はてなキーワード: 文科系とは
この人はまだ救いがありそう。仕事を抱え込んで周囲と進捗共有が下手くそな人は、学歴の高い人に結構いる印象。
なぜかというと、日本の文科系の研究室は、個人営業でチームワークでなくて、互いに進捗共有とかフォローし合いとかチーム作業がほぼない。(チーム作業すると業績を盗まれる、というリスクもある。)また教授はエライので、個人プロジェクトの細かいことを日夜報告する習慣がない。
その状態で、一般職的な職場に就職すると、初期の職業訓練で、電話の取り方とかお茶の出し方とかシュレッダーのゴミは率先して処理する、みたいなことを女社会で叩きこまれる。
チーム作業の経験や研修があれば、この辺は習慣の問題でもあるから乗り越えられるのではないか。でもチームワーク研修ってあんまり聞かないな。今はチームビルディングで心理的安全性を創出するには、みたいな話になってしまって、プロジェクト、タスク、スケジュールの見える化と共有をどんな感覚でやればいいのか、っていう研修とかあんまり聞いたことがない。当たり前すぎるのか職場ごとに違いすぎて研修できないのか。
ジュピターが神に問うたとき、神は、移ろいやすいものだけを美しくしたのだ、と答えた。逆に、数学の問題は、ただ存在しているだけで移ろいやすいものではない。従って、数学とそれ以外の文科系
の事柄、 法学とか文学と数学は違うように思う。数学の定理は、一般に、発見者は、偉大でありなおかつ天才であると評価される。しかしそれならば、数学でないもの、例えば、法学において
特定の規定や解釈を発見したとき、なぜその人は天才とは言われないかというと、よく分からない。学会では、理学部数学科のしていることは極めて特殊で毛色が違っており、同じ理学部でも物理学科や
数理科学科とは違うし、更には、法学部や文学部、経済学部とは違うのではないかと言われている。しかし、その辺りの事は分からない。
文学部では、朝から晩まで、16世紀のフランス革命の、中世の人々が何回も戦争をして殺し合った結果として、近代市民社会ができたといったような凄惨な話ばかりしている。
実務法律学には、~による、とか、適用するという言葉がある。平成16年に全国の大学に法科大学院が出来てから、実務法律学はそこでするということになった。実務法律学の技術はもしかしたら
その透明なヴィルディングの中で教えているかも知れないが、東京大学でも、そこに入れる人は限られているので、1つも分からない。
逆に法学部では、法の歴史を習うだけで、法の結論や技術は1つも教わらない。法の結論がどのように美しいのかとか、法にはどのような可能性があるのかとか、法の何がいいのかとかそういう興味の
あることは何も教えない。
古文漢文教育を擁護してる自称知識人様、増田でもブコメ結構見かけるけど、もう負け戦なこと気付いてる?
文科系学科を含む文学部は研究費もない、学生も集められなくて危機に瀕していることは至る所で指摘されてるよね。このまま行くと私大に純粋な文学部はなくなって上位国公立でも大幅な定員削減は免れない(というかもう半分そうなってる)よね。研究費に関しては同情するところもあるけど、学生が集められないのは結局君らが言うところの文学や古典作品に触れる楽しさとか、教養としての重要性が授業を通して伝わってないからだし自業自得なんじゃない?
国語教育がなくなることはないだろうけど、今後文学的表現や古典作品の教育にかけられる時間の割合は減らされて論理国語が幅を聞かせてくると思うよ。文学作品大好きな文科系教員も減っていくだろうしね。
結局、なんの役に立つかを説明することは無粋だしそれが教養っていう権威主義的な古くさい考え方が時代に合わなかったんじゃないですかね。この国の主権者の多くはあなたたちみたいな教養ある上級国民じゃなくて、明日を生きる武器が欲する賤しい人間なのでね。
かつては大学生だった。今から約20年前のことだ。地元の公立高校で必死に勉強して、勉強して、勉強して、青春のすべてを犠牲にして京都大学法学部に合格した。一浪だった。いわゆるイカ京みたいな京大生がたくさんいる中で、自分もその1人から脱出しようと頑張ってみたが、結局だめだった。
40歳が間近になった今では、没落というか、いや元々高い位置にはいなかったのだが……今は、普通に非正規労働者をやっている。契約社員みたいな仕事に就くこともあるが、あまり続かない。1年くらいで辞めることが多い。結局、学歴って大したことはないんだよなぁ、と実社会で働くようになった今では感じる。
これから、大学時代の話をさせてほしい。暗い話になる。みんなジメジメした話は嫌いだろう。だから、すぐに終わらすよ。頑張って五千字以内に収める。リアル一人称が僕なので、以降は僕でいくことにする。
入学式を終えて大学生になった僕は、どこかのマンガで見たようなサークル勧誘活動を眺めることになった。どういう風に勧誘があったか、さすがにまったく覚えていないが笑
でも、僕にはあまり声がかからなかった。ルックスはいまいちで、特にスポーツ系からは全く声がかからなかった。浪人生活がたたって不健康に見えたのだろうな。
文科系からは何度か勧誘された。漫画研究会とか、小説を書く倶楽部とか、山登りの会とかも見学に行ったっけ。結局、どこにも入らなかった。高校時代はバリボーをやっていたが、大学の部活はいわゆるガチめのところが多い。通用しないとわかっていた。
それで、大学1年生(※正しくは1回生)の時は、ごく普通に講義に出て、帰りに図書館に寄って、たまに帰り道にラーメン店を巡っていた。実家は美山町の貧しい農家だったが、親が優しかったので仕送りをたくさんくれていた。月に8万ほど自由に使えるお金があった。
アルバイトを始めたのは、かなり後になってからだ。大学2年生の春だった気がする。退屈に負けて繁華街にあるマクドに応募したんだっけ。
そんな時だった。1年生の秋頃、学内であるチラシを見かけた。『みやこ音楽祭』なるものの開催案内だった。京都の学生有志で集まる大学間サークルで、くるりとかの有名バンドを呼んで京都の音楽を発信しよう、みたいな団体だった。
チラシには第1回の文字はなかったけど、結局第8回まで行われることになった。僕の時は、西部講堂という古めかしい場所があるのだが、そこでライブをやっていた。
いろんな大学の学生が集まる、しかもライブイベントのスタッフなんて、こんな体験は二度とできないと思った。小学校も中学も高校も、文化祭でリーダーをやるタイプではなかった。下働きだった。
数年前のアニメだと、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』で、高校生だけでアメリカ風のプロムをやろうみたいな場面があって、ゆきのんが実行委員長で、八幡が陰の立役者で、いろはすが現場リーダーだったと思うんだが、僕はその現場の下働きだった。
それで、みやこ音楽産業みたいな名前の団体があって、そこに電話をかけて参加申し込みをした。もうほとんど覚えてないが、西部講堂付近のカフェで面接があったのかな、その場で誓約書みたいなやつを書いてスタッフとして登録した。
若い人達がやってるんだろうなぁ、と思っていたら、みやこ音楽祭を立ち上げたのは20代半ばの人達だった。とっくに卒業年齢だったのだが、京大にはあえて留年をして大学の看板を使っている人もいる。ハタチくらいの有志が集まって~みたいな団体ではなかった。
まあ、そうじゃないと、第1回目からくるりや向井秀徳や矢野顕子は呼べないはずだ。伝手があるのだろうなと察したのを覚えている。
もう想像できると思うけど、ここでも下働きだった。現場で机とか、椅子とかを運んだり、他大学へのチラシ配りとか、やはり音響機材を運んだりとか、ライブ中の警備とか、掃除とか、そういう下働きをしていた。
いろんな学生が集まるサークルなだけあって、多様性に富んでいた。僕は4年分すべて参加したけど、僕のような中核ではない臨時スタッフまで入れると軽く50名を超えていた。なんだかんだでマーケティング活動は抜群だった。もし、経営の才能がある大学生がここで活動したなら、きっといい経験になったと思う。
思えば僕は、アニメや漫画でいうところのモブキャラだった。その団体の中核メンバーはほとんど京大生だったけど、中には同志社とか、立命館とか、京都産業とか、龍谷とか、いろんな人が揃っていた。
僕は京大生だったけど、4年間活動してもずっと臨時スタッフだった。そういうところには潜り込めなかった。かと思えば、才覚のある大学1年生(仏みたいな名前の大学の女子だった)が入ると、次の年からは中核メンバーとしてスカウトされていた。
そういう光景を目にして、つくづく自分が嫌になった。自分は臨時スタッフなので、次の年も参加したいと思えば、またチラシを見つけて応募する必要があった。
それで、イベント初回の時は、その1ヶ月後には打ち上げ会があった。その会では、今の自分から見ても相当気持ちが悪い光景が繰り広げられていた。京大の近くにある居酒屋での開催で、和室の座席を貸し切っていた。席の配置は自由だったけど、大体男女が別々に固まる。40人ほどだった。
ただし、主催者の方で誘導して、男女がある程度向かい合わせになるようにする。それで、京都大学の学生のうち、女子と向かいになった人達が、飲み会が盛り上がっている半ばでこういうアピールを始める。※京都の方言は標準語に直している。
「俺、浪人して経済(学部)に行こうと思ってたけど、総合人間でもまあいっかと思って」
「高校の頃の模試は全国で二番だった。医学科行きたかったけど、キツそうだからやめて看護(保健学科)にした」
「お前らまだ若いからいいじゃん。俺こないだのTOEIC220点だったぞ。大学入ってから頭が悪くなっていく一方だよ」
(3/21追記)コメントを受けて。以上は飲み屋での会話だから、卑屈な謙遜がかなり混ざっていると思う。会話自体は確かにこのとおりだ。
こんなノリで会話を始めて、自分の財布から京都大学の学生証を取り出して、目の前の女子に見せびらかす。こんなことを彼らは四年間ずっと続けていた。見ていて情けなかったけど、かくいう自分も、隣の人に振られる格好で一度だけやったことがある。
「え、え、自分京大なん? リッツ(立命館大学)かと思ってた」
「法学部なんですね!! すごーい」
「機材を運んでる時、気遣いがすごかったですね。警備中もずっとお客さんの方を見てた。ほかの人はサボってライブ見てたのに」
今思えば、女子は気を遣ってくれていた。こんなに恥ずかしいことを、当時は若かったとはいえ、自尊心に負けてこんなアホみたいな、つまらない、人間として三級品にも等しい、救いようのない子どもじみたことをしていた。トイレの手洗器に張り付いたタンカスの方がまだ魅力的だった。
で、そんなことをしていると、向こうから中核メンバーが乾杯にやってきた。すると僕の周りにいた京大生は、借りてきた猫みたいに大人しくなる。それで、女子は彼らの方を眩しい視線で見つめるのだ。目のキラキラ感が違う。
……でも、当時の僕は受け入れていた。これが正しい形なんだって思っていた。強い人間がモテて、強い人間がいろいろ持っていくのは当然だと思っていた。僕だって、京都大学に合格した時は、中学校や高校の先生や後輩から神扱いだったし、親族からもすごく褒められたし、母親は泣いていた。
でも、違うのだ。大学が保証する個人の能力というのは、実社会で必要な力のせいぜい20〜30%だ。ほかの能力面がダメだと社会では通用しない。
結局、在学中に目立つことはできなかった。自信が持てるような体験はなかった。学業成績は中の中ほど、アルバイト先は今は亡きマクドナルド河原町三条店で、そこでは全スキルをほどほどに鍛えた。就職活動はコツコツとやって、結果は京都銀行に内定した。しかし、自分という存在に確信がもてないまま、あっという間に四年間が終わっていた。
銀行でのことは話したくない。嫌な思い出だし、気が付けばすごい文章量になっている。増田でこんなに書いたのは初めてだ。
掻い摘んで話すと、社会人一年目から地獄だった。地方支店からキャリアが始まったのだが、預金口座とか、金融商品の営業がまったくできなかった。
営業としての適性がなかった。ぜんぜんだめだった。当時の成績はゼロに近かった。ほかの同期は、月にひとつ以上は契約を取ってくる。高卒で入った男の子や女の子ですらそうだった。
同期に馬鹿にされて、上司には激詰めされて、居場所がなくなって、しかしクビにはならない。いっそクビにしてほしかった。京都の山間部に住んでいる親には「うまくやってる」と嘘をついていた。
三年目のある冬に、メンタルが完全にダメになって仕事中に交通事故を起こした。運転中に手が震えて、ハンドル操作ができなくなった。それで免許停止になってしまって、人事との面談では……もう雇い続けることは難しい、次やったら本当にだめだ、みたいなことを言われた。クビにはならなかった。
まだ次があるのかと思った。上司からは、「お前は京大だからな!! 地銀に入る京大なんか珍しいからな!! できる!! なんとかしてみろ」と何度も言われた。
結局、次の交通事故を起こす前に辞めた。退職手続きはあっさりだった。相応のレベルの会社らしく、有給消化や退職その他の手続きは出社しなくても全部やってくれた。今でも感謝している。
それからは坂道を転がるみたいだった。どの仕事でも2年以上続かなかった。期待していた仕事でも、やってみるとぜんぜんダメだった。先日は、市役所の会計年度任用職員をクビになった。現業の仕事をするポジション(剪定、伐木、廃棄物処分)で募集があったので応募した。
書類選考が通って、市役所の役職者が面接をしてくれた時に、「え……京大なんですか……?」と愕然としていた。自分以外に応募者が10人以上いたけど、現場仕事未経験の自分でも内定を取ることができた。
もうわかっていると思うが、結果は散々だった。口頭での指示を理解できず、とんちんかんな行動を繰り返して、何度も怒られて、1ヶ月も経つ頃には役職の人に呼ばれて三行半を付きつけられた。
「すんません……こないな自分が言うのもなんですけど、事務職やったら……」
「事務職はもうパートさんがおるさかい。あんたには任せれへん」
「すんません」
会計年度任用職員の試用期間は1ヶ月だった。こういうわけで、先日見事にクビを切られた。情けない限りだ。いや、もう僕はこういう状態に慣れてしまった。これでいいのかもしれない。
これからも、アルバイトで日銭を稼いで、スーパーで閉店近くに八割引きになっている惣菜を買って、コンビニでストロング無糖ドライを買って、二級品の梅干しを入れて、ウィルキンソンで割って飲み続けるんだと思う。
最後に知っておいてほしい。学歴は仕事の結果には関係がない。最近読んだ『科学的な適職』という本で、アメリカの研究で学歴と仕事の結果の相関係数が0.1とあった、との記述を見た。つまり、ほとんど関係ないのだ。マイナス相関でないところは皮肉に感じる。
そろそろ仕舞いにしよう。こんなおっさんの愚痴を聞いてくれてありがとう。適度なところで死ぬようにする。いつも布団に入る時に思う、「目が覚めた時に死んでいればいいのに」って、本当にそう思う。
――ああ! 誰かがあの肉體からあの魂を取除いてくれないかなあ!――「造物主」が何かのはずみで手違ひをしたとしか思へませんからね!
未來のイヴ ヴィリエ・ド・リラダン (著), 齋藤 磯雄 (翻訳) P.99
3/21追記 この本の引用が上の言葉の元です。こんなところまで自分の言葉じゃなくて申し訳ありません。
もし若い人がこの日記を読んでいるのだとすれば、学歴と仕事能力は関係ないって、それだけでも心に刻み付けてほしい。そうすれば、僕のような人間を少しは減らせるかもしれない。
地元の高校を卒業した男性従業員が20人ほどと、事務の中年女性が1人居た。
実家に隣接した工場の車庫には祖父が乗る国産の高級車が4台と、父のランクルが並んでいた。
祖父から工場を継いだ父は高校を卒業した一人っ子の俺に会社を継がせようとした。
就活や受験に焦る中、工場の跡継ぎを任された俺は余裕をかまして残りの高校生活を消化していた。
中学校は友人に誘われ野球部に入ったが、運動神経の悪い俺は試合で活躍した経験はほぼなく、
祖父と父に似ず文科系に育った私は工場の体育会系の風土に馴染めず、
工業高校の機械科を卒業し、ExcelなんてSUMくらいしか知らなかった俺でさえ
20人程度の会社の事務職は慣れてしまえばあまりにも簡単な作業で、
パソコンに疎いおじさんばかりで俺が何をしているのか分かっていなかった様子だった。
工場の隅に置かれた、機械油の臭いが漂う事務室でネットサーフィンをするうち
Yahoo!ジオシティーズを使い、漫画の登場人物のプロフィールをまとめ、
興味本位でHTMLとCSSに再度手を出し、WordPressの使い方を覚えた。
サーバーに上げたページを事務所のパソコンでも自分のスマホでも自宅のパソコンでも開いて
何度も上下にスクロールした。架空の地図も拡大して見たりした。
夕食の場で父に話があると切り出し、
「やりたいことを見つけた、俺に工場を継がせることを諦めてほしい」と伝えた。
最初は驚き、複雑な表情をしていたが、
「工場のことはもう気にするな、ただしやりたいことを全力でやれ」と言われた。
しかし田園風景の広がる田舎町、WEB制作の仕事なんて転がっていなかった。
転職サイトで見つけた求人に応募し、何度か片道5時間ほどのバスに揺られ、
たった5人の小さな制作会社だった。給料は19万円スタート。嬉しかった。
「まだ若いし、気合があれば入ってからいくらでも覚えられるから頑張ろう。」と励まされた。
俺は貯金をほぼ全て使い果たし東武沿線で6万5千円の狭い1Kを借りた。
5歳年上のS先輩と、一回りほど上のT先輩と社長が3人でWEB制作をしていたが
T先輩は俺に付き合って毎日遅くまで、日によっては朝まで指導してくれた。
それなのに毎朝俺よりも早く出勤していた。
どれだけ頑張って早起きしてもT先輩の方が早かった。
眠そうな表情は全く見せなかった。東京には化け物が住んでいると思った。
残り二人の先輩は社長の昔の同僚らしいが何をしているか分からなかった。
眠気と分からないコードと戦い、もがきながらしがみつくうちどうにかS先輩と同じくらいのクオリティの作業はこなせるようになった。
jQueryもPHPもフォトショの使い方も覚えた。イラレを使って簡単なチラシも作ったりもした。
お客さんとの打ち合わせもメールもそれなりにできる。
27歳になっていた。給料は25万円に増えた。後輩は2人できて、S先輩は会社を辞めた。
あるアニメイベントがきっかけで2歳年上の同じ趣味の彼女が出来た。偶然にも同郷だった。
ある日退勤中になんとなくメールを開いた。
目ぼしい求人は無かった。
なんとなく、ドロップダウンリストから勤務地の地元の県を選択し、年収欄に400万円と打ち込み、求人を検索する。
「株式会社〇〇 〇〇営業所 システムエンジニア 年収400万円~」
今年31歳になる。
彼女は嫁になった。
地元の駅徒歩18分の場所に駐車場込み9万円で3DKを借りて、駐車場にアクアとN-ONEを並べて一緒に暮らしている。
月に1、2回は父の顔を見に実家に帰っている。
この町の郊外に工場があり、そこから5キロほど離れた営業所でSEをしている。
SEは俺1人で、本社と連携を取りながら工場のシステム周りを担当している。
今扱っている言語は転職前はほぼ扱ったことのないものだったが、
研修制度のおかげもあり、JSやPHPを覚えたあとなら、さほど抵抗なく覚えることができた。
工場のシステム管理とは言え、大枠の部分は東京本社のSEがやってくれている。
俺のやっていることを分かる人間は誰も居ない。
俺のことはみんな「東京から帰ってきて、真っ黒な画面に何かを打ち込んでいるすごいやつ」だと思っている。
こうして業務中にはてなに文章を打ち込みながら転職サイトを眺めている。
それなりに幸せではあるが、今でもTwitterで繋がっているS先輩の仕事を楽しんでいるツイートを見ると複雑な気持ちになる。
俺はこういう働き方しかできないのかと思う。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%BC%AB%E7%94%BB%E9%9B%91%E8%AA%8C
マイナー雑誌が「不自然」に多い。つまり日本の需要で支えられないほど雑誌が多くはないかという気がするのだ。
まず大多数が名の知れた雑誌に流れる。そこで知った作品で十分満足し、いちいち他の雑誌の探求などしようとしないはずだ。
つまりマイナーな雑誌を知る機会を得る層自体ごくごく限られると言える。
では現状知ってる作品で満足しない人が雑誌を知る過程はどういうものであるはずか。
だって地元の大型書店とかでも見たことない雑誌多いしマイナーな雑誌を取り扱ってるところなんてこのあたりぐらいだろう。
そういうとこに行ったとき何のマイナー雑誌がその人の目に入ってきて気に入るかは、多分にランダム性が高いと思う。同様に確からしいということだ。売り場における雑誌の配置も書店によってまちまち、そこで探す読者側のルートもまちまちで、前提知識とかない状態でどの雑誌にびびっとくるかは偶然性が高い事象であるはずだ。
つまりマイナー雑誌に目をつけるような層の人口を、マイナーな雑誌の数で割って得られる人数によって、各々のマイナーな雑誌は支えられているという仮定することができる。読者側が、各々のマイナーな雑誌へ完全にランダムに振り分けられると言い替えてもいい。
たとえばそういう層が仮に10万人いて、雑誌が100あったら、1000人で支えていることになるという具合。
実際は割る数も割られる数も不明だが、個人的に直観的に、割られる数が大きすぎる気がしている。
本当は今の5倍は定期的に買ってくれる人がいないと成り立たないのに、その5分の1で雑誌が維持されている、みたいな印象。何倍なのかは知らんけど。
少子高齢化でますます漫画に触れる層全体が少なくなっていってるのにどうしてこれだけの雑誌が存続可能なのかと思わざるを得ない。
仮定が間違っているという可能性は十二分にある。各雑誌の購読者に対して100ぐらいずつでもいいから、どうやってその雑誌を知ったのかのアンケートをとるべきだろう。余談だが日本語の文の文法性を測る調査において一つの文に対して200人、それを300項目、延べ2000人程度の人を対象にそれが自然な文に感じられるかそうでないかを訊くアンケートをとっているような例があって、つまり文科系界隈においては数千人規模のアンケートをとるのはざらなことなのである。こんな程度で臆している場合ではないのだ。
とにかくそういうことをすればもっと現実に適合する仮定を立てられるかもしれない。悲しいかな俺は職業研究者じゃないからそんな力ないんだけど。
ちなみにニコニコ大百科のその記事がよい宣伝塔になっているみたいな仮定は野暮だ。これらの雑誌にはニコニコ大百科の記事が存在する前から存続している実績があるはずだから。作品単体ならともかくネットで雑誌自体の存在を知るということ自体手段・過程として主流じゃないと思うよね。
anond:20201105213236
(Aのスペック:170cm中ほどだったが、ひざ神みたいな運動音痴、ちょいポチャ、今でいうキモオタ系。)
(B子のスペック:150cm代中ほど、華奢だがバスケ部で体育会系、かなり細くて色白。)
中学の時に付き合っていたとはいっても、帰宅時彼女を家まで送る係みたいなものだった。
靴箱の僕の靴の所には、何通か手紙が入っていた。
Aから押しかけられて、あまり気持ちのいいものではなかったとか、キモかったとか。
他の手紙も告白ではなかったけど、私のこと忘れないでねみたいな、手紙だった。
シャイな僕は、その後誰にも会ってないし、話もしていない。
なんだみんなそんなに興味があったんなら、先に言ってくれよともやもやした覚えが有る。
話は変わってAの事なんだけど、1年からの同級生で仲は悪い方ではなかったのに
(もう一人の友達を加えて、3人で同じ文科系の部活を行ってもいたので、仲は良かった方だと思う。
当時は、文科系の部活と運動部と両方に属することも当たり前だった)、
後から思い返してみると、それはB子と付き合うようになった後の事だった。
もしかしたら何かの拍子に、B子が僕の名前を出したのかもしれない。
それを快く思わなかったAが、僕の事を妬むようになったのかもしれない。
卒業式を数か月後に控えた或る日、僕とAは同じ学校を受験した。
僕は3年の或る時期から、その学校の過去問題集等を取り寄せて、かなり勉強していた。
結果、他のクラスからも受験した人がいたが、その人もAも不合格となり、僕だけが合格した。
その時Aに言われた言葉が、なんでお前だけが合格なんだよ、大して勉強もしてないくせに、と。
(残念ながら君よりは勉強したんだよ、君には分からなかったかもしれないけど。)
そしてAは学区内の工業高校に進学したと思う。
そんなことが有って、卒業式を間近に控えた或る日、とある催し物(お別れ会みたいな)が行われ、
僕らの仲間内では、犯人はAしかいないと誰もがそう言っていた。
B子と付き合いだしてからの事柄(この事件の時点では、まだ知る由も無かったこと)、
受験の失敗等で妬まれていたのかと思ったのは、卒業して暫くしてからの事だった。
余談
或る時、数学担当の先生=女子バスケ部のコーチが授業中にC子を侮辱するような言葉を浴びせた。
クラスみんなの前でだ。
(C子のスペック:160cm弱位、肩幅はそこそこあり、がっしりとは言えないがしっかりした体形でバスケ部、色白)
その先生にすれば、愛情表現だとも言いたいのか、好き勝手な事を言っていた。
今にしてみればパワハラであり、モラハラであり、訴えられるレベルの言葉だったと思う。
授業終了直後、先生がいなくなったところで、C子は顔を覆って泣き顔を隠すようなそぶりをしていた。
それを友達のD子、B子が慰めに来ていたのだが、C子の直ぐ近くの席にいた僕は通りすがりに、
少し乱暴気味に、あんな奴のいう事なんか気にすんなよ!、皆、そう思ってるよ、と声を掛けた。
その直後D子が僕に向かって、凄くいい事言ってくれた!と、そこにいるみんなに聞こえる程度の声で言ってくれた。
C子もD子も、そしてB子も、ほんの少しは僕に対して好感度を上げてくれたのかもしれない。
もしかしたらそんなことも、Aの反感を買うような事になったのかもしれないし。
結局、自分よりもバカな人を騙して大金を稼ぎ美味しいものを食べる人生が一番だと思う。
未知の分野に挑んだり、清く正しく生きようなどと思わないほうが良い。
http://takedanet.com/archives/1013803981.html
STAP事件の推移を見るにつけ、私は日本の若い人はもう科学者にならない方が良いと思うようになりました。科学の研究というのはとても辛いもので、大学生活でもいわゆる文科系の学生が講義をさぼったりしている時に、土日でも大学で実験をしなければなりません。
今回の小保方さんも、早稲田大学の学生がNHKのニュースで次のように言っていました。
"日曜日に研究室に行ったりするとほぼ必ず小保方さんの姿を見た"
「ほぼ必ず」というのですから、1か月に1回ぐらいは日曜日にいなかったという感じでしょう。実際にもそうです。そうして夢を追い、大学院に進み、アメリカに留学し、そして博士号をとる。その間、家族もかなりの応援をしなければ科学者にはなれません。
一方、サラリーマンになるなら大学をそこそこ勉強して卒業して、そのあとは給料をもらい、時には上司に誘われて飲みに行ったり、「行きたくない」と断ったりして入ればそこそこの生活ができます。
しかし、科学者は博士号をとって研究機関に入っても2年ぐらいは無給だったり、ポスドクという不安定な立場で教授や指導者の手下になって雑用をこなさなければなりません。その間を縫って実験をし、夜の夜中に論文を書いていきます。学会も出なければなりませんが、旅費も思うようにはでないのです。
若い頃の論文は欠点だらけなので、普通は査読を通過するには至らず、書いてはダメ、書いてはダメという日々を過ごします。そしてやっと通った論文に少しでもミスがあると、叩きに叩かれ、論文を出すときにはまったく協力してくれなかった「専門家」という人たちが、論文がでたらすぐ欠点を追究してきます。
さらに論文が少しでも社会に評価されたら、大変です。NHKの記者が追まわし、女性なら女子トイレにまで追っかけてきます。本人が犯罪を犯したわけでもないのに、まるで犯罪人扱いになります。
また、科学の世界には多くの「掟」があり、それはどこにも書いてないので、一つの研究室にできるだけ長くいて、先生の雑用をこなして少しずつ教えてもらうしかないのです。うっかり「著作権法とその判例」などを勉強して、「知的所有権を正しく守る論文」など書こうものなら「剽窃・盗用」と罵倒され、時によっては無給でも散々な目に遭うことがあります。
そんな時には博士課程の恩師や、職場の教授などはまったくあてになりません。事件が起こるとどこかに隠れてしまいますが、それはもともと教授などは一人一人で身を守っていかなければならないので、逃げる習性がついてしまっているからです。
さらに社会も許してくれません。社会の人の多くは「未知のもの」などと取り組んだこともなく、普通は「規則通りにやればよい」という社会ですし、何か問題が起きれば組織が守ってくれるから、たとえ善意でも科学者の苦悩は理解できないのです。
確かに科学は人の魂を揺さぶり、やりがいのある仕事ですが、これほど日本社会が硬直化し、バッシング社会になり、論理が通らないので、すでに限界を超えていると思います。「研究のような感じで研究ではない」という普通のことならなんとかできますが、「新しい分野」を拓こうとすると、その経験がなく、自分の仕事が暇で、他人を批判するのが生きがいという人が大量にいますので、つぶされてしまうでしょう。
高校生、大学生でこれから科学者になろうとしている人は、時代が悪いので、やめた方が良いと私は思います。悲惨な目にあいますから。NHKがSTAP事件の番組の取材で小保方さんを追まわし、負傷させ、しかも番組の宣伝までやっているのを見て、私は「日本の科学に若者を進ませてはいけない」と強く感じました。
実験をしたり、論文を書いたりした経験があるとわかるのですが、それも未知の分野のものの場合、その苦労、失敗、ミスは多いのです。親御さんの含め、今の時代は未知の科学に進ませることはお子さんの不幸になる可能性が高いと思います。
まだ、ケアレスミスしかわかっていないのに、「稀代の詐欺師」などともいう人がいます。本当に若い人にとっては人生を失うかも知れず、進路としては危険がありすぎると思います。
佐藤利奈が報道ステーションのナレーションに就任と聞いて、生きててよかったと小躍り。テレビ買おう♪
ちょっと待ってくれ、俺ヒョロい文科系とはいえ男子大学生だけど、21kgのキャリーひいて歩くのかなりしんどかったぞ!
重いっていうか20〜30キロもある荷物ってクソでかいからめちゃくちゃ取り回しが悪いんだよな 俺の場合はキャリー1つだったから前に持ったり後ろに持ったりしながらなんとかできたけど、30キロが二個ってヤバいぞ 坂とか階段の対処がマジで無理そう しかも10キロの荷物背負ってるとなるとさらに機動力がないわけで…
あなたの体力はマジですごいと思います(俺がショボいのか?) 20キロのキャリーとちょっとしたリュック持って1kmくらい歩くだけでもう死ぬ〜って感じになる若い男もいるということ 心に留めていただきたい