はてなキーワード: 作品展とは
ストライクウィッチーズ界隈が燃えている。
2022年以降、公式の作品展開が完全に途絶え細々とイベントを続けるだけの存在となっていた本作品だが、それと同時期にイラスト原案担当の島田フミカネがfantiaを開設。最上位プランの加入者限定でR-18画像を掲載するようになった。
元からパンツ丸出しの上に配信媒体では乳首解禁とお色気要素満載のコンテンツがついに本格的な成人向けに舵を切ったと初期は諸手を挙げて歓迎されていたが、近年は過激化が進み、設定を無視する(非ウィッチがネウロイの巣を撃破する)・男がでしゃばるようになるなど、さすがにやりすぎではないかとファンの中で訝しむ声もあった。
またシチュエーションも相手が整備兵か軍の高官の二択と狭く、正直エロの内容としてはクオリティが高いものではなかった。
また、島田フミカネサイドも「あくまでも二次創作である」と釘を刺していたが、過去の単なる一枚絵が逆輸入されることもままあり、ファン層の中では公式設定のように扱われていた。
そんな中、先日著名なファンブログが「原作無視のエロ絵生産マシーンと化した島田フミカネにはもうついていけない」との記事を上げ、それに一部ファン層が追従した。
とはいえ界隈の大半はエロ絵歓迎ムードであり「何を言ってるんだこいつ」で終わってしまっているが、私としてはこのような論調が出てきたことが意外だった。
平成の間は一般作品のエロ堕ち・原作者が描くの成人向けイラストが美学のように語られており、それに意義を唱えたら袋叩きのような状態だった。
しかし今回、明確に拒絶の声が、しかもお色気コンテンツから出た。これには時代の移り変わりを感じざるを得ない。
思えば現代のオタクは、「推し」としてキャラクターをアイドルのように神格化してきた。そこに突然原作者からとはいえR-18要素が投下されるのはアイドル性の毀損である。
選民にも近い表現になってしまうが、令和オタクとして意識をアップデートできたものが去り、平成に取り残されたものだけが残ろうとしている。
平成に残ることを決めたストライクウィッチーズにもはや未来はないだろう。そして、このように死んでいくコンテンツは今後も増えると予測される。
美術展示としては江戸から現代にかけての、埴輪や土偶をモチーフにした作品展示なのだけども、テーマの切り口がすごいよかった。
展示内容についての説明はYoutube動画でもSNS各所でもあちこちでされてるので、検索して見てもらえば。
https://youtu.be/bewJX1SxTbQ?si=OfLxo_uurrnHxXXE
今回、展示の構図がいちいち上手くて、
1,プロローグで「近代美術館の建築時の発掘遺物」と「近代美術館開館後すぐ考古学遺物を特別展開催し現代アート文脈に早々に取り込んだこと」の対比、
2,江戸時代の舶来好古な視点で描かれた埴輪土偶と明治維新近代化以降の考古学研究視点で描かれた埴輪土偶の対比、
3,王政復古で「仏教伝来以前」を求めて古墳時代の習俗を埴輪に求める古代を見つめる視点と、明治天皇陵のために埴輪作りを復活させたために生じた「リアルタイムで埴輪作ってる」現代の肌感覚の混交、
4,日本の独自性主張のために富士山と一緒に日本代表選手として海外で喧伝され、愛国の象徴となってく埴輪
5,敗戦で創世神話アイデンティティ喪失しちゃったあと、登呂遺跡で考古学という「科学による裏付け」に日本人のアイデンティティを見出しちゃう流れ
6,岡本太郎に代表される現代アートオールスターキャストで縄文ブームを後押しし、考古学と現代アートが一足飛びに結びつくシーン
7,弥生VS縄文の構図で縄文推しをこじれさせて「うわ、きっつ」なレベルまで「日本人の原点は縄文」へ突き進むアートシーン
8,アートが縄文に突っ走って埴輪がアートのモチーフから外された後、サブカルチャーでカッコよく可愛く活躍しはじめる埴輪(大魔神、はに丸)とモンスター、異形化する土偶(諸星大二郎的な)というねじれ
などなど。
しかも、上記のこじれねじれたストーリーを解説してくれる音声ガイドは田中真弓という。
(国立博物館はにわ展の音声ガイドはなぜか石田彰と森川智之の寸劇。正直、なぜ)
展示の章立てごとに全部が面白いっていう稀有な展示で、アートの文脈解題についてここまでアート素人でも理解しやすく見せてくれて、しかも、この特別展を上野の国立でやってる「はにわ展」にぶつけてくるっていうタイミング自体が批評性がやたら高い。
上野の展示が、話題性に乏しいあまり無理に話題を作ろうとして「挂甲の武人の5兄弟がはじめて一堂に会します」という、一体だけだと物足りないので数を増やして賑やかししてどうにか間を持たせようという悲哀を感じる内容になってるのだけど、その背景にあるのが国立博物館や美術館が独立採算で金を稼がなければならず、展覧会開催を支えてきたNHKや日経新聞や朝日新聞みたいな旧メディアが衰退し、さらにインフレで外から展示物を持ってくるのもますます難しく今後の展覧会の集客すら先が見えなくなりつつあるという苦境下、手持ちの所蔵品を中心にした展示でなんとか糊口をしのごうという涙ぐましさで。
まさに日本が転換期であることを象徴するような、国宝にしてかつて日本の象徴を担った埴輪のありようの今このとき、痛烈な批評をやらかしてしまった。
すごい面白いです。見ないと損。
なお、あえて言えば欠点がないわけではなく。
ハニワと土偶の描かれたサブカルチャー作品年表が展示されてるんですが、そこにア〇スソフト作品の名前がない。一切ない。
ソシャゲがアリならFGOも載せなきゃ嘘だよね。FGOを出したら、まあ型月がどこからそれ持ってきたかって言ったら直近の〇リスソフトだなって皆わかってるわけで。
逆に、アリ〇ソフト無視できるくせにサイゲを持ってくるのは何すか、自治体方面に金バラまいてるサイゲやサイゲ親会社忖度かなんかですか。ふるさと納税でガチャ回せるぐらいベッタリなとこならアート文脈の端っこに載せてもいいってことすか。
資料作成得意をアピールポイントにしてる女がチームにいるとやっぱクッソだるいな
知識自慢、デザイン自慢の使い物にならないひけらかし資料をドヤ顔で配りまくるうえに無駄が無くて見やすい旧版資料使って仕事してる社員を見つけたらあからさまに機嫌損ねたり、使いやすい資料を別途作って共有した社員に強く当たるから鬱陶しいんだよ
今日もお前の資料分かりづらいから自分用に雑に作ったメモを分けて欲しいって言いにきた新人いる時点で明らかに何の役にも立ってない失敗作なんだよな
資料作成やりたいなら使う奴のことを考えてやれよって周りにいくら指摘されてもデザインセンス良い自分()に酔ってフルシカトだもんな
「ブラザーペナルティ」という用語が広まるきっかけになったのってどうもこの写真っぽいけれど、
この家庭の場合四人きょうだいで、一番上の姉には弟だけじゃなくて妹もいるって事だよね。
なのになんで「弟のいる姉」だけの問題にされるのか
上手い事美味しい汁を吸ってる妹の存在は透明化されるのか
女同士の格差っていつも巧妙に覆い隠されるよな
https://twitter.com/kiyoneko0214/status/1753045132755271860/quotes
蘭
@cowb5ar0kxr3
·
22時間
下の3人きょうだいのために自身の進学を諦めたお姉さんの自己犠牲と献身が「派手な学歴」を並べるために覆い隠されてるのグロすぎるな
@kiyoneko0214
私が生まれた時からシングルマザーで育ててくれた母親。ここまで育て上げてくれてありがとう。貧しい中で好きなことやらせてくれてありがとう。
90年代のガーデニングブームのとき、猫も杓子もガーデニングでサントリーのサフィニアを育ててた頃、
壁から花が溢れるように見せるのが流行って売れまくってたハンギングバスケット。
ハンギングバスケット協会なるものが現代もあるのは協会会員が作品展示してて名前は見てたが、
先日聞いたら、植える株数は10と決まってて多くても少なくてもダメ、
登録料を定期的に払う許可制、登録しないと人に教えてはいけない、教えるには本部まで行って試験受ける、等々
花関連は池坊などの華道の影響でとかく何でも「お稽古」にしてしまうのは、知ってるつもりではいた
(花と名がつけば、ドライフラワーだろうと造花だろうと全て先生とお弟子さんの関係に押し込まれる)
朝、NHKのローカルニュースを見ていたら、近くの温泉ホテルで現代アートのフェスをやってるというのが流れてきた。
個人的に美術には造詣が深くない。持っている美術知識といえば大学の一般教養で受けた西洋美術史概論(途中でいかなくなったため単位未取得)とダヴィンチコード(序盤で読むのやめた)くらい。
特に「現代アート」なんてものはわけがわからない。ルネサンス絵画や印象派の絵なら実物を見て、「あ、これ知ってる!」「すごい!」、「うまい!」、「きれい!」などの感情を抱けるが、現代アートと呼ばれるものは、見ても「?」、「これがアートなのか・・・アートってなんなのかよくわからんわ・・・」みたいな感情しか持てない。
なので普段なら見流すところだった。
だがしかし、前日にスーパー銭湯でブルーピリオドを読破していた私は俄然興味を持っていた。
今なら、わかる気がする。
もしわかんなくてつまんなくても温泉に入れるみたいだし、温泉ホテルで美術館ってなんか珍しいから話のネタになりそうだし。
というわけで行ってみたんだが、結論から言うと、行って良かったとは思うがそれが現代アートのおかげなのかどうなのかは正直よくわからん、というところ。
会場は半径500mくらいの温泉街の5、6個のホテルに点在していてる。高低差が50mくらいある。結構歩く。つらい。
鑑賞エリアがわかりやすく区切られているわけではなくて、ロビーの一角だったり、エレベーターホールだったり、客室、ゲームコーナー、ラウンジなんかに自然な形で展示されていて、それが意図して作られたアートなのか、元からあったホテルの什器なのかよくわからなかったりする。
どのホテルも年季が入っていて、80年代、90年代のバブル、平成レトロな空気が漂ってるように感じたんだが、これがアートのおかげなのか元からそうだったのかよくわからない。
作品展示以外にもロビーで劇をやっていたり、夕日が沈む海の前でバイオリンを弾いていたり、日常空間が非日常空間になっていてよくわからない気持ちになった。
穏やかな海と冬の午後の暖かい太陽がとにかく美しくて、ノスタルジックなホテルで展開されるよくわからない現代アートと相まって、不思議な空間を作り出していた、気がする。
いやほんと、気がする。確信が持てない。なんとなくでしかない。ずっとほわほわしていた。
ブルーピリオドを読んでいたおかげで、作品が絵や彫刻でなくても「これがインスタレーションってやつね!」と自分を納得させることはできたが、それ以上の助けにはならなかった。
なんだろう、映えスポットだらけだった。現代アートと映えスポットの違いがわからない。若者はあまりいなかったけど、いたらきっと至る所でパシャパシャしてるんだろうな、と思った。
結局私には現代アートはわからないままだった。でもこの日の体験は行ってよかったと思えるものだった。
0079年11月に、連邦軍によるジオン軍への大攻勢である「オデッサ作戦」が実施された。
作戦の終わり頃になって、降下ジオン軍の指揮官であるマ・クベ大佐は連邦軍に対して「撤退しなければ核を使用する」と脅迫した。
連邦軍の指揮官であるレビル将軍はこれを黙殺し、結果的に核ミサイルが発射された経緯がある(その核はアムロが撃ち落とした)。
私は子供の時にこの作品を見ていたが、当時は「なぜレビル将軍は自軍に被害が出るのを承知の上で進軍したんだろう、おかしいんじゃないの?」と思っていた。
オデッサ作戦前のウクライナ・オデッサは、地球に降下していたジオン軍の拠点であった。
オデッサ自体が鉱物資源地帯であり、ジオン軍のユーラシア大陸侵攻の拠点であり、連邦軍はどんな手段を用いてでも奪還する必要があった。
作戦が終わりつつある時点で、連邦軍は大部隊をオデッサ攻略に使用していて、犠牲も少なくない。
ここで核脅迫に屈してしまうと、今までの連邦軍の犠牲が無駄になるし、大部隊を展開したことも無意味になってしまう。
レビル将軍にとっては、核脅迫を受けようが(政治的に)撤退の選択肢はない。
彼にとって一番怖かったのは、ジオン軍ではなく地球連邦政府や世論だったのではないか。
機動戦士ガンダムの作品に出てくる地球連邦政府とは、おそらく現実世界にあるアメリカ合衆国政府をモデルになっている。
アメリカは民主主義国家なので、世論の動向を恐ろしく気にするので、この問題点をあの作品展開に織り込ませたのだろう。
今のウクライナを見ていても、核戦争の一歩手前になって来ている。
アート関係の仕事してるんだけど表現の不自由展はシンプルに現代アートに対する侮辱でしかないのではよ滅んでほしい
あくまで俺の持論だから違ってても見逃してほしい、いやアートになんか正解ないと思ってるから寧ろ違う視点があるなら聞かせてほしい
現代アートとかいうジャンルがよく分からんという人が多いと思うし俺もまだよく分かってない、でも不自由展の作品あれはヒステリック起こしたガキの落書きでしかないので全然ダメ(現地で実物を全部見た訳ではないから断言はできんけど)
なんというか、直接的すぎるんよな
一般人が見てもハア?分かんねーよ何だこれゴミか?ゴミになんでこんな値段ついてんだ?てなるのが言ってしまえば現代アートなんだけどアレは誰が見ても「日本キライ!」という表現したいことが分かるやつやん
つまり何にも考えてない単細胞なんよ ガキの悪戯の域を出んのよ ストレス発散して自分は本当の事を分かってる感を出してドヤ顔したいだけなんよ
負の感情を芸術に昇華する!とか言われるけどそれはもっと自分自身に対するヘイトであったり鬱であったりやるせなさであったりすべきもので、日本はダメだ!だから日本を侮辱するアートを作る!とやってるやつは所詮三流でしかないんよな
日本はダメだ!だからこそ自分はこの怒りの感情でこれを作る!みたいな確固たる意思を持って作品を作る人間が生み出すものが芸術になって現代アートと呼ばれているはずなんよ
もちろん全ての表現者に表現する会場は貸されて当然のものであって欲しい
でも内容は下衆すぎる 所詮身内でキャッキャペロペロしてお終いやあんなもん
現代アートは良く言えば推理的な、悪く言えば屁理屈的なところがあって、丸めた紙屑を見て受け取り手が考えることで完成する作品となることが多い
汚ねえ紙屑だな〜でもいいし、ゴミから環境問題に想いを馳せてもいいし、実はチラシの紙屑を見て今日の晩御飯を考え始めても良い
寧ろ何とも思わなくてもある日突然「そういえばあの時美術館で見た紙屑何だったんw訳分からんかったw現代アートまじ何w」程度の笑い話になるだけでも良い
作品をきっかけに気付きを得る、思考する、ていうのが現代アートの存在意義やと思ってる俺は
でも不自由展はキチガイが群れて騒いで、キチガイの作品展が開催されて、「やっぱ現代アートって分からん、怖い、近寄らんとこ」という負の印象を持たれて思考停止の末思い出されることも嫌がられて忘れられてお終いや
マジで最悪や 日本が嫌いならとっとと日本から出ていってほしい 海外で好きなだけ日本嫌いを表現してこい
ムシャクシャした勢いの書き殴りで読みにくかったら大変スマン
ワルキューレの冒険をご存知だろうか。
ファミコン時代のゲームともなれば、今や知る人は少ないかもしれない。
英語読みでバルキリーとしたほうが色々と馴染みがあるかもしれない。
その後ワルキューレの伝説というアーケードゲームが発売されるが、その後はリメイクやサイドストーリーものがいくつか発売されただけ(他のゲームへのゲスト参加などもある。)で、完全新作と呼べるものは一切発売されていない。
このゲームは、ベースとなるストーリーや設定がとてもよくできている。
キャラクターの生みの親によるコミックも発売されていて、ゲームでは描かれなかったバックボーンを知ることもできる。
ギャルゲーという概念すらなかった当時、多くの男性ファンを魅了したキャラクターの第一人者といってもいいだろう。
(当時、魅力的な女性キャラといえば脱衣麻雀のキャラ達が席巻していた時代だ。)
その頃のアーケードゲーム情報を扱うゲーメストという雑誌の、はじめて女性キャラだけを扱った別冊ギャルズアイランドでは、第一号の表紙を飾るほどの人気だった。
ギャルズアイランドなどという下品な響きとは似つかわしくないほどの神々しい表紙を是非検索して見てもらいたい。
カイ(ドルアーガ)、ワンダーモモ、アリス(メルヘンメイズ)、アルテミス(フェリオス)、アリーシャ(ドラゴンスピリット)、ジェニファー(スプラッターハウス)、安駄婆(源平討魔伝)
そんなキャラクター達を差し置いて、やはりワルキューレは頭一つ飛び抜けた人気があった。
今でこそ自立した女性が当たり前になったが、その当時にしても凛として一つ筋の通った性格で誰に媚びるわけでもなく自らの力で道を切り開いていく姿は、この時代に置き換えても何一つ色褪せて見えない。
そんな彼女自信のキャラクターもさることながら、世界観、また、それを取り巻くキャラクターたちもどこか憎めず、ストーリーもシリアスながらどこかコミカルで、それでいて最後は胸が熱くなるようなまるでディズニーの名作と比べても何ら遜色のない作りをしている。
主人公が魅力的。
サブキャラクターたちもキャラがしっかりとしていて、出てくるアイテムや武器も豊富。
敵キャラクターも恐ろし過ぎず、暴力的すぎないので全年齢対象作品。
BGMが神。(まじで神。飛ばし飛ばしでいいのでYoutubeでワルキューレの伝説プレイ動画を是非見てほしい。)
こんなにも素晴らしい作品なのに、ここ何年も新作が発売されないのはどうしてなのか!
もしこれら特性を生かして、ゼルダのように作品展開できていたら、今や国民的女神になっていてもおかしくなかったはずだ。
ゼルダシリーズのどれをワルキューレに置き換えても全く違和感がないし、むしろもっと広くファン層を獲得できそうな気さえしてくる。
何年か前にナムコによるカタログIPオープン化プロジェクトと称して、その一環としてワルキューレが踊る動画が公開された。
https://www.youtube.com/watch?v=uPvAqueGLds
泣いたよ。声を上げて泣いた。
見たかった彼女はこういうのじゃなかったけど、だけど曲がりなりにも公式がちゃんとした彼女の姿を見せてくれたことは素直に嬉しかった。
お見合いで結婚をするとなったときも、お見合い相手にまず紹介したのはワルキューレのフィギアだった。
最初はモニターの上にちょこんと座らせておいて、相手が気づいたときに「実は、、、」と切り出した。
これを受け入れてもらえない相手とは絶対にうまくいくわけがないとわかっていたからだ。
別に散財をするほどのめり込んでいるわけではない。心の支えとしてそばに置いてあるだけなんだという説明をすんなりと受け入れてくれた今の妻には感謝しかない。
もし彼女が国民的女神になっていたら、同士達にこんな思いをさせなくて済むだろう。
今からでも遅くない。
ギャルズアイランドの表紙を飾ったときのような癒やしの笑顔や、天空から地上に降り立つ瞬間の決意に満ちた凛とした表情、神と人間や別種族の間にたって葛藤していく姿で世界を魅了してくれ。
今こそ求められているんだよ。ワルキューレ。
息子と一緒に妻の前でも遠慮なく楽しめるような、ほんわかとしてそれでいて人間性の成長につながるようなしっかりとしたストーリーのワルキューレのと冒険が、僕はしたいんだ。
本日、わたしの女性器アート事件の最高裁の判決がおりました。結果は、わたしの上告棄却という、残念なものとなりました。控訴審の東京高等裁判所にて、作品展示に関しては無罪判決が確定していたものの、残りの罪状についても、当然、無罪であると信じておりましたので、納得がいきません。
わたしは、「女性器はなぜ、卑猥なものとされ、タブーとされるのか?」と疑問を持ち、そんな女性器のイメージを覆すべく、かわいく、面白く、笑えるような作品作りをして参りました。そして、裁判では「わたしの体の一部である女性器は、当然にわいせつであると判定されるべきではない」と主張し、わたしの体をモチーフにした物をわたし自身が表現する自由を奪う警察や司法に対し、異議を申し立てて来ました。しかし、最高裁は、結局「女性器だからわいせつ」という、従来の古臭い価値基準から全く抜け出せなかった様です。
わたしは、単に「女性器の3Dデータをやみくもに頒布したい」のではなく、プロジェクトアートの一環として頒布したのであり、全体を通してわいせつ性があるかどうかを判断して欲しいと願いましたが、それすらも叶いませんでした。
わたしの体を元にして作ったアート(デコまん)は無罪でありながら、わたしのこの体(3Dデータ)がわいせつとされるのは、なんとも奇妙な話ですし、先進欧米諸国では、男女問わず、性器をモチーフにしたアート表現で逮捕勾留されることなど殆どないのに、2020年にもなって、非常に時代錯誤な判決だと思います。ここまで支えて下さった弁護団の先生方や支援者の皆様のご協力や努力が、完全には実らなかった事に、申し訳なさで一杯です。
その作品はそろそろn周年を迎える。(nには任意の数字を入れてほしい。)
そして私は、そのお祝いの作品を作っている。
けれど、私はそれがまったく楽しくない。
その理由も分かっている。そのことを書きたいと思う。
信じて、この作品が好きだ!と発信し続けてきた。
それは世の中に出たばかりで、たまたま手に取った私は今までに出会ったことのない世界観、表現の美しさ、その他全てに心を奪われてしまった。
今思い返しても、人生で五本の指に入る素晴らしい偶然の出会いだと思う。
私はクラスメイトや友人にその作品を布教しにかかったが、作品のターゲット層と私の年代が合っていないこともあり、あまり捗らなかった。
それからしばらくした頃、世の中でインターネットで好きな物を発信する手段が出てきて、
学生から社会人になり、様々な自由を手に入れていた私は当然、インターネットの場でこの大好きな作品を広めよう、もっと色々な人に知ってもらおうと活動しはじめた。
しかし、その時にはもう遅すぎた。
作品はヒットすることなく数年が過ぎ去っていて、インターネットにあったのは一握りの熱心なファンの集まりと、「あの作品面白かったよね」と思い出話として語る人々だけだった。
天変地異でも起きない限り、あの作品が多くの人の目に留まることはなくなってしまっていた。
もちろん、多数の人の目に留まることが全て善というわけではないし、私はファンの集まりで出会った皆さんにも思い出でも語ってくれた人たちにも大いに感謝している。
ただ、私自身が、「自分の好きな作品が沢山の人の目に留まってほしい」と強く思っていただけだ。(言ってしまえば、メジャーになってほしかったということだ)
私は何度も、作品が出た頃に何もできない学生だった自分を恨んだ。あの時に何か出来ていたら、と。でも恨んだところでどうしようもない。
それは同じようにインターネットに流れていた、『ファンの声で公式を動かした』という先人たちの実績の数々だった。
最近Twitterに流れてきていたものだと、サクラ大戦のような、あれ。
私はそれを信じて、声を上げ始めた。
といってもそこまで大それたことをしたわけでもなく、推し作品を布教する話になったら本気でプレゼン画像を作ったり、良さを語るブログを書いたり、
あるいは公式に定期的に作品展開の希望を送ったり、n周年の時にお祝いの二次創作をしたり、幸運にも作者さんと直接お会い出来たときにファンレターで思いを伝えたり。そんな感じ。
(今思い返せば、署名活動の1つでもやればよかったと思う。それをしなかったのは私の怠慢だし、何より「もし集まらなかったらどうしよう」という、自分の好きな作品を好きな人の人数が可視化されることへの恐怖にビビったチキンさ故だ。情けない)
たくさんの良き出会いもあったし、嬉しいことに私の発信から作品を手に取ってもらえたこともあった。
そのことには感謝してもしきれないし、ファンとして声を上げていて本当に良かったと思う。
ただ、私には天変地異を起こす力は、なかった。
なかった。
数年前出た小さな設定集を最後に、私の好きな作品は止まっている。
きっとこれはよくあるありふれた話なのだろう。悲しい思いをして諦めているのは私だけではないのだろう。それは分かっている。
作品のヒットだって時の運だ。どんなに作者さんが粉骨砕身しても、プロデュースが頑張っても、ヒットしないものはヒットしない。
分かっている、分かっているのだけど、「どうして私の好きな作品が」という思いは拭えない。
(私の好きな他の作品も似たような感じなので、余計に思ってしまうのだろうというのもある)
そう思っているうちに、声を上げることが辛いと思ってしまうようになってしまった。
馬鹿な、と思ったし、そんなことはない、たとえ天変地異を起こせなくても声を上げる意味はある、と言い聞かせた。好きな作品について話せる人に出会えるんだし。いいじゃん。
そう、これは一人のファンが作品から離れることを、おおげさに書いた文章だ。
気持ちが離れたことを「公式を動かせないことに疲れた」と言い訳している、身勝手で自信過剰で自分の力量を見誤ったファンのたわ言だ。
たわ言だ。
絶対に言いたくなかった、たわ言だ。
言いたくなかったけど、吐き出さないとおかしくなりそうだったから、ここに書き殴っている。
その作品はそろそろn周年を迎える。(nには任意の数字を入れてほしい。)
n周年が過ぎた時、私にとってその作品は、
「あの作品面白かったよね」という思い出になってしまうのだろう。
もし、これを目にした人で、私と同じように公式に届け!と動いている人がいたならば。
私はあなたが天変地異を起こせることを、強く、強く、願っている。
そして、それと同じくらい、あなたがあなたの好きな作品を好きでいることに疲れてほしくないと、強く、強く、強く、願う。
おわり
使い方これで合ってますかね。
読んでて少し発言したかっただけですが、このサイト使い方とかローカルルールとかよくわからないのでうまくできてなかったらごめんなさい。
あと気を悪くしたらすみません。
チラ裏レベルの話です。でもやっぱどっかで投げたかった文です。
・
まず、こういった気持ちを発信するということは、とても良いことだと思いました。
愚痴を吐き出すつもりで投稿されたのかもしれませんが、このことを話題に少しでもこのジャンルについて考える人が生まれるのならそれは良いことだと思います。
そして、この記事への反応をみると、ただただ煽るような言葉が並んでいるのが少し残念です。
・
ルッキズム等の詳しいことはわからないので一介のオタクの視点としての考えの話になりますが、大手ジャンルが特定層向けに舵を切り振り落とされる人が生まれお気持ち連鎖が起きる現象が近年多いように見受けられる気がします。
言及元記事の「キャラクターが男性のみ、女性が一切排除されサブキャラクターにも存在しない」というのは、女性向けゲームにはありがちなものだと思いました。
逆に、男性向け作品だと「キャラクターが女性のみ、男性がサブキャラクターにも存在しない」というのもありがちですよね。(ラブ……ブ!とか)
・
今回のこれはもともと"大衆向け"だったディズニーの作品を"女性向け"に落とし込んだ結果生まれた溝なんだと考えています。
おそらく、性的搾取だとかの考えはそこまで無く、女性向けとして考え売れる作品展開を考えたらこうなってしまったのではないでしょうか。(女性向け作品の概念自体が性的搾取に近いと言われたらそれはまあ…といった感じですが)
私自身、もともと好きだった作品が、Twitterで騒ぐ画像リプチー牛オタク層向けに媚びるよう舵を切り始めたとき、三日三晩枕を濡らしたことがあったので、振り落とされる側というのは辛いんだよなという感覚はあります。
表面にあらわれている多数派というのは、公式に対してイエスマンの人ばかりになりがちなんですよね。公式に振り落とされてもそのジャンルが好きなままの人にはキツい環境だろうなと思います。
・
少し話は変わりますが、先日Twitterを見ていた時に「ディズニーが好きな私が好きというパンピ層が苦手だ」というDオタのツイートが流れてきたことがありました。
ディズニーに関して詳しくはありませんが、ここまで世界的に一般にも通じるジャンルというのはそうそうないと思っています。
これはオタ非オタ関係ありませんが、ここまで広まっているものだからこそ、ジャンルという感覚が無く、ただキャラクターや作品を深く知らないで消費するというのが普通になっているように感じます。
ミリしらで許されるというか、ミリしらで楽しむことが一般的というか、そんなジャンルになっているのがディズニーなのかなと思います。サンリオとかミニオンとかもそんな感じな気がしますね。
言及元記事の筆者さんや言及元記事のように考えてるDオタの方々の感覚は、正直多数派ではないと思います。でも、この感覚はそのジャンルを好きな人にあって当然だろうなと、も思います。
・
公式として出されると、無意識のうちに「受け入れなくてはいけない」という強迫観念におそわれるのではないか?と私は常日頃から考えています。
私自身、好きだった俳優の言っていることが自分の思想とあまりに違い受け入れることができなかったとき、「好きなのに受け入れることができないなんてそれでいいのかな?」となってしまったことがありました。
言及元記事を読んでいると、筆者さんはこの感覚が強いのかなと思いました。受け入れなくてはいけないと思うからこそ辛いのかなと思いました。
こういう時は一回インターネットから離れるのも大切かなあと思います。
・
どう言うのが正解かはわかりませんが、筆者さんがいつか「ツイステなんてなんぼのもんじゃい!ディズニーの作品これいいぞ!みてくれ!」みたいな布教をしてくれればいいなと思います。
ノートルダムの鐘という作品をこの記事で知りましたし、ルッキズムや性の観点からみたディズニーについても面白いからもっと知りたいなと思いました。
Web上の巨大な写真サークルに所属しているので、SNSの友達にやたらとアマチュア以上プロ未満みたいな写真家や画家がいる。
彼らがSNSにアップしてくる写真や作品を見ると確かに上手いとかセンス良いとか思うんだけど、でもこれで食べていけるのかと心配になる。
たぶんギャラリーをやっているような玄人筋には受けるんだろうけど、商業ベースには乗らないんじゃないかなと思う。
仮に自分が彼らの生活を救うために何か作品を買ってやれといわれても、せいぜいポストカードとか数千円レベルの写真集ぐらいしか買う気がしない。…というか、もっと名の売れた大御所写真家の写真集とか、いにしえの名作を集めた絵画展の図録とかでも出せる金額はそのぐらいだ。日本人のアートに対する感覚って普通その程度じゃないのかな。
プロカメラマンとしてそれなりに儲かっていそうな人は、金になる仕事とやりたい仕事を明確に切り分けているように見える。食べていくためにアイドルとか商品の宣伝とか政治家の選挙ポスターとかを選り好みせずに撮り、カメラ雑誌には新発売のカメラやレンズなどのレビュー記事を書き、そうやって稼いだ金で自分の撮りたいものを撮りに行っているようだ。
それに引き換え中途半端なアーティストたちはやたらと暇らしく、生活の細々としたことを凄まじい頻度でSNSにアップしてくる。そんな時間があるなら副業でもやったら良いんじゃないかと思うんだが。「撮りたいものしか撮らない」「描きたいものしか描かない」とかいってると貧困まっしぐらだし、作品づくりをしながら生活するだけでもお金は出ていくんだから何かしろよと思う。
そういう人々に作品発表の場を与えるために、一流企業を早期退職してギャラリーなどで彼らの作品展をやったり海外に作品を紹介したりする活動をやっている人も知っているが、それがどこまで成功しているのかは知らない。日本じゃ受けないけど海外では受ける人とか、万単位のお金を出してアート作品を買う文化が根付いている国で作品が売れる人は良いけど、結局芸術活動に専念しようとすると貧困に甘んじるしかない人々はある程度残っちゃうんじゃないかなぁと思う。
たとえ貧しくてもやりたいことをやって自由に生きる生活が羨ましくないといえば嘘になるが、自分の時間を切り売りしてやりたくない仕事をやってそれなりの給料を貰っている身としては「お前がワガママだから貧乏生活する羽目になるんだよ」と言いたくなる。せめて生活のためにとことんクライアントに媚びて、金になりそうな写真を撮ったり絵を描いたりすれば良いのにと思う。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
さすが津田氏の本業だけあって、文章だと何を考えてどのようなことをしてきたのかがきちんと伝わってくる。普通に危惧されるくらいのことは可能な限り対処してきたのか、とか。これを読んでしまうと津田氏のトークやイベントコーディネートのスキルは文章力に比べて相当劣るように感じてしまう。
この文章で何度も出てくる「検閲」という言葉だが、他人の言葉の引用部分を除くと津田氏本人はかなり慎重に使っている。これは今回の炎上のキーポイントでもある。
辞書的な意味で検閲とは、公権力が表現物を検査し発表を禁止することである。
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E9%96%B2-60273
しかしながら、図らずも今回あきらかになったように作品展示を中止する要因としては公権力ばかりではない。むしろ現代日本ではそれ以外の方が多いようだ。
(3) キュレーター
(4) アーティスト本人
(5) 一般市民
このうち公権力によるクレームや強制力によって排除されるのが狭義の「検閲」。
主催側の立場は「金は出すけど口は出さない」のが理想ではあり今回もわりとそうだった。ただし事業である限り本来の主旨に合わないものやデメリットがメリットを上回る場合は、主催側が展示会の方向性に意見する自由はあって当然。
キュレーターはむしろ何を展示して何を展示しないかの権限を任されているので、それを行使するのが本業。
アーティスト本人の意向。ときとしてキュレーターの意思よりもアーティストの意思は尊重される。ある意味当然だがこれが強すぎると美術展がキュレーターの思惑とズレることがあり得る。そして今回ズレた。
声の大きいのが実は一般市民。ネガティブ、ポジティブに関わらず主催に対して意見を言うことは原則として問題ではないが数が多すぎると窓口業務に支障が出る。
そしてそれが悪い方向にエスカレートすると反社による脅迫になる。
実際のところ多数の一般市民からの苦情や反社からの脅迫が原因で、このままでは来場者やスタッフの安全性が確保できない、という判断を主催側、キュレーターがすることで展示中止となっているものが多いようだ。
「表現の不自由展・その後」各作品の展示中止理由について調べてみた。
https://censorship.social/artists/
ちなみに「《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない」という言葉が津田氏のエントリーにも作品のキャプションにもあるが、これはかなり微妙な言い方で、「慰安婦像」という“名称”ではないものの、慰安婦を表現したものであり、日本政府に慰安婦問題の謝罪を求める目的で作られた一連の像のひとつであることは作者が明言している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%83%8F
https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8F%89%ED%99%94%EC%9D%98_%EC%86%8C%EB%85%80%EC%83%81
https://en.wikipedia.org/wiki/Statue_of_Peace
これらを見ると、多くの場合主催側やキュレーターが公共性や展示会の主旨を理由に展示中止しており狭義の検閲にはあたらないように見える。また、天皇関係のうち3作品は、富山県立近代美術館事件に関するもので、これは反社(右翼団体)による脅迫が契機となっている。
表現の不自由展実行委員会は、表現の自由 vs 公権力による検閲 という構図に見せたがっている。ただ公立美術館や芸術祭の主催自治体は、公権力というよりも主催側という立場であり、中止の判断も現在の体制では安全性が確保できない、公共性ポリシーに反するなどである。
そこを巧妙にすりかえて、「検閲」という強い言葉を使うことにより強大な国家権力に立ち向かうアーティストという演出をしている。
現代日本における検閲らしい検閲といえば、表現の不自由展実行委員会メンバーである永田浩三氏の受けたNHK番組改変問題があり、こういった経緯の作品があれば説得力は増したと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E7%95%AA%E7%B5%84%E6%94%B9%E5%A4%89%E5%95%8F%E9%A1%8C
ここからは完全に余談。
津田氏のエントリーには、候補として上がった作品として、会田誠《檄》や、鷹野隆大《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子《デコまん》シリーズが挙げられている。
鷹野隆大《おれとwith KJ#2》は男性器が写った写真を展示していたところ、通報されて警察から注意を受けたというもの。明確に違法な図画を作品としてクローズドな場所に展示するのはOKかNGかという議論は見たかった気がする。
https://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/pdf/2014/apmoabulletin2014p54-63.pdf
ろくでなし子作品が展示スペースの都合で候補から落ちたという件、カヌーみたいな大きなものではなく手のひらサイズ(実物大?)のものもあるので、スペースなんかどうにでもなるだろうと思ったものの、慰安婦や天皇がらみの作品のすぐ横にデコまんがあったらそれはそれで別の意味が発生しそうなのでやむなしか。
掲示されていた「年表」にそれらが含まれているか知りたかったがよくわからない。ネットに上がっている写真を見ると「イケメン官能絵巻」の文字が見えるので「年表」にはエログロも含まれているのかも。誰か知っていたら教えてください。
あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」の存在をはじめて認識したのはとあるツイートがきっかけだった。
「芸術展を称して昭和天皇や安倍首相を侮辱している!こんなの許されない!」というような論調のものだったように思う。
公金が投入されていることを知った。
『うわー大丈夫なのこれ、よくないんじゃないの』と思った。
その一方で、炎上が大きくなっていくことについては少し白けた目で見ていた。
語気の強い発言を見掛けるたび、『極右の人はよくこんな怒れるな』『ほんと宗教みたいだな』と思った。
作品群がそれぞれ既に展示中止になった経緯のあるものであることを知った
『そういうコンセプトの作品展なら、まあわからなくもないな』と思った。
『ツイートでは反日作品ばっかり取り沙汰されてるから気付かなかったな…ツイートが恣意的なものである予感はしてたけどこういうことか』と思った
『極右の人ってよく市民の反発感情煽るためにこういうデマ流すよなぁ、だから嫌いなんだよな』と思った。
『でも天皇の写真を使った作品を燃やす様子を撮影した作品、はあるみたいだ。メッセージ性はわかるけどなんか嫌な作品だし肯定したくはないな』
『とりあえずこの件について騒いでる人、左右どっちとも関わりたくないな』と思った。
「表現の自由があるからって好き勝手するのは許されない!」みたいな論調の発言を見掛けた。
『そうだよなぁ』、と思いかけて、ふと気になった
『表現の自由戦士を名乗っていたオタク、今どんな反応を示しているんだろう?』
「表現の自由の元ではエログロも韓国へのヘイトスピーチも今回の作品展も等しく自由であるべき」というようなことを言っていた。
『おお、この人は主張が一貫してるんだな』と思った。
「アニメや漫画の素晴らしい表現とこんなクソみたいな表現を一緒にするな」みたいなことを言っている人もいた
『これはダブスタだなぁ』と思った。
『極右の人ってほんと気持ち悪いな』『これって政治家が直接働きかけなくとも、自分の支持者に運営者を脅迫するよう仕向ければ気に入らない表現を規制できてしまうんじゃないの』と思った。
名古屋市長が展示中止に向けて動いていることを知った。
『これで本当に中止になったら、"国民の要望を受けて"と言う形で行政側が表現を規制することを容認した、ということになるよな』と思った。
『同じ論法でエログロやコミケが規制することもできちゃうよな』『オタク達こそ表現の不自由展を擁護すべきなのでは』
『そもそも"行政が支援すべき良いアートと支援しない悪いアートを区別する"ということ自体、なんか変なんじゃないか。それと"自分達に親しい身内や仲間と、そうではない大多数の国民を区別する"という事とで、何が違うんだろうか』
『今更か、でも割と真っ当なコメントだ。"ただし"以下は自民支持層の方への配慮が見られるが、立場上仕方ないだろう』
『"クローズドな場所"、確かにそうだ。自分から足を運ばなければ目にしなくても済む今回の作品群と、やはり町に出かけるだけで聞こえてくるヘイトスピーチは並列して語るべき物ではないよな』
そんなことを考えている間に、国民達による脅迫の甲斐あって作品展が中止になることを知った。
『あーあ』と思った。
その上でもう一度開催すればよい。私は今回の作品群を好ましく思わないし、作者を軽蔑さえするが、脅迫によって表現が規制に追い込まれるのは大変危険な傾向だと思う。
今後逮捕されなければ、脅迫は極右政治家の差し金であったと判断せざるを得ないのではないか。流石にそれはないと信じたいが…。