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はてなキーワード: 縦貫とは

2023-11-13

もうすでにクルマが空を飛んでいる時代だと思う

東名新東名とか主要路もそうだし、田舎だと伊豆縦貫道とか険峻な山間トンネル橋梁で高規格道路が走っている。

これを空を飛ぶ状態と言わず何というのか。

そもそも昔よく見た「空飛ぶクルマ」の用件は、ただクルマが空を飛ぶ状態を指していたわけではないだろう。

発達した都市内部の道路を躱し目的地や他都市へ直線的に結ぶために、上方に開けた空間を生かして移動するのが「空飛ぶクルマ」の重要なところだ。

すなわち、厳密な意味クルマは空を飛ぶ必要がなく、上方空間都市自然地形に左右されず移動できることが「空飛ぶクルマ」の肝になる。

そうした視点から考えると、現代は実に「空飛ぶクルマ」に溢れ、個人旅行や日々の物流寄与している。

我々は、科学技術のある段階で、クルマを飛ばすよりも道路飛ばしたほうがいいと気がついただけだ。

空飛ぶクルマ高速道路の発達により、すでに完成している。

2023-09-13

相対的位置で表される地名が恥ずかしくて改名された例

元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。

 

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559

 

 

志茂

地下鉄南北線志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。

関東大震災後に人口流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。

後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。

 

西川口

西川口駅の西口周辺はかつては横曽根村だった。

関東大震災後に東京近郊は下町から移住人口が増え始め、川口町合併して川口市になる横曽根人口が増える前に区画整理をする事になった。

新しく升目に近くされた区画町名を付ける必要がある。

横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなり小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側新田は「仁志町」とした。

仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。

だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。

「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである

 

余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。

 

上板橋中板橋

先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。

東上線中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道上板橋宿跡である

大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車単線運転から交換用の駅で距離もその程度が適当だった。

だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当地名も無い。

そこで3km程離れているが著名な宿場上板橋を駅名にした。

だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。

でも下と上の中間板橋から中でしょと「中板橋」駅としてしまった。

すると上板橋上板橋付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。

地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。

全部先の事も考えないで行動する鉄道会社のせいである。

 

池袋

元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。

今の西口付近はその名も「上」という小字場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。

だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。

そもそも下上って何なのか?

 

墨田隅田

葛飾区足立区区界を見ると綾瀬駅付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。

荒川放水路が出来るまでは堀切駅付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。

この隅田川の東に隅田村というのがあった。

一方、江戸時代水墨画流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド価値を持つようになった。

隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。

するといい景色なので山水画浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。

その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。

隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。

 

仲宿

中仙道板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。

鉄道道路時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。

 

台東区

浅草区下谷区合併したのが台東区

下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。

吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。

 

十条上十条

十条と呼ばれる地区には北側上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。

両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである

明治になりその十条の西の方に現赤羽線埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。

次に東北本線京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。

ところが昭和住居表示町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。

それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。

駅の東側の元は十条じゃなかった辺りは東十条となった。

こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。

そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。

 

田園調布

田園調布がある場所はかつて荏原郡調布村だった。

ここを東急電鉄後藤慶太デベロッパが買い上げ高級住宅地田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。

「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤田舎に住んで都会に鉄道通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドン児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染ゴミや糞便に混じって死体流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイル流行した。

昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称

だがその僅か五年後には荏原郡自体東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。

初めは東急の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地けが田園調布だったが、住居表記施行町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。

この為に駅の裏側とか川べりの低地とかあんま高級じゃない田園調布が沢山ある。

2023-08-29

なぜ亀有に行くのが難しいか解説してやんよ

これ https://b.hatena.ne.jp/entry/s/trafficnews.jp/post/127759

関西人亀有行くのが難しいという嘆きに対して「老害じゃね?」「スマホ乗換案内見ろ」と好き放題な罵倒がされているが、はっきり言って亀有を含む、JR常磐線綾瀬金町に行くのは東京もんでも難しんだよ!

増田東京西側ばかりで活動していて、ある日仕事亀有の隣の綾瀬に行くことになった。だが路線図を見て行き方が判らなくなってしまった。

何故なら乗換駅のJR北千住駅には綾瀬金町に行く各駅停車ホームが無いのである

 

迷惑乗り入れ

実は常磐線列車線と緩行電車線の複々線になっており、各駅停車が走る緩行線綾瀬地下鉄千代田線に直結している。

北千住綾瀬の間は地下鉄千代田線なのである

当然北千住ホーム場所問題となる。普通はこういう時は北千住駅手前で地下鉄が地上に出て常磐線に並んだホームで乗り換えできるようにするじゃない?

ところが北千住ではそうならないで地下にホームがあり、その地下の北千住駅を管理しているのは地下鉄なのだ。途中駅なのだから当然だ。

からJR常磐線各駅停車北千住駅は無い」というとても奇妙な事になっている。

乗換駅がJR地下鉄接続駅じゃなくてその次の快速以上が止まらない綾瀬が両社線の接続駅なんて無茶すぎる。

渋谷とか新宿以西でばかり活動していた増田はこんな無茶な構造になっている事は知らなかった。

からマジで綾瀬駅に行く方法が判らなかった。

 

この構造千代田線乗り入れ開始で出来たのだが、綾瀬亀有金町の人らは激怒したらしい。

それまで例えば亀有から上野は一本で行けた。だが乗り入れ後は北千住で乗り換えで、更に地下の地下鉄ホームから高架の常磐線ホーム階段で上がる必要があり、やたらと時間と体力を食う。更に当時は地下鉄路線がまだ少なくて都電が現役だった頃だ。地下鉄都心に直通出来るメリットも少なかった。

 

複雑怪奇列車種別

常磐線には

特別快速

普通

快速

各駅停車

という列車種別がある。普通各停普通快速特快の順で速くなると思うわな。

ところが普通快速より速いというのが常磐線ワールトである

しか各停地下鉄に直通するから行先が違うという複雑怪奇である

快速っていうのは各停の駅を飛ばすから快速らしいのだが、走る線路が違ってこっちは地下鉄に入らない。

しか普通より遅い。

昔は「普通」は機関車の曳く客車ボックス席車で、「快速」は通勤電車だったので何となく判り易かったみたいだがJRが全部通勤電車にしてしまったので訳が判らなくなった。これも関西人じゃなくても混乱するポイントだ。

因みに普通列車由来なのでトイレがあるが快速トイレがない。ならば便通の方が適当ではないのか?

 

昭和初期に遡る

記事では、列車種別ごとに別路線のように描くのは、昭和中期の国鉄5方面作戦がどうこうと鉄オタ好みの説を書いているが、そうじゃなくて戦前昭和初期の電車網築造に遡るのだ。

まず、京浜東北線東海道線東京東北線上野で分断されるのに対してこれらを直通して、更に東北線の方は尾久に車庫を作って列車線の方は車庫の向こうを回る形にした。すると途中の駅が違ってくる。そしたら別路線として案内した方がいい。

山手線。これは大正の終わりから環状運転を始めた。田端東京品川東海道線東北線だが跨って走る上に渋谷の方に曲がっていくからこれも別路線扱いで案内した方がいい。

中央線総武線複々線にしたのだがこれのキモ秋葉原駅で、中央線お茶の水から分岐して秋葉原立体交差総武線の始発だった両国に繋ぐ路線建設

地上2階くらいを走る京浜東北線の上を跨ぐために街の上に高架を作るというのは当時は先進的であった。しか秋葉原駅東側(今のTX入口ロータリーアキバヨドバシ)には貨物荷捌き場と舟運用の堀があり、それを跨いで地上6階くらいの総武線ホームに直通するためのエスカレータもあった。

当時エスカレータ銀座の高級デパートくらいしか設置されていなかったのに駅に設置されるというのは相当に革新的に写ったと思われる。

また、御茶ノ水駅前後代々木駅新宿駅には乗越線を築造した。

お茶の水前後で一本づつ乗越しして、これによりお茶ノ水で東京方面両国方面乗客が同じホームの反対側で乗り換えが出来るようになった。

新宿山手線総武線中央線各停)が同ホームで乗り換えが出来るようにした。

今もあるあの便利な乗り換えが出来たのは戦前なのだ工事量が2倍に増えるが当時の当局利便性を優先した。「立体交差ダイナミックさ」に取りつかれていた感じがしなくもない。

 

こういう感じで、

1.別路線縦貫する、更に他の方向へ行く路線を作ったため

2.同ホームの表裏で別方面へ行く乗り換えを作ったため

大正末~昭和初期に複々線の同じ線路を走る電車を別路線として案内するのが一般化した。そして駅名表にもその電車が止まる駅だけ表示するようになったので、実はかなり古い方式なのだな。 

 

因みにだが、その別路線扱いの電車をそれぞれ違う色に塗るというのは昭和30年代後半に始まった。

更に路線が増えてきた営団地下鉄がその方式拡張して、電車だけじゃなくて駅もテーマカラー統一して、乗換案内を色で示すようになると、これは大変判り易い上にサインシステムとしても優れていると絶賛され、各国の地下鉄も同じ方式をやり始めた。

今はどこの国の地下鉄路線ごとのテーマカラー統一されていてありふれたサインシステムだが、そのオリジナル東京交通営団で、更にそのオリジン国鉄で、その国鉄昭和初期の別路線扱いの案内法をもっと判り易くする為に路線カラーを始めた訳なのだな。

 

から亀有に行くのが判り難い」というクレームは叩き潰すんじゃなくて、先祖が始めた判り易い路線システムサインシステムの流れに反する退化だなと考えないとダメなんじゃないかと思うところだ。

2018-06-11

anond:20180611211641

昔(今も?)環日本海経済圏という構想があったんだよ。

から中国韓国ロシア総領事館がある。

花角英世が日本海縦貫新幹線かぶち上げていたという話があったが、

拠点性を高めて欲しいという財界から要望があった。

その辺でもう少し何か言っても良かったかなとは思う。

どうせ石川富山のような他県と組んで税金使わされるんだろうけど。

(失礼。でもそういうのって自治体じゃなくて国が全額予算出すべきだと思う)

新潟経済界角栄の絡みで昔からそういうことを言っていたんだが、

ネット右翼も侍らせて言っていることがよく判らない。


原発に関しては実は泉田裕彦米山隆一もよーく読むと原発を追い出すとは言っていない。

福島事故健康被害避難計画検証する、と言っているだけで賛否を明らかにしていない。

しか検証委員会は知事検証結果を無視して再稼働を行うことも容認している

(というか知事意見することは有り得ても拘束する能力はない。

余談になるが健康被害も「検証中」だから

鼻血甲状腺がんを恐れる支持者の声に池田賛同し、たとえ当選しても、

すぐそれを県政に持ち込めていたわけではない)

泡沫候補だが即自廃炉を訴えていた安中聡は参院選に出たときの倍ぐらい取っていた。

元々微妙対立軸自民党側が抱き着いてきて輪をかけて分かりにくくなったかも。

 
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