「輸出組合」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 輸出組合とは

2024-05-31

anond:20240530175010

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/002615620030226004.htm

次に、東京集中は自然に起こっているんだ、これは経済の流れであると言う人がおりますが、これは全く間違いでございます

戦後昭和十六年体制、あるいは一九四〇年体制と言われる中で、官僚が猛烈な勢いで東京一極集中を無理やり進めてまいりました。

そのやり方というのは、まず、産業経済の中枢管理機能を全部東京に移す。

そのために、全国的産業団体事務局東京都に置かなければならない、二十三区に置かなければならないという指導を徹底しました。

から、もともと大阪にありました繊維業界団体も、強引に、あの日米繊維交渉ときに無理やり東京に移しました。

十年かけて移しました。名古屋にありました陶磁器工業会も移しました。京都にあった伝統産業振興会も東京に移しました。

かくして、主要な企業本社東京に移らざるを得ない。

団体東京に移りますと、団体の長になるような大企業社長は、何々工業会の団体長になりますと週に三回ぐらい東京に呼び出される仕掛けになっていますから地方本社を置いていられない。

これでどんどんと移転した。これが第一であります

二番目は、情報発信機能を、世界じゅうで類例がなく、日本けが東京一極集中いたしました。

例えば、印刷関係で申しますと、元売を東京一極に集中しております

今これがまた問題になっておりますけれども、東京しか日販とかトーハンかいう元売会社はございません。

したがって、関西出版していたエコノミストやPHPは発行が一日おくれる。

大阪印刷した本を川一つ挟んだ尼崎で売るためにも、必ず東京へ持ってこなけりゃならなくなっております

これは非常に強い犠牲でございます。したがって、雑誌場合は締め切りが一日早くなる。

これで東京以外で雑誌をつくることができなくなりまして、全部東京へ無理やり移しました。

これは国土政策懇談会でも何回も問題になりましたが、政府官僚の方は頑固に譲りません。

香川県長野県でも元売をつくろうという動きがありましたけれども、ことごとくつぶされてしまいました。

また、電波につきましては、世界に類例のないキー局システムをつくって、キー局東京しか許されていない。

そして、キー局でないと全国番組編成権がございませんから、すべて東京スルー情報しか流れないようになっています

さらに、文化創造活動東京に集中いたしました。

から特定目的施設、例えば歌舞伎座でありますとか格闘技専門体育館でありますかいうのは、補助金関係東京しかつくれないようになっています

これで歌舞伎役者は全員東京に住むようになって、関西歌舞伎は一人もいなくなりました。

あるいはプロレス団体も、東北地方みちのくプロレス大阪大阪プロレスがあるだけで、四十団体はことごとく東京に集められました。

さらに、最近は、BS放送七局を全部東京しか許可しないという制度になっています

こういった官僚の強引な、コスト無視した集中制度によって東京に集まっている、このことも重要なことだと思っております




https://www5.cao.go.jp/99/e/kgiji/19990531chiiki.html

ここにも記述してありますが、日本地域政策は、昭和初め、昭和16年ごろの決定がございまして、日本全体を有機地域構造にするというような決定がございました。

有機型というのは、人間の体のようにするということです。人間の体であれば頭は1つだということで、全国の頭脳機能を1つに集める。それは首都東京でなければいけない。

頭脳機能というのは、産業経済の中枢管理機能と、情報発信機能と、文化創造活動である、こう定めました。

そして、各地に地方中核都市をつくりまして、北海道なら札幌東北6県なら仙台中国なら広島とする。

ここは地方限りの頭脳機能もつ。各県限りのものは、県庁所在地に置くという、段階的なヒエラルキーをつくりました。

そして、すべての文化創造活動情報発信機能産業経済の中枢管理機能東京に集めることにする。その手法として様々なことがとられました。

例えば、産業経済の中枢管理機能東京に集めるためには、各産業別、職業別に全国団体を作り、この全国団体本部事務局東京都に置かせるという政策とりました。

私が通産省に入りました1960年代は、まさにこの政策継続し、強化する真っ最中でございました。

この方針に反して地方に、東京以外に、全国団体本部があると、一日も早く東京へ来なければいけない。

その対象になりましたのが、大阪にありました繊維業界名古屋にありました陶磁器業界の2つでございまして、繊維業界については再三圧力をかけておりましたけれども、なかなか成功しませんでした。

ところが、うまい具合に68年に、あの日米繊維交渉、これを折衝するにあたって、まずアメリカと折衝する前の条件は、紡績協会が、各種団体東京本部を移すことだ、こういう話をいたしました。

当時の局長室に、「敵は米国にあらず、大阪なり」という有名な看板を掲げられて、新聞にも出たことがあります

いろいろ折衝したのですが、なかなか職員大勢おられてそう簡単にいきませんで、日本繊維工業連合会という屋上屋の団体をつくりました。

銀行協会などもずっと東京にあったのですが、銀行協会長は東京にある銀行からしかさないということがずっと続いて、三和と住友ダメということになっておりました。

それが、70何年でしたか本社機能東京に移すことを条件に、まず住友銀行、次いで三和銀行会長銀行になりました。

それぞれ、会長銀行になると勲一等がもらえる、こういう仕掛けになっております

それから名古屋陶磁器工業会も70何年に移転しまして、今は、陶磁器輸出組合けが名古屋に残っております

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん