はてなキーワード: テロリズムとは
勝った方が正義で負けた方がテロと呼ばれるから正義は常に勝つってだけ。
正義は結果につく名前なんだよ。
クーデターとテロリズムの差も曖昧だしな。
テロリズムで意見を通すのが普通になったら大惨事だ (だから一切認めない) というのが現在の社会的コンセンサスになっている。
テロで社会を変えられないと誰もがわかっていても「それでもなお起こる」のが何故かということを考えたことがある?
社会が不平等で理不尽でどうしようもない闇と怒りがあるからだよ。
どこかにある闇があなたの目に触れなくてもそこには人の苦しみがある。
もちろんテロリズムが頻出して欲しくはないが、テロリズムは不完全な社会がそのような形で表れているというだけであって、不完全な社会を是正していくことから目を背けてテロリズムの抑止ばかりが俎上に上がるのはうんざりもする。
そもそもこれが間違ってるんだけど、(少なくない)ヴィーガン自身もアンチヴィーガンもこの間違いを理解できないから未だにごちゃごちゃ言ってるんだよね。
「ヴィーガニズム」と言うように、これは「イズム(主義)」なんだよ。
「男は強くなければいけない」「女は可愛くなければいけない」そういう「主義」を自分の中に持ちながら、ジェンダー多様性を尊重して他人に押し付けない人なんて今の時代いくらでもいるよ。ポディービルダーやアイドルの多くはそうじゃないかな。
それでも日本で酒は禁止になっていないし、欧米でも同性愛は禁止になっていない。
それらを絶対に許さない信徒のことは「過激派」と呼ぶ。それが普通の人の認識。
一般論として言えば、「倫理規範は他人に押し付けるものじゃない」んだよ。
ただし例外的に、殺人や窃盗のような「主義に関わらず、広く一般的に共有されている倫理規範」に限っては、他人に押し付けることが許される。その「広く一般的」を決めるのが立法議会。
ヴィーガニズムは今のところ、そのように「広く一般的に共有されて」はいない。
例えば「ヴィーガン党」のような政党を作って、食肉禁止の立法を目指すことまでは想定可能だが、立法議論をすっ飛ばして暴力行為に走るのはテロリズムでしかない。
他人に押し付けない個人の主義としては、ヴィーガニズムも宗教と同じように、尊重されなければいけない。それが「信仰の自由」と「思想の自由」というもの。
最近のはてな界隈の動きが気になったのでアンケートを取ってみる。ここで言うテロの定義は下部の※のとおり。
「テロ」で答えづらければ、「殺人」と置き換えてもらってもOK(その場合、前段は無視し、選択肢は1または3のみとなる)。
また、3または4を選択肢した場合には、どのような「やむを得ない事情」を想定しているか合わせて教えてもらえると有り難い。
1.元総理殺害事件はテロである。どのような事情があろうとも、テロは容認しない。
2.元総理殺害事件はテロではない。どのような事情があろうとも、テロは容認しない。
3.元総理殺害事件はテロである。やむを得ない事情があれば、テロは許容する。
4.元総理殺害事件はテロではない。やむを得ない事情があれば、テロは許容する。
広く恐怖又は不安を抱かせることによりその目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動をいう
例えば、アメリカ合衆国では、合衆国法典第22編第38章第2656f条において、テロリズムとは「準国家的集団又は秘密の代理人による、非戦闘員を標的とし、事前に計画された政治的な動機を持つ暴力をいう」と定義されているhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/テロリズムの定義
新海誠は2004年に「雲のむこう、約束の場所」という映画を製作している。
本論では、この映画から政治性が巧みに隠蔽され、特にアイヌ民族が消えてしまっていることを論じる。
北海道をソ連(作中ではユニオン)に占領された世界。藤沢浩紀と白川拓也はそこに建造された不思議な塔まで、自作の飛行機で密航することを夢見ていた。その秘密がふとしたことで同級生の沢渡佐由理に露見してしまうが、彼女は二人の共犯者となり、いつか彼女も塔まで連れて行ってもらうことを約束する。しかし、彼女は突如姿を消し、飛行機の話もそれっきりになってしまう。
三年後、拓也は塔の破壊を企てる反ユニオン組織ウィルタ解放戦線に内通しつつ軍属で研究し、塔の秘密を探っていた。塔の目的は並行世界の観測による高度な未来予測であった。そして、塔の設計者であるエクスン・ツキノエには孫娘がおり、その孫娘たる沢渡佐由理が原因不明の奇病で三年間眠り続けていると知る。
一方、東京に出た浩紀は、佐由理の夢に悩まされていた。そんななかで彼女の痕跡を追い、かつて入院していた病院にたどり着くと、突如佐由理と浩紀は夢の世界で心を通い合わせる。浩紀は佐由理を救うには三年前の約束を果たさねばならないと悟る。
だが、拓也側の研究の成果により、佐由理は眠り続けていることで塔からの並行宇宙の浸食を防いでいると明らかになる。彼女が目覚めれば、この世界はあっという間に浸食されるだろう。
浩紀は青森に戻り、拓也と再会する。浩紀は拓也に「ヴェラシーラに佐由理を乗せ、塔に連れていくことで佐由理は目覚める」と伝え、協力を求める。佐由理の目覚めによりこの宇宙の消失を恐れる拓也は、一度は協力を拒絶する。しかし葛藤の末、佐由理を軍の病院から連れ出してきた。浩紀は佐由理を後部座席に乗せ、米ソ開戦直前でヴェラシーラを発進させる。
緊張が極限に達した米ソは開戦し、その混乱の中で浩紀はヴェラシーラを飛ばす。塔の傍で目を覚まし、涙を流す佐由理。浩紀はウィルタ解放戦線に託された爆弾を投下し、塔を壊して宇宙の消失を食い止める。
佐由理は目を覚ました。しかし、目覚めと共に浩紀に対する思いは消えてしまっていた。
さて、先ほど述べたように、作中では日本がソ連の侵攻によって南北に分断されている。そして作中のテロ組織は(南北統一のため?)北海道の塔を破壊することを目的としている。
そこで、「ウィルタ解放戦線」という名称が問題になる。ウィルタというのは北海道ではなく、サハリン(樺太)の先住民族の名前なのだ。確かにウィルタは北海道に数名居住していたが、北海道の解放を願うなら、「アイヌ解放戦線」とならなければ筋が通らない。
アイヌ民族に言及することによる政治的問題を避けるために事実を歪曲させたのではないかと疑われる。樺太開放も目標としていたと仮定すれば、考えられなくもないが……。
祖父の名前、エクスン・ツキノエは、日本語話者にとっては異質な響きを持つ。また、ロシア語風でもない。元々新海誠は多少いい加減なネーミングを行うことがあるので、深い意味はないだろうと思って数年間はこの名前に注目してこなかった。しかし、私がたまたまアイヌ民族に関する書籍を読んでいたとき、ツキノエは国後島アイヌの首長の名であると知った。同様のことを述べたツイートがあったが、現在は消えてしまっている。
そこでエクスンとはどういう意味かというと、ここによれば「向こうへ」という意味らしい。「沢渡」という姓はここに由来している可能性がある。
http://tommy1949.world.coocan.jp/aynudictionary.htm
浩紀はラストで単身ヴェラシーラに乗り、北海道中央部にそびえる塔を破壊する。すべては佐由理の目を覚ますためであり、並行世界が流れ込んでくるリスクを引き受けてのことだった。
しかし、実はまことに政治性の強い作品である。SFっぽさと感傷的な恋愛描写がまぶされているが、描かれているのは間違いなく世界を変える(少なくとも一国の軍事施設を破壊し、地域のパワーバランスを崩壊させる)テロリズムである。米ソ開戦中の混乱に乗じてのことであり、もしも両国が責任のなすりあいを始めたらと考えると恐ろしい。
新海誠がこの件についてどの程度自覚的であったかは疑問である。どちらかといえば気分的なものでプロットを作っており、作品の政治性についてはあまり深く考えていなかったのではないか。
実際、朝鮮半島やドイツの分断に伴う深刻さは、出会えなくなった家族に言及されることもあるが目立った悲痛さはなく、この作品では過去の背景に退いている。
米ソ戦のなかで時に死体が降ってくる場面はあるけれども……?
作中では「ヴェラシーラ」とは「白い翼」の意味だと説明されていた。
はじめ、自分はこの言葉をスペイン語だと思っていた。つまり、Bella Cielaだ。アルゼンチン方言ではbをvで発音することがあるらしいし。しかしよく調べてみると、スペイン語の語順や活用の形としてはおかしい(当時のウェブ翻訳は今と比べてずっと貧弱だったし、単語の原形で検索するしかなかった)。
そこで、ロシア語ではないかと思い、いろいろなつづりを試みた。すると、「白い」は「белый」ベリイ、「力」で「сила」シラとなり、それっぽい。ソ連にいる祖父がいるのだから、彼女にロシア語の知識があったとしてもおかしくはない。意味は「白い力」になるが、「白い翼」には十分近い。ベラルーシの「ベラ」が白なので、そこから取った可能性もある(同じことを言っているページを見つけた)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1216740382。
ただし、これもまた活用の問題がある。「白い力」はロシア語では「белая сила」ベラヤ・シラとなる。それに、よく考えればbとvの音の混同が起こっている。
もっとも、「星を追う子ども」では潜っても呼吸できる水を「ヴィータクア」、世界の果てを「フィニステラ」とラテン語としては語順が逆の形で名づけているので、そのあたりはいい加減なようだ(それぞれアクア・ヴィタエ、テラ・フィニスが標準的なラテン語の形である)。
また、同作の中では深い意味もなくセフィロトの樹が引用され、シャクナ・ヴィマーナやケツァルコアトルなど無関係な神話がコラージュ的に用いられている。その背景には明確な思想を読み取ることはできなかった。
「雲のむこう、約束の場所」では感傷的なまでに甘い思春期の心情を描いてみせた。一方で、この作品はかなり政治的な危うさをはらんでもいた。危うさの一つはテロリズムの肯定であり、もう一つはプロットに入り込んでいるはずのアイヌ民族の存在を背景に退かせたことであった。後者に関しては少なくとも筆者の知る範囲について、ヒロインがアイヌ民族のクォーターであることに言及した資料は見当たらなかった(註:とあるウェブサイトで、佐由理は恐山かどこかの巫女の家系だという初期設定に言及したところがあった。興味深いのでここにリンクを貼るhttp://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/anime/promisedplace2.html)。
しかし、2004年には許された描写だったが、ゴールデンカムイなどで正確なアイヌの描写が出てきた2020年代にあってはどうだろうか?
最近筆者は新海作品からは遠ざかっている。映像が十分雄弁なのに、台詞で説明しすぎてしまうからだ。あるいは加齢による感受性の変化かもしれない。あるいは、この感傷マゾから「卒業」しようと自分を鼓舞したからかもしれない。本稿を書いているうちに、少し懐かしいような苦しいような気分を思い出しかけた。
作中では、北海道に建設された塔が東京からも(かなりの高さで)見える描写がある。しかし、それにしては塔が細すぎやしないだろうか? 以下、視聴当時にした計算を抜粋する。
塔が経っていたのが北海道の中央部、都心から道央まで凡そ1000kmはある。
かなりいい加減な推定だが、視力1.0を有するとは視角60秒の二点を見分ける能力があるということだ。つまり空気による散乱だの屈折だのを度外視すれば、主人公がそれだけの視力があると仮定することで塔の直径を算出できる。それにウィキペディアによれば大きく見えるときの金星がこれくらいの視角だそうだ。塔が自ら光っているわけではないだろうし、このくらいの値でいいだろう。映像を見てもそのくらいだったし。
sinθ=tanθ=θ(ラジアン)の近似を用いると、都心から道央まで凡そ1000kmはあるので1000km×(2π)×(1°/360°)×(1′/60′)= 290.8m程の直径が必要になる。荒っぽい計算だが、作中のヴェラシーラとの比較から見てもそこまでずれていない。ただ、空気があることからはるかに太いと考えたほうがいい。北海道全体が映るシーンでも塔はしっかりと見えていたし、直感的にも300m程度の太さの道央の物体が都心から見えるとは考えにくい。
なお、仰角は30°はあろうかという様子であった。三角関数で考えれば577.3km以上の高さだ。地球の自転の影響でこれだけの構造物は大きくたわむことであろう。ソビエト連邦にそれだけの物資があったかどうか。一応ユニオンは全共産圏を統合した国家だそうだし、この世界では宇宙開発の代わりに並行宇宙が研究されているとすれば、なんとかなる……かな?
まず客観視であるとか、自分と他人を分けて考えるとか、そういうのが必要
だからビンラディン暗殺はアメリカから見ると良いテロリズム、アルカイダから見たら悪いテロリズム
そして911はアルカイダからみたら良いテロリズム、アメリカから見ると悪いテロリズム
自分が誰のために何をしたいのかよくよく考えることだ
そんなもん頭をリーゼントにして世紀末肩パッド装備すりゃ完全解決だろ
ていうかもう考えるな、酒でも飲んで寝ろ、余計なことするな
そんな彼らが、世界を変えようと考えたら?
最も効率が良くて現実的な手段は、ブログに言論を並べることだろうか。
細々と被害を訴え続ければ、いつかはネットを揺るがす波になるかも。
…この期待は、確実性が高いか? もっといい方法があるんじゃないか。
手段を考えるなかで彼は、自分がどっちなのかを悩むことになると思う。
果たして自分のテロリズムは、『よいテロリズム』なのか『悪いテロリズム』なのか。
(その2書いた
https://anond.hatelabo.jp/20220802091833 )
俺は世間で言われてることとは真逆の見解を持ってて、文鮮明氏が反共のために戦ってくれなかったら
日本はマジでやばいことになってたと思う。誰もそういう可能性言わないから俺が言わせてもらった。
共産主義国家に染まって、日本も朝鮮半島のように東西で分裂とか
あったかもしれない。そんなの憶測だって?でもいなくても何も変わらない、むしろ邪悪だったというあなたの考えも同じレベルの憶測ですよね?
あと北朝鮮とアメリカが戦争になりかけたときがあったらしいけど、その時、金正日と文鮮明氏が対談して、
この人、いなかったらマジで悪い意味で歴史変わってたと、俺は思うよ。
氏が亡くなって、影響力が弱まった日本において、統一教会へのヘイトと弾圧が広まってるのは
意味があると思うと思ってる。これで中国に支配されるシナリオが始まってしまったかもなあって思う。
多分中国は着々と日本を侵略し始めてる。実際にチベットとかオーストラリアとか侵略してた事実があるし、
日本の土地も実際に中国にたくさん買われてしまってるし、陰謀論とは言えないと思う。(陰謀論だったらどんなにいいことか)
これで政教分離がどうのこうのとか、自民党は邪悪だとかなって、やばい政党、特に中国とか共産主義系の政党が与党になってしまったら
いよいよやばい。。あと南海トラフとかがあって、その混乱期に中国がボランティアに見せかけて、軍隊を派兵してきたらいよいよやばいと思ってる。
まあ、中国に支配される、そういう運命なのかもしれんね。この国は。でも支配されるとしても
山上が安倍さんを暗殺してしまったのが、文字通り現状の紛糾の引き金になったと思うんだけど、(安倍さんのご冥福をお祈りします)
実際暗殺を成功させるのは、アメリカの人で同じような銃を作ってみたっていうyoutubeがあるみたいだけど、かなり難しいみたいじゃん。
山上のあの銃撃は神ではなくサタンが働いて、悪い意味で奇跡的に成就してしまったと思ってる。
文鮮明氏がメシアじゃなかった、今石を投げてる日本人は特に問題ないけど、
もしガチのマジでメシアだった場合、今石を投げてる日本人は後で責任を取らされるから、あまりやらないほうがいいと思うよ。
ユダヤ人は本当はキリストをメシアとして立てなくちゃいけなかったわけだけど、その責任を果たせず
キリストが悪人だと思って、石を投げて、はりつけにして殺してしまった。
その結果、その後ナチスドイツのホロコーストでひどい目にあったわけだけど、
日本人も同じことになるかもね。。。
正直、俺の目からはこの国が破滅に向かって動き始めてるようにしか見えないよ。
まあ信じてくれるひといないと思うけど、これを数十年後(数百年後?)見た人は予言してる人がいたってなるかもねw
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ブコメの人に
https://nordot.app/925657026769059840
これは、中共から守ってやるから日本人は財産を差し出して奴隷になれと言っているわけで、この増田は自分は売国奴ですと宣言をしているのだ
残念、大外れ。俺はむしろ保守の愛国者だよ。憲法改正は賛成派、靖国神社には毎月のように行ってるし、
国家安寧のために5000円払って本殿で参拝したことあるよ。崇敬奉賛会に入ってるし、遊就館はフリーパスだよ。
愛国者だから、この流れで日本がオワコン、中国の植民地になっていきそうなのを嘆いているよ。
勝手な決めつけで人を測るの止めてくれないかな。これだけは我慢ならなかったから釣られておくよ。
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俺はこの意見にある程度賛成です
https://anond.hatelabo.jp/20220729060006
そういうので顔真っ赤にして反射的に統一教会潰そうとしてるけど、
感情的になってることに気づいて、
一旦冷静になったほうがいい。
落ち着いて何をどうするべきか考えたほうがいい。
統一教会は激しい勧誘とか献金を辞めるべきだって言ってくると思うけど、
実際そんなことやってたのは文鮮明氏が生きてて、大変だったときだけで
今はそんなに激しくはやってないみたいだよ。
俺も講義とかに参加してるけど、1000円払ったり、場合によっては
オンラインで聞いて何も払ってないこともある。
数年前にコンプライアンスが強化されて、自浄作用が働いている。
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妄想なんだけど、
原理構論の講義で習った歴史的同時性が本当で、もし再再臨のメシアが2000年後に爆誕するなら
次は400年間、統一教会は迫害されるが、迫害の末にどこかの国で国教になる。もしかすると
これはキリスト教が400年間迫害された挙げ句、ローマ帝国で国教になったことと同じことが起きる。
で、ユダヤ人がキリスト教を立てられなかったので虐殺にあったが、
同じように日本人が統一教会を立てられなかったのでこれから虐殺にあう。
で、統一教会は分裂などが起こり、
3400年くらいからの400年間は人類の文明が更に急速発展し、
政治家を暗殺した奴がいて、そいつの政治的主張に賛同が集まって特定の宗教を潰そうとしてる。
今アジってる人たちは取り敢えず自民党を2年くらい叩けるネタ出来た!ぐらいの感覚かもしれんけど普通にやってる事結社の自由とか信仰の自由とかへの挑戦だから恐ろしいってかヤバすぎるよ。
山上の母親は異常な額献金してたから人殺しだけどある意味山上は被害者!統一教会が悪い!自民党が悪い!はテロリズムへの加担ですよね
初詣に近所の神社に行く人と山上の母親の区別は誰がやるつもりなの?国にやらせるの?とんでもねえ憲法違反ぶちかますことにならない?
もっかい書くけど、とある宗教に母親がハマったからってその宗教を解体させるために人殺しした奴がいて、その宗教を今本当に解体しようとしてる感じですよ?ヤバくない?
信仰に基づく選挙協力なんてどうやって止めるの?その教義は日本国にふさわしくないからやめろって国が口出すの?それとも選挙協力するボランティアの人の信仰調べて、あー君は〇〇教かーうちの事務所では〇〇教の人、出入り禁止なんだよね笑、ってやるの?ナチス?
ファッショとテロの肯定、いやまあそういう歴史に学ばないタイプの人がいるのはしょうがないと思うんだけど、優生思想の話とかはみなさん割と建前を尊重してダメだよねーって言えるじゃん。
今回も同じじゃん、正直俺も統一教会とかいうクソキショ教義のクソキショカルト無い方が大多数は幸せだろうと思うけどそれやっちゃったら国家として最底辺になるリストの一つでしょこれ?
冷静になってくれマジで
たとえばイスラム教全体ではなく、その中の原理主義過激派、武力をもって改宗させなければ、テロリズムやむなし、みたいな組織であれば、それはカルト(むしろテロリストか)と判定するだろう。全体ではなく、どういった組織でどういう活動をしているかが問題点では。
「安倍元首相が旧統一教会と関係があると思いこんで」と当初は報道されていたが、実はこの路線が統一協会解体への最短ルートだったのかもしれない。
「テロによって目的が成就する」という結末は絶対に避けなければならない。その一方で統一教会を野放しにするわけにもいかない。
そこで「山上はテロリストではなく統一教会の被害者で、安倍元首相を撃ったのは思い込みによるもの」というストーリーが組み立てられた。
だが徐々に明らかになる供述や、山上が残したネットの足跡や手紙によって、元首相殺害による多大なインパクトを以て統一協会にダメージを与えようとしたことが判明した。これはあかん。統一協会を解体したいが、それだと銃殺によって山上の目的が成就することになってしまう。テロリズムが最も有効な政治参加となる世の中が来る。
まず、今回の問題に解しては「全ての暴力(とりわけ殺人)は悪である」という言明から始めることが不可能であるのはもはや明らかだということをわれわれは認めなければならない。
なぜならわれわれは通常この命題にはある種の「絶対的正論(否定不能なドグマ)」として機能し、対話の土台を提供することを期待するが、今回においてそれが機能していないのは明らかだからである。「暴力は悪である」の後に、いともたやすくわれわれ(少なくとも私は)が「……しかし、」と続けたくなってしまうこと、それがいかに異常であるかを考えなければならないと私は思う。
しかしそれでも、どれだけ山上に同情的な人であったとしても「山上の行為は弱者が福祉を頼るようにその状況下ではベストな行いで仕方なかったから、同じ境遇にある人々は同様の行動にぜひ出るべきである」と思っている人が(山上含め)いないことを私は信じる。私は私の直観を信じるし、他の人の直観も信じている。
だから、もはや私は暴力を暴力であることによって否定する「旧社会しぐさ」を方法論的次元において否定する。
「暴力は悪である。しかし」、人類史上この論法が最も大規模に振るわれてきたのはむろん戦争の際である。そしてわれわれは戦争を例外状態とし、平和(少なくとも非戦争)を通常状態として考えている。しかし同時に、その「例外」が近代以降に限定してさえ実はむしろ多数派ですらありうることも、われわれは何となくわかっている。そのため「暴力は悪である」という命題に対して、われわれは完全に従いながらも、実は腹の底ではどこかしらけた態度を取っている。
パスカルがパンセの中で述べていたように正義と力の関係とは、何が正義かを確定させるためには人類の寿命を超えるかもしれないほどの議論を要するのに対して、誰が力を持っているは誰が見ても明白であるという特徴を持つ。だから「力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力である」。そして常に暴力は無力を退けそこに君臨する。だからわれわれは、正義に力を与えるのではなく、力に正義を与えることにした、パスカルはそう主張する。
むろんパスカルはフランス革命について何も知らないので、その点について注意する必要はあるが、それにしても優れた洞察であると思う。われわれは何か正義のために社会を構築した=社会が正義である、というドグマから解放されなければならない。社会=旧社会はリヴァイアサンを鎮めるために持ち出された道具的存在にすぎない。
言論的次元においては暴力に対し積極的にエポケーを行いながら、具体的手段においてはあくまで暴力を否定し続けること、それが私と旧社会の理想が重なり合う正義であると私は言いたい。
ここでキリスト教における基礎の一つ、「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」について考えてみたい。駄洒落以上の意味があるかどうか疑問に思うだろうが、実際それ以上の意味は無い。
山上の垂訓とは「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」から始まる、死後に神の救いを得て天国に行ける人とはどのようなものであるかを説いた有名な部分である。ここでいう「心の貧しい人」とは一般的な日本語の意味ではなく、自分の足りなさを認め神を求める、ぐらいの意味に解釈されることが多いようである。
たしかにキリストは力ではなく正義の側に立とうとした人であったと思う。他方そうであるがゆえに2000年前の現世においては無力であった。しかし、と考えてみたいのだが、キリスト教-山上の垂訓的な倫理は今や明らかに無力な存在ではない。われわれはもはや正義に力を与えることが可能である。
だから私は所与の力に正義を与えんとする「思想-的-テロリズム」については私の正義に基づいて否定するが、正義に新たなる力を与えんと言論の次元に留まる「テロリズム-的-思想」を断じて肯定する。
2022-07-21
こいつ右も左も関係なく「こどもに悪影響になりそうなもの」や「少子化対策」に関して異常なまでに熱心なんだよね。
それらに関しては筋が悪かろうが、屁理屈で失笑されようが持論を展開し続ける。最近の事例を見ても、
こども産んだら1000万円
他のトピックは割とすぐ飽きるんだが(F爺とラテン語さんにボコボコにされた時は数日かけてたが)、こどもが絡むと拍車がかかるというか。
ちなみに所々、浅薄さや軽薄さを感じずにはいられない論理もあるから、ひろゆきを評価したいわけでは全くないことを付け加えておく。
対談した人が「思想もなにもない」っていう感想を持つことが多いが、なるほど。
明らかに今回のことが原因だろうね
国民に恨まれているのを知ってれば誰でもふるえあがるだろうけど、宗教がらみなのこの人も?
2022-07-19
次は自分がやられるかもと思ったんだろう。
どれだけ批判しても竹中平蔵を追い詰めることはできなかったのに、
テロ一つであっさり退任させることができた。
怖いよ。
良くないって。
次は自分がやられるかもと思ったんだろう。
どれだけ批判しても竹中平蔵を追い詰めることはできなかったのに、
テロ一つであっさり退任させることができた。
怖いよ。
良くないって。
他国籍、他民族に対する暴力がもしも正当化されるのであれば、どうして他宗派に対する暴力が正当化できないだろうか?
ここらへんの基本的前提が全部すっ飛んでるよね
戦争がOKってことはムカつく奴をボコってもOKってことだし、結局そうなって困るのは当局だと思ってたんだけどなあ
戦争という名の暴力は交渉だというなら、テロリズムも交渉術の一つと言えてしまう
ここらへんの論理の整理が甘い連中が新興宗教にハマりやすいのは事実だろうな
既存宗教の神学者たちが整理してきた哲学を勉強してこなかったわけだから
結局愛国保守論壇の仮定は、「自分達は一方的に都合が悪い人間をボコれる」というイジメ容認の姿勢なんだよね
暗殺(あんさつ、英語: Assassination)とは、おもに政治的・思想的動機に基づき要人を非合法に殺害することであり、テロリズム行為の一形態に分類される。
テロなのか?って話はもう2001年の9.11ひいてはイラク戦争の時に終わっていて。
テロライズ・テロリズム、っていうのは本来は、「恐怖によって政治する」、つまり脅しによって政治的主張を通そうとすることだった。
例えば、小学校に爆弾をしかけた、爆破させてほしくなければ○○を釈放しろみたいな。
テロリストっていうのはそれをする人。
怨恨や愉快犯的動機から爆弾をしかけるやつとは区別されてたわけだ。
だからお前の言う通り、安倍殺害犯みたいな奴は本来「テロリスト」ではなかったよ。
ところが2001年の時には、ブッシュが「テロとの戦争」を始めたんだよね。
ここでブッシュが言ったテロとは、「国家秩序と民主主義に弓引く、軍隊ではないやつら」のことだったよ。
それは、ブッシュのレッテル張りだったし、従来の定義とは確かに違ったんだけどさ。
現実問題として、その意味でもう世間に受け入れられているんだよ。
だから今は、昔の意味じゃなくて、ブッシュ以降の意味で「テロリスト」という用語を使っているよ。他に相応しい単語もないしね。
2001年に、こいつらテロリストじゃないよね? と言ったら、まあそうだねだったけど。2022年に同じこと言っても、テロリストって単語の意味のほうがもう変わってしまっているから、元増田が時代の流れを理解してないだけってことになると思うよ。
動機は怨恨。山上のターゲットは統一教会の創始者の一族すべての殺害だったが、それが無理だったので第2ターゲットとして広告塔になっていた安倍元首相を狙ったといっている。
よって政治的動機はない(つまりテロリズムではない)。ただし統一教会へダメージを与える意図は当然あった。宗教団体をターゲットにしたテロとはいえるかもしれない。
事件で統一教会と、そこに癒着していた自民党、政府を批判するときに一番もにょるのがこのポイント。気持ちはよくわかる。
ただの怨恨事件としてみれば、こういう事件が起きることを防ぐ社会にしようという活動をするのはなんの問題もなさそう。
山上は統一教会を潰すという意図を明らかに持っていたが、その方向に社会が動いていったら社会不安は増大する?どうだろうか。
ただ例えば「国家権力や与党と反社会的なカルト宗教は距離を取るべき」だというテーゼはあまりにも当たり前ではないか? これはだいたいみんな賛同できることなのにこれを進めていったら社会不安がふえる?
ここでの社会不安の増大とは、個人が暴力に訴えることで問題を解決していこうという人が増えること、ということにする。
でも個人の暴力で問題が解決できることがわかっても、みんな暴力を振るうわけじゃない。だいたい2つ理由がある。
暴走自動車に子供を殺された人が相手を殺したいと思ってもみんなが復讐殺人するわけではない。死刑にはならなくても執行機関が妥当といえる制裁をあたえてくれる。そういう信頼があるからだ。
これだ。ここで大切なのは「信頼」ではないか。社会不安を減らすのは社会は公正であるという信頼と、国家暴力とその執行機関が公正であるという信頼といえる。
なぜか?
社会や執行機関がなにもしてくれないなら個人が暴力に頼らざるを得なくなるから。
もちろん個人の望みが反社会的である場合もこれに当てはまる。反社会的行為を支援してくれる執行機関はいないはずだから。なので正確には、「公正か公正でないか」ではなく「個人の望みと執行機関の規範が一致しているか」が問題で一致していない場合個人は暴力的な手段にたよるしかない。
山上が犯行に及びざるをえなかったのは国や裁判所、警察公安などと執行機関が信頼できなかったからではないか。
「カルトを規制してほしい」とか「カルトの活動を野放しにしないでほしい」などの当たり前ののぞみも叶えてくれるという信頼がなかったからでは?
もちろん統一教会の創始者一族の皆殺は無理だとしても、取りうるオルタナティブとして「カルトの規制強化」とか「統一教会の国外追放」とかのまともな望みを国や裁判所がかなえてくれるという「信頼」が残っていれば、彼だってそちらに勢力を傾けたのではないか?
反社会的カルト規制強化はあたりまえのことだし、政権とカルトの癒着を断ち切るのも当たり前のことすぎる。
当たり前のことをやらないのであれば、国家には国民の命と権利を守るという約束(憲法)があるが、それが守れていない。約束が守られないと信頼は失われる。さっきも書いたように信頼が失われると社会不安が増大する。
つまり「個人の暴力による社会変革は他の個人のテロを誘発するのでは」という疑問については今のところ因果が逆なのではないか。
「国家権力への信頼が失われたから個人の暴力に頼る人が出てきた」
であれば国家権力への信頼を取り戻すように社会が動くのは正しい行動だろう。
それを「暴力に訴えれば社会は動く」ととらえて行動する個人が出てくる可能性はあるかもしれず、それについても社会が他の選択肢を示せるようにしないといけない。
(もちろんそれが反社会的な望みだったら無理なわけだが)