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はてなキーワード: フロックコートとは

2024-10-01

anond:20240930211842

だってないんですもの

「なにないことがあるものか」

「あった、あった」と三四郎が言う。

「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリーオフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」

「あらあったもないもんだ。早くお出しなさい」

 三人は約三十分ばかり根気に働いた。しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなった。見ると書棚の方を向いてあぐらをかいて黙っている。美禰子は三四郎の肩をちょっと突っついた。三四郎は笑いながら、

「おいどうした」と聞く。

「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」と嘆息したまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。

 三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。肝心の主脳が動かないので、二人とも書物をそろえるのを控えている。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝の上に開いた。勝手の方では臨時雇いの車夫と下女がしきりに論判している。たいへん騒々しい。

ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪で香水のにおいがする。

 絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛ですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である

人魚

人魚

 頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか

「なんだ、何を見ているんだ」と言いながら廊下へ出て来た。三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。いろいろな批評が出る。みんないいかげんである

 ところへ広田先生フロックコート天長節の式から帰ってきた、三人は挨拶をする時に画帖を伏せてしまった。先生書物だけはやく片づけようというので、三人がまた根気にやり始めた。今度は主人公がいるので、そう油を売ることもできなかったとみえて、一時間後には、どうか、こうか廊下書物が書棚の中へ詰まってしまった。四人は立ち並んできれいに片づいた書物を一応ながめた。

「あとの整理はあしただ」と与次郎が言った。これでがまんなさいといわぬばかりである

「だいぶお集めになりましたね」と美禰子が言う。

先生これだけみんなお読みになったですか」と最後三四郎が聞いた。三四郎はじっさい参考のため、この事実を確かめておく必要があったとみえる。

「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」

 与次郎は頭をかいている。三四郎はまじめになって、じつはこのあいから大学図書館で、少しずつ本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ずだれか目を通している。試しにアフラベーンという人の小説を借りてみたが、やっぱりだれか読んだあとがあるので、読書範囲の際限が知りたくなったから聞いてみたと言う。

アフラベーンならぼくも読んだ」

 広田先生のこの一言には三四郎も驚いた。

「驚いたな。先生はなんでも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が言った。

 広田は笑って座敷の方へ行く。着物を着換えるためだろう。美禰子もついて出た。あとで与次郎三四郎にこう言った。

「あれだから偉大な暗闇だ。なんでも読んでいる。けれどもちっとも光らない。もう少し流行ものを読んで、もう少し出しゃばってくれるといいがな」

 与次郎言葉はけっして冷評ではなかった。三四郎は黙って本箱をながめていた。すると座敷から美禰子の声が聞こえた。

「ごちそうをあげるからお二人ともいらっしゃい」

 二人が書斎から廊下伝いに、座敷へ来てみると、座敷のまん中に美禰子の持って来た籃が据えてある。蓋が取ってある。中にサンドイッチがたくさんはいっている。美禰子はそのそばにすわって、籃の中のもの小皿へ取り分けている。与次郎と美禰子の問答が始まった。

「よく忘れずに持ってきましたね」

だって、わざわざ御注文ですもの

「その籃も買ってきたんですか」

「いいえ」

「家にあったんですか」

「ええ」

「たいへん大きなものですね。車夫でも連れてきたんですか。ついでに、少しのあいだ置いて働かせればいいのに」

「車夫はきょうは使いに出ました。女だってこのくらいなものは持てますわ」

あなたからつんです。ほかのお嬢さんなら、まあやめますね」

「そうでしょうか。それなら私もやめればよかった」

 美禰子は食い物を小皿へ取りながら、与次郎と応対している。言葉に少しもよどみがない。しかゆっくりおちついている。ほとんど与次郎の顔を見ないくらいである。三四郎は敬服した。

 台所から下女が茶を持って来る。籃を取り巻いた連中は、サンドイッチを食い出した。少しのあいだは静かであったが、思い出したように与次郎がまた広田先生に話しかけた。

先生、ついでだからちょっと聞いておきますがさっきのなんとかベーンですね」

アフラベーンか」

「ぜんたいなんです、そのアフラベーンというのは」

英国の閨秀作家だ。十七世紀の」

「十七世紀は古すぎる。雑誌材料にゃなりませんね」

「古い。しか職業として小説従事したはじめての女だから、それで有名だ」

「有名じゃ困るな。もう少し伺っておこう。どんなものを書いたんですか」

「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説全集のうちにあったでしょう」

 三四郎はきれいに忘れている。先生にその梗概を聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族英国船長にだまされて、奴隷に売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の実見譚だとして後世に信ぜられているという話である

おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。

「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの

「黒ん坊の主人公必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」

「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、

「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った心地である。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。

 広田先生は例によって煙草をのみ出した。与次郎はこれを評して鼻から哲学の煙の吐くと言った。なるほど煙の出方が少し違う。悠然として太くたくましい棒が二本穴を抜けて来る。与次郎はその煙柱をながめて、半分背を唐紙に持たしたまま黙っている。三四郎の目はぼんやり庭の上にある。引っ越しではない。まるで小集のていに見える。談話もしたがって気楽なものである。ただ美禰子だけが広田先生の陰で、先生がさっき脱ぎ捨てた洋服を畳み始めた。先生和服を着せたのも美禰子の所為みえる。

「今のオルノーコの話だが、君はそそっかしいから間違えるといけないからついでに言うがね」と先生の煙がちょっととぎれた。

「へえ、伺っておきます」と与次郎几帳面に言う。

「あの小説が出てから、サザーンという人がその話を脚本に仕組んだのが別にある。やはり同じ名でね。それをいっしょにしちゃいけない」

「へえ、いっしょにしやしません」

 洋服を畳んでいた美禰子はちょっと与次郎の顔を見た。

「その脚本なかに有名な句がある。Pity's akin to love という句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。

日本にもありそうな句ですな」と今度は三四郎が言った。ほかの者も、みんなありそうだと言いだした。けれどもだれにも思い出せない。ではひとつ訳してみたらよかろうということになって、四人がいろいろに試みたがいっこうにまとまらない。しまいに与次郎が、

「これは、どうしても俗謡いかなくっちゃだめですよ。句の趣が俗謡もの」と与次郎らしい意見を提出した。

 そこで三人がぜんぜん翻訳権与次郎委任することにした。与次郎はしばらく考えていたが、

「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」

いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。その言い方がいかにも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。この笑い声がまだやまないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんがはいって来た。

「もうたいてい片づいたんですか」と言いながら、野々宮さんは椽側の正面の所まで来て、部屋の中にいる四人をのぞくように見渡した。

「まだ片づきませんよ」と与次郎がさっそく言う。

「少し手伝っていただきましょうか」と美禰子が与次郎調子を合わせた。野々宮さんはにやにや笑いながら、

「だいぶにぎやかなようですね。何かおもしろい事がありますか」と言って、ぐるりと後向きに椽側へ腰をかけた。

「今ぼくが翻訳をして先生しかられたところです」

翻訳を? どんな翻訳ですか」

「なにつまらない――かわいそうだたほれたってことよというんです」

「へえ」と言った野々宮君は椽側で筋かいに向き直った。「いったいそりゃなんですか。ぼくにゃ意味がわからない」

「だれだってわからんさ」と今度は先生が言った。

「いや、少し言葉をつめすぎたから――あたりまえにのばすと、こうです。かあいそうだとはほれたということよ」

「アハハハ。そうしてその原文はなんというのです」

「Pity's akin to love」と美禰子が繰り返した。美しいきれいな発音であった。

 野々宮さんは、椽側から立って、二、三歩庭の方へ歩き出したが、やがてまたぐるりと向き直って、部屋を正面に留まった。

「なるほどうまい訳だ」

 三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずにはいられなかった。

 美禰子は台所へ立って、茶碗を洗って、新しい茶をついで、椽側の端まで持って出る。

お茶を」と言ったまま、そこへすわった。「よし子さんは、どうなすって」と聞く。

「ええ、からだのほうはもう回復しましたが」とまた腰をかけて茶を飲む。それから、少し先生の方へ向いた。

先生、せっかく大久保へ越したが、またこっちの方へ出なければならないようになりそうです」

「なぜ」

「妹が学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのがいやだと言いだしましてね。それにぼくが夜実験をやるものですから、おそくまで待っているのがさむしくっていけないんだそうです。もっとも今のうちは母がいるからかまいませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女だけになるものですからね。臆病者の二人ではとうていしんぼうしきれないのでしょう。――じつにやっかいだな」と冗談半分の嘆声をもらしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客に置いてくれませんか」と美禰子の顔を見た。

「いつでも置いてあげますわ」

「どっちです。宗八さんのほうをですか、よし子さんのほうをですか」と与次郎が口を出した。

「どちらでも」

 三四郎だけ黙っていた。広田先生は少しまじめになって、

「そうして君はどうする気なんだ」

「妹の始末さえつけば、当分下宿してもいいです。それでなければ、またどこかへ引っ越さなければならない。いっそ学校寄宿舎へでも入れようかと思うんですがね。なにしろ子供から、ぼくがしじゅう行けるか、向こうがしじゅう来られる所でないと困るんです」

「それじゃ里見さんの所に限る」と与次郎がまた注意を与えた。広田さんは与次郎相手にしない様子で、

「ぼくの所の二階へ置いてやってもいいが、なにしろ佐々木のような者がいるから」と言う。

先生、二階へはぜひ佐々木を置いてやってください」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑いながら、

「まあ、どうかしましょう。――身長ばかり大きくってばかだからじつに弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れていけなんて言うんだから

「連れていっておあげなさればいいのに。私だって見たいわ」

「じゃいっしょに行きましょうか」

「ええぜひ。小川さんもいらっしゃい」

「ええ行きましょう」

佐々木さんも」

「菊人形は御免だ。菊人形を見るくらいなら活動写真を見に行きます

「菊人形はいいよ」と今度は広田先生が言いだした。「あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれが普通人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。普通人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるにはあたらない」

先生一流の論理だ」と与次郎が評した。

「昔教場で教わる時にも、よくあれでやられたものだ」と野々宮君が言った。

「じゃ先生もいらっしゃい」と美禰子が最後に言う。先生は黙っている。みんな笑いだした。

 台所からばあさんが「どなたかちょいと」と言う。与次郎は「おい」とすぐ立った。三四郎はやはりすわっていた。

「どれぼくも失礼しようか」と野々宮さんが腰を上げる。

「あらもうお帰り。ずいぶんね」と美禰子が言う。

「このあいのものはもう少し待ってくれたまえ」と広田先生が言うのを、「ええ、ようござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出ていった。その影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように「そうそう」と言いながら、庭先に脱いであった下駄はいて、野々宮のあとを追いかけた。表で何か話している。

 三四郎は黙ってすわっていた。

2010-12-13

眼にて云う

だめでしょう

とまりませんな

がぶがぶ湧いているですから

ゆべからねむらず血もでつづけるもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にそうです

けれどもなんといい風でしょう

もう晴明が近いので

あんなに青空からもりあがって湧くように

きれいな風が来るです

もみじの若芽と毛のような花に

秋草のような波を立て

焼け跡のある藺草のむしろも青いで

あなた医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して、こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば

これで死んでもまずは文句もありません

血が出ているにかかわらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

ただどうも血のために、それを云えないがひどいで

あなたの方から見たら

ずいぶんさんたんたるけしきでしょうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青空と、すきとおった風ばかりです

  • 眼にて云う

 

なんだかんだ、と

時間ばかりは、どうしたって、過ぎていきます

僕の心は、どこかに、留まったままのようだ

一体何処で、油をうっているのか

わかりようもありませんが

不思議とあせりもしないものです

つまり、まだ、Nikonあいておりません

いま、部屋の悲鳴から、察するに

外は大雨のようだ

降り出す前に、僕は帰路につけました、これはきっといいことだろうと思う余裕はまだ、ある

家へ帰ると、インターネットで買っておいた、カメラバッグが届いている

次の現場はまだ決まらない

心の平和も、宣言するには、心許ない

何が足りなくて、何が満たされているのか、わからない

しかし、そのどれもが、なんとも小さいこである

こんなことばかり、恥も知らず

語っているから、誰だって思うだろう

暗かろう、哀しかろう、寂しかろう

しかし存外、そうでもない

この渇きと、飢えが、跡形もなく消え去ったとき、僕はきっと死ぬのだろう

どうも、満ち足りないから、前へ、上へと歩んでいける節がある

からといって、この渇きと飢えを、楽観視もしていられない

何年も昔、秋の夜だったか

日付がかわって、間もなく

唐突に、一通のメールが、きた

そこには死にたい一言書いてあった

彼女がそう言う理由は知っていた

長年付き合った彼に、別れを告げられた

彼女が、少しずつ、しかし確かに、形作っていた、結婚という夢も崩れた

日常から生まれる

あらゆる苦しみから、寂しさから

逃れる希望を、彼女は、そこにみていたのだった

いつでも

天真爛漫に、誰よりも幸せそうに笑いながら

苦しんでいた、彼女

それをみせないのは、強さからはなく、孤独を知っていたか

そして僕が、そのメールを、冗談に受け取れず

彼女の家へ向かったのは

それを薄々、感じていたか

彼女に限って

まさかことに及ぶようなことはないと分かっていたが

教えてあげたかった

絶望を前にした

どんな論理も、言葉も、無力になる

そんな時は、もっと直接的に、感じられるものじゃなきゃ、心は救われない

それは時と場合によって

傍にいることであったり、行動であったり、継続であったり

色んな形をとりはするが、どれも

やさしさや、隣人への愛とよばれるものだと、僕は思っている

それが為になるのか、何かの役にたてているのかはわからないが、しばらく彼女の傍にいることにした

僕よりも多くの経験を重ねてきた人であることに間違いはなかったが

それでも少しは役に立てたと、今でも思う

あの時、彼女がみている、生きている小さな世界

彼女が、僕たちが、生きられる、大きな世界の何分の一でしかなかった

その人の小さな世界で、ほぼを占めていた

何かが、なくなってしまったのならば

当然、心に穴はあくだろう

もし誰かに甘えることで、仮に、少しでも

大きな世界に、希望を持てるのなら、証明したかった

それも可能ならば、友情でもって

何故なら、残酷なことに

人が、死にたいと思うくらい絶望に面しても

大きな世界は、それを受け入れてくれているような気がしたから

いくらでも、生きられる場所を、用意してくれているように思った

しか彼女に、そんな残酷希望を言うには、躊躇われる

から地道な方法で、示すしかなかった

一人ではないこと

楽しいことは、まだ残されていること

少しの間でも、忘れられること

それがだんだん、長くなっていくこと

言葉いがいの何かで、教えてあげたかった

例え、生きていることに意味を見出せなくても

死を選ぶのは、いや、自分を傷つけるという行為が、答えになるわけではな

失ってからはじめて気付くものは、たくさんあるし、それが自分じゃ洒落にもならない

から、うしろむきな僕が、いつまでたっても見つけられない

生きる希望は、それはそれで、よいのかもしれない

しかしそう楽観視するには、人生には、苦しみが溢れすぎている

から、この世界がきっと用意してくれているであろう、居場所を探す力だけは残しておかなくてはならない

渇いている心が、飢えた頭が、ある限りは、より善いものを求めて、歩いていく、力になるだろう

道中は、弱音ばかりで、幸福音色を聴かせることなどできないかもしれない

しかし、満ち足りていないのなら、前へ進める

小さなことで、満ち足りぬ自身をいずれ、誇れる日がくるかもしれぬ

それが、希望を追う、力になるだろう

そしてまた、目の前の絶望にも、溺れぬよう、抗う力になるだろう

そうすれば、溺れかけているように思える、この頭の中からみても、

 

やっぱりきれいな青空と、すきとおった風ばかりです

2010-08-28

眼にて言ふ  宮沢賢治




だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず

血も出つゞけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといい風でせう

もう清明が近いので

もみぢの嫩芽(わかめ)と毛のやうな花に

秋草のやうな波を立て

あんなに青空から

もりあがつて湧くやうに

きれいな風がくるですな

あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄(こんぱく)なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを言へないのがひどいです

あなたの方から見たら

ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やつぱりきれいな青ぞらと

すきとほつた風ばかりです

2008-05-27

Yに/ 眼にて言ふ

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧ゐているですからな

ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといい風でせう

もう靜明が近いので

あんなに青ぞらからもりあがつて湧くやうに

きれいな風が來るですな

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波をたて

燒痕のある藺草のむしろも青いです

あなたは醫學會のお歸りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本氣にいろいろ手あてもしていただけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかかはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

ただどうも血のために

それを言へないがひどいです

あなたの方からみたら

ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やつぱりきれいな青ぞらと

すきとほつた風ばかりです

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十数年前あなたに教えてもらった、もう擦り切れてぼろぼろになった本を読み返そうと思った。

けれども昨日はどうしても見付からなかった。今日は見付かるといい。

あなたの最期が、このようなものであったことを祈る。

 
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