はてなキーワード: 区画整理とは
特に、区画整理された土地を訪れると、その痕跡が一切消去され、キレイな碁盤の目になってたりすると、がっかりする。
史跡にはあんなにも予算が付けられ、維持管理されているのに、旧道の扱いはあまりにも不憫だ。
著名な旧道を含む地域は、この記憶を次世代に受け継ぐことができるように、区画整理を禁止してはどうだろうか。
というか、発展なんかするなとさえ思う。歴史的痕跡を消すことは一切許されるべきではない。
歴史を守ることこそ、その地域が存在しうる最大の目的であり、それを失った地域など何の意味があるのか。
国や市町村も歴史を守るためには躊躇なく予算を割り振るべきだ。歴史を消す開発は差し止めるべきだ。
私は歴史が大好きだし、その地域の人間も歴史を愛してやまない人がいるはずで、そういうサイレントマジョリティが無視されてきてると思う。
一般社団法人一般財団法人相互会社生活衛生同業組合連合会生活衛生同業小組合共済水産業協同組合連合会漁協連合会漁業生産組合商工組合連合会商店街振興組合連合会消費生活協同組合連合会信用金庫連合会森林組合連合会水産加工業協同組合連合会生産森林組合船主相互保険組合たばこ耕作組合中小企業等協同組合事業協同組合事業協同小組合信用協同組合協同組合連合会企業組合内航海運組合連合会農協連合会農事組合法人農林中金輸出組合輸出水産業組合輸入組合労働金庫連合会特定非営利活動法人認定特定非営利活動法人公益社団法人公益財団法人学校法人医療法人宗教法人社会福祉法人貸金業協会委託者保護基金管理組合法人企業年金基金連合会危険物保安技術協会行政書士会連合会漁業共済組合連合会漁業信用基金協会漁船保険組合中央会勤労者財産形成基金軽自動車検査協会健康保険組合連合会原賠支援機構原発環境整備機構高圧ガス保安協会広域的運営推進機関広域臨海環境整備センター更生保護法人小型船舶検査機構国家公務員共済組合連合会国民健康保険組合連合会国民年金基金連合会市街地再開発組合自動車安全運転センター司法書士会連合会社会保険労務士会連合会住宅街区整備組合酒造組合中央会連合会酒販組合中央会連合会商工会連合会商工会議所日本商工会議所商工組合連合会商品先物取引協会消防団員等公務災害補償等共済基金職員団体職業訓練法人信用保証協会生活衛生同業組合連合会政党税理士会日税連石炭鉱業年金基金全国健康保険協会船員災害防止協会全国市町村職員共済組合連合会損害保険料率算出団体地方競馬全国協会地方公務員共済組合連合会地方公務員災害補償基金中央職業能力開発協会中央労働災害防止協会中小企業団体中央会投資者保護基金独立行政法人土地改良事業団体連合会土地家屋調査士会連合会都道府県職業能力開発協会日本勤労者住宅協会日本公認会計士協会日本消防検定協会日本私立学校振興共済事業団日赤日本電気計器検定所日本弁理士会認可金融商品取引業協会認可地縁団体農業共済組合連合会農業信用基金協会農水産業協同組合貯金保険機構負債整理組合弁護士会日弁連防災街区整備事業組合保険契約者保護機構マンション建替組合マンション敷地売却組合水先人会連合会輸出組合輸入組合預金保険機構労働組合労働災害防止協会沖縄振興開発金融公庫国際協力銀行政策公庫港務局国立大学法人社会保険診療報酬支払基金水害予防組合水害予防組合連合大学共同利用機関法人地方公共団体地方公共団体金融機構地方公共団体情報システム機構地方税共同機構地方住宅供給公社地方道路公社地方独立行政法人財務大臣指定の独立行政法人土地開発公社土地改良区連合土地区画整理組合日本下水道事業団日本司法支援センターJRA日本年金機構「あんた馬鹿!?」
その一 https://anond.hatelabo.jp/20240318182037
東口の地下に何やら変な駐輪場があるのだが、実はこれは1990年までは地下街であったのだ。出来たのは1960年代のはず。
天井低くてしょぼいし店舗も狭いし店も昭和中期っぽくて古いしで、テコ入れされないままに90年に廃止。
というのも、90年にそごうが出来る事になったので、橋上駅の高さのままにデパートに入れるペデストリアンデッキを築造し、地下じゃなくて上の方で発展させる方向になったのやね。
で、駅の真ん前のデッキの基礎を建てるには地下街通路が邪魔。って事で、通路を閉鎖してデッキ基礎が貫通する形になった。残りの部分は店舗仕切りなどを取っ払って駐輪場へ。
なので一部閉鎖区画があって鉄板や木の板で塞がれているのだ。増田はここにどうにかして侵入できないかを昔から考えているのであった。
ちょっとあるよ。
本来、東アジア反日武装戦線「狼」はお召列車爆破と昭和天皇暗殺を狙っていた。場所は東北本線貨物線荒川鉄橋。
1968年まで赤羽以北の東北本線は貨客混合の複線だったが、輸送力増強の為に複々線化されて貨客分離された。これでお召列車は貨物線を走るようになった。原宿駅のお召列車ホーム自体が山手貨物線に接続されているから。
そうすると、貨物線橋梁爆破しても一般人に危害は与えないという事になる。そこで一味は爆弾設置の為に電線を設置しにいくが、人影があり、付近を徘徊しているので恐れて中止した。
そこで目標を変更して三菱重工爆破事件に至ったというワケ。元の一般人への危害回避はどこに行ったんだ。川口の乗越線はやっぱりこの貨客分離が元だから関係があると言えば関係がある。
wikipediaの虹作戦の項には「爆弾を仕掛けようとしたのは旅客線」と書いてあるが、これは間違いじゃないかと思う。そこは間違えんだろうし、増田が聞いていた話と違う。
東口駅前のそごうはそごう西武グループが売却してゴーストビルのままになってるが、三井が取得する見通しと、去年市議会で報告があった。三井という事はララガーデンとかららなんとかとかららクロフトとかになるのかと思われる。
しかしデパートというのはハイコスト、ハイリターンの業態に合わせた建物で、コストがメチャクチャかかるんだな。それは冷暖房費やエレベーター、エスカレータなどもそうだし、搬入口が狭くて外部の納品代行業者経由で整理して混載で搬入するのでないとパンクするっていうのもある。
だから巨大ダイソー一棟貸しみたいなのなら行けるが、色んなテナントが入って納品代行は使わないっていうのは無理など、難点が多いのだ。
そもそもデパートの損益分岐点って日商4000万円とかそういうレベルなんでショッピングモールなんかに入るテナントと業態が合わないのだ。
だからどうなんのかなと様子見。結局開店が流れちゃう可能性もあるね。
SLあおば通りって道があって、ファミマのSLあおば通り店っていうのもありhttps://maps.app.goo.gl/fWvvCmGbAjvhLPZw6 、道筋にはSLのオブジェとかもある。
でもこれインチキなんだよね。ここに線路があった事ってないんだ。
アリオは元はビール工場で、そこと川口貨物駅の間にユニオンビール専用線という貨物線があった。でもその専用線は現線路に平行していてJRが保線基地に使ってる。
そこでビール工場跡を再開発するにあたり、専用線跡を記念するオブジェを配置したい、でも専用線跡はJRが使ってる…って事で隣の道を指定しちゃったと思われるのね。こういうのは混乱の元だから止めて欲しいですな。
あるね。https://maps.app.goo.gl/dGPVNnEXP6hMg3n26
植物の繁茂で全然読めないが、実は同じものが陸橋の西詰にあるよ。https://maps.app.goo.gl/GNdf7d4UP3eT9aYj7
石碑の内容は、整圃事業の謝辞だよ。戦争中にまだ農地ばかりだった駅付近一帯を碁盤目状に土地の区画整理をして、その協力した地主達を名上げして感謝している。川口は江戸から離れ鋳鉄で栄え舟運で製品を出荷してやがて鉄道が来て~という事を漢文で書いてある。
この区画整理を戦前にやっておいたせいで、戦後に鉄の民需が爆上がりした時に鋳鉄工場が大量に出来て鉄の街となったのだな。
また、最初の碑がある場所というのは実は大踏切があった場所だ。駅の方から来た道が斜めに線路群を渡り、対面の斜めの道に踏切で抜けていた。
でもこれは当然危ないわけで、昭和30年代に埼玉県は荒川~大宮間の踏切を全部立体交差にする工事をしたのだ。それでこの大踏切も廃止になって代わりにこの北の川口陸橋が掛けられた。
因みにこの陸橋の開通セレモニーでは神主が来てお清めしてから神主が渡り初めをしているのが写真に残っている。
だから王子から赤羽には踏切が幾つか残っているのにその北の大宮には踏切が無いのだ。
多分西詰の石碑は元は大踏切の反対側にあったのがこの時に移動されたのではと思う。
タワマンというのは住宅地には建てられないの。日影規制もあるし、日照権も主張できるからあとから訴訟になる。
でも商業地や工業地ではそれらは主張できない。だから工業地帯から転換した地域はタワマンに最適というか、それ以外では建築が難しいの。
更にタワマンには建物の周りに公開空地を設けないとイケないのだが、「大規模な町工場」というのはこれで必要とされる広さに丁度いいのだ。
そういう訳で、川口にある〇〇製鉄、○○鋳造なんて名前の会社は、多くがもう工場を持ってないか縮小して他所に移転していて、不動産業メインの会社ばかりになってる。
日本初のタワマンは川口元郷のエルザタワー32なんだけど、ここは日本ピストンリングというエンジン部品を造っていた会社の工場だったところ。
因みにピストンリングは昔は鋳鉄を丸く繰り抜いたものが使われていた。鋳鉄には細かな穴が沢山あるのでここにオイルを保持して焼付き防止になっていたのだ。って事でやはり川口なので鋳鉄なのだ。
その丸井が閉店になって共同所有になり、ビるの愛称を決めた。もとが0101だから1110って訳でシャレや。
駅西口から徒歩7分くらいの所に飯塚氷川神社という神社がある。https://maps.app.goo.gl/fKh6qXTZGCNTYGRE9
ここだが、境内に結構古い社務所があるのだが、なんとこの社務所、選挙の投票所に指定されている。中は畳と板張りなんだが、そこに土足で入れるようにシートを敷いて投票箱と記帳所を置いて公職選挙が行われる。
すげえ田舎や離島で神社が投票所というのはあるだろうが、東京都境から徒歩10分、駅で一駅のタワマン林立地帯でこんな投票所があるというのは珍しいんじゃないか?
好事家の皆さんは選挙の日に覗きに来てはどうだろうか?
何?じゃなくて教習所や。元々地産グループの教習所だったが、グループ首魁が逮捕された影響で元会社が倒産、売りに出されて飛鳥ドライビングカレッジとなっている。
ここだが、ちさん時代から教習料が安いのが特長。都心から近いのに首都圏で一番安いという穴場なんだな。免許取りたい人はイイゾーここ。
因みに2019年台風19号の増水ではコースが7mの泥水の底になって、後にはコースも見えない泥の沼が残り、教員たち総出で泣き泣き泥かきをしたそうだ。
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638
巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋駅から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。
一番反対したのは洋菓子店のタカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。
これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン。
地下道は都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。
しかし地下道入口に東急ハンズがオープンすると付近にカメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル、映画館が誕生し、池袋駅東口~東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。
90年代にJRAは女性をターゲットとしたCMを打つなど競馬のイメージアップに努めてはいた。
だが池袋駅東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージの悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRAは土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロンや飲食室などを設ける大規模な計画だった。
この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗の第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在のLABIとなり、池袋の家電激戦区っぷりに火を注いだ。
米軍が接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地や家屋に収用が掛かった。
これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地内侵入などの事件が起こり大騒動になった。
憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件。
この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍は立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町の横田基地に集約する事を決定。立川飛行場は日本に返還される事になった。
箱根ヶ崎付近の八高線と国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である。
返還された立川飛行場は学校や研究所、法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。
真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。
なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7
(よく見ると滑走路アプローチの>>>>のペイントがうっすら残る)
東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音と振動が問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線のゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。
そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民の利益にもなるスキームにした。
この為に赤羽~大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮駅北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。
なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。
空襲焼失地区の戦後の復興は東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。
そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的な方法を試す事にした。
しかし優越な資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。
しかし建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火と風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。
戦後の歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。
しかし高田馬場を始発駅とする西武新宿線が新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町の付近に仮駅を設置された。
当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地を勝手に占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しかも権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。
その為に歌舞伎町の地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。
そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。
ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638
流山は常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。
田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦、牛久沼、手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。
問題は北千住から柏で、今の南回り松戸ルート、八潮→三郷→流山の北回りルート(TXコース)がある。
でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川、古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウンの南側は田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮の市街で出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車の振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。
だから日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ。
日光御成街道の宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市に吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし
これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。
日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。
上野駅を出た京浜東北線(大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。
地球の海面は氷河期には氷河や南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。
縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野は海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)
海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである。
すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである。
つまり、上野~赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。
波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。
上野~赤羽では小規模な波蝕台が連続し京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。
この波蝕台跡は他の低地より少し高いから田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。
陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である。北海道標津の野付半島や京都の天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。
この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴は江戸時代の荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。
当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防(曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。
川口町駅からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。
南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。
浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である。
大宮から先も小さいカーブで芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体が芸術点高いルートを通っているのでこの区間はコピー忍者って感じだ。
このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。
文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?
お雇い外国人の英国人の力だけではない。江戸時代に新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ。
台地上に水田を作る場合、もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。
やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。
更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側から何センチ下/上がっているかが判る。
これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。
という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。
山手線の駅と方角くらいはなんとなくでも知っておくといいかもね
永田町:政治家の魔窟。国会議事堂をはじめ首相官邸など政治関係の主要機関が集中している
霞が関:官公庁のこと。各中央省庁の庁舎が集中している。永田町の隣
市ヶ谷:防衛省と自衛隊。高級住宅街でいい所だけど有事の際は優先破壊目標になるので市ヶ谷周辺は個人的にはお奨めしない
桜田門:警視庁本部がある。霞が関にあるがその特殊性で区別されている。桜田門駅がある
代々木:共産党本部がある。ちなみに自民党本部は永田町。そういえば代々木アニメーション学院は水道橋へ移転しちゃったね
兜町:証券界隈の代名詞。日本橋兜町に東京証券取引所がある。最寄り駅は日本橋ではなく茅場町なので気を付けよう
大手町:ビジネス街。大手町駅はリアルに「8番出口」が楽しめる。東京駅に直結しているが15分くらい歩かされる乗換案内の罠に嵌る地方民が後を絶たない
丸の内:東京駅前のビジネス街。丸ビルがある。オフィスレディ発祥の地でありキャリアウーマン憧れの地。皇居の目の前
八重洲:丸の内から駅を挟んで反対側、日本橋方面。小路や老舗が多かったが区画整理中で丸の内のようなオフィス街になりつつある。近辺のビルは地下街で繋がっているので傘も外套も要らない
有楽町:ビジネス街であり商業地でもある。丸の内から銀座へと続くグラデーションを成す緩衝地帯で雑多な賑わいがある。大手町・丸の内・有楽町で大丸有地区とも
銀座:老舗の多い高級繁華街……だったが区画整理やコロナ禍でコンセプトが迷子になっている。若者はとりあえずGINZA SIXに行っておこう
歌舞伎町:新宿にある日本最大の歓楽街。ここで泥酔すると色々な物を失う。明け方になると道に人がいっぱい落ちてるけど平常運転なので放っておこう
新宿二丁目:単に二丁目とも。ゲイバーが集中しているのでそういう意味で使われる
有明:ビッグサイト(東京国際展示場)。コミケで有名だけどビジネス展示で営業マンとか技術者とかなら行く機会がそこそこあるはず
五反田:ピンク街。お金はあんまりないけどお姉さんたちと遊びたい人たちが行くところ
徒然に書いてみたらあまりに多いので切る
地震やでかい台風といった大きな自然災害が発生すると、被災地の復興に税金突っ込む事に反対する人たちがでてくる。
「過疎化する地方のインフラに投資したり維持費を払うのは無駄!」みたいなやつ。
まあ考え方は人それぞれだからいいとして、集約って言葉をマジックワードみたいに扱ってることが気になってる。
「農村部に散らばった人口を近隣の地方都市に集約して効率化! インフラ維持費軽減!」みたいなやつね。
確かに散らばってる人口を集約できれば、色々と効率的になるとは思うよ。
でもこの手の意見って、人口を集約する際にもインフラ投資を行う必要があるって事を見落としてる様に感じるんだ。
当たり前のことなんだけど住んでる人が引っ越したとしても、その人達が耕してた農地まで移住先に付いてくる訳じゃない。
農業会社を立ち上げ、既存の農家から農地を買い上げて農地の区画整理を行ったとしても、土地そのものを動かせる訳じゃない。
となると農業会社に雇われた人が、地方都市から農地に通勤して農業やる様になる訳だ。
そうなったら既存の貧弱なインフラでは仕事が成り立たないケースがほとんどだと思うんよ。
既存の貧弱なインフラでも妥協できてたのって、農業従事者が農地のすぐそばに住んでるからなんだ。
農地と離れて住む様になるなら、広くて立派な広域農道作ったり、収穫物の選別や洗浄、梱包を行う集荷場を新しくしたりといった投資が必要になる。
害獣対策や野菜泥棒などへの対策や、土砂災害などの早期発見も農地に隣接して人が住んでいるから可能な事が多いと思う。
人の目が無くなるなら代わりに機械の目を、監視カメラやセンサーを設置したりドローンを定期的に飛ばしたりといった対策が必要になるし、それらを扱える人材の育成も必要だ。
農村部の人口集約と効率化を推し進めるにはハード、ソフト両方に結構な投資が必要だと俺は思うんだけど、果たして都会の人達はこういう事へ税金を使う事を許容するんだろうか?
ぶっちゃけ田舎への投資を無駄と考えていて、その無駄を減らしたいなら現状維持が一番だと思うよ。
災害が発生した時に復興予算とか組まれたとしても、どうせ東日本大震災の時みたいに予算を流用して都会に流れる様になるでしょ。
そもそも大規模なインフラ整備を行うのは大手ゼネコンで、大手ゼネコンの本社は大抵東京にあるんだから公共事業の美味しい部分をほぼ東京が独占してる訳だしね。
一票の格差が是正されて国政への都会の発言力が強化されていけば、ますますこの傾向は強まっていくだろう。
正直なところ、災害時に田舎の復興にいちいち文句つける人達の意図がイマイチよく分からない。
雄弁は銀、沈黙は金じゃないけど、現状のまま放置しておけば田舎の被災地に流れる税金はどんどん減っていくのに、わざわざ騒ぎ立てて無駄に論争を引き起こしている様に見える。
そんなことに労力を割くよりも、田舎が滅んだ後に都会でも可能な食料生産技術(昆虫食とかミドリムシとか?)への投資を議論した方が都会の人達にとっては建設的なんじゃないかと思う。
元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559
地下鉄南北線に志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。
関東大震災後に人口が流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。
後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。
関東大震災後に東京近郊は下町からの移住で人口が増え始め、川口町と合併して川口市になる横曽根も人口が増える前に区画整理をする事になった。
横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなりな小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側の新田は「仁志町」とした。
仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。
だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。
「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである。
余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。
先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。
東上線の中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道の上板橋宿跡である。
大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要な下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車の単線運転だから交換用の駅で距離もその程度が適当だった。
だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当な地名も無い。
だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋と上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。
でも下と上の中間の板橋だから中でしょと「中板橋」駅としてしまった。
すると上板橋が上板橋駅付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。
地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。
元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。
今の西口付近はその名も「上」という小字の場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。
だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。
そもそも下上って何なのか?
葛飾区と足立区の区界を見ると綾瀬駅の付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。
荒川放水路が出来るまでは堀切駅の付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。
一方、江戸時代に水墨画が流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド的価値を持つようになった。
隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府は隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。
するといい景色なので山水画や浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。
その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。
隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。
中仙道の板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋駅から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿(下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。
鉄道道路の時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。
下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。
吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。
十条と呼ばれる地区には北側に上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である。江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。
両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである。
明治になりその十条の西の方に現赤羽線(埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。
次に東北本線(京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。
ところが昭和に住居表示で町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。
それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。
こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。
そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。
ここを東急電鉄の後藤慶太のデベロッパが買い上げ高級住宅地「田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。
「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤が田舎に住んで都会に鉄道で通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドンは児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染、ゴミや糞便に混じって死体も流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイルが流行した。
昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線の調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称。
だがその僅か五年後には荏原郡自体が東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。
初めは東急(の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地だけが田園調布だったが、住居表記施行で町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/forbesjapan.com/articles/detail/65449
・技術開発が優先
これ見て「あ、これは事故減らないな」と思った。
まず、自動運転プログラムが優先するのは法律と金であって命ではない。
たとえば損害賠償金額とプログラム修正の経費を天秤にかけて、損害賠償を負担したほうが経費がかからないと判断したらそっちを選ぶ。
車種が1,2種類で実験してるうちはともかく、法規制が変わるたび(法律の違う国へ輸出するたび)、
車種が増えるたび、あるいは原価見直しで部品を入れ替えるたび、
途上国あたりにもっていくとき、この国なら修正より人の命のほうが安いと判断したら、修正の手間をケチるよね。
第二に、プログラミングの話だけしてる点。実車の整備状況とか考える気がなさげ。
でも、実際に事故に結びつくのはタイヤやブレーキパッドが酷使されてたりの整備不良だったりする。
そのへんを自動車の管理事業者が経費削減でケチったら普通に事故率上がるよね。
今は整備不良含め、自動車のコントロールは全部運転者、事業会社の責任になってるけど、
自動運転普及後はおそらく企業間の責任関係の押し付け合いになるはず。
今はさ、運転する個人ってのがいちばん政治力が弱いから運転主の責任が重い、その運転主を雇ってる会社が悪いってなるわけだけど、
その弱者としての運転者個人が消えたら、最大の弱者は事故被害者という個人になる。
政治力の圧倒的な差で、メーカーも運営事業者も、免責の領域が拡大するんじゃないですかね。
第三に、事故についての基準が「事故の絶対数を減らす」ではなく「人間が運転するより事故率が低い」で判断してる。
これも、「人間が運転する際の事故率」、どこを見て判断するんだろう?
令和5年だろうか。昭和30年だろうか。
本来なら、現時点の、最新のセーフティ装備での、同クラス車種、同一エリア内での対比をみるべきだろうけど。
たとえば自動運転が完全普及するのが2040年だと仮定するなら、2040年時点での最良の運転アシスト機能付き人間運転手との対比だね。
けど、自動運転オンリーになったら、その対比先の「人間が運転した場合」はどこになるんだろう。
その後、自動運転の事故率にあわせて、「人間が運転する場合の事故率」も、なぜかちょっとづつ変わって、
2050年あたりには、気が付いたら「昭和30年代、40年代の事故率より低い」なんてのが自動運転の事故基準になってるんじゃないかな。
たぶんそういう図表を見てブクマカは「科学的だ!」って言うんだろうな。そうなりゃ、もう勝負は決まり。
ブクマで何を言っても何でも星つく。
路上を徒歩で移動すること自体が悪い、必ず自動車に乗れ、そもそも外出するな、あたりは言いそう。
自動運転向けに整備されない道路行政が悪い、未整備道路があるようなエリアに住むこと自体が悪い、言いそうだね。
日本の敗因は自動運転に適した国土、区画整理を整備しなかったことにある、経済評論家が言いそう。
丸いお皿の一部が欠けてパックマンの口のようになっている。
でも、普段はそのことに気づくことはない。
さすがに、全部丸ごと覚えていないなんてことはない。
(あと数十年経てばそうなるのかもしれないが)
だいたい覚えてはいるのだ。
しかし、こんなところあったっけ?
という部分が何箇所か出てくる。
そして場合によっては、これどっちに行けばいいのだ?
とわかなくなる記憶の欠損箇所が現れたりする。
と疑うが、見覚えのある民家とか公園があるからそういうわけでもない。
つまり忘れたのだ。
歳をとってしまったのだ。
いま現在、毎日通る道を覚えていないとかそういうわけではないからだ。
しかし、そんなことはない。
確実に記憶は欠損する。
お皿は日々欠けていくのだ。
今日「完全に理解した」になったので、その感覚を忘れないように書いておく。
清掃・整理・整頓の違いを把握し、その中のどれを今やっているのかを意識する。
整理→物に住所が振られている状態
整頓→住所通りに物がある状態
例1:クリーニングされた家に引っ越した直後 清掃◯ 整理☓ 整頓☓
例2:整理整頓された状態で長年放置されたホコリまみれの蔵 清掃☓ 整理◯ 整頓△ (カビが生えて捨てるべきものが居座っている可能性があるので整頓は△(ゴミの正しい住所はゴミ捨て場なので))
散らかっている部屋は物の住所がすでにグチャグチャの無法地帯。
各地に住所不定の輩が跋扈し、その半分ぐらいが住所不定無職になっている終わっている状態。
整理整頓されていなくても清掃はある程度出来るので、「汚いけど生ゴミが放置されているわけではないので暮らすことは可能」みたいな状態で住み続けられてしまう。
その状態を解決するには、「物に住所を割り振る」という作業が必要になるが、ある程度以上混沌が続くと各地で物が独立自治区を作り出してしまい、区画整理に混乱が起きる。
脳のリソース消費が軽減される。
物の場所が分かりにくいと、日常的に物を探すために思考力・想像力・判断力が無駄遣いされる。
脳に疲労が蓄積するので様々な行動の効率が下がるし、ストレスも溜まりやすい。
消費期限の管理が難しくなったり、同じものを複数買ってしまったりで、金銭的にも無駄が起きやすい。
床やベッドの上に「空きスペース」と「整理が終わってないものを集積する場所」を一つずつ確保する。
もしも床が完全に埋まっている状態であっても、部屋を半分に割って片方に全部積み上げていけば自動的に「空きスペース」「集積場」に分離できる。
空きスペースに空のダンボール箱やビニール袋を大量に用意する。
「集積場」にあるものを属性ごとにダンボール箱やビニール袋に分けていく。
属性の例:「化粧品」「医薬品」「食べ物」「電池」「文房具」「書類」「衣類」「洗濯物」「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」「メルカリ行き」
とにかく全てのものを何らかの属性で分けていき、どうしても既存の属性に収まらないと思ったらいつまでも悩まずに新しい属性を作り出す。
どうしようもないと思っても一種類ずつ小さなビニールに入れてしまった方がいい。
そのうち仲間が見つかるかも知れないし、そのときに少しでも区分けされていた方が住所を決めるときや、いっそ捨てるべきと判断したときに少し楽になる。
部屋が散らばってくると同じものがいくつも見つかるので(特に日用品)、それらを一種類ずつビニール袋にぶっこめているだけでも十分状況が改善している。
床に散らばっているものが整理し終わったら収納スペースに入っているものを集積場に全部出してしまい、これも属性ごとに分けていく。
これによって空になった収納スペースが出てくるので、その中に属性ごとに一箇所にまとめて入れていってしまう。
住所の再配置をするときは導線を意識し、前そこに何を入れていたかに囚われすぎない方がいい。
例:洗剤なら絶対にシンクの上に置く。新しく買ったら新品も古いものと並べてシンクの上に。
収納スペースが属性の数に対して不足していると感じたら新しく収納スペースを購入する。
「電池」のような小さな属性のものはジップロックにでも入れて、「電気製品」スペースに一緒に入れるとかしてもいい。
同じものを複数持っていることが判明した場合、一度に使うのが一つだからといって「保管スペース」なんかを作るとあとで散らかっていく。
詰め替えボトルと詰替え用パックも同じ場所に置いてしまった方が合計残量が常に確認できるので買い忘れ等が減る(その結果、不安になって買いすぎて散らかるのが減る)。
複数あっても意味がないもの、いくつか持っていてもいいけど持ちすぎているものは処分する。
ゴミはさっさとゴミ袋に入れてしまい、メルカリに出すようなものは「メルカリ待ちスペース」を確保してそこに集積しておく。
アイスを買ったら急いで冷凍庫に入れるのと同じぐらいのスピードで新しく買った連中の住所不定無職を防ぐ。
一度住所を決めてしまうことのメリットは、出したけどしまってない状態なのか、実はそこが定位置でもいいのかが曖昧になってること。
集合住宅で夕方に窓を開けているとそれぞれのおうちから夕飯を準備する香りが漂ってくる。
それは卵を炒める香りだったり魚を焼く香りだったりで嗅いでいると平和的な気持ちになるので、夕方はこっそりベランダ近くに座りくんくん鼻を鳴らしていた。
明らかに牛肉を香草と一緒に料理する香りだったりなかなかの量のニンニクを使っている香りだったりと、今までの家庭的で平和な料理とは空気の複雑さが違う。
ここに住んで数年経つがこんなに食欲をそそられる香りがしてくる魔の時間帯は初めてだ。
ところで6歳離れた弟家族が区画整理を事情に我が住宅の2階に数ヶ月前から住みはじめた。
弟は私の唯一のプレステのフレンドでもある。彼がログインするとプレステアプリが通知で知らせてくる。
彼はここ5年ほどずっとグラセフオンラインしかしなくなって姉は実は心配している。
お姉ちゃんが発売日からやってるフォールアウト76も楽しいぞ…?
そんな弟だが彼は元シェフだ。今は別の仕事をしている。夜中からの仕事だ。
今日やっと上記のシナプスがつながって急いで電話してみたら弟は自宅にいた。料理中だ。
たまにおこぼれをありがたく貰い受けていたけれど、荒ぶる香りの正体に気がつくまで時間がかかったことに己れの老化を感じた。因みにおこぼれは可愛い姪がふたりで持ってきてくれる。ずっといてくれ。
逆に、名前が挙がるがやめておいた方がいいのは、長野市(移住者の受け入れが下手くそで排他的。例の公園の件とかクソすぎでしょ?)小布施町(遊びに行くにはいいが、居住するとアホみたいなルールが山ほどあってたのしくない。陸の孤島) 上田市(地方中堅企業がいくつか立地していて、それに合わせた何の変哲も無いコピペ都市。仕事はあるのでその点だけで移住者に人気)諏訪市(湖がドカンとあるので車が無いと暮らせない。中途半端に観光地になっていて観光地の悪いところばかり目立ち、松本市に対して選ぶ理由が無い)飯田市(コンパクトにまとまっているが交通の便が超絶に悪すぎて同じ日本とは思えない。伊那市に対して選ぶ理由がない)は上げておく。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/184126
四季の丘はその名の通り、なだらかな丘に整備された団地で、市役所から北東に約一キロと便利な場所にある。人口は約二千七百人だが、下水道の整備計画は約七百人で立てられていた。
業者は役所を信じずに人口動態調査や施設計画も調査して見積もるべきだったとか
これは不幸な事故なんだよ
まず業者は悪くない
次に担当者だが、市の平均的な人口密度で計算してしまった事の過失責任がどの程度かだね
誰にもそういう事の一回や二回はあるだろ?
たまさか、結果として4億の話になっただけだ
おめでとう、君らが望んだ引責辞任は為されているよ
そうでなくても、他の人に比べて重い懲戒処理がされてる
「なんで、そんなことが起きるんだ」「しっかりやってもらいたい」
出席希望者が多く、予定していなかった午後にも開催。
会場になった集会所がある同市の住宅団地「四季の丘はたそめ」では、四月十八日にマンホール一カ所から下水が十五分ほどの間あふれていた。
結果として4億の税負担だ
マジで言ってるのか?
買い物に行こうと車を運転中、道路の真ん中に仔猫の死体があるのを見つけた。車にはねられたようだ。朝ここを通った時には見なかったし原形を留めているので、まだ死んで時間は経ってないのかなと思った。買い物から帰ってきてもそのままだったら拾おうと思って出掛けた。
買い物中も罪悪感がすごかった。やっぱり見た時点で家に引き返して、空き箱持って駆けつければよかったかなぁ、と。もし買い物してる間に仔猫が再び轢かれて猫煎餅化してたら、どうするんだ。さすがに平たくなった猫を道路から引き剥がす勇気は私にはない。
ふがいないなぁ。形を保った仔猫は拾えて猫煎餅は拾えないというのか、猫は猫だぞ! しかし、私どうしてもスプラッターはダメなもので。
帰宅するとき、同じ道を通ったら、猫は先ほどと変わらぬ状態で横たわっていた。通る車達は仔猫に気づくと大回りして避けていた。そうして猫煎餅は回避されていた。
家に帰って買ったものを全部冷蔵庫にしまってから、段ボールの空き箱の中に新聞紙敷いたやつと軍手を持って、現場に駆けつけた。仔猫はやっぱりそのまま倒れていた。よく見たら、猫の周囲のあちこちに血が飛び散っていて、車にはねられた直後はまだ息があってしばらくのたうち回ったのかもしれない。
幸いにも車は一台も通らない。私は覚悟を決めて軍手をはめ猫を持ち上げた、その時初めて、持ってきた箱が仔猫のサイズに地味に合ってないことに気づいた。あっヤベェ、どう入れたらいいんだこれ、と捧げ持った猫を傾けたら、耳からどぼっと血が溢れて箱の蓋に垂れた。これ以上斜めの体勢で持ってたら、血だけじゃなくてなんかもっと出て欲しくないものが出てきそうだと思って、半ば強引に猫を箱の中に突っ込んだ。頭から猫は箱の中に落ち、案の定足が大幅に箱からはみ出た。
仔猫は茶色のしましま模様だった。生前はさぞかし可愛かったんだろうが、死体はやけに薄汚れて見えた。足の毛づやが良く、痩せてもいないので、ちゃんとご飯を食べさせてもらっていたと思われる。
半開きの猫の右目のまぶたの中身が無い気がするんだよな……と思いつつ、私は箱を抱えて歩いた。
実は、この事故現場からほんの数歩のところで、去年同じようなしましま模様で同じような体格の仔猫がやっぱり車に跳ねられて死んでいて、それを私はやっぱり拾いにいったんだけれども、近所のお婆さん達がそこに集まってなんやかんや言っていたので断念した。
近所のお婆さんが言うには、この近くに猫を餌付けしているおうちがあって、たぶん死んだ仔猫もその家の人が餌をやっていた猫たちのうちの一匹だという。それを教えてくれたお婆さんは、
といった。猫の死骸は餌付けしている人に責任を取らせればいいとお婆さん達は言って、一人が餌付け人の家に言ってドアをガンガン叩いて家の人を呼び出し文句を言っていた。そんなわけで、その仔猫は餌付け人か誰かが引き取ったか捨てたかしたらしく、数時間後にはなくなっていた。
私が今日拾った仔猫は去年のあの仔猫の弟か妹なのかもしれない。見た目がほんとうに良く似ていた。
今日はお婆さん達はいないから誰にも文句は言われないはずだ。私は箱を持って餌付け人のおうちの前を通りかかった。餌付け人も猫可愛さに餌をやってるんだろうし、最後のお別れくらいしたいのではないか? と思った。仔猫だって、餌をくれる人間が好きだろうし、じぶんを葬ってくれる人間を選べるんなら通りすがりの他人よりも馴れた人がいいんじゃないか。
だけど私は猫の死体を家まで持って帰った。そして、役場の環境課に電話をかけて、死んだ猫を拾ったがどこに捨てればいいのか教えて欲しいと言った。電話に出た人は、クリーンセンターで処分を受け付けているから直接センターに持ち込んでくれないかと言った。それで、今すぐに行っていいかと私が聞くと、大丈夫だというので、私は猫を箱ごと燃えるゴミ袋に入れて、車の助手席に置いた。
せっかく猫煎餅を回避したのにゴミ袋に入れてゴミ焼却所に持っていくだなんて、これはこれで酷いよなと思うのだが、この辺は田舎だけど勝手に生き物の死骸を埋めていい場所はどこにもない程度に区画整理されている田舎なので、しょうがないのだ。
死んだ仔猫を助手席に乗せて、クリーンセンターに向かう。ちょっとしたドライブだ。こんな知らない人間が連れ回してごめんねって思う。餌付け人の家を訪ねれば、仔猫の母親がいるかもしれない。猫は賢くて家族の死を悲しむことくらいはするので、会わせてやれたらよかったかもしれない。けど、餌付け人にわざわざ死んだ仔猫を届けるのはなんかやっちゃいけないことのような気がして無理だと思った。運転しながら何度も同じことを考えて、無理だと結論してまた脳内議論をふりだしに戻した。
クリーンセンターに着くと、電話で対応した職員さんが出てきて猫の入った袋を受けとってくれた。
「本当に死んでるってことでいいんですよね?」
「えぇ、死んでます」
と言葉を交わしたのち、私はお礼を言ってクリーンセンターを出た。なんかもっと訊かれるかなと思ったけど、あっさりしたものだった。
帰りには、やっと肩の荷が降りたなと思った。もう二十年くらい前になるけれど、ある夜に元彼の車で東京のどこだかの幹線道路を通っていたら、元彼が道端に猫の轢死体を見つけて、車を停めた。すると私達の車の前を走っていた車もハザードを点滅させて道路端に停まった。
元彼が車を降り、前の車からも女性が降りてきた。女性のほうも猫の死体を見つけて、救助するために車を留めたらしかった。救助しようにも猫はすでに煎餅化していた。女性はじぶんの表着を犠牲にして猫の轢死体を拾おうとしていたが、元彼がそれを止めた。元彼は車のトランクからバスタオルを何枚か出した。元彼の仕事がデリヘルの店長だったために、車の中にはいつもバスタオルがストックされていたのだ。
元彼と女性が協力して猫をタオルに包んだ。女性は元彼がたくさんバスタオルを出してくれたから、猫の埋葬はじぶんが責任を持ってすると言ったそうで、猫はその女性に引き取られていった。
元彼は車に戻ってきて、世の中には親切な人もいるもんだなと言った。私は、じぶんが運転手かつ第一発見者だったら確実にスルーしていたなと思った。
そんなことがあった。元彼とはとっくの昔に別れて完全に縁が切れている。猫を引き取ってくれた女性はただの通りすがりの人なので、いまどこでどうしてるかなんか、もちろん私にはわかる訳もない。けど、あの人たちの善意というか、優しさをまっすぐ行動に移せる強さとか、すごいなと思ったし、これを見たからには私自身も同じことに直面したら彼らのように行動しなければならないという呪いに、その時かかったような気がした。彼らみたいに立派な人になりたいというより、見てしまったからには受け継がなくてはならないと思った。
だが、轢かれて死んだ猫なり、道端で困っている誰かなりを見かけたとしても、見なかったふりをして通り過ぎるばかりの人生を私はあれから二十年近くも送ってきた。
でも今日は見すごさなかった。しかし、いいやり方ではないのは明白。結局クリーンセンターという他人に押し付けて終わりにしただけなのだし。だけど、見て見ぬふりをするのはもっとダメ。そういう呪いがかかったまま、私は生きていかなくてはならないんだと思う。
はてなあもすなる家買日記といふものを 我もしてみんとてするなり
(はてなーが最近やっている家購入記を、俺も便乗してみようと思い書いた)
・子供が産まれることになったので、それまで住んでた借家をやめて家を買うことにした。
子供が動き回るようになると床や壁を汚したり壊したりするだろうし、家のカスタマイズもしたくなるだろう。これまで数回の引っ越し・荷造り作業が非常に手間だったので、幼児の育児しながらの引っ越しはまず不可能だと予想された。
・妊娠初期からなんとなく探し始め、妊娠6ヶ月で本格的に探し始め、出産3ヶ月前に物件決定、1ヶ月前に引っ越した。
物件選定、下見、ローンや物件の契約は俺と妻二人で行い、実際の引っ越し作業は俺一人で行った。
・庭付き一戸建てを借りて2年間住んでおり、自分たちが家に求める重視したい要素と、どうでもいい要素をある程度把握できていたので、それを家探しに反映させた。
物件選定
・ネットの物件情報サイトで市町村名で絞り込み、安価順にソートして諸条件から気になる物件を20件ほどリストアップ。
中古の場合は値引きの可能性もあるので、これまでなら出せる上限価格の2割増しまでリストアップした。
リストアップした物件はぜんぶ休日に現地に行き外観や周辺環境を見た。不動産屋に連絡して内覧させてもらったのは上位5件。
・エクセルで物件比較表を作り、要素ごとに傾斜配点して点数を付けて最も高得点の物件を買った。
高配点順に、「駐車場台数」「延床面積(部屋数)」「価格」「構造」「築年数」「両実家からの距離」「校区小学校からの距離」「最も近い保育園からの距離」「バス停からの距離」「敷地面積」「土地条件」「駐車場が露天か屋根付きか屋内か」「他」
俺が比較表を作り、いちおう妻にも見せて意見を聞いてたが、ほぼ追認状態だった。
(実際に使ったエクセルファイルを晒そうかと思ったけど、増田は添付ファイル付けられないんだね。)
以下、各項目ごとに説明する。
「駐車場台数」
地方都市なので車がないと何もできん。俺バイク通勤、妻は車通勤。子供が産まれれば子の保育園への送迎のため俺の車も必要になる。なので最低2台分。駐車場無しは論外、1台分のみの場合は庭を潰して駐車場追加できるか、もしくは周辺道路に恒常的に路駐できる立地か(車庫法違反になるが、住宅街では実家で車庫証明とっていつも路駐してる人も多い・・・)で判断。
両親が子育て手伝いに来てもらえばその車を止めるスペースも必要になる。できれば3台分ほしい。
→ 3台分ある家を買った、妻車、子送迎車、残り1台分はバイクガレージとして使ってる。両親が来たときは住宅地の最奥で交通量が少ないので車庫の前に路駐してもらってる。
「延床面積(部屋数)」
リビング、俺の部屋、妻の部屋、寝室、将来の子供部屋、で4LDKが最低条件。もちろん部屋は多いほど良く、面積は広いほど良い。
→ 6LDKとなった。部屋は多いほどいいと実感している。寝室二つにしていつもは3人一緒に1Fで寝て、風邪ひいたら一人だけ2F寝室で寝たり、いろいろ助かる。
「価格」
世帯年収1700万~2200万。物件価格4000万が上限と妻と合意したので、4800万以内で探した。
(妻は公立病院勤務医で、当直・オンコール量により増減。妊娠後期から産休までは時間外一切無しなので1200万、育休明けから現在までは週2のオンコールのみなので1400万程度。ただ住宅ローン審査では前年までの源泉徴収票で判断するので、金融機関からは1700万として見られてたはず。
俺は残業あっても無くても500万。県庁は時間外手当ほとんど付かない)
→ 建物の登記で持分1/2ずつ、土地は保留地なので組合の所有者台帳に連名で記載、実際の負担も1/2ずつとした。
「構造」
当時住んでた借家が築10年のプレカット工法の木造住宅だったが、壁の外板(サイディング)つなぎ目シーリングが劣化して雨水が浸入し、中の木が腐って雨漏りがあり、さらに同構造の隣家の2Fベランダが腐って半壊してて、プレカット木造住宅には不信感があり対象外とした。
両実家は築2~30年の鉄筋コンクリート造だが目立った不具合はなく、信頼感があった。
よって鉄筋コンクリート(RC)造、鉄筋コンクリートブロック(RCB)造、軽量鉄骨造の順に高評価とした。
→ RC造を買った。売主(建て主)がリフォーム業の社長で、その知識を生かして作った注文住宅ということで、内覧して一目見て質がいいとわかる造りだった。階段上り下りしても木の軋み音が全くしないとか、天井が高いとか、天井裏みたら断熱材が分厚いとか、床下も広いとか、壁収納が各所に多い(いまだ使い切れてない)とか。
「築年数」
新築のほうがもちろん良かったが、当時は型枠職人不足が顕著でRC新築坪単価が異常に高騰しており、手が出る価格の新築はプレカット木造ばかりなので、中古住宅中心に探した。
住宅ローン控除が効くのがRCだと築25年以内の購入なので、築25年が一つの基準。ただし利率負担以上に安い物件があれば築25年以上でも良い。
→築20年を買った。コンクリートのひび割れ等は全く見られない。
とても幸運なことに、俺の実家と妻の実家が車で10分の近距離で、かつお互いの職場からも車で20分以内の距離だったため(これは結婚決めてから判明)、両実家に近い位置で探した。
夫婦二人ともフルタイムで働いており、育休あけてから祖父母のサポートが絶対に必要になると予想されたため、両実家から車で30分以内の条件で探した。
妻実家のあるA市と俺実家のあるB市は隣接。AB市か隣接した市町村で絞り込んだ。
→両実家の間で妻の実家寄り(妻の両親の毎日の散歩コース)の物件となった。
中学生になれば自転車やバスが使えるから距離があってもいい。小学生(特に低学年)は徒歩通学が基本になると思われるので、子供が歩いていける距離として2km以上で足きり。できれば1km以内。
→買った家の校区小学校は崖を迂回しないといけないので延長距離4kmあり足切り対象なのだが(この家が家の造りや面積の割に安かったのはこれが第一要因だと思う)、妻の実家が市境を挟んだ隣の市にあり、妻実家の校区小学校は家から800m。これを生かす。
越境入学は同市内ならまだなんとかなるかもだが、別の市だとほぼ不可能。市民税納めてないし仕方ないね。
認可保育園であっても世帯年収から保育料が最高負担額(月6万ほど)になるので、認可外・認定保育園でもいい。車で送り迎えになると思われるので小学校ほど距離は気にしないが、あまりに遠いと渋滞もからんで勤務時間に支障する。
→結局、基準に沿って運営されてる認可保育園が安心だねとなり、家から3kmほど離れた保育園に入園できて車で送迎してるので考慮する必要はなかった項目。
子供が高校生になれば離れた進学校に行くかもしれず、そうなればバス通学となるだろうから、あまり遠くないほうがいい。2km以上で足きり。
→1.5kmほど先に本数の多い路線のバス停がある。高校生なら歩ける距離だろう。
「敷地面積」
庭は無くてもいいが、あればいろいろ使えるだろうから。ガーデニングとか、子供が歩けるようになったら庭でプールとか、小学生になれば犬を飼うとか。
→30㎡ほどの土の庭がある。興味なかったが、いろんな植物植えてデザインするのはやってみると楽しい。
「土地条件」
当時は東日本大震災から数年のちで津波の記憶が新しく、標高は確保したい。
谷地は通気性悪く水害ありそうなので避けたい。崖ぎわ地は見晴らし良いが安定性が心配だが切り土なら問題なし、盛り土は絶対不可。平坦な住宅地の中なら土地安定性やリセールバリューは良いが、道に面した1方以外の3方を他民家に囲まれていて息が詰まらないか心配(両実家も借家も、2方のみ他民家で1方は林や崖だった)
→ 数十年前に台地を切り土して造成した住宅地の南に開けた崖ぎわの物件にした。この物件を候補にしてからは県立図書館に行って明治時代以前からの古地図を見たり、国土地理院のサイトで米軍撮影の1945年前後の航空写真を見たり、県の地図サービスで災害指定区域を確認したりして、
昔と今とで大きく地形が変わってない(その間の大きな地震でも崩落等してない=地盤が強い)こと、盛り土ではなく切り土であること、敷地が急傾斜地崩落危険区域に指定(再建築時に制限がかかる)てないこと、を確認した。
眺めはいいし、日当たりはいいし、リビング先の庭の先は斜面で林なので四六時中リビングのカーテンを開けたままにしておけるし、今のところは満足している。かつてない巨大地震が来たら土地も家も無くなって無くかもしれないけど。
→ 土地区画整理事業が施工中で保留地上の物件なので、いろいろ勉強して詳しくなった。ネットバンクの住宅ローンが使えない以外はデメリットは無かった。リセールバリューには影響するかもしれんが、この家を売る頃には換地処分は終わってるでしょ。
→ 用途地域にこだわりは無かったが、小学校やバス停までの距離で足きりすると必然的に市街化調整区域は除外され、市街化区域の第一種低層住宅地域の物件ばかりとなった。
車もバイクも雨ざらしにはしたくないので最低でも屋根があったほうがいい。無ければあとからカーポートを付ければいいが費用が200万ほどかかる。できれば横風や埃も防げる屋内駐車場だといい。
→ 電動アルミシャッター付の屋内駐車場となった。ガレージとしてバイク整備に使えて最高。壁にアンカーボルト打ち込んでメッシュパネル付けて工具並べてある。密閉空間で音が漏れないので雨でも夜でもエアコンプレッサーやディスクグラインダーが使える。ぐへへ
「他」
周辺環境は閑静な住宅地の最奥で、家の前の1.5車線道路は交通量少なく(周辺家に用事のある車しか通らない)子供を道で遊ばせても大丈夫そう。家が売りに出ている理由が、売主夫婦が高齢になり介護付住宅に引っ越すための処分ということで、周辺とのトラブルが理由ではない。下見や内覧のときに両隣・道向かい・道向かい両隣の方に挨拶して少し話したが、変な人はいなかった。
→現在も、たまに顔を合わせたら挨拶してちょっと世間話するくらいで、軽い近所付き合いのみしている。
保留地のせいか自治会対象外となっており、自治会費や行事参加の負担がない。
なにより妻の両親の毎日の散歩コースにある家で、毎日周辺を見てる妻の両親から「問題ない」とお墨付きをもらえて安心できた。
県庁所在地隣接の市街化区域なので、小児科は車で10分以内に3院、大きな総合病院も車で20分以内に2院、他内科や整形外科クリニックも徒歩(車2分程度)に数院あり、医療関係に不安はない。
買い物も価格重視のスーパーからちょっと高めのデパート系列のスーパーなど車10分圏内に5~6件、ドラッグストアやホームセンターも車10分圏内にあり問題ない。
(年とって車も運転できなくなったらどうしようね?3食つき老人ホームに入るしかないか)
購入
妻は倹約家(いくつかの趣味以外には服や娯楽に金使わない)なので現金一括で買えるだけの貯蓄があったが、住宅ローン減税のおかげで利息負担無しで借りられるので、何かあったとき手持資金確保のためもあり、常識的に頭金を1割入れて残りはローンを組んだ。
均等に資金負担しようということで、持分1/2ずつの共同債務とした。
住宅ローン控除年1%よりも融資利率が低ければ、借金して金が入ってくる逆ざやとなるので、控除が効く10年間はなるべく融資残高を増やすべく、20年ローンとした。10年たったら一括繰り上げ返済する。月々の返済額が減るぶん貯めておく。
変動金利のほうが遙かに利率は低かったが、金利変動リスクを避けたくて10年固定金利にした。(でも今の状況だと変動のほうが得だったな。賭けに負けた。)
土地区画整理事業地内の保留地上の物件という特殊条件のため、年利0.65%等の低金利を誇るJNBやソニー銀行等のネットバンクのローンは使えなかった。
地場の都市銀行2行に仮申し込みし、低利率のほうに本申込した。(妻がメインで使ってる銀行のほうが高かったので担当者からずいぶん引き留められたが、仕方ない)
世帯年収の2~3倍程度の物件価格、お互い安定した職業ということで審査はトントンで進んで融資決定の連絡があった。
年収(源泉徴収票)以外の金融資産も開示したが、融資担当者は俺の数百万の貯金はチラッと見ただけで終わりだった。ちょっとプライドが傷ついたぜ。
利息は0.8%台で、融資手数料等の諸費用を含めると逆ザヤは僅かとなった。
住宅ローン減税は初年度こそ税務署に行っての確定申告が必要で面倒だったが、2年目以降は年末調整で職場に用紙出すだけなので慣れれば手間でない。
・値引き
基本的に都市部の中古住宅は売り手市場だが、この物件は1年前に4800万で売りにだして売れず4600万で売られており(校区小学校が遠いのと保留地なのが原因だと思う)ちょっと強めに出てみた。
不動産屋を介して、「もともとの予算が4000万なんです、がんばって4100万なんです、保留地なので金利の安い住宅ローンが使えなくて苦しいんです、金利分まかりませんか?」と。
4400万のオファーがあり、こっちは4200万で再度要請。最終的に「4300万よりは下げられん、それで無理なら売るのは諦める」との回答で、4300万で妥結した。
近くにある小学校距離と保留地以外の広さや造りや築年数が似た物件は6~8000万で売られてるので、造りのいい広い家を安くで買えたと満足している。
・不動産屋
仲介手数料は上限いっぱい取られたが、土地区画整理組合との所有者変更のやりとりや価格交渉で駆け回ってくれたので不満はない。
・司法書士
登記関係は銀行指定の司法書士に一任した。土地は登記がないので建物分のみ。市中の方に依頼したらもっと安かったと思う。
反省点
結果論だが、保育園までの距離は考慮しなくてもよかった。それ以外は満足。
子供が産まれる前は「田舎で静かなところがいいね」と学校までの距離をきにせず人里離れた田舎の広い一軒家をネットで見た「こんなところいいね」と話してたりしてたが、子供が産まれると子供第一の選定となった。でも子供が独立したらまた判断基準が変わるんだろうな。