はてなキーワード: 桜の木とは
kohakuirono 始まってもいないのにと言うけど公式サイトで「エンタメ大好き」「イケてる人は吉原にいた」とか書いて極めて軽いノリでキラキラ吉原にしてるのはちょっとなあ。そりゃ怒る人も出るだろうて。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4749010497224107936/comment/kohakuirono
porquetevas ほんとにイケてる等のコピーがあったのか疑ってる人がいるけど、あったよ。公式サイトの「みどころ」ページに書かれていた。今はページごとそっくり消えてる
https://b.hatena.ne.jp/entry/4749020844342773120/comment/porquetevas
ということなのでwayback machineから発掘してきた。2/6時点のキャッシュ
元は「見どころ」というページ。トップにはリンク用の文字は残っているがリンクは外されている( https://daiyoshiwara2024.jp/ )。元URLにアクセスしてもNOT FOUNDになる( https://daiyoshiwara2024.jp/highlight.html )。
見どころ
幕府公認の遊廓、江戸の吉原。本展では、他の遊廓とは違い吉原だけに備わっていた公界としての格式と伝統に注目しています。武士であっても刀を預けるしきたりを持ち、洗練された教養や鍛え抜かれた芸事で客をもてなし、夜桜や俄など季節ごとに町をあげて催事を行いました。
約250年続いた江戸吉原は、常に文化発信の中心でもあったのです。3月にだけ桜を植えるなど贅沢に非日常が演出され仕掛けられた虚構の世界だったからこそ、多くの江戸庶民に親しまれ、地方から江戸見物に来た人たちが吉原を訪れました。そうした吉原への期待と驚きは多くの浮世絵師たちによって描かれ、蔦屋重三郎らの出版人、文化人たちが吉原を舞台に活躍しました。
江戸の吉原遊廓は現代では存在せず、今後も出現することはありません。本展では、今や失われた吉原遊廓における江戸の文化と芸術について、ワズワース・アテネウム美術館や大英博物館からの里帰り作品を含む、菱川師宣、英一蝶、喜多川歌麿、鳥文斎栄之、酒井抱一、高橋由一などの、国内外の名品の数々で、歴史的に検証し、その全貌に迫ります。
エンタメ大好き!
夏の野外フェス?!「俄」
wayback machineのURLは↓だけど重いので注意。画像などもキャッシュされている。
https://web.archive.org/web/20240206095007/https://daiyoshiwara2024.jp/highlight.html
アメリカに3000年前から伝わる寓話にワシントンと桜の木というものがある。
内容は以下のようになっている。
幼少期のジョージ・ワシントンが斧で父が大切にしていた桜の木を切り倒してしまいました。
ジョージの父はワシントンに「この桜を切ったのは誰だあっ!」と尋ねました。
ジョージは「お父さん、僕がこの斧で桜を切りました」と正直に告白。
ジョージの父はジョージが斧を担いでいるのを見て、怒らずに「正直に言ってえらい」と褒めました。
ということ。
危機意識欠落しすぎてないか。これが日本が誇る軍事組織で本当に大丈夫か。
目の前の相手が自分と同程度には理性的に違いないと勝手に勘違いしてないか?
なんならぶつかりおじさんもそうだ。
相手がいきなりブチ切れて例えば手に持った傘を突き刺してくる可能性だって全然あるのに。
https://www.sanspo.com/article/20190717-MAOSMPAF2NOBFFV5ACYU77EPOQ/
ぶつかったところで睨まれるくらいだろう、と勝手に甘く見積もってないか?
1.
お前はふと思い立って、新幹線に乗ることにする。目的地があるわけではない。お前の人生は常に目的地を欠いている。ただ、新幹線に乗るだけだ。
平日昼の新幹線駅は人影もまばらで、だだっ広く明るく、がらんとした構内がいかにも虚しい。お前は機銃に狙われる歩兵のようにそそくさと券売機に向かう。
知らない駅を目的地に選び、いよいよ購入のボタンを押そうとしたとき、お前は画面になにか小さな生き物が張りついていることに気がつく。お前は目を凝らす。
それは、メチャクチャ小さい蟹だ。メチャクチャ小さい蟹は、お前に向かってハサミを振り上げる。
2.
もともとほとんど散っていた桜は、昨日の雨でいよいよ全滅しただろうな、と、目を覚ますなりお前は思う。外は晴れているようだから、散った桜を見に行こうとお前は思う。お前は基本的に風流を介さないが、介さないなりにものを見たくなることがある。
川沿いに雑に植えられた桜の木は、案の定すべての花をすでに散らしている。アスファルトに張りついた汚らしい花びらやその近くを這う蟻を見て、お前はほくそ笑む。お前の花見は常に陰湿で、傍目に見て華やかさを欠く。
お前は桜の木に目をやる。一本の枝の先に、揺れるなにか赤い生き物の姿を認める。お前は興味をひかれ、それに近づく。
それはメチャクチャ小さい蟹だ。メチャクチャ小さい蟹が、春風に揺られながらお前を見る。お前を見て、ハサミを振り上げる。
3.
いつのまにか切れていたエアコンをつけ直そうとして、お前は停電に気がつく。外気温は最近、35度前後を推移している。お前はため息をついて、いっそ外に出ることにする。
蝉時雨を聞き流しながらお前は歩く。日光が肌を焼くようで、お前の肌には汗が浮かぶ。
お前は家からほど近い図書館に入る。空調は幸いよく効いていて、停電は局所的なものだったのだとお前は知る。
お前は本を読まないから、普段図書館に入ることがない。初めて来るわけではないが、前回来たときとはさまざまなレイアウトが違う。お前は旅行者のようにあたりを見回しながら、居心地のよさそうな席に身を落ち着ける。
“結婚には3つの袋が…”じゃないけど、儀式のあいさつなんて、そんなにオリジナリティが重要?
おれは、“桜の木の樹皮を煮込むと桜色の染料ができる。地味な茶色にみえる樹皮にも桜の生命は息づいているのだ”という主旨のエピソードを、中学と高校の朝礼かなんかでそれぞれの校長から聞いた記憶があるが、まあ世の中そんなものだ。
むしろ、“安倍が葛西紀之のために書いた弔辞”なら、菅はよく知ってたんじゃね?友人であり上司と部下だったわけだし。
つい最近、国葬の喪主の件が増田で指摘されて、図星つかれたはてサが猛反発してたけど、なんかアベガーはてサってずれてるよね。
あ、言っとくけどおれは国葬反対だったし、安倍も菅も嫌いだし支持もしない。
だって“無能な味方”は“身内に潜む敵”だから。ある意味で一番タチが悪いやつ。
やつらが跋扈すればするほど、“安倍氏を支持しなかった人って、変だよね”が強まるだろう。
多くの若者が反安倍に向ける冷ややかな視線は、そういうことだろ?
あと、リテラ。
お前らには“愛の反対は憎しみではなく無関心”という言葉を贈っておく。
この言葉、長らく“マザー・テレサの言葉”とされてたのはデマらしいけど、そんな出典探しは今はどうでもいい。
安倍関連に熱意を持ちすぎ。
もう奴は死んだんだよ。
あとは、静かに眠って二度と蘇らないように祈っとけ。
カゲロウ系は?
セミが本当に本当に嫌い。
他の昆虫、爬虫類、両生類みたいな、友達と話してて「かわいい〜」っていうと「え?」って言われるやつだいたい全部平気だしむしろ好きなのに、何故かセミだけ異常に苦手。
多分羽音とまっすぐ飛べずに人に突っ込んでくるところが苦手なんだと思う。セミが鳥みたいにふわふわしてたら好きになれるのに。ごめんねこんなにdisって。
それなのに、家の近くに大きな桜の木があって、夏になるとそこからセミが家のドアの前に無限供給される。
暑い中家にたどり着いて、さあ入ろうと思うとヤツが待機している。耐えられない。ひどい時には4匹くらいいる。何かセミが好む物質みたいなのが家の前に塗られてたりする?
家の前にいると本当に帰れないので、ネカフェとかに泊まることもある。そのくらい無理。
セミが本当に本当に嫌い。
他の昆虫、爬虫類、両生類みたいな、友達と話してて「かわいい〜」っていうと「え?」って言われるやつだいたい全部平気だしむしろ好きなのに、何故かセミだけ異常に苦手。
多分羽音とまっすぐ飛べずに人に突っ込んでくるところが苦手なんだと思う。セミが鳥みたいにふわふわしてたら好きになれるのに。ごめんねこんなにdisって。
それなのに、家の近くに大きな桜の木があって、夏になるとそこからセミが家のドアの前に無限供給される。
暑い中家にたどり着いて、さあ入ろうと思うとヤツが待機している。耐えられない。ひどい時には4匹くらいいる。何かセミが好む物質みたいなのが家の前に塗られてたりする?
家の前にいると本当に帰れないので、ネカフェとかに泊まることもある。そのくらい無理。
お寺の境内で花見。子供達と私の両親と弟と私で行った。七分咲きくらいだった。早咲きの品種の桜ばかりある。山桜は葉が出始めで、花はまだたった。
去年までは無かった立札があった。桜の枝を折らないでとか根を踏まないでとか、書いてあった。花見に沢山の人達が来るのは今に始まったことではないのだが、去年に何か悪質な悪戯でもあったのか、それともつもり積もった我慢がついに爆発したのか。
お花見ついでにお賽銭箱に賽銭を入れて行く人が幾人か。アラサーくらいのカップルで、女性の方がお賽銭を放り込んだら、男性の方が女性の袖を引いて、なんか文句を言い、それで二人は揃って姿勢を正し、一礼二拍手をしてからまた賽銭を入れた。
境内には桜の他にも花をつけた木が植わっている。細い花弁4枚の、黄色い花をたわわに着けた、枝の細い木があった。それを父が見て、「これはミツマタ」だと孫達に教えていたが完全に間違っている。ミツマタはその花とは似ても似つかない。沈丁花にならちょっと似ている。名前の通り、三つ又に別れた枝の先に花を咲かせる。何でそれを私が知っているのかといえば、うちの庭に生えているからだ。
ミツマタでなければなんなんだ? と問われたが、知らないので答えられないでいると、父は「じゃあやっぱりミツマタじゃないか!」と怒り出し、勝手にそういうことにしてしまった。昔から癖の強い人だったが、歳を取るにつれて、いよいよ悪化していっている。今はなき母方の祖母が庭に植えた芙蓉のことも葵だと言ってきかない。父は祖母のことが嫌いなのでなおさらだ。母は父の言う事を何でも肯定するので、芙蓉と葵どっちだ問題でも父の方を持った。そもそも芙蓉と葵は紛らわしい見た目の花だが、苗木を買った人(祖母)が芙蓉って言ったんだからそうなんじゃねえのかな、知らんけど。
両親と弟が一緒じゃない日にも何度か寺に花見に行った。
ドライブスルーなだけのお花見。二十年以上前、私がこの街に引っ越して来た翌日か翌々日に、この桜並木の桜が満開で、しかも桜祭りが開催されていた。それは絢爛豪華な感じだった。
あれから二十年。当たり前だが桜はとても大きくなり、枝が電線に触れるほどの丈となった。すると近隣住民からの苦情が入るようになったらしく、桜の花や落ち葉が路上に落ちないよう枝を剪定することになった。ところが、それを自治体から依頼された業者が下請けに丸投げし、更に孫請の建設会社に押し付けられたため、単なる素人作業となった。今の桜並木は目も当てられない有様で、何本か枯死した。でも一応はソメイヨシノらしく、沢山の花を咲かせる。あまり見映えはよくないにしろ。桜祭りは、私が見た華やかな歳が開催日に桜が咲いていた、最初で最後の年だったらしい。毎年桜の開花と祭りの日程が合わず、しかも決まって当日に雨の降る冬日となるので、十数年前に祭りは廃止になった。
運動公園の外周には立派な桜の木が何本も植わっている。いつか見に行こうと思っていたのだが、子供達が運動公園を怖がるので、いけないでいた。何故怖がるのかというと、運動公園には地元の少年野球チームやサッカーチームが練習試合をしにやって来るからだ。
広い公園の半分ほどは小さな子供達のためのスペースと散歩者のための遊歩道や憩いの場で、半分がサッカー場と野球場なのだが、練習試合のある時は選手達が広場まで侵出してきてウォームアップをしたり、暇と体力をもて余して走り回っている。彼らは余所見をしながら全力疾走で、幼児たちがよちよち遊ぶ広場を突っ切り、順番待ちをする親子を押し退けて滑り台を駆け上がり、お年寄りの歩く遊歩道をジグザグに走ってゆく。
ある時、子供達を連れて遊んでいたらそこへ野球チームが練習にやって来て広場がしっちゃかめっちゃかになったことがあった。その時子供達は小さかったのだが、よほど恐ろしかったのだろう。いまだにその時の事を覚えているのだ。
コロナのご時世のため、スポーツをしている人達は誰もいなかった。もしかするとグラウンドを団体に貸していないのかもしれない。公園の中をぐるりと一周し、子供達を遊具で遊ばせた。広場の端に、「ここは子どものための広場です。危険ですので野球やサッカーチームの侵入を禁止します。練習やウォームアップ等に使用しないでください」という立札があるのを発見。見たところ、比較的新しい立札だった。
桜の木の下を通ると、ヒヨドリが金切声を上げて飛び立つ。すると、ヒヨドリのいた枝から私達の頭上に、桜の花が花柄ごと降ってきた。地面は鳥に啄まれて落ちた花がびっしり敷き詰められていた。
公園の事務所とラウンジから死角となる場所の桜の木の下で、お爺さん達のグループが酒盛りをしていた。
毎年花見に来るスポット。子供達は、桜の花よりも、芝生を侵食しているクローバーに夢中。四つ葉が欲しいらしい。
昼時から少し外れた時間に来ると、近隣の老人ホームやデイサービスの車が何台も、車椅子に乗ったお年寄りを運んで来る。毎年の光景だ。うちの子供達が赤ん坊の頃から既に恒例行事で、お年寄りを乗せて来る車も毎年同じ施設の名が入っている。しかし毎年ここに花見に来ているお年寄りがいるかどうかは知らない。
家から徒歩で行けるが、住宅街の真ん中でうちから見えるところではないため、何となく行かないまま終わる年もよくある。
満開の花が風に煽られてはらはらと散っているところだった。子供達が花びらを追いかけて、犬みたいに走り回る。風が吹くたびに強い芳香がたつ。どこか近所の家で桜餅を手作りしているのかと思って周囲を見回したら、匂いは桜の樹の下から漂って来るようだった。木根の辺りからひこばえがぼうぼうに生えていて、葉っぱと花を同時に着けている。それが匂うのだ。桜の木の上の部分はソメイヨシノで、枝に着いているのは花だけなのだが、根の部分は大島桜なのだ。つまり、挿し木の土台だった部分がまだ大島桜の性質を遺している。
たぶん、今は公民館の桜を管理している人は誰もいない。数年前までは公民館のすぐそばにある小さな一軒家に住んでいたお爺さんが公民館とその近くの 小さな公園の植物の面倒を見ていた。だが、今はお爺さんの家は空家で、お爺さんの姿はもう長いこと見かけていない。昔はうちの前の通りを散歩して、うちの庭の桜を綺麗だとほめてくれたりした。