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はてなキーワード: 峻別とは

2020-06-19

冠詞機能を語調/抑揚が担っている?

「つぎ、パーティーいつ?」

この発話における不定冠詞(a party)と定冠詞(the party)を峻別する役割日本語ではイントネーションが概ね担っているのではないか

パーティー(↑↓)と発音すれば、普通の(つまり一般的概念としての)誕生日パーティーや社交パーティーのようなものを指すが、「パーティー」をフラット発音すれば、仲間うちのクラブイベントっぽい。つまりは、"あの"パーティーという定冠詞的なニュアンスが出せる訳だ。

いわゆる一般流通しているその語のイントネーションとは違う(しかし、かといって、それについて無知である素振りはないどころか、それについて独特の了解を持っていそうな)独特の(話者同士にのみ共有された"あの"を指す)符丁感がある。わざわざ「あのパーティー」なんて野暮な言い回しをしなくても、ちょっとアクセント位置をズラすことで、ほら、あれだよあれ、って目配せしているような。

2020-06-18

anond:20200618114420

患者だって休みたいけど休めない

 (中略)

無責任に休めといい

このぐらい省略したらわかるか?

まりこのブラック企業経営者メンタルの奴は鬱患者でも休めというのを批判してるんだよ。

むろん休んで判断力を取り戻してくれば、やるべきことやるべきことの峻別はついてくるだろう。

判断力を取り戻すためにも休むことが必要

2020-06-10

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 記憶というもの原理的に忘却可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。

 例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。

 これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。


 タフな人生を生きようとする人間功罪の常で、僕は重要記憶とそうでない記憶峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。

 僕は自分にとって重要物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要人間とそうでない人間峻別できると思っている。そこが功罪なのである人間自分にとって重要人間とそうでない人間並置し、比較し、時に冷徹判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。

 さて、そんなこんなでこ記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。


 大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。

 さて、帰宅する。薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンに戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-06-09

何をいったかと、誰がいったかと、取り巻きが誰かと

是々非々でいようとしても敵か味方かで他人峻別して。、義憤暴言誹謗中傷をする人間対処がとても面倒くさい

表現者同士のもめ事場合、どっちも気に入っている場合、片方を気に入っている場合、どっちも気に入らない場合がある

どっちも気に入らない場合は、取り巻き同士でつぶし合ってくれて平和焼け野原になることを祈るしかない

anond:20200609071250

幼少時に性的虐待を受けた人は一般男性が考えるよりずっと多い


からおまえはダメなんだよ

女は「わたし小さい頃性的虐待されてさー」みたいな雑談でもするの?

すくなくとも男はしないよ

そして残念ながら男児性的虐待存在するし

男児女児関わらず、加害者の多くは近親者なんだよ

男と女峻別してるのが的はずれだし、ドールがどうこうとか内心の自由かいってるのも的を外してる

現実をみろ

2020-05-22

世の中の論争たいてい俺に関係ない

アニメキャラ白人に見える…から何?

べつに勝手に言わせときゃいいだろ 白人と実生活で関わりないし、今後関わるとしても仕事とかだろうからアニメのことはどう思っていただいてても結構

ジェンダー感覚の話もどーでもいい 俺が女性と関わるのは仕事関係だけだし、雑談みたいなのもほとんどない 結構願望もないから今後婚活なんかをやることもない 女性上昇婚志向だろうと男性女性蔑視を内面化していようとどうでもいい 俺には関係ない 勝手にやってればいい

なにか関係ある論争があるとしたら、まあ政治関係か 行政は俺にも降りかかってくるから

でもそれにしたって、俺にできることって言ったら結局は選挙に行って一票投じるだけだ それにしたって政権監視頼んだ!とおもって共産党に入れてるだけだ 

なんつうか、全部どうでもいいんだよな

なのに怒りだけ受け取ってしまう 俺が怒ったってしょうがないんだ 関係ないのに

 

「寝取りと寝取られNTRで括るな」派のタカ派だったんだけど、結局のところ誰に感情移入するか・させるかの演出上の匙加減の話に過ぎないのではないかと思い始めているんだけど、どう思う?

これなあ そうなんですよ 寝取られあるところに寝取りありですからね 「日本国内にある上り坂と下り坂はどっちが多いか」みたいな話だ

でもやっぱりその演出上のさじ加減がどっちに寄ってるかってのが大事なんじゃねえかな 寝取りモノでビデオレター撮影して郵送するシーンとかあんまりないじゃないですか せいぜい写真とってLINEで送るくらいでしょ

寝取る側にしか見えないものもあり、寝取られる側にしか見えないものもある どちらを見たいかっていうのが寝取り派・寝取られ派を決めているんであればやっぱりそこは峻別した方がいい気がするなあ

まあハイブリッドというか、双方視点作品も増えてきてて、確かにそういうのは解釈次第としか言いようがないけどね!

2020-03-16

anond:20200316074102

そっか、まあいいけど、「君が今歯が痛い」のは戦かってなおさないとならないけど「歯医者に怒られる」というのは戦わず受け入れておけばいいんじゃね?

その峻別が頭イッパイイッパイが常の君はできてないってことよ。戦力がない状況での全方位作戦って最悪の戦略じゃん?

anond:20200316073236

戦闘するにしても、何に戦うかきめにゃならんし、何にでも戦うとなってるから、常に頭いっぱいいっぱいで何にでも戦えなくなってるんじゃない?

あと、バックは確かに仏教だけど、別に釈迦様の存在なしでも成り立つよ。所詮宗教デカルト科学思考以前に正しいと思われた知識のつめあわせ。

神という存在を前提にしなくても、自分が納得したらそれでいい。

ああ、あと、怒られてもどうでもいいじゃんと今は一回思うことな。で、一度落ち着いて、その上で戦うべきものと戦わないでいいもの峻別し。どのみち落ち着かんと正しい峻別できんよ。

anond:20200316072209

頭いっぱいいっぱいの時はどのみち正しい峻別ができないからすべてのものに対してどう思われてもいいと割り切る。必要であれば逃げる。

落ち着いてゆっくり休めるようになってきて、峻別して、これについてはどう思われたい=頑張らにゃならんと再び挑み直す。というのは置いといて。

どうしてそういう境地に落ち着いている?かといえばマインドフルネス座禅をしているから。あれは徹頭徹尾脳の休息だ。

どこでこういう知識を得たかといえば、小池龍之介の本の仏教の慢の感情から得たな。

最も宗教霊感商法も近いところにあるし、霊感商法は頭いっぱいいっぱいだが何らかの助けがほしい奴に霊感商法依存させるような解を与えるという仕組み。

から安易仏教宗教起源とは言うべきかというのは迷うし、仏教という理由付けなしなしでも枠組みを説明できるから小池龍之介仏教知識の前提なしで書いた。

anond:20200316071711

歯医者に何言われようが気にすんなってことよ。

歯を直したら、君自身どうも他人にどう思われたいというもの峻別ができてなさそうだから峻別して、落ち着いて、歯を磨こう。

2020-02-09

anond:20200209162158

「何の瑕疵もないものが明らかに邪悪な主張に応じて取り下げられ」るような事態いまいち観念できないんけど、例えば黒バスイベント爆破予告(だっけ?)するような話だと思うんだけど、そのレベルって批判する程度が厳しすぎないか気になる。

基本的には何の瑕疵もないもの(例えば宇崎ちゃんの第2弾コラボはてな界隈でも概ね受け入れられてるし、公共団体ガイドラインにも反していないらしい))に対して明らかに邪悪でない主張(公共団体がこういうコラボをすることによって傷つくとか)によって取下げなりが要求されるか、あるいは僅かなもしくは少なから瑕疵針小棒大に言い立て邪悪目的によって取下げなりを要求される(例えばトリエンナーレとか。これは僅かなほうだと思いますが)ことのほうが多いんじゃないかと思うけど、こういうのは問題ないとするとは思うんだけど、こういうのも「それはそれで」と扱うのはちょっと危ういのではないか気になる。

例えば宇崎ちゃん第2弾コラボの方は外形的にも内面的にも邪悪な主張ではないけど、トリエンナーレなんかは内面的に邪悪目的があったとしても、通常外形的には邪悪ではない主張を装うわけはずで、その外形的に邪悪ではない場合内面的に邪悪かと邪悪でないか峻別は難しいんじゃないかなあと。

いやまあ、何の瑕疵もないものに対する、外形的にも明らかに邪悪な主張でなければ批判しないというならそれはそれでわかるんだけど。

まあ要は何が言いたいかというと「明らかに邪悪な主張」ってそう多くはないんじゃないかと気になる。

2020-01-25

YOUTUBERきらい

YouTuberが嫌いだ。いや、嫌いというのは正確ではないかもしれない。理解できないものへの嫌悪との峻別がまだ十分にできていないような気がする。ある友人が仕事を辞めてYouTuberを目指す、と言い出してから本格的に分からなくなってしまった。人生を賭ける価値のあるものだとは思えない、というのが率直な感想だった。

しかし、人生を賭けて「YouTuberを目指す」と「野球選手を目指す」、あるいは「ミュージシャンを目指す」、「芸人を目指す」というのは本質的に違うことなのだろうか。直観として違う、とは思うのだけれど、未だに自分自身を納得させるだけの答えを見つけ出せていない。もしかして自分YouTuberという新しい職業理解できず、腹の底の方で単に舐めているからなのではないのだろうか、と。

「他と比較して圧倒的に高い能力提供を対価として生活の糧を得る」というものプロフェッショナルだと思っていたが、YouTuber果たしてそうなのだろうか。以前、HIKAKIN24時間に密着した動画を観たことがある。彼は本当に休む間もなく赤い目を擦りながら、セブン惣菜をかじりながら、働き続けていた。その時は「これはプロ仕事だ」と確信した。ただし、そのプロ仕事から出力される作品の魅力についてはあまり理解できていなかった。

単に流行りの、取るに足らないブームである、と結論付けるのは適切ではないと思う。そして、天ぷら屋で10師匠仕事を見続ける、あるいは有名どころの前座をし続ける、みたいな下積みのなさにその原因を求めるべきでも無いと思う。それでも30年、50年残り続ける、ある種の芸術的な強度みたいなものも感じられない。

自分無知ゆえなのか、これをうまく切り取るフレームが見つけられない。何を勉強したら理解できるようになるんだろうか。

2020-01-16

anond:20200116001914

  1. そもそも中田さんは教育に携わったことがない芸能人
  2. (教育ではなく)経済的利益を得ることを主たる目的としてYouTube動画をあげている
  3. 出典を明らかにせず通説と異なる説明をし
  4. (識者からの)間違いの指摘に対しては対応せず
  5. 見ている人が多い(影響力が大きい)

、という合わせ技だな。自分は「中田さんは御自身ブランディングのために間違いを広めている」という判断した。なので(どうひいき目に見ても良くはなく)悪いことをやっているなあ、と思っている。

この状況をたとえて言えば、遠い異国の地に日本語を教える学校があって、そこの教師

日本人は(現在も)ちょんまげをして刀を腰にさしているんですよ」

と教えていたら、さすがに「その説明は無いでしょ」と言いたくなるよね。そのくらいならまだ笑い話で済むかも、だけど、

日本道路右側通行

と教えていたらどうだろう。教わった卒業生来日したとき交通事故に遭うかもしれない。そうなったとしたら日本語学校教師は無実と言えるのかな。(日本道路右側通行か否か?、そんなこと詳しくは知らないのだけど、たまたま適当に読んだ本に書いてあってそれをうのみにした結果)「いやー知らなかったんです」で済むのかな?そうだとしたら事故に遭った卒業生は気の毒だろうなあ。

こう書くと、

日本道路右側通行」かどうか改めて調べなかった卒業生が悪い

という意見が出てくるのだけど、そもそも教わる生徒側はその対象について「わかってない」のだから、調べようと思ったとしても調べることができないことが多い。だからよく知っている人を教師見立てて「教わる」わけだよね。自分で調べることができれば教師不要なので。

から教師役の人は「できるだけ正しいことを教える義務」というか、自分が教える知識がどういうことに由来しているのかを説明しないとならないのではないだろうか。これは言いかえれば、

「ここまでは(これこれこういう理由で)正しい(もしくは多数の人に支持されている説)なのだけど、別のこの件についてはまだよくわかってない(とか、教師自分個人的にこう考えている)」

ということを峻別する義務というべきものかな。検証可能性担保されていない知識は、虚言と区別がつかないね

2020-01-08

二次創作規制すべきか

二次創作批判する記事話題に上がっている https://funny-creative.hatenablog.com/entry/20200106/1578318490 ので所見を述べる。(主観的観測にのみ基づいているのであまり価値のあるものではない)

結論としてはもっと個別的に論じるべきだと思う。

まず私としては二次創作基本的容認されるべきだと考えている。

理由はいくつもあるが、まず、二次創作批判派の多くは自身犯罪行為正当化したいだけだ、と思えるからだ。例えばなんJなどで同人関連のスレがあると、違法ダウンロード公言して憚らない連中が、「二次創作著作権違反から割る。オリジナルにはちゃんと金払ってる」などと頻繁に書き込んでいる。また、コミケ徹夜組インタビューでも、インタビューされている徹夜組が、コミケ二次創作の温床だから徹夜批判される謂れはない、などと宣う。さら同人作家Red Light氏 が自身作品著作権侵害に対し遺憾を表明したところ、「でもお前も著作権侵害二次創作)してるじゃん」という旨のことを言われた、なんてこともある。

そうした難癖を受けて、じゃあ二次創作を辞めたらどうなるかというと、明らかに誰も得しない。難癖付けている連中がそういいながら二次創作作品を入手していることから考えても、彼らが求めているのは規制ではなく自己正当化に過ぎないのだ。事実Red Light氏は二次創作を辞めたが、彼のオリジナル作品は依然違法アップロードされ続けている。

次に、二次創作の風潮が嫌いだから作品のものから離れる、という説。これは理解できる面とできない面がある。確かに公式設定を無視し、売れることだけ考えて量産型エロ乱造している連中は不愉快だ。しかし、だからといってそれで元の作品から離れるというのが分からない。自分東方キャラ巨乳にしたり大人にしたりする連中が大嫌いだが、逆にそうした連中がいるからこそ、ならば自分公式通りの外見設定で描こう、と思えるのだ。二次創作の風潮が嫌いだとしたら、それに反発してカウンターとしての表現をすべきだ。それをモチベーションとして創作活動に入ることだってあるのだ。

そして、元記事の、二次創作のせいで作家が育たないという話。商業作家を志す人が少ないというのは色々な事情があるのに、二次創作だけのせいにしているのがおかしい。私はむしろ技術革新によって昨今のレベルが上がりすぎ、プロになる敷居が高すぎるせいだと思う。実際その壁を乗り越えた同人作家からプロは何人も出ているわけだし。そもそも一次二次隔てなく同人の規模が大きくなることは、クリエイターの質を高める点でいいことだろう。これは創作関係ないが、後輩にとても精力的に学会発表をする人がいた。彼の発表は粗が目立つし、同じ発表の焼きまわしでしかないものも多かったが、しかしそうして実績を積んだことで現在研究者として活躍できている。未熟でもなんでも発表することは良いことで、同人イベントはその受け皿になるのだ。

だいたい、アニメでもなんでも見ていて気に入ったキャラがいたら描きたいと思うのはオタクの性ではないか。そこに無駄に高い意識をもって二次創作表現として劣っているなどと峻別する意味が分からない。

一方で、批判されるべき二次創作というものも確かにあるだろう。公式二次創作規約を設けており(sssグリッドマンとか)、それに反するものだ。対して東方なんかは自由創作活動奨励しているので、批判する根拠が無い。したがって一括りに二次創作批判することがそもそも無理がある。そのうえで二次創作容認されている作品に関して批判したいのなら、全体的な規制を呼びかけるのではなく、作品のもの個別的批判すればよい。私だってパチュリー公式通り幼く描いたら、「パチュリーはむちむち巨乳お姉さんでないとおかしい」とかいう糞リプが来たことがある。糞だとは思うが個別に来ただけまだマシだ。

2019-11-06

https://anond.hatelabo.jp/20191106095819

「法は倫理の最低限」というように、反倫理的な行為を何でも法規制すべきではない反面、倫理的な行為規範としては合法性を基準とする場合よりも高いもの要求される、ということ自体は何らおかしくないと思います。むしろ法と倫理峻別は多くの場合表現規制に抗する論拠となる考え方かと。

例えば小学校教員が用務員に格下げされて、立場が弱くなったのに乗じた児童から侮辱を受けるといった話は、今でもジャンプで書いてよいのか。書いてよくないなら法規制すべきなのか。妥当な線は、書いてよくないが法規制すべきでもない、ジャンプの方で気をつけるべきだ、というところではないか

用務員の件は昔ジャンプの「燃える!お兄さん」という漫画で実際に起こったことで、抗議を受けてジャンプが回収にまでなった(俺は当時読んだ)。抗議した側は抗議などすべきではなかったし、ジャンプは断固として突っぱねるべきだったのだろうか。そういう極端な見解もあり得るが、妥当とは思えない。

このように、差別的その他の理由表現批判する側が、抗議等により表現者側の倫理判断に訴えてそのような表現をやめてもらおうとすること一般否定するのは筋が悪そうである。結局、批判側の言い分にどこまで理があるか、抗議行動は行き過ぎでないか脅迫等は論外)といった個別判断だろう。





















https://twitter.com/lawkus/status/1191929539636670465

2019-10-31

anond:20191031075500

左派理屈はそうだよね。

進歩反動的な敵を峻別して、身内の結束を常に強化しなければならないからね。

保守の側はのんきなもの

右翼はまた別。

2019-10-23

自由主義増田間違えすぎ問題

自由主義増田かい適当なこと書いてるやつが900user超えててビビるわ。

anond:20191016163058

anond:20191017201230

しか好意的な反応がほとんど。マジではてブの知性やばない?

Twitterでも消極的自由積極的自由についてさも前から知ってましたみたいな体で誤った知識を語りだすやつが増えてて笑える。

お前ら騙されすぎで本当不安になるよ。

*****

そもそも、今回の件は消極的自由積極的自由議論関係がない。

消極的自由というのはつまるところ自由権(=国家から自由)のことで、積極的自由社会権(=国家による自由)のことだ。ここはもう1回Wikipediaでも読んでくれ。

察しのいい方はこの言い替えだけで先のエントリ違和感に気づくかもしれない。

バーリン国家個人自由との関係を論じているのであって、個人間の自由が衝突しているのをどのように調整するかという議論である今回の件とは全く別問題

表現する自由」と「それを見たくない自由」は、どちらかを優先すればどちらかが損なわれるというトレードオフ関係性だ。

一方、自由主義増田が例示しているような「六本木から強制排除されない自由」と「六本木に住むための補助金を受ける自由」って別に衝突していないしトレードオフ関係じゃない。

強制移住させずに住む自由保証しても、補助金は出せるでしょ。実際出すかはともかく。

(というか、この例示も「消極的自由が優先される」という結論を印象づけるために恣意的に選ばれていて卑怯だよね。強制移住させられて居住の自由直接侵害されるような状況だと補助金重要じゃないのは当たり前。)

誤読マンが多いのも、自由主義増田国家個人自由なのか個人間の自由自由なのかを混同して意味分からんこと書いているから仕方がない。

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ちなみに、消極的自由積極的自由に優先されるのが現代自由主義の主流なんてことはなく、この点でも間違っている。

自由権社会権は両輪であり、一方を欠けば他方も真には達成されない。また、教育を受ける権利教育自由など、どちらにも峻別できない権利もあるし、環境権などのどちらの特色も持った新しい人権も出てきている。

こうしたことから現在では、この2つをある程度区別することに意義はあるが、厳格な峻別不可能だし両方重要だよねってのが一般的学説

バーリンの主張では、当初他者から強制干渉のみを消極的自由の欠如としていたが、貧困などの手段能力の欠如といった積極的自由の要素も含むことになった。こういう点でも当然批判も多い。

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自由主義増田の主張に従えば、献血ポスターが仮に適法的に作成されたヌードAVだって問題ないということになる。

なぜなら、今回の宇崎ちゃん表現者の自由とそれを見たくない人の自由と、より過激表現場合の、表現者の自由とそれを見たくない人の自由とに法益の差がないから。

「よほどの理由がない限り」消極的自由制限されない世界で、見ない自由子どもに見せない自由はよほどの理由じゃないらしいので、表現をより過激にしたところで条件は同じだ。

でも、実際のところそれでよしという人はおそらくほとんどいないだろう。

結局、国家による表現自由保証されている中で、どのような表現までならOKかというのは、市民の中で議論して線引きを決めていくしかない。

それが言論の自由市場要請でもある。

なお、私見を述べれば、今回のポスターは、場にふさわしくない程度に性的ではあるが、セクハラというほどではないと思うので、全く問題ないとも絶対にありえないという意見も持てない。

ポスターに反対しないという意味では自由主義増田と同じ立場だが、元増田のような健全な(=暴力的ではない)批判を誤った原則論封殺してしま自由主義増田は、むしろ悪貨であると言わざるを得ない。

2019-10-18

宇崎ちゃん表現不自由展について

ずっともやもやを抱えていて、アート界隈の方の上から目線の「アートを知らないお前らを啓蒙してやるよ」的なエントリなどいくつか読んだのですが、

全くしっくり来るモノがなかったので、自分なりにまとめてみようと思いました。なお私はアートについて全然詳しくありません。


まず大前提として、これから話されるのはすべて自主規制の話です。公的検閲の話ではありません。

あいちトリエンナーレ補助金交付取りやめなどといい出したことは完全にfuckです、あれは表現の自由侵害以外の何物でもありません。

そういった話とは別に他者を傷つけるような作品クレームを受けたら取り下げられるべきか?どこからがアウトなのか?という、自主規制についての話をしようと思います

宇崎ちゃん献血ポスター表現不自由展も、どちらも市民からクレームに端を発する話でしたよね。



マーケティング界隈の言葉ですが、世の中の情報は大別すると「pull型」と「push型」に分かれます

「pull型」というのは、対象者自分から見ようとしなくても目に飛び込んでくるたぐいの情報で、広告ポスターテレビCMなどがそれに当たります

push型」というのは、対象者がそれを目当てにして自分からアクセスしなければ目に入らない情報で、映画演劇美術展などはそれに当たります

前者はパブリックな物で後者プライベートな物とも言えるでしょう。



欧米ではジェンダーロールの強化を招くような要素が入ったもの苛烈批判さらされて、掲示を取りやめさせられたりすることがよくあるそうですが、

これは主に「pull型」の、テレビインターネット広告などに於いての話です。黙っていても目に飛び込んでくる情報からということですね。



そう聞くと、「その程度で規制するのか」とギョッとする方もいると思いますが、日本で言えば東日本大震災映像などはそれに当たるでしょう。

2011年3月11日から数日間、テレビは繰り返し被災地悲惨な状況を流し続けました。それは報道の使命であるという矜持に基づいたものだったでしょうが

まり惨状に心を痛め、PTSDになる人が多くいたことが国立病院機構災害医療センターの調べで報告されています

そのような事態を受けて、BPOは各テレビ局に「震災報道ストレスについての注意喚起要望」などを出していますし、実際テレビ局内部でもそのような懸念から配慮が話し合われたことでしょう。

かと言って、震災についてもっと詳しく知りたいという人間書籍や記録映像などでその情報アクセスすることは規制されるものではありません。

前者が「pull型後者が「push型」ということですね。

嫌でも目にしてしまう「pull型」の情報規制が厳しいが、自分から見に行かなければならない「push型」はそうでもないよ。ということです。

宇崎ちゃんポスターは前者、表現不自由展は後者に当たると思います



というわけで「pull型情報には自主規制がつきもの」ということは納得いただけたと思います、ではどこから規制されるべきなのかという話です。

「宇崎ちゃん献血ポスター」は「pull型」の情報ですが、あれは規制されるべきなのでしょうか?

かつては、ゴールデンタイムテレビでも女性の裸が平然と出ていましたが、いまはそういうことはありません。出すべきだという人もあまりいないでしょう。

チャタレイ夫人の恋人」という小説が「わいせつ過ぎる」という理由で発売禁止を受けた時代もありました、いまはあの程度の内容でそんなことにはならないでしょう。

まり、何を規制すべきかすべきでないかは「その社会市民意識によって絶えず変わっていく」としか言いようがありません。

宇崎ちゃんポスターについては、あれを性的過ぎると思う人もいれば、そんなことないと思う人もいて、単にオタク気持ち悪いと思う人もいるでしょうが

その綱引きで決まるというのが実情だと思います

個人的感想を言うならば、「あの程度で性的消費なら男女ともにアイドルとか表で活動できないよな」と思いますけどね。)



と、大体このような補助線を引くと議論に筋が通りやすいのではないかと思いますが、どうですか?




ただ、

・「pull型」と「push型」に明確に峻別出来ない情報はたくさんある。(雑誌の表紙はどっちなのか、大きく広告を打ち出しているような大作映画は本当に「push型」でいいのかなど)

・「push型」でも規制される場合はある(暴力的ゲームなど)

という二点は一応付記しておきます

2019-10-08

トイレ内における重大インシデント報告書

所属:総務課庶務係

名前増田

年齢:33

発生日時:令和元年10月7日(月)9:28ころから数分

発生場所:3階男子トイレから二番目の個室(洋式




重大インシデント概要

増田が個室内で用を足した後、お尻を拭いたトイレットペーパーで鼻を擤もうしたもの

経過

朝のコーヒー便意をもよおすことをルーチンとしている増田は、溜まった決裁を処理したのち、溜まった腸内の糞便の処理に向かう。

静かな3階奥のトイレは彼のホームグラウンドであり、ペーパー位置確認や鍵の閉め忘れも起こりにくい状況。

前日より季節の変わり目で鼻水が出ており、デスクにおいてもティッシュを用いた鼻水の除去を行っていた。

程よく湿り気のあるうんこは日々の野菜と肉と炭水化物バランスのとれた食事の賜物である(お前の腸内はナイルか!)。

便秘しらずであることは、コーヒーきっかけにするルーチンからも明らかだ。

排便中、手持ち無沙汰なこともあり、便座左側に備えるペーパー(うっすい安いやつ)で鼻をかむ。

その後、新たにペーパーを手に巻き尻を拭く。

脳がバグって、尻を拭いたペーパーで鼻を擤もうとしたのが0929ころと考えられる。

その後の対応

鼻をついた猛烈な異臭により辛くもうんこを拭いたペーパーでの鼻かみは回避できたものの、猛烈な匂いに襲われた該増田は鼻にウンチがついたもの判断し得なかった。

あわてて新しいペーパーで鼻を拭いて、恐る恐る確認ののち、不接触認識。こと無きを得る。

しかし鼻腔内に不快匂いが残り、しばらくはトイレから出られなかった。

数分後にトイレから脱出し、廊下で髪の綺麗な吉田(佳)さんとすれ違う。

いっつもはすれ違った時に髪のいい匂いクンクンするところを我慢する(うんこ香りが残っていたらいやだから)。

その後席に着き、何食わぬ顔で隣のデスク吉田(裕)さんに午後から会議ちょっとした指示を出すにいたる。

分析

このインシデントは鼻水が出ていることが直接の起因である

しかしながら何点かインシデントを避けうるタイミングがあった。

まずは鼻をしっかりかむことを意識していればこんなことは起こらない。

排便中仕事のことを考えすぎており、本インシデントにつながった。

またティッシュで鼻をかめば良いものを、横着してトイレットペーパーの目的外利用があったことも注目するべき点であろう。

トイレットペーパーは尻を拭くものである。こうした規律違反が本インシデントを招いた。

また、この一年ほど前にもどうようのインシデントが車内の別のトイレおよび自宅で発生しており、その反省が活かされなかったことも本インシデントの要因となっている。

再発防止策

風邪気味の時はうんこが鼻につくのを防止するため、マスクをする。

鼻をかむデバイスとお尻を拭くデバイスを、しっかり脳内峻別する。このために、自宅トイレティッシュ箱を設置し啓蒙を図る。

尻を拭く時は仕事のことを考えず尻を拭く。

2019-09-03

anond:20190903012859

単に敵味方がはっきりしてきただけだろ。

白組日本米国台湾香港国民

紅組中国共産党北朝鮮韓国財閥軍部以外)+日本リベラル

常に敵・味方・奴隷をはっきり峻別するのは、もともとは左派思考方法

2019-06-30

人類が滅亡したことによって事後的に困る人類存在しない、なぜならその時は既に人類は滅亡した後なので

この構図を、今現在生きている1人の人間について適用すると、「あなたあなた自身が死んだ後の世界について死者の立場から何らかの利害を持ち得ますか?」という問いになる。生きている人は誰一人として死んだことがない以上解答はどうしても間接的なものとならざるを得ないが、私が知る限りこの問いに対して肯定的な返答をするのはみなクリスチャンムスリムであったように思う。しかし彼らとて死後の世界生前世界とは全く別のあり様として生と死とを峻別しているだろう。

ガンスリンガーガールの何巻だったかは忘れたけどジャンさんの「死んだ人間は強いが、生きている人間は弱い」というセリフがあり、たぶん死んだ人間はこれ以上もう失うものがないし傷つけられることもない、どんな意味においても世界に対して利害を持たない、ということだと思ってる。実際のところ、人類が滅亡するという衝撃的な大事件を生者として目撃することは、並大抵の人間には耐えられないのかもしれない。

もし近い将来に人類が滅亡するとして、私はそれより先に死んでおいて、人類滅亡の難局を乗り切るだけの「強さ」と共に身構えておきたい。全ての人間が必ず死ぬ、という事実はこのとき決定的な救いだ。長期的には皆、私たちは土に還る兄弟である

2019-06-12

デレステ】残り1/3の純情な感情SSR

さて、6月に入り、今回の恒常SSRにて若林智香が追加されたことで、190人から居るアイドルのうち、まだSSRになってない

アイドルは66人、丁度3分の1程度にまで絞られた。

一時期、運営がボイス未実装SSRを出すのを渋ってた時期があったことを考えたら「やっとここまで来たか」といった

感慨深さすら少しは感じている(唯一の不満は、うちの担当が未だにSSRになってないことくらいか)

さて、ここからは、キャラバンと今後のデレステにおける、自分から要望とほんの少しだけの苦言

(見たくない人も居るため一応カーソル下げときます)






















さて、今回のキャラバンは、昭和を感じさせるアイドル長富蓮実と、芸歴11の子出身岡崎泰葉という、デレマスの中でも特に

通好みが選ぶアイドルの組み合わせなのだが、今回はこのうちの一人岡崎泰葉の扱いについて私が思ったことを書こうと思う

岡崎泰葉デレステ初のSR4枚目となるキャラバンイベントが追加されたことで、一部の担当の中に

「なんでSSRがないのか」ということで物議をかもし始めてる。(勿論、ほとんどの担当Pが腑に落ちないながらも

気持ちを切り替えてキャラバンを走り始めてはいるが)

かに、私も少しこれは疑問に思った。泰葉といえば、GBNSの中枢の担う位置に居るアイドルで、なおかつ、去年の10月

モバで行われた蒸機公演の主演という大役を担っており、今SSRになってないアイドルの中でも間違いなく上10番以内には

入るくらいの人気であることは間違いないからだ(これは、去年の後半にCoのボイス未実装アイドルSSR更新運営

怠ったことも原因にあるのだが)

しかも、キャラバン場合SRながら上位は描きおろしという救済措置があるのに対し、下位はモバマスSRカード

使いまわしであるため、これも、納得が行かない理由としては大きいように思う

自分は和久井留美担当で去年の10月の頭に、デレステ:担当がSSRにならない悲しさと今後の総選挙の提案についてという形で書かせてもらったのだが

この時にも似たようなことを書いた通り、SRがこのタイミングで来たということは、年内のSSR実装はほぼ絶望的であり、

蒸機公演やGBNSの躍進で楽しみにしていた、泰葉Pが残念な思いをしているのは、この時の自分たちと重なって見えるように思えて

共感を覚えずには居られなかった

ボイス未実装SSR更新といえば、ここ数ヶ月のラインナップからもう一つ疑問に思ったことがあって、それは、第7回総選挙までの

時点で全員全圏外だったアイドルの中から、「明らかに一見さんに受けそうなタイプアイドルばかり選んでいる」ということである

反対に、今回の長富蓮実や岡崎泰葉のように、ぱっと見地味に見えて、実はかなり味わい深いアイドルや、仙崎恵磨や奥山沙織のような

他の作品にないタイプアイドルなんかは明確に後回しにされてるように思えてならない(その意味では20代後半のうちの担当

敬遠される理由にはなると思う。需要に対して既に実装組で供給過多に陥ってるので)

本来ならその売り出し方は、マーケティング的には間違ってないのだろうが、このコンテンツ場合総選挙事実上

前金みたいな感じで課金させておいて、建前上とはいえ「登場するアイドルは対等」と謳ってる作品で尚且つ、

人気も同じくらいのアイドルをそういった形で峻別するのは少し、不義理さを感じずにいられない(ついでにいうなら

実装されたのが総選挙の結果前で、実質課金ゼロの新アイドル4人が追加されてることも踏まえれば猶更である)

ただ、SSR実装する順番については、残り三分の一を切ったことを踏まえて、今日一日、改めて考えを整理したうえで

ここまで来て、もし「全員実装される」ことを前提としたときに、そういったせこい考え方は持たないほうがいいんじゃないかという

考えに辿り着いた

なぜなら、仮にデレステ運営が全員分SSRを用意する気があったとして、最短(月三回ペース)で更新されたとしても

残り66人居るSSRが全員分実装されるのは、あと二年近く先になってしまわざるをえないということである

(実際には、枠の都合でボイス実装アイドルの二周目もある程度追加せざるをえないため、均して月二回ペースが

やっとではあると思うが)

そうなると、最後に追加されるアイドル2021年10周年の時までに間に合うか間に合わないかくらいのところまで

待つことを余儀なくされることになる


それでも、今SSR実装されずにいる担当P達が「やっぱり、どうしても担当SSRが欲しい」「他の同条件のアイドルが持ってるのに

自分担当だけSSRが用意されなければ納得行かない」というのなら、運営要望を出したり、同担を中心に呼びかけることも

大事だとは思うが、それと同時に「少なくともあと二年は腐らず待つ」くらいの覚悟は同時に必要なように思う

かに、二年先なんて誰も待ちたくはない。同担だって離れてくかもしれないし、自分だってその時どうなってるか解らない

ただ最初は、月5人だったことを考えるなら、月7~8人のSSR更新している今のペースがおそらく運営側の限界だろうと思うし、

それ以上の更新を望んだところで、コピペ衣装か、あるいはファッションカタログからそのまま引っ張ってきたような衣装

あてがわれるだけで、おそらく、声がつかないかぎり一回しかいであろう担当のチャンスを誰もそんなことに使いたくないはずである

もちろんこれは、うちの担当である和久井留美も同様の立場であることに変わりはないし、キャラバン上位、限定SRときて次もまた

使いまわしのSRである可能だってなくはないと思ってる。

でも、「全員実装されるまでに2年、今実装されてないアイドルのうち、少なくとも半数は1年以上待たされる」という

避けようのない現実を考えた時、自分担当アイドルSSR運営要望するのはいいが、どんな理由があれ、実装される

アイドルの順番に対してケチを付けたり、次に用意されたのがSSRでなかった時に、過剰に文句を言うといった行為は、

単純に自分勝手なだけでなく、「他の担当に、自分にとって嫌な役回り押し付けようとする」ことでコンテンツ自体の衰退を招き、

結局は自分自分の首を絞める行為に他ならない

私自身、これまで「担当SSR実装にあまりに強くこだわりすぎてた」が故に、その辺は反省し心を入れ替える必要はあると思ってる

(もちろん、「担当SSRを望む気持ち」は今でも変わらないが、「執着」はしないようにしようと思う)

その上で、今現在SSR実装されてない担当Pと協力したうえで、「SRが来たことで損をしたと思えないような方法」や

「長い間SSRが無くても冷遇と思えない方法」というのを考えていこうと思ってる(今現在、その救済措置として、代表的なのが

スシローだと思ってる)

そして、これからも、デレマスを続けるとして、この先もし仮に自分担当SSRが来たとしても、「自分担当が190番目だった」

時のことを考えて、他の担当SSRを出すようにも力を尽くしてこうと思ってる

以上のことを踏まえたうえで、週末に、考えを整理したうえで、改めて運営要望を出そうと思ってる

それは「和久井留美SSR可能な限り早めに出してほしい」というものだが、それと同時に

1.キャラバン下位のアイドルにも片面だけでいいから、描き下ろしイラストを与えてほしい

2."SSR"のアイドルだけでなく"SR"が追加されたアイドルにも少しだけでいいからデレ劇わいどに出してほしい

3.これ以降、追加される未実装SSRには「オルラン」や「コンセ」ではなく、それよりは実用的な技を追加してほしい

 (これまで追加されたアイドルのPから「不平等」と思われるかもしれないが、「残り物には福がある」という考え方が

 できるようになれば、最後の方で追加を待たされるアイドルも、相応に納得できるので。その意味で、今回智香に新特技を

 与えたのは、大英断だったと思う)

ここまでやると絵師さんが少し大変になるかもしれないが、「SSR更新をあと月1回増やせ」よりはまだ可能だと思うので

ともあれ、今回の更新で、改めて「自分の事だけ考えてたらやっていけない」ということを再認識させられた

とりあえず、キャラバンは久しぶりに走れるだけ走ろうと思う

2019-05-24

ヴィーガニズムアニマルライツへの違和感メモ

「スー・ドナルドソンらは、先住民族土地ヨーロッパ人植民地支配したのは不正であるという例を引き合いに出し、野生動物は領内で社会を作る利益を持ち、侵略者から彼らを保護するために主権を認めるのは有効であると指摘している。」

人間権利動物に拡大するというより、先住民族権利野生動物と同格に置いたという感じ方をしてしまうのだが俺だけ??

救命ボート問題

もし救命ボート転覆して人間赤ん坊と犬のどちらか一方しか助けられないとしたらどうするかと聞かれて、PETA動物倫理的扱いを求める人々の会)のアウトリーチ・コーディネーター、スーザン・リッチは「はっきりとは分からない…赤ん坊を助けるかもしれないし犬の方を助けるかもしれない」と答えた。動物権利哲学者のトム・レーガンは、たとえ犠牲になる犬の数が何匹であろうが、赤ん坊の方を助けるべきだと述べた。これはカント以来の伝統的な義務論の延長上に権利論を展開した、レーガン立場を示すものと言える。」

差別を全く行わない立場なら、犬を助け赤子を見捨てるのは倫理的問題ないはずでは?

人間を常に救うのであれば、種差別を行っていることになるのでは?

人間だけを特別視する宗教的な考えを拒否すれば、重度脳障害または重度知的障害を持った人間を、同等の精神知的レベル動物峻別することが困難になる、とシンガーは表明する」

まり知的障害者は同程度の知能の動物と同格に扱ってよいことになる。

別のところでシンガーは、痛覚を感じない障害もつ人間は、痛みを感じる実験動物より実験対象として適格であるような意味のことを述べている。

こういった考え方は差別的ではないのか?

anond:20190522224201

2019-05-09

anond:20190509194005

世の中には増田も知らずただただ苦しんだり自殺したり孤独死してるKKOがたくさんいる

そいつらを代表するような面をして増田喧嘩売りまくってるKKO増田とは害悪度も厚顔無恥さでも差があるのだから峻別すべきだよ

2019-02-18

厳しすぎる職業倫理が「バイトテロ」を生む

バイトテロ雑感 - ←ズイショ→

http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2019/02/15/203839

しろバカッター」が少ないことに驚く - シロクマの屑籠

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190217/1550390275

 

この二人を読み比べると、自分は完全にズイショ氏の方に同感なのだけど、ブックマークだけだと書ききれないことも多いので、こっちで書いてみる。なお、id持ってるのになぜ自分ブログで書かないのかというと、ブログで書くと情と執着が移るから嫌、というだけの理由である

 

自分仕事海外出張が多く、実はこの文章日曜日の昼に外国で書いているのだが、海外接客業店員に接すると、日本と比べて驚くほど職業倫理が低いと感じる。コンビニ店員はガムを噛んでスマホを見ながら接客するのが普通であるし、ファストフードで注文をすっぽかされても"Sorry! We will do it now."の一言で終わりである。あるときなど、客の少ない時間帯の大手ドラッグストア雑貨店を兼ねている)では、店員同士が売り物のゴムボールバレーボールをして遊んでいた。微笑ましいものである

 

また、雇用者の側も、ある程度の「あそび」「緩さ」をアルバイト定員には許容している部分がある。アメリカマクドナルドCMでは、就業時間中に「俺、念願だった大学合格したんだ!!」と言ったアルバイト高校生を、クルー全員が拍手喝采してお祝い(英語で言う"Applause!"だ)するシーンがある。

  

これらは、日本であれば炎上したり、あるいは炎上を期待して「拡散」されたりしかねないことである

などと書かれてもおかしくない。

 

このような日本特殊さの元凶の一つは、「先生に言ってやろう」「世間に言いつけてやる」という日本人の多罰的傾向にあると思う。日本人は、クレーム相手に直接言えないチキン性格なので、自分が受けた不愉快や、自分が感じた不平等さ(例えば「自分職業倫理に縛られて生きているのに、なんでアルバイトあいつらは自由にしているんだ?!」という怒り)を、「先生」や「雇用者」や「世間」「マスコミ」に言いつけることで溜飲を下げる。そして、そのような「言いつけてやる」行為が、正義だと見なされている。

 

ところが、外国特に念頭に置いているのはアメリカであるが)では、そうはいかない。自分利害関係者でないのに他人の非倫理的行為告発して溜飲を下げるのは、どちらかと言えば「卑怯な」行為とみなされる。そんな「告発者」は"mind your own business!"と言われるだけである。また、自分が直接被害を受けていないことに対して、憤ったり「言いつけ」たりしてやろうという発想がそもそもないのである(逆に、直接の被害を受けたのであれば、その場で immediately に抗議すべきだ。「上」や「世間」に言いつけて叱ってもらうなんて悠長なことは言っていられない)

 

私は、実害のある「バイトテロ」と実害の無い「アルバイト店員のおふざけ」とは峻別すべきであると考えるし、今後の日本社会が今までのような窮屈な職業倫理アルバイト店員に求められるような社会はいられないと考えている。実害のある「バイトテロ」は許されるべきものではないが、それとは全く別個に自分に直接の利害が無いことにまで「世間に言いつけてやって」溜飲を下げようとするその他大勢の人々の行為意味がないと考えている。なぜなら、彼らのそのような行為は、「自分職業倫理に縛られて生きているのに、なんでアルバイトあいつらは自由にしているんだ?!」という僻みからまれる部分が大きく、自分強制されている職業倫理理不尽さについて、使用者教師に対して抗議して適正水準に是正するという正しい問題解決道筋から目をそらしてしまっているかである

 

たぶん、日本人口に占める外国人の割合が今よりずっと増えているであろう10年後には、日本流の接客過剰サービスや、サービス本質関係ない職業倫理や、感情労働の類は、今よりもだいぶ廃れているものと思われる。外国労働者は労働に対して合理的な考えを持っているので、お客に実害を与えるわけではないのに、儀式やしぐさを強制されるのは理解できない。おそらくそれらの、「お客様に気を使った」振る舞いは、ガラパゴス的な宗教儀式のようなものとして無意味ものとなっていくことだろう。そしてそうなった時代には、アルバイト店員の振る舞いにはアルバイト店員なりの「緩さ」「適当さ」が許容されるようになり、それがガス抜きとなることで、実害を生むような「バイトテロ」は減っていくのではないかと期待している。

 

追記

なお、諸外国でも「企業」や「有名人」が炎上することはままある。たとえば先日のユナイテッド航空オーバーブッキング乗客引きずり下ろし事件では、「ユナイテッド航空」が炎上し、多くのSNSユーザが「ユナイテッド航空」の非道さを告発した。だが、実際に乗客を引きずり下ろした客室乗務員警備員の氏名を特定したり、その客室乗務員警備員本人を告発したりするような流れは殆どなかったように思う。この展開は合理的であるユナイテッド航空告発したSNSユーザは、実際にユナイテッド航空顧客である場合が多く、自分たちも同じ目にあったかもしれない、ということが想像できるからである。一方、個々のSNSユーザにとって、客室乗務員警備員本人は、自身人生で直接関わる可能性が殆どない相手であるから、個々人を「特定」したり「告発」したり「言いつけ」たりしても、意味がないのである

(追記2)

自分が前に書いたエントリ

https://anond.hatelabo.jp/20190212141859

バイトテロ」と、「文明人」という幻想

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