はてなキーワード: 遂行とは
http://anond.hatelabo.jp/20161008095104
正社員・派遣社員・アルバイト…計20社以上に履歴書を送った。
最後の望みを託した某社にも落ちた。そこは某便所の落書きで悪評が立つレベルの会社であるにもかかわらず、だ。
その他にもいわゆる「ブラック企業」をいくつか受けたが、すべて不採用に終わった。
知力、体力、コミュニケーション力、分析力、忍耐力、表現力…社会で求められる力は多岐にわたる。しかし自分はその力をなにも持ち合わせていない。
こんな悪文を臆面もなくさらすあたり、知力や表現力、コミュニケーション力に欠けていることは火を見るよりも明らかだろう。
また、自身の敗因を正確に分析できていないことを鑑みると、分析力に欠けているのは明らかである。
ただ、それらの力がなくとも、年齢が若ければ再起のチャンスはあるかもしれない。
しかし四半世紀分無駄に年だけ食った幼稚な人間に、再起のチャンスがあるとは考えにくい。
人によっては「再起のチャンスはある」という人もいるかもしれない。しかしそこで提示されるケースは、往々にしてレアケースだけである。
その手のレアケースは9割9分9厘、自分の身に起こることはない。
周囲の人間にこれ以上迷惑をかけないために、社会からの撤退を行わなければならない。具体的方法としては自殺がある。
それ以外にも無人島への逃亡などの方策をあるが、法律との兼ね合いより実現可能性は極めて低い。
「これ以上就職活動を続ける」と「ニート生活を続ける」はどちらも多大な迷惑を各所にかけるので論外。
他人に迷惑をかけてはいけないということは基本的な道徳である。ましてや故意に迷惑をかけることは、絶対にあってはならないことである。
自分が就職活動を続けても、ニート生活を続けても、他人に迷惑をかけることは分かり切っている。
他人に迷惑をかけるより、道徳に則り自殺する方がベターな選択肢ではなかろうか。
仮に社会に求められる力をなにも持ち合わせていない自分を雇ったとしても、企業側には何のメリットがない。デメリットは掃いて捨てるほどある。
今日日会社に損害を与え続ける存在に毎月一定の金額を渡すような酔狂な企業は存在しない。
それなら公務員になればいいという声もあるかもしれない。しかし公務員に対する批判的感情が高まりを見せている昨今、仮に公務員になれても無能である以上職務が遂行できるとは考えにくい。
せいぜい納税者から突き上げを食らって職場を体よく追い出されるのがオチである。
そもそもどの職場にも求められていない無能であることは分かり切っている。そんな自分が会社などに履歴書を出すことは、不要な負担を会社にかけさせていることに他ならない。
端的に言えば、自分が就職活動をすることは業務妨害行為である。
我欲のためだけに、無関係な第三者に迷惑をかけることはあってはならない。
親に迷惑をかけ続けているのは当然である。我が家の不良債権を処分するためにも、自殺は有力な選択肢の一つとなる。
生活保護を受給するにしても、日本の社会保障費は際限なく膨らみ続けている状況下で、生きる価値のない無能のために社会保障費を膨らます道理はない。
障碍者や病人、高齢者、乳幼児など自分と異なり無能ではない存在のために社会保障費は使われるべきである。
他方で世界に目を向けると、依然として人口爆発が続いている。これらの国々では経済発展も同時に起きている。
そのため、石油・石炭・LNG・ウラン鉱石・淡水といった有限な資源に対する需要も伸び続けている。これらの資源は生活に不可欠な一方、浪費し続ければ遠くない未来に費消することは確実だ。
費消を防ぐ方策としては、省エネルギーの推進などが考えられる。しかし、ジェボンズのパラドクスや発展途上国サイドの反発を鑑みた場合、省エネルギーの推進は問題解決に結びつくとは言い難い。
エネルギーの費消を防ぐには使用量を抑制する必要があるが、人が減ればそれだけエネルギー利用は減少する。つまり、自殺すれば資源枯渇を(少しだけとはいえ)先送りすることが可能になる。
先進国の場合1人あたりのエネルギーの消費量は発展途上国よりも多い。日本の場合世界平均の2倍エネルギーを利用しているとの情報もある。
無能かつ生産性0の自分が世界平均より多くの資源を浪費していることは、人類すべてに迷惑をかけていることになる。
明日のアインシュタインやエジソンたちが資源枯渇のせいで可能性の芽が摘まれない為にも、自殺というのは有効な手段になるのではなかろうか。
元増田は若い人間の場合社会に利益を与えるため、若い世代の自殺に対しては否定的な立場をとっている。
しかし自分のように社会に損害しか与えられない無能はいるのである。一方で自分よりはるかに有能な老人がたくさんいることは確かだ。
もう辞めてからだいぶ経って身バレする可能性が低くなったので昔勤めていた会社のことを書いてみようと思う。
以前勤めていた会社は約50人規模の地方中核都市の中小企業だった。
社長はバブル期の後半に30歳そこそこで起業をした人間で、色々途中ありつつ約20年でかなりの売上の会社にしたやり手だ。
時代もあったしたまたま始めた事業がその後世間的なニーズの波に乗れたという運もあったが、認めたくないものの仕事はできる起業家だったと思う。
私は比較的社長に近い位置に採用されており、その社長が他の社員や取引先と会合をしている様子を見てきた。
サイコパス的性格というのは他者への共感性が薄く、モラルが低く、自尊心が高く、また口が達者で一見魅力的という特徴があると言われるがこれが完全に当てはまる。
本人を目の前にしているときにはさんざん相手からの信頼を得るための美辞麗句を並べ立てておいて、相手から受けられる利益の当てがなくなるとあっさりと切る。
切って周囲から何か悪評が立ちそうになると「断腸の思いで切った」「時には経営者は嫌われ者になる覚悟が必要」とこれまた周囲をうまい具合に丸め込む。
あまりのすさまじい二枚舌に精神のバランスは大丈夫なんだろうかと最初は思ったが、何年も一緒に仕事をしているうち、二枚舌で相手を騙したり陥れたりすることにむしろ快感を覚えるタイプなんだということがわかった。
良心の呵責なんて全くなく、「バレなきゃ違法じゃない」を地で行くタイプだった。
先に精神が参ってしまったのはそんな様子を間近で見続けてきた私の方で、こればかりは匿名とはいえここに書くことはできないような事件があり「これ以上ここにいたら自分の良心も麻痺してしまう」と思い離職を決意した。
私は勤務をしていたときには社長に極力逆らわず、言われたことは言われたとおりに遂行し、従順すぎるくらいに従順だったのでかなり気に入られていたようだ。
なので私が辞めると告げた時にはもしかしたらひどい罵詈雑言を浴びせられたり離職の日まで嫌がらせを受けるようなことがあるのではないかと心配していた。
しかし予想に反してサイコパス社長は何年も勤めてきた自分に初めて涙を見せた。
いわく「お前がいたから俺はここまで会社を大きくできた」ということで、行かないでくれとまるで恋人にすがるかのような態度をとってきた。
ちなみに長年仕事をしてきたが私は社長のことが信用できなかったのでプライベートなことは出来る限り口にしてこなかったし、架空の恋人を作ったり別れたりしてきた。
私が絶対に辞める意志は覆さないと言ったところ、「せめて次の仕事を世話させてくれ」や「辞めている間何か助けをさせてくれ」とこちらが不気味に思うほどのことを提案してきた。
もうこれ以上この人とかかわり合いを持ちたくないと思っていたのでそうした提案も全部退け、逃げるようにして退職した。
退職したあと夜道を誰かにつけられているような気配がしたり、家の玄関先に社長が吸っていた銘柄のタバコの空き箱が置いてあったりということがあったが多分気にしすぎだと思う。
それも数ヶ月したらなくなった。
今考えるとサイコパスというのは悪気がないからサイコパスなのであって、良心の呵責なくバッサリ長年勤務してきた従業員を切ったり、取引先との契約を反故にしたりするのは本人の価値観からすれば全く問題ない素直なことなんだろう。
周囲から嫌われそうになったら全力で好かれようとするし、裏切られそうになったら何をしてでも関係を取り戻そうとする。
実に素直な性格だ。
直情的で自分に正直だ。
だから私を引き留めようとした涙も芝居ではなく、その瞬間は本気でそう思っていたんだろうなと思う。
あの人は会社を起こしてそれがたまたま成功したから良かったけど、人生における興味がもし殺傷とかに向かったら歴史に残る犯罪者になっていたかもしれない。
「パラノイアRPGにおける。一般的にそうだと信じられている間違った理解と。そのツッコミ。」
http://togetter.com/li/1016711
上記記事内におけるツッコミに、あまりにもルールブックの記載とかけ離れた記述があるようでしたので指摘を。
>他のPL達の反逆を暴き処刑することで、成り上がっていくゲームです
まったく違います。トラブルシューティングするゲームです。
パラノイアにおいてトラブルシューティングとは反逆者の処刑のことであり、ミッションの達成自体は重要視されません。
ミッション遂行に必要であるために反逆者を処刑するのではなく、反逆者を処刑することがトラブルシューターの目的です。
トラブルシューターを任ぜられたPCの目的 (=PLの行動指針) は 1) 生き残ること 2) 成り上がること 3) その他個人的目的 となります。
反逆者を処刑しコンピューターの信頼を得られればセキュリティクリアランスは昇格します。(昇格したキャラクターをプレイする機会があるかはさておき)
(ルールブック p3)
(ルールブック p158)
パラノイアでは、ミッションは必ず存在してはいるものの、(コンピューターを除いて)誰もこれを真剣に捉えていません。これにはもっともな理由があります。大抵のミッションは自殺祭りや当てのないボット探し、プログラムエラー、あんまり込み入っていて意味不明なんで GM も解っていないような陰謀といったものでできています。PC がミッションの目的を達成する事が期待されていなかったり、そもそも許されていなかったりする事もよくあります。PC が目的を解っていない事だって珍しくありません。ホラーアドベンチャーが玉葱を慎重に剥いていくものだとすれば、パラノイアのミッションは玉葱をレーザーで燃えカスにするようなものです。
(ルールブック p10)
こういった義務の他に、君のトラブルシューターには個人的目標がいくつかある。多くはアルファコンプレックスの市民なら皆持っているもので、大抵の市民は以下の様な優先順位をつけている。
1. 生き延びる!
3. 金持ちになる。
こういう普通の目標のほかに、他の市民とは違った目標を持っているかもしれない。
5. (任意) 自分と同種の能力を持つミュータントを見つけ出し、保護する。
6. (任意) 旧算世界の遺産を見つけて、集め、あるいは転売する。
パラノイアのキャッチコピーは「気を抜くな!誰も信じるな!レーザーガンを手放すな!」ですね。
PC間の不信と裏切りを助長するのがパラノイアのGMの仕事です。
(ルールブック p42)
(ルールブック p42)
何かやったプレイヤーにご褒美をあげれば、その行動を繰り返すでしょう。ですから、仲間のキャラクターを裏切ったり、死の罠から賢くも逃げおおせたり、創造的であったり滑稽であったりしたら、ご褒美を出します。本当に輝かしい動きをしたキャラクターには成功と昇格を与えましょう。輝かしい行動には常に報酬を!
好きにしていいんですが。
(ルールブック p42)
GM 用ルール第一条。全てを預かるのは貴方であり、貴方は常に正しいのです。我々がここに示すルールはあくまでガイド、ゲーム中に何を起こしたいか決まってないときに使ってください。起こしたいことが決まってるならルールは無視してください。我々は貴方のお役に立てるパワフルな道具になるよう全力を尽くしてルールを書いておりますけれども、どうもこのルールが気に食わないということでしたら、間違ってるのはルールの方です。良いルールは貴方を大いに助けてくれるでしょう。でも悪いルールというのは、叩きのめし、拷問にかけ、ロボトミー手術を施し、即時処刑にかけるためだけに存在するものです。
ただこのあたりは、本当に「GMがヒャッハーするゲーム」という誤解があったり。ルールを出来る限り適用しようと努力する(全部守れと言ってるわけじゃないです)GMが他システムより少ないので。
「そのGM、信用できる?」ってところに尽きるんです。
パラノイアでは、GMがルールに則り公平に判定していると信用される必要はありません。もちろん、GMがPLを楽しませようとしているということについては信頼される必要があります。
(ルールブック p42)
貴方が何を起こしたいか決まっているなら、(プレイヤーに見せずに)1d20 を振り、出目を無視します。必要なら、いろいろな表と結果を照らしあわせている体を出すのも有りでしょう。そうして、起こしたいことが起きたことにします。
ダイスという道具は、プレイヤーに自分自身で運命を決めているような幻想を持たせるには便利なものです。こういう幻想は良いものではありますが、でもダイスを振るときはプレイヤーの視界から隠し、ついたての後ろで振ると良いです。気に入らない目が出たら、それはダイスが間違ってます。好きな出目に変えちゃいましょう。出目に関する信用が減耗したり完全にお亡くなりになったりするかもしれませんが、経験から申し上げれば別段たいした影響はありません。
君の名は。を見たときに、考えなければならないことがあると思った。
作中、東京に焦がれる三葉と、次第に糸守の町に惹かれていく瀧の対比が私にはすごく印象に残った。二人は入れ替わったときにお互いの日常を遂行するべく生活を送るんだけど、三葉の「早く東京で生活したい」と叫ぶシーンは特に目を引いた。東京という街と糸守という町は対称的であるが、こうした憧れは住んでいる場所だけじゃなくてその地に根ざす文化だったりも影響している、と思う。例えば、作中に口噛み酒っていう神社で行われる儀式があって、三葉は神社の娘としてこの儀式に参加してるんだけど、多分それがすごくイヤなんだよね。実際、同じ高校のちょっとませた感じの女の子に「きったない(笑)」って笑われてショックを受けてたりして。だからこその「東京へ行きたい」っていうセリフが際立ってるんだけど、この気持ちは多分三葉が糸守で生まれ、宮水の子として生まれたからなんだろうなって思う。糸守に住む幼馴染のてっしーは「なんとなくこの町で就職してなんとなく生きていくんだろうな」ってことを言う。てっしーは町の土建屋の息子で、多分会社を継ぐんだろうなって感じてて、でも本当はUMAとか宇宙人とかそういうのに興味があるんだと思う。誰も思うように生きれなくて、でも仕方ないかと思って諦めてる。それに対して瀧は都会の高校に通って、友達とオシャレなカフェ行って、バイト先の先輩に恋して、自分で何でもやりたいこと決めて好きなようにやってる様に三葉には見えたんだと思う。逆に瀧は、三葉と入れ替わってくうちにどんどん糸守と宮水のことを好きになってく。二人とも、二人の一部しか知らなくて、でもその一部にどうしようもない魅力を感じてしまうの、すごく好きだしわかるなって思った。
こういうことはよくある日常の一部なんだろうけど、解消されないといけない問題だと思うし、こういう社会が存在していることが多くの人に知られるべきだと思う。そういう意味からも君の名は。は評価されうる映画だと思った。
批判している時点でおまえはここでの「一般人」に含まれていないでしゃばるなw
どうでもいいところにしか食いつかないバカこの論点に関してはどうでもいいところにしか食いついていないという指摘を他の論点には言ってるからという意味不明な理屈
他にも食いついてるだろ低能w つーか一言一句全部否定っていうスタイルを真似しようとしたから仕方ないんだよw
この部分は論点として余計だという指摘に対して他にも論点を挙げているは反論にならない
しかも全部否定しようとして論理展開も意味不明すぎな低能を晒してるだけだったな
先方の許可なく映像や写真を写さないで捜索するのと、誰でも見られるインターネットに画像や動画を流すこと。どちらがアウティングかは火を見るより明らかだと思います
捜索すると大々的にぶちまける時点でアウティングとしてタチが悪いのは5歳児でもわかるわな
もちろん流すのも悪だが大量に流通しているのでなかなか手に負えないし対応してもらうのが難しい
それ故に個々人は対処できないだけなのに、大量に流通してるからみんな許容してるンダ!という認識の時点で脳みそ腐りすぎてキチガイサイコパスなわけだし、
波及効果で言えばニコ動とかいう一部の動画サイト内で流れているものとそれ以外にもガンガン流れていく今回の企画どちらが悪いかは明確
大島がしてるのはアウティングの話であってネタ利用関係無いしかも「利用する」=「認める」という謎変換
ここでも日本語が通じていないっていうね
日本語が通じてないようだが、淫夢ネタで盛り上がってる連中を巻き込んだネタとして利用しているという話だぞ
まーたアスペ的な反応してるよ
目標としても現実達成不可能なものを人質にとって俺たちのやることに文句を言うなとか脳みそ腐ったキチガイはさすがっすねという話だろ
先述の通り、捜索すると大々的にぶちまける時点でアウティングとしてタチが悪いのは5歳児でもわかるわな
もちろん流すのも悪だが大量に流通しているのでなかなか手に負えないし対応してもらうのが難しい
それ故に個々人は対処できないだけなのに、大量に流通してるからみんな許容してるンダ!という認識の時点で脳みそ腐りすぎてキチガイサイコパスなわけだし、
波及効果で言えばニコ動とかいう一部の動画サイト内で流れているものとそれ以外にもガンガン流れていく今回の企画どちらが悪いかは明確
国立大の附置研(生物系)でポスドクをやっている。次の仕事が見つかったら可及的速やかにアカデミックの世界から離れたいと思っている。以下に記す文章はただの愚痴であって、研究者全体に一般化できるような話ではない。また、多くは、既にポスドク問題とかその辺りで語られてきたことでもある。しかし、何度語られようともこの業界が抱える問題はそのまま何も変わっていない。この状況が続く限り、私のようなポスドクが何度も何度も似たような文章を書き残して消えていくことになるのだろう。とにかく、今はもう我慢ならないから、駄文ではあるけれども書かせてもらう。
これ以上この仕事を続ける気が無くなった理由は二点ある。1)職務内容と待遇のギャップ、2)職務内容と自分がやりたいことのギャップの二点である。
附置研の予算で雇用されている契約職員である。給料は時間給で払われていて、勤務日数によって異なるが、額面で約20万である。手取り16-17万程度。勤務時間は週30時間となっているので、社会保険と厚生年金に入れる。賞与無し・昇給無し。任期は、一年ごとの更新で、最長三年となっている。給与に関して言えば、学生の頃よりも入ってくる現金の量は減った。学生の頃は様々なるところからかき集めてきた奨学金が月20万円ほどあった。入ってくるお金が減ったのは、税金とか保険とか年金のためであるが、社会人になった途端使えるお金が少なくなるというのはかなり心にくるものがある。
同じ仕事をしているポスドクでも、お金の出所によって待遇が全く異なるということはよくあるのだが、うちの研究所では、同じ研究所の予算からお金が出ていても、採用のタイミングによって待遇が異なる。私より早く採用されていたポスドクは、年収が100万円ほど高い。後何年か経ってから採用されるポスドクも、私より100万円高い給料で雇われるはずである。この辺は細かい規定があるのだが、ここでは説明しない。担当するプロジェクトは違うとはいえ、立場は同じであるし、業務の内容に本質的に差が無いのにこの差があるのは相当にやる気がそがれる。
休日等はどうか。私は、同じような分野の研究者としてはかなり甘々な環境に居るとは思う。しかし、それでも平日は平均で11時間ほど研究室に居る。休憩を除けば、一日当たり4時間の残業である。しかし、これは全く管理されていないので、全てサービス残業となっている。研究室に生き物が居るので、休日は実験が無くとも出勤する必要がある。この辺りはどこの研究室でも、博士後期課程の学生とかポスドクの仕事である。これがあるので、完全な休日(研究室に全く行かない日)は年間で10日程となる。これも全く管理されていない。休日に出張が重なった場合は、さすがに事務の方で処理する必要があるので、代休を与えられる。しかし、それは出勤している日に、「今日は代休取ったことにしておきます」と言われるだけのものである。そして、どんな計算をしたのかわからない日当700円が振り込まれるのだ。代休は実質使えないため、この700円は土日分の賃金の全てである。
この待遇で雇っておきながら、ボスはポスドクが出ていくということを全く考えていない。この程度のお金さえ与えておけば、ポスドクは任期満了までここに居ると確信している。やめると言い出したらまず間違いなく強く慰留されるだろうし、それがやめるための一番高いハードルになっている。私にはまったく理解できないが、世の中には無給ポスドクというのも居るらしいし、保険や年金に入れるだけまだ恵まれた方であるという話もある。だから、普通の研究者というのは上記の待遇をごく普通だと考えているのだと思うし、不満を言うのは私の甘えかもしれない。しかし、自分の価値はそんなものなのかと思うと悲しくなってしまう。
生きていくのに足りる程度のお金をもらえて、自分の好きなことができるという職場であれば、それでも来る人はいるだろう。そして、多くの場合、研究者がネットで愚痴を吐いたときに、「でも好きなことをやっているのだからいいのでは」、「小説家や芸能人を目指すのと同じであるのに研究者だけ特別に問題視するのはおかしい」「研究の傍ら副業でお金を稼いでこないのは甘え」というような話が聞かれる。だが、現実には研究者というのはサラリーマンである。「好きなことで生きていく」というのとはだいぶ様子が異なる。
私が雇われているのはあるプロジェクトを遂行するためであり、その内容はまさに私が強く興味を持っているものなので、私の仕事がそのプロジェクトを進めることだけであればまだ納得できたかもしれない。しかし、今の私の最優先の仕事は別のプロジェクトである。それは、お金のために魂を売ったような爆死プロジェクトで、お金を取ってきたあとしばらく放置されていたものだ。お金を集めるためにいろいろなところに妄想を書いて送っているため、研究室は処理しきれないテーマを抱えることになる。そして、それはポスドクとか学生とかに適当に振られる。そのうちの一つが私のところに落ちてきたのである。このプロジェクトは締め切りが近く、しかも白紙であるため、優先的に処理せざるを得ない。また、「この分野のこと何も知らないけど、大学院入りました。これから実験頑張りたいです!」とキラキラした目で語る学生の指導もしなければならない。教員でない人間に一から育てる仕事を振って良いのかとも思うが、頼まれたのでやるしかない。これも相当な労力である。それから、土日は出張が多い。自分が興味を持っている分野の学会に参加するのであればいいのだが、実際には、政治的な理由で行われる研究会に政治的な理由で参加するというようなものである。好きな実験のために土日出勤するのであればいいが、何の対価も無く興味のない話を休日に聞くというのは精神を疲弊させる。概ね週末の20-30%はこれでつぶれる。
この愚痴で強調したいことは、研究者(特に下っ端の)というのは自分の好きなことをやって生きているようなものではなく、サラリーマンなのだということだ。だから、研究者を特別視することなく、サラリーマンとして考えてほしい。上記の待遇が企業において問題になるのであれば、我々の場合にも同じ程度に問題になってしかるべきである。公的機関であるにも関わらず、労働者との間に自分たちで定めたルールを全く守る気がないのは何なのだ。超過勤務に関する規則など何のために定めたのだ、一円も残業代を払うつもりが無いのに。これだけ人を馬鹿にした態度を取って、ルールをないがしろにする組織や、そこに属する人が科学に対してだけは誠実であるとどうして信じられるのか。
もうこの国は科学技術立国などという題目を掲げるのをやめたらいいのではないか。この問題は少なくともこの10年ほど全く進展が無いように思える。大学院生やポスドクの犠牲のもとに研究成果をあげる、というのが国の方針なのだとしたら今の状態が正しいのかもしれないが、私にはそこまで出来ない。
海から来る怪獣で、なんか水爆実験が関係してて、悪いだけのやつじゃないっぽい・・・とか、それくらい。
ガメラは2と3だけテレビでやってたの観たけど、あんまり覚えてない。
庵野監督のことも「エヴァの人」ということはわかるけどエヴァは観たことない。
使徒と戦うとか、シンクロが云々とか、「逃げちゃダメだ」とか「ありがとう」とか、なんとなくは知ってる。
特撮は日曜朝の戦隊ものをたまに観るくらい。ゴーバスターズは良いぞ。
(今、私が同じ映画を何度も観たり、映画館に年20回以上行ってるのも、すべてはパシリムがあったから)
そんな思いに駈られて、行ってきました、シン・ゴジラ。
最後列やや下手より。一席あけて右にはおじさん、左には若いカップル。
全体的な客層は男の人が多いような気がした。
「思ってたんと違う!!!!」
これにつきる。
断っておくけど、良い意味で。
良い意味で予想と期待を裏切られまくった。
以下、ネタバレ注意の覚書。
とはいうもののすでに記憶がかなり曖昧なので、間違ってるところもあるかもしれない。
シン・ゴジラのゴジラは、第一形態から第四形態まで「進化」する。
それを全く知らなかった私は、初めて巨大不明生物(=ゴジラ)がその姿を現したとき、驚いた。
なんかもうひたすらキモい!
目玉ぎょろぎょろで、エラから赤い液体ドバドバさせて、不格好に地面を這いずる姿は、キモいとしか言えなかった。
私の知ってるゴジラは二足歩行で、もっと無骨な、かっこいい怪獣というイメージがあったからだ。
「このキモい変なやつを倒しに来るのがゴジラなのかな」とか思ってた。
そんな私の目の前で、ゴジラは突然「進化」した。前足が生え、直立して、吠えた。
そんな私の想いをスクリーンの中で口にしてくれたのが長谷川博己演ずる矢口だ。
進化する未知のゴジラは、そんな両者の溝を埋めてくれた気がする。
あの瞬間の「そんなんありかよ」という気持ちは、間違いなく私と映画の中の人々との間で一致していた。
そして完全に「私の知っているゴジラ」になった瞬間に流れるゴジラのテーマ!これにはめちゃくちゃ興奮した。
ゴジラだ!ゴジラがやってきた!!!!うおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!
応援上映とか絶叫上映とかなら確実に叫んでた。
というか叫びたいからどこかの映画館でやってほしい。やってくれると信じてる。
ゴジラに対する「何だそれ、すごい・・・」の瞬間は、完全体の第四形態になってからも何度も訪れる。
まずこのゴジラめちゃくちゃ硬い。
完全にノーダメージかつノーリアクションで、なんかもう絶望感がすごい。
そんな絶望がさらに増すのが、火炎放射からのレーザー光線発射のシーンだ。
米軍の攻撃が効いた!これでゴジラを倒せる!と思った瞬間、ゴジラは口から火を噴く。
この瞬間まで私はゴジラが火を噴くことを完全に忘れていた。
やはりここでも、ゴジラのことを何も知らない映画の中の人々と同じ驚愕と絶望を味わうことになる。
しかもゴジラは口からだけでなく背面から無数のレーザー光線を発射。
なぎ倒され爆発するビル群、あっさり撃墜される米軍機、理解の範疇を越えた圧倒的攻撃力。
もう東京は・・・日本は・・・人類はおしまいだ・・・という気持ちになってくる。
思ってたんと違う姿で現れたゴジラは、私が知らず知らずの内に抱いていた「ゴジラってこういうもので、きっとこういう話で、こういう映画でしょ」という先入観を完全に破壊した。
私はシン・ゴジラを、パシフィック・リムやマッド・マックス 怒りのデスロードを観に行くのと同じような気持ちで観に行った。
ドーンってなって、バーンってなってズダダダドカーンってなるのを楽しみにしていた。
そしたら、全然違った。
シン・ゴジラの破壊シーンや戦闘シーンは、全体的にとても地味だと感じた。
最初に上陸した第二形態のゴジラはずるずる移動するだけだし、第四形態のゴジラも積極的に街を破壊している印象はなかったし、対する人間の方にも必殺技や秘密兵器があるわけでもない。
というかそもそもゴジラは、そういうアクションがメインの映画ではなかった。
ド派手なアクションで魅せる洋画とは全く違う、上手く言えないけれど、とても「日本の映画」だった。
でもそれは決して悪い意味ではない。むしろめちゃくちゃ良かった。
東京に巨大不明生物が現れた。そんなとき動き出すのは巨大ロボでも特殊戦隊でもなく、日本政府。
「はやくドギャーンってなるとこ見せてくれよぉ」と思いながらも、堅苦しい言葉と、面倒くさい思惑が飛び交う会議シーンに釘付けだった。
正直、政治には明るくないし、次々と表示される役職名は全然頭に入って来ないし、聞き取れなかった台詞もあったが、でも入って来なかった情報はきっとなくてもいい情報だったんだと思う。
大事なのは、「今の東京に本当にゴジラ(のような巨大不明生物)が現れたらきっとこうなるぞ」という感覚だと思う。
前例のない事態に混乱しながらも結論を急ぐべく無理やり型に嵌めようとして結局対応が後手に回ったりして、そういう「上手くいかない」「そうじゃない」ってとこも含めて、リアルでとても良かった。
でも、もたもたして見える政治家たちも、みんな事態を解決し、東京(日本、国民)を救うために全力を尽くしている点は皆同じである。
そうして面倒な会議を経て、ゴジラの脅威を一通り目の当たりにして、ようやく立ち上がるのが、巨大不明生物災害特設対策本部、通称・巨災対だ。
この巨災対はいわゆるオタクや変人の集まりで個性派ぞろいなのだが、みんな論理的なことしか言わないのがとても良い。
きっとこんな事態じゃなければ日の目を見ることのなかった厄介者たちが活躍するロマン。
アツいのは現場で戦う者だけじゃないのだ。
だからと言って、現場で戦う者たちがカッコ良くないわけがない。
だからこそ、隊列を組んで飛ぶヘリや、次々と持ち場につく戦車のかっこ良さが際立つ。
作戦を練り「確実にやります」と言い切る自衛官や、黙々と遂行する自衛隊員たちのストイックさにも惚れる。
戦闘シーンといえば、私が一番興奮したのが新幹線爆撃と在来線爆撃だ。
ここでまたゴジラの有名な曲(曲名思い出せない)が流れるのもアツい。
とくに在来線爆撃は、色とりどりの在来線が同じタイミングでゴジラに突撃し、爆発と共に宙を舞うのが最高だった。
リアルを追求した今作の中で、実際にあるものを使ったありえそうな攻撃ながらいったい誰が思いついたんだというこの攻撃。
戦闘シーンで最も「思ってたんと違う!!!!」のは、ヤシオリ作戦だ。
物語の終盤、核兵器による解決をなんとか回避しようと急ピッチで進められたこの作戦。
無人機による攻撃や在来線爆撃、ビルの爆破によるゴジラの保定を成功させる流れは堅実ながら華があり、とても良かった。
工事用車両(建設機械)が好きな私としては、コンクリートポンプ車の活躍も嬉しかった。
そうしてゴジラの活動を完全に停止させ、ヤシオリ作戦は大成功に終わるのだが、何が「思ってたんと違う」かって、この作戦終了の瞬間が地味なのだ。
観ている側としては、
「やったーーーーーー成功だあああああああああああああああ!!!!!!」
と飛び上がってハイタッチして抱き合いたいくらいの気持ちなのに、映画の中の人々は一切そういうことはしない。
でも、あとから思うと、この映画の中ではそれで正解だったのだと思う。誰もが想像もしなかった巨大不明生物の来襲。大きすぎる被害、多すぎる犠牲者を出しながら、成功するかわからない作戦にかけた結果なのだ。
現実感がない中で、静かに「俺たちはやった・・・やりきったのだ・・・」と噛みしめるのが、似つかわしいような気がする。
「倒したぞやったああああああ」は、きっと、ゴジラが虚構だと知っている側の感想なのだと思う。
シン・ゴジラに対して言いたいこと、話したいことはまだまだたくさんある。
豪華すぎる出演陣どこにいたのか全くわからなかった、とか。
石原さとみやっぱりめちゃくちゃ美しい可愛いZARAはどこ?、とか。
巨災対のメンバーの活躍だけにクローズアップしてもう2時間観たい、とか。
でもまとまらないのでこれくらいにしておく。
そもそもこうして書き殴っているのは、こういうことを話したくても話せる相手が周りにいなかったからだ。
劇場を観たあと、複数人で来ていた人たちが口々に感想を言い合っているのが、とても羨ましかった。
その物足りなさを埋めるように、今まで封印していたネタバレブログやレビューを漁って、それでますます我慢できなくなって、この文章を書いている。
ネタバレブログを読んでいて気になったのが、「万人受けはしなさそう」とか「知らない人はわからないんじゃない?」みたいな意見だ。
とくに昔からゴジラが大好きで、新作公開を待ち望んでいた人たちが、よくこう書いていた。
とりあえず私は少なくともあと2回は観たい。
そして売り切れていたパンフをなんとかして手に入れたい。
何も知らなくても、なんかよくわからなくても、ゴジラはすごかったです。
おわり。
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
選挙が終わるたびに、各候補や各党について、この主張が〇〇層の人気につながっただの、こんな選挙戦しかできないようでは×党は終わりだだの、そういうニュースやコメントが増える。選挙結果をよく説明する分析も当然あるだろうけど、これ、もういいわ〜って思う。"×党は選挙がヘタなので終わっている"ということを投票する側に理解させてどうするんだろう?"では、選挙が上手な〇党に入れましょう!"って話がしたいんじゃないだろうに。
必要なのは、当選した人が今後いい仕事をするように促すことや、人気取りの技術に依存して当落が定まってしまう(しまった)ケースを注意・反省することだと思うけど、分析結果をそういうことに貢献する考察まで持っていってるのはほとんど見たことがない。単に分析結果を説明するだけなので、人気取りにおいて優秀な人が、あたかも為政者として相応しい人であるかのように感じてしまう。でもちゃんと考えたら、人気を集めて維持する技術がある人を為政者として選びたい訳じゃない。ある状況で適切に振る舞えることは、プラスではあるけど、選ぶ決め手にするほどのことではない。行政の仕事を遂行するには別の能力がたくさん要る。
この当たり前のことを改めて確認し、気持ちわる〜くなった夏の1日。
なお、報道は事実を伝え、解釈は受け手に委ねるのが大事みたいな話はこの場合眠たい話。各メディアの解釈がきちっと構築してあるほど、各々をぶつけたり比較したりする間に話を深められる。正直、自分の解釈を打ち出すのを尻込みしてるから、代わりに"客観的"な技術分析でお茶を濁してるように感じる。
とか言ってますが、自分のこの記事自体が技術分析みたいなもんです。ごめんなさい部屋の掃除でもしてさっさと寝ます
分析は大事だしそれなりに難しいけど、きちんとした分析結果をつかって解釈や主張をまとめるまでが本当の仕事です。メディアの皆さま頑張って!ということです。本当に言いたいのはね。
あなたが休職をすることで、周りの人たちに仕事のしわ寄せがいった。
恨み言を言うような人間はいないが、それはその状況を仕事として受け入れただけであり、あなたの休職を是としたわけではない。
あなたを許している人などいない。
あなたが復職をすることで、必要以上にあなたに気を使わなければならなくなった。
言葉には気を使わなければならないし、重い仕事を振ることは避けなければならない。
あなたが精神的に弱いと主張するならば、あなたの行動は全く理解できない。
あなたは本当に傷つき、休まざるを得なかったのかもしれない。
それでも休んだときに他人に迷惑をかけ、復帰したときにも他人に心労をかけている事実は変わらない。
その自覚があるのなら、なぜ"精神的に弱い"あなたはそんなにも平然と過ごしているのだろう。
私達はあなたが休職したことで仕事が増え、そして復職したあなたに気を使い、消耗していく。
そして今後、あなたに重要な仕事を振ることはない。どうせ途中でまた休職してしまうのだから。
あなたが精神的に弱いわけじゃないのなら、環境が本当に悪いのだろう。
だけれどあなたは精神的に弱いから耐えられない、こんな私を社会が認めてくれないと言う。
ところで図々しく休み、図々しく復帰し、図々しく生きているあなたの精神のどこが弱いのだろうか?
教えて欲しい。そして退職して欲しい。あるいは、消えて欲しい。
私は精神病を否定するつもりもなければ、根性論を唱えるつもりもない。
自分で"精神が弱い"と主張しながら、このような強い精神を持たなければ耐えられないような行動を起こすあなたに問いたいのだ。
[追記]
結局自分も休職をしたいほど消耗しているが、その勇気すらなかったことから来る疎ましさが自分の中にあるのだと気付いたので、そろそろ病院へ行こうと思う。
私個人としては普通に接しているつもりであるが、それでも"私のせいで休職します"などと言われたらどうしようかなどと考えている間は、ブコメにあるように私が精神病なのだろう。
色々な意見はあったが、特に"休職は復職を前提とし、復職を否定するものではない"という制度を説明しただけの当たり前の言葉がとても考えさせられた。
まさにその通りで、当人は休職期間で無事治療を終えたから復職できたのだろう。
治療を終えたとはいえ、以前と同じような仕事の振り方であるとか、気を使わずに接するだとか、そういった行為は今後も不可能であろうが、私のような考えの元に"気を使っている"などと主張するのは明らかにおかしい行為なのだと気付いた。
ただひとつだけ、"精神的に弱い"は私の主観でも客観的な感想でもなく、休職した理由として今もなお盛大に本人自身が主張しているために引いた表現である。
読み返すと特にタイトルからその意図が消失していたため修正しておく。
新) 精神的に弱いために対人的な精神病になったと自ら主張し、それを理由に休職する人へ
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進展があったので、補足も兼ねて再度追記をする。
また追記は下部に書いた方が良いという方々がいたため、移動させた。
まず補足から。
そもそも休職した人とは同じチームではなかった上、自席から見える程度の位置関係であったけれど、特別仲が良いというわけでも悪いというわけでもなかったと思う。
それが当人の復職後、私の元々所属していたチームに異動してきたことにより、現在は一緒に働く形となっている。
私の職業はとある専門職に分類され、私と当人はたまたま同じ領域であり、当人が休職中の間は私がそのチームの業務の一部を請け負っていた。
当人休職を受けた会社の対応として、上記の仕事の割り振りに加え、休職直後より増員のため採用強化を行っている。ただそう簡単に見つかる人材枠ではなく、当人の復職直前に一人採用が決まった。ただその人はまだ入社時期となっていない。
"当人を潰したのはお前ではないか"といった意見があったので言い訳がてら書かせてもらうと、元より潰せるほど大した交流をしていない。
当人が体調不良で休んだ時に運悪く緊急対応が発生し、私が処理をしなければならないこともあった。特に恨みなども抱いていない。
その逆はなかった。というのも単に私がまだ体調不良で欠勤したことがなく、長期休みも皆が同じ日程で取る企業であるからというだけである。
もし私が体調不良になっていたら、ヘルプをお願いしていた可能性は否定できない。自覚をしたことはなかったが、私自身、その点に関してはある種の安心感を抱いていたのかもしれない。
"発言に気を使うのは当然ではないか"という意見があった。当たり前であるが、必要以上に気を使うのだ。
同僚が有給を使って1週間の休みを取っていたため、"いいですね。お土産買ってきてください"と今までは当たり前のように言っていた一言を発した途端、当人が隣で泣き始め早退してしまった。
軽はずみな発言なのだろうか。確かに当人にとっては嫌味かもしれないが、そこまで制限しないといけないのだろうか。もう良く分からない
(それはそれで非情なのかもしれないが) 復職当初は同情も恨みも何も抱いていなかった。
休職中に発生した事案の説明や引き継ぎを行うため、当人にミーティングを申請したところ、"まだ精神的に弱くて仕事をする気分にはなれない"という言葉が返ってきてから少しずつ嫌悪感が増したのだと思う。
最近ではよく遅刻をしてくるが、"精神的に弱くて不安で眠れないんですよね"などと枕詞のように"精神的に弱い"という言葉が入る。
ここまで来ると"精神が弱い"は本人の口癖なだけなのかもしれない。またそんな人は他にそうそう居ないのかもしれない。
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病院からは休職をするように言われた。無理でないなら会社と面談を行っても良いとの話だった。
要約すると、
"休職・復職の支援をすることが会社の責務であり、辞めさせることは不可能であるし、企業としては間違った行為であるためするつもりはない"
"ただし当人が十分な業務を遂行できない旨は把握しており、査定への反映や別チームへの異動が決定している"
"当人が '私にならできる' と休職時にチームメンバーへ言い残したため、プロジェクトの調整を行ってもなおどうしても外せなかったいくつかの仕事をお願いした"
といった話であった。
面談によって、当人が休職中の間、私がそのチームの業務の一部を請け負う形となった理由がわかった。
ただ要約の結果、当人に非があるように見える書き方になってはいるが、その意はなく、人員不足が影響していることは分かっている。
無視をすればいいという人達もいるが職種的に厳しいものがあり、会社が辞めさせられないという現状も理解はしている。
誰でもできる仕事であれば適当に人を増やせば事足りるが、それもできない。
"退職してしまったらもっと仕事が増えると気づかないのか"という発言があったが、その人がいることで生産性が下がり、業務に関係のない仕事や仕事ではない労力が増えるという経験をしたことがないのだろうか。
当人の生産性は目に見えて落ちている。今までやっていたはずの仕事をお願いしようものならその日は15時頃に"体調不良のため早退します"と言われる。必要以上に発言に気を使いながら、当人の面倒を見なければならない。
数ヶ月なら我慢できるかもしれないが、今後当人が存在する限り継続して続く現実が耐えられない。とはいえ会社を信じるならその現実は避けられるようだが、それでもやはり疑問が残っている。
"同情をすればいいのか、何もなかったように接すればいいのか、本当に分からない。本当に働いている人達はどうやって過ごしているのだろうか。何か正解はあるのだろうか。"
それまでは指示がコロコロ変わろうが勘違いで怒鳴られようが平謝りしてきたけれど、ある日堪忍袋の緒が切れて上司に噛み付いた。
上司は職場内で絶大な権力を持ち、社長であっても口出しできないくらいのポジションである。
もともと感情的な人だったので、発狂して椅子でも振り回すのかと思ったら、意外にも最後は私に謝って来た。
それ以降、何か言われても上司に非がある場合はあまり謝らないことにした。
そういう時は怪訝な顔つきをしながら、何を言ってるのかわかりませんと答える。当然上司は怒るが華麗にスルー。
一度上司の態度がどうしても気に入らなかったので退職届を叩きつけた。
上司自ら説得に入られたが、心を入れ替えて頑張る気はないのかなどとぬかしてきた。お前が入れ替えろ。
結局退職届は受理されず、同僚の説得もあって仕事を続けることにはなったんだけど、そこで考え方が完全に変わった。
上司に逆らった末路を考えるとして、自己都合よりは失業保険が早くもらえるわけだから、上司を怒らせない理由がまったくなくなってしまった。
業務を遂行する上で上司を気にかけなくなったので、以前より怒鳴られる頻度は増しているがあまり気にならない。
植松さんは、「困っている人の手助けをしたい」という純粋な思いから介護職を選び、あの園に就職したのだと思います。
崇高な理念というと大げさだけど、それなりの矜持を持って職務を遂行していたはずです。
介護の仕事でも、身体障碍者や高齢で動けない人の世話というのは、体力が必要で重労働になりますが、
何より、本人から感謝されることが多いので精神的に救われます。
ところが、認知症患者や知的障碍者の場合は、全く異なるのです。
園内の生活ルールについて、最初は優しく、何度も何度も繰り返し、教え諭すように指導しても言うことを聞いてくれません。
生活ルールというのは、例えば、今からお昼を食べましょう、スリッパで他人を叩くのをやめましょう といった、
常識のある一般人にはルールですら無いような当たり前の慣習のことです。
介護士の立場では、少なくとも1日に3食は食べさせ、適当にあそばせ、排せつ・入浴を済ませて、寝かせるという作業ノルマがあります。
でも、全然思い通りに言うことを聞いてくれません。
まるで動物を相手にしているかのように錯覚してしまうほどです。
だから、大声を出して怒鳴ったり、無理やりひっぱって行わせようとします。
皮肉なことに介護士がそういう振る舞いをすればするほど、知的障碍者は意固地になって頑なに反抗します。
最終的には介護士が手をあげてしまう。殴る・蹴るの痛みで指示に従わせてしまう。
びんた程度の暴力は黙認している園も少なくないです。
他の利用者に迷惑を掛けるような行為に対して体罰は今でも有効な手段です。
この時点で、「いやぁぁ。介護職は無理だわ。他の職にするわ」と思える程度に理性と楽観が残っていれば、今回の事件は起こらなかったでしょう。
壊れた彼の頭脳は、最後の理性を振り絞って「障害者が安楽死できる世界を」と言う手紙を公邸に送りました。
知的障碍者自身の苦しみ、知的障碍者を家族にもった親族の苦悩と真摯に向き合った彼ならではの考えだと私は思ってます。
知的障碍者介護の当事者になったことのない人には、「障害者が安楽死できる世界を」なんてただの世迷言としか思えないでしょう。
当然誰にも相手にされません。
だから、彼は今回の凶行におよんだのです。
「全ての知的障碍者を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来の全ての知的障碍者をこの手で」
それが叶わぬなら、せめて自分の手で殺せる限りの全員を…
追記:彼のことを優生思想の持ち主だと批判する人が多いようですが、
うちは共働き夫婦なのだけど、家事は原則分担している。長い間家事をやっていると、個々人で得意な家事とそうでない家事がわかってくる。例えば、私は料理と床掃除が得意で妻は洗濯と水回りの掃除が得意といったように。
そうなると、自然と得意な家事をやるようになるのだけど、日常で自分がやらない家事は自然とサービス化してしまう。サービス化というのは、自分が子どもの時に母親がやってくれていたのと同様で、「誰かがその家事をやってくれて当然」という感覚である。もちろん、どんなに得意な家事にも労力はかかっているのでそんなことはない。
家事がサービス化すると、サービスが遂行されていない時やサービスの品質が低下したときに問題になる。やってはいけないが、サービスの品質が悪いことを糾弾したり、サービスを継続するように要求したり。サービス化している状態はその家事を行う本人も薄々と自覚しているので、やるべきなのはわかっている。だが、体調や他の事情によって完全にできないことは当然ある。そこで糾弾をしてしまうと、相手のストレスになったり喧嘩になったりする。
解決策としては、サービス化した家事に労力がかかっていることを意識することだろう。労力は体調や気分によって変化するものなので、相手の状態も加味する必要がある。また、労力がどれくらいのものであるかは体験しないとわからないので、その家事をやったことがないというのは論外である。さらに、得意不得意の問題もあるので、自分にとって得意な家事が相手にとって低い労力で遂行できるものとは限らない。
その時々の家事の労力を見積った上で、労力が可能な限り公平になるように取り計らうのが健全な関係を維持するのに必要だと思う。また、労力に対して労力で返す必要はなく、褒めるとかでも良い。共働きでない家庭ではそれがお金だったりするかもしれない。
どうしても労力リソースが足りないときは双方の合意のうえでサービスレベルを下げるのもひとつの手で、例えば流しに洗い物が溜まっていることを許容したり。日本では専業主婦が多かった時代があるせいか、家事に過剰なクオリティを求めすぎているような気はする。日常生活に支障が無ければどんどんサボって良い。
資本家にとって自明なことは、労働者は彼の1生活日の全体をつうじて労働力以外のなにものでもないということ、したがってまた、彼の処分しうる時間はすべて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものだということである。
人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みのための時間などは、日曜の安息時間でさえも──そしてたとえ安息日厳守の国においてであろうと──ただふざけたことでしかない!
ところが、資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。資本は、身体の成長のためや発達のためや健康維持のための時間を横取りする。資本は、外気や日光を吸うために必要な時間を取り上げる。資本は、食事時間をけずり、できればそれを生産過程そのものに合併する。
「いくつになっても夢を抱き続けていたい」「年をとっても夢を語りたい」という台詞をふと思い浮かべた。決して若いとは言えない年齢だが「事業としてこうしたことを実現させたいんだ」という人を見るにつけ、「この人はすごいなあ」と思うようになったのはいつからだろうか。
小さいころは学者になるのが夢だと文集に書いてあった。“よくわからない薬品で遊んでボカン!”といった非日常的な世界に憧れていたからだろうか、Dr.スランプアラレちゃんの則巻千兵衛やポケットモンスターのオーキド博士のように、小さいころに見ていたアニメの世界の中にいたコミカルで気さくな学者キャラクターが好きだったからだろうか。当時なぜそうなりたかったのかという答えについて、今や断片的な記憶しか持ち合わせていない。
また、その夢を追いかけることはできただろうか。いわゆる理系の学者に憧れていたが、高校では理科よりも歴史が得意だったという理由から文系を選択した。そんな理由で大学に入ったものの「文科系の学問ってあまり面白くないな」と思い、理転をした。(幸か不幸か、いわゆる文理融合と呼ばれる大学にいたので、退学とか仮面浪人という選択肢は取らずに済んだ。)選択肢はいくつかあったわけだけど、その中でも分野的にはコンピューターが得意だなと思って、情報系に転向した。夢や目的よりも、ネガティブな理由だったりスキルとしてこっちのほうが適正があるなといった理由で自分の進路を決めてきたので、夢は追いかけられていないのだろう。
というか、そもそも夢って何だろう。夢を実現することをゴールとするならば、それに向かって努力をするというレールができる。それを研鑽していけば、夢を追いかけるということになるんじゃないか。つまり夢を抱くということは、ゴールを設定するということになるのだろう。仮に夢が「宇宙飛行士になりたい」というものだったらそれに相応した勉強をして、研究成果を出すことが夢を抱き、夢を追いかけることになる。そんな単純な論理だと思う。
だけど今の自分にはそのゴールが何なのかがわからない。得意な分野・必要とされる分野で求められる事を遂行してここまで生きてきた。いわば、夢の抱き方、ゴールの設定の方法がわからないのだ。
たぶんそれなりに評価されて生きてきたんだと思う。だから夢みたいな確固とした目標がなくても、なんだかんだ生きていけたんだと思う。だけど、いま後ろを振り返ってみると、何も残っていないような気がした。ステージとしてどんどん高いところには立てていると思うんだけど、まっすぐというよりはクネクネした道を通ってきていて、正直この先どうなるかもはっきりとはわからない。
夢がなくても生きてはいける。だけど、夢を抱いていたらどんな生き方になっていたのだろうか。この目で反実仮想の世界が見れるなら、見てみたいものだ。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/119/119tx.html
前文
第三章 国会
第四章 政府
第五章 国家財政
第六章 地方制度
第七章 司法
第八章 公務員
第九章 憲法改正
前文
天皇制支配体制によつてもたらされたものは、無謀な帝国主義侵略戦争、人類の生命と財産の大規模な破壊、人民大衆の悲惨にみちた窮乏と飢餓とであつた。この天皇制は欽定憲法によつて法制化されてゐた様に、天皇が絶対権力を握り人民の権利を徹底的に剥奪した。それは特権身分である天皇を頂点として、軍閥と官僚によつて武装され、資本家地主のための搾取と抑圧の体制として、勤労人民に君臨し、政治的には奴隷的無権利状態を、経済的には植民地的に低い生活水準を、文化的には蒙昧と偏見と迷信と盲従とを強制し、無限の苦痛をあたへてきた。これに反対する人民の声は、死と牢獄とをもつて威嚇され弾圧された。この専制的政治制度は日本民族の自由と福祉とに決定的に相反する。同時にそれは近隣植民地・半植民地諸国の解放にたいする最大の障害であつた。
われらは苦難の現実を通じて、このやうな汚辱と苦痛にみちた専制政治を廃棄し、人民に主権をおく民主主義的制度を建設することが急務であると確信する。この方向こそかつて天皇制のもとにひとしく呻吟してきた日本の人民と近隣諸国人民との相互の自由と繁栄にもとづく友愛を決定的に強めるものである。
ここにわれらは、人民の間から選ばれた代表を通じて人民のための政治が行はれるところの人民共和政体の採択を宣言し、この憲法を決定するものである。天皇制はそれがどんな形をとらうとも、人民の民主主義体制とは絶対に相容れない。天皇制の廃止、寄生地主的土地所有制の廃絶と財閥的独占資本の解体、基本的人権の確立、人民の政治的自由の保障、人民の経済的福祉の擁護――これらに基調をおく本憲法こそ、日本人民の民主主義的発展と幸福の真の保障となるものである。日本人民の圧倒的多数を占める勤労人民大衆を基盤とするこの人民的民主主義体制だけが帝国主義者のくはだてる専制抑圧政治の復活と侵略戦争への野望とを防止し、人民の窮極的解放への道を確実にする。それは人民の民主的祖国としての日本の独立を完成させ、われらの国は国際社会に名誉ある当然の位置を占めるだらう。日本人民はこの憲法に導かれつつ、政治的恐怖と経済的窮乏と文化的貧困からの完全な解放をめざし、全世界の民主主義的な平和愛好国家との恒久の親睦をかため、世界の平和、人類の無限の向上のために、高邁な正義と人道を守りぬくことを誓ふものである。
第二条 日本人民共和国の主権は人民にある。主権は憲法に則つて行使される。
第三条 日本人民共和国の政治は人民の自由な意志にもとづいて選出される議会を基礎として運営される。
第四条 日本人民共和国の経済は封建的寄生的土地所有制の廃止、財閥的独占資本の解体、重要企業ならびに金融機関の人民共和政府による民主主義的規制にもとづき、人民生活の安定と向上とを目的として運営される。
第五条 日本人民共和国はすべての平和愛好諸国と緊密に協力し、民主主義的国際平和機構に参加し、どんな侵略戦争をも支持せず、またこれに参加しない。
第六条 日本人民共和国のすべての人民は法律の前に平等であり、すべての基本的権利を享有する。
第七条 この憲法の保障する基本的人権は不可侵の権利であつて、これを犯す法律を制定し、命令を発することはできない。
政府が憲法によつて保障された基本的人権を侵害する行為をなし、またかやうな命令を発した場合は人民はこれに服従する義務を負はない。
第八条 人民は日本人民共和国の法律と自己の良心以外にはどんな権威またはどんな特定の個人にたいしても服従または尊敬を強要されることはない。人種、民族、性別、信教、身分または門地による政治的経済的または社会的特権はすべて廃止され今後設置されえない。皇族、華族の制度はこれを廃止する。称号、勲章その他の栄典はどんな特権をも伴はない。かやうな栄典の授与はあたへられた者にたいしてのみ効力をもつ。
第九条 人民は民主主義的な一切の言論、出版、集合、結社の自由をもち、労働争議および示威行進の完全な自由を認められる。
この権利を保障するために民主主義的政党ならびに大衆団体にたいし印刷所、用紙、公共建築物、通信手段その他この権利を行使するために必要な物質的条件を提供する。
第十条 人民に信仰と良心の自由を保障するため宗教と国家、宗教と学校は分離され、宗教的礼拝、布教の自由とともに反宗教的宣伝の自由もまた保障される。
第十一条 人民は居住、移転、国外への移住、国籍の離脱ならびに職業選択の自由をもつ。
第十二条 人民の住宅の不可侵と通信の秘密は法律によつて保護される。
第十三条 人民は身体の不可侵を保障され、何人も裁判所の決定または検事の同意なしには逮捕拘禁されることはない。
第十四条 何人も裁判所で裁判を受ける権利を奪はれず、裁判は迅速公平でなければならない。
第十五条 人民を抑留、拘禁した場合、当該機関は例外なく即時家族もしくは本人の指名する個人に通知しなければならない。また本人の要求があれば拘束の理由は直ちに本人および弁護人の出席する公開の法廷で明示されなくてはならない。
第十六条 何人も自己に不利益な供述をすることを強要されない。強制、拷問または脅迫のもとでの自白もしくは不当に長期にわたる抑留または拘禁の後の自白は、これを証拠とすることはできない。何人も自己に不利益な自白だけによつては有罪とされず、または刑罰を科せられない。
第十七条 被告人はどんな場合にも弁護の権利を保障され、事件の資料について精通する権利と法廷において自国語で陳述する権利とを保障される。
第十八条 どんな行為もあらかじめ法律によつてこれにたいする罰則を定めたものでなければ刑罰を科せられない。刑罰は犯罪の重要さに応じて科せられる。何人も同一の行為のために二度処罰されることはない。
第二十条 国家は裁判の結果無罪の宣告をうけた被告人にたいしては精神上、物質上の損害を賠償しなければならない。
第二十一条 受刑者の取扱ひは人道的でなければならない。受刑者の労賃と労働時間は一般企業の労働条件を基準として決定される。
女子の被拘禁者にたいしては特にその生理的特性にもとづく給養を保障し、妊娠、分娩の際には衛生的処置を保障しなければならない。
第二十二条 刑罰は受刑者の共和国市民としての社会的再教育を目的とする。受刑者にたいして合法的に科された刑罰を更に加重するやうな取扱を行つた公務員はその責任を問はれる。
第二十三条 受刑者を含む被拘禁者にたいして進歩的民主主義的出版物の看読を禁止することはできない。
第二十四条 勤労にもとづく財産および市民としての生活に必要な財産の使用・受益・処分は法律によつて保障され、その財産は相続を認められる。社会的生産手段の所有は公共の福祉に従属する。財産権は公共の福祉のために必要な場合には法律によつて制限される。
第二十五条 人民は性別を問はずすべての国家機関の公務員に選任される権利をもつ。
第二十六条 人民は個人または団体の利害に関しすべての公共機関に口頭または文書で請願または要求を提出する権利をもつ。何人もこの請願または要求をしたためにどんな差別待遇もうけることはない。
第二十七条 女子は法律的・経済的・社会的および文化的諸分野で男子と完全に平等の権利をもつ。
第二十八条 婚姻は両性の合意によつてのみ成立しかつ男女が平等の権利をもつ完全な一夫一婦を基本とし純潔な家族生活の建設を目的とする。社会生活において家長および男子の専横を可能とする非民主的な戸主制ならびに家督相続制はこれを廃止する。夫婦ならびに親族生活において女子にたいする圧迫と無権利とをもたらす法律はすべて廃止される。
第二十九条 寡婦およびすべての生児の生活と権利は国家および公共団体によつて十分に保護される。
第三十条 人民は労働の権利をもつ。すなはち労働の質と量にふさはしい支払をうける仕事につく権利をもつ。この権利は民主主義的経済政策にもとづく失業の防止、奴隷的雇傭関係および労働条件の排除、同一労働に対する同一賃銀の原則、生活費を基準とする最低賃銀制の設定によつて現実に確保され、労働法規によつて保障される。
第三十一条 勤労者の団結権、団体交渉・団体協約その他団体行動をする権利は保障される。被傭者は企業の経営に参加する権利をもつ。
第三十二条 労働の期間および条件は労働者の健康、人格的威厳または家庭生活を破壊するものであつてはならない。十八歳以下の未成年者はその身心の発達を阻害する労働にたいして保護され、十六歳以下の幼少年労働は禁止される。
第三十三条 人民は休息の権利をもつ。この権利は一週四十時間労働制、一週一日・一年二週間以上の有給休暇制、休養のための諸施設ならびに労働諸法規によつて保障される。
第三十四条 勤労婦人は国家および雇主からその生理的特性にたいする配慮をうけ、産前産後の有給休暇、母子健康相談所、産院、保育所等の設備によつてその労働と休息の権利を保障される。
第三十五条 人民は老年、疾病、労働災害その他労働能力の喪失および失業の場合に物質的保障をうける権利をもつ。この権利は国家または雇主の負担による労働災害予防設備、社会保険制度の発展、無料施療をはじめとする広汎な療養施設によつて保障される。
第三十六条 家のない人民は国家から住宅を保障される権利をもつ。この権利は国家による新住宅の大量建設、遊休大建築物、大邸宅の開放、借家人の保護によつて保障される。
第三十七条 すべての人民は教育をうけ技能を獲得する機会を保障される。初等および中等学校の教育は義務制とし、費用は全額国庫負担とする。上級学校での就学には一定条件の国庫負担制を実施する。
企業家はその経営の便宜のために被傭者の就学を妨げることはできない。
第三十八条 日本人民共和国は人民の科学的研究、芸術的創造の自由を保障し、人民のあらゆる才能と創意の発展を期し、研究所、実験所、専門的教育機関、文化芸術諸施設を広汎に設置する。
第三十九条 日本人民共和国は民主主義的活動、民族解放運動、学術的活動のゆゑに追究される外国人にたいして国内避難権を与へる。
第四十条 日本人民共和国に居住する外国人の必要な権利は法律によつて保障される。
第四十一条 人民は日本人民共和国の憲法を遵守し、法律を履行し、社会的義務を励行し、共同生活の諸規則に準拠する義務をもつ。
第三章 国会
一 内外国政に関する基本方策の決定
二 憲法の実行の監視
三 憲法の変更または修正
四 法律の制定
五 予算案の審議と確認
七 国会常任幹事会の選挙、国会休会中において常任幹事会の発布した諸法規の確認
十 会計検査院長の任命
十一 各種専門委員会の設置
第四十五条 国会は法律の定める定員数からなる代議員によつて構成される一院制議会である。
第四十六条 日本人民共和国の立法権は国会だけがこれを行使する。
第四十七条 代議員として選挙され、かつ代議員を選挙する資格は、政治上の権利を有する十八歳以上のすべての男女に与へられる。選挙権、被選挙権は定住、資産、信教、性別、民族、教育その他の社会的条件によるどんな差別、制限をも加へられない。
第四十八条 代議員の選挙は比例代表制にもとづき平等、直接、秘密、普通選挙によつて行はれる。
第四十九条 代議員はその選挙区の選挙民にたいして報告の義務を負ふ。選挙民は法律の規定に従つて代議員を召還することができる。
第五十一条 国会は代議員の資格を審議する資格審査委員会を選挙する。国会は資格審査委員会の提議により個々の代議員の資格の承認または選挙の無効を決定する。
第五十二条 国会は必要と認めた場合にはすべての問題に関して査問委員会および検査委員会を任命する。すべての機関および公務員はこれらの委員会の要求に応じて必要な資料と書類を提供する義務を持つ。
第五十三条 国会の会期は年二回を原則とする。臨時国会は国会常任幹事会の決定および代議員三分の二以上の要求によつて召集される。
第五十四条 国会は代議員数の三分の二以上の出席によつて成立する。
第五十五条 法律は国会において代議員の単純多数決によつて成立し、国会常任幹事会議長および書記の署名をもつて公布される。
第五十七条 国会は議長一名、副議長二名を選挙し、議事の進行、国会内の秩序の維持にあたらせる。
第五十八条 代議員は国会の同意がなくては逮捕されない。国会の休会中は国会常任幹事会の承認を必要とし次期国会の同意を要する。
第五十九条 国会には代議員の三分の二以上の決議にもとづき解散を告示する権限がある。
第六十条 国会の任期が満了するかまたは国会が解散された場合には、四十日以内に総選挙が施行される。
第六十一条 総選挙施行後三十日以内に前国会常任幹事会は新国会を召集する。
第六十三条 国会常任幹事会は議長および副議長各一名を選挙し、議長は日本人民共和国を代表する。
二 国会休会中政府首席による政府員の任免の確認 ただしこれについては国会の事後確認を必要とする
四 政府の決定および命令のうち法律に合致しないものの廃止
五 赦免権の行使
六 国際条約の批准
第六十五条 国会の任期が満了するかまたは国会が解散された場合には、国会常任幹事会は新たに選挙された国会によつて、新国会常任幹事会が選出されるまでこの権限を保持する。
第四章 政府
第六十六条 政府は日本人民共和国の最高の行政機関である。政府首席は国会によつて任命され、首席の指名にもとづき国会の承認をえた政府員とともに政府を構成する。
第六十七条 政府は国会にたいして責任を負ひ、国会の休会中は国会常任幹事会にたいして責任を負ふ。各政府員は政府の一般政策について全体的に、個人的行動については個人的に責任を問はれる。
第六十八条 国会が政府にたいする不信任案を採択した場合には政府は総辞職する。
第六十九条 政府は次の事項を管掌する。
一 一般的中央行政事務の遂行のために現行諸法規にもとづいて決定又は命令を発布し、かつその執行を検査すること
ググレカス曰く「ほかにすることはないのですか」
http://www.geocities.jp/koreanlaws/kenpou.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3277/2013kenpou.html
http://www.fitweb.or.jp/~nkgw/dgg/index.htm
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8186538
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19490404.T1J.html
経済とかど素人だけれど。、アベノミクスとは3つの政策の組み合わせなのは間違いないはずである。
Cの成長戦略は主に規制緩和と、内閣改造後は一億総活躍とかいう育児と介護の増強による女性労働力活用策である。
が、この点についてなにかGDPの数字に出てくるようなまともな政策をひとつでも打っただろうか。
規制緩和とかいいながらやったことは単なる小さな法人税引き下げである。
金融緩和の功罪を指してアベノミクスがどうこう、といっても論点としてはなんの意味もないのではないだろうか。
個人的には今の安倍政権にはアベノミクスを遂行する能力がないと思っているので、ちゃんと路線を引き継いでくれる政党が出てきてほしい。
これを読んで、2年前のまで勤めていた前職の会社の元上司を思い出したので書く。
納期の厳しいしごとをしていた時期。連日残業の嵐。炎上気味のプロジェクトに中途で入ってきたのがヤツだった。
「このままではうちのチームから死人が出るぞ」そう言って上に掛け合い、チームメンバー3人の増員と作業効率アップのため、開発メンバー全員のPCのデュアルディスプレイ化とメモリ増設を勝ち取った。環境改善にチームの士気は上がる。「俺のようによそから来た人間には仕事の改善提案が求められているんだ。こう言う交渉は任せてほしい。」当時はその言葉にすごく魅力を感じていた。
半年後、一兵卒で業務を遂行していたヤツは、いつしかチームリーダーになっていた。気難しい古参社員や、仕事のできないお調子者などよそのチームでは持て余していたメンバーを見事な人心掌握術で使いこなし、ぐいぐい成果を上げていた。そんなある日、ヤツが言った。「チームの環境改善のために残業と休出を無しにしよう。」
この提案が引き金となって、暗黒の日々が始まった。仕事量が減らないのに、残業できないため早出を強いられるようになった。昼休みもあってないようなものだった。ヤツは「人件費削減」を成果とアピールして出世し、自身の人件費はアップさせたようだった。一方俺は健康を害し、体重が10kg落ちた。こんな働き方は限界だと感じて残業申請をするとヤツに詰められた。「定時に仕事が終わらないのはお前が無能だからだ。俺は管理者の仕事としてチームの生産性を上げた。お前も担当の職務として俺の期待に答えろ」言葉だけなら正論だが連日朝一のミーティングで大勢の前で晒されるのは耐えられなかった。チームメンバーはヤツに心酔しており、俺は職場で孤立、3ヶ月後、逃げるようにして退職した。
退社後、人づてに前職の現状を聞いた。ヤツのやり方に耐えられず退社する人間が俺以外にも数人出たようだった。ヤツの独裁政治はますます進んだようで、中途で入る前の会社から部下を引き抜き回りを固めていると言う。最終的には「仕事のできるイエスマン」しか生き残れない不毛な職場になってしまったのだ。
今となっては辞めてよかったと心底実感している。記事を読んで昔を思い出したので思わず書いてしまった。ここまで読んでくれてどうもありがとう。