乗っ取られた時点で、どんなCMSでも、WEBサイトの改ざんは可能です。
なぜか。
そのコンテンツは多くの場合MySQLに代表されるDBに保存してあります。
したがって、ファイルの改ざんなどを行わずとも、WEBサイトの内容は書き換えることが可能なのです。
「なるほど」と思ってしまうかもしれないので、
早々に訂正していただきたい。
また、この記事にある a-blog cmsというCMSについてはよく知りませんが、
多くのモダンなCMSでは、ほとんどの管理画面ログインにおいて、
セッションハイジャックに対する防衛は行われていますので、
cookieの取得が、即WEBページの改ざんに繋がるような書き方も、
ここも早々に訂正していただきたい。
この筆者さんは、a-blog cmsというCMSを利用されているようだ。
このCMSはどうやら、PHP製ながらPHPのソースを暗号化しているようだ。
こう言ってはなんですが、攻撃者にしてみれば、a-blog cmsを攻略するくらいならMovable TypeやWordPressを攻めた方が楽というものです。
この記述はむちゃくちゃである。攻撃者にしてみれば、誰でも手に入れられるCMSであれば、
a-blog cmsの公式サイトを拝見すると、MySQLを利用しているようで、
ファイルの暗号化はなされていようとも、DBの中身の仕様は丸見えだ。
前提条件として「知っている」「知らない」の差はあれど、攻撃に関して「ラク」というのは
どう考えても楽観的に過ぎる考えだ。
どうも「SSLで確保される安全の領域」について、かなり認識が甘いようだ。
SSLはあくまで、TCP/IPネットワークにおいて通信経路を暗号化するための技術だ。
通信する際に、通信先のサーバーが正しく認証されているかどうか?に必要なのはSSL証明書。
で、ここに書いたとおり、SSLはあくまでサーバーと利用者の通信においての暗号化だ。
この記事に書かれていることは「メールフォームについて」のことのようだが、
サーバーに到達したあとのメールについては安全性をかんがえていますか?
メールは全く暗号化されず平文で送信されるとても脆弱な通信手段だ。
いくらSSLで通信を暗号化しようとも、問い合わせフォームの送信がメールだったとすると…
とこの記事ではかかれていますが、そもそもHTTPやHTTPSの通信を傍受するより遥かに
メールを傍受したほうがラクとも考えられるはず。
CMSの機能に甘んじて、こういったベーシックな問題に考えが及んでいないとすると、
とおもう。
記事に対するつっこみではないですが、
正しくは「TLS」でっせ。
桜井翔「そうだよね。僕にも悩みの一つや二つくらい、あるよ」
桜井翔でもないあなたが桜井翔の悩みを解決することができますか?
あなたの悩みや苦しみを桜井翔が解決して無くしてくれることができますか?
結局は自分が何ができるのか何ができないのか、
Aさんが何ができるとか、Bさんはあれができるとか、それには意味がないんです。
AさんBさんがどうだろうとあなたのできることと、できないことは変わらないんですから。
そしてどうして桜井翔があなたに対して羨ましいと思う部分が一つもないと言い切れるのでしょうか?
もし彼が末期がんにでもなれば、健康なあなたを心の底から羨ましいと思います。
その程度のことなんです。