はてなキーワード: 廃仏毀釈とは
鎌倉、いいところですね。
関東に来たばかりの頃は、鎌倉にきて、こんな"古都"もあるんだなあと少しばかりびっくりしたけれど。
古都という色眼鏡を外せば、鎌倉の良さがすこしずつわかってきた、気がする。
鎌倉というと歴史都市と思われがちだけど、案外関西なら西宮から西側、須磨とか塩屋あたりまでくらいの雰囲気に近いのかもしれない。
あそこまでハイソな雰囲気はないけれど、東京の文化が入ってきていて、それなりに洒落た店も多い。
京都のように深い伝統の香りはしないけれど、まあ、いい感じの海沿いの街としては、ありなのではないかな。
春の晴れた日に海沿いの古い路地を歩くと、これが漱石の味わった鎌倉かもなあと、嬉しくなる。
関東風の中華そば(甘すぎず美味しい)とか、無骨な力もちとか、そういう、言ってみれば滋賀の片田舎で感じるような、素朴な良さが鎌倉にはただよっている。鎌倉野菜は京野菜のパクリみたいで笑ってしまうけれど。
最後に、寺社仏閣としては、見るべきものはそれほど多くないけれど、禅寺の荒々しい雰囲気はなかなかよい。京都の禅寺は洗練されすぎていて、貴族の宮殿みたいなのだ。ああいうのは、本来の修行の場としての寺ではないんだろうなと思っていたから、鎌倉くらい無骨な雰囲気の方が、らしくてよい。
鶴岡八幡宮は、廃仏毀釈で見る影(それは石清水八幡宮もそうだ)もないけれど、それでももう少し建築年代が古ければ良かったのに、と思う。石清水八幡宮だってこないだ国宝になったんだから。あれ、近世建築としても、洛中のものからすれば格落ちすると思うけれども。
サーフィンでも、はじめようかな。
いや、けしかけたの俺なんだけどね。
しばらく近隣のお寺がカバーしていたんだが、限界と言う事で、三十歳半ばの若い僧侶が赴任してきた
お寺は優良物件だそう。観光寺ではないんだけど、廃仏毀釈の流れからの戦後で、歴史的経緯で複数のお寺が合併しており、檀家数が無茶苦茶多い。その結果、無茶苦茶経営が安定している。
そのためか、赴任してきた僧侶は、10歳で仏門に入り、本山から観光寺まで巡ってきたという無茶苦茶エリートがやってきた。
檀家の世話人会に年寄りばかり出ていたところで、同世代の俺が出ていったところ、若くて住職と年齢が近いからと言う理由で大量の仕事を振られた結果である。
その連絡のためにLINEを交換したところ、何故か一日一度「今日の拙僧」みたいなLINEが届くようになった。
例えば、檀家さんが野菜を持ってきてくれたけれど食べきれないので、子ども食堂にお裾分けをしたら、浅漬けにしていただいたのでありがたく頂戴しておいしかった、とか、育成会が焼き芋をすると言うので落ち葉を貯めておいたが、水が溜まってしまってしけってしまい、煙ばかりで上手く燃えなかった、とか。
こちらが反応できなくても送られてくる。
それがあまりにも素朴で面白いので、LINEビジネスで公式アカウントを作ったらどうか、連絡も簡単になるし、ジジババも孫と連絡用でスマホ使ってるよとか言ったところ、やってくれと言う。
結果、登録者がじわじわ増えて、この間ライトプランじゃ足りなくなってスタンダードにした。
もちろんLINEだけではないけれど、お寺でお葬式をしたいという相談が来るようになって、実に二十数年ぶりにお寺で葬儀を行い、それがコンスタントに続いていたり、(先代住職の葬儀すらセレモニーホールだったのに)
近所の不登校の子が「お寺なら行く」といって、住職のところに仏教画を習いに来たり、
何より、世話人会に若いのが出てくる様になって、お布施の振込・キャッシュレス化が一気に進んだりとか色々と安定してきた。
結局、接触を増やす事が大事なんだろうなと。そのためのツールとして、LINEはやはり強い。このままLINEペイでお布施が払えると楽なんだが、これは禁止だった。
なわとび:602回
ボクシング:126kcal
『夜明け前』読みおわった
まあ、実は読み終わったのは結構前なんだけど、せっかく読んだからなんか書いておきたいなと思ってから実際に書くまで結構時間がかかった
最初の巻を読んだのは実は結構前で、もう15年以上昔のこと。以来続きの巻をそのうち読もうと思いつつなんだかんだで今まで来てしまった
kindleを導入したときに、手持ちの本をいくつか電子書籍と置き換えようと思って、青空文庫に入っている本をいくらか処分したのだけれど、その時ついでに続刊を持っていなかった『夜明け前』を全部揃えてあとで読むリストに放り込んでおいた
一度、どうにか読んでしまおうと思って自動読み上げ機能に読ませてみたこともあるのだけれど、漢字の読みがぐっちゃぐっちゃで、たとえば「金兵衛」を「きんひょうえ」と読んだりする
これを聞きながらちゃんと理解しようとするよりは、自分で読んだほうがまだ脳みそのリソース消費が少ないなと思って断念した
あとで読むリストに入れて毎日目にしているとなんとなく爪のささくれのように気になるもので、今年とうとう一念発起して読んでしまうことにした
実はこのあとにまだ20年積んである『破戒』というのも控えているのだけれど、まあこれは来年あたりに読んでしまおうか
こっちは一冊で終わるし
さて読み終わってみると、まず第一になぜ藤村は父親の一代記とも言うべきこの本を書こうとしたのかということを考えるわけだけれども、これはやはり父親が精神を病んだからというよりも、その過程で家の菩提寺でもあり、代々深い付き合いのあった万福寺に放火しようとしたことの原因を探ろうという意味合いがあったのではないかという気がする
物語はすべてこの放火事件へ向かって流れていき、この事件のあとはすべてエピローグであるように自分には読めた
ところで、物語は半蔵の父親の吉右衛門の時代は万事が概ね順調で、半蔵の世代に移ってからは半蔵自身の才覚のなさもあって波乱万丈なように見えるが、これはたぶん作者自身が実際に見たのが半蔵の時代だったから祖父に当たる吉右衛門の時代が理想的に見えているだけで、実際には吉右衛門の時代は吉右衛門なりの苦労があったのはもちろん、彼なりの不手際や軋轢もたくさんあったのではなかろうかと想像する
半蔵は半蔵なりに精一杯その時代を生きたし、それは彼の父親の吉右衛門も変わらなかったろうと思うから
いつの時代もどんな人であっても安気に暮らしている人はそうそういないもので、その人なり、その時代なりの苦労をそれぞれ背負って生きているものだろうと思う
これはまあ4冊も通して付き合った半蔵に対する同情でもあるけれど
個人的な興味関心との関連でいうと、一つは、最近登山をするようになって各地の山にある神社仏閣を訪れる機会が増えて、その由来などを調べるにつれ、明治の廃仏毀釈がいかに激しかったかを知り、なぜあのようなことが起きたのか興味があったので、その思想的背景の一端を知れたことは良かった
とはいえ平田国学から廃仏毀釈へと至る背景にはさらに江戸時代の寺院がかなりの権力を持っていて、その弊害が大きかったらしいこともうかがえるので、むしろ平田派の思想はきっかけに過ぎなかったのかもしれない
このへんはまた機会があったらちゃんと調べたいところ
もう一つ、この前恵那山にも登ってきて正直面白みの薄い山だなと思っていたのだけれど、木曽路から見る恵那山の描写を読むとこの山はむしろ麓から眺めることにこそ面白さがあるのかもしれないと思ったりした
そりゃさすがに「問題ないと思います」なんて言うわけにはいかないから批判してるってことにするけど
「わざわざウイグルの話を持ち出す奴はネトウヨ」とか「ウイグルの件は問題だけど中国全体を叩くんじゃねーぞネトウヨ」っていう言い方をするよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/ShinodaHideaki/status/1313842966063005697
x988 日本国内の人権問題には全く関心がないのに都合のいいときだけウイグル問題を持ち出して話題をそらすネトウヨたち。政府に批判的な人物を追放するのはオタクの大嫌いな中国そっくりですよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASNBG7F0YNBCUHBI00Y.html
Gl17 人権主義から報じてるこれを朝日disに利用したり、或いはレイシズム丸出しで嫌中※記している連中て要するに弾圧側と一緒の思想だろ、陣営違うだけで。それがダメなんだよ。既出だが廃仏毀釈の歴史とかこれだよね。
senbuu いくらでもこの差別政策に対しては批判すべきだが、この件では便乗して中国人全体を貶める輩がいつもいつも少なからず存在する。心ある者は、そういった背後の差別者も非難しよう。見て見ぬふりをするなら共犯だぞ。 宗教 差別 ウヨがひどい
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/1a44351ac948fe6c0129721b526b8d12d55f5da0
ちなみにこっちは本当に「私は中国批判に荷担しません」と言った人たち
https://twitter.com/neoamakusa/status/1303525771437244417
ムーランを叩いてるのは本当はウイグル族の事なんてどうでもいいくせに、中国とディズニー憎しでここぞとばかりに吹き上がってる連中ばかりなんですよね。
そういうネトウヨや差別主義者を利する事になるので、私は加担しません。
皆さんも一度冷静になって「誰が」叩いてるかよく観察した方が良いです
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/uyghur-j.org/japan/2020/09/mulan/
RRD 残念ながら、世界は単純化を望んでる。ここでの中国批判が踏み絵という単純化された行為なら俺は踏まない。キリスト信者でなくても信教の自由を重んじるなら踏むべきではなかったように。
ルネサンス(芸術復興)を経験していないから(というか復興しなければならないような芸術破壊を経験していないから)ではないだろうか。(強いて言えば信長とか廃仏毀釈とかだが全体的なものではない)
西洋においては、ルネサンスの後でも、写真の発明とジャポニズムの発見によって印象派やシュールレアリズムが生起された。現代芸術はその流れの上にある。
中国においては共産革命、文化大革命によって既存の芸術は壊滅的に破壊され、その損失を穴埋めするために、世界に散逸した古典芸術を買い戻すだけでなく、中国人現代アーチストの作品を買い求めている。
日本においては、明治の文明開化によって西洋美術が導入したが、日本美術にとってかわったわけではない。日本美術は西洋美術の技法・思想をとりいれてさらなる進歩を遂げたといえよう。日本美術は現代美術のコンテキストを独自にとりいれているともいえる。
日本における西洋美術は、それ自体が現代芸術のようなものであったし、それを完全に消化、定着しきったわけではない。したがって、それにとってかわる現代芸術も海外の見た目だけを真似たものにしかなっていないのではないか。
そういう流れは知ってたけど、そういう主張してる人が話してるの初めて聞いてやべえなって思って、ああいうのが主流意見で変えて行こうってなってんの?
障害の害は公害とかで悪い印象だから違和感がある、行く手を阻むみたいな意味の碍にするべきみたいな
えっ本気で?って思ったんだけど
だって障害者って言葉はあつらえられた言葉じゃなくて障害って単語ありきなんだから、それで害だけ取り出して他の悪い意味のある使われ方の熟語持ってきて悪いイメージだって意味わかんなくない?
単に障害って熟語を用いて表すのは妥当ではないので新語として碍を用いた表現を、っていうなら分かるんだけど害の字が他の使われ方で悪い言葉に使われる事あるから変えるべきって???ってなるんだけど
害って言葉が害を与えるとか、要はその障害持ってる人自身を悪いように言ってるみたいで違和感とかそういう風に言ってて、それって結局障害って言葉がどこに掛かるかって部分で、単に自分自身がその当人自体を表す言葉だって思ったからそう捉えたんでしょって思うんだけど
だって障害レースってあるけど、それ聞いて害っていう字があって害は公害や有害って言葉に使われるからそういう意味で害をなす印象、なんて誰も思わないでしょ
普通に障害の意味そのまま、行く手阻む、妨げになるものがあるレースって意味じゃん
障害者って言葉もその当人自体に害の要素があるんじゃなく、障害という概念を負っているって意味でしかないし、偏った思想の人間以外はそう取ってるでしょ
しかもその番組も恣意的で、碍って文字の行く手阻むみたいな意味は紹介するのに障害って単語の意味は言わないんだよね
そんな他の使われ方でのイメージがとか言い出すなら、逆に障はいいの??って思うのにそこには触れないのが更にわけわかんないし、適当に障るって意味で調べても害になるとか邪魔って出てくるし耳障りとか癇に障るとかあるのにそっちはそのままなの???って
害って言う字が嫌だからって変えたいのに害って意味が含まれる事のある障はそのままなの???ってほんと頭?まみれになるんだけど
しかもその主張してるおじさんが、碍の字が使われないのは政府が廃仏毀釈の結果仏教的意味のある漢字を避けてその影響だ、とか???ってなったんだけど碍推してる人ってみんなそんな感じなの?って思ったわ
それに常用漢字じゃないから校閲ちゃんと入るメディアじゃ障碍者は結局障がい者になっちゃうはずなんだけどそれはいいの?って
個人的な印象を正当化させて権利得るために自分の偏った知識の上の主張に執着して言葉や使ってる人に責任負わせるのってすごい自分勝手だなって思うわ
障害って単語自体に違和感持つのも人を指す場合の言葉として碍で表すのもいいんだけど害だから悪い(でも障はいい)とかの筋通らない理由堂々とあげるそのやばさがやばいと思うし引く
それで辻褄あってんの?頭の中で???って思う
各地の廃寺となった寺の数を知るだけでもその苛烈さが分かる。富山藩では、1600か寺以上あった寺院が6か寺にまで激減。薩摩藩でも1000か寺以上あった寺院が明治7年には全廃となり、藩内には一つの寺院も存在しなくなった。まさに「おどろくべき暴挙」(圭室文雄*1)であった。
当時の全国にあった寺院の約半数が廃寺と化し、途方もない数の文化財が廃棄・破壊され、果ては売買されたと伝えられているが、今もなおその正確な実態は掴めていない。
2001年にアフガニスタンのイスラーム主義組織「ターリバーン」が偶像崇拝禁止を掲げて、バーミヤン仏教遺跡群の石像を破壊すると世界中から非難の声が上がった。その際、日本政府は修復のための基金を設立し、最終的に3億円以上を拠出した。
だが、皮肉なことに、近代日本の夜明けを告げた明治政府は、「ターリバーン」など比較にならない規模の「ヴァンダリズム」(文化破壊運動)を容認していたことを、日本人として記憶に留めておくべきだろう。
廃仏毀釈のことかーーーーっ!!
こういう現象が続いたことが明治の廃仏毀釈に至ったわけで、その時代に各地で失われた多くの文化財のことを考えれば、放置すると仏教界だけでなく日本全体にとって不利益というのは分かる。ただ、「そういう目に遭ってもなお性懲りもなく同じことを繰り返す人々」なわけだよな。結局、体制自体を変えないとダメなんだろう。
地元の様子を考えるに、僧が寺を「我が家」のようにして後を継いでいくのが100%悪いとは思わないのだが、後を継ぐ肉親がいなくなった時点ですっぱり手放すという決断を自分でできないのが問題なのだと思う。知り合いのところも、子がダメなら孫、みたいな感じでなんとか後を継がせようとしてた。それは結局「自分が住み慣れた家(寺)から出て行きたくないから」なんだよね。
かといって、増田のあげた例で言うなら、「養子で入った新しい住職」の権利を強めると、今度は「信じて入れた養子に冷たく追い出された高齢の元住職夫妻(あるいは元住職が亡くなって、妻のみが追い出される等)」といった別な方向の修羅場が発生するだけのことだと思う。難しいね。
とりあえず、元住職夫妻限定で入れる素敵な養老院を、本山が出資して整備してみるとかそういう方向での解決はどうなんだろうかね。