はてなキーワード: 出版物とは
読んだ。
https://togetter.com/li/1117700
ひとつ気になったのだが、「熊本城」という例を出したO氏は、T記者からこのような反応がくることを、先に予想していたのだろうか?
まだまだ復興は遅れていて、壊れたままの家で梅雨や台風を迎える不安な母の心の支えになっているのが熊本城です。熊本城に観光客が集まり、復旧のための寄付が集まり、元の姿に戻る日を心待ちにしている。同じ思いの人たちは多いと思う。それを「戦争のために作られたものだし復旧しなくていい?」
侮辱するのもいい加減にして欲しい。
こういう反応を引き出したのは、まとめサイトから判断するかぎりたった一つのツィートで
議論において、相手を矛盾に追い込む。そういうときには、「相手」にとって矛盾だと作用するものでなくてはならない。
「相手」にとっての矛盾、とはどういうことだろうか。よい実例が、このツイートの前のやりとり、JSF氏の指摘で展開されている:
…AERAって朝日新聞系ですよね?実はこの零戦を飛ばしたレッドブルエアレースの後援を、朝日新聞がしているのです。つまり朝日新聞は「戦争を反省しつつ零戦かっこいい」という精神状態を肯定していると思うのですが如何でしょうか?レシプロ戦闘機は現代の戦争にはもう役に立たない存在なのです。
零戦レシプロを批判すれば、朝日新聞のグループ社員として、エアレース後援をしている組織の方針と食い違ってしまう。
零戦レシプロを黙認したら、自分がAERA記者としてツィートした内容を取り消さなくてはならなくなる。
相手がAERAの記者でなければ、このような矛盾は「矛盾」にはならない。「朝日の方針がおかしいんです」の一言で切り捨てられる。
しかしT記者はAERAのライターだ。AERAは朝日の出版物だ。朝日の出版物なら、朝日新聞の方針に従うに違いない。
・・だと思っていたら、「組織の考え」と「私の立場」は違う、という形で、矛盾の間をすり抜けられてしまった。
げげ。それは知りませんでした。組織の考えは分かりませんが、私の立場は変わりませんよ。現代の戦闘に役に立たないものをなぜ復活させる必要があるのか、石塚氏が過去に出演したチャンネル桜の2回の放送をご覧になったらいかがでしょう。
ここは、身軽に構えたT記者のほうが一枚上手だった。
しかし、次のO氏の指摘は、表面上は「相手」にとっての矛盾に追い込む形にはなっていない。
この時点で、T記者と熊本城とのつながりは、いっさい明らかにされていない。
だからその分、相手を追い込む形にはなっておらず、威力は低い。
熊本城になんの思い入れもない人だったら、熊本城のおかれた環境と、零戦のおかれた環境は違います。くらいの逃げを打ててしまう程度の話。
しかし実際には、冒頭にあげたような、激烈な反応が返ってきた。
最初っからAERA的なものが嫌いなネトウヨ勢だけではなく、中間層にいる人たちにも「そ、その侮辱ってのはあなたがエアレースを楽しんだ人にしたことじゃない?」とドン引きさせる効果があった。
零戦レシプロを黙認するなら、元の議論を取り消さなくてはならない。
零戦レシプロを批判するなら、同じように「戦争のために」作られた熊本城の復建にも反対しなくてはならない。
こういう矛盾が、熊本出身で、熊本城の復建に寄付までしている、ほかならぬ「T記者」にはとても有効に作用するだろう・・とO氏は他の情報ソースから知っていたのだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20170528113521
このまとめ的には間違いとまでは言い切れないけど正確ともいえない。
なので、いずれの場合も「公衆」に対して、出版物であれば頒布、それ以外のものであれば提示されることが必要になる。
さあ、ここでJASRAC対音楽教室でも話題になった「著作権法における公衆」の問題だ。
この「公衆」というのは、「特定少数の者」以外を言う。つまり、不特定多数、特定多数だけではなく、「不特定少数」も公衆に含まれる。いわゆるところの「一人でも公衆」問題ってやつだ。
「一人でも公衆」ってのは、例えば、世間に対して所定の条件(ウェブで言えば会員になるとか、検索して探すとか、会費を払うとか)を満たせば、誰でもそれを見られる状態にしておける場合、たとえその著作物を見た人間が一人であっても(先着一名様に限ったとしても)、「誰でも見られた」ということをもって「不特定少数」になるってこと。
詳しくはhttps://news.yahoo.co.jp/byline/kuriharakiyoshi/20170516-00071009/ こちらのコラムを。
ですのでここは
としたほうがいいです。
そもそもこの論文はネット上での猥褻表現のフィルタリングが主題なので、出版物についてははじめから考慮に入っていないと思います。猥褻ドメインのフィルタリングにAIの学習能力を利用するのが目的かと。
なのでそもそも「小説」という形式の文章のみをサンプルにすること自体に違和感がありますね。猥褻ドメインならではの広告文句や説明文、利用者の書き込みなどのデータも相当数持ってくるべきなのでは?
前文の段階で、有害情報の確認できるドメインとして2ch、pixivのふたつだけが例として並べられていて、その後その選定理由について触れられているわけでもありません。それ以外は注釈にハピメくらい。「なぜそこでpixiv?」と読んでるこちらが面食らいました。
わたしもAIに興味があるだけの門外漢なのですが、追記のとおり、あるドメインの傾向に特化したAIがフィルタリングに利用されるのはとても有意義だと思いますし、ゆくゆくはそういったAIをつくるための参考となるようにこの論文は書かれていると理解しました。なのでその前段階としてこの論文では猥褻表現の分類と考察がなされているんですが、その考察方法がいろいろな意味で非常に稚拙なのが問題になっている。
本題に入る前に、いくつか検討を行うべき点がある。
社会に流通する特定の表現を具体的に名指しして『有害』と評価する場合、その評価の責任は、そのような評価を下した主体が負うのが一般的である。
例えば、都道府県の定める条例に基づき『未成年者の健全育成に有害である』と評価された特定の出版物を、『有害図書』に指定し流通を差し止める場合があるが、その指定(あるいは指定の基準)の責任は当の都道府県が負う。
実際に、都条例(「東京都青少年の健全な育成に関する条例」)の条文が変更され、近親相姦描写が指定の根拠に加えられた際、またその条文を根拠として実際に書籍が『有害図書』に指定された際に、都を批判する声が少なからずあった。表現を『有害』と評価する主体はその評価について責任を問われる、という社会的通念が如実に現れた実例と言えるだろう。
『有害情報』はインターネット上に流通する表現についての評価であるが、これも評価の主体が責任を問われるという点は『有害図書』の場合と同様である。
例えば、特定のウェブサイトが、検索エンジンサービス・セキュリティソフトウェア・フィルタリングソフトウェア等によって『有害』と評価され、アクセスを妨げられた場合、その評価の責任を当該サービスないしソフトウェアの提供者が負うという点については、広く合意されるところである。
どのような表現を『有害』と評価するか、具体的な線引きについては評価の主体により差はあれど、大別すれば、「援助交際や違法薬物の取引」といった実際の犯罪行為と一体のものと、「(現実・架空の別を問わず)暴力・性行為・犯罪行為の描写」といった未成年者の閲覧に不適切なもの、の2つである。
このうち後者について、評価の主体が行政ないし公的機関の場合、表現の自由や知る権利とのバランスを取る必要から、未成年者による閲覧を抑止する施策(ゾーニング)が講じられていれば表現そのものを禁止はしないという形を取ることが多く、またそのような施策が予め講じられた表現に対して『有害』か否か積極的に評価することは(必要が無く、にもかかわらず上記のような責任を無用に負うことになるので)避ける運用となるのが通例である。
他方で、ゾーニングの必要性の有無を判断するのは表現を発表する側であり、通常これは『有害』評価を下す側とは別であるから、『有害』ギリギリのラインでゾーニングが行われることはない。すなわち、表現を発表する側はより大きな安全マージンを取り(安全側に倒して)ゾーニングを実施することになり、そして上記のとおりゾーニングされた表現については『有害』評価が保留されがちであることから、もし仮にゾーニングされていなかったとしても『有害』とは評価されなかったであろう表現がゾーニングされてしまっている(が、そうとはわからない)という例も珍しくないはずである。
したがって、ある表現がゾーニングされているからといって、その表現が直ちに(例えば行政や公的機関などの評価主体の判断に照らして)『有害』であるとは断言しえない。
業として表現を流通させている者(出版社や小売店、ウェブサービスなど)がゾーニングを実施するのは、上記条例をはじめとする法令を遵守することが第一義的な理由と考えてよい。そしてそれらの業者を介して自身の表現を流通させんとする個々の表現者は、業者との契約や規約に基づく形でゾーニングに同意し、間接的に法令を遵守することとなっている。
このことは、当該法令の理念や目的や基準について、必ずしも表現者は賛同ないし納得はしてないけれども、業者を利用する都合上その定めに従っている、というケースが内包されている可能性を示唆する。より具体的に言えば、表現者自身は「未成年者にとって性的表現は有害ではない」と考えていたり「この程度の性的表現は『有害』にあたらない」と考えていたりした場合でも、業者を利用するため業者が実施するゾーニングの基準に従った結果として(あるいは、閲覧者の利便性を図る手段としてゾーニングを活用する意図で、もしくは、自身の思想と食い違っても「悪法も法なり」という判断の下)法令を遵守している、というケースがありうる。
同時に、上記のとおり行政や公的機関はゾーニング済の表現への『有害』評価を保留するので、動機はどうあれゾーニングに従っている以上、自身の表現が『有害』にあたることはない、という意識が表現者にあったとしても不思議ではない。これは逆に言うと、『有害』評価を下されること=ゾーニングの努力を怠った粗忽者ないし社会に迷惑をかける厄介者のレッテルという意味を包含し、表現者にとってのスティグマとして機能しうる。
著作物の二次利用は原則的に著作権者の許可を要するが、著作権法32条により『引用』であれば無許可に行うことができる。正当な『引用』と認められるには「引用部分とそれ以外の部分の主従が明確であること」「引用する必然性があり、その必要な量のみの利用に留まること」「出典を明記すること」などの要件を満たさなければならない。
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
しかしながら、著作権法113条6項には、次のような条文がある。
これは上記の『引用』と矛盾するように見えるが、そうではない。無許可で『引用』することはできるが、その結果として著作者の名誉・声望を害したら著作者人格権の侵害とみなされる、という形である。つまり、理論上は、正当な『引用』であっても著作者人格権の侵害になる場合があるとされており、ゆえに「例の論文は『引用』の要件を満たしてるから法的にセーフ」とする主張は、全て誤りである。
このような条文があると、否定的な論評・批評のための引用ができなくなるのではないか、と心配する向きもいるかもしれないが、意見表明による名誉棄損を免責する『公正な論評法理』が、上記条文における「名誉又は声望を害する方法」の当否判断にも準用され、否定的な論評・批評のための引用も内容の公益性や妥当性次第で免責されると考えられている。
例の論文では、R18としてゾーニングされた10作品を標本として利用しているが、ゾーニングされていることをもって直ちに『有害』であるとは言えず、またその作者らが自らの作品の『有害』性を自認していることにもならないため、「この10作品は『有害』である」との評価は自明ではない。
にもかかわらず、論文ではこれら10作品を「『有害情報』のフィルタリングアルゴリズムの学習用データ」と位置付けており、このことはつまりこれら10作品が『有害情報』の代表例であるという評価を下しているに等しい。その際、法令や制度あるいは他者によって定義された『有害』評価に準拠する旨の記載がないため、この『有害』評価は論文著者が主体的に行っているものと解され、その責任は論文著者が負う。
これら10作品が『有害情報』の代表例として紹介されたことは、作者らにとってスティグマとして機能することが懸念され、名誉・声望を害したと言えるのではないか。
整理すると「論文著者が主体となり10作品を名指しで『有害』評価したことが、10作品の作者らの名誉・声望を害したと疑われる」。
論文ではこれら10作品に含まれる性的表現を引用しその意味内容を批評しているとは言えるが、『有害情報』の代表例としてこれら10作品を名指ししたこと自体について十分に論証するだけの記述が割かれ『公正な論評法理』に適う内容になっているか、といえば、議論が分かれるように思う。少なくとも「論ずるまでもなく法的にはセーフ」とは断言できないと考えるが、どうだろうか。
私の政治運動デビューは2009年の4月4日。ネトウヨ旋風の時代だ。ちなみに生まれは1985年2月27日。
当時の愛読本は小林よしのりの漫画だった(今は左翼に転向してしまった)。
そういう生い立ちがあるので社会人2年目くらいの頃からネット右翼について興味があって、ネトウヨについてよく調べていた。
私の世代は、2ちゃんねらーやサブカルだからって特別ネトウヨに詳しい人なんて居なかった。ネトウヨについて調べていたのなんて私くらいだ。別に右翼思想に興味があるわけではない。参加者やそのバイブルについて興味があるのだ。
こう言うと不謹慎かもしれないが、ネット右翼にロマンを感じてしまう。2ちゃんねるのとある板の不気味な感じとか、デモ行進をそこらじゅうで起こしていたこととか、右派なのに左翼スタイルで行動していたこととか、不気味な出版物で原稿料と印税を稼いでいたこととか、薄暗くて、どことなく惹かれるところがある。ほかの人がカルト宗教とか左翼過激派とかヤンキー暴走族に惹かれるのと似たようなもので、私はネット右翼にロマンを感じる。
ネット右翼系の出版物がそこらじゅうにあっていつでも新品を買えた時代。桜井誠が掲示板で討論していた時代。大学や2ちゃんねるなどでネット右翼がオルグしていた時代。ニコニコ動画で愛国動画が乱舞していた時代。日本人が胡散臭い過激思想を大真面目に信仰していた時代。あの歪んだ2000年代を、私はもう経験することが出来ない。1日でいいからあの時代の空気を経験してみたかった。
この長さの怪文書を投稿することにためらいはあるけれども。
偶には、言いたい事を思い切り言ってもいいかなと思う。
まず自分のことを書くと、稀にしか更新しない覚え書きのようなブログをやっている。あと好きな文章を書く人は結構な頻度でチェックしているくらい。
自分も新参だけれど、新しいタイプのブロガーの人が使う、押しが強めの手法がじゃっかん苦手である。
新規にブログを始めた際、こちらのブログは全く読まずに(本人には割と分かるものです)、宣伝のためにスターを付けてくる人が一定数いる。まあ当然、興味を持たれる文章を書けないこちらに非があるわけですが、「貴方のことは気にならないけど私の書いた文章はぜひ読んでくれ」と受け取ることもできる。
露出を求めて「記事お題」を引用し、全く関係のないことを書く人も多い。例えば「雨の日グッズ」というお題を引用しておいて、いつもの調子で日記を書く。露出したいのは分かるけれども、そのばあい読者が読みたいのは傘や長靴の話であって、職場の愚痴とか趣味の紹介とかではない。
あと、リクルートの適職診断、またはリクナビNEXTのグッドポイント診断を薦めるエントリ。MIIDASの適正年収診断、dTVの紹介。日常会話みたいな感じでお勧めされるんだけれど、あれは紹介料が入るからやっているのだそうで。道理で数が多いと思った。…あれはステマにはあたらないのだろうか。「PR記事」とかの表記がない分、「選挙前にさりげなく電話をかけてくる友達」みたいな感じがして、個人的には警戒してしまう。
CGMは、そのコンテンツの持つ価値の判断が難しい、とは思う。それは人によって違うし、ネットでの人気には「親しみ」も大きな要素である。
ただ分かりやすい基準として、例えば、寄稿や出版の話が来る人にはそれだけの実力と、その人固有のブランドがあるわけで。
なので余計に、「とりあえず100記事書きましょう」「SEOを勉強しましょう」「PVを稼ぎましょう」と、クリックしてもらうことに血道を上げる風潮がどうもよくわからない。読み手に客観的な価値を提供できているのかな?と、不安になることはないんだろうか、と。(言うまでもないことだけど、価値がある/ない、という話ではない。「価値のものさしはどこにあるのか」という話)
はてなの人なら、自分なんかよりよほど熟知されていることと思うけれど。執筆され、編集の手が入り、校正されてデータが印刷所に渡り、取次を経て本屋に巡ってきたり電子書籍になる、それだけの手がかかった、色々な「出版物」は本当に凄いなと思う。
個人がもっている「有益な情報」には限界がある。取材して一次情報にあたるプロに、正確性や量で比肩するのは正直、むずかしいのではないだろうか。
比肩しなくてもいいけれど、そこから発生する「収益」は最大限にしたい、というなら、それはインターネットが役に立たなくなるわけだと思う。
媒体が紙でもネットでも同じことで、例えばキッコーマンのサイトを見ると、料理の基本から旬の料理から詳しく載っている。歯の健康について知りたいときは、クリニカ辺りのサイトが役に立つ。商品の紹介記事にしろエッセイにしろ、企業がやっている媒体に掲載されている文章をみると、何歳ぐらいのどんな経歴の人が書いているんだろうと思う。
コードや料理が商品になるように、文章もまた商品として存在することは確かだ。ただ、コードを個人がお金にするにはそれなりの手順が必要だと思うけれど、文章はなぜか、個人がネットに上げるだけでも「儲かる」。
他にも、ネットにアップするだけで儲かるものは色々あるけれど、合法かつ元手がかからず、特に技術の習得をしなくてもできる「稼ぎ方」として、「文章を書く」というのは確かに適しているのだろうとは思う。
ここまでを踏まえて。「商業のクオリティや情報量には敵わないが(※ケースバイケース)、読んだ人に満足を与えるような文章を書き、お小遣い程度の利益を得られる、Win-Winの取引(読者が読む時間によって「収益」を発生させるなら取引みたいなものではと思う)」を考えてみる。(ものすごく飛躍しているような気がするけど気にせず進めます)
商業ではなく、市井の個人が書くことに意味がある文章とは何か。
それは、「その人にしか書けない文章を書く」ということではないだろうか。
別に、個人情報を晒せということではない。出身地や職業、家族構成は確かに、その人を知る大事な情報だけれど、同じような属性を持った人が世の中にはごまんといる。
「他者から客観的に見た自分」と、「自分の演出したいキャラクター」には、往々にして懸隔がある場合が多いと思う。シニカルに渋く決めているかと思えば、愚痴や悪口を書いてしまったり。写真にお洒落な加工をしていても、背景がどうも決まっていなかったり。「本当の自分らしさ」は、他者からの反応や自省によって得られるもので、見たくもない自分を見せられることも多いし、自分の評価されたい項目と他者から評価される項目が違ったりもする。
それでも。「自分の良いところ、推せるところ」を見つけて、「それによって他の人を満足させ、楽しませる」ことが、「個人としてメディアをやること」の強みなのではと思う。
その人にしか言えない言葉、できない話。培ってきた価値観、文章のテンポや言い回し。自分なりの軸による知見や考察。人によってはイラストや作品。例えブログ名や使っているテーマを変えても、文章ならば増田に書いても、「ああ、あの人だ」と分かってもらえるかどうか。
「その人にしか書けないブログ」こそが、個人ブログの存在意義なんじゃないだろうか、と。
「商業に出来なくて個人ブログならできること」は多くある。言及合戦、ボールの打ち合いもそうだし、商業の連載や肩書を背負ったブログと違って、思ったことを好きなように、題材も自由に書ける。
日記を見ると、今日したこと、最近興味のあること、生活や感情の移り変わりを感じることができる。例えば料理や写真のブログであっても、書いている人のキャラクターが違えば、受ける印象は全く違う。
「その人らしさ」が感じられるなら、面白くないブログなんてひとつもない。どんな個性でも、ネットに上げれば一人くらい、それを楽しんで、好きになってくれる人がいる。それがCGMの良いところで、インターネットが普及した利点であると思う。
さらに言えば。有名ブロガーの人たちを見ていると、やっぱり「読者を楽しませること」にとても力を入れているなと感じる。
スタイルは人によって様々だけれど、重い段落がつづくとその人のやり方で空きを入れたり、ボケてみる。自分の愛されている分野以外のことはあまり書かない。反応がよかったらまた掘り下げる。とか。(まあ、こうやって分析されるのも嬉しくないのかもしれないけれども。)
当たり前に、お互いがWinWinになっている関係で。それは愛されるよなあ、と感心したりする。
「互助会」という言葉について書くにあたり、ブログをやっている人を便宜的にタイプに分けます。
A)古参。はてダ時代からやっているような人。総じて文章が上手い。更新頻度は低め。交流はあまりしない。
B)新参。好きなことを書いてあわよくば若干の収入を得たい感じ。更新頻度が高い。交流が好き。
C)アフィリエイター。以下のようなタイプがあるように見える。
・ガチのアフィの人。それなりの戦略があるタイプ。「かわいい猫画像!」とか「速報・芸能ニュース」とかそういうやつ。よくダッシュボードの右に載っている。他にも色々やっていると思われる。
・何を考えているのかよく分からないタイプ。ほぼ中身のない記事にひたすら広告を貼る。偏狭そうな人が多い。
・「ブロガーとして」明確に互助を目指し、ブクマ不正している、らしい。偶に増田で告発されているけど割とスルーされている印象(興味がないのでよく知らない)。
よく見かける「互助会」という言葉は、B)に向けて使われる。「お互いのブクマコメントでブクマ数を稼いでいるんだろう!」というやつ。
でも、実際のところ。「当たり障りのない敬語のコメント」は、「相手に好意をもっていて話しかけたいから」「交流が楽しくて」やっているのだと思う。
その証拠に、「スター・ブクマ・フォローしたけど返してくれなかった!PVが伸びない!」なんて愚痴を書いている人は誰もいない。(このクラスタは素直な人が多いので、そういう気持ちがあったらたぶん正直にそういう記事が書かれ、誰かの目に留まるのではないかと思う)
「ブクマしてほしい」という気持ちももちろん多分にあるだろうけれど、自分がリアクションするにあたっては、利益を期待してやっているんじゃない、と思う。
嘘だと思ったらそのへんの、自分が「互助会」と呼んでいるブロガーに聞いてみたらいい。相手に言葉をなげかけるのが楽しいから。相手のことが好きだから。たぶん、思うより多くの人が、そう答えるのではないだろうか。
そうはいっても、はてブ的には馴れ合いコメントは確かに鬱陶しいだろうと思う。では、コメント欄を使えば解決する話ではないのか、とも。
そう考える人はもちろんブログを書いている側にもいて、読者に向けて「ブクマでなくコメントで交流しませんか」という提案をするブロガーもいる。読者が何百人レベルになってくると、はてブ側に気を遣ってのことだと思われる。
Twitterとの連動など、利点はあるようだれど。言葉をかけたいだけなら、ブロガー本人が「互助会」と叩かれるリスクをとる必要もないのではないか。コメント欄をもっと気軽に使っても良いように思う。
もうひとつ。別にお互いに便宜を図っているわけでもないのに、「互助会」と呼ばれるのは何だかおかしい気がする。「交流会」「ひつじ会」とかのほうが実態を表しているのではないだろうか。(「ひよこ会」とかでもいい。何かかわいい名前がいい)
で、じゃあ「スター・ブクマ・フォローで利益を得ることを目的とした行為」はないのか!というと、うんざりするほどある。
C)のアフィリエイター系。これが本当にしつこい。見るからに書いていて楽しくなさそうな、NAVERまとめ的なブログからのリアクションがそこそこの頻度で来る。凄かったのは、同じ記事に2度3度つけてくる人。無言でそれをやられても、ただ気味が悪いだけで、何かを返したいとは思えないのだけれど。
相手の人格や思いを無視して、金銭のためにブクマをつけて何が楽しいのか、と。他人の顔が札束にしか見えていないような、うわべだけの文章を読みたいとは個人的には思わない。まして広告をクリックなんてしない。
これは自分に矛先が向くことを恐れているとか、好きな人を擁護したいとかでもなく、単純にクラスタの分類として。交流勢よりも、こういった「機械的な無言のリアクションによって、露出や返報を期待する」アフィリエイター勢のほうが、真に「互助会」と呼ばれるに相応しいのではと思うのだけど、どうだろうか。
ネット上で、文章で稼ぎたいのは勿論、悪いことではない。でも、個人的に読みたいのは、誰でも書ける情報のまとめとかではない。
アフィリエイトをやっている人であれば、どうしてそれを始めたかとか。情報収集はどうやってしているかとか。ライバルはいるかとか、作業するときにかけている音楽とか。その人にしか言えない言葉、面白い話。そういう文章が読んでみたい。
とはいえど。面白かったり為になる文章が無料で読みたい、というのもある意味、何というか難しい話だとは思う。
医学辞典なんて手元にないからネットでいいや、とか。先述のように、企業が宣伝のために作成しているページを利用する、とか。「ネット」と書いたけれど内訳は、キュレーションサイト・個人がアフィ目的で作ったサイト・質問投稿サイト・個人ブログのどれかが引っかかることが多いのではないだろうか。
それが確実な情報源でないことは、もちろん周知の事実である。それでも取り敢えず適当な情報がほしくて検索する人がいるから、それにあわせて少ない労力で情報を供給し、利益を得ようという流れが自然に出てくる。
「分かりやすく出所の確実な情報」ならば、上述のように、出版業界の商品に頼るのが却って近道ではないかと思うことが最近増えている。「集合知」は確かに無料だけれども、「文章」にクオリティを求めるならば、書籍を買うか図書館に行けばいい。紙が面倒ならデータの形で入手すればいい。
商業としての出版を信頼しているから、例えば某警察官やめたブログで暴露されていたように、CGMのふりをして売名する商業があるとしたら個人的には少し悲しい。プロとして作り上げたもの、プロモーションされたものに、正当な敬意を払いたい。
…ここまで書いてきて心配になったのだけれど、出版業界の回し者ではなく、ごく普通の読書好きのオタクが書いています。信じて欲しい、としか言えないけれども。
逆に言えば、ネットで、商業ではなく個人が発信するとき、それは受け取る側となんら変わらない、「普通の人」なわけで。文章を発信する側は全ての責任とリスクを負うべきで、受信側は何を言っても良い、ノーリスクハイリターンな立場である、とは自分には思えない。
ネットを使っている人であれば誰でも、ある程度の文章は書けると思う。たまには「発信側」になってみるのも、悪くはないんじゃないかと思ったりする。
同じ人間が一人としていないならば、誰にでも、「その人にしか書けない文章」があるはずで。私はそれが読みたい。
色々書いてきたけれども、これが正しい見方であるとは自分で思っていない。誤りや偏りの指摘も含めて、議論の一助になればと思う。
疲れました。短く書きます。
維新はまぁほんと公式野党だね。もういい加減にして欲しいですよ。
これすごい大事ですけど起こす気力がないので、どうぞごらんになってください。ほんと急いで作ったんだなぁ、
要は
の順番で保護法益が侵害されるのに、共謀(5年以下)が予備(2年以下)を上回る刑罰をもってるってなんだそれっていうのを中止した場合の減免に着目して議論してます。たとえば、殺人計画を何人かで立てたら共謀でやっぱやーめたでやめても減免されないけど、誰かが1人で独裁的に殺人計画を立てて、実行に乗せて中止したときのほうが刑が軽いみたいな意味がわからない話になって、さらに言えば、共謀から予備行為とか未遂行為までやっちゃったほうが、刑が軽くなるみたいなんもあるんじゃないかということ。
TOC条約の根拠としてドイツ刑法にある結社罪に注目して、結合の基礎となる共同の目的は、全員が共通として持っていて、犯罪が行われないんだったら、その組織が維持されないような目的だというのならそういう条文にすればいいじゃないかと。明文化したといってるが、まだまだ広すぎるだろうと。これにしちゃあなんでまずいんだ、という質問をするえだのん。平成17年の。団体の活動であっても明確だったし、さらに犯罪の遂行を結合の基礎としての共通の目的に明確に定義したもんといいはる林局長。
「みなさんが明確にしたとおっしゃるのは自由だけども、平成17年ですら明確だったといっておられるし。じゃあそれを国民が、刑事法の条文ですから、国民全員がわかるようにしろとはいいませんよ。でも普通の法律家が読んだときにどう思うのかというと、そうか、みんなが犯罪を犯そう!と集まった組織以外は当たらないんだとはとても読めない。そしてそんな読み方したら、ほとんどあたらなくなりますよ。それはあとでやりますが。それでドイツの参加罪、例の条約をこれでクリアしてるという話になっていて、財団法人法曹会、私も昔はお世話になりましたここの出版物は。というところが出してくれている翻訳がありましてですね、この間与党側の参考人でいらしていただいた井田(良)先生が、編集に加わっておられるんですが、井田先生も、この条文で、いわゆる犯罪集団しかあたらないんですよ、といってたんですが(ドイツは非常に広範な結社罪があるけど監視社会になってないって話ね。)、ドイツ刑法の参加罪の対象となる犯罪って、129条のところに書いてあるんですが、明確に書いてあるんです。その2項2号に、犯罪行為の遂行が、従属的な意味での目的もしくは活動にすぎないときは適用されない、組織的犯罪集団にあたらないと明文で書いてあるんです。こうしてくれりゃあだいぶ安心できますよ。なかなか活動の主たる目的が、犯罪になってるのは確かに暴力団とかそれぐらいですよ。まさにみなさんがイメージするテロ集団に当たると思いますよ。ドイツでおけるんだから、こういう規定をおいたって困らないですよね(条約締結上ね)」
林
「あのご指摘のドイツの刑法について、つまびらかにしておりませんので、お答えできませんが、こんかい結合関係の基礎としての共同の目的が犯罪の実行にあるということを定義したものは、委員ご指摘のように、犯罪を主たる目的にする組織を取り締まることを目的としていると限定しようと、こういう目的の元に、この文言を定義をおいたわけでございます」
「これだけ答弁をしたら、解釈をするときにも一定の考慮はしてくれると一般的には思いたいですが、刑事法ですから、先ほど罪刑法定主義の話もありましたが、誰が読んでもこっからここまでは、犯罪だ、こっからは犯罪ではない、明確に線引きできるようにすることが刑事法では求められているんです。何度も何度も議論していますが、どこまで適用されるかよくわからない、濫用されるかわからない、国民の保護されるべき権利義務が侵害されるかもしれないという危惧が抱かれてるんです。このドイツ刑法にならったような条文をおいても、今考えてる解釈と変わらないんだったらおきましょうよ。我々も安心できますよ。そしたらもっと多数で通せますよ。内容的に問題があるならいってくださいよ。後は与党の面子の問題だっていうのなら、内容的に問題がないのに強行するんなら、そういうことなんだとなりますよ。内容的にドイツ刑法のような規定、犯罪行為の遂行が従属的な意味での目的あるいは活動に過ぎないときは適用されないという確認規定をおいたら中身的に困りますか。」
林
「さきほどももうしあげましたが、犯罪遂行を結合の目的としている、という定義で、犯罪実行を結合関係の基礎としての共同の目的としていると、このような定義をしたわけであります。仮に主たる目的、従たる目的というような言葉を使ったとしますと、また主たる、従たるという定義をおいた場合に、かえって限定ができなくなるという場合がございます(えっ?)すると、どのような用語をおくことがよいのかについては、さまざま検討の余地があるわけでございますが、今回、共同の目的、しかも結合関係の基礎としての共同の目的が犯罪実行である、この認定ができないとテロ等準備罪の適用ができないという限定をおいておりますので、十分に、捜査実務、裁判実務において限定の効果を有していると考えている次第でございます(捜査実務は無理だろうー)」
維新のアホみたいな修正よりよっぽどまともな修正提案だと思うが、反対するだけ、揚げ足取りとおっしゃる御仁のタネはつきまじ。
海賊版閲覧サイトが話題になってるけど、この手のアングラコンテンツ流通サイトやアプリの栄枯盛衰を研究したテキストほしいよなぁ
フリーブックスとは一体何なのか?
P2Pはwinnyやshareで逮捕者続出、torrentが頑張ってるけどPC利用者も減ってるので下火
サイバーロッカーによる割れダウンロードは、いろいろな諸事情から新陳代謝を繰り返しながら現在まで続くも、検索サイトが表示規制を始めたりして新規は探しにくい
ダウンロードせずに気軽に閲覧できるビューアサイトは、かつては464.jp事件で社会に衝撃を与えたが、今は無料漫画アプリ全盛の時代なので、スマホユーザーに特化したUIならすんなり利用できるが、気軽に読める分対策も早く、サイトは潰れやすい。
以上は、日本語コンテンツの話だが、海外で英訳や中国語訳された海賊版閲覧サイトもいくつも現存してるが、新規アップされるコンテンツの数は減っている。
漫画の割れの内容は、かつては自炊や出版社の横流しデータばかりだったが頼みの中国人が逮捕されたり出版社も対策したりしてrawデータを供給できなくなり、今はDL版の流通が多い。人気漫画でDL版がない場合は何者かにより自炊供給される。といっても数年前の海賊版全盛期のような「すべての出版物がそこにアップされている」という状態ではなくなった。ボランティアアップロード者は間違いなく現象している。
国会ウォッチャーさんほどではないけど、自分も国会は好きだしたまに見る。
今まさにどういうルールや予算が出来るのかとか、どういう運用になるかなとか、面白そうなテーマないかなとか、そんな感じ。プロ野球に例えるならば、時間があまりないときは山田(ヤクルト)vs菅野(巨人)みたいにピンポイントで面白いところだけ見るけれど、時間あるならば中継で見たいし、可能ならば直接球場に行きたいみたいな感じ。
国会見てて思うのが、700人近く国会議員が居るだけあって、新聞/報道は国会活動の本当に局所的な部分しか伝えないなということ。国会ウォッチャーさんはどのようにして国会活動を把握しているか分からないけれども(是非教えて欲しいです)、自分は各国会議員のホームページが一次ソースになることが多い。
いずれにせよ、国会議員のホームページは千差万別で、活動報告に写真しか載せていない人も居れば相当仔細に立法活動を記録している人も居れば中村喜四郎みたいな人も居る。ただ、多くの場合、自分のような有権者が求めている情報とギャップが有る。
一つの原因として国会議員のホームページに対する有権者側からの包括的なレビューが無いことがあるのだと思う。というわけで、以下自分の知っている範囲で国会議員のホームページをレビューしてみようと思う。13人ぐらいの紹介しているが、はてなのスパム対策により全員にリンクを貼れていないのであしからず。
自分が重要視するのは以下のような基準。
①UI(見やすいか、モバイル対応、反応etc)
③立法活動(議員立法に関する情報、資料、法律のメリット・デメリットetc)
④予算/決算に関する情報(一般会計、特別会計、GDP統計への言及、予算書コード番号の付記、税制への言及etc)
⑤行政/司法に対する監視(質問主意書、議事録・動画・資料、要約、検索容易性etc)
⑥実行力・組織運営能力
⑦内容が面白いか
⑧定期的なengagement(更新頻度、予定の通知、SNS、連絡のし易さetc)
⑨収支報告
多くの人がそれぞれの基準があると思うが、どのような基準にせよ、ある程度国会議員のホームページは標準化してもらいたいと思う。特に、国会議員のホームページは、立法過程を記録しているという意味では単なる個人のホームページとは異なる次元の重要性があるので、是非もっと質的量的な情報発信を心掛けて欲しい。
普通に見やすいのは前原さんのホームページ。モバイル対応もしているし。個人的には色の使い方が好き。議事録や質問主意書も載っているので大まかには議員活動を追える。
ただ、前原さんクラスからはもう少し政策とかビジョンに関する情報が欲しいかもしれない。自民党の石破さんみたいに『シンゴジラ』と絡めて日本の安全保障を語るとかの工夫も交えながら。
あと、政治とカネの問題で失脚したのに収支報告書がないのが残念。
野党の一年生議員の辰巳さん。コンビニに於ける労働問題に取り組んでいるようで、こういう風に「特設サイト」をつくる情熱は素晴らしいし分かりやすい。自分もコンビニ会計について少し調べる契機になった。
野党の議員はもっと政策で勝負して欲しい。日程闘争や失言狙うのではなくて。そういう意味でこういう「特設サイト」を作るアプローチはとても良いと思う。
自分は森友問題でこの人を知ったが、とてもテンポが良く質疑内容も分かりやすかった。森友問題でも資料をまとめたサイトを作っている。
正直こういう「関連資料をすべて載せてます」みたいなサイトが欲しかったので、とても有り難い。質疑のリズム感も合わせ、「政界のグレン・グールド」とでも言うべき独特の世界観の広がりを感じている。森友問題は下火になりつつあるが、学校法人を舞台にした政治とカネの問題の亜種に思えるしその他行政府の情報公開に関する様々な論点があるので、立法府はこの人を委員長にした特別委員会でも作ってそこでじっくりやって欲しい。
また、日本共産党の森友問題に関する追求を見ていると、やはり政党交付金や企業献金を受け取らない政治基盤の強さと言うものを感じる。個人的には、国会議員のホームページがもっと拡充することにより、幅広く個人献金の慣習が広がり、1~3億円ぐらい集める人が現れ始めたら日本の政治も少し変わるかなと思う。
ここで紹介したいのがこの自民党の議員。こういう「オレが作った法律」みたいな項目がとても好き。その法律に関する審議なり資料なりが包括的にまとまっているのも有り難い。他の国会議員のホームページではこういう立法活動に関する情報が本当に少ない。<番外編>に出てくる西川議員と合わせ、一部の農林族は良い意味でやたらと説明的なのが不思議。
惜しむらくは、その法律に関するメリット・デメリットや各種データやシナリオが無いこと。あとは、「投票歴」のデータが無いこと。規制改革推進会議の方針といろいろ違うみたいだけれど、「主要農作物種子法を廃止する法律案」や「農業競争力強化支援法案」に関して賛成なのだろうか。
全体的に政策に関する情報も分かりやすい。あと、amebaではなく、wordpressかhatenaかmediumにして移行してもらえると有り難い。
予算に関する情報は、「行政事業レビュー」を主導している河野議員のホームページが一番多いように思う。そして普通にかなり面白いし、勉強になる。残念なのは、河野議員とはいえ各目明細書や予算書コード番号ベースの細かい説明は記載されていないこと。
「行政事業レビュー」では次は社会保障がテーマになるようだが、「こども保険」の話題からも次の選挙は社会保障が争点になりそうなので、とても楽しみ。河野さんはどれほど議論を主導できるだろうか。ひとまず時間のある時に我が国の社会保障制度の説明で定評のある『平成24年版厚生労働白書』でも再読しよう。
最近提唱された「こども保険」には、「子育てがリスク」というような新しい発想が導入され、そのような社会を作った数十年の自民党の施政を否定する可能性があると思うが大丈夫なのだろうか。子供の観点からは、日本に生まれること、誰が親なのか、誰が先生なのかはリスクだと思うが。
玉木雄一郎 衆議院議員(民進党)が提唱するような「こども国債」はもっと知りたい。次世代への負担の移譲という観点から批判されやすいが、歳入面での相続税に対する租税措置的な制度設計だと勝手に解釈しているので。悪影響が多いアパート節税などの相続対策を減らし金融システムリスクを低減しつつ、所得の再分配を実現できる可能性があると思う。
というかこの人まだ3期目なんですね。結構活動が多岐に渡る印象だが、ホームページを見てもその活動を追えない。UIを改善してくれたらかなり有り難い。
ちなみに、決算や会計検査院に関する情報は誰か発信しているのだろうか?
自分の興味のあるテーマではないが、何というか情熱を感じる。gds(議事録、動画、資料)もしっかり揃っている。検索も出来る!!!将来関連する法律/予算を調べるときにかなり重宝しそう。強いて言えば、「投票歴」と要約が欲しい。また、どの予算を話しているのか分かりにくいので、予算コードを記載して欲しい。
なお、動画は衆議院・参議院のサーバーは1年ぐらいしか保存できないみたいなので、衆議院・参議院へのリンクではなく、youtubeにuploadするなどしておいて欲しい。倉林さんはそうしている。
あと、審議中のパネルってそんなに大事だろうか。中継にしろ動画にしろパネルを見ながらは結構しんどい。前もって資料を頂けると有り難い。ついでに行政府に何を事前通告したかも教えて欲しい。
正直倉林さんの扱っている議題が自分にはちんぷんかんぷんなのであまり理解できていない。ただいつか必ず読むことがあるのだと思う。i shall return。
やはりDJ的に論点を教えてくれて盛り上げてくれる人が欲しい。。。
ホームページを見ると結構熱心に議員活動をしていることが分かる。実際に議事録や質問主意書だけでなく、要約的な動画を作ったり、さらに動画に字幕があったりと有り難い。
取り上げているテーマは意外に面白い気がする。日本政府がどれほど定量的にリスクシナリオを分析しているのかは疑問があるので「原発とミサイル攻撃」(2015年7月29日 平和安全法制特別委員会)みたいな議論は大事だと思った。少子化問題や貧困問題の解決手段としての住宅政策(2017年3月9日 内閣委員会)に関する議論も様々な知見を得ることが出来た。
ただ、こうしたテーマに対する陰謀論的なトーンには追いつけない。重要なテーマだと思うので地道に着実に追求して欲しいと思う。あと、DJ的な盛り上げ能力はもう少し期待してます。。。
実行力や組織運営力を確認する方法論はいろいろあると思うが、ひとまず行政機関のトップのホームページ。
岸田さんのホームページは全体的に品があり、ブログの内容も面白い。ちなみに、岸田さんが演説しているときあまりヤジを聞かないのは気のせいだろうか。安倍首相が体現しているようなコミニュケーション力の高さなり帝王学も、それが今の日本に必要なのかは分からないが、持っているようだ。是非もっとブログを継続的に書いて欲しい。
塩崎さんのホームページも面白い。というか、結構英語上手なんだと言う発見。政策に関する情報はUIに工夫の余地があると思う。昔日経夕刊で一週間ぐらい寄稿してたけれども案外文学青年な気がするのでそういう文章をもっと期待している。
小池さんが都知事立候補して急いで仕立たと思われるホームページ。当時は短時間とはいえよくこのレベルまで作ったなと思い、組織運営能力は高いのかなと推察出来た。「情報公開」を争点をするセンスも良いと思う。ただ、選挙の組織運営には強いが、その後の組織運営はどうなのだろうかという印象。
先程の河野太郎議員と合わせ、メルマガがかなり面白い。大塚さんの場合、内容が毎回違いやたらと多岐に渡るが、優秀なブレーンでも居るのだろうか。メルマガの内容を発展させたものを、その後の委員会質疑なので展開するので、立法活動が追いやすい。以下でも取り上げるが定期的なengagementは本当に大事。700人を追うことは無理。
あと、ダークホース的なのが
自分もインターネット中継の参議院本会議で知った人だが国際情勢、特に中東情勢、に関するブログが面白い気がする。amebaではなく、wordpressかhatenaかmediumにして移行してもらえると有り難い。
というより本会議に登壇するレベルの議員でもほとんどの人は、本会議中の写真は載せているがその演説内容や資料をホームページに載せていない。何故なのだろう。
他にも面白いテーマを扱っている議員は居るはずなので自分がチェックしきれていないので是非教えてください。。。
の『TPPの真実』は今まさに読んでいるが面白い。このように交渉過程を記録してくれていることで包括的な評価が可能になると思う。甘利さんとかも是非回顧録を出版して欲しい。他国の交渉官の回顧録も読みたい。ちなみに、TPPに関する「特設ページ」は12ヶ国中日本政府の内閣府のものが最も情報公開をしていて資料も多いと思った。結構日本政府が主導してルールを作っていたのかなと推察している。UIは残念な感じだが。
西川さんにしろ甘利さんにしろこのレベルの議員が政治とカネの問題で失脚する脆弱性を抱えているのはとても残念。その辺の事情をブログなりに書いて欲しい。あと、収支報告書も。
不動産周りのルールの立法過程を知りたくなったので保岡興治 衆議院議員(自民党)の著作も読んでみようと思う。渡辺喜美さんの『金融商品取引法』のように立法過程に携わった方々の出版物はもっと出版して欲しい。
野党の一年生議員だからか、質疑時間も短く扱うテーマもマニアックだが、予定を前もって告知してくれるので、少しでも自分なりに調査することが出来る。実際に自分が興味あるテーマではないので、そのまま中継で見る機会は少ないが、あとで要約をさっと読みついでに議事録を読んだりすると結構面白い質問をしているなと印象がある。資料もどこかに置いといて欲しい。
多分twitterでは少し煽り気味。議事録やブログとは違う感じがする。2017年4月13日の日経によると、「長澤運輸事件」での最高裁の判断をもとに行政府は「同一労働同一賃金」に関する政策を進めるようだが、その際に論客として名乗りを上げるかもしれない。
日本の国会に最も欠けていることの一つがスケジュールの予見可能性だと思う。そういう意味でこのUIはとても有り難い。このように予定という項目がある国会議員のホームページは殆ど無い。というより、他の有権者はどのようにして国会の審議スケジュールを把握しているの??
twitterとか見ていると「明日、本会議で代表質問します」みたいな国会議員が多々いるけれども、そんなに社会人のスケジュールって流動的なのだろうか。いくら国権の最高機関とはいえ、数日前に予定を教えてくれないとリアルタイムで追うのは難しい。。。
多分、多くの国会議員の方は国会のスケジュールに関しては(今日も審議中止みたいだし)そういうルールだからみたいな一種の諦観があると思う。そういうなかで山添さんみたいな感性は本当に素晴らしいと思う。国会の審議のルールも整備できなくて、国家のルールを作れるのだろうか。。。
野党は「日程闘争」という手段で与党に対抗するのも良いけれど、政策論争を本当はして欲しい。「共謀罪」はもしかしたらこの国会で成立しないけれどもそれはスケジュールの関係?それとも政策的に落第だから?野党のほうがもっと良い政策を提案したから?「日程闘争」では次の政権を担えるかは微妙だと思う。あと、「日程闘争」とはいえ「憲法審査会」は開催するぐらいの余裕はあっても良いと思う。
多分今日時点(2017年4月27日)で最もホームページが充実している議員の一人だと思う。上記の各種項目はほとんどクリアしているし、「今週の一分動画」も個人的には結構好き。驚くべきことにほとんどの国会議員のホームページには収支報告書が記載されていないがちゃんと(少し古いが)記載されてある。
長妻さんの収支報告書を見てびっくりしたのが、枝野さんの収支報告書もそうだったが、政策を調査・展開するために使われる「調査研究費」などの勘定項目が15万円程度だということ。感覚的には2000万円ぐらいあっても良いと思う。
実は長妻さんのホームページには重要な欠点があると思われる。それはinstagramが連携していないとか、word pressの管理画面のurlにアクセス出来るとか(多分この時点で安全保障は任せられないなとは思うが。多くの議員のホームページも同様)ではなく、数年前まで自分は長妻さんの選挙区だったということだ。確かにその時の自分は実効税率も低く責任も無かったのでルールにも興味はなかった。だが、これほど素晴らしいホームページを作って議員活動を定期的に報告しても、その当時の自分レベルの人間には伝わっていなかった。
年金制度の抜本的な改革とは何か?メリット・デメリットは?それに関するデータや資料はどこにある?他の社会保障制度との関連は?その改革後のシナリオは???こういう点を「特設サイト」なり何なりで是非説明して欲しい。現政権の厚生労働白書より良い物を期待している。
とはいえ、2014年の衆議院選挙の東京の小選挙区で民進党候補が壊滅したなか唯一当選した議員なので、相当程度ホームページでの活動は小選挙区のブレやすい波に左右されないコアなファンを形成するのに成功しているのだろう。ゴールデンウイークに日本待機を命じられた比例復活議員は参考にしたらどうか。
細かい点を言えば、uploadする資料の向きを整えて欲しい。あと、「マクロ経済スライド」に関して長妻さんがどのような発言をしているのかみたいな検索が出来るとうれしい。
こんなところだろうか。
自分のなかでは上記の9つの項目のうち、5つ満たされていれば投票を検討し、7つ以上あれば個人献金を検討する感じ。とにかく、「投票歴」と「収支報告書」と「gds(議事録・動画・資料)」は全国会議員のホームページに標準的に記載されていて欲しい。slackも導入を検討して欲しい。
日本維新の会に関してはtwitterは盛り上がっているがホームページで良いなと思える議員は居なかった。ただ、100法案提出みたいなサイトはある。公明党の議員もホームページで自分では良いなと思えるものが少なかった。自分がチェックしきれていないだけだと思うので、誰か教えて欲しい。
オンライン資料収集制度(eデポ)|国立国会図書館―National Diet Library
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/online/
知ったかぶりの人です。
ここ最近、電子書籍についての話題が増えてるので書いてみようと思った。
出版物は最初に印刷する部数を決めて実際に刷って全国に配本する。このとき委託するとお金をがぼっともらえる。
取次から全国書店に配本された後、売れ残った本は返品される。ここで売れなかった商品分のお金を返金する。
ただあくまでデータのやり取りだ。一万部の商品を預けるわけではない。したがって一万部の入金もなければ返品もない。
電子書籍は売れた分だけ入金される。
ここで実際の販売数だが、出版物は年々売れなくなってる。ほとんど売れず返品される書籍は山のようにある。
だけど不思議なことに紙の場合、刷った部数の入金はあるので一時的にお金が増える。そこから社員のお給料を払える。
翌月には売れなかった書籍の返金をしなければいけない。お給料を出したからお金がない。またたくさん刷って入金を貰う。
電子書籍だとこの自転車操業ができなくなる。売れた分は翌月以降に振込だからお給料払えない。
それに実売分の売上しか入らないとなると、そこから払われる著者への印税も低くなる。著者がご飯食えない。
今のシステムは一応、売れっ子でも新人でもわりと大きなお金をもらえる(実際は差があるけど)
こうした業界独自のシステムで出版、取次、書店が生き残ってる。
電子書籍だけで飯を食う世の中になるには、どうしたらいいだろう?
全部電子化すれば書店や取次はいなくなり、弱小出版は潰れ、売れない作家さんは止めていく。
まぁ本の数が多すぎるとよく言われるから、この際は減らしてもいいかもしれない。
作家さんも売れっ子になるまでは我慢してもらうかバイトしてもらう(アニメーターみたいだ)。
業界が電子書籍化を進められないのは「今のような多種多様の出版物に溢れた世界」を維持できる見込みが無いから。
今はほんとに改編期なんだろうと思う
業界の程よく中心から距離のある関係者視点で、電子書籍を取り巻く日本の事情について書いてみます。
ここ数日話題になってる「全部電子書籍でだせっていってんだろ」「くそ業界滅びろよ」っていう読者の声と、それに対する業界のいいわけじみたコメントに対するメモですね。
スタンスとしては、業界側の視点ではあるんですが、業界を擁護するつもりはありません。すべての業界や消費物と同じように、必要とされなければ声を荒げなくても滅びると思っているので(そして出版業界が斜陽であるのはもう周知の事実ですので)、ことさら擁護の必要もなければ罵声を浴びせる必要もない、というのが個人的な気持ちです。
読者側にも業界側にも各論はそれぞれあるとおもうのですが、今回述べたいのは、総論として「日本の出版業界は、日本の書籍市場に過剰適応してしまった」という点です。
この場合「日本の書籍市場」っていうのは、取次ぎのシステムであるとか、再販規制であるとか、書籍の値段分布であるとか、日本人の読書傾向であるとか、まあ、そういうもろもろです。
さらに誤解を恐れずにいうのならば、「日本の書籍読者の皆さんと、日本の出版業界は、共依存の状況にあります」というのも加えたい視点です。
「日本の書籍読者の皆さん」というとなんだかすごい人数いるような感じがしますけれど、統計から見ても、「年間一冊以上、字ばかりの書籍を買う人」なんてものは、日本の人口の20%もいません。もっと頻繁に本を買う人、書籍を買うというのが日常行動になってる人の数の統計は見たことがありませんが、体感で言えばその20%の数分の1ではないでしょうか? 「書籍のヘビーな読者」というのは、もはや不特定多数ではなく、特定多数なのです。
そういう非常に熱心な読者の方の存在を前提に、どっぷり浸かって過剰適応したのが日本の出版業界です。
世界的に見て、日本の出版業界は、出版物の値段、出版物のバラエティ、出版物の点数、印刷のクオリティ、全国配送網、書籍へのアクセサビリティなどの点で、類を見ないほど高いレベルにあります。個人的には、変態的で気味が悪いほどレベルが高いと思っています。こういった点は、日本の読書文化とさきほどの「熱心な読者の皆さん」に支えられて、長年かけて進化してきた成果でしょう。
出版という視点から離れてただのビジネス的な話として判断してほしいのですが、つまりそれは高度成長期を何度も経験して人口も増えて、中間層が発達して、娯楽に可処分所得を投入可能になった国が、「親にしかられない文化の王様」として書籍を愛して、業界側もせっせと面白楽しい本を矢継ぎ早に出した結果です。そういう設備投資、そういう人材発掘、そういうスキーム作りをしたのです。再販規制も、広い意味で言えば「そういうスキーム」の一種でしかありません。
現在の出版不況は(個人的にはそんなに不況だと思っていないのですが)、このシステムそのものがが、時代の流れに置いてけぼりになってしまったというだけのことです。少子化であるとか住宅事情の変化であるとか、読書文化の変遷(ここに電子書籍は含まれます)についていけなくなっているのが、現在業界を取り巻く現状です。
では、そういう仕組みを変えればいいじゃないか! と皆さん思うでしょう。
もっともです。時代に合わない企業は淘汰されるのが自然の仕組みです。
しかしながら前述したとおり、出版業界は適応を超えて、過剰適応の段階にあります。出版業界が今の時代に合わせる難易度は非常に高いです(それはみなさんも、出版業界の動きからうすうす察していますよね?)。イノベーションを起こす人的な余裕も経済的な余裕もほぼありません。大手がのろのろ動いていますが、この速度は何も出し渋っているとか、一部の読者の皆さんが言っているような嫌がらせなどという陰謀論ではありません。過剰適応して余裕がないだけです。
個人的な見解でいえば、大手出版社が華麗にイノベーションを起こしてパラダイムシフトを達成するよりも、非出版業界の会社が新しいスキームで参入するとか(Amazonはこれにあたります)新規出版社になるというほうが、実現速度はずっと早いと思っています。
まあ、とにかくイノベーションですから、壊して作るしかないのです。が、過剰適応しているので壊しづらい。それだけです。
この辺の話は、ビジネス書を読めばいくらでも出てくると思いますが、今回指摘しておきたいのはその先の「過剰適応」と「共依存」についてです。
電子書籍への移行を求める読者の皆さんはおそらく書籍愛好家ですし、今まで出版業界を支えてくれた皆さんだと思います。
これを書くと炎上してしまう気もするのですが、出版物の値段、出版物のバラエティ、出版物の点数、印刷のクオリティ、全国配送網などの利益を得てきたのも、皆さんなのです。あえて言いますが、読書家の皆さんはそれを「既得権益」だと思ってはいませんか? 共依存と指摘したのはこの点で、読者の皆さんはそういう環境を当たり前だとは思っているように感じるのです。自分も日本人で子供のころから日本の豊かな出版文化に首までどっぷり浸かっていましたので、それが当たり前の光景だという感覚はよくわかります。が、世界のすべてがこのように豊かなわけではないということを、ビジネスを通して学びました。
こういう書き方をすると、「出版業界の脅迫」というコメントがつく気もするのですが、考えてもください。「脅迫だと感じる」ことこそ「あって当然の権利だと私は思っている」という告白なのです。
重ねて言いますが脅迫でもないし出版業界の擁護でもありません。不要と判断されれば業界が消えるだけだと思っています。
イノベーションを起こして業界を変革するというのはよいことで、最終的にはユーザーの利益になるような調整が行われるのが市場原理ですし、最終的にはそうなると思いますが、当然「破壊」するからには失われるものもあります。たとえば電子書籍なので物理書籍より安くなるのが当然だと皆さんは考えていると思いますが、それが未来にわたって保障されるとは限りません(そもそも安くならなければいけない理由もありません)。出版点数についても、このようなバラエティが保障されるとは限りません。
過剰適応というのは、安定した市場に向けてサービスをフォーカスしすぎて余裕がなくなった状態ともいえます。うつりゆく市場になったからには、投資においてリスクヘッジをしなければならなくなるでしょう。
読書人口というのは限られていると指摘したとおり、それはたとえて言えば、地方自治体のようなものです。電子書籍サービスをすぐしろ! いや無理だ! というのとは関係なく、斜陽の業界なのですから物理書籍も含めて、もはや「今までと同じようなサービスは望めなくなるのが当然」なのです。
もちろん、業界側(出版も印刷も書店も)利益を上げるためにやっているので、今までより低コストによいサービスを目指してやっています。スタッフを少なくしても同じ仕事ができるように効率かも進めます。しかし、それでも吸収できないときがくれば、当然ですけれど、価格への転嫁やライン(出版点数)の絞込み、地方配本の削除などが行われるでしょう。これは、どんな業種でも同じことであって、出版業界は聖域ではないのです。
一連の応酬を読むと、どうももやもやするのがこの部分で、新刊が出るのもそれが配本されるのも面白い本がでるのも、全部ただの商行為であって、信仰とか正義とか哲学とか、そういうのとは何の関係もありません。出版業界人は自分たちに文化人な変なプライド持ち過ぎだと思いますし、読者側は出版や自分の読書ライフを絶対視し過ぎではないでしょうか? ただひたすらに、その取引の瞬間、やり取りが成立しただけで、永遠も持続もその取引には含まれていません。「続刊を必ず購入してもらえる保障」も「続刊が出る保障」もその取引に含まれていないのです。
ビジネス的な観点で言うのならば、大規模な投資をしてイノベーションを起こすのであれば、「熱心ではあるけれど人口の少ない旧来の読者」などは相手にせずに、「今まであんまり書籍を買わなかったけれど、イノベーションによって買うようになった新しい読者」をターゲットにすべきでしょう。
「早いところ業界をぶっ壊せ、イノベーション起こせ!」というのは非常にわかるのですが、業界の歩みが遅いのは「熱心な読者」に執着しているからなのです(なにせ過去から現在に渡るメインのお客様ですからね)。これが、業界側から熱心な読者に対する「依存」です。
ぶっ壊せと叫んだ結果、「自分の好きな出版物や出版文化がなくなる」というのは、当然のリスクとして織り込むべきだと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20170104113800
細かな話は省くけど、君の名は。には、最大手の広告代理店もついていなければ、テレビ局もついてないんです。
http://ch.nicovideo.jp/tep/blomaga/ar1038280
本作の出資者(製作委員会)達を眺めても異様だ。失礼は重々で言うなら『大ヒット作品が作れない”制作”会社」「お世辞にも大手と言えない広告代理店」「何を思って出資したか分からない音楽アーティスト会社」「歌手が所属する小さな有限事務所」「まあ少しでも利益になれば良いかな?(忖度)と思って舟に乗ったチケット屋」。そして、その他出版物と同様に赤字が出ない程度に捌ければ良いと考えたで(あろう)角川書店。
なのに、東宝だけはいきなり300館上映で、ちょっと興味持った人がすぐに見れる環境ができあがってしまった。
だからヒットしたんですよ。
主にギターの弾き語りで使われるコード譜というものがある。歌本とも呼ばれる。五線紙におたまじゃくしが泳いでいる楽譜ではなく、歌詞の上にCとかFとかF#m7とかのコード(和音)が書かれているものだ。これとギターが一本あれば、絶対音感やコード理論の知識がなくても、弾き語りができる。フォークソングが流行していた頃には、重宝されたのだろう。昔は流行っている曲のコード譜を載せた雑誌が毎月出版されていた。「月刊歌謡曲」(ゲッカヨ)をはじめ「ソングコンング」「歌BON」などがあった。今はすべて休刊している。月刊誌ではなく歌手別や年間ヒット曲を集めた書籍としての歌本は今でも残っているようだ。
これらの出版物は、電子書籍に移行することはなく、今ではウェブで無料で見れるものとなった。速報性や検索性に加えて、カポタストを使った場合の転調に対応できる点も有利なのだろう。
代表的なサイトがJ-Total Musicだ。2002年から続く老舗である。
他に楽器.me、ChordWiki、U-フレットなどがある。
同様のサイトにコードスケッチ(ttps://chordsketch.com/)がある。U-フレットと見比べてみると、新着にまったく同じ曲が並び、コード進行も一致する。
楽譜.me(ttp://gakufu.me/)というサイトがある。「当サイトはディープラーニングによる楽曲分析を行うための実験サイトです。」と書かれているが、生成方法は謎でコード進行は正しいものとは思えない。サイト名は楽器.meとの誤認を狙っているのだろう。
これら二つのサイトは、Google AdSenseのIDが一致(ca-pub-9885680373061782)する。
コード譜は、耳コピにより作成される。コードを聴き分けて書き起こすのだ。そしてその解釈は一意ではない。
例えば長渕剛の「乾杯」のような元々ギターだけで弾き語られる曲であってもそうだ。
http://music.j-total.net/data/021na/001_nagabuchi_tsuyoshi/005.html
http://gakufu.gakki.me/m/data/DT08823.html
https://ja.chordwiki.org/wiki/%E4%B9%BE%E6%9D%AF
http://www.ufret.jp/song.php?data=943
イントロや「君に幸せあれ!」の部分が異なる。採譜者の耳や感性によって変わるのだ。初心者が弾きやすいコードが選ばれることもある。
歌詞には著作権があるが、JASRACをはじめとした管理団体に委託されていて、利用するのは容易だ。そしてコード進行には著作権は適用されないというのが定説だ。料理のレシピと同じである。パクリOKなのだ。
コードの採譜には能力と労力が必要であり、無償ではない。昔は紙の本の売上で制作費を賄っていたが、今はネット広告収入で運営されるものとなった。違法でないからといって、他人の成果を横取りして利益を得ることは認められるものではない。
カラオケが広く行き渡りDTM環境が充実する現在でも、手軽で自由度が高くシンガーソングライターへの入り口でもあるギター弾き語りの愛好家は多い。この文化が廃れないことを望む。
でも自分の幼さを実感する日々で、仕事で一人前になるのも、結婚するのもはるかさきだと感じる。
働くのは編集プロダクションなのに上司が70代前で、現代風の出版物を出したい顧客と上司との板挟み。
取引先には見下してくる女もいるし、見下されるのに対して正面から反抗してしまうから、よけい反発されて、なんのために働いているのかわからなくなる。
おもしろい本をつくりたかったはずなのに、ぜんぜんつくれない。
自信をもってなにかを提案することができないし、ストレスから会話のテンポも遅くなっている気がする。
うまくいかなさをすべて自分の幼さのせいにして、自己啓発やらを読み漁ってみたりする思考になるものの、どこかでそんなところに出口はないとわかっているので本気になれない。
でも出口を見つけるには自分の思考が足りないのもわかっていて、立ち往生してしまう。
ぐだぐだぐだ書き連ねたけど、二十代後半の女子は第二の青春ともよぶらしい……。
そういう時期なの?
自分なりの幸せを見つけられればいいとおもいながら、どこかで高望みしてんだろうな。
すてなさい?置かれた場所で咲きなさい?
そんなのわかってるんだ、わかってるけど感情がついていかないんだ。
編集だからって意味のある文章で昇華しようとしてたからだめだったのかな。
こうやって書いたらすこしすっきりした。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
http://kyoko-np.net/2016102001.html
この記事を読んだとき「痛快な風刺だ」と思った.でも具体的に何を風刺しているのか,とっさには説明が難しかったので,ここで整理する.
怒りには,"私憤" と "義憤"の2つがある.私憤は自分の利害に関することについての怒り.義憤は自分の利害を超えた事柄についての怒りだ.
主にネットにあふれる物申す人たちは,自分の訴える怒りを「義憤」だと思ってもらわなくてはならない.「あれは私憤だ」と思われた瞬間に,一緒に怒ってくれた仲間が去ってしまうからだ.怒りが義憤であるために必要なのは,もっともらしいロジックだ.
△△の部分が自分の利害から離れていれば,そして皆が共感できるものであれば,それは高潔な義憤として多くの同調者を得ることができる.多数の同調者を従え,怒りの先頭に立つこと.これはとても心地の良いものだ.
だからこそ,高潔でありたい物申す人たちは,必死になって皆が納得できる理由付けをしようとする.たとえその怒りの出発点がごくごく個人的な動機である私憤であったとしてもだ.
当然,叩くべき悪があるとき,怒るべき理由を探すこと自体は悪いことではない.
問題なのは,本来「怒りを訴え悪を是正すること」が目的だった批判がいつの間にか,「それが私憤であることを隠すこと」が目的にすり替わってしまう人々の存在だ.要は「高潔な物申し人」としての自分のメンツを優先してしまう,浅はかな人たちだ.
そういう人たちの作るロジックには当然無理が出てくるし,「結局それはお前の独りよがりじゃん」ということを感じた人からは感情的な反発も引き起こしてしまう.
そうした「高潔な物申し人」の欺瞞を暴く一つの手段が,次のような思考実験だ.
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009597540
Batson et al.(2009)は、架空の新聞記事のなかで拷問を受けた被害者の種類を変化させ
(アメリカ人兵士vsスリランカ人兵士)、それを読んだアメリカ人参加者がどう腹を立てるか検討した。
この実験では「道義に反するからアメリカ人兵士への拷問はけしからん」と怒ったアメリカ人参加者が「道義に反するからスリランカ人兵士への拷問はけしからん」とは怒らなかったことによって,先の怒りが私憤でしかないことが暴かれてしまったのだ.
くしくも,例の虚構新聞の記事もこの実験と似たような機能を持っている.「わいせつ性が高いから」という理由で数々の出版物を批判してきた人たちに対して,「同じようにロボットの "わいせつ画" にも怒るんですか?」という問いかけを投げかけている.
過去に自分が批判に使ってきたロジックに従えば,たとえ対象がロボットであってもここは怒らなくてはいけない.そうしなければ「やっぱりあの怒りはお前の独りよがりだったんじゃん」と指摘されてしまう.それでは一緒に戦ってきた仲間が離れていってしまう.そんなのは絶対にダメだ.でも客観的に見て「ロボットのわいせつ画に怒る」ことはどう考えてもバカバカしい.
http://anond.hatelabo.jp/20160809233218
ということにしたらどうなるだろう、と今朝の会社のデスクでふと思いを巡らせてみた。
というのは、いい年して週刊誌や新聞を広げるサラリーマンOLを見ると、ガサガサと当って他の人の邪魔になっているのも気がつかず、無駄に資源を消費して、この人たちを後ろから見たらホントにバカな感じに見せるだけでしかない。そんな人たちが一車両に何十人もいるのである。彼らをその三重苦から救ってやりたいという気持ちもある。
公共交通機関であるとはいえ、安全とかなんとか理由を付ければ電車会社の都合でいくらでも禁止にできるはずだ。
仮に、禁止したとしよう。まあ画面を見ないで音楽を聴くのは許すとして。
赤の他人と互いに接近した車内での手持ちぶさたを解消するために、多くの人はスマホやKindleといったコンパクトな電子機器をもって電車にのるようになるだろう。ほんの1,2年前の実際の風景である。
また、多くの人に読書の習慣が蘇る。本を読む楽しさに気づいた人は、通勤時以外にもkindleで本を読むようになる。
読解力がつき、テレビや政治家のもちいる詭弁が見抜けるようになる。
無駄に消費していた紙の資源や運搬コスト、印刷コストは削減され。
少しずつ、日本が良くなる。
本の需要が高まった結果、本の専用機器は発展し、本屋には最新のタイトルの表紙のみ並び、気軽に専用機器で店頭でロードして販売される。
わりと普及している英語圏では、本を作るときに最初から電子書籍のフォーマットで作成し、それを紙でも出版しているという状態。
日本の場合、極少数の出版社を除き、まず紙ベースで書籍を作成し、その後何らかの方法で電子化するという手順を踏む。
もうこの時点で電子化がオプショナルな扱いを受けるにきまっている。
で、なんで紙ベースで作るかというと、英語圏だと紙の出版物だとハードカバーで装丁がしっかりした本くらいしか売れなくなってるんだけど、
日本だとまだ紙で作られた安価な書籍がまだまだ売れるから、別に電子化前提で作らなくともよくね?という現実があるから。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/119/119tx.html
前文
第三章 国会
第四章 政府
第五章 国家財政
第六章 地方制度
第七章 司法
第八章 公務員
第九章 憲法改正
前文
天皇制支配体制によつてもたらされたものは、無謀な帝国主義侵略戦争、人類の生命と財産の大規模な破壊、人民大衆の悲惨にみちた窮乏と飢餓とであつた。この天皇制は欽定憲法によつて法制化されてゐた様に、天皇が絶対権力を握り人民の権利を徹底的に剥奪した。それは特権身分である天皇を頂点として、軍閥と官僚によつて武装され、資本家地主のための搾取と抑圧の体制として、勤労人民に君臨し、政治的には奴隷的無権利状態を、経済的には植民地的に低い生活水準を、文化的には蒙昧と偏見と迷信と盲従とを強制し、無限の苦痛をあたへてきた。これに反対する人民の声は、死と牢獄とをもつて威嚇され弾圧された。この専制的政治制度は日本民族の自由と福祉とに決定的に相反する。同時にそれは近隣植民地・半植民地諸国の解放にたいする最大の障害であつた。
われらは苦難の現実を通じて、このやうな汚辱と苦痛にみちた専制政治を廃棄し、人民に主権をおく民主主義的制度を建設することが急務であると確信する。この方向こそかつて天皇制のもとにひとしく呻吟してきた日本の人民と近隣諸国人民との相互の自由と繁栄にもとづく友愛を決定的に強めるものである。
ここにわれらは、人民の間から選ばれた代表を通じて人民のための政治が行はれるところの人民共和政体の採択を宣言し、この憲法を決定するものである。天皇制はそれがどんな形をとらうとも、人民の民主主義体制とは絶対に相容れない。天皇制の廃止、寄生地主的土地所有制の廃絶と財閥的独占資本の解体、基本的人権の確立、人民の政治的自由の保障、人民の経済的福祉の擁護――これらに基調をおく本憲法こそ、日本人民の民主主義的発展と幸福の真の保障となるものである。日本人民の圧倒的多数を占める勤労人民大衆を基盤とするこの人民的民主主義体制だけが帝国主義者のくはだてる専制抑圧政治の復活と侵略戦争への野望とを防止し、人民の窮極的解放への道を確実にする。それは人民の民主的祖国としての日本の独立を完成させ、われらの国は国際社会に名誉ある当然の位置を占めるだらう。日本人民はこの憲法に導かれつつ、政治的恐怖と経済的窮乏と文化的貧困からの完全な解放をめざし、全世界の民主主義的な平和愛好国家との恒久の親睦をかため、世界の平和、人類の無限の向上のために、高邁な正義と人道を守りぬくことを誓ふものである。
第二条 日本人民共和国の主権は人民にある。主権は憲法に則つて行使される。
第三条 日本人民共和国の政治は人民の自由な意志にもとづいて選出される議会を基礎として運営される。
第四条 日本人民共和国の経済は封建的寄生的土地所有制の廃止、財閥的独占資本の解体、重要企業ならびに金融機関の人民共和政府による民主主義的規制にもとづき、人民生活の安定と向上とを目的として運営される。
第五条 日本人民共和国はすべての平和愛好諸国と緊密に協力し、民主主義的国際平和機構に参加し、どんな侵略戦争をも支持せず、またこれに参加しない。
第六条 日本人民共和国のすべての人民は法律の前に平等であり、すべての基本的権利を享有する。
第七条 この憲法の保障する基本的人権は不可侵の権利であつて、これを犯す法律を制定し、命令を発することはできない。
政府が憲法によつて保障された基本的人権を侵害する行為をなし、またかやうな命令を発した場合は人民はこれに服従する義務を負はない。
第八条 人民は日本人民共和国の法律と自己の良心以外にはどんな権威またはどんな特定の個人にたいしても服従または尊敬を強要されることはない。人種、民族、性別、信教、身分または門地による政治的経済的または社会的特権はすべて廃止され今後設置されえない。皇族、華族の制度はこれを廃止する。称号、勲章その他の栄典はどんな特権をも伴はない。かやうな栄典の授与はあたへられた者にたいしてのみ効力をもつ。
第九条 人民は民主主義的な一切の言論、出版、集合、結社の自由をもち、労働争議および示威行進の完全な自由を認められる。
この権利を保障するために民主主義的政党ならびに大衆団体にたいし印刷所、用紙、公共建築物、通信手段その他この権利を行使するために必要な物質的条件を提供する。
第十条 人民に信仰と良心の自由を保障するため宗教と国家、宗教と学校は分離され、宗教的礼拝、布教の自由とともに反宗教的宣伝の自由もまた保障される。
第十一条 人民は居住、移転、国外への移住、国籍の離脱ならびに職業選択の自由をもつ。
第十二条 人民の住宅の不可侵と通信の秘密は法律によつて保護される。
第十三条 人民は身体の不可侵を保障され、何人も裁判所の決定または検事の同意なしには逮捕拘禁されることはない。
第十四条 何人も裁判所で裁判を受ける権利を奪はれず、裁判は迅速公平でなければならない。
第十五条 人民を抑留、拘禁した場合、当該機関は例外なく即時家族もしくは本人の指名する個人に通知しなければならない。また本人の要求があれば拘束の理由は直ちに本人および弁護人の出席する公開の法廷で明示されなくてはならない。
第十六条 何人も自己に不利益な供述をすることを強要されない。強制、拷問または脅迫のもとでの自白もしくは不当に長期にわたる抑留または拘禁の後の自白は、これを証拠とすることはできない。何人も自己に不利益な自白だけによつては有罪とされず、または刑罰を科せられない。
第十七条 被告人はどんな場合にも弁護の権利を保障され、事件の資料について精通する権利と法廷において自国語で陳述する権利とを保障される。
第十八条 どんな行為もあらかじめ法律によつてこれにたいする罰則を定めたものでなければ刑罰を科せられない。刑罰は犯罪の重要さに応じて科せられる。何人も同一の行為のために二度処罰されることはない。
第二十条 国家は裁判の結果無罪の宣告をうけた被告人にたいしては精神上、物質上の損害を賠償しなければならない。
第二十一条 受刑者の取扱ひは人道的でなければならない。受刑者の労賃と労働時間は一般企業の労働条件を基準として決定される。
女子の被拘禁者にたいしては特にその生理的特性にもとづく給養を保障し、妊娠、分娩の際には衛生的処置を保障しなければならない。
第二十二条 刑罰は受刑者の共和国市民としての社会的再教育を目的とする。受刑者にたいして合法的に科された刑罰を更に加重するやうな取扱を行つた公務員はその責任を問はれる。
第二十三条 受刑者を含む被拘禁者にたいして進歩的民主主義的出版物の看読を禁止することはできない。
第二十四条 勤労にもとづく財産および市民としての生活に必要な財産の使用・受益・処分は法律によつて保障され、その財産は相続を認められる。社会的生産手段の所有は公共の福祉に従属する。財産権は公共の福祉のために必要な場合には法律によつて制限される。
第二十五条 人民は性別を問はずすべての国家機関の公務員に選任される権利をもつ。
第二十六条 人民は個人または団体の利害に関しすべての公共機関に口頭または文書で請願または要求を提出する権利をもつ。何人もこの請願または要求をしたためにどんな差別待遇もうけることはない。
第二十七条 女子は法律的・経済的・社会的および文化的諸分野で男子と完全に平等の権利をもつ。
第二十八条 婚姻は両性の合意によつてのみ成立しかつ男女が平等の権利をもつ完全な一夫一婦を基本とし純潔な家族生活の建設を目的とする。社会生活において家長および男子の専横を可能とする非民主的な戸主制ならびに家督相続制はこれを廃止する。夫婦ならびに親族生活において女子にたいする圧迫と無権利とをもたらす法律はすべて廃止される。
第二十九条 寡婦およびすべての生児の生活と権利は国家および公共団体によつて十分に保護される。
第三十条 人民は労働の権利をもつ。すなはち労働の質と量にふさはしい支払をうける仕事につく権利をもつ。この権利は民主主義的経済政策にもとづく失業の防止、奴隷的雇傭関係および労働条件の排除、同一労働に対する同一賃銀の原則、生活費を基準とする最低賃銀制の設定によつて現実に確保され、労働法規によつて保障される。
第三十一条 勤労者の団結権、団体交渉・団体協約その他団体行動をする権利は保障される。被傭者は企業の経営に参加する権利をもつ。
第三十二条 労働の期間および条件は労働者の健康、人格的威厳または家庭生活を破壊するものであつてはならない。十八歳以下の未成年者はその身心の発達を阻害する労働にたいして保護され、十六歳以下の幼少年労働は禁止される。
第三十三条 人民は休息の権利をもつ。この権利は一週四十時間労働制、一週一日・一年二週間以上の有給休暇制、休養のための諸施設ならびに労働諸法規によつて保障される。
第三十四条 勤労婦人は国家および雇主からその生理的特性にたいする配慮をうけ、産前産後の有給休暇、母子健康相談所、産院、保育所等の設備によつてその労働と休息の権利を保障される。
第三十五条 人民は老年、疾病、労働災害その他労働能力の喪失および失業の場合に物質的保障をうける権利をもつ。この権利は国家または雇主の負担による労働災害予防設備、社会保険制度の発展、無料施療をはじめとする広汎な療養施設によつて保障される。
第三十六条 家のない人民は国家から住宅を保障される権利をもつ。この権利は国家による新住宅の大量建設、遊休大建築物、大邸宅の開放、借家人の保護によつて保障される。
第三十七条 すべての人民は教育をうけ技能を獲得する機会を保障される。初等および中等学校の教育は義務制とし、費用は全額国庫負担とする。上級学校での就学には一定条件の国庫負担制を実施する。
企業家はその経営の便宜のために被傭者の就学を妨げることはできない。
第三十八条 日本人民共和国は人民の科学的研究、芸術的創造の自由を保障し、人民のあらゆる才能と創意の発展を期し、研究所、実験所、専門的教育機関、文化芸術諸施設を広汎に設置する。
第三十九条 日本人民共和国は民主主義的活動、民族解放運動、学術的活動のゆゑに追究される外国人にたいして国内避難権を与へる。
第四十条 日本人民共和国に居住する外国人の必要な権利は法律によつて保障される。
第四十一条 人民は日本人民共和国の憲法を遵守し、法律を履行し、社会的義務を励行し、共同生活の諸規則に準拠する義務をもつ。
第三章 国会
一 内外国政に関する基本方策の決定
二 憲法の実行の監視
三 憲法の変更または修正
四 法律の制定
五 予算案の審議と確認
七 国会常任幹事会の選挙、国会休会中において常任幹事会の発布した諸法規の確認
十 会計検査院長の任命
十一 各種専門委員会の設置
第四十五条 国会は法律の定める定員数からなる代議員によつて構成される一院制議会である。
第四十六条 日本人民共和国の立法権は国会だけがこれを行使する。
第四十七条 代議員として選挙され、かつ代議員を選挙する資格は、政治上の権利を有する十八歳以上のすべての男女に与へられる。選挙権、被選挙権は定住、資産、信教、性別、民族、教育その他の社会的条件によるどんな差別、制限をも加へられない。
第四十八条 代議員の選挙は比例代表制にもとづき平等、直接、秘密、普通選挙によつて行はれる。
第四十九条 代議員はその選挙区の選挙民にたいして報告の義務を負ふ。選挙民は法律の規定に従つて代議員を召還することができる。
第五十一条 国会は代議員の資格を審議する資格審査委員会を選挙する。国会は資格審査委員会の提議により個々の代議員の資格の承認または選挙の無効を決定する。
第五十二条 国会は必要と認めた場合にはすべての問題に関して査問委員会および検査委員会を任命する。すべての機関および公務員はこれらの委員会の要求に応じて必要な資料と書類を提供する義務を持つ。
第五十三条 国会の会期は年二回を原則とする。臨時国会は国会常任幹事会の決定および代議員三分の二以上の要求によつて召集される。
第五十四条 国会は代議員数の三分の二以上の出席によつて成立する。
第五十五条 法律は国会において代議員の単純多数決によつて成立し、国会常任幹事会議長および書記の署名をもつて公布される。
第五十七条 国会は議長一名、副議長二名を選挙し、議事の進行、国会内の秩序の維持にあたらせる。
第五十八条 代議員は国会の同意がなくては逮捕されない。国会の休会中は国会常任幹事会の承認を必要とし次期国会の同意を要する。
第五十九条 国会には代議員の三分の二以上の決議にもとづき解散を告示する権限がある。
第六十条 国会の任期が満了するかまたは国会が解散された場合には、四十日以内に総選挙が施行される。
第六十一条 総選挙施行後三十日以内に前国会常任幹事会は新国会を召集する。
第六十三条 国会常任幹事会は議長および副議長各一名を選挙し、議長は日本人民共和国を代表する。
二 国会休会中政府首席による政府員の任免の確認 ただしこれについては国会の事後確認を必要とする
四 政府の決定および命令のうち法律に合致しないものの廃止
五 赦免権の行使
六 国際条約の批准
第六十五条 国会の任期が満了するかまたは国会が解散された場合には、国会常任幹事会は新たに選挙された国会によつて、新国会常任幹事会が選出されるまでこの権限を保持する。
第四章 政府
第六十六条 政府は日本人民共和国の最高の行政機関である。政府首席は国会によつて任命され、首席の指名にもとづき国会の承認をえた政府員とともに政府を構成する。
第六十七条 政府は国会にたいして責任を負ひ、国会の休会中は国会常任幹事会にたいして責任を負ふ。各政府員は政府の一般政策について全体的に、個人的行動については個人的に責任を問はれる。
第六十八条 国会が政府にたいする不信任案を採択した場合には政府は総辞職する。
第六十九条 政府は次の事項を管掌する。
一 一般的中央行政事務の遂行のために現行諸法規にもとづいて決定又は命令を発布し、かつその執行を検査すること
状況を整理すると
でるのになぜ?
https://twitter.com/MiHO_marumaru/status/752105700394803200
さてこれがどういう問題かというと
なぜならば、許諾を得られなかったのに強硬するという事は実質
アマチュアの演奏会は問題ありと捉えられて今後許可が出ない可能性
があります。
2.実際、すぎやまこういちのドラクエのオーケストラスコアが使えなく
なりました。これもアマチュアの一部が著作権および管理楽曲について
粗雑な行いをしたからです。
これは日本劇伴交響楽団のアニメシンフォニア問題というのがありまして
進撃の巨人が権利者から許可が出なかったので急きょ差し替えして結構と
いう事件になりました。
さて、この問題を権利側と愛好家側の側面から合わせて記載します
■権利側
愛好家活動とはとはいえゲーム音楽やアニメ音楽の場合権利が複雑です
ざっくり分けると作曲者の権利、出版社の権利、サブ出版社の権利があ
ります。
アレンジ行為(曲を再オケアレンジにする)の許諾は作曲者にある場合が
あります。作曲者がOKしても製作元(例えばスクエニなど)や権利を持って
いるところが許可を得るのか?そして出版社や著作権の隣接権を管理する
正直めちゃめちゃめんどいし作曲者がOKしても権利者がOKしないと
ダメだったりします。映画なども同じですが著作権が生きていて且つ映画
やゲーム音楽は権利を取るまでにかなりの時間を要します。それだけコン
■愛好者側
最近の例で言うと当面の間オーケストラでドラゴンクエストの曲をやる事
が出来なくなりました。吹奏楽は別途出版されたり過去の出版物があるので
出来なくはないのですが・・・
例えば今回のキングダムハーツなんかの場合だと「ウォルトディズニー」の
許諾がどう得られるか?という話になります。海外ではキングダムハーツの
オケアレンジやっているところがあるのでこの辺の権利関係どうなんでしょう
最近になってゲーム音楽がコンテンツとして売れるというようになってきて
逆に規制が厳しくなった印象です。であればちゃんとしたアレンジで楽譜の
販売をしてくれれば良いのにと思うのですが、逆にオーケストラ曲のスコアを
一般に販売となるとディズニーの事ですから収支が合わないくらいの権利金を
しっかりと直面した問題に取り組んで、報告もしくは対応を取るべきだと思い
ます。ディズニー側のNG例や著作権の話はかなり乱暴だと聞きますが、全て
を伏せてヤリ逃げすると一般社会では非常に心象が悪い。
そもそも、ホールの予約などどのみち運営者の名前が出てしまうのでネットで
叩かれることはなくともその気になって民事賠償を起こそうと思えば簡単に
足がつくと思われます。
ファンとしては「営利目的でなく」ファン活動として実行しようとする演奏会