はてなキーワード: いい生活とは
昔から頭の良さの序列を気にして生きてきて、そして大人になってしまった。
自分が人を見下したり馬鹿にすることが多いのは、それは逆に自分も今まで多くされてきたからだと思う。
そして呪縛とでもいうべきなのか、自分がそうするからか他人がこちらを侮って見てきているような気がする。現実では、常にそうではないのだろうと思うのだが、そういうふうに認知しているときはとてもつらい。コミュニケーションを戦争のように感じてしまう。
自分の調子がいいとき、不快ではないとき、一人のときは、他人のことをあれこれ考えない穏やかな一日を過ごせる。誰かと競い争い奪い合う必要もなく、平穏に暮らしていると思う。
なので、実のところ人を見下したいわけではなくて、自分が不快なのが嫌なんだろうと思う。
人を馬鹿にしたり見下したりすると、自分の世界に閉じこもってしまい、世界が狭くなって閉じていく感覚がある。そうして本物の馬鹿になっていく感覚がある。なのでこれはするべきことではないと頭ではわかっている。
ただし、人を尊重するということが難しい。自分自身があまり尊重された(と感じる)経験がないからかもしれない。「感じる」と書いた背景は、実際には尊重されていてもそれに自分が全く気付いておらず、当然のように自分が受け入れている状況を思い浮かべたから。
別に自分が頂点に立ちたいというわけではない。ただ自分にとって居心地のいい生活を送りたい。人を見下したり馬鹿にしようとすると、攻撃的になってしまい自分も不快になる。
暇だからなのかもしれないし、やりたいことがそれほどないからかもしれない。体調不良だったり寝不足なのかもしれない。なんにせよ不都合に感じている。心にゆとりを持ちたい。
一方で、不利益を被った場合や、他人のあまりの無知を知ったときに、人をかんたんに侮ってしまう。
これはもはやパターンで、自分の意思とは無関係に発生する。だから自分が恥をかくシーンや自分が不利益を与えたシーンでは、逆の気持ちが発生する。
本質的には、他人からどのように思われるかというのは自分とは関係がないと思う。
たとえ他者との利害関係が発生したとしても、自分は自分・他者は他者という考えで、自らの行動を恥ずべきと思わずに、ただ自分の進むべき道を進むことが大切なのだと思っている。
これは言うのはかんたんでも、実際はこれが全然できない。
しかし、Vimのキーバインディングがこの状況を改善してくれました。Google Chromeで使ってもよし、IDEで使ってもよし、私は以前の習慣を完全に変えることができました。
日本国民の9割以上は旧統一教会のようなカルト宗教を嫌悪しているが、自民党は統一教会だけでなく公明党と連立している以上、表立ってカルト宗教を排斥する動きを見せることは難しいだろう。
この状況で対カルトのワン・イシューで対カルト法案の提出、政教分離の徹底の主張をすることができれば、普段はポンコツの野党よりはマシってイメージで自民党を支持している人達も野党を見直すんじゃないだろうか。
なのに与党だけでなく、野党もこの問題にはほとんどダンマリか慎重なコメントばかりでほんと与野党問わずに政治家連中のクソっぷりには呆れ果てるよ。
特に立憲民主党はさくらの会やモリカケより国民の関心ははるかに高いのだから必死で叩けよって思うけど、あいつら与党になる気なんてサラサラなくて政党助成金でいい生活がしたいだけの上級生活保護者だからな。次の国会では新しい勢力がの台頭していくことに期待するしかないな。
フェミニストは教室の中でひどいいじめを受けていた男子とか、パワハラでいつの間にかいなくなった男性社員とかが、全く目に入っていないんだな、とつくづく思う。
なんというかアンフェって常に「自分」なんだよね。
だから自分は得してない。自分は損しかしてない。そこらへんの女の方が得をしている。って論法になる。
お前じゃなくて社会だよ。っていうと今度は、女もその社会構造で利益を受けている。って論法になる。
村長(男)に気に入られた村民(女)は多くの村民(男)より得をするだろう
底辺村民(男)より上位村民(男)に従う村民(女)の方がいい生活ができるだろう
アンフェの言い分ってこのちょっと得する「村民(女)」を使って主張を始めたり
上位村民(男)しか体験していない苦労(例えば村を維持するストレス)を持ち出して「村民(女)」は楽だって主張を始める
でもそうじゃないんだよね
村長に男しかなれないとか、村民(男)が当然のようにもっている1人で生きられる環境を
村民(女)はなかなか手に入れられないって話なんだよね
村民(女)には村を維持するストレスを体験する機会すら与えられてないのよ
親も祖父母も死んでも、その身辺整理したら遺産なんて残んないしなんならマイナスかもしれないけど、大学まで学費は払ってもらった。旅行とか贅沢なことはあんまりなかった。
何が言いたいかというと、今までは不自由なく暮らしてきたど、これからは自分で稼がないと生きていけないってこと。大人だから当たり前だけど。
就活頑張って大手で今のところは給料高くて、企業型DCも積立NISAもやって、家にお金送って、貯金もしてちゃんと生活してる。
友達のAちゃんはわたしのことお金に関してちゃんとしててえらいねってよくいう。ある日、自分も将来のために積み立てにーさとかしたいから教えてって言われてご飯に行った。
色々説明して最後に言われたのは、年40万投資かぁ。おばあちゃんから毎年生前贈与で100万円もらってるからやんなくていいかなだった。
わたしは社会人ゼロからのスタートで、就職して一年でやって数十万貯めたのに、あの子は楽な分そのまま給料低い会社で働いてても、わたしよりいい生活できるんだって思ったら悲しくなっちゃった(´;ω;`)
東大行ってる友達でも、バイトも勉強もせずに女子大とのテニスサークルで東大ブランドで女侍らせてるどうしようもないやつもいた。一方、正直偏差値低くてどこ?みたいな大学でも、特待生になって奨学金で海外に行って、英語ペラペラになって国際的な活動して、アクティブな友達もいた。
わたしはまだ素直だったので、このときは人間は学歴じゃないって思った。大学じゃなくて、生き方で決まると。
でも実際就活になったら、大学時代の過ごし方なんて関係ない。学歴が高いやつからいい企業に決まる(何を持っていい企業かと論じ始めるとめんどいので、普通に給料がいい知名度のある入りづらい企業です)。
〜蛇足〜
指定校推薦は逃げで、早慶国公立の指定校を立った人は、直接は言われないけど逃げたやつって空気があった。
そういうところで過ごしてると学歴至上主義になるけど、それは間違ってるようでただしい。
いい企業に入ることが幸せではないことは間違いないが、いい企業に入れば名前だけですごいと言われ、守られ、人よりいい生活が送れる(一部のハラスメント事例は除く)
いや、もう今さらの話なんだよ。
例えば、わたしたちは昔の王侯貴族より「暮らし」単体で考えたら遥かにいい生活をしてるけれど、そのことに納得できないじゃない?
それは他人にかしずかれていないということもあるけれど、
それより自分より幸福そうな人がたくさんいるからって理由じゃない。
だから他人とは比較しないようにしましょう、って言ったところで無理じゃない。
ぶっちゃけ、かなり底辺な人の暮らしでも大昔というかほんの100年前と比較しても豊かなわけじゃない。
でも納得できないでしょ。
それは自分が好きな人が自分を好きになってくれないからじゃない。
もっともっと人から好かれて、もっともっと他人から面白い!って思われたいじゃない。
でも無理でしょ。
人の心って自由にできないし、自由にできたら出来たで虚しさを覚えるでしょ。
なんかね。薄っすらと幸せになる方法ってものはありそうな気はするのよ。
実際あるのかもしれない。
でも無理じゃない。
あんまりうまくは書けてないと思うけれど、結論として我々は基本的に不幸になるように出来ている。
そのうえで生きてるだけで丸もうけ、とかそういう信条をでっち上げて生きてけばいいんだと思う。
そうすればジョーカーになってやろうか?なんて怨念は抱かずに生きてけると思う。
まあ、最初に書いたように今更な話なんだよ。
別に差別するつもりも無いし生まれながらそうなら大変だなと同情もする。
しかし同じ金額払われて色々手間が掛かったり乗車時に人が必要だったり会話に気をつけたり色々労力が掛かる。
疲れる。そこをこちらから言ってしまうと差別するのかと反論されるし可哀想と思わないのかと人間性の批判にもつながる。そんなつもりはないんだ。ただ設備が無い所でそれを言われると人力で対処しろと下っ端の人間に押し付けられる。それは下位層の差別じゃ無いのかと言いたくなる。やってほしいと言う要望は理解してる。ただその分コストや労力が掛かっている事を目を逸らさないでほしい。前見たニュースで五体不満足の人が来て完全論破されたら自分だったら鬱になると思う。無茶振り言うなよと。それであっちはテレビにも出ていい生活しているんだぜ。自分の体験を切り売りして書籍化して商売にまで繋げた才覚はすごいとは思う。同じ状況だったらそこまでの能力無いと思う。
話逸れたが今のご時世色んな多様性が一気に世間に出て認められる社会に変化させていこうという動きがある。良い事だとは思う。ただそこを下層の人間を薄給で雇って帳尻合わせるような社会にして表面だけSDGs万々歳みたいな似非理想郷みたいな事を言い出すのはやめてくれ。それを取りまとめる中間管理の管理職だけが潤うだけで現場の人間が使い潰されるのがその理想郷の真実で、苦しむ人間を見て見ぬ振りするだけで奴隷がいなきゃ成り立たない社会が素晴らしい社会なのか。差別するつもりはない。でも流した汗水に合う報酬が欲しいだけなんだ。それが合っていないのなら今の社会は歪んでいる。
うちの家族はとある宗教に入信していた。全国的に展開している宗教だが、名前を聞いてもパッとイメージできる人も少ないと思う。カルト寄りな宗教というわけではなく、教祖の教えは割と真っ当なものだったように思う。祖母が熱心な信者だったが、祖父と両親も毎日のお祈りなどは欠かさなかった。そして僕も物心ついた頃からお守りのようなものを24時間365日肌身離さず着けているよう言われ、毎日夕飯の前にお経?のようなものを唱え、両親や祖父母の言いつけを守り教祖のありがたい教えを聞いていた。子供の頃はそれが当たり前だったし、どの家でもそうしているものだと思っていた。
両親には「うちは貧乏だから」と言われて育った。誕生日とクリスマスのプレゼントがまとめられ、お小遣いや毎年のお年玉の額には常に不満を持っていたような気がする。もちろんうちより貧乏な家庭は他にごまんとあっただろうし、今思い返せばそこまで生活に不自由を感じたことはなかったと思う。しかし子供ながらに不満に思っていたのは年に一度もらえるお年玉よりも毎月両親や祖父母が宗教団体にしていたお布施の額の方がはるかに多かったことだった。そしてその少ないと感じていたお年玉すら祖母にはお布施するように言われたことがある。祖母いわくお布施をするとそれが何倍にもなって返ってくるよということだった。
祖母は家族よりも自分、自分よりも宗教を優先する人だった。毎月もらっている年金はほぼ全て宗教につぎ込み、毎月県外の総本山に足を運んでいた。家のローンで家計が苦しいのもわかっていながら家にお金を入れることは一切なかった。幼い頃は祖母のことが好きだった。宗教では色んなイベントをしていて、そこによく連れて行ってもらっていた。うちでは旅行なんてほとんど行くことはなかったが、総本山に連れて行ってもらった時は旅行気分で本当に楽しかった。何千人という人が祈りを捧げていて、子供ながらにスケールの大きさに感動したこともあった。しかしいつからか、何もかも宗教を優先して家族のことを顧みない祖母のことが嫌いになっていった。
僕は中学になる頃、思春期真っ只中だった。例に漏れず反抗期を迎え、その頃は前述のお布施のことに気付いた時期でもあった。夕食の前にわざわざ見ているテレビを消してお経を唱えるのが嫌だった。学校で着替える時に同級生にお守りのことを聞かれるのが嫌だった。年末はいつも唱えるお経が長くなるのが嫌だった。祖母に教祖の話を絡めて説教されるのが嫌だった。祖母や両親は宗教の教えに従っていれば必ず幸せになれるよと言った。お守りを持っていれば守ってもらえる、病気も治ると言った。僕は思った。うちは貧乏でお金がないのに本当に幸せなのだろうか?貧乏だというなら、宗教をやめてお布施しているお金を生活費に回したほうがよっぽどいい生活ができて幸せなのでは?お金が全てではないと思うが、お金持ちの家の方が確実に幸せだ。
高校生になる頃、僕はお守りを押し入れの引き出しの中にしまい、身につけるのをやめた。学校帰りに友達と遊ぶようになり、夜中まで帰らないことも多くなった。夕飯前のお経も参加するのをやめた。お布施の入っている箱から数万円抜いたりすることもたびたびした。祖母はそんな僕とほとんど口を聞かなくなり、顔を合わせるたび嫌みを言うようになった。僕はますます宗教が大嫌いになった。
そんな僕も祖父のことは大好きだった。昔から本当に優しくしてくれたし、毎年年末には二人で2000ピースほどの風景写真のジグソーパズルを作り、祖父の部屋に飾っていた。中学になる頃までは毎年欠かさずやっていて、今年は祖父がどんなパズルを買ってくるのかと毎年ワクワクした。高校生の頃、思春期でほとんど話さなくなってしまった時に亡くなってしまったのであの時はもっと話をしておけばと本当に後悔した。祖父が亡くなった後、祖母は邪魔だからと言って飾ってあったジグソーパズルも祖父の私物もすぐに全部処分してしまった。その頃から僕は早くこの家を出たいと思うようになった。
その後は高校を卒業し県外の大学に通うため実家を出た。自由になって実家のありがたみを感じたが宗教についての価値観は今でもあの頃と変わっていない。信者たちはそれぞれ宗教を拠り所にする理由があるのだろうが、僕にはやはり必要ないと思った。大学を卒業して地元に戻ったが、家族で僕だけは宗教に参加しなかった。
20代半ばで結婚してすぐの頃、祖母が亡くなった。その頃はもう実家を出ていて祖母にもたまにしか会うことはなかったが、祖母は最後まで教祖の教えを口にしていて、死ぬことは怖くないよと言っていて本当に幸せそうだった。教祖の教えに「肉を食べると凶暴になる」みたいなのがあった気がするのだが、祖母はそれをみて肉は一切口にしなかった。しかし結局それが根本的な原因の病気で亡くなったんだと聞き、なんとも言えない気持ちになった。遺産はなかった。祖母の通帳の中身もほとんど0に近かった。
しかし、祖母の葬式には本当にたくさんの人が来た。ほとんどが宗教の関係者で、みんな口を揃えて「祖母には本当にお世話になった」と言った。それを聞いて僕は改めて祖母はたくさんの人に愛されて幸せだったんだなと実感することができた。
僕は現在30代になり子供もできて思うのが、たとえ子供だろうと選択する自由はあって然るべきだということ。宗教を信じるも信じないも個人の自由だが、押し付けたりすることは絶対にいけないことだと思う。たとえそれが自分の子供であっても、子供の意見を尊重しないといけないと改めて感じた。子供の頃の体験は僕に、自分にとって何がベストなのかを常に考え行動することの大事さを教えてくれたように思う。
お金は決定打にはならない、というのはもう確定した説です。アフガニスタンなんて、その国のGDPの10倍にあたる額を最強国家アメリカがつぎ込んだのに、結局安定した国家を築くことができてない。アメリカは4年間の大統領の任期中にアフガニスタンをわかりやすく近代国家にしないといけなくて、ひたすらお金をぶち込んだけど、結局全部軍閥に流れた。アフガニスタンの人は別に近代国家を求めてなかったから。時間をかけて人々の意識を変えないといけないのに、アメリカにはその時間がなかった。
最終的には、貧困層が自分で現状を変えようと思わないと変わらない。汚職を減らすとか、教育を広げるとか、女の子にも教育を受けさせるとか、平均寿命を二十代から五十代にするとか、金持ち有利の規制を減らすとか、身近に成功した人を増やすとか、社会を変えて、少なくとも、学校に行ったら自分の子供は自分よりいい生活ができるようになる、努力で貧困から抜け出すことができる、と信じられるようにならないと、貧困はなくなりません。世界的にSDGsを盛り上げるのは、いろいろな国の社会をより良い方向に変える一助になると思います。