買い物に行こうと車を運転中、道路の真ん中に仔猫の死体があるのを見つけた。車にはねられたようだ。朝ここを通った時には見なかったし原形を留めているので、まだ死んで時間は経ってないのかなと思った。買い物から帰ってきてもそのままだったら拾おうと思って出掛けた。
買い物中も罪悪感がすごかった。やっぱり見た時点で家に引き返して、空き箱持って駆けつければよかったかなぁ、と。もし買い物してる間に仔猫が再び轢かれて猫煎餅化してたら、どうするんだ。さすがに平たくなった猫を道路から引き剥がす勇気は私にはない。
ふがいないなぁ。形を保った仔猫は拾えて猫煎餅は拾えないというのか、猫は猫だぞ! しかし、私どうしてもスプラッターはダメなもので。
帰宅するとき、同じ道を通ったら、猫は先ほどと変わらぬ状態で横たわっていた。通る車達は仔猫に気づくと大回りして避けていた。そうして猫煎餅は回避されていた。
家に帰って買ったものを全部冷蔵庫にしまってから、段ボールの空き箱の中に新聞紙敷いたやつと軍手を持って、現場に駆けつけた。仔猫はやっぱりそのまま倒れていた。よく見たら、猫の周囲のあちこちに血が飛び散っていて、車にはねられた直後はまだ息があってしばらくのたうち回ったのかもしれない。
幸いにも車は一台も通らない。私は覚悟を決めて軍手をはめ猫を持ち上げた、その時初めて、持ってきた箱が仔猫のサイズに地味に合ってないことに気づいた。あっヤベェ、どう入れたらいいんだこれ、と捧げ持った猫を傾けたら、耳からどぼっと血が溢れて箱の蓋に垂れた。これ以上斜めの体勢で持ってたら、血だけじゃなくてなんかもっと出て欲しくないものが出てきそうだと思って、半ば強引に猫を箱の中に突っ込んだ。頭から猫は箱の中に落ち、案の定足が大幅に箱からはみ出た。
仔猫は茶色のしましま模様だった。生前はさぞかし可愛かったんだろうが、死体はやけに薄汚れて見えた。足の毛づやが良く、痩せてもいないので、ちゃんとご飯を食べさせてもらっていたと思われる。
半開きの猫の右目のまぶたの中身が無い気がするんだよな……と思いつつ、私は箱を抱えて歩いた。
実は、この事故現場からほんの数歩のところで、去年同じようなしましま模様で同じような体格の仔猫がやっぱり車に跳ねられて死んでいて、それを私はやっぱり拾いにいったんだけれども、近所のお婆さん達がそこに集まってなんやかんや言っていたので断念した。
近所のお婆さんが言うには、この近くに猫を餌付けしているおうちがあって、たぶん死んだ仔猫もその家の人が餌をやっていた猫たちのうちの一匹だという。それを教えてくれたお婆さんは、
といった。猫の死骸は餌付けしている人に責任を取らせればいいとお婆さん達は言って、一人が餌付け人の家に言ってドアをガンガン叩いて家の人を呼び出し文句を言っていた。そんなわけで、その仔猫は餌付け人か誰かが引き取ったか捨てたかしたらしく、数時間後にはなくなっていた。
私が今日拾った仔猫は去年のあの仔猫の弟か妹なのかもしれない。見た目がほんとうに良く似ていた。
今日はお婆さん達はいないから誰にも文句は言われないはずだ。私は箱を持って餌付け人のおうちの前を通りかかった。餌付け人も猫可愛さに餌をやってるんだろうし、最後のお別れくらいしたいのではないか? と思った。仔猫だって、餌をくれる人間が好きだろうし、じぶんを葬ってくれる人間を選べるんなら通りすがりの他人よりも馴れた人がいいんじゃないか。
だけど私は猫の死体を家まで持って帰った。そして、役場の環境課に電話をかけて、死んだ猫を拾ったがどこに捨てればいいのか教えて欲しいと言った。電話に出た人は、クリーンセンターで処分を受け付けているから直接センターに持ち込んでくれないかと言った。それで、今すぐに行っていいかと私が聞くと、大丈夫だというので、私は猫を箱ごと燃えるゴミ袋に入れて、車の助手席に置いた。
せっかく猫煎餅を回避したのにゴミ袋に入れてゴミ焼却所に持っていくだなんて、これはこれで酷いよなと思うのだが、この辺は田舎だけど勝手に生き物の死骸を埋めていい場所はどこにもない程度に区画整理されている田舎なので、しょうがないのだ。
死んだ仔猫を助手席に乗せて、クリーンセンターに向かう。ちょっとしたドライブだ。こんな知らない人間が連れ回してごめんねって思う。餌付け人の家を訪ねれば、仔猫の母親がいるかもしれない。猫は賢くて家族の死を悲しむことくらいはするので、会わせてやれたらよかったかもしれない。けど、餌付け人にわざわざ死んだ仔猫を届けるのはなんかやっちゃいけないことのような気がして無理だと思った。運転しながら何度も同じことを考えて、無理だと結論してまた脳内議論をふりだしに戻した。
クリーンセンターに着くと、電話で対応した職員さんが出てきて猫の入った袋を受けとってくれた。
「本当に死んでるってことでいいんですよね?」
「えぇ、死んでます」
と言葉を交わしたのち、私はお礼を言ってクリーンセンターを出た。なんかもっと訊かれるかなと思ったけど、あっさりしたものだった。
帰りには、やっと肩の荷が降りたなと思った。もう二十年くらい前になるけれど、ある夜に元彼の車で東京のどこだかの幹線道路を通っていたら、元彼が道端に猫の轢死体を見つけて、車を停めた。すると私達の車の前を走っていた車もハザードを点滅させて道路端に停まった。
元彼が車を降り、前の車からも女性が降りてきた。女性のほうも猫の死体を見つけて、救助するために車を留めたらしかった。救助しようにも猫はすでに煎餅化していた。女性はじぶんの表着を犠牲にして猫の轢死体を拾おうとしていたが、元彼がそれを止めた。元彼は車のトランクからバスタオルを何枚か出した。元彼の仕事がデリヘルの店長だったために、車の中にはいつもバスタオルがストックされていたのだ。
元彼と女性が協力して猫をタオルに包んだ。女性は元彼がたくさんバスタオルを出してくれたから、猫の埋葬はじぶんが責任を持ってすると言ったそうで、猫はその女性に引き取られていった。
元彼は車に戻ってきて、世の中には親切な人もいるもんだなと言った。私は、じぶんが運転手かつ第一発見者だったら確実にスルーしていたなと思った。
そんなことがあった。元彼とはとっくの昔に別れて完全に縁が切れている。猫を引き取ってくれた女性はただの通りすがりの人なので、いまどこでどうしてるかなんか、もちろん私にはわかる訳もない。けど、あの人たちの善意というか、優しさをまっすぐ行動に移せる強さとか、すごいなと思ったし、これを見たからには私自身も同じことに直面したら彼らのように行動しなければならないという呪いに、その時かかったような気がした。彼らみたいに立派な人になりたいというより、見てしまったからには受け継がなくてはならないと思った。
だが、轢かれて死んだ猫なり、道端で困っている誰かなりを見かけたとしても、見なかったふりをして通り過ぎるばかりの人生を私はあれから二十年近くも送ってきた。
でも今日は見すごさなかった。しかし、いいやり方ではないのは明白。結局クリーンセンターという他人に押し付けて終わりにしただけなのだし。だけど、見て見ぬふりをするのはもっとダメ。そういう呪いがかかったまま、私は生きていかなくてはならないんだと思う。
デリヘル臭い
デリヘル臭い あなた自身のレスから漂ってる腐臭だよそれ
見なかったフリを20年続けたことは、善行をするかしないかを自分の自由意思で決められる証拠だと思う。 だからそれは「呪い」ではなく「受け継がれた優しさ」とでも言うべきものだ...
その「呪い」には「のろい」ではなく「まじない」とルビを振らせてほしい 災いを呼び寄せる方ではなく、取り去る方の呪い 私も同じ呪いにかかったと思うよ
保健所とかにTEL一つであとはプロが衛生的にやってくれたはず 野良猫の死体とか何持ってるかわからんからあまり素人が触るもんじゃない