はてなキーワード: 帰結とは
淘汰というものがあらゆる状況に存在する「時空」において、個々の知性の存続においても淘汰というものが機能していることを前提とするのが自然だろう。つまり、前項にて示した「相互補完」への帰結も永続的な存在を視野とした知性間における淘汰の結果とも言える。つまり、「相互補完」による均衡状態の維持こそが、「時空」に存在しうるあらゆる脅威から、知性が自らを護るために不可欠ということだ。そしてこれは限定知性にも当てはまる。ただし、「相互補完」による均衡状態は、「大いなる良」という恒久的な時空間軸の観点から初めて示され得るものであるため、限定知性にとって、自らの境遇がそれに到達するうえで如何なる状態にあるかを見極めるのは困難だ。むしろ限定的時空間の視点において「良」とされる状態が、該当する限定知性にとって最終的に「大いなる良」へと移行出来得る可能性を高める境遇であるとも限らない。つまり、限定的空間における「良」は必ずしも知性における「良」であると定めらるわけではないのだ。そこが、限定知性が自らの行動規範を明確にすることを困難とする。一方、時空間的制限から解放された存在である知性にとっても、限定知性が持つ、特定の時空間に対する「主観的な視点」ならびにそこから得られた知見は、自らの知性を補完するうえで重要なものになる。状況を単に理解すること(即ち「知」の蓄積)と、主体的な立場でそれを体験すること(「経験」の知性への統合)には大いなる差があるからだ。つまり、知性は限定知性がいずれ、その物理的空間から解放され「大いなる良」を達成するためにその他の知性と均衡関係を築き上げることを望んでいると仮定することが妥当だろう。
(結局、この世は競争社会で、だれもが直面しなくちゃいけないものだよね。たぶんそれは、意識をもっているあらゆる存在がそうなんだろうな。とういことで、皆でハッピーになるために、互いに愛し合うっていうのはある意味、生存本能がもたらしたもんなんじゃないかな。ただこれはあくまでも、この世の時間とか制約を超えたセカイを前提とした意味だよね。でも人の世では、それは分かりにくいよね。この世の金持ちや名誉を得た人が天国(極楽浄土?)にいくとも限らないし。ただ、もし人よりも高等な存在がいて、それが時間とかを超えた文明をつくっているのなら、結局、この世界に介入するだろうね。どんな些細な人生でもその体験は、重要ということさ。)
知性は限定知性の限界である時空間からの解放に意義があるという前提で介入する。それは「大いなる良」に向けた相互依存のために不可欠であり、巨大な淘汰という環境において知性自体の存続を維持、反映させるうえでも不可欠であるからだ。一方、限定知性は、自身の物理的個が崩壊すると同時に自らの知性も損失してしまうことが限定された環境下における最大の障害となる。従って、限定知性もこの時空間的制限という限定条件を突破し更に存続できるかはその存在自体にとって文字通り「死活問題」ということが出来る。だが、知性自体が、その存続の最大の条件を「大いなる良」に向けて相互補完であるということしているのであれば、限定知性もその思想及び行動の範疇をそれに準じなければならない。
実際にそこは矛盾に満ちた境界でもある。つまり、限定知性は時空間を極めて限定された中で自己を認識しなければならないのも関わらず、時空間から解放されている条件下の相互補完を
持続的に実現しなければらないからだ。
(時間や空間を飛び越えた神やら仏やらがこの世に介入するときっていうのは結局、みんながハッピーになるため。神やら仏やらがいる天国やら涅槃、霊界やら地獄やらっていうのも
結局は超巨大な競争社会。自然界の弱肉強食なんだろうね。結局、神やら仏やらもすべての生きる人を必要としてるんだよ。人とかも結局、死からは免れない。でもそれをするには
みんなが永遠にハッピーになるために頑張らなきゃ。でもこの頑張るっていうのが、この世だけの見え方ではなくて、神やら仏やらの視点で頑張るっていうのが大変なんだよ。)
知性にとって、あらゆる限定知性の価値は、「大いなる良」に向けて相互補完を実現する名のもとに等価である。ということは、限定知性の思想や行動規範もそれに準じなければならない。知性にとってあらゆる「知」を「経験」として再構成するにはすべての限定知性が不可欠である。一方、限定知性にとっても時空間的制限や制約並びに障害に囚われる事なく
全ての限定知性を等価にとらえ相互の関係性においてその思想と行動規範を維持することが求められる。
(神や仏にとって、どんな人も大好きなんだろうね。そんなことを考えているからハッピーになれる。 幸せに生きるためには、人の経験がどんなものであれ、それらを一つに
して団結することで強くなるわけだから。ということは、どんな人でも人種がちがったり、ちょっと考えていることが違ったり、美人もデブも不細工も、イケメンも、学校の
極論も何も温まった規制派にまともなボーダーなんて引けるわけがないからやりたいことを代弁してあげてるだけなんだけど
行動そのものが極論的な原理を元にしてるんだから文章化したら極論が出来上がるに決まってんじゃん
そもそもどれだけ影響力の強いものがあったとしてもそれに従うかどうかは極端な話、個人問題に帰結するから
戦争に参加したくないって醤油飲んで病気になっても行きたくないやつだって当時いたんだぞ
どれだけ影響力が強い状況に追い込まれてもそれでもまだ個人に残ってる選択肢を増やすも減らすも自分次第
その個人の自由意志を尊重するどころか「個人は簡単に他人に影響されて道を誤る」という自由意志に唾吐く様なことが
要はこの社会に生きる大人たちが自分たちの頭で考えて何が悪か何が善か判断するだけの知能と良識を備えてないってことになるんだが
赤ちゃん人間が前提ならそれこそ総ての要素を管理下において政府に統括させろよ
規制派の思い描くユートピアってそういう赤ちゃん人間たちが毒に一切触れずに生涯を終える環境のことだろ?
最初っから極論言ってるんだから文章化して改めて極論だと分かったところで何で一歩引いて怖気づいてるんだよw
そこは「そうそう、俺はこういう管理社会の元、社会に悪影響が一切ない世界で生きたいんだよね!」って胸を張れよ
なんでそこで引くんだよ
引く理由言ってやろうか?
要はお前個人が単に否定したい1つの要素に対してだけ社会から除外したいと思ってるから
社会に悪影響なんじゃなくてお前個人の精神に対して悪影響だから
本当の意味で主語がデカくて、結局困ってるのもイラついてる個人の「俺が気に入らない」
これだけ
だからそれ以上に対象が広がると自分の大好きな要素もセレクトされてしまうから引いてしまう
嘘ついてるんだよな
みんなじゃなくて素直に俺が気に入らないんだって言えよバーカ
この手の手合いってなんで二言目には「みんながそう思ってる」「みんなが迷惑してる」って出てくるんだろうな
みんなじゃなくてお前だよお前
お前が迷惑してると思ってるんだよ
自分と他人のボーダーが引けないから自分=みんな化してるんだよ
お前の常識の精度どれだけ高いか分からないけど根拠のない自信捨ててこい
境界性パーソナリティ障害者がネットで市民権得ると本当に主語がデカくなってシンゴジラ級になるから非常にめんどくさい
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
生きる意味があると考えているのは人であり、
個々人の価値観によって理解不能と相違と反発が発生するため曖昧性を回避できない。
よって絶対的な評価を下すことはできず、本人の中にしかその動機付けは内在されていない。
それでも生きる意味はあるんだと信じてやまない人間に対して問いかける。
「それではその生きる意味がもしなくなったら、すぐその場で死ぬのか?」
総ての人がNOと答えるだろう。
普段から生きる意味など考えずに生きている人間の方が多いではないだろうか。
「生きている意味があるから」ではなく「死ぬ理由がないから」である。
死ぬのは死ぬ理由を見つけたからであり、生きる理由を失ったからではない。
明確に生きる理由を持ち合わせていない人間が今、こうして生きているのは彼らに死ぬ理由がないからだ。
例えば「大金持ちになりたい」という希望は言い換えると「大金持ちになって贅沢をして『死にたい』」だ。
科学者になって世の中に貢献したい→科学者になって世の中に貢献した『後で死にたい』だ。
家族を作って子どもを育てたい→家族を作って子どもを育てて『孫の顔をみて死にたい』だ。
生と死は相反する関係性ではなく時間の尺度を変えることでどちらも同じ状態として捉えることができる。
その死へと向かう途中での暇つぶしの行動に人間は価値を見出したり、やりがいを感じたりするが、
そのすべての行動と結果は死という最終着地点までの寄り道と余興にすぎない。
どれだけ死という行動以外に大きな価値観を見つけて、
それを認めたとしても死という行動と結果は変えることができない。
だからこそ人は死以外の価値観を変えることができるし選択する権利を保有している。
肉体的・精神的に死ぬ理由が発生したときに死という結果へと帰結する。
そしてその間に許された余興をどのような形にして、
どこかの誰かに認めてもらえるくらいに綺麗な着地を決めるか、
その死への落下を決めることだけがかろうじて人間に許された行為だ。
人はそれを生の理由として捉えようとすることで死の恐怖を和らげようとする。
さも、自分は何かのために産まれてきたのだと信じることで死の事実から目を背けようとする。
しかし人間が何を考えどう行動しようとも総ては死への引力に逆らえずに引き込まれ終わりを迎える。
死という結末をどのように迎え入れるかを模索している。
どのように生きるかを考えると見失う。
どうせ、死ぬ。
どのように生きるかではなく、どのように死ぬかを考えよ。
初めて歩みたい道がその眼に写るだろう。
それがきみだけの『寄り道』だ。
「飯食ってくか。魚買ってくるわ」
お湯を沸かしてお茶を入れて、冷蔵庫で冷やした上で氷を入れる。近くの海でとれた魚をおろして刺身にするなりして、茗荷とすりおろした生姜と醤油に、お茶碗 1/3 くらいの白飯と香の物で食事をする。できれば、家族や来客にも、同じように質素な料理でぶっきらぼうにもてなす。
私は上場企業経営 xx 年目になるサラリーマン経営者だ。東京のど真ん中で働き、オフィスから徒歩 5 分の場所で家族と暮らしている。四半期の売上進捗が思わしくないだの、誰それが辞めると言っているだの、どこそこの部門の空気が悪いだの、どれだけ頑張っても、寝る寸前まで自分にまとわりつく焦燥感。具体的な内容を思い出せないほど数が多く、ただただそれら事実の寄せ集めが名も無き不穏となって後頭部にはりついている。
自分の人生に自分が何を求めているのか、理解できないことは不幸だ。不鮮明な希望の輪郭をなぞってみても、それが実際にどのような形をしているのか、想像も及ばない。その形に、一般的な欲望の帰結を仮説として当てはめてみたところで、違和感だけが残る。西麻布のラウンジや高級ブランド、美しい異性や異国の風景にどれだけ金銭と時間を投じても、Twitter や Instagram のキラキラアカウントのようにシンプルな幸福への最短距離を走ることができるわけではない。なんならキラキラアカウントたちも、当人の希求する毎日を、インターネットアカウントという時間軸をぶつ切りにしたパラパラ漫画のような、仮想的な人格に投影しているのだろう。
人生の幸福について考える際のパラドクスは、このタイムライン化にあると思う。冒頭の段落は、私が考える幸福を具体的なシーンとして描写したものだ。それだけ読むと、ああいいな、と共感してくれる人もいるだろう。しかし現実には、このような丁寧で質素な生活は、2, 3 日で飽きるのだろうし、日々の一瞬を、最高到達点で切り出して静止させ、その画像のような人生に満足感を得る意味はない。画像と画像の間こそ生活であり、人生だからだ。
1 日に 1 回あるかないかの一瞬のピークをパラパラ漫画化して、数万枚アップロードされた Instagram のような何かが、お前の人生だった、というのはどうも侘しいのではないか。
それでも私は、人生における幸福を画像として想像することをやめられない。その 1 秒以外の 23 時間 59 分 59 秒を無視しなければ、脳みその計算機がオーバーヒートしてしまう。どうやら私はいつまでも、自分が求める日々を理解できそうにない。
>ヒーローアカデミアのアニメ1~2話は良い話だったような気がしましたけど、
そういう「ナードな僕も努力したら報われました!!」みたいな話ではなくてね、
喧嘩してた太郎君と花子ちゃんが僕が仲直りのパーティ開いたら仲直りしました!!とか
腰を痛めていたおじいちゃんのための椅子を造ったら大喜びされました!!みたいな
日本人特有の和を尊ぶ精神から発生した思いやりや慈しみの心に溢れた話ってこと。
誰か悪をぶっとばしてハイ良い話、それ違う。
というか守りたい平和は調和のはずなのに何でいつの間にか己の勝利になってんのか
まあ、分析しなくても分かるんだけどね。
戦う以外にも平和を守らないといけない問題や方法は山積みなんだよ。
それは戦う以上に難しいことだったり尊いことだったり本当に必要なことだったりする。
なぜかヨイショはされてもその本質に触れる人間がいない「和」の話。
手術と悪人と戦う以外にも個人個人の心の問題も解消していってるからだ。
それぞれの人生まで治療していってるから未だにブラックジャックは多くの人に愛されていて
ドラマ化もアニメ化も何度もされるのにアトムは不人気で火の鳥も良く分からない作品扱いされてる。
三つ目が通るだって立派に面白い手塚作品なのにリメイクが少ないのも
もちろん長い目で見ればそれだけじゃないのだが。
ただそういうのは大人になって余裕ができて初めて他人を労わって別視点に立つことができる。
しかし今や大人も余裕がなくなりつつあり、子供にも勝ち組になれと他人を踏みつけろという教育が主流になった。
今の少年漫画は悪をぶっ飛ばして俺(俺ら)自己成長!の完全実利主義に帰結してるって話。
そんな漫画を正として捉えて大人になったら他人は全て悪で俺と俺らが勝てばそれでいいという目標しか立てなくなる。
全体を幸福にすることが最終的に自分の最大幸福に繋がることすら教えられずに人生を進むことになる。
ヒーローアカデミアも人助け人助けとか言いながら今のところ自分たちしか助けてないし、
能力授かる前のデクは人助けもろくにせず自分のためにノートとってばっかの精神性もナード、
今も相変わらず自分とすぐそばの人間のことしか考えられないナード精神。
能力なくても道案内とかゴミひろいみたいなボランティアで人を助けることはいくらでもできる。
今までジャンプで連載されてきた主人公の中で一番自己中でどこまでも利己的な精神と行動。
能力的な魅力がなくても、精神的な魅力・カリスマがあれば自然と味方ができる。
実際に人助けをしているオールマイトがどこをみてこいつに魅力を感じたのか理解できないご都合主義展開。
こいつの行動原理のふしぶしが弱者を救いたいという気持ちではなくて
単にオールマイトがカッコいいから真似したいっていうファン根性由来。自分がカッコつけたいだけ。
最初にオールマイトがいなければ何の価値もない正真正銘のナードってこと。
こんなのに魅力を感じるわけがない、まだサイコパス気味のルッピさんの方がカリスマ性あるだけマシ。
ヒーローアカデミアは「ナードな僕がカッコよくなれる自己犠牲マジきもちい」漫画。
共感できる人ってナードな部分に共感してるだけで自己犠牲もマジきもちいいの部分もフィクション。
エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーはエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである。
しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアム・フレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為をエロと称するのであれば、その意味で泣きゲーがエロゲの一ジャンルであることは間違いない。
泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったかの技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。
2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。
だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。
ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。
そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。
その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからである。エロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。
例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーはエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である。
人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」の構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ、少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性は友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。
男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。
『DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。
さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲーの元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。
努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇をきっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。
「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。
難病物は概ね、主人公とヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したものを涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一『ノベルゲームのシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福な日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである。
この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。
前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2の桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公の勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。
1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチのシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。
おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。
そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴的である。もし泣かすという意思で作られたものを泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初の泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。
MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。
とはいえエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである。
ToHeartで泣かせる物語構造が確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.のスタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインのルートで導入された。
当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。
本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独でジャンルを成立させられることを示していた。
今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。
6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。
特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチをKanonは泣かすという目的で採っている。
Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代の泣きゲーの金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物である。リアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。
――一方で、ToHeartもONEもKanonも加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴である。ハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である。
興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。
知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故で幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。
そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。
しかし、彼女が無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。
もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔で幸福な記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。
悲劇の象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。
ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。
MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである(個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。
そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。
男女関係の修羅場をシリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公が修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。
誰を切り捨てるかは、プレイヤーに選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。
さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である。
家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である。加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。
襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。
なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである。
……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である。
例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇的シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である。
また、集団間の絆も広く扱われていく。
『うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である。
ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決とはいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。
これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である。
ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。
そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤーに凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。
そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。
泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要な位置に少女の悲劇と愛が配置されている。
そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である。
としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。
そう捉えるならば泣きゲーの歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。
いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である。
例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢を最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くものが2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。
また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトルは以下略)。
昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやすい泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである。
リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後の若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲーの元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。
かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解の一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。
30代男性は38%。
だが、考えてほしい。
いろいろあるだろうが、
「女に選ばれなかった」これがでかい。
そもそも、女性の場合はかなりのブスでも男からアプローチを受けるという。
確率的には、95%くらいの女性はなんらかのアプローチを受けたのだろう。
そう、「女性に断られたから交際経験が無いです」ってのがほとんどの男の内情ではないか。
ようするに、「女の選別がきつすぎる」から、「交際できない男ができている」というわけだ。
これが現実だと思うんだけど、なぜか女性は男が女性に興味が無いという帰結に持っていきたがる。
イヤイヤ、女性がアプローチ受けたら受けていれば、少なくとも80%の男は交際経験あり、ってなるんじゃないだろうか。
少子化なり、草食なりって、ようするに「えり好みする女が悪い」この一点じゃなかろうか。
こういう社会を招いておいて、「女に社会進出させろ」ってどの口なんだろうね。お前らに社会を語る資格はねーよ。そう思う。
<追記>
女で言えば、AKBくらいの顔面偏差値でようやく男は普通の女くらいのモテ度になる。
女の普通くらいの奴が、「男は情けない」というのは、逆の立場で言えばブサメンが「女は情けない」というくらい腹が立つ。何様だよって。だから女様だなって揶揄される。
このまとめを読んで思ったことをつらつら書こうか……と思って帰ってみたら大幅に補記されてる! でも全部読み通す気力はないので(ごめん!)、とある更新部分までを読んだ段階での、生煮えのおれなりの感慨を書く。
おれもカクヨムで小説の大賞を狙って投稿した人間だ。ジャンルは「恋愛・ラブコメ」だった。
おれは結果としてカスリもしなかったようだ。でもおれは大賞を取った作品に対して、是非はクリエイティヴな「批評」として論じたいが、読まれた功績は素直に認められる。負け惜しみとか妬みとか嫉みとか、そういうものはない。
何故なら、おれは全力を出し尽くしたからだ。おれの持てる全ての力を振り絞って、作品に対して集中して書き切ったからだ。
おれもウケを狙ってショートショートを書いてみたりしたよ。カクヨムではそういうのもウケるみたいだからな。でもボロクソに言われた。
言われたことももちろんショックだったんだけれど、おれがショックだったのはそういう批判ではなく(批判する権利は誰にでもある)、その批判に応えられなかったからだ。作品がその批判に対抗出来る力を持っていないと思ったからだ。安直な動機で書いたことを見抜かれたからだ。
読者は貴重な時間を費やして読んでくれるんだ。批判もまた、その好意の裏返しだ。それに対してきちんと応えられないウケ狙いの安易な作品を書くことがどれだけ下らないことか、その時良く分かったよ。
逆に言えば、批判/否定されてもそれに応えられるだけのものとは、大賞の受賞を逃しても納得出来るだけの、自分は精一杯全てを出し尽くしたと言い切れるもののはずなんだ。おれは大賞を狙った十万字の小説に対してそれだけの情熱を注げた。それは断言出来る。
おれは読んでないからなんとも言えないが、イスカリオテの湯葉さんの作品もきっとそれだけのありったけの力を振り絞って書いた作品なんだろう。だから読まれるだけの力があるんだろうな。それは結局実力の差、あるいは時の運、その他諸々が絡み合って出された当然の帰結なんだ。
おれは『カッコーの巣の上で』という映画が好きだ。あの映画で、閉鎖的な病院から抜け出すべく水飲み場の台を持ち上げて窓ガラスを壊そうとするマクマーフィという男が登場する。そいつは結局その水飲み場の台を持ちあげられない。でも、最後にひと言言うんだ。「でも努力はしたぜ/チャレンジした」と。
おれの今の心境も同じだよ。おれは努力した。全力を振り絞って書いた。なけなしの力を、これ以上ないというほど、血を吐くような思いで書き切った。だから、落選したが、ボロクソにも言われたが、不思議と傷はついてない。むしろ爽やかな気分だよ。やり切った、って充実感/達成感がプライドとして守ってくれるからな。
おれは努力した。燃え尽きたよ。これからまた小説を書くのかどうかは分からないが、おれはカクヨムという場は好きだ。だから撤退はしない。
っていうことを書こうと思って(そういう部分だけ読んだんだよ!)家に帰ったら、なんか怒りをこじらせた挙句の果てにご覧の有様だよ! でもここまで考えたことをムダにはしたくないので、敢えて増田で書き捨てる。ごめんな!
さて、後篇である。サブタイトルに「捏造行為が発覚」とはなんとも穏やかではない。
後篇の内容は、池田氏の発言の検証とマウス実験に対する批判が主である。
マウス実験についての指摘内容は、これまた私の指摘と同じなので割愛する。
またそれとは別に、発表資料内で示された図とグラフ(資料ページ59: 自己抗体の沈着の写真とグラフ)はチャンピオンデータによるものではないか、との疑問も呈されている。
確かに、写真は1種類でグラフにエラーバーが無い点からも、疑問を抱くのは妥当であろう。
そして村中氏がその詳細について調べるため、実験を担当したA氏を探し出して取材したところ驚くべき証言が得られた、というところで記事は終わっている。
あとは月刊Wedge7月号を読んでくれという、「続きは映画館で!」的な終わり方であり、少々拍子抜けだ。
その過激なサブタイトルにも関わらず、後篇の記事中では「捏造行為が発覚」していない。
せいぜいチャンピオンデータの使用が示唆されたくらいだが、これも疑義どまりで、とても「発覚」とは言えない。
そもそも、チャンピオンデータの使用は「捏造」と異なる形態の研究不正である(不正と見なされない場合すらある)。
「捏造」はデータそのものをでっちあげる行為であるため、「チャンピオンデータ」のような都合よく選別したデータを示す行為とは明確に区別されるのだ。
このような乏しい情報でもって「捏造が発覚」というような非常に強い表現をするのは、控えめに言ってもやりすぎであろう。
Web記事だけでは片手落ちなので、Wedge本誌の記事についても解説していこう。ええそうです。買いました(\500)。
本文4ページ中、1.5ページは後篇の内容とほぼ同じであったが、Web版を読んでない人には序文として必要であろうから、とやかくは言うまい。
この記事の目玉は、A氏への取材で得た実験内容の詳細および池田氏の捏造行為についてである。
A氏の証言をまとめると
(1) マウス実験はごく初期段階の試験的なもので、使ったマウスも3~5匹程度であった
(2) HPVワクチン以外の血清で緑色蛍光を呈した写真も存在したが、発表資料には採用されなかった
(3) 資料中のグラフ、写真は1匹のマウス(N=1)からのチャンピオンデータであった
(4) 自己抗体が沈着した写真はワクチン接種個体の血清を正常マウスの脳切片に添加して蛍光染色し、撮影したものであった
(5) 自己抗体がワクチン接種個体の脳に沈着していた証拠はない
(6) 血清をとったマウスに接種したワクチンの量は50ul (濃度は不明だがヒト換算で通常接種の100倍以上らしい)
これらの証言を読んでわかるように、A氏の証言を全面的に受け入れたとしても、研究不正に該当しそうな行為はチャンピオンデータを用いた点だけであり、「捏造行為」の存在は見出せない。
村中氏は、証言(2)に対して「重大な捏造である」と断じていたが、チャンピオンデータのみを示す行為が「捏造」でないことは前述の通りである。
また、証言(4)と(5)に対しては、ワクチン接種個体の脳に自己抗体が沈着していたかのようにミスリードしていたという点が批判されていたが、これもまた「捏造」ではない。
つまり、Web版とWedge本誌の記事を通して、池田氏らが「捏造行為」をしたという根拠は一切示されていないことになる。
さらに、記事の最終ページでは池田氏の学長選挙エピソードやその上昇志向といった人格面の描写が過半を占め、最後の結びは以下のような文章であった。
それぞれの立場と動機から捏造に手を染める研究者たち――これが国費を投じた薬害研究班の実態だ。
子宮頸がん罹患リスクを負ったワクチン未接種の少女たちとワクチンに人生を奪われたと苦しむ少女たちの未来は、こんな大人たちの手に委ねられている。
これらの批判、ともすれば中傷は、池田氏らの名誉を著しく傷つけるものであり看過し難い。
捏造というのは、科学者に対する批判としては極めてインパクトの大きい言葉であり、軽々に投げかけて良いものではないのだ。
私は元増田で池田氏らの発表および発言内容を「言い過ぎ」と評したが、村中氏の方が「言い過ぎ」度合いでははるかに上である。
過激で煽情的な表現は、耳目を集める上では有利かもしれないが、それは科学的な議論、批判をするうえではノイズにしかならない。
村中氏の取材や批判の内容そのものは概ね適切であり、あえて過激な言い方をせずとも十分に説得力と訴求力があるはずだ。
Wedge本誌の記事で中核となっているのは明らかにA氏であった。
村中氏の記事によれば、A氏は以下のような来歴を持つ人物のようだ。
であれば、信州大学産科婦人科学教室のメンバーからA氏の正体がわかるかもしれない。
上は現在(2016年6月)公開されているリスト、下がInternet Archiveというサイト(WEB魚拓の凄い版と思ってくれれば良い)に保存されていた2015年10月のメンバーリストである。
信州大学 産婦人科学教室 ― スタッフ紹介(2016年6月現在)
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/medicine/chair/i-sanfu/about/post_9.html
これらをみると、2015年10月時点で産婦人科学教室に所属している准教授は存在しない。
そのため、A氏が産婦人科学教室に配属されたのは少なくとも2015年10月以降であると考えられる。
しかし、村中氏によるとA氏は2016年4月に転出しているとのことだが、配属からわずか6カ月ほどで転出というのは少し速すぎるように思う。医学系ならそうでもないのだろうか?
さらに、2015年10月より後に教室に配属されたとして、そこから翌年3月の発表までにマウス実験を終わらせるのは少々厳しいのではなかろうか。
もちろん、取材源の秘匿等の理由で記事中には偽の来歴を記していた可能性もあるし、村中氏がこんな嘘をつくメリットも思い浮かばない。
個人的には実在しているように思うが、非実在でも驚かないといった程度に私は認識している。
氏の連載を通して読んでの批評を述べるとすれば、「客観的事実に基づく批判はまっとうであるが、それ以外の部分が煽情的に過ぎる。対立する話者の悪魔化をおこなうべきではない」といったところか。
HLA型にまつわる遺伝子頻度と保有率の取り違え、マウス実験がヒトには適用できない点、チャンピオンデータだけを提示する行為などに対する批判などは妥当なものであった。
しかし、池田氏らの行為について悪意的にとらえ過ぎているきらいがあり、人格面での批判も目につく。
また、池田氏らがマスコミを利用して何かを企んでいる、というような論調が全篇にわたって存在している(タイトルからして「利用される日本の科学報道」である)。
その帰結としてなのか、「捏造」という科学者にとって極めて強力な(したがって非常に強い証拠が必要な)批判を無根拠に突きつけるといった行為にまで及んでいる。
(恐らくこれは村中氏が認識していた「捏造」の定義が間違っていたことに起因するが、それにしても杜撰である)
氏の精力的な取材と情報発信は、HPVワクチンに関して薬害説に傾きがちなマスコミ報道において、貴重なカウンターパートとなっている。
なればこそ、冷静で客観的な表現を心掛けることで、より良き論評ができるのではないだろうか。
願わくは、煽情的な表現は避け、客観的かつ冷静な筆調でもって語っていただきたいところである。
なぜか池田氏らを擁護するような内容になってしまったが、私はそもそも彼らの見解について批判的である。
元増田もそういう意図で書いたし、HPVワクチンの積極的な接種勧奨の再開を望んでいる。
しかしながら、元増田でも述べたとおり、評価すべきところはその立ち位置に関わらず評価すべきであるとも考えている。
村中璃子氏に対しては極めて批判的に論じてしまったが、総評でも書いたとおり、氏の活動は褒むべきものである。
HPVワクチン問題について多くのマスコミはセンセーショナルな薬害説に傾いた立場を取ることが多く、そういった状況で村中氏のような立場から論じてくれるジャーナリストの存在は重要だ。
村中氏については、その立場を応援させていただくとともに、穏当な表現でもって議論してくださることを願ってやまない。
以上、もし間違いや事実誤認等の不備があれば指摘していただけるとありがたい。
真剣さとかまじめさをアピールする際に安易に命かけちゃうから、
うまくいかなったら切腹というのはある意味当然の帰結ではある。
それだけ真剣なんだよ。命かけてるんだよ。
普通の人には「勝手にハードル上げて勝手にこけて勝手に自殺してる」ように見えちゃうんだよ。
「お前がそういうのを期待したから、俺はそれに応えたんだ。必死でがんばって生きてきたんだ」って大声で叫んでも誰も「お前のことなんて知るか」で終わる。
勝手に期待されて、勝手に落胆されて、その期待に応える最後の手段が自殺しかない、という思考回路になってる。
うまくいったところで「こんだけ尽くしたのにー、報いてくれない」って、期待した奴を恨むことになるので、どの道将来不安が付きまとう。
もちろん、上記の最終目的は「自分のため」である。相手を支配して、自分に対して利するように行動するのである。
それがいつしか、自分を殺してでも相手をコントロールするというわけわかめな状況になる。
とりあえずおいしいものでも食べてこよ、
叩かれる覚悟で書くけれど、結論から言うとあらゆるものに絶対の安全などないというのが科学の帰結である。
それを踏まえた上で、福島の人々を助けると思って農作物を食うのか食わないのかはあなたの勝手だ。私はというと特に気にしていない。気にしても仕方がないからである。
この国では、マイナスイオンや水素水でわかるように、基本的に科学的な知識というものが軽んじられてきた。
そのことの是非はともかく、知識の不足から来た両極端が、放射脳と放射脳叩きである。
放射脳といった時に定義がないのでまあよくわからないのだが、世の中には一部、「穢れ」の思想、あるいは小学生的な「**菌」のような考え方で、福島を忌避する人々がいる。当然ながら自然科学というのは原因があって結果があるので、こんなものはただの信仰に過ぎない。
一方で、誰かが「福島の農産物は怖い」とでも言おうものなら、憲兵のごとく飛んできて取り締まる人々もいる。これは、知性的な行いなのだろうか?
彼らが根拠としているのは、例えば全量検査の結果であったり、疫学的な調査であったりと様々であるようだ。しかし、そのどちらも、未だ安全を結論付けるには、時期尚早である。
もちろん私は安全でない、と言いたいわけではなく、単に「わかっていないのだ」ということを強調したい。「そんなことを言ったら福島で頑張っている農家のみなさんが可哀想だと思わないのか」と思われるかもしれないが、農家のみなさんが可哀想であるのと科学的な考え方は完全に別物である。あくまでも物事を客観的に見るのが科学であるからだ。そこには可哀想だのなんだのといった主観は、残念ながら存在しない。「神が創りたもうた」地球は世界の中心であってほしいが太陽の周りを回っているし、空気は透明だけれど分子が飛び交っている。全て同じことである。
科学は安全であると結論付けられないのと同じくらい安全でないとも言えないので、以下の理由を見てあなたが農作物を食うのは全く勝手である。大体が私自身そこまで気にしているわけではない。しかしそれは安全だと思っているからではなく、単に外食などをする以上、気にしても仕方がないから気にしていないのだ。
確かに、全量検査でCs由来のガンマ線が出ていないのは、Csの含有量が少ないことを意味している。しかし、それで十分だろうか?
原発で問題になる放射線と言われる粒子は、高エネルギーの光子(ガンマ線)、電子(ベータ線)、アルファ粒子がメインである。
この中でγ線は透過力が非常に高い。光子は質量0なので、、止まれないからである。逆に、α、β線は簡単に止まる。そのため、そもそもガンマ線以外の放射線は、全量検査できない。
さらに問題なのが、簡単に止まるということはそれすなわち持っているエネルギーを全てある一点に与えるということである。これは、間違って食ってしまった時に非常に危ないということを意味する。
しかしそういうと、例えば放射性カリウムのように、自然界にだって放射性物質はあるじゃないか、と思われるかもしれない。
しかしこれも全く反論になっていない。原発事故で出てきた放射線は、自然界には存在しない核種である。長い進化の中で、生物がK40のような物質に対する抵抗性を獲得していったとしても不思議でない。例えば生体のうち危険な場所にとどまらないようにするというような対策である。一方人工的にできた放射性物質は、化学的挙動がそもそも異なるのだから、生体が対応できない可能性がある。
さらに外部被曝に関しても、たとえば自然界にはそもそも線量の高い地域があることが知られているが、これも関係ない。そのような地域に長く住んでいた民族ならば、抵抗性を獲得できているかもしれないからだ。
はっきり言って、福島レベルに広範囲に放射性物質を撒き散らしている(現在進行形!)事故は人類史上はじめてである。
もちろんチェルノブイリなどもあるだろうが、現在の海洋流出や、初期対応、さらにヨーロッパ民族とアジア民族など、異なる点が非常に多く、それらを根拠に安全であると結論付けるのがどこまでもっともらしいのかは全く不明である。むしろ、今回の福島事故が、疫学的に非常に重要なサンプルなのだといったほうがしっくり来るだろう。
福島事故の疫学的調査でポジティブな結果が出ると門外漢がこぞって放射脳だのなんだのと叩いているが、これはまったくもって反知性主義の極みである。今まさに調査しているものの結果を知っているのは天のみである。人間は、そこまで偉くない。。
私は政治家でも宗教家でもないので、我々がどうすべきなのかということに対する答えを持たない。
50年後に21世紀の水俣病と言われているかもしれないし、単に一笑に付されているだけかもしれない。
大切なのは、我々一人一人が現状と科学の限界を正しく知り、後悔のないように行動するということであろう。
その上で食べて応援するかどうかは個人の勝手である。何度も言うが、私は気にしてもどうしようもないので気にしていない。
ちなみに任意の反論に反論できるので、私の主張に間違いがあると思われる方は根拠を添えてトラバして欲しい。もちろん本当に間違っていたら訂正しますよ。
①「受け入れる必要性がない」というのは、「全知全能」を体現し実行できる状態を未だかつて体験したことのない人間はそれに対して何の情報も持っておらず、全知全能を持ってすると何が起きるのかということを理解していない中で、ブラックボックスに対して定義付けを行うことが不可能であり、情報欠如の中で作り出した定義を実際に全知全能の神に対して適応することが不可能でありそれが正しいかどうかの確証を得ることも不可能。観測を検証に用いないというが、観測を無くして定義の実証と法の確認は不可能であり、実証不可能なことに対して不完全な情報で挑む以上、望む答えを得ることはできない。
②論理的帰結を求めることができるのは問題となる論理が正確であることが前提条件となる。先に述べたように全知全能に対する正確な情報がなく観測もできない状態で論理構築することは不可能。「人間が想定しうる全能において矛盾が発生する事象」これは問題そのものが矛盾しているからであり神が矛盾を解消する手立てを有していたとしてもそれを全知全能でない人間が発想することもできなければ認識・実証することも不可能である。全知全能である神が矛盾を起こさないという状況を未だかつて人類は経験したことがないため解消できないに過ぎない。定義が解消されないことは全て情報不足であり人間が理解できる答えが用意されている、約束されているという前提があるからである。
③神が法を作り神が法を破ったとしても、それは法である神の行いであり全てが正しい。この人類が存在し人類が求める定義に対する答えでさえ世界を作る法である神の采配に帰結する。神が法を作り法を破ることを観測するにはこの世界に存在しない観測者が必要であり、定義を発する人間がこの世界にいる限りは法が全てであり絶対であることに変わりはない。つまり定義に対して法である神に対して指摘することができる存在は、神に干渉されることのない外法となる存在が前提として必要となる。これは論点ずらしではなく定義が定義として機能しない前提で進もうとしていることの問題を指摘している。
可哀想になぁ、これ、いい事書いたつもりなんだろうなあ…。
悪意はないし共感してあげてるのに捻くれた解釈する奴はおかしいって正論書いちゃったつもり?
可哀想になぁ。
まぁ若い頃とか書き慣れてない時はこういう恥ずかしい事も書いちゃうよな。
でも仕方ないよな、経験も少ないし慣れてないんだから。……後で凄く恥ずかしくなるけどね。
不幸から生まれた反社会的感情? まぁそう無理して難しい言葉使うなって(笑)。同情に反発したら反社会的って、すごい事書いてるんだぞ? 君にはまだ分からないかもしれないけど、"不幸"も"社会"も自分が思ってるよりもっとずっと多様性を持っていて定義は複雑なんだよ。君の中では他人を思いやって上げる人間が評価される健全な社会って一義的な理念が厳然と存在して、その中でカテゴライズされた一般論として普遍の不幸があるんだろう?(笑)
いや、もしかしたら違うのかもしれないし、君のエントリ自体がネタや問いかけ、所謂ネットの一部の斜め下から目線へのアンチテーゼであったり、単なる思い付きや感想であったりするのかもしれないね。だけどこの書き方はどうだろう? 煽りとしては優秀なのかもしれないけど、君は君の判断で一方的に自分の感覚を開陳し、考えもせずに何が悪いのかと問いかけ、一行でたった1つの推測を述べて断定し、それを批判的な帰結に持って行って匿名で書き捨ててしまっている。おそらく何が問題なのか気付いていないのだろうし、真剣にトラックバックが来ることも想定していないのだろうけど、これは実に恥ずかしいことだよ。
同情には値するけどね。
人は総てを知ることはできないし、知れないなりに同じ何かを共感できるのは大切で有り難いことだ。
幾つかのトラックバックで実効性を伴わない言葉についての言及があるけど、本質はそうじゃない。例えばこの増田、アノニマスダイアリーははてなにとては養分にしか過ぎず、恥ずかしげもなく運営と思しき書き手が「どう人気記事をプロデュースしていくか」なんて語っていたりもするけど、彼等にしてみれば懸命に匿名で何かを訴えかけるのは"カワイソウ"な事にしか過ぎないだろうね。
そういう彼等もまた可哀想なのだけど、君の可哀想は彼等の可哀想とは別の部分にある。
真に同情すべきはココで書いている以上相手の実在が認識、理解、確認できない点であり、現実に会話した所で高度な自己表現やセルフプロデュースを身につけた人間にとっては変わらないのかもしれないが、自分の一方的な表現が衆目に対して訴えかけられた時点で目的を果たしたと思ってしまっている点なんだよ。
……分かるかな?
つまり簡単に言うと「書いたポチーはい投稿おしまい」って思ってるかもしれないが、それって可哀想なことなんだよって言いたいワケ。
もっと可哀想なのは放っておいてもどんどん投稿が集まってそれを選んで人気記事にできる自分が偉いと勘違いしてしまってることなんだけど、それはまぁいいや。
群生体になって死滅すると分かるようなことを繰り替えしても意味がないアニメ監督は
人間が違うところは飯が食えずにストレスが溜まるところを理性である意志の力で抑え込むことができる。
ウンコしたくても電車内なら我慢するのも立派な本能に打ち勝つ理性だ。
そのスケールが大きくなった人間こそが監督というポストにつくべきであり
社長、経営者、政治家、指導者に立つべきであるというのが健全な組織構造だ。
手がける作品のクオリティを上げる努力を放棄し諦めるような人間がアニメ監督になっているということだろう。
これはマクロ視点だったが、またミクロ視点に戻すと売れたい宮崎駿監督のようになりたいという監督がいるのなら
ミクロとしてはアニメを作る時にアニメを参考にするのは全く好ましくない。
そしていくらマクロ視点で話しても現実がミクロ視点でしか影響力がないので
帰結するのは個人としてどうするべきか、という行動論理に落とし込まなければ空論。