はてなキーワード: 焼き鳥とは
家の近くの通り沿いにプレハブみたいな小さな建物で持ち帰り専門の焼き鳥を売ってる店があって、安いし晩飯時には結構混んでいる。
対面カウンターで注文して焼き上がりまで5~10分ほど待つので、車で来ている人は車内へ、歩きの人はプレハブの周りに立ったままだったり置かれたベンチに座って待つ。
ある日その店の前を歩いて通りがかると、その焼き上がり待ち用であろうベンチに小柄なおじいさんが座って、買ったばかりの焼き鳥をもぐもぐとその場で食べていた。
描写を足すとすれば、そのベンチはプレハブの陰にひっそりと置かれている。アウトドアでの食事用などではなく、一時的に腰掛けられる場所を提供しているに過ぎない。
そこに座って焼き鳥を隠れるようにして食べているおじいさんを見て、私は何とも言えない複雑な気持ちに襲われた。
まずほんの一瞬だけ「なんだかかわいそう」と頭に浮かんでしまい、どんな背景があるかも分からないのにそんな風に思った自分を恥じた。
「かわいそう」は言い換えると、「ご家族と一緒に食べていて欲しい」という気持ちでもある。 子や孫、伴侶と一緒に食卓を囲んでいて欲しい。
でもそうか、ご家族がいるとも限らないんだよなと思い直して、やっぱり私は恥ずべき人間だと思う。
高齢者(男女問わず)が一人でひっそりとご飯を食べていると、いつもそんな複雑な気持ちで胸がいっぱいになってなんだか泣きそうになる。
焼き鳥のおじいちゃんだけじゃなくて、おばあちゃんがフードコートで一人でちゃんぽんを食べているとか。
瘦せ型で、背を丸めるようにして食べていると、よけいにそう思う。多分、でっぷり超えてみなりのいい爺さんが一人でステーキを食べていてもそうは思わないだろう。
自分だって高齢おひとりさまなのでじきにそういうじいちゃんばあちゃんの仲間入りをするんだと思うけど、こういうのって昭和の「幸せ家族」妄想の結果なのかな。
だとすればこれからの若者たちは、私が一人で食事をしてても「かわいそう」なんて思わないのかもしれないな。
そうだといいなあ。
男はそんな事は思わない
私はコンビニのイートインをよく利用する。
先週は焼き鳥2本。
すっぴんテカテカおでこで堂々入店、何が食いたいか…と店内を2周3周ぐるぐる回ってレジ横の焼き鳥に目がいった。
レジのお姉ちゃんは若くて美人で可愛らしい子だった。「温めますか」を断っていざイートインへ。
かなり眩しかったので、冷めた焼き鳥を右手に、左手でブラインドを閉める。
タレまみれになった手を丁寧に拭いて退店。満足。
大きい一枚は大口を開けてポリポリいただく。一袋食べると流石にお腹いっぱい。
30分ほどかけて食べ終わり退店。満足。
行きつけのコンビニは通りに面してガラス張りなので、たまに通行人と目が合うこともある。
汚いおばさんがコンビニのイートインでジャンクフードをモリモリ食らう。
さぞキモかろう。
女を捨ててる女代表だ。
でも私は恥じない。
顔がブスなのも肌が汚いのもしょうがない。悩まない。
好きなことをして他人から白い目で見られるのはしょうがない。私の人生はこうだったのだ。
◯何故焼き鳥を温めないのか
家で食べるなら温めるかも…でもコンビニフードは冷めてても美味い。
◯キモいと言ってるのは増田だけ/自意識過剰/気にしてないなら書かない
認めざるを得ない。
こういう容姿、こういう行動の女性をキモいと思っているのは私自身である。
そして、こういう振る舞いを好きだと思っているのもまた私自身である。
自分の価値観がどのように形成されてきたか振り返ってみると、他人の言葉の影響が大きかった。
それが自意識過剰に繋がっていると思う。
こんな自分から脱却したいし、しようとしている。でも不安と自己嫌悪がある。
「自分への鼓舞」「自分への怨嗟」というブコメが的確。どちらも正解。
◯悪くないよ/キモくないよ
ありがとう。少し気が楽になる。
定期的に北海道の広さを舐めんなって話題が上がってるけど、鉄道で旅をすると無茶をしながら北海道を回れるから、舐めた北海道旅行ができるからオススメ。なにせ、鉄道の強みは寝てれば着くことと、時間が正確であること、そして特急なら割とスペースに余裕があること。移動中に北海道グルメが楽しめるのも強いぞ。
ちょうど「HOKKAIDO LOVE!6日間周遊パス」というJR北海道のフリーパスが安価でまた発売されてることだし、2年前にこれを使って北海道旅行したときの工程を書くから、まあ参考にしてくれ。
Peachで関空から釧路空港への便があるから、それを使って初日はまず釧路へ。前述のフリーパスは買った当日は使えない注意。
釧路湿原の観光がこの日の目的。昼は和商市場で勝手丼を食い、夜はスパカツを食う。
ノロッコ号はまあまあ混むから、釧路湿原は細岡展望台で観光するんじゃなくて、バスで釧路湿原展望台へ行ったほうが良かったかも。
釧路駅前の寂れ具合はガチのマジでやばくて、駅前で時間を潰すのが結構大変だった。
花咲線に載って根室へ。電車に乗ってる人はほぼ釧路から根室まで通しで乗る人ばっかりで、途中に本当に何もないことを思い知らされる。
途中、浜中町の駅でルパンのパネルを眺めつつ(時間待ちで数分間止まることも多いので、一旦駅に降りることもできる)、3時間ほどで根室へ。そして1時間バスに乗って、納沙布岬へ。
納沙布岬から北方領土まで一番近いところでは3.7キロほど。普通に肉眼で見えるし、国境の最前線であることを思い知らされる。
あとは最東端の駅の東根室駅を見たり、エスカロップを食べたり、タイヨーで焼き鳥弁当を買ったり、街中をうろついて明らかに生えてる雑草の種類が関西とは違うなと思うなど、五感で根室を満喫して、花咲線で釧路へ戻る。
なんとか座れたが、結構混んでる。立つ人も出るほど。間違いなくフリーパスのせいなんだろうけど。よく晴れていたから車窓から見る釧路湿原や、網走の手前のオホーツク海が本当に綺麗だった。
網走といえば、監獄ということで、監獄の博物館、本物の監獄、あとオホーツク流氷館に行く。
監獄の博物館は広く、見どころも多いので最後に回したほうがいい。出るタイミングがわからなくなる。
駅のそばのコンビニが潰れてて、晩御飯の確保に困った。前もって準備しておいたほうがいいかも。駅前にはすき家もあるので、北海道らしくない晩飯を食って、特急に乗って旭川へ。
旭川から特急宗谷に乗って稚内へ。そして稚内からバスに乗って、宗谷岬へ。
その後はノシャップ岬の方に行っても良かったが、南稚内駅辺りで市街地を練り歩く方を選ぶ。歩いてると思ったが、意外と稚内って栄えてる。ゲームセンターや、大きめのスーパーもあったし。稚内駅には映画館も併設されてるから、娯楽は案外充実してそう。
富良野線に乗って、ファーム富田へ。ラベンダーの時期とは微妙にズレていたので、臨時駅のラベンダー畑駅がなかった。だから、中富良野駅で降りて歩く羽目になるんだけど、何せ旭川へ折り返すの電車が1時間10分後、そして中富良野駅からファーム富田まで1.7km。その電車を逃すと2時間後まで来ない。
だから、駅からファーム富田までひたすら早足、ファーム富田でも早足、帰りも早足。まあファーム富田では20分は楽しめたと思う。ラベンダーの時期じゃないから、ラベンダーはほとんどなかったけど、それ以外の花も多いから、見どころは多い。
昼からは有名な旭山動物園へ。有名なだけあって、見ごたえがあり、夕方まで4時間くらい入り浸ってた。頭上をペンギンが泳ぐ、展示が凄い。
あと、園内が広いこともあって、動物の臭いをあまり感じさせないようになってると思う。
特急北斗の始発に乗って札幌から函館へ。札幌⇔函館って、札幌⇔旭川くらいの距離感と思ってたけど、倍以上かかる。直線距離で結ばれてるわけでもないからね。
まずはラッキーピエロを昼めしを食って、ハセガワストアで焼き鳥弁当を買う。根室で買ったタイヨーの焼き鳥弁当と違いがあるのかはわからない。
五稜郭やトラピスチヌ修道院なんかを観光して、「函館どつく」という関西人なら「え?」も思うような駅を見つつ、夜は函館山で夜景を見る。
朝は函館朝市で食べて、土産に海産物を買う。土産屋よりは安かった。
再び特急に乗り、最後の目的地の室蘭へ。最終日は函館と新千歳空港の間ならどこで良くて、登別や旅行中に宣伝を散々見た白老のウポポイ辺りと迷ったけど、地球岬の景色がキレイと聞いたので室蘭へ。
地球岬行きのバスは無くて、坂の下にある地球岬団地までしかバスが通ってない。そこから坂道を15分も歩くのはかなりキツかったけど、景色がたぶん旅行中に見た中で素晴らしくキレイだったから大満足。
室蘭には母恋という駅があり、そこの駅弁が旨いと聞いていたけど、売り切れで買えず……。室蘭駅の近くにあるスーパーで遅めの昼めしを買って、再び特急へ。そして新千歳空港からPeachに乗って関空へ帰る。
私は予約して来たけど、今回は予約無しで来ても接種OKになったので前の時より行列が長い
1回目2回目との主な違いは問診でコロナ感染の有無を聞かれた事(なお私はまだ未感染)
それと、問診の人と接種前の医師に本当にモデルナ打っていいか2回聞かれた
今回はクソ寒かったので長袖着てて捲り上げるのがなかなか大変だった
終わってすぐ三日間引きこもるための買い物行って、ちょっと左腕が重かったが気になるほどではなかった
16時 帰宅してダラダラしてたら軽く頭痛がしてくる 左腕はまだ上がる
16時半 空腹感がある 腕は上がるが少し鈍い痛み
室温16度だがかなり寒く感じたのでさっさと風呂に入る 熱はない
20時半 左腕が急にめちゃくちゃ痛くなって来たので、念のためイブA錠を飲んでさっさと寝る
3/20(日)
5時 目が覚める 左腕が激痛 頭も痛い でも熱は全くなし
7時 空腹だが頭が痛くて気持ち悪いので朝食を食べる気にならずOS-1を飲んでごまかす
8時 急に頭痛が引いて来たので食パンと昨日買ってきた焼き鳥を食べてイブAを飲む 左肩の痛みと寒気がある
※その後薬が効いてきたようでなんだかんだテレビの録画見て過ごす
13時 食欲はあったので昼食を食べて念のため頭痛が出る前にイブAを飲む
3/21(祝)
まだ左腕と頭が痛いが、別に耐えられないほどではない
13時半 寝転がっていると左胸の辺りにズキズキ痛みがする(多分肋間神経痛?)
18時 腕の痛みよりも左の脇の下の痛みの方が強くなってくる 耐えられないほどではないけど、ボコっと腫れ上がってるし気になる
総括としては1回目2回目より副反応が軽かった
前回はとにかく気持ち悪くて1日半ぐらいお粥とうどんぐらいしか受け付けなかったから今回モリモリ食べられて良かった
熱出た時のためにアイス箱で買ったけど全然熱無いしそもそも寒すぎて開けなかった(´・ω・`)
それとOS-1は偉大であった
私たちはいつから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説!
https://intojapanwaraku.com/culture/48024/
疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉、から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができます。しかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちのご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。
日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授・中澤克昭先生のお話をもとに追ってみました。
うつりかわる肉食への考え方
日本史の教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代(明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜は労働力を提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。
3世紀ごろの日本(ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀に仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避(タブー)につながっていくのです。
しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシやシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代の遺跡から出土した木簡からわかっています。中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地の所有権を確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。
古代には禁欲の対象だったお肉も、平安時代になると禁忌つまり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代も飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物が確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。
「天神さま(菅原道真)の牛のように、神話や伝承の世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓(ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。
新鮮な馬肉
では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。
なお、近代以前に肉を地方から京都や江戸へ運ぶとき、塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉も存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカやイノシシでしたが、貴族社会の宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお(現在の味噌・醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています。
肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家に権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家の食事のマナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別な作法があったようです。
江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料上確認できますが、その後しばらく姿を消してしまいます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗は徳川家康を尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名の特権ではなくなりました。明治天皇も御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇が狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野で鷹狩りをして以来のことでした。天皇は800年ものあいだ狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士の時代と重なっているのが興味深いところです。
明治天皇は1872年に牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後生まれの世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥でちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活も高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。
一方で2030年ごろには、世界の人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食の研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。
「動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ちを自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。