はてなキーワード: 青い車とは
「青」って検索結果が出てくるんですよ。
これは何か直感に反する。
青は割と見えやすいのにね、と。
なんでなんだろ?
ああ、でもわかった。
それなら、納得できるかも。
あれ。
ロディア。
知っての通り、ロディアの罫線って青いのよね。
で、日本人がロディア使うと青い罫線がうるさくって自分の字がよく読めない。
なんで、こんなもんが海外で欧米で普及してるのかが不思議だったんだけど、彼らの目では青の認識の仕方が日本人とは違うみたいなの。
青が目立たないように見える作りみたい。
だから日本人からしたら青が強すぎるメモ帳でも、自分の字が問題なく読める。
ということを思い出して納得した。
彼らの目では青い車は目立たないんだ。
普段は何とか自社まで持ってきて、自社で整備するかあるいは近場にある馴染みの整備工場で修理する。
うちは40年代に造営された古い工業団地に工場があるから、近くには似たような業種やそれをサポートする整備工場がある。
車検とかローンとかもそこでやるしね。
でも今回はダメで、具体的な場所は言わないけどかなり遠く、また往来も少ない場所で自走不能になってしまった。
困ったなぁって社長と奥さんの専務と話してたらさ、社長の父さんって80代だけどまだ現役でたまに工場に顔出すんだけど、そのじいさんが「ジャフを呼べ」っつーわけ。
何だそれはそんなもん入ってたか? とか社長と専務とで話をしてたら、社長の母親まで顔を出してきた。
社長の母も80代で、その年代特有のテンションの高い社交スキルで工場を切り盛りしてきた女だ。アメとかすぐ寄越すタイプ。
実は社長の母っつーのが本家筋にあたるわけで、社長の父は優秀なスキルを見込まれ婿として家を継いでいたのだそうだ。その時はじめて聞いたんだけど。
だからたまに社長のお母さんは古い決まりごとだとか昔のやり方だとかを話したりすることはあった。明るい性格だから押し付けるとかはないんだけどね。
それで、工場をこの場所に建てた以前からの古い契約、具体的にはここに移ってきた時に交わした総合的な契約の中にジャフってのが含まれているということだ。
80代の2人の記憶は互いに曖昧で「あーでもないこーでもない」と思い出話を含め語り始めてしまったので、専務が書類のありかを教えろとはっきりいう。
探したところ、パソコンの中の古いpdfデータに含まれていた。連絡用の番号やアドレスが到底今では使えそうのない桁番号のため、俺がジャフの現在の連絡先をネットで調べることになった。
「こんな田舎まで来れるのかね? ジャフって」
「昔、西の方で路肩に落ちたのを引っ張ってるのをみたよ」
「青い車」
連絡先はすぐにわかり、俺が打電することになった。
こーいうのは契約時の契約番号を言えば相手もことを進めやすい。契約書pdfの文字列を手書きメモに移す。会社は工場だから電話とパソコンに距離がある。
JAFの対応は丁寧で、場所を示すと「今から行く、ただ年末でみんな氷で滑ってるから4時間みてくれ」とのこと。
途中のセーコマであったかい缶コーヒー買って、保温装置に入れて現場へ。
車の温度計はマイナス14度。現場の2人はいろんな意味で青ざめていた。
近距離用のジョンソンタナカドライブから一般航空用起動への切り替え音が、どこともない天空から届いてくる。
JAFがきた。
12輪の空陸両用車で、近くの路肩ポートに静かに着陸。青と白と橙色の車体は往古からのしきたりなのだそうだ。
自衛隊の空陸車両はここらでも見かけるが、それよりもやや小さい感じだ。
「どうもJAFでーす」
「お疲れ様です」
「あげれば自走する感じですか?」
「そうっすねエンジンかかって動きはしますので、・・・上げていただいてもっかい判断かなと思いますけど」
手早い処理で道路に車両が上がってくる。30分くらいだろうか。
俺も運転の2人も車を仕事にしてるから、何も言わずただJAFの仕事を見ていた。
「こんなとこにも来れるんすね」
「ガニメデに拠点ありますから割とすぐ来れましたよ、もうちょい田舎だったら時間かかりますけど」
「年末でも大変ですね」
「この時期って滑るし帰省とかもあるんで。でも天球って色々あるから季節も色々で、常に忙しいんですけどね。ただこの時期は特に」
復帰した車両と2台で会社に戻る。社長夫婦と先代夫婦が待っていた。
社長たちもこれを機会に古い話をもっと聞いておこうという気になったみたいだ。
なんだか年越しのような雰囲気で成り行きや顛末をみんなで語り合った。
ストーブの上のヤカンが水が少なくなってカンカンと音を立てていた。
ということでJAFってすげーって話。
チェリー、ロビンソン、空も飛べるはずぐらいしか知らずにいたんだけど「紫の夜を超えて」が発売した時にSNSで史上最高の曲!とか大袈裟に言ってるファンを見てコロナ禍で暇だしと思って聴いてみた。そしたら結構良かった。よく考えたらワールドトリガーって漫画の影響で「夜を駆ける」を購入して以来聞いてないなと思ってそれも聴いた。
とりあえずApple Musicではじめてのスピッツってプレイリストをここ三ヶ月ぐらい聴いてみたんだけど自分が思ってる以上に知らない曲が殆どだった。春の歌とか正夢とかギリギリサビがわかるくらい。全然知らなくてびっくりした。んでびっくりすると同時にすげえ良くてびっくりした。もっと早く出会ってればなとかも思ったけど、コロナ禍で暇だしってのがキッカケだからタラレバはないなとも思う。
それでようやくはじめてのスピッツのプレイリストが耳に馴染んできたんで掘り下げたいんだけどここから先は曲数が多すぎて中々選択が難しいとずっと足踏みしてる。スピッツ好きな人いたらおすすめの曲教えて。
ちなみにはじめてのスピッツのプレイリストで特に気に入った曲は「青い車」と「魔法のコトバ」です。割とアップテンポな曲が好きで、猿でもわかるJ-POPみたいな曲の方が好きです。歌詞はあまり気にしないので歌詞の出来は問わん。
珍しく連休は旅に出たのよ。
呉市に行ってきたわ。
もう何でもいいわ。
そんな車でぶっ飛ばして時速360kmで行ってきたの。
もう、訳分からないけど。
呉市に行くには
私のすっとこどっこいなアホなナビは、
わざわざ遠回りする広島呉道路を案内してくれたんだけど、
小春橋も見てきたのよ!
良いも悪いも、
辛い体験をした、すずさんはどうか現実の人をモデルにしたんじゃないことを願うほど、
日々デトックスよ。
てつのくじら館の、あきしおカレーはご当地色あふれてなかなかSNS栄えするわよ!
だけど即完売なので、午前早いうちに行った方がいいわよ~。
そして、美味しいものを食べるの。
うふふ。
って、映画観たようなことを言ったけど、観てないわっ!
と言うかこれほんと映画やってるの?
私の街の映画館ではやってないのよ。
本当に全国上映されてるのかしら?
まるで。
お昼おにぎり握って持ってくので、
ついでに朝ご飯もそれよ。
お手製のおにぎりは、もう海苔巻いちゃうのでしっとりタイプね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
離婚して1年が経った。
性格の不一致で離婚に至ったけど、私としては積もり積もったものに心が押し潰され命からがら逃げ切ったという体感だった。
だから当時の住まいがあった沿線に行くと暗い気持ちになるし、外面の良い元夫の肩を持った実両親とは絶遠状態にある。
先日Facebookが「友人かも?」みたいな項目に元夫を表示してきた。
今まで一度も表示された事なんてなかったのに…と驚いたのと同時に、元夫のその後が気になって見てしまった。
そこには、趣味に興じたくさんの友達を作り楽しそうに暮らしている姿があった。
離婚に至るまで、元夫は私がいないとダメになってしまうのではないかと思っていた。
ダメにしていたのは私だったのではという反省と後悔と、彼が生きてるという安心感がごちゃ混ぜになってただただ泣いた。
その愛車は、震災諸々で家計が苦しくなり環境を変えざるを得なくなった私達が
派遣で働きながら貯めた私の個人的な貯金を崩して買ったものだ。
元夫はとてもとても喜んでくれて、納車の日は嬉しくて車体から鍵までたくさん写真を撮って遠回りして家に帰った。
車を返して欲しいわけではない。やり直したいわけでもない。
ただ、とてつもなく虚しく、やるせなかった。
泣きながら思い出した。
「悲しいことは一人で乗り越えられるけど、嬉しいことを一緒に喜んでくれない人とは一緒にいても辛くない?」と言われたことを。
そうだったと思い直しても、私は心がスカスカになってしまい、もうあの時のように誰かと過ごす自信がない。
大好きだった青い車のキリッとした顔が好きだった。どんな暗闇でも一目で分かるあの顔が好きだった。
大好きだった青い車のように、自分の凸凹な人生を笑いながら走破したい。
色んなことがあるさと笑える日が、いつかくることを願っている。
「卒業式で桜ノ雨」「お昼の放送でボカロ禁止」といった話題がネットに上がってから3年~5年、
ニコニコ動画におけるVOCALOID初期作品の『みくみくにしてあげる』や『メルト』からおよそ6年半。
青春の音楽=ボカロって層はまだ学生だろうけど、大学くらいでボカロに触れて楽しんだ人が教職に進んでクラス担任を受け持っていることはありえると思う。
すると生徒とくだけた話もするタイプの教師なら、ボカロ好きな生徒との会話を試みて
「先生が学生のころは〇〇Pを聴いてたんだよー」「そんなP知らなーい」「えっ」
といったシチュエーションがあるかもしれない。
でも私が中学校の頃はどんなに若い教師でも、私たち(のものと思っている)の娯楽にすり寄られるとウザいと感じた。
むしろ私たちだけがその娯楽の面白さを知ってればいいとさえ思っていたから、
冒頭で挙げたネタで出てきた「自分の好きなものを否定されて辛い」って感情は
否定してくる相手が同級生なら共感できるけど、教師だとできない。
モーニング娘。・嵐・浜崎あゆみ・宇多田ヒカル・aiko・椎名林檎・19・ポルノグラフィティ・Dragon Ash・BUMP OF CHICKENは私たちのもので、教師が入ってくるのを拒んでた。
「二宮くん可愛いよねー」より「私の1番は今でもかーくんなの!」という女性教師の方が誠実そうに見えた。
吹奏楽部が定期演奏会で『ザ☆ピ〜ス!』を下級生のダンス付きで披露したとき、飛び入りでダンスに参加した副顧問の男性教師にはかなり白けた。
一方で自身の思い入れのある曲・歌手・娯楽を紹介できる教師は、ちゃんと青春を謳歌して大人になったんだなと好印象だった。
『TSUNAMI』、『波乗りジョニー』の大ヒットで当時40代の教師たちがサザンオールスターズや桑田佳祐を熱く語った。おかげで男子に『マンピーのG★SPOT』が大流行した。
ドラマ『人にやさしく』でTHE BLUE HEARTSを知った子も多かった。体育教師は持久走の授業で『リンダリンダ』『TRAIN-TRAIN』をBGMに流して生徒が関心を示すと、どこか満足気だった。
一番印象に残ってるのは卒業式とは別にあった、教師のくだけた訓話と生徒の出し物がメインのお別れ会。
男子生徒のバンド演奏で2人の男性クラス担任がボーカルの子と並んで歌った、スピッツ『チェリー』。
『桜坂』は大ヒットしてたけど、後発の桜ソングはまだなくて桜ソング=卒業ソングというイメージもまだなかった時代。
それでも春と旅立ちのイメージで選ばれたんだと思う。
『チェリー』のCDリリースは96年。私たちは小4で、大流行してたJ-POPを主にテレビからどんどん吸収していた。
歌った先生たちは教員になったかならないか、でも『青い車』『ロビンソン』なら学生だった世代。
男子生徒たちは普段Dragon Ashを体をくねらせながらコピーしていたせいか『チェリー』だとかっこつけきれず、はにかむような顔を見せた。
先生たちは学生のころの気持ちに戻ったと言いながら、ノリノリで歌い終わったあと赤面してた。
お互いの照れがとても印象的だった。
これがスピッツではなく19だったら、あるいは尾崎豊だったら、生徒と教師が一緒につくった思い出としては今の私に強く残らなかったと思う。