はてなキーワード: 不可侵とは
面倒なのでAIちゃんに回答書いて貰いました、何度もやってる話題なので省エネ
皆さんは、みんなでご飯を食べる時、好きなおかずだけをたくさん食べたいと思うかもしれません。でも、みんなが同じおかずばかり食べていたら、他の美味しいおかずは残ってしまうし、お腹を壊してしまう人も出てきてしまいますよね。
社会も、みんながそれぞれ違う「おかず」を持っているレストランのようなものです。例えば、
みんなが持っている「おかず」は違いますが、どれも社会を豊かにする大切なものです。
例えば、「Aさんのおかずは、Bさんのおかずより美味しくないから、Aさんの意見は聞かなくていい」と言ったり、「Cさんの持っているものは、Dさんの持っているものより価値がないから、Cさんは大切にしなくてもいい」と言ったりすることです。
差別をなくすためには、みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことが大切です。
差別は、社会全体にとって良くないことです。みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことで、より良い社会を作ることができます。
現代社会における倫理的基盤は、人間の「尊厳」という抽象的概念に深く依存しています。人間は単なる物理的存在ではなく、意識と自己認識を持つ存在であり、その尊厳は一人一人が内包する不可侵の価値として社会の基本的な原則に組み込まれています。これを理解することは、知的な思考能力を持つ者にとって、社会の健全性を理解するための前提であり、個々人の行動基準を形成する上で不可欠な要素です。
社会の制度は、この「尊厳」を根底に置き、全ての人間が平等に扱われるべきであるという思想に基づいて構築されています。差別はこの尊厳を無視し、ある人々を不当に劣位に置く行為であり、その結果として社会全体の秩序が崩れる可能性があることを意味します。人間社会において抽象的概念を理解できることは、単に知識的なスキルを示すものではなく、社会全体の運営に対する責任感を伴う倫理的な能力を示しています。
抽象的思考能力が高い者は、「尊厳」や「平等」などの社会的概念を理論的に理解できるため、差別的な行為を避けることが期待されます。これは、知的能力が高い者が社会的なルールや規範を認識し、それを遵守することで社会全体の安定が保たれるためです。知的な成熟度が欠如している場合、その人物が社会で適切に振る舞うための教育的支援が必要であることは言うまでもありません。しかしながら、知識を持つことだけでは必ずしも倫理的行動が保証されるわけではなく、知識をどのように活用するかが重要です。
知的なものへの過度な憧れがある人物が抱える問題の一つは、知識を「優越性」の証として捉える傾向です。このような人物は、知識や学問を持つ者こそが社会的に価値があり、そうでない者は劣位にあるという誤った認識に陥りがちです。しかし、この考え方こそが差別的態度を助長し、結果的に社会の公正性を損なう原因となることを理解しなければなりません。知識は単なる道具であり、それ自体に優劣はないことを認識することが重要です。
差別が行われると、その影響は個々人にとどまらず、社会全体に波及します。差別を受けた側は自己価値を低く見積もるようになり、社会的な参加意欲を喪失することが多く、社会の一員としての積極的な貢献ができなくなります。これにより、社会の生産性や創造性は低下し、全体の発展が阻害されます。さらに、差別を行う側も、その行為によって倫理的な成熟を欠いた存在となり、最終的には社会的な信用を失うことになります。
抽象的思考に基づく社会的判断ができる者にとって、差別を避けることは単に倫理的義務であるだけでなく、社会的責任でもあります。社会における公正と平等の原則を理解し、実践することが、より良い社会の構築に寄与することは明らかです。
差別は社会秩序と個人の尊厳を損なう行為であり、その行為がもたらす不公平と不利益は社会全体の成長を妨げる結果を招きます。知的なものへの憧れを持つこと自体に問題はありませんが、その知識を用いる際に他者を不当に評価し、差別的行為に結びつけることは決して許されません。知識を持つ者は、社会全体の調和を維持するために、その知識を適切に活用し、全ての人々の尊厳を守る責任を負っています。
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関連増田:https://anond.hatelabo.jp/20230122083219#
この2つはすごく共感できる
>別にバカのやることに大した理由はない。ド詰めにして「真意」を吐かせたところで「ちゃんと働いてなくてけしからんから」とか、その程度のものしか出てこないだろう。
>むしろそういうことをしない者はなぜしないのか。
>同情心、共感能力があるから。それはそう。しかし「しない人」がみな生来優しい心の持ち主なわけではない。
>ひとつの理由は合理的判断だ。露見して罪に問われたら割に合わないから。
>もうひとつの理由は抽象的思考だ。どういう立場の人間の尊厳も尊重すべきというフィクションに現行社会制度が立脚しているのを理解しているから。
そもそも自分より下の階層があるのは安心できることだ、自分より下のものをバカにできるのは嬉しいことだという前提でモノ言ってるが、私はその前提を共有していない。
共感できないと言うか単純に間違っているのはここかな
ここが YES になっちゃうようなら、ペットと共生なんて出来ないし、人間に限定しても道徳も社会規範も刑法も要らないんだなぁ
○○をしたら自分が社会的に損をするってことを理解させることは可能だし、それが達成出来ればその人物の社会化に成功したと言える
動物にだって理解させることが出来るんだから人間が理解できないわけないじゃない
これを理解させることがすべて保護者の義務だし(なのでメンヘラや開き直りDQNは保護者として不適格なことが多い)、
フツーに文部科学省もそういう子どもたちがいることをちゃんと認識をしていて
『特別な支援を必要とする 児童生徒』として取り組み自体はあるよ。発達障害の枠組みに入ってるよ
CU特性
あと『知能が低い=共感性が低い』ではないし、『知能が高い=共感性が低くても"どういう立場の人間の尊厳も尊重すべき"の建前を守ることができる』わけじゃない
アインシュタインがド畜生だったの有名な話(https://anond.hatelabo.jp/20200706223440#)だし、
福沢諭吉の大学の出身者で世間を賑わせるド畜生発言している人(https://anond.hatelabo.jp/20210911095702#)たくさんいますよね?
あとアカデミアの人間なのに自身のバックグラウンドを明示した上で、140文字できゃっきゃやってる人らたくさんいるし、
それだけでも度し難いのに、単純に学術的に間違ったこと(少なくとも国内外の学会で同意が取れないこと)を言ってる人すらいますよね?
こういう人たちは一刀両断でバカで良いと思いますけど、別に知能が低いわけじゃあ無いと思います
ただただひたすらにバカなだけで
こういう人たちが増えないよう出来ることをしたいものですな
ニュージーランドの教育は個性尊重、日本のような全体主義的な性質もなく、子どもたちにとって最高の教育システムが提供されていると信じてやまない日本人がどうもいるようだが全くそんなことがない話をする。
ニュージーランドの義務教育は日本とほぼ同じだが、高校課程までが義務教育、と言ってもやめても構わないがやりたければ無条件で受けられる、となっている。
小学校や中学校まではおそらくだが勉強が嫌いにならないことや、ニュージーランド社会で生きていくために最低限の教育だけをしているのだろうが、日本の教育とは質も量もかけ離れている。
ニュージーランドに来た日本人の多くが子供に対して与えられる教育の内容と質に愕然としているか、「そんなことはないこれこそが子どもたちを真の意味で伸ばす教育だ」とイデオロギー的に信じ込んでいるかどちらかだろう。
ニュージーランドの教育は家庭の経済によって格差が露骨なほどに現れる。金持ちの集まる学校ほど潤沢な資金で優秀な教師を雇って質の高い教育を施すことができ、貧乏人の学校ほど最低限(必要十分ではまったくない)の教育しか施されないため、貧困が凄まじい勢いで固定化されている。
などという話はもうかなり昔から言われていることだが、国はもうどうすることもできない現状なのでもうどうしようもない。
いずれにせよ、ニュージーランドの教育は、教師と子供の間に不可侵の壁が出来上がり、突っ込んだ教育が一切できないために放置せざるを得ない、というのが個性尊重や進んだ教育の正体でもある。
今回したい話は、子どもたちの出席率が90%を下回ると親が国から罰金や告訴を受けるかもしれない制度が2026年から始まるというものだ。
ニュージーランドではスクールホリデー中の渡航費が高いため、少し早めに学校を休んで海外旅行に行く、という人がそれなりにいるのだが、これをやったら罰金になる制度が始まる。
罰金を払って安い航空チケットを買うか、罰金を払わずに高い航空チケットを買うという選択肢になる。
またこの他にも、学校を15日以上休むと両親が国から訴追を受ける可能性が発生する。これも法律として制定されるので、回避しようがない。
日本から来た親が感じているこの国の教育の素晴らしさの一つに出席しようが欠席しようがあまりとやかく言わない、教育以外の大事なこと(笑)も子どもたちに経験させることができるというのがあるのか無いのか私は知らないが、今後こういったことはできなくなる可能性が高い。
これらの制度を作っている政治家はデビッド・シーモアというニュージーランドの極右政党ACTの党首だ。
極右政党と言っても軍国主義者というわけではなく、超保守とでも言えばいいと思うが、この政治家はニュージーランドのアンタッチャブルでもあるワイタンギ条約の破棄も目指していることでマオリからは蛇蝎のごとくに嫌われている。
そんな彼が目指しているのは、子どもたちの学校出席率90%だ。そしてマオリ以外からも嫌われることを目指していると言っても過言ではないだろう。
学校に行きさえすればいいのかというとそんなことはないが、この国の問題の一つに半数以上の子どもたちの出席率がかなり低いというものがある。
そこで親には訴訟や罰金をちらつかせることで子どもたちの出席率を上げようと言うのが今回の法律の要点でもある。
とても民主的とは思えないこの制度に対してマスコミはなにかしているかというと特に何もしていない。
おそらく今後ニュージーランドに日本よりもいい教育を期待して来る人はいなくなるか、いたとしたら温かい目で残念だったなと言うようになるのかもしれない。
今回のナショナル政権ははっきり言ってひどいの一言であり、全く何もできていない。
もしかするとジャシンダ・アーダーン率いるレイバーの負の遺産があまりにもひどくてそれどころではないのかもしれないが、レイバーは今の政権がいかに無能かを騒ぎ立てている。何いってんだと思わなくもないが、実際ダメだと思う。
デビッド・シーモアのせいで私の宿敵でもあるウィンストン・ピータースが全く目立たなくなってしまったが、彼はやばいときはどんどんと影になっていくので、彼なりの政治センスの可能性もある。
デビッド・シーモアはちなみに言うと国民が次の首相になってほしい政治家の一人でもあった。この国の人々のセンスのなさが凄まじい。
共産主義政党を見ていると、利益でなく理念で結束するって本当に難しいのだろうなと思う。数人であっても難しそうなのに、それが国政に出るような規模となるとさ。
人間という生き物は放っておけば利益に基づいて結束するもので、というのは集団を作ったほうが当然強いからだが、そうなると集団からこぼれた者や集団内で下位に置かれたものは苦しい状況に陥ってしまう。
それを是正しようとして、平等で不可侵な「個人」を中心に据えた集団を作ろうとすると、今度は結束が弱まってしまう。徒党を組まなくても生きてゆけるなら、うるさいことを言う他人となんか関わらずに一人で生きていった方が良い。これは民主主義や民主主義の極限において発生すると言われる共産主義のジレンマである。自然発生する利益集団を制限すると、個人が連帯しないばらばらの砂粒に堕してしまい、共同体を組織できなくなる。利益がどうでも良くなると、理念の差異が致命的なものとなるわけだ。
では共産主義者いかに連帯すべきか。逆説的だが、結局は暴力による統制しかない、ということを歴史が証明している。「なあなあ」の連帯を廃し、思想的に団結するためには、極度に中央集権化された暴力によってそれを実現するしかない。日本共産党はこの点ではかなりましな方と思うが(死人が大量に出ているわけではない)、それゆえ一定以上の勢力を得ることもないだろうな。
(本文です)
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どうしても書き留めておきたいと思った。昔の私のことを。
今は大学生だから何もできないけど、いつか受け入れて消化できたらいいなって。
私にとっての父は、経済的な支えであり、飼い主であり、服従すべき存在だった。
私が初めてキスをした人で、初めてセックスをした人で、初めて妊娠した相手で、「性」に関するすべての始まり。そんな存在だった。
父は、私が小学校1年生の時に家にやってきた血の繋がりのない人だった。私は実の父を知らない。
最初は子供好きな良い人だと思っていた。しばらくすると私に性的なアプローチをするようになり、小4で母が亡くなると同時に、「同情」「母の代理」「妹の盾」といった役割を私に課して、少しずつ私を性玩具に作り替えていった。
父の命令には従順に従うことが求められた。朝は父に犯された後学校へ行き、夜は私を凌辱する父のために夕食を作り、妹が眠った後、父の相手をしてから私は床に就く日々を送った。
※毎日というわけではありません
中3で私が他の男性の子を妊娠してしまったあとは、殴る蹴るの暴行を受けた。まるで自分の所有物が汚されたみたいに、すごく怒っていた。
それからは、私がどんな男性の相手もできると思ったのだろうか、父はときどき自分のお仕事の仲間を連れてきて私に相手をさせ、小銭を稼いでいた。
それ以外にも、アルバイト先の先輩から暴行を受けた。幸い妊娠はしなかったけど、もう限界だと思った。私は高3の夏休みに、貯めたお金を持って、妹を連れて家を出た。
今は、普通の大学生はしないであろう仕事(風俗嬢)をして、妹を養っている。自立、は一応できているとは思う。
それでもまだ、私の心は父への服従心で満ちている。なぜこんな気持ちになるのだろう。自分でもわからないところがある。
思い出す必要はないのかもしれない。でも、思い出さずにいることもまた難しいので、心の整理のために書き留めておきたい。
お話の順序とか、私の気持ちとか、これからどうしたいとか、いろいろ混ざってしまうと思う。わかりにくかったらごめんなさい。
さっき、「父に性的虐待を受けていた」と書いてるけど、実を言うと、虐待だと私自身が認めたというか、受け入れたのは、父と関係を持ってしばらく経ってからのこと。
ハッキリ認識したのは、やっぱり身体的な暴力を受けた中3の冬頃から。その年の夏に先輩からレイプされて、妊娠したことに気付いた父が身体的な暴力をふるったあの日からだ。
それまでは、いけないことなのはわかっていたけど、それでもどこか仕方のないことだと思っていた。
経験のない人には理解できないかもしれないし、そもそもこの話自体が「嘘臭い」と言われそうだ。今書いていることもきっと、非現実的というか、理解できないことかもしれない。
私は実のところ、父を憎んでいない。これは結果ではなくて、現状「憎めない状態」といったほうが正解かもしれない。
もともと実父の存在すら全く不明で、本当のことを言うと、「父親」という存在の感覚がわからない。見たこともないから。両親が仲良くしている家庭を見ると、とても不思議な感覚になってしまう。
私がこうして「父」と書いてはいても、それは、それ以外に呼べる称号がないからだ。性的な意味でいえば、25歳年上の愛人だったのかもしれない。
性的関係を条件に、生活費を出して養ってもらう。それだけの存在。つまるところ、私は7歳くらいからパパ活をしていたのかもしれない。
私と妹と母で生活していた時は、とても極貧だった。
母は身寄りもなく頼れる友達とかもいない感じ。元風俗嬢だったのは確かだ。
ちゃんとしたお店に勤めていたのか、それとももっとアングラな感じだったのかはわからない。
少なくとも、お金をたくさん稼いで貯金していたとかではない。本当に貧乏なお家だった。
なぜお金がなかったのかもよくわからない。けど、とにかくその日の食べ物も苦労していた。
子どもの頃って、どうしてこんなに苦しい生活なのか、なにもわからない。意識しようがないよね。
確かなのは、父が来てから、普通の暮らしができるようになったこと。
私は欲しいものもたくさん買ってもらえるようになり、行ったことのない場所にも連れていってもらえたので、父は楽しいことをたくさんくれる人だった。
もしかすると、子どもながらにその対価を要求されたなら、応えないといけないと思ったのかもしれない。
それこそ、父親なら家族サービスをして当然かもしれないけど、私にとって父は本当の父ではなく、なにかを買ってもらったり、どこかへ連れていってもらったりしても、どこか「していただいている」感があった。そういう関係だった。交換しあう関係。
そういう意味では、最初から最後まで、ずっと本当の”父親”としては受け入れてなかったのかも。
母が亡くなった後も、父はサービス精神旺盛な人であり続けた。私と妹と父の3人でいるときは、面倒見がよく、優しい父だった。外でもそうで、ご近所さんとのお付き合いもよく、「いいお父さんね」とよく言われた。
私や妹が体調を崩せば、しっかり看病をしたり、病院にも連れていってくれた。本当にお手本のような父だった。
思い返せば、母が存命の頃から、私の体を触ったり、舐めたりはあった。
それが性的虐待の兆候だと言われればそうなのかもしれない。ただ、私はそう認識してなかった。
今思えば、血の繋がっていない低学年のあそこをじっくり見たり触ったりするのは異常だとわかるけど、当時は悪意の可能性すら頭に思い浮かばなかったし、優しい言葉を掛けながらそうしてきたので、父親というのはそういうものなのかと認識していた。
「小4のころから虐待」と書けるのは、母が亡くなった後の父の要求を「嫌だ」と感じ始めたのがそれからだったから。もちろん、もう少し前から「本当はダメなことなんだ」という意識はあった。
いろいろ勉強もするし、心も成長するし、男女の違いも意識が芽生えてくるので。
でも、上記のとおり、父親と娘とはそういうものなのかと思っていた。誰かに話すこともしなかったし、話す必要があるとも思わなかったし、訂正してくれる人はいなかった。
私には疑問がある。
父は、一緒に暮らし始めて、「そういう気」を起こしたのか、元々私を狙っていたのか。
きっと、増田の人たちからすると、「そんなことはどうでもいい」と言われると思う。私のことなんて他人なんだし、父にされたことに変わりはなく、私が被害者なのも変わらないので。
ただ、私は父を憎めていないので、きっとこういう疑問が頭をよぎるんだと思う。
つまり、一緒に暮らし始めてそういう気になってしまったのなら、私は心のどこかで父を許してしまいそうで、元々そういう気なら、父を悪者に定義しやすいのかも。
「いや、ただのレイプだよ」と言われるかもしれない。第三者から見ればそうだと思うし、実際そうなんだと思う。
でも、10年間も一緒にいた私にとって。人生の半分、一緒に生活して、子どもから大人になる時期に一番近くにいた男性は、私にとってなんなのか。どうしても浮かんでしまう。
母が亡くなってから最初の1年くらいは、手や口を使った行為で、さらに半年も経つと、私は父の精液を飲むまでになっていた。
嫌だったかというと、嫌だった。でも、やらないといけないことだと思ってた。それが大人になることだと思ってた。
単にその行為がというのではなくて、「嫌だと思うことでもやらないといけないことがある」ということ。
具体的には、亡くなった母親の代わりに、私は嫌な事でもたいへんなことでも、家庭の平和のためにやらいないといけないって思ってた。
「誰かに相談すればよかったんじゃない?」って思う人もいるかもしれない。
でも、私は父と娘はそういうものだと思ってた。
「おかしくない?」って感じるかもしれない。そう、おかしいよね。でも私は「父親とはなにか?」を知らなかった。生まれてずっといなかったので。「父から見て娘とはなにか」を知らなかった。
そういう意味では、冒頭で書いたように、私は彼を本当の意味で「父親」とは認識していなかったんだと思う。本当は性的関係を持つ男性でしかなくて、でもそれを一緒に住んでいるという理由で「父親」だと定義していた。
いま私は、風俗の世界で働いている。一応、自立してると言えるのかもしれない。
精液って、人それぞれに味が違う。体臭も違うし。私は父の味と匂いを今もはっきり覚えている。
そんな私でも、不意に処女を奪われたのはショックだった。
身体的な苦痛もあったけど、本能的に大切なものを壊されたと感じたし、あの日、あの夜は、もう普通の女の子ではいらなくなったと
いう実感が体中に広がった。
でも。そう感じるのは自分がわがままだからと思っていた。大切な妹がいたので。守ってあげないといけない。
私がイヤだと思うこと=私のワガママ。そうだと思った。私がイヤだという理由で、父のしてほしいことを拒絶するのは無責任だと思った。
今これを読んでる人からすると、意味不明だと思う。狂ってるか、下手な官能小説みたい思われるんだと思う。
処女ではなくなったその日から、7年間。父と関係を持たない週はなかった。
計算したら330週くらい。毎週毎週毎週毎週。何日も連続。朝晩繰り返し。そんな日もあった。
一番多いのは、夜寝る前。妹が寝てから。そういう日は、父からいろいろなサインがある。私たちは言葉にしなくても通じ合っていた。
妹が寝てから、父の部屋に行って。たいていは人形・オナホ扱い。でも、ときに恋人のように扱われることもあった。愛しい娘として扱われることもあった。父のその日の気分次第で。
私は、どんな扱いを受ける日も、不満は言わず、父が人形を求めるならお人形になり、恋人を求めるなら恋人になり、お父さんが大好きな娘を求めるなら愛しい娘になった。
それが母がいない、この家族での私の役割で、誰にも言ってはいけないことで、私はそうやって父を愛すべきだとも思っていた。
学校に行く前にされることもあった。
妹には絵本を読んでてもらったり、タブレットで動画を見てもらっていたり。行為のあと、何食わぬ顔で妹と一緒に集団登校の場所に行き、みんなと一緒に笑顔で学校へ行く。
口の中で受け止めた日は、臭いが残っているので、マスクを付けた。中で受け止めた日は生理じゃないのにナプキンをつけて学校に行った。
父が仕事でいない日は、学校から帰ってすぐなんてこともあった。私の日常だった。
嫌だと感じないわけじゃないけど、学校でも普通に嫌な事や嬉しいことがあって。
心のエネルギーはそっちに使うので、ちゃんと応えさえすれば特に害のない父との行為は、なにかを感じるだけムダだという感覚になっていった。
同時にそれは、自尊心が壊れていたんだと思う。
そんな父も、私が学校で不当な扱いを受けたときとかは、味方になってくれる。
思春期だから、友達ともいろいろある。小学校高学年のときも、ちょっと数人を巻き込んだトラブルがあって、一方的に私が悪いってことにされてた(担任にも嫌われていたし)。
私が父に相談すると、父はかなり積極的に担任と話をして、私の気持ちを代弁してくれたり、味方になってくれた。
正直言って、心強かった。私は父がいないと困る。生活面でもそうだけど、どこかで心強い存在でもあって。
これだけしてもらえるなら、私は私にできることで父を喜ばせないといけないとも思ってた。
ただ、中学に入ってからは、イジメられていることは打ち明けられずにいた。
それはきっと、主に性的なイジメを受けていたからで、父に話すと父はイヤがるだろうと感じた。
中学生なんてまだ子どもだけど、男と女がどういうものか分かってきていた。
正直言って、学校でされていたことを打ち明けたら、父は私を汚物のように捨てると思った。
実際、中3で妊娠がバレたときは、殴る蹴るをされたわけだし……妊娠発覚後は、明らかに父の態度が変わった。
表向きは変わらない。妹と3人でいるときは、優しい楽しい面白い父だった。
でも、夜、私が相手をするとき。髪の毛を掴んでひっぱったり、お尻を強くたたいたり、頬を叩いたり、そういう感じになっていって。
回数も減った。その代わり、父の仕事の仲間の相手をさせられることが多くなった。最初は抵抗していた。そうしたら、無理やりされて結局、行為の時間が長くなる。痛いことだってあった。
でも、そのうちに抵抗しなくなると、今度は行為が早く終わるようになった。相手の思い通りにすると本当にすぐだった。
でも、そのうちに気が付いた。自分から相手を気持ちよくしたり、かわいい子だと思えるような仕草をすると、早く終わるうえに、あの人たちが私にお小遣いをくれるようになった。それで、私や妹にとって必要なものを買えるようになった。
子どものうちから、そういうことに気が付けるようになったのは、いいことだったのか、悪いことだったのか今でもわからない。
その時、感じたことは2つ。
父が私を見なくなったことへの寂しさと、妹に矛先が向くことへの不安。
後者はわかるけど、前者は自分でも意味の分からない感情だった。
でも、今思えば、今まで自分の役割だって必死に応えてきた、そんな自分が否定されるのがいやだったのかもしれない。
ただ、自尊心はすでに壊れていたんだろうし、なにかを正常に感じられていなかったのかも。まだよくわからない。
でも、この家にはいられないと思ったのは確かだ。
父はなんだったんだろう。
小さい子供だった私にとって、母を亡くした私たちにとっては、生きるために必要な存在だった。
いびつではあったけど、愛情を感じることもたくさんあった。でもそれって、私が感じさせられていただけなんだろうか。
ただ、未だに元気でいて欲しいと思っている自分もいる。そして、それを気持ち悪く感じて、ものすごい力で否定しようとする自分もいる。
どっちが本当の自分か、どう感じるのが正しいのかも、未だわからない。
ただ一つ、私の「これは揺るぎない正解だ」と思えるのが、妹の幸せ。これだけだ。
もう私自身は、何をどう感じるのが正解なのかはわからないけど、妹が幸せなら全部それでいいんだと思える。
それでも。
繰り返し再生される父との濃厚な7年間の性生活は、私に「定義」を求めてくる。
「あれはなんだったの?」
って。
「私はこうだった」というのがふわふわしていて、それがいまだに自尊心を回復できない原因なのかもしれないし。定義をしたらしたで、もっと自尊心はボロボロになるかもしれないし。
ただ、時期がきたら妹にはすべて話してみようと思う。真剣に考えている。
最後にまた、父について思い返してみる。
改めて父について思い返すと、「自分の思い通りになることが第一の人」だった。
そして、外面が良く、口が上手く、口数が少なく、合理主義で、神経質で、顔が広く、用意周到で、倒錯的だった。
家庭内の性的虐待というと、どこか乱暴なイメージがあるかもしれないけど、私の場合は基本的に「自分からする」ことを求められた。「しても・しなくてもいいけど、しなかったらどんなデメリットがあるか」をほのめかして、私が自分で「する」ことと選択するように仕向ける人だった。
いきなり、ハードなことは求めなかった。「本当はしたくないけど○○のためなら我慢してできる」を丁寧に積み重ねていき、気が付けば処女を奪われていた。
父がどんな仕事をしていたのか、詳しくは知らない。知りたいとも思わなかったので、尋ねたこともない。
ただ、月に何度か現金を渡され、それで3人分の食材を買ったり、トイレットペーパーや洗剤なんかも買っていた。
父は家事をほとんどしなかったし、母が亡くなったとき妹は5歳だったし、私が家事をやるしかなかった。
生前、母がいくつか基本的な家事は教えてくれていたけど、やり方がわからないときはスマホで検索したり、学校で先生に聞いたりした。
とにかく、父の機嫌を損ねないよう、やるべきことをしっかりやり、なるべく嫌な思いをせずに、父を喜ばせる。そうすれば、妹にも私にも優しい父をキープできた。意外に思われるかもしれないけど、日常生活中は、いたって普通の会話をしていた。
端から見れば、「お母さんが亡くなったけど、仲良く頑張っている親子」だったはずだ。こんな父だけど、割と欲しいものは買い与えてもらった。でも、それも「飼い慣らし」の手段だったのかもしれない。あるいはパパ活の一種として。
すでに屈服状態だった私が家出を決意できたのは、思春期に入った妹を守りたい気持ちと、身体的虐待による命の危険を感じたから。これが、私の父への関わり方。
もしいなかったら、私と妹は孤児になっていたし、母ももっと早く亡くなっていたかもしれない。まがりなりにも、経済的な支えではあったので、いなかったほうが幸せだったのか、いたから不幸だったのか。それはわからない。私はこの人生しか歩んだことがない。
「お母さんさえいてくれたら」と何度も思った。世の中が良い母親ばかりでないのを見ていると、そう単純な話ではないのかもしれないけど。
正直、「血の繋がりのある優しいお父さん」はファンタジーでしかなく、理解できない存在だ。だからきっと、そうしたお父さんがいる人にとって、私の話は、逆にファンタジーに見えてしまうと思う。
ひとつ確かなことは、私は父を憎んではいないということ。私にとって父は対等な存在ではなく、憎しみの対象にすらならないほど、不可侵の存在だ。刺激したら爆発する爆弾を、憎んで叩き壊そうする人はいない。慎重に処理をすべき対象だ。
今は、私たちに関わることがないよう対策をして、遠く離れた場所に住んでいる。大学生の私と、高校生の妹の二人暮らしだ。
私が務めを果たし続ける限り、金輪際、父に会うこともないだろう。このことは、合理主義の父をよく知っているので、妙な信頼がある。
心ない言葉をなげる人は多分自分を守ることを考えている。自分を守ることと他者を攻撃することを同一視している。自分が間違っていることを認めてしまうと何もない気がしてしまっているんだと思う。自分が正しいことを示したくて他者を攻撃している。自分が正しいということを、その言葉を使って表現したいだけで、その言葉そのものに意味はない。自分が正しいことこそ意味があると思っている。
何を期待してその言葉をなげてしまうのか。自分や自分の考えの正しさを示したいのか。その正しさのなかに、その行動は含まれているのか。
凡人は空虚な正しさを捨てて一回自分に何もないことを認めて、そこから始めるしかないのだと思う。何が大事で何が大事でないか、何かを持っている状態でなく何も持っていないところから始める。
逆に非凡な人は、何かを持っているからその何か以外のものを持つ必要がないんだな。そういう意味で凡人のことはわからないのかもしれない。
そして私は空っぽになった。でも、この空っぽをどう埋めればいいのか。これを探していくのが人生なのか。だとしたら苦しい。この何もなさとどう付き合っていけばよいのか。
その答えは多分そこなしの沼しかない。
何の見返りもなく愛せるもの、無償の愛を送ることのできる対象を見つけるしかない。ただし、他者が絡むのはよくはない。他者への期待が膨み、見返りを求める可能性があるから。
人の沼を絶対に馬鹿にするな。特に意味など求めるなどもってのほかだ。その人にしかわからない意味があるし、その存在が意味だからだ。そういうものがあることを理解するだけでもいい。それが不可侵なものだと理解してくれれば世界は平和だ。
各自が自分の沼に浸れているうちは平和だ。その世界では比較など無意味だ。
しかし、この道は孤独に通ずる道でもある。この孤独を自分で愛せるようにならないといけない。
この孤独を愛せたら死も楽しみになれるだろうか。
参考文献
「差別は解消されるべきです。
すべての人間は平等であり、人権は不可侵であるとする基本的な価値観からすれば、差別は不当であり、解消されるべきです。人種、性別、性的指向、宗教、障害などを理由に差別を受けることは、基本的人権の侵害です。
### 2. 社会的な影響
差別は、個人だけでなく社会全体にも悪影響を及ぼします。差別が存在する社会では、被差別者の生産性や幸福度が低下し、社会全体の経済的・社会的な発展が阻害されます。差別を解消することで、より公平で繁栄する社会が実現します。
### 3. 歴史的な教訓
歴史を通じて、多くの差別的な制度や慣行が廃止されてきました。奴隷制の廃止や女性の選挙権獲得など、これらの変革は差別の解消が正当であることを証明しています。過去の差別的な制度が是正されたことで、社会はより公正になりました。
倫理的には、他者を公平に扱うことが求められます。他者を差別することは不公正であり、道徳的に許容されるものではありません。倫理的な立場からも、差別は解消されるべきです。
### 5. 法的な観点
多くの国では、差別を禁止する法律が存在します。これらの法律は、差別が不当であり解消されるべきであるという社会的な合意を反映しています。法律に基づく社会秩序を維持するためにも、差別は解消されるべきです。
先日、ピッコマで「北斗の拳」が1日限定全話公開してたので読んでみたんだが、本編はもちろんのこと、時代を感じる部分があって面白かった。
一気読みなのでうろ覚えも多くてすまんが、平成生まれのオタクから見たジェネレーションギャップをまとめてみる。
・男女の区別がはっきりしてる
男とは!女とは!というカテゴリで括られていて「男に生まれたからには」「女としての幸せは」みたいな性別による話が多い。基本的に男が戦っていて、女は戦わないし、戦っても弱い。進撃の巨人とかキングダムみたいな強い女は出てこない。(ユリア実はめっちゃ強いかと思ってた)
基本的に「女子供」は絶対に殺してはならず、守るべき存在。殺すのは相当な外道というポジション。「女子供を殺す奴は人間じゃねえ」って主人公サイドが言ったり。「俺は女でも殺すぞ!」みたいな脅し文句を悪の象徴として使ったりする。鬼滅では老若男女が喰われているが、女子供を喰っていることだけに非難が集中するわけじゃない。子供に対する不可侵はまだありつつも、薄れてきている感覚かもしれない。
・男は守ってもらえない
ヒーローと一般人という区分よりも、男と女子供という区分が強いので、男である限り一般市民でもあんま守ってもらえない。妹を人質に取られると兄は必死になって助けようとするが、それが弟になると「あいつにも死ぬ覚悟ができている」とか言って助けないパターンになる。男に厳しい。悪役に殺されるモブも男ばかり。男が殺されて女子供が殺されそうになった頃に主人公が助けにくる。男も助けてくれ。ヒロアカで女子供しか助けてもらえなかったらすごい違和感ある。時代なのか?
舞台は世紀末だけど性暴力的な言動や描写がほぼない。美人キャラ捕まえた悪役がいうセリフも「美人を捻り殺すの好き」みたいな感じで「俺のものにしてやるゲヘヘ」みたいな感じじゃない。誘拐しても無理やり襲わない。最近の方がそのあたりはエグい。
ビンタしないし文句言わないし口数も少ない。平成の暴力系ツンデレヒロインとは違う。多少の反抗はありつつも基本は受け入れていく姿勢で寛容。ユリアは母性が強く、みんながそこに惹かれている設定なんだが、それを大々的に語られていることが衝撃だった。周囲に「母性に惹かれてる」って思われるのってあの時代的には普通なのか?恥ずかしくないのか?「あの人、ユリアの母性に夢中なんだね」って言われるんだよ。性癖みんなに把握されてるようで自分なら取り乱す。
・命より誇り
かっこよく死ぬ!というスタンスというか。命よりも誇りを取る。掟とか伝統もかなり大事。美学に命かけてる感じ。昨今の作品はわりと命を大事にしている。主人公サイドは特に「掟を守って死んだら元も子もないねーだろ!?」みたいな型破りが多い気がする。北斗の拳ではかっこいいやつほど命をかけてるので、メインキャラがばんばん死んでく。死ぬペースも速い。
・親子の親は死亡フラグ
父親はだいたい死ぬ。母親もときどきしぬ。親が死んでも、子が受け継ぐみたいな価値観が強そう。親子キャラだから死なないだろ、主人公が助けてくれるはず!みたいな前提で最初は読んでたけど、最後の方は子がいるってことは死にそうだなと思うまでになった。最近の漫画や映画は子どもを一人残して死なないパターンが多いかも?
・ラスボス系が子孫を欲しがる
カイオウが「子をなす」ことを望んでいるのが意外だった。DIOとかヴォルデモートとか鬼舞辻無惨とか、ラスボス系は不老不死になって自分が永遠になる!みたいな思考が多いので。子供を作って受け継ぐみたいな人間的な営みを望むのが意外。上記の親子の価値観と近いところがあるのかも。
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/07131131/?all=1
社会復帰に相当な苦労をした。
助けてくれる外部の者はなかった。
自分こそテロリストだったかもしれないという自我の脆さをかかえながらなんとか
山上容疑者の生い立ちが日々明らかになるのを毎日、胸が張り裂けそうになりながら読んでいる。
「いかなる生い立ちであっても今回の凶行は絶対に許されない。」とか、
「殺人は犯罪」。そういうルールがあるのは、誰だって知っている。
しかし容疑者が殺人を犯さねばならないほど追い込んだのは、社会の側なのである。
無力な子供をこんな目にあわせるのは絶対に許されないことなのだ。
それを黙認してきたのも社会。
https://togetter.com/li/1912610
漫画本編はまとめに載ってる(作者が宣伝用に全ページうpしてる)ので知らん人はまず読んでどうぞ
https://b.hatena.ne.jp/entry/4722072961604756130/comment/IthacaChasma
内心の自由についての考えが深まる怪作。先生の内面も高潔だったら、きっとサトリ君は救われていないと思う。そして先生が口に出して言っていること(外面)は全て正しい。
賢しげにこんなこと言ってる&星つけてるブクマカが実際は全く内心の自由について考えておらずただ自分の思い込みを強化しているだけとバラしたので確かに怪作
なぜならこの漫画は「内心の自由の尊重についての物語」ではなく「内心の自由が崩れている世界の物語」だから
作者にその意図があったかどうかはともかく作品はそうなっている
先生が口に出して言っていることが正しい?
普通に保身のために嘘ついてるが?
「アンタのそのイカれた本性 必ず表に出させてやるッ!!」
はてな民は人権とか詳しいから3秒考えれば分かると思うんだけど、「読心術で知った他人の内心を周りにバラす」が内心の自由の侵害といえるかどうかはかなり微妙
むしろバラすことを禁止してしまうとサトリくんが自分の知っていることについて自由に発言する「表現の自由」の侵害になりかねない
「恋心を打ち明けられた人間はそれを一生黙っている義務を負うのか?」はブクマカの間でも意見が分かれたのを覚えているだろう
もちろん自分の恋心を自分の意思で打ち明けた一橋の事例と無許可で心を読めるサトリくんの事例は根本的に違うが)
外形と内心を同じように感知できるサトリくんにとっては「ねえねえ、僕の担任の先生はメガネの若い男の人なんだよ」と「ねえねえ、僕の担任の先生は僕の首を蹴りとばしたいと思ってるんだよ」の間に違いはない
まあさすがにこの内容だと名誉毀損濃厚だが、例えば「先生はハムスターを飼いたいと思っている」程度の穏やかな事柄を暴露するのがどういう法律に抵触するというのか
秘密を守るとの約束(つまり口頭での契約)があったわけでもないので民事でも厳しい
なぜこれほど先生に不利な事態になってしまうかというと、サトリくんが心を読んだ時点で内心の自由という原則が崩壊しているから
読心術はその前提を壊すから憲法の自由権全般の作り直しが必要になる
仮にサトリくんがクラスメイト全員に読心能力を与えることができたならと考えると崩壊の様子がわかりやすくなる
重要なのは読心能力者の間では互いに心を読み合ってテレパシーができること
こうなってしまえば他人の内心の暴露も誹謗中傷も企業秘密の漏洩も何もかもが合憲的に合法的に行える
読心能力を得た生徒たちは先生の心を読んでさまざまな感想を抱くだろう
そしてテレパシーで話し合うだろう
表面上は平然と振る舞うことはほとんど不可能だろうし、仮にできたとしてそのような状況で先生の尊厳が守られているとはとてもじゃないが思えない
口に出して話をしてしまうほうがまだマシではなかろうかとすら感じる
ただし実際にはサトリくんは1人しかいない
だから先生は良心の自由原則が壊れたことを他の人々から隠蔽しようと、消滅してしまった自由がまだ存在するかのように見せかけてサトリくんを脅しているしそれは上手くいきそうに見える
しかし内心の自由は読心術を持たないホモサピのポジショントークにすぎないのでサトリくんにそれを押し付けるのは多数派の暴力だ
視覚を持たないヒトデが地上を支配して「視覚から得た情報は一生心の中にしまっておくべき。表に出したら権利侵害」と言い出したら理不尽だと思うだろう
【お願い】広告ブロッカー(Adblock)の除外設定をお願いします。 - すまほん!!
個人的にはこうしてお願いを出すのは真摯だと思うし、良質なコンテンツを提供するサイトが続く世界であればいいと思う。
id:hyperpeppy 広告が不快とか詐欺が危険なのはわかるけど、なぜそこで「サイトを見ない」じゃなくて「ブロックして見る」になるのかわからない。見る以上は対価を払えよ。
また、他の記事のブクマではこんな意見が散見される。下記2記事より引用。
[B! 広告] YouTube広告を16倍速であっという間に終わらせるChrome拡張が公開、広告ブロック警告を回避 | テクノエッジ TechnoEdge
[B! 広告] YouTubeが広告を消す「Adblock Plus」をブロックし始めて大混乱に、Adblock Plus公式も対応に乗り出す
id:beed YouTubeの広告に問題があるとして、利用しないではなく、コストを払わずに勝手に利用するになるの、ただの自己正当化でしかない。
id:manaten Youtubeは広告で利益上げて持続してるビジネスなんだから、広告嫌ならpremiumになるか見るなって思っちゃうんだよな。ビジネス持続の対価を支払わずに利益だけ受け取るのは万引きと一緒やん
id:minaminoani どうもこのGAFAみたいな巨大企業が相手なんだから金払わずに済ましてやろうというのは気に食わない。そんなに広告が嫌ならプレミアム会員になればいいじゃない。
id:bilanciaa タイミング考えろとかで広告ブロックは正当化できるものじゃないと思う。卑しいな
id:kagoyax 他社のサービスの広告引き剥がして金儲けってどう考えても倫理的にアウトだしこれまで放置されていたのがおかしい。Googleいわく規約違反だから何人かアカウントBANしてみせしめ的に取り締まったら効果絶大だろうな
id:hyperpeppy 広告を見たくないならブロックするんじゃなくて「サイトを見るのを諦める」が正しい行動だろ。お店にお金を払いたくないからって商品を盗むのか?
id:shimmering ズルしてる側があたかも正当に書かれているの訳わからんな、これはGigazineが悪い
id:letitbomb78 なぜYouTubeだけは無料で見られるのが当然だと思ってるの?他の動画プラットフォームでも大抵月額制でしょ。広告がどれだけ不愉快でも見れるだけマシだと思わないのか。
id:Meleonic フリーライダーがイキんなと
id:njgj 正式に広告を消す手段(有料化)があるし、広告が著しい不利益をもたらすわけでもないのだから、フリーライドしようとしちゃそらダメでしょ、としか…。
id:pwatermark いや、広告ブロックするくらいなら見るなよ
id:lejay4405 いや広告嫌なら金払えよ。消せる手段があるのに使わないで文句言ってるのマジで謎
id:ao-no 広告ブロック入れるほどYoutube見てるのに有料プラン入ろうとしないのは普通に盗人猛々しいというか、いびつ。よっぽど貧乏ならともかくそうじゃないんでしょ?
id:diesis そもそも最低限の線引したら広告の質なんてこだわらなくていい。不満なら金を払ってプレミアムになるか、立ち去れ。 /ネット草創期の何でもタダな空気をいつまで引きずってんのクソジジイども。
id:daij1n そもそも広告で成り立っているビジネスなので、それを迂回して見る行為は窃盗と同じ。
id:koishi この店には金額に見合った価値はないから盗むのも仕方ないし、窃盗出来ないように対策するなんてひどい!…って君ら正気か?
id:pj_lim 金は1円も払わない。広告ブロック対策には文句言う。ガキが言ってるならまだしも一端の大人が言ってるから普通に引く。正気の沙汰じゃないってブコメあるけどオメーもだよ。
id:zzzbbb 広告ブロックって、必要経費を払ってないってことだからね。税金払ってないのと一緒。さすがに間違ってるとは思う。
id:a_ako 広告をブロックする、お金も払わない、という人は、クリエイターの制作コストやYouTubeのサーバー代を何と思ってるのかな。霞でも食べて生きてると?
id:kamei_rio 広告は嫌いだけど対価も出さずブロックするのはシンプルに不正じゃないの。ブロックしてる方々の分を肩代わりさせられるし正直どうかと思う
これらの意見は私の見解とは異なる。広告ブロックはフリーライドではないし、ましてや万引きでもズルでもない。
コンテンツブロックを推進する側の意見としては主に以下の2つに大別される。
私は1.の意見である。これはプライバシーと自己決定権の問題である。
そもそも広告を配信する自由が与えられているように、広告を見ない自由も与えられている。
GitHub - gorhill/uBlock at eab7cb0e03a642129f33b2755ddf6d06f3922417
uBO is NOT an "ad blocker"; it is a wide-spectrum content blocker. (中略)
It is important to note that using a blocker is NOT theft. Do not fall for this creepy idea. The ultimate logical consequence of blocking = theft is the criminalization of the inalienable right to privacy.
Ads, "unintrusive" or not, are just the visible portion of the privacy-invading means entering your browser when you visit most sites. uBO's primary goal is to help users neutralize these privacy-invading methods in a way that welcomes those users who do not wish to use more technical, involved means (such as uMatrix).
(日訳)
uBOは「広告ブロッカー」ではなく、広範なコンテンツブロッカーです。(中略)
ブロッカーの使用は窃盗ではないことに注意してください。この不気味な考えに騙されてはならない。ブロッキング=窃盗の究極の論理的帰結は、プライバシーに対する不可侵の権利の犯罪化である。
uBOの主な目標は、より技術的で複雑な手段(uMatrixなど)を使いたくないユーザーを歓迎する方法で、ユーザーがこれらのプライバシー侵害手段を無効にできるようにすることです。
よくある質問 · Yuki2718/adblock2 Wiki · GitHub
違法ではありませんし、まともな法治国家においては今後も違法になる可能性はまずないでしょう。ドイツでは6度の訴訟においてすべて広告ブロック側有利の判決が出ました。
ウェブ標準化団体のW3Cは、ユーザーは拡張機能やブロッカーをインストールして、望まないコンテンツをブロックできなければならない、それが倫理的な面でウェブのあるべき姿だと明言しています。プライバシー気運の強いEUにおいては、アンチ広告ブロックのほうが違法にされかけたこともあります。
私たちは見たいものを見る権利がある。強制的に配信されるコンテンツを見ない自由がある。広告を見たいと思ってコンテンツをクリックしているわけではない。私たちは広告と引き換えにコンテンツを見ているのではない。広告は私たちにとって商品ではない。
テレビのCM中に立って家事をするのも、テレビのCMをスキップするのも、テレビのCM中に勝手にテレビが消えるのも体験としては変わらない。同様に動画広告中に立って家事をするのも、広告を表示させないようにするのも変わらない。私たちは配信者に機械に固定され、目を見開かされて広告を見るよう強制されていない。
ウェブにおいてコンテンツは店ではない。どちらかというと取り寄せに近い。広告ブロックは万引きではなく、商品と一緒に届いたDMを読まずに捨てる行為だ。もしくは一度荷物を空けて勝手にDMを捨ててくれる管理人。
広告を見たくない人が見なければ潰れてしまうビジネスモデルなら、そのビジネスモデルが間違っている。YouTubeが無料で見られるのは理由がある、もし完全課金制の方が儲かるのならそうすれば良い。Evernoteのように。その時私が課金するかはまた別の話だ(おそらく数ドルならするのではないかな)あとYouTubeプレミアムは広告除去を目的としたプランではない。
id:akiat YouTubeプレミアムがないならわかるけど、YouTubeプレミアムユーザーにとっては、フリーライダーや不正行為にしか見えん。
これをYouTubeの問題に矮小化するな。YouTubeプレミアムに課金すれば解決?私はそもそもYouTubeのように課金していない人たちに汚い広告を見せつけるビジネスモデルを否定している。YouTubeプレミアムに課金したからといって問題は何一つ解決していない。
私はこれまで世の中の人は広告に対して興味がないものと思っていた。コンテンツブロッカーを使わなければwebが見れないのは少数派なのだと。だがどうやら異なるらしい。広告収入が減るくらいコンテンツブロッカーが広まっているのならば、そのビジネスモデルは間違っている。
個人的にはいまの広告配信型ビジネスモデルは限界だと思う。コンテンツ制作者と広告配信者が一致していないせいで、ノイズでしかない広告が差し込まれる。質の高い広告とはたとえばYouTuberのレビュー動画やオモコロのPR記事のようなものだと思う。PR記事や動画をクリックしてみにいくとき、つまり能動的に広告を見に行くとき、ウェブサイトに差し込まれる広告のような嫌悪感はない。その広告を見たくてみているので。
(これは余談だが、個人的には広告よりもたとえばコインハイブのようにPCパワーを奪ったり、InstagramやTiktokのように完全に嗜好に合致しており煩わしくないと感じる広告の方に未来があると思う。そしてもちろんそのような広告たちもブロック可能であるべきだ。)
コンテンツブロックはマナー違反なので黙ってやれという意見がある。私はそうは思わない。私は無差別に投下された汚い広告がwebを埋め尽くす世界を望んでいない。間違ったビジネスモデルでなければ生き残れないサービスは滅びた方が良い。それを滅ぼすかどうかは私たちが決める。サービス側ではない。
金を払いたくないから課金していないという話ではない。私はそのビジネスモデルが正しいと感じ、続いて欲しいと感じたならば課金している。(たとえばNetflixやSpotifyやIFTTTやPinboardやDeepLやChatGPT PRO)
もちろん私が広告を見ない権利があるように、サービス側にも広告を見ないユーザをブロックする権利があるのだろう。ユーザのバンが認められる国や法があるとは思わないが。
改めてであるが広告モデルだけが全てではない。ユーザーへの不便の押し付けではなく、サービスのアップデートで覆すべきだ。NetflixとSpotifyが違法ダウンロードを駆逐したように。
もっと広告ブロックを使え。Twitterはwebなりtweetpdを併用すれば広告は消える。Wikipediaには募金しろ。もちろん支援したいサイトはホワイトリストに入れるのも良い。やりようはいくらでもある。くだらない未来を甘受するな。
なんかニュースで、
心は女だから男の体のままでも戸籍を女にしろっていう裁判をしてるようだが。
体は男のままでも、日本国内の法律上は女になれば、それで満足なのか?
周囲から女扱いされたいだけなのか?
それじゃ、願望の強度がネカマと変わんねーよ!
性転換手術は金がかかるとか、手術の大変さとかで、リスクがあるらしいが、
当たり前だろ。
リスクがあるなんて、当たり前だろ。
なりたい自分になるためにリスクを背負うなんてことは、世界中の人間がやってることだろ!
心が女なら、体も女にしろ。
整形したり化粧するブスは、心は美人だから整形したり化粧して美人になるんだ。
筋トレする奴は、心はマッチョマンだから筋トレして理想のマッチョマンに近づくんだ。
心は金持ちと同じだって思う貧乏人は、節約したり金儲けして金持ちになるんだ。
心は天才だと思ってる人も、勉強したり成果を出してやっと天才と呼ばれている。
みんな頑張ってるんだ。
心の自分と、現実の自分の違いに、苦しんで、だからこそ努力して、リスクを背負って挑んで、あがいてるんだ。
それができないなら、心の自分を周囲に認めさせるのは、あきらめなきゃいけない。
ブスがブスのまま「整形はリスクがあるからヤダ!でも私の心は絶世の美女なんだ!ミスコンで優勝させろ!」と叫んで、
世の中が「そうか、ブスだけど心が絶世の美女なら、君は絶世の美女だな!」とミスコンで優勝させたら、おかしいだろ。
お前はそんなおかしいことを、性別にだけ認めろと言ってるんだ。
ぜんぶ大事で、心の中は不可侵で、だからこそ、現実を個人の心だけで歪めちゃ駄目なんだろ!
めちゃくちゃな裁判するな!
「人間と違って動物は下等なので痛みとか苦しみとか無視でええんやでー」という逆流防止弁によって防がれているカタストロフィの多さをキチンと想像して欲しい。
動物にも権利があると主張し続けると神聖不可侵たるものとして人間様と動物を切り分けるのが難しくなっていく。
すると「クジラはダメだけど虫は下等だから痛めつけてもセーフ」といった差別基準が人間の方にも波及してくる。
「黒人は白人と違ってモンキーよりだから人間扱いしなくてセーフ」をやっていた時代に逆戻りするということだ。
すべての動植物に人間と同じ権利を認める余裕が産まれるまでは「権利は人間様だけにある。器物損壊や環境破壊は気にしなきゃだが、動物の尊厳や感情は今は気にするな」で貫き通すべき。
もし今後人間の余裕が失われ動物に分け与えすぎた優しさみたいなものが足りなくなったとき、それを動物から取り上げられるかどうかで争うことになるだろう。
そのとき「犬は人間の役に立つけどモニャムニャ族は単なる野蛮な山賊で文明社会の敵みたいなもんだから権利を認めるのをやめよう。まあ面白いから保護はするけど人間扱いはせんでええやん?」「せやせや!」「ほんまやなんで気づかんかったんやろ」「じゃあお猿さんの代わりに薬の試験とかもしてええんか?」「ええんちゃう」「せやなーお猿さんは頑張ってるのにモニャモニャ族は単なる臑齧りみたいなもんやしカスだよなあ」「わかるわー」みたいになりかねん。
昨今世間を騒がせるあの件でつくづく思ったんだけど、炎上は誰のためにもならないことだと思う。
なのに、一旦広がると誰も止めることができない。
だから、炎上は「させてはいけないのだ」というルールを、その他の道徳と同様にして、各人に定着させる必要があると思う。
個々人の良心に訴えて、炎上はさせてはいけないし、それにのってもいけないという世の中を作るべきだと感じる。
そうしないと、あらゆるものが炎上されて、万人が万人の敵みたいな世の中になってしまうと思う。
皆、自分が好きなものを持っている。それを炎上されたら嫌なのだから、そういうマナーも相互不可侵のひとつとして、実現可能だと思う。