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2024-05-19

自然主義文学

国木田独歩氏の『源おじ』は、妻を二人目の出産で失い、残された子を水難で失い、一人で舟渡しを営みつつ老境に至るところを、ある乞食の子との縁があり、我が子と思うように世話するも、乞食からはさしたる恩も情も返されず、夢に出る内心では妻や実子に対する後ろめたさを抱えつつ、ついには乞食に去られ、舟も嵐で失い、生活にも仕事にも支えを失い、首を吊って死ぬという、救いのない話になっている。

だが、まさにこれこそ自然主義文学という感じもした。運命宿命からはみ出ようとする人間意志容赦なく飲み込む決定論世界観を感じさせる。

夏目漱石氏が言うところの「理想」を坂口安吾氏は「モラル」と呼んでいたが、それがないことに対する解釈の違いが興味深い。世間の潮流の移ろいに伴い、自然主義も興亡していったのであろう。

実はこれこれで、あなた金剛石を弁償するため、こんな無理をして、その無理が祟って、今でもこの通りだと、

逐一を述べ立てると先方の女は笑いながら、あの金剛石は練物ですよと云ったそうです。

それでおしまいです。

これは例のモーパッサン氏の作であります

最後の一句は大に振ったもので、定めてモーパッサン氏の大得意なところと思われます

軽薄な巴里社会真相はさもこうあるだろう穿ち得て妙だと手を拍ちたくなるかも知れません。

そこがこの作の理想のあるところで、そこがこの作の不愉快なところであります

よくせきの場合から細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、

もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細君の心行きを活かしてやらなければすまない訳でありましょう。

ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。

積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、

奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何らの報酬モーパッサン氏もしくは読者から得る事ができないようになってしまます

同情を表してやりたくても馬鹿気ているから、表されないのです。

それと云うのは最後の一句があって、作者が妙に穿った軽薄な落ちを作ったからであります

この一句のために、モーパッサン氏は徳義心に富める天下の読者をして、適当なる目的物に同情を表する事ができないようにしてしまいました。

同情を表すべき善行をかきながら、同情を表してはならぬと禁じたのがこの作であります

いくら真相穿つにしても、善の理想をこう害しては、私には賛成できません。

文芸哲学的基礎 夏目漱石

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/755_14963.html

愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐少女が、

森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、

然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁みる風景は、可憐少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、

然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、

決して、不潔とか、不透明というものではありません。

何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります

文学のふるさと 坂口安吾

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

そこで私はこう思わずはいられぬのです。

まりモラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、

我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、

そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。

文学のふるさと 坂口安吾

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

2009-07-18

心について

自然以外に心というものがある。たいていの人はそう思っている。

その心はどこにあるかというと、たいていの人は、自分自分の肉体とその内にある心とであると思っているらしい。

口に出してそういったことを聞いたことはない。しかし、無意識のうちにそう思っているとしか思えない。

そうすると肉体は自然の一部だから、人はふつう心は自然の中にある、それもばらばらに閉じ込められてある、と思っているわけである。

しかし、少数ではあるが、こう思っている人たちもいる。

自然は心の中に在る、それもこんなふうにである

心の中に自然があること、なお大海に一漚の浮かぶがごとし。

このように、自然の中に心があるという仮定と、心の中に自然があるという仮定と二つあるわけであるが、

これはいちおう、どちらと思ってもよいであろう。

しかし人は、自分の本体は自分の心だと思っているのが普通であるから、どちらの仮定をとるかによって、

そのあとはずいぶん変わってくる。

以前、私ははじめの仮定を採用していた。

しかし今は後の仮定を採用している。

心の中に自然があるのだとしか思えないのである。

自然のことはよくわかっているが、心のことはよくわからない。

むかしの人はどうだったか知らないが、今の人はたいていそう思っている。

しかし、本当に自然のことはよくわかっているのだろうか。

たとえば自然は本当に在るのであろうか。

あると思っているだけなのであろうか。

現在自然科学の体系は決して自然の存在を主張し得ない。それを簡単にみるには数学を見ればよい。

数学自然数の「一」とは何であるかを知らない。

ここは数学を不問に付している。

数学がとりあつかうのはそのつぎの問題からである。

すなわち、自然数のような性質を持ったものが在ると仮定しても矛盾は起こらないであろうか。

この辺でまとめることにしようと思う。

これまで書いたことを一口にいえばこうである。

人はふつう、何もわかっていないのに、みなよくわかっていると思っている。

しかし、この最後の一句意味がわかるのは何故であろう。

わたしはもちろん、読む人にもわかると思うから書いているのである。

これは「わかる」とか「思う」とかがわかるのである。

これらはみなこころの働きである。

人という言葉も使っているが、そういう働きをするこころがすなわち人なのである。

デカルトは「自分は考える。故に自分というものはあるのだ」といっている。

そうするとやはりこころが先であって、こころの中に自然があるのである。

実際はそうしていながら、その反対を仮定しているのである。

これを押しとおすと全体が仮定になってしまうだろう。

いくら書きつづけても、結局「自分は何もわからない」ということを書くだけである。

では、その自分とは何であろう。

これまで書いてきた心の働きの中で、全体をしめくくっている字をさがし出してみよう。

これはわけなくできる。

「思う」というのがそれである。

こころのこの働きを、ギリシア人にしたがって分類すれば「情」である。

人の主体は情であるらしい。

わたしはそう思ったから、この情を精密に見ようとして「情緒」という言葉を作ったのである。

この言葉は前からあるが、内容はそれとはだいぶちがう。

そしてこの情緒をもとにして全体を見直そうとしているのである。

わたしにはすべては「そうであるか、そうではないか」の問題ではなく、

「それで心が安定して心の喜びも感じられるかどうか」の問題なのだと思える。

宗教的方法を許容しないかぎり、それより仕方がないのではないだろうか。

 
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