はてなキーワード: 懐中時計とは
ワイの過去の就労先で就労先が代替わりしたやつで、繁華街の交差点角地という超一等地なんだが戦後くらいから借りてるだかで二十数年まえで月額に!じゅうまん円だった、超ボロ長屋造りの真ん中で狭小木造三階建だが、すでにして右肩下がり業績だったのでなんとか穏便にと就労先経営者が請願してたの思い出した
隣が初老の三兄妹が住み込みで経営している甘栗屋!で、とおもってたらあるとき初老だが割りと整った容貌の老婦人が三兄妹と談笑してるの見てたらワイの就労先経営者がアレあの四人は兄妹やねんとあの老婦人は実の妹という情報をブッ込んできて驚愕した
反対側の隣はコロコロ業務形態の変わる店舗で一時めちゃくちゃ適当な名称のイカ焼き屋だったことしかもうおぼえていない
話もどしてその時の就労先の代替わり前の創業者が戦前の大阪で写真機業を営んでいた(国産初の懐中時計型カメラの発売元)とこの兄弟()だかで店内で昔話にキミが一旗揚げる気があるならワシは○紅に知り合い居るから相談にノるでとよく(誰にでも)話していたのも懐かしい想い出
ちな後継ぎの婿の人は同窓会に写真機屋だからと写真係押し付けられて店頭在庫のなかなか売れない高額新品の古都陶磁器会社謹製ブランド(素材は八州光学)一眼レフを持ち出してた
そうそう、それの仕入先のエラい人が転勤上洛して来てしばらくして、建物の庭園?に水やりしてて元栓閉め忘れで帰るという大失敗やらかしたという話もきいた
役所、公園、商店街といった公共空間には必ずといってよいほど、高いところに掲げられ、大きくその文字を記した「時計」というものが存在する。
しかし、今や、そういった公共空間が仰々しい時計という装置によって、大掛かりに「時」を提供する必要があるのだろうか。
個々人には、古くからある懐中時計に腕時計、今やスマホはマストアイテムであり、誰も「時」を知ることに苦労していない。
そういえば、時刻表に追われる公共空間の代表例、すなわち、駅においても、その空間から時計が撤去されつつあるというニュースがこないだあった。
いわんや、普通の公共空間をや。公共空間にあるあの時計はもう、本来的な必要性を失い、街の中の単なる意匠にすぎないとも思えるのである。
すなわち、公共空間における時計の喪失は、マイナスの側面ばかりではない。
なぜなら、時計の喪失は、公共空間を時間から解放する手始めの手段だとも言い換えられるだろう。
例えば、子どもの頃、夕暮れる公園で時間を忘れて遊具で遊んだ記憶という、実際には存在しない記憶を思い出してみよう。
世の中では、大人のひとつの定義として、「常に時間に追われる存在」というものもあるらしいが、その解放にも、公共空間における時計の喪失が役立つのである。
公共空間に時計が無ければ、公園では時間を忘れて球技をし、商店街では時間を忘れて買い物をし、役所では時間を忘れてて閉庁に間に合わず、というふうに色々な効能が得られるはずだ。
すなわち、子どもの頃の、時間を忘れて何かに熱中して楽しかった嬉しかった、あの記憶が、時計をなくすことで再現できるのである。
まあ、実際には存在しない記憶なのであるが、細かいことはどうでもいい。上記のような大人の定義など誰も言ってないことも、もはやどうでもいい。
つまりは、公共空間における時計の喪失は、そういう意味で、様々な練られ考えられたであろう意匠よりも、素朴で牧歌的な空間の演出に役立つはずだ。
また、さらに多面的な見方をすれば、この現象は、個別的な「時」を持つことで、公共として提供される「時」に打ち克つことができたのだとも言える。
例えば、公共空間が環境音楽とともに押し付ける「12時」と、私のスマホが示す「12時」は全く意味が異なるのである。
何事においても多様性が重視される昨今、時刻においても、その意味の多様性は保持されてしかるべきだ。
当然、その値は常に一意に定まるものではあるのだが、提供形態は一意でなくてもよい。
「時」が、個人の持つデバイスによって、個別具体的な形で提供され、公共空間が「時」を提示しなくなった現状は、多様性の為せる現象のひとつだとも言えるのである。
一意の値であるはずの「時」も多様性を持てるようになった、という点で、世界の価値観の進歩が感じられる。
公共空間はむしろ積極的に「時」の提供を辞めてよいのかもしれない。時間からの解放と多様性のために。
というか、スマホに限らず、懐中時計などは昔からあるものなのに、なんで公共空間が時計で「時」を知らせる必要があったのだろう。
どうして、人々にとってわかりきった知識である「時」を大々的に提供していたのだろう。不合理に感じる。
そう思うと、そもそも本当に公共空間に時計などあったか不安になってきた。役所、公園、商店街など、実際には時計など無かった気もする。
なぜなら、私はスマホで時刻を知っていたから。なんなら、公共空間に居たにも関わらず、スマホを見ていて、公共「空間」という空間を把握していなかった気がする。
だから結局は、公共空間における「時」の提供など、実際には存在しない記憶なのかもしれない。
そうだ。それこそ、水時計で時刻を知るような大昔でもあるないし、勘違いにもほどがある。
一方時江はどちらかと言えばおっとりしている方だったが、勉強はできたし、運動神経も良かった。
またクラス委員を務めていて、生徒たちからの評判も良く、教師たちからの信頼も厚かった。
二人は容姿も能力も正反対だったが、不思議と馬が合ったらしい。
思えばその頃の真野は、常に焦げた懐中時計を身に着けていた。誰かからプレゼントされた物だというが、それがいつ頃のものなのかは分からない。
しかし彼女の家は母子家庭で、母親は昼間パートに出掛けていることが多かった。
そしてその日はたまたま家に彼女一人しかいなかった。そこで彼女は何を思ったのか、突然、キッチンにあったフライパンを使って料理を始めたのだという。
そして出来上がった物を皿に移して、テーブルの上に並べた。そして最後に、
そう祈りの言葉を口にすると、彼女は手にしていたフォークを空中に放り投げた。
美和子がなぜこの事を知っていたかというと、真野の机の上に日記帳が置かれててそれを盗み見したからであった。
そして、この事は生涯誰にも話さない様にしようと心に決めた。
誰にでも隠しておきたい事はあるし、大体事実かどうかも定かではない。それに、たとえ本当だとしても、真野さんがそんな事するはずがないじゃないの。美和子は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
城平京先生、虚構推理のアニメ化おめでとうございます! 雨の日も神様と相撲をのコミカライズも楽しみです!
相沢沙呼先生、medium霊媒探偵城塚翡翠のなんか目出度いランキング一位おめでとうございます!
いやあ、こんな超絶面白ミステリ作家の作品が四作品も載っているマガジンRはさぞかし売れているんだろうなあ。
まあ、時勢といえば時勢なんでしょうが、なんだか先行きが不安になりますね。
そこで、少年マガジンRにもう十人ミステリ作家を追加して、最強漫画雑誌にしましょう。
以下、ミステリ作家を集めるための餌です。
日曜は憧れの国を、きららな感じでやれば割とマジでアニメ化狙えると思う。
賢者の贈り物って知ってますか? あれをこちらで御膳たてすればいいのです。
アフタヌーンが十角館ならこっちは時計館やれば作品の完成度的に勝てるに決まっている。
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そういうことです。
バクダンハンダンもこちとら発売日に買ってるっちゅう話ですので、バクダンハンダンをコミカライズしましょう。
女性が書いたか男性が書いたかで作品の評価は何も変わらないし、まったくその情報意味なくない? と本屋で「女性作家の棚」という概念を見かけるたびに首を傾げていました。
ですが、Jの神話を女性が書いたと思って読み返すと、読み味がなぜかとても変化したので、今からでもマジで北村薫を女装させてグラビアとかとってみませんか?(もしくは愛川晶)
当然、乾くるみの最高傑作は、嫉妬事件以外ありえないので、嫉妬事件をきあい猫とか椎名波とか野晒とかにコミカライズさせましょうよお。
(嫉妬事件のコミカライズ作家を決めようのコーナーは後日また書きます)
兼業作家(Pとミステリ作家と副業)でお忙しいのはわかります。わかりますが、現在のミステリ界を牽引する彼がいないことには、マガジンRは成り立ちません。
なので、コミカライズで大いに稼いでもらい、本業(ニコマス作成)に全力を注いでもらいましょう。
これ書いてから気づいたんですが、大山誠一郎を呼ぶための餌なのか、今村昌弘を呼ぶための餌なのかわかりづらいですね。
どっちもにしましょう。ついでに小林立も呼んで、小禄心IT社長への道! も連載させましょう。
全然関係ないんですが、ポッピンQ大好きおじさんのツイッターを開いたら「フォローしている椎名波さん、xxxさん、他70人にフォローされています」と出てきて、なんでミステリ作家のコーナーしてるのに、椎名波の話が二回も出るんだよ! と面白くなりました。
なんか気づいたらすっかり人気作家ですが、講談社ノベルスの頃のあの尖りに尖った作品群から作風は変わってるんですかね?
探偵小説のためのゴシックが面白すぎて、自分の中でもうまほろんは殿堂入りでおしまいでいいやと思ってしまい手をつけていないんですが、また読んでみようかなあ。
ぐじらさんでもよいです!
いっしょにすんなって怒られるかもですが、僕は早坂吝先生の作品を読むたびに「石崎幸二先生…… あんたの目指した道はこれっぽっちも間違っちゃいねえし、今もこうして後進がうまれてんだぜ…… また何か書いてくれねえかなあ……」と涙がこぼれます。