将棋なんかの定跡では、「この指し方は、別の指し方に取って代わっられたのだけど、最近またこっちの指し方にもどった。」みたいなのが結構多い。
で、ふと思ったんだけど。世の常識ってのもこれあるんじゃないかと。
リア充的な行動が俺は嫌いなんだけど、彼らの行動の一部分は実は一周回って正しいと思うこともある。たとえばリア充の軽薄な歌とかも、実は哲学的な現代的な帰結と一致してたりすることもあったり。
で、こういうのがナゼ成立するのか。
それは、「完全に否定できるものは、そもそも成立しにくい」からだと思う。
たとえば、物理的な計算の上ではおかしい事象でも、実際の現実で成立してしまったら、それは理論のほうがおかしかったりと言うことだ。
物理なんかは、定量判断(数字の上での説明)と、定性判断(実際上そうなるだろっていう当然性から導く判断)の差に近いかもしれない。
たとえば、子孫を残すってことを考えるとネガティブで自殺率高そうな奴とかより、多少頭悪くても明るい奴のほうが現実のイザって時に動きやすいとか。あるいは、一定数論理厨が増えるとリア充が生まれる遺伝的な配慮がされてるとか。その当たりを女性が敏感に感じ取って、リア充と子供を作りたいと思うから、リア充的な人間がコピーされまくってる現状ああるとか。
人間が作った水槽でサカナが生きられるかどうかは不明だが、自然界をそのまま切り取って水槽に移せばサカナが生きられるのは明白なように。
アレだな、自然は屈服することで支配できる、みたいな言葉あったろ確か物理には。
リア充にはムカツクんだけど。最近は、そういうムカツキを『諦める』ことがブサメン低身長である俺の人生には求められている課題だと思う。
絶対に許せないような屈辱であっても、『自分は死んで生まれ変わったと思うなりして諦められる』ってのが理論厨の課題かなって。
そうやって諦められることによって、世の中丸く収まった分が、『利益』になるんじゃないか。
そういう諦めようとしても絶対諦められないようなことが、なぜか諦められる、その非自然な態度を持つことで初めて理論厨は理論厨たれるんじゃないか。
ギャンブルでアツくならないのは不可能なのに、それを可能にする投資の技術や理論体系があるから、ギャンブルの勝ち組は勝ち組になれてる。その態度は生理的な限界を超えているため、根本からメンタルを作らないと勝てるギャンブラーにはなれない。そういうのに似ている。
ギャンブルを楽しんでいては、勝てない。ギャンブルが苦痛な作業ゲーになるほど技術を確立してメンタルをフラットにしないと、ギャンブルは勝てない。
俺は、リア充みたいに人生を楽しめないが、楽しめないくらいじゃないと、俺くらいのブサメン低身長は人生+-0にもならない。
リア充からしたら、なんの不満も無いことでも、俺はイラつく。そういう理屈だから。
でも、一周回ってリア充が正しいかもしれないから、完全に理屈で咎められない内には、俺は諦めるしかない。
諦める能力が無いと、強く生きられない、将棋でいうなら、勝てない。
そこを諦める能力ってのは、人間の生理を超えてる。理屈で言えば絶対許せない。
許せないが、そこを諦められる能力が俺には求められてる。
そういう諦めを持てる知識体系や自分の社会的な立場や資産などが俺には求められている。