はてなキーワード: リリー・フランキーとは
Q.ファーストコンタクトを扱った映画を列挙して。
A.ファーストコンタクトを扱った映画は、SFジャンルの代表的なテーマの一つです。以下にいくつかの例を挙げてみます。
「2001年宇宙の旅」(1968年) - スタンリー・キューブリック監督の名作で、異星人とのファーストコンタクトを扱ったSF映画の代表格として知られています。
「E.T.」(1982年)- スティーブン・スピルバーグ監督の名作で、地球外生命体と少年エリオットとの交流を描いたヒット作です。
「コンタクト」(1997年)- ジョディ・フォスター主演のSF映画で、異星人とのファーストコンタクトを扱った作品です。
「インデペンデンス・デイ」(1996年)- ローランド・エメリッヒ監督のヒット作で、地球外生命体の襲来と人類との戦いを描いた映画です。
「ワープロ」(1999年)- アキラ・クロサワ監督の作品で、異星人とのファーストコンタクトを通じて人間の心理を描いた映画です。
「アライバル」(2016年)- ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品で、謎の異星船が地球に降り立ったことから始まる、異星人とのファーストコンタクトを描いた映画です。
これらは、ファーストコンタクトを扱った映画の中でも代表的なものの一部です。
A.「ワープロ」は、1999年に公開された日本のSF映画です。監督は黒沢明(クレジットは「アキラ・クロサワ」として表記)で、主演は松隆子とリリー・フランキーが務めています。
この映画は、異星人とのファーストコンタクトを描いたSF作品で、異星人が送ってきた謎の文字を解読するため、主人公の女性研究者が「ワープロ」を使って翻訳を進めていくというストーリーです。
映画は、SF映画としては珍しく、異星人との接触シーンがなく、翻訳作業に主眼が置かれています。また、黒沢明監督の晩年作品であり、映像や音響に重厚なものが多く、哲学的な要素も含まれています。
コロナ禍で公開を約1年程度延期してたので、その「あなたは騙される!」系の予告編を結構見ることになったけど、
見終わった後に「いや、別に1年も公開延期しなくても…」と思う出来だったのが残念。
目当ては監督だったのだが前作も個人的に微妙だったし、数年前の映画で一気に貯まった「この監督は信頼できる!」という信頼度の貯金がそろそろ底を尽きた気がした。
いや、映画が面白くないというよりも、ただただ無難な作品になってしまったという意味では、前作よりもさらにダメな傾向なのでは…。
以下、気になった点。
・キャスティングの時点で、あいつがキーパーソンになるのが丸わかりなのはどうかと思う
・リリー・フランキー出しとけば何とかなるってのは安易すぎでは
・色々山場を作ろうとして、後半はどこがクライマックスなのかよくわからない盛り上がり方
・ところで騙しあいバトルってありましたっけ?
・衝撃の結末とは…?
◇
コロナ禍を言い訳に何ヶ月も先送りしている仕事があるので毎回びくびくしてる。
今回も何も指摘されずセーフ。
でも、そのやさしさが怖い。
とか考えだすと発作的に死にてーとなるので、脳を使わずにできる作業の、議事録作成とメール返信と請求書対応をして、あれ眠いじゃんと思って、ベッドに入る。
何かの弾みでpornhubを見てしまい、抜いてしまい、YouTubeでドラクエRTAを見ながら、気づいたら寝てる。
は、やばいお昼やん。
手作りカレーを食べ、さすがに飽きたぜ(ごぼうが入ってるから腸に良い。超腸活!)と思いながら、またベッドに戻って、2ちゃんねるまとめを見ていたら、北野のぞみがAV史上で一番かわいいといった内容の記事を読んで、おお、だよねだよねと思って、画像を見ているうちに気分が上がってしまい、FANZAを起動。また抜いてしまい、疲れて寝る。バカ野郎。
起きて2時。
あぶねえ。1時間のロスで済んだ。
強気のノーメイク写真で、女性にしては少なめの2桁前半いいね数の方から。
「日曜に会えるのを楽しみにしてるね。いま私は夢に向かってがんばってる」といった内容に、ちょっとピクリとなる。
アラフォーで無職の女が夢に向かってがんばるなんて、そんな社会は未来が明るい(時を戻そう)。
年とってからはやさしい男がモテるってしかばねみたいな面した俳優(リリー・フランキーとかいう)が言ってたし、俺はやさしさで世界を包みたい。
やっばーい、ぜんぜん仕事してなーい。
死にたーい。
ようやく、心の重荷になっている原稿のデータを開き、ゲロを吐きそうになり、そっとじ。
コンビニにモンスターを買いに走り、一気飲みして、おっしゃー仕事片付けてやんぜと気合いを入れて読んでみるが、まあひどい。
この原稿を書いたくそM氏に対するくそ罵詈雑言を口にして(幼卒かよくそとか)、疲れて、YouTubeでサンドリの違法アップロード放送を聞く。
もう中って、有吉みたいなボケまくるタイプの人と相性が良いみたいだ。
マンガ『ボボボーボ・ボーボボ』の世界のようで、終始意味のわからないボケとボケの応酬。
めっちゃくちゃ笑った。
「無人島に何か一つ持っていくとしたら?」に対するもう中の答え「おがくず」は天才の域だと思う。
腹減った。
もう気合い入れるために、今日はピザだ、ピザ食ったろと、ピザハットで注文。
キーマカレーの辛いの。
食べたらうまかったが、それで気合いが入るかどうかは別で、結局ほとんど仕事せず。
夜。
おーい、自己嫌悪で死にそうだよー。
殺せー殺せーという気分になりつつも、まあ、土日がんばって休日返上で仕事すりゃよくね?
と思い直して、ワインなんか飲んじゃって今に至る。
◇
さすがにダレてきた。
言い訳じゃないが、4~6月はめちゃくちゃ働いてた。
7月で緊張の糸が切れた。
8月ずっとこんな日々を送ってる。
お互いの気持ちを曇らせるために。
いろいろなものを捨てた。電話番号も写真ももらった手縫いのマフラーも。
ただ彼女のためにつくったSNSのアカウントだけは最後に残った。
開くまいと思いながら、数か月に一度、開いてしまう。
溢れるばかりのメッセージが目に飛び込む。
やがて彼女のメッセージの頻度は減っていった。そして返信もやめた。
あれから7年になる。
元気?
たったそれだけだ。恐らく彼女は、ときおりオンラインになっている俺をみつけては、
ひたすら返信を待ち、オフラインになって三日、一週間と経つのを眺めているんだろう。
俺が彼女にとって最後の男になってしまっているのだとすれば本当に切ないことだ。
しかし、俺にとってもまた、セックスが特別なものになってしまっていることにうすうす気が付いていた。
見つめ合い、肩を抱き合うだけで浮遊する感覚になった。
彼女と長い時間かけて重ねた唇、時には激しく駅弁スタイルでしたときの滑る汗、あの日々を上回るセックスはもう人生で経験することはできないだろう。
その通りだった。
村西が愛した黒木香は今、一体どこで何をしているんだろう。
NETFLIXの「全裸監督」で描かれた黒木香は、虚実交えているだろうが、
ものすごいリアリティがあった。黒木の母親役を演じた小雪の存在感も鳥肌ものだ。
・・せっかくしんみりとしたことを書こうと思っていたのに、だんだんズレてきた。
駅弁といえば。。
「全裸監督」は、今少しずつさまざなまレビューが出てきているが、
近年まれにみる傑作だ。
あの同世代を一歩遅れて歩んできた俺は、社会に出たときにはすでにバブルは崩壊していた。
学生の頃に、友人が苦労して入手した流出裏ビデオがどういう経緯で世に出ていたのか、ドラマでは虚実交えて克明に描いていた。
また、ビデ倫の仕掛け、ヤクザの関わり方を生々しく描いており、80年代のアダルトビデオの黎明期をここまでねちっこく映像化した作品は今まで存在しなかっただろう。
当時、やたらとモザイクが濃いものと薄消しのものがあって、なぜなのか、疑問にすら思わなかったが、「全裸監督」には、その答えが暗示されていた。
また、この作品で再現された、当時の歌舞伎町の舞台セットが素晴らしい。
とりわけ、村西率いる「サファイア映像」のスタッフ軍団が集うスタジオが興味深い。
スタジオの前に目に入ってくる、カレーの店タバサの看板。大量に麺類をつくっては、中華の回転円卓を囲んでスタッフ全員で豪快に食らうシーン。てんこ盛りのポテトサラダ。実にセンスがある。
昭和と平成のはざまの昭和63年暮れから昭和64年1月の冬の雰囲気。
当時、警視庁がわいせつ物の取り締まりを強化する流れに大きく動いていた。
日々の天皇の病状の深刻化が取り締まり強化の動機付けとして、象徴的に語られているのが技巧的だ。
彼は業界の大物を通じて、すでにヤクザとズブズブになっていたが、警察幹部からは、ガサ入れの方針が打ち出される。
一方、黒木香は、こうして業界の闇が描かれながらも、後方馬群でひっそりと控えている差し馬のような存在感で、ドラマ前半で静かに描かれていた。
横浜国大に在学していた彼女は、イタリア留学を夢見ながら、母親から抑圧された存在として、じわりじわりとエネルギーをためてゆく。
この見せ方も圧巻だ。村西とおるへの思いがあって、あのパフォーマンスが生まれた、というのは、このドラマの村西と黒木に対する解釈であって、本当のところはわからない。
しかし、村西と黒木の関係を物語るものとして、ものすごい説得力を感じた。セックスは一期一会といった村上の原点がここにあるんだろう。
ガチンコのセックスに対するこだわりは、売れるからという動機を覆い隠してしまうほどに、リアリズムへの情熱であふれている。
疲れた、、
あとは寝てまた朝満員電車に押しつぶされる
その繰り返し
なぜこうなったのだろう?
なぜこれを選んだのだろう?
わざわざ東京に来てプライベートな時間を捨てて働いているのか?
俺の幸せって?
コンビニ飯に毒される体と
また歳だけ食う
問うても問いきれない後悔と自責に追われながら眠りにつく
ヨレヨレのスーツを着て
彼女もおらず
なんのために生まれて
なにをして喜ぶかもなく
日々に追い詰められる
これを読んだブクマカ達は
趣味を持て
彼女作れ
外にでろ
本を読め
とか書くんだろ?
わかってるさ
、、っていうしがないサラリーマンのドラマを神木隆之介主演で観たい
、
まー、ベタに体を入れ替えて「101回目の東京ラブストーリー 〜君の名は〜」というタイトルでね。
ラスボスはシュワルツェネッガーで未来から来た設定。
永野芽郁がやられてスーパー地球人に覚醒した神木くんなんだけど最終的にシュワちゃん連れて火星に瞬間移動して一緒に爆発するのね。
星になった神木くんを小松菜奈が見上げて泣くと、会社の社長のリリー・フランキーが「僕は死にましぇん!!」ってプロポーズするんだけど、ギフハフが突然来てリリー・フランキーをさらっちゃうんだよね。
小松菜奈ポカーンなんだけど、そこに彗星が落ちてきて〜fin say yes we can〜
でいんじゃね?
「ホンモノの親なら子供を見捨てない」
「ホンモノの親になることに憧れていたんでしょう?」
カンヌで最高の賞(パルムドール)を約20年ぶりに獲得した邦画「万引き家族」では、警察によってこんな言葉が次々と主人公たちに投げかけられる。つまり、主人公たちが身を寄せ合って創り上げた家族は、血縁関係を持たないゆえに“ニセモノ”であり、紐帯の根底に打算的なものを含んでいるから、ちょっとした圧力ですぐに瓦解するのは当然、というわけだ。
杓子定規に主人公たちを攻め立てる警察はとても憎たらしく描かれており、観客は「お前ら警察が一体何を知っているんだ」とイラッとさせられる。だが、一方で我々は日常生活において、“ホンモノの家族”という思い込みに囚われている。
実は、現代のわれわれが当たり前に持つ家族のイメージ像は近代的な産物だ。例えば、E・バダンテールの著作「母性という神話」では、17~18世紀のフランスにおいて、子供の大半が産まれてすぐに里子に出され乳母に育てられる風潮があったことが示され、“母性愛”という概念が人類史において常に家族間に君臨してきたわけではないことが明らかにされる。統計によれば、同時代に毎年パリで洗礼を受ける新生児2万人のうち、約7千人が捨て子であった。日本でも一昔前の農村を思い出せば分かるだろう。子供は「小さな大人」であり、安価な労働力に過ぎなかったのだ。
歴史を遡ると、「血縁関係があるのだから、自分を犠牲にしてでも、親は無償の愛を子供に授けて当然」という考え方は、ここ100~200年特有の理念に過ぎない。ざっくばらんに言ってしまえば、家族という概念が「血の繋がりを契機として、様々な世代が身を寄せ合って互いに助け合うべき存在」から、「血が繋がっている以上は、無償の愛で繋がり合うべき存在」へと変化したのである。
言うまでもなく、現代に生きる以上、誰だって愛のない親より慈愛に満ちた親になりたいし、子供をこき使う親など御免こうむりたい。しかし、「打算抜きで、無償の愛で繋がり合う家族こそがホンモノだ」というとき、我々は家族に対して、実際にはありえそうもない“完璧さ”を要求している。
完璧さを家族に要求する社会は、その基準を満たさない親を徹底的に許さない。さいきん東京・目黒で起きた5歳女児の虐待死に対する、社会のいささかヒステリックじみた反応は、その証左と言えるだろう。もちろん、こうした社会の過剰反応で救われる子供もいるし、未然に防がれる悲劇もある。
しかし、そうした社会は同時に、血縁関係によって成り立っている家族こそを“ホンモノ”とするがゆえに「血の繋がった親が実の子供に愛を抱かないはずがない。なぜなら、親は無条件に子供を愛する存在だからだ」という循環論法的な前提に拠っている。残念ながら、これが近代特有の“神話”であることは、すでに述べたとおりだ。先に挙げた目黒の事件でも、日本特有の親権の強さが問題になったが、「ホンモノの家族」への神聖視と親権の強さは無関係でないはずだ。
「万引き家族」でもやはり、虐待から逃れニセモノの家族の元で幸せな時間を送っていた子供は、最終的に虐待を行っていた実親のもとへと返される。ホンモノの親は、ニセモノの親と違って“愛”を持っているはずだ、という社会の思い込みが、結果として子供を再び悲劇に追いやるのである。
さらに悲劇的なのは、親役を担っていた2人(リリー・フランキー、安藤サクラ)だ。彼らは事あるごとに「血が繋がってないからこそ、逆に絆が強いんだ」と述べるのだが、その実“お父さん”“お母さん”と呼ばれることに固執している。一見すると「ホンモノの家族」という社会通念から自由であるように見えて、やはり彼らもまた近代が家族に与えた役割を引き受けることから逃れられていない。
したがって、リリー・フランキー演じるニセの父親が子供を裏切って逃げようとした理由も、血縁関係が両者の間にないことに求められる。ホンモノの父親なら子供を裏切るはずがないのだから。こうして、彼は「お父さん」と呼ばれることを諦め、単なる「おじさん」であることを自ら認めるに至る。
ニセモノは決してホンモノになれず、ホンモノにはいささかの弱さも認められない。仮にその弱さがどうしようもない貧困に由来するものだとしても、この息苦しい社会において弱さはニセモノの証なのだ。
別に打算的だったっていいじゃない。弱い一面があったっていいじゃない。ホンモノ、ニセモノどっちだっていいじゃない。そこに幸せがあればさ。
是枝監督、リリー・フランキー、安藤サクラの3人が登壇する回。上映後の舞台挨拶回だったので客からの質問に答えるっていうタイプのものだったんだけど、質問者の半分くらいがそれもうインタビューで答えてましたよっていう質問をした。舞台挨拶付き回に来てネットで読めるようなインタビューすら読んでないってどういうことなんだよって内心思った。
一番最悪なのは「あの台詞ってどういう意味ですか?」って聞いた人。反則でしょ。
初めて質問が出来る舞台挨拶に行ったけど、質問者全員が質問の前に自分語りを始めたこともびっくりした。「私は今まで是枝監督の最初の作品からずっと見てるんですけどー」とか、「私はフランスに5年住んでたんですけどー」とか。これが普通なのかな。大阪での舞台挨拶回だったから土地柄なのかもしれないけど、いろんな面でカルチャーショックを受けた。
万引き家族を見てきた。
カンヌのパルムドールを受賞するのも納得の完成度で、芸術性、メッセージ性、エンタメ性を兼ね備えた邦画史上に残る作品なのは間違いない。
リリー・フランキーだしどうせお涙頂戴の感動ポルノだろうなんていう懸念は見事に粉砕された。
テーマは家族の絆の相対化と解体と再構築という、小津安二郎の東京物語に通じるものであり、舞台を戦後間もない時期から平成の終わりの今に移すとこうなるという感じだった。(ちなみに、山田洋次監督が東京物語をリメイクした東京家族という映画があるが、あれは小津安二郎がせっかく相対化した「家族」を再び戦前の古い価値観に巻き戻してリメイクするという糞以外の何物でもなかった。)
ただ、東京物語では血のつながらない人たちが自然につながっていたのに対して、本作は血のつながらない人たちが一緒に暮らしていくことがいかに困難かを描写しており、現代日本の息苦しさを批判しているともとれる。そこが日本批判を許さない人たちからは「反日的」に思われるのだろう。
また、本作で繰り返し描写される「貧困」の風景がリアリティを持ってしまっているのが平成30年の日本の現実であり、是枝監督は当然そこは意識的に作って、こんなのでいいんですかという疑問を投げかけていることも間違いないだろうし、そこも「反日的」だという愚にもつかない批判の的になっているのだろう。
とにかく、あえて言葉にする必要もないくらいの傑作なので、ためらいなく映画館へいくべき作品。事前にどれだけハードル上げまくっても軽々とその上を行く大傑作。
自分がものすごいリスペクトしている漫画に「銀と金」っていうカイジでおなじみの福本伸行先生の漫画がある。
なんか昔に実写化していたようだけど、今年はじめぐらいにドラマ化してた。
この実写化にあたって変更点は、
・(時間の都合だが)主人公が訳あって入院するのは最初の仕手戦後
・(時間の都合だが)神威家編を通さずに主人公が悪党の世界から足を洗う
という、感じの変更がなされた。
特に最後のなんか、ドラマを見ていない原作ファンからしたら「は?ありえない」ってレベルなんだけど、自分としてはわりと小奇麗にまとまってよかったと思う。
なにがよかったのかを考えたら、ものすごく役に銀さん役のリリー・フランキーはじめ役者がかなり役に入ってくれてた。
メンバーの一人が女性に変わったのも、別に原作だとそんなにしゃべらないキャラなので問題はなくて、主人公も欲言えば今風の若者になったのでよかった。
特にリリー・フランキーはかなりよくて、不敵で芝居がかった平井銀二をよく演じてくれたと思った。
もちろん、不満点はある。
神威編がなくて主人公が悪党を辞める理由が「いつ君そんな事言ってた?」って感じの抜け方をしたり、主人公が銀さんに強く憧れを抱くようになる殺人鬼編がなかったのは残念だったが、それはそれで帳尻が合うようになってたように思う。
もちろん、銀と金のもっとディープなファンは「あれはないよ」「駄作だよ」という人がいるだろうと思う。でも、別にそれはその人の評価でそんなので自分の評価は変わらない。
カイジの映画だってそうだ。藤原竜也が主役をやってくれて本当に良かったと思う。
俺が単純に失敗した実写化原作のファンじゃないだけかもしれない。けど、一部の失敗作をいつまでも持ち出して失敗失敗って祭り上げるのってどうなんだとおもう。
日本の映画って申し訳ないけど駄作としか思えない映画が多くて。主観だからしゃーないですけど。
何が駄作かって言うと、やっぱり基本的に儲からないからか、ホント申し訳ないけど優秀な映画人が集まらないってことなんじゃないかなと思う。
全体的に雑と言うか、緻密に作られてないって言うか、もちろん予算も少ないんだろうけど、見てて楽しむより疲れることのほうが多い。
どうしても役者の台詞・演技に頼り過ぎのところがあって、絵で見せようとしない。
じゃぁハリウッドならいいかって言うとそうでもないんですけど、期待値としては海外作品のほうが高くなります。
昨年は『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』などはありましたが。
で、『凶悪』。
ノンフィクション小説が元の映画で、実際に起きた事件に基づく映画なんですけど、酷い凶悪事件は日本でも結構あって有名どころでは「北九州一家監禁殺人事件」(※こいつはあまりに酷すぎて流石に映像化は無理だろう。読んでないけど「闇金ウシジマくん」で書かれたようですがかなり評判が悪かったらしいですね)、『冷たい熱帯魚』の元になった「埼玉愛犬家連続殺人事件」、えーっとあんまり詳しくないので他はググって貰うとしても、とにかく昔からこうした胸糞悪くなるような凶悪事件ってけっこうあります。
古くは『復讐するは我にあり』など、凶悪事件を映画の題材にするって言うのは一つの定番みたいなもので、ショッキングだから映画会社もそこそこ売れると思ったりするからなんでしょうかね。
でも、映画はやっぱり映画なんですよ。リリー・フランキーさんやピエール瀧さんの演技は、まぁそれはそれで特に悪くはない。ピエール瀧さんは相変わらずちょっと滑舌がよくないけど雰囲気は悪くないし、リリー・フランキーさんのへらへらした薄気味悪さみたいなのもそれはそれでいい。山田孝之さんは・・・普通かな。
それはそれとしても、見ててイライラしてきます。脚本なのか演出なのか、作り方に日本映画の下手さがあちこちに見られるので。
例えば、記者の山田孝之が現地取材に行って地元の人に取材するシーンがありますが、どうしてあんなに地元の人がすぐにすんなり喋るんだ?とかね。
あまり意味のない撮影・編集部分もいっぱいあります。全体を通してきちっと組み立てられてない感満載なんですよ。て言うかなんかやっぱり下手だな、と。
正直、だらだらと長すぎて、途中で何度か見るの止めようと思いました。動画の時間を示すバーを見て「え~?まだ半分しか終わってないの?」みたいな。
以前にホッテントリ入りしたブログで『凶悪』が取り上げられてて結構いい評価されてましたが、ブログだから広告クリック狙いもあったのかもしれませんけど、とてもじゃないがいい評価は上げられないな、と。
見ないで日本映画を批判する、ってのも良くないのかなぁと思ってたまに確認の意味で見てみようって気になるんですが、やっぱ駄目ですね。もうちょっと色々見てみようと思ってますけど。
「日本映画が面白くない」のは、観客を育てなかった当然の帰結 - あざなえるなわのごとし
こういう義心溢れるジャンルファンを装ったオポチュニストがはてなに沸く度に吐き気を覚えるんですが、互助会云々以前にこういうのどうにかしたほうがいいですよね。
とはいえ。
俺だってあまり邦画を観るほうではない。比率で言えば海外映画10本に対して1本観てるか観てないかだと思う。その狭い視点でいえば、観るに値する邦画はやはり少ない。しかしそれがクオリティの問題だと断言するほど自分に自信はなく、単に受け手としての完成の欠如、文脈の欠落があるだけなのかもしれない。
ともかく、褒めるにしろけなすにしろ、漠然と言及するよりは対象を明確にしたほうがいくらか生産的だと思う。
そういうわけでここ二三年で面白かった新作実写邦画を十本ご紹介したい。アニメ? 2010年代最高のアニメ映画は『たまこラブストーリー』だって言わなくてもみんな知ってるだろうから別に? いいじゃん?
菅田将暉がバカかわいい弟役なのでバカかわいい弟ファン必見だ。
ここで挙げる映画としては適当ではないかもしれない。監督こそ日本人だが舞台も製作も韓国。才能ある映画人が「日本で映画を作らせてもらえない」と愚痴りながら海を渡って取り上げたクソジャップファック映画であるからだ。
とはいえ、白石晃士は『コワすぎ』シリーズでの評価の高まりもあってか、最近再び日本での仕事を、それも比較的(ハンバーガーからチーズバーガーになった程度の予算規模だが)大きな仕事を任されるようになった。良い子のみんな、『貞子 vs 伽椰子』絶対観てくれよな!!!
本作はいわゆるPOVモキュメンタリー・ホラーの一つの到達点。
『桐島、部活やめるってよ』で華々しい評価を受けた吉田大八監督の最新作。
前作で描いた思春期における漠然とした不安から一転、中年期の主婦の不安定な欲望を生々しく切り取る。
とにかく宮沢りえがエロい。相手役の池松壮亮は本作と『愛の渦』でセックス俳優キャラを確固たるものとし、最近では寺島しのぶや斎藤工なんかとラブシーンやらされてる。
綾瀬はるか・長澤まさみ・夏帆・広瀬すず、と今日本で最もアツい若手女優四人のアンサンブルがグルーヴィーな姉妹映画。
ずっと一緒に暮らしてきた上三人に、ある日とつぜん末っ子として加わることになった広瀬すず。
彼女たちの距離感と関係性、そして姉妹を取り巻く「海街」の日常が瑞々しい。是枝裕和しか、日本でしか撮りえない日本映画の最高峰。長澤まさみは直球エロくて、綾瀬はるかはにおわすエロさ。
一人で頑張って頑張って頑張ってるんだけどもうだめだよ〜
ってなってる自家中毒コミュ症は今すぐ観るべき映画。おばちゃんのがっかりおっぱいも要チェキ。
『冷たい熱帯魚』以来のエクストリームサイコジャップマスカー映画。
リリー・フランキーとピエール瀧が大量殺人鬼コンビとなって世の弱者をぶっこみまくる。
だんだんと憔悴していく記者役の山田孝之もいい味出してる。池脇千鶴は特に脱がない。
ウルトラ低予算で頑張って作ってちゃんとめちゃくちゃ面白くなった地獄コミュニーケーション映画。俳優の一人がこの前何かで逮捕されてましたね。
キョロ充の辛さや居心地の悪さが『桐島』以上のリアルさと俗悪さで浮き彫りにされている下衆の極みエンターテイメント。
「何か新しい映画を見たい」ならこれをオススメする。観てる間ずっと背中に悪寒を感じるけれども。
女子更衣室を盗撮したことがバレて地元の学校をクビになった教師が十年ぶりに故郷へ戻ってきた。
彼のビデオにたまたま今芸能人として活躍している元女生徒の百合セックスシーンが映っていたことから事態はあらぬ方向へと転がっていくノワールコメディ。
アニメじゃん? って? ちげえよ。こんなモブが背景でガチャガチャうごいてるアニメがあってたまるかよ。
岩井俊二はファッキンサブカルファシストどものキングであり、我々の永遠の敵でありますが、ナチスドイツがリーフェンシュタール『民族の祭典』を、アメリカの人種差別が『國民の創生』を生んだように、彼らもまた日本映画の傑作を生んでしまったのです。
★★★★☆
最初に言っとく。
ウィキペディアは見るな。
あらすじが注意書きなしで全ネタバレありで書かれてる。
そこでは、一番偉い獣人が神様になっていなくなるということで、
次の獣人界トップを決めるために、二人の獣人が決闘することになっていた。
一人は人格者、一人は粗暴な荒くれ者。
一方人間界では、両親の離婚で父を失い、母方に引き取られた後に事故で母をなくし、無神経な親戚の養子にさせられそうになっていたところを、家出した男の子がいた。
男の子がひょんなことからその世界に迷い込み、荒くれ者に弟子入りしたことから、奇妙な親子のような師弟関係が始まる。
細田守ん中で一番うまくまとまってる気がした。
それでも尺足らずだった感はあるけど。
普通に正統派でいけば2時間でちょうど、もしくはちょっとお釣りがくるくらいの内容だったのに、
ひとひねり入れちゃうことでめちゃくちゃ尺がきつきつになってしまっていた。
それでもなんとか丸め込んでまとまってたから見ててホッとした。
でもどうせなら2時間半か3時間にしてもうちょい駆け足気味だったところはじっくり描いて欲しかったなあ・・・
時をかける少女はまあそこそこ好きで、
サマーウォーズは見てないけど突っ込みどころ満載ってことだけは知っててネガティブな印象しかなくて、
雨と雪は原作小説だけざーっと立ち読みしていまいちだなと思ってネガティブな印象しかないくらいには、
これは面白いと思えた。
ひとひねり・後半部分がちょっとだけ対象年齢あげちゃってるかなーって感じ。
それでも子どもにまったく伝わんないことはないとは思うかな?ってくらいにはエンタメしてたと思う。
これまでの細田守作品がシンエヴァの序とかQなら、バケモノの子は破って感じ。
声優陣は山口勝平しかわかんなかったけど、スタッフロールで役所広司って知ってびっくりした。
役所広司うめえな。
大人役も大泉洋とかリリー・フランキーとか津川雅彦とか全然わかんないくらい違和感なかった。
イカネタバレ
男の子は、弟子として17歳まで過ごし、着々と成長し力をつける。
そんなとき、ひょんなことから久しぶりに人間界に戻ってしまうが、
受験をするという話が出てきて戸籍を見て、離婚した父親のことがあっさりわかり会いに行くが、
過去なんか忘れてこれから楽しく二人で過ごそうと言う父親に反発してまた獣人界に戻る。
荒くれ者が負けそうになっていたところに男の子が応援したことで、逆転勝ちする。
しかし人格者の子が心の闇に飲み込まれ、念動力で刀を荒くれ者に刺して逃亡してしまう。
獣人界には、心に闇を持つ人間を引き入れてはいけないという掟があったが、
実は人格者の方も、過去人間界で赤ん坊を拾って自分の子として育てていた。
しかし、その子に本当のことを伝えず、大きくなったら自分のような獣人の特徴が出てくるという嘘を教え続けたせいで、
ひねくれて育ってしまって心に闇を抱えてしまっていたのが爆発したのだった。
男の子は、過去家出したときに抱えた自分の心の闇で、人格者の心の闇を吸収して消え去ろうとする。
しかし、荒くれ者が刀の付喪神になって男の子の心と一体化して、男の子も人格者の子も死なせることなく勝つ。
荒くれ者は心の剣となって男の子と常にいっしょになった。
ネタバレあらすじざっくりしすぎててごめん。
弟子をとってクマテツを成長させる以外の意味はとくになかったのかな・・・
弟子って位置がなんか必要性があんまりないように感じられて、無理矢理感があった。
前半の獣人界の内容と、中盤からの普通の青春ものっぽいギャップがなんともいえない違和感を生じさせていて、世界観どうなってんのかとムズムズした。
最終的に両方ともこれで終わんのかと別のところでハラハラさせられた。
修行どうすんのかとかロードムービーはじまんのか?とか前半はほんと方向性についてムダな心配をしていた気がする。
結果的に良い感じに省略されてたけど、強さについていろんな人に聞いて回るところはなくてもよかった気がする。
ただやっぱりどうしても尺足らずってのがひっかかってきちゃうなあ・・・・
せめてあと30分あればなあ・・・
もしくは中途半端な人間界に割く時間をもうちょいどうにかするとか。
描写不足なのがなあ・・・想像する部分とかいう擁護はあてはまらない。
でもそういったような、もうちょっと見たかったのにと思わせるくらいには、細田守そんなに好きじゃない人間にも面白いと思わせる映画だったということだと思う。