はてなキーワード: 優生思想とは
https://anond.hatelabo.jp/20230503204955
この増田も言及しているが、富山から若い女性が流出しているというニュースで地元が炎上している。
ネット上で憶測が憶測を呼びとんでもないことになってやがるので、当事者として事実を書こうと思う。以下、大変不名誉なことに例の記事で「問題のある層」として紹介されてしまった「富山から出た20代女」として書きます。
とりあえず、自分の実体験を踏まえて誤解は誤解、合っている部分は合っていると説明する。0歳から18歳になるまで富山の中心地富山市で見聞きしたことですが、地域によって違いはあると思う。
はい、まずこれですね。ご期待に沿った回答でなくて申し訳ないが、私の場合は「都会の企業より待遇・条件のいい企業がないから」です。私は大学進学で富山を出て、そこから新卒で就職した。国内外でそれなりに知名度のある大企業の専門職で働いており、ハッキリ言って内定が出た都会の企業以上の待遇が期待できる会社は富山にはなかった。海外赴任したいし。仮に私が男性でも、それは変わらなかったと思う。「女はお洒落でキラキラした都会に憧れるから」とか「いい男を捕まえるために都会で遊びたいんだろ」とか的外れな女性蔑視考察をしていた方々!超地味〜な理由で申し訳ない!
と私の場合はそうなんですが、実際に皆様が指摘されている「若い女性の扱いが酷いから」「陰湿な県民性だから」というのも正直富山を出る理由の一つにはなると思います。それについてこれから書きますね。
これは間違いなくある。あちこちで言われている「富山は共働き率が高いが家事・育児は全て女負担」「専業主婦は遊んでいると言われる」は残念ながら私の周りでは事実です。冬は雪かきもあるけど、それも女の仕事。
【捕捉】私の周りでは女が雪かきしていたが、冒頭にも書いたように地域によって違いはあると思う。あと、富山市の場合は、余程狭い道じゃない限り除雪車がまとめて雪をどけて道を作っていた。
うちの家庭の話をする。私の母は富山では珍しく管理職で社会的地位が高い。収入も父より上だ。しかし家庭内での家事や育児は、ほぼ全て母か私が負担していた。私は小学生の頃から事あるごとに父から家事労働や弟の面倒を見ること、祖母(父の母)の介護をすることを求められてきた。理由を聞くと毎回「女の子なんだから」「長女として」という言葉が出てきた。今問題視されている「ヤングケアラー」扱いされてきた。そして母より稼ぎが少なく家事・育児をしない父は、仕事以外では家でゴロゴロしているか遊び歩くかしていた。それでも一族の扱いは「一家の大黒柱」。
このように、女性であることを理由に理不尽に家庭内労働を押し付けられる文化は今でも根強くある。でも男性は男性で、一人立ち後や結婚後も仕送りして親や兄弟を養って当然という空気もあるため、問題は「男尊女卑」というより「性差別的な価値観」「性的役割の押し付け」な気もする。
県民性をまとめるなら下記の3つだと思う。年齢や性別、職業に関係なく、富山では下記が「普通の人」として扱われていた。無論まともな富山県民もいるが、あくまでも富山のマジョリティは下記なのだと思う。
⚫︎差別意識が強い
⚫︎嘘をつく
⚫︎差別意識が強い
地方だから…と一括りにするつもりはないが、全体的に差別意識が強い。また、息をするように人権侵害レベルのことをする人がかなり多い。陰湿な村社会のようなコミュニティがあちこちにある感じ。
これは性差別だけでない。県外から来た人や外国人等、周りとは違う人に対する差別が本当にひどい。実際、国外や県外から来た人が口を揃えてそれを指摘し「富山にはもう2度と住みたくない」「陰湿な人が多すぎて暮らせない」と言っている。
学校や会社で束になり村ぐるみで追い込んで組織から追い出した、という話は頻繁に聞く。また驚くことに、ほとんどの人がそれを酷い事、恥ずかしい事だと思っていないため、加害者側の人たちが笑いながら話しているのをよく見る。「集団とは違う存在を皆で一致団結して追い出す。」彼らはそれこそが「正義」だと疑ってない空気すらある。法律や倫理観なんぞより、自分たちの村の平穏を維持することが大事なのだ。
⚫︎嘘をつく
「嘘も方便」のような嘘ではなく、自分の利益のため息をするように人を騙す詐欺師タイプの人が当たり前にいた。というより、富山ではそういう人が「普通の大人」だった。
医者・歯科医が患者に「ここを治す必要がある」と嘘をつき多額の金を巻き上げる。営業や店員が商品の説明の際に「こんな機能がある(実際にはない)」と客を騙して買わせる。中学や高校の教職員が生徒に「個人スマホからのネットの閲覧履歴や書き込み履歴は全て学校側が把握しているから余計なことをすれば分かる」等の嘘を教え従わせる。
全て身近で目にしたことだ。富山市の進学校付近でこれなので、自分の周りが特別治安が悪かったわけではないと思う。
都会に出てみると、自分にメリットがあろうがなかろうが関係なく嘘をつかず誠実に対応するのが当たり前という人ばかりで本当に驚いた。個人的には一番富山とのギャップがあり驚いたことである。
スルーしてる人が多いのだが、個人的にこのニュースで一番問題だと思ったのはここ。
つい最近、国連が下記の提言をしたにもかかわらず、真逆のことを当然のように行っていて頭を抱えた。富山県民はあまりにも人権意識が低すぎると言われても、私は反論できない。
国連人口基金(UNFPA)は19日、2023年の世界人口白書を公表した。人口が減少に転じる国もあるなか、出生率を政策で操作しようとする国が増えており、女性に悪影響が及ぶと懸念を示した。出生率にこだわらず、男女平等で社会や経済の発展を目指すべきだと提言した。(2023年4月19日 日本経済新聞の記事より)
まず、富山県民に限らずこれを言う人は「健康で生活保護等を受ける事なく働いて納税し社会を支える人がほしい」という意味で言ってるんだと思う。逆に言えば、その「増やすべき人間」に中に納税奴隷にならない人や障害者年金を得て暮らす障害者、生活保護を受けなければ生きられない人は入っていない。また、病気や性的指向等で子供を作れない、またはなから作る気のない人たちもその中には入らない。つまるところ、「少子化対策」とは優生思想に基づいて、人間を生産性だけで見ているからこそ出る言葉だと思う。
そもそも、妊娠・出産は女性の体や脳にとんでもない負荷をかけ、最悪後遺症が残ったり死ぬこともある重大事項だ。それをやる・やらないを決める権利は本人にしかない。「妊娠から出産後に至るまで死ぬほど苦しむし、マミーブレインで頭悪くなるし、結構な確率で後遺症残ったり死ぬけど子供産んでくれない?」と他人が推奨できる類のものではない。子作りを推奨する側は、男女問わず子供さえ作ってくれれば相手の体なんぞどうでも良いと言わんばかりにそのマイナスな医学的事実を伏せたまま妊娠・出産は「幸福なこと」だと喧伝する。
また、Twitterで散々言われていたように子供を本人の同意をなくこの世に生み出し、義務だからと強制的に労働させるのは倫理的に考えても利己的でグロテスクだと反出生主義的な指摘をされても仕方ないだろう。
●未婚化を阻止
はい、言うまでもなく人権侵害の極みですね。男女を結婚させ出生率を上げるという発想自体、女性を産む機械、男性を産ませる機械として見ている。人間には結婚する・しない、子供を作る・作らないを決める権利がある。また、結婚するにしてもその性別は当然異性である必要はない。
・魚が美味い!
・米が美味い!
・家賃が安い!
マジで世の男どもはなんでそんなに女に子供を産ませようとするんだろうな
で、何故かそういう事を言う男に限って大抵は、障害者は産むな、ブスは産むなという優生思想を隠さないんだよね
子供を産みたくない女って大抵はブスや障害持ちや低学歴等の、要は自分なんかの遺伝子を遺す価値はないと思っている女だと思うんだけど
ああいう事を言う男の中ではどうも
「子供を産みたくないと言っている女」と
「子供を産まない方がいい女」が
イコールで結び付いていないように感じる
どうも彼等は、
「若いうちは男から引く手あまただった」「何の障害もなく学歴や収入も高く」「福利厚生の充実した勤務先に勤め」
「美人で健康な女性が」「何故か自らの意思で」「結婚や出産を先延ばしにする」
……という、現実的に考えたらおおよそ有り得ない想定をしているみたいなんだよね
そういうハイスペックな女性が歳を取ってから後悔するのを見て「ざまぁ」したいようだ。
でも現実的に考えたらそんなのまず有り得ないんだよ。
子供を産みたくない女の殆どはブスで非モテだし、何らかの障害があるし、低学歴や低賃金の底辺で到底まともな男との出会いなんて望めない女だよ
障害当事者がなにを考えてるかよりも、なんで多数派は優生思想が嫌かって考えてほしい。
動物園の飼育員の気持ちだよ。動物同士では喧嘩があったり生まれてきたくなかったと思うのかもしれないけど、飼育員としてはみんな生きていてほしいし、めんどくさい動物がいても殺すのは嫌なんだ。
障害者(特に身体以外)に関する綺麗事、障害者の家族特にきょうだい児にとっては空虚で忌々しい呪いの言葉でしかないんだよな
親はぶっちゃけ産んだ責任があるけど、きょうだい児は何の責任もなしに兄弟ガチャに外れ、親は先に死ぬから自分が兄弟の面倒見なきゃならずに縛られて、一生をめちゃくちゃにされ、時には兄弟に直接危害を加えられ「障害者なんだから仕方ないでしょ!許してあげなさい!差別するな!」と親から抑圧される
兄弟に面倒ごとを全て押し付けながらガンギマリで綺麗事言いまくりの親もいる
中にはガンギマリで綺麗事言いまくりのきょうだい児もいて、そういう奴は兄弟が誰か(たとえそれが自分の子供でも)に危害を加えても「障害者なんだから仕方ないでしょ!許してあげなさい!差別するな!」と抑圧する側に回ってたりする
もっと優生思想支持が多いのは、障害を持つ当事者だ。特に、発達障害。
「生きてるだけで嫌われる」で有名になった、発達障害で苦労してきた女が結婚して子供産んでその子供も発達障害だった漫画。
あれ、前にも似たような流れの漫画があったけど、両方発達障害当事者に叩かれまくっていた
「障害者を産むな。障害者を産むのはエゴだ。障害は遺伝するのだから障害者は産むな。俺たちは生まれてきて苦労してる。生まれてきたくなかった」と。
シンエヴァはあくまで現実を主軸として虚構も悪くないよね、というスタンスの作品だったと思う。対して本作は同じメタフィクションでも、現実を生きるアカネちゃんの姿も写しつつあくまでフィクションをそのものを優しく、熱く肯定してくれる作品だった。落書きのグリッドマンが新フォームになるのは意志の槍ガイウスみたいなだなって思った。
冒頭の前置きのシークエンスで、虚構の世界にも日常はあり、グリッドマンと共に戦った後に帰る大切な場所なんだろうと思った。
怪獣出現と新世紀中学生との再開が割とすぐで、話が早い作品だと思った。ダイナゼノンメンバーの出し方も良かった。
文化祭の準備の辺りから、劇中劇についての話でメタフィクションとしての主題が提示され始める。設定盛り過ぎじゃない?リアルじゃないよ、とか。六花は人間ドラマを大事にしたいけど周りからは反対されたり、内海のアクションも大事だろ、とかの話もまさに自己言及。
結局台本は書き直されてアカネちゃんが消される話とかも、この作品自体への言及になっている。
ガウマが姫と再開したり、嬉しい要素ではあるけど、ん?と思うような展開に視聴者が違和感を抱く頃、裕太もそれに気が付く。フィクションなんてキャラが多いほど良い。カオスで良いんだよ。だけどなにかヘン。
そこでアレクシスが現れてから物語が展開して加速的に面白くなった。シリアスさは演出しつつ、コミカルさも残すシュールさが良かった。BLEACHの月島さんのアレを思い出してちょっと面白かった。おちゃらけて飄々としたキャラが立っているのは終始一貫していて良かった。
その後の裕太の混乱から怪獣出現、別次元のキャラが消失するシークエンスでアンチくんとグリッドマンのアノシラスが現れた時の安心感といったらね。その辺りのキャラもちゃんと拾ってくれるのかと思った。
アカネちゃんに作られた世界のキャラクターに過ぎない事実を受け入れられるのか、という蓬の言葉は、グリッドマンから続く虚構の是非の話だ。アノシラスの国家とかだってフィクションじゃん、でもそれは別に悪い事じゃないよね、というのはナラティブから離れたマジレスだな……と思った。この辺りからメタフィクションとしての主題がかなりはっきりと提示された気がする。グリッドマンは実体を持たず、人間が云々という辺りも劇中の射程を超えたフィクションそのものへの言及なんだろう。何度か観てもっと咀嚼したい。
グリッドマン自身が宇宙になって云々、というくだりはほぼ理解できなかったし、まあ初見で理解させる気もないんだろうと思った。とんでもない存在と化したグリッドマンと一体化すれば解決するけど、裕太の自我も失われてしまう、という点を押さえればまあヨシと思った。
妙に棒なバイクの兄ちゃんはプールの監視員の人?何故……?と思ったが、調べたら電光超人絡みのファンサービスらしい。
アクセスフラッシュ後の暗転から、オープニングの実写の人間の目の意味が明かされる。現実に帰ったアカネちゃんが、箱庭の中のキャラクターを友達として助けるというのが良かった。真っ当に生きていたんやな。
グリッドマンが裕太の日常を奪ってしまった事に謝罪するけれど、楽しかったよと肯定するのがとても良かった。
アレクシスをドミネーションして敵を探す辺りからもゴチャゴチャしていて、あまり細かく理解させる気はないなと思った。ラスボスの怪獣は現実存在のサムシングのメタファーと受け取ったが、より具体的な事はまたじっくり考えたい。
なんやかんやでインパーフェクトとユニオンが流れて色んな合体を見せる所で同窓会映画、お祭り映画としては既に満点を叩き出していた。TV版ではちょっとユニオン使いすぎじゃね?と思っていたが、2時間映画で満を持して流れた日にはもうね。劇場に来て良かったと思わせてくれるには十分の迫力あるシーンだった。
はこちらがちょっと気恥ずかしかった。立花の太ももはあんまりフィーチャーされないんだなと思っていたが、アカネちゃんのデカパイは露骨だった。
トリガーらしいノリと勢いで大団円を迎えて、お祭り映画に終止しない良い映画だったなあ……と思った。
ラストは二人がくっついて百合のオタクは不満だったかもしれないが、直前にダイナゼノンを履修してヘテロの口になっていたので私は大満足だった。ダイナゼノンのテーマであった、過去を清算した未来に進むという事もしっかり拾われている。
六花が劇で自分の伝えたかった人間ドラマが届いたかは分からないけど、楽しめてもらえたなら良かったと言う所もこの作品を優しく包み込んでくれた。
ガウマの姫の出会いと別れはカオスが引き起こしたアクシデントだったけれど、 彼らが交わした会話は紛れもなく本当にあったもので、だからこそ彼も過去をすっきりと清算して、新しく得た居場所で前に進めるんだと思った。
お祭り映画としてだけでも、こちらが欲しているものを存分に与えてくれた。怪獣優生思想の人らは出なかったが、あくまでグリッドマンユニバースだし、彼らは過去に囚われた過去の人達なのでまあ……と思ったら二回目に観たら一瞬だけ文化祭を楽しむワンカットが挟まれてた。
そして何より、グリッドマンから続く虚構の肯定、ダイナゼノンからの未来を勝ち取るという主題について優しく、熱く、力強く語りかけてけれた作品だった。
元増田。感覚過敏の子だけ、診断書を提出させて、マスクを外せばいいだけじゃない?コロナ禍前までだって、公欠とか特別扱いする必要がある子は、診断書提出してたでしょ。同じように、診断書提出した子だけ、マスク外せるようにすればいいだけでは?
感覚過敏も、人口の1%いるけど、人口の大部分がマスクをつけていることによって感染が防げるのであって、医療的な理由があって外す必要がある子にまでは強制しないよ。感覚過敏以外に、肺の病気でマスクつけられない子もいるでしょ。
感覚過敏では死ぬことはほとんどないし、感覚過敏になったことによる後遺症というのもほとんどケースがないと思うけど、新型コロナウイルスに感染して重症化したり後遺症残ったりは数多くあるので、別に新型コロナウイルスの方を優先しても、優生思想にはならないと思うよ。
今時は多様性教育の一環で、先天性心臓病の子も、どうしても感覚過敏でマスクをつけられない重度自閉症の子も普通学級にいるんだよね。
健常児のワガママを叱るならまだしも、増田氏のような先天性心臓病の子と重度自閉症の子のどちらを優先するか。
どちらを選択しても増田氏がそうしているように、差別主義者との批判を免れ得ない中で、学校の先生は難しい舵取りを求められる。
だから、将来は体を動かさなくてすむ仕事に就いた方が社会のためになると考えて、自分は、ちゃんと国立大学の工学部の情報系に進んで、大学院まで出て、ちゃんと働いて納税して結婚して子どももいる。ちなみに、先天性心臓病の多くは遺伝しないので、子どもは健常者。
こうなれる可能性はあるけど、重度自閉症の子にはこの未来が望めないという理由で先天性心臓病の子を優先してしまうと、それはそれでとんでもない優生思想の持ち主ということになる。
かといって他の子の命を危険に晒してまで自閉症に配慮すべきかどうかという問題にもなるけど、それでも行動を変えられないからこそ障害なのだともいえる。
こういった難しい舵取りをやる覚悟を持った人材だけが先生を目指して欲しい。
みんなそんなことできないと言って逃げ出して、先生のなり手がいなくなったとしても、ずさんな教育現場がはびこるよりははるかにマシだ。
先天性心臓病患者の成人。要するに生まれつき心臓に奇形がある。100人に1人は自分みたいな先天性心臓病を持って生まれてくる。3クラスあれば、1人ぐらいはいる。
基本、子どもの頃に手術をしないと、寿命が短くなったりする。幼児期に手術をして直せば、「順調にいけば」健常者と同じ寿命が保たれるといわれている。が、一度手術をすれば、完全に健常者と同じというわけにはいかない。一生、「新型コロナウイルスの重症化リスクあり」の基礎疾患者になる。先天性心臓病で手術した子は、学校は健常者と同じ「普通学級」に通う。学力は普通の子と変わらず、日常生活は普通におくれるので「障碍」がなく、障碍者手帳も余程重度でないともらえないからだ。見た目は、健常者と全く区別がつかない。自分も小中高、全て健常者と同じ教育を受けてきた。つまり、基礎疾患リスクだけがある。
心臓というのは、基本的に一度、筋肉が弱ると治ることはない。だから、子どもの頃に手術直後の状態がベストで、その後の人生は、いかに「現状を保つか」が勝負になる。新型コロナウイルスに感染しても「治るから」なんていうのは、同じ土俵を踏んでいない健常者のたわごとだ。先天性心臓病患者で手術した子は、成人しても何十年経っても手術した病院の専門の「小児科」に定期健診に通う。子どもの頃に手術した影響が出るのは、手術から何十年も経ってからだからだ。手術した病院も、昔の手術が成功しているかどうかを追跡調査できるので、メリットがある。
さて、自分も最近、定期健診で小児科に行ってきた。子どものころから何十年も通った病院だ。が、様子が違った。延々と待たされる。いつもは待たされても1時間ぐらいなのに、2時間以上も待たされた。初めてのことだ。
医師の方に聞いたら、クラスの先生が「4月からマスクを外そう」という雰囲気になってしまい、怯えた子が親御さんと一緒に来院して学校提出用の診断書をお願いされるケースが続出していて、結果、遅くなったという事だった。
何というか、「やっぱりそうなのか」という感じだ。要するに、学校の先生にとって、我々みたいな見た目健常者にしか見えず、生活に支障が出るという意味での「障碍」も持たないのに、基礎疾患だけ持って社会で暮らすような人間は「邪魔っけ」であって、「社会のお荷物」で要らない存在なんだろうと思う。
学校の先生が口ではどのようにつくろおうが、内心はそのように思っているはず。マスクをつけずに感染したら、重症化したり人生が変わってしまうような子たちは、自分の仕事の上では「生まれてきてほしくない邪魔な存在」で、リコリス・リコイルみたいな先天性心臓病をダシに使った作品の中で、健常者に共感を与えるだけの存在として生きて、10代のうちに死んで社会に出てきてほしくない…と、学校の先生はそのように思っているのだろう。少なくとも、我々先天性心臓病患者は、教員を見たら自分を迷惑な存在だと思っているはずだ、と自衛して生きたほうが日本社会では幸福になれると思う。自分はそうやって生きてきた。
やはり、「先生は、私みたいな先天性心臓病患者は生まれてこないほうがいいと思っているんじゃないですか?」、「先生は、健常者の立場で命の選別をしている、差別主義者だったんですね」、「クラスでマスクを外して、クラスターが発生し、万一私が重症化したら、私は先生を一生恨もうと思います」、「マスク外して感染したら重症化するかもしれないのに、私にマスク外してほしいってことは、先生もクラスも私に重症化してほしいって思っているっていう事ですよね?」ぐらいの事は、学校の先生に言ってあげてもいいんじゃないかなぁ。できるだけ、学校の先生が、我々のような存在が、アニメの中だけではなく、現実にかなりの比率で「生きている」存在であると実感できるように。
タイトルに「リコリス・リコイル」をいれたのは、最近、主人公を心臓病にして売れたアニメだからだ。全話見た。まぁ、要するに百合×ガンアクションを、やりたかったのだろう。が、何だろうな、健常者が我々先天性心臓病患者に対して何を期待しているのかが、良くも悪くもよくわかアニメだった。
主人公の千束は、要するに銃の天才でありながら、人工心臓をつけて寿命を他者にコントロールされる存在だ。そういう話が実際に大ヒットしたという事は、脚本家や原作者の意図に関わらず、「先天性心臓病患者みたいに変な病気を持って生まれてくる人間は本来的に迷惑な存在だが、かわいくて才能があれば生かしてやってもよい、ただし、その寿命は健常者が管理してやる」というようなどす黒い差別感情や支配欲を健常者は心のどこかに持っていて、そういう心を持っているからこそ、あの話を楽しくみられるのだろう。
現実には、人工心臓をつけてあんなに激しく運動する事を仕事にするなんていうのはあり得ない。どちらかというと、リコリス・リコイルだとクルミの方が、先天性心臓病患者が目指すべき仕事に近い。
我々、先天性心臓病患者は、生まれた時から肉体労働には適さない体で生まれてきたが、大部分は回復して障碍者手帳を持てない。自分は、そういう例外的な存在が生まれてきて申し訳ないという気持ちをちゃんとずっと持って生きてきた。生まれてきたことで日本社会に迷惑をかけて申し訳ないとは思っているが、自分の手術の時点でいくらか日本社会から投資されてしまっているので、そのまま自殺したら日本社会に迷惑をかけたまま死ぬことになる。だから、将来は体を動かさなくてすむ仕事に就いた方が社会のためになると考えて、自分は、ちゃんと国立大学の工学部の情報系に進んで、大学院まで出て、ちゃんと働いて納税して結婚して子どももいる。ちなみに、先天性心臓病の多くは遺伝しないので、子どもは健常者。
でも、クラス全員のマスクを外そうとする「学校の先生」は、そういう我々、先天性心臓病患者まるごと、少数派だから日本社会にいらない、排除したいって考えなんでしょうね。まぁ、我々が少数派であることは否定しないし、何より、我々の手術法が開発されていない時代は、我々先天性心臓病患者は皆、幼児のうちに死んでたので、我々がいなければ日本社会が成り立たないというわけではないことは歴史が証明している。
が、これだけは言っておきたい。我々の多くは、手術しないと死ぬ体で生まれてきて、手術して我々を生かそうとしたのは日本社会。日本の手術の多くは、高額医療費制度を使って、公金を使って賄われてきた。日本社会は、一度は我々を生かして社会に役立てようとしたのですよ。
我々が要らない、厄介な存在なら、手術に補助を出したりせずに放置するだけで、勝手に幼児のうちに死んだのに、せっかくそういう体で生まれてきたのに、それをわざわざ社会の役に立つかもしれないと思って生かしたのは日本社会の方。
「学校の先生」は、特に公立学校の先生は公金で雇われているわけだから、日本の方針に従うのは当然。「学校の先生」が、我々、先天性心臓病患者に生きる価値がないと思って、クラス全員のマスクを外す施策をするのであれば、日本社会が一度我々を生かして日本社会のために役立てようとしたことと、ご自身の判断が矛盾していないことを証明してほしい。
このままマスクを外す判断が継続されれば、重症化しやすい我々先天性心臓病患者の子から先に感染して死にやすくなり、長期的には、我々のうちで成人してから長く生きるものは少なくなり、我々は淘汰される。「学校の先生」がクラスのマスクを外させるという事は、長期的には、我々先天性心臓病患者の子達を選択的に死にやすくして、消極的優生思想を実現させようとする計画に加担している事になることを、「学校の先生」には自覚してほしいと思う。それが「学校の先生」ご自身の考えであり、日本社会の考え方とも合致するとご自身で信じていて、大多数の健常者のために、我々先天性心臓病患者を長期的に淘汰させることが日本社会のためなのだと心から信じていらっしゃるなら構わないが、ご自身の倫理感と反するのであれば、かわいそうだな、と思う。ご自身の倫理観と合った、誇れる仕事を学校の先生にはしてほしい。
大谷翔平にだけ一夫多妻を認めるとかいう話がTwitterで流行っているのを見て、やっぱりある程度の優生思想は認めてあげるべきなんじゃないかと思った。
現代で少子化が続いているのは、一般に女性が望むレベルに男性が追いついておらず、多少語弊はあるが「質の低い」男性が溢れているからというのはちゃんとデータがある事実だ。
あらゆる研究によって、身体的な性能も、頭脳的な性能も遺伝によるところが大きいことがわかっている以上は、大衆としてゆるい優生思想を望むのは当たり前だと思うし、時代に合わせて、そうした優生思想はある程度許容していくべきなんじゃないだろうか。
一応言っとくけど、これは別に思考実験とかではなく、現実的にそういう方向に舵を切るべきタイミングがきているんじゃないかという提言だ。少子化で沈みゆく日本を救うためには、タブーとされる優生思想も、ある程度は認めるしかないんじゃないだろうか。