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はてなキーワード: 汽車とは

2020-06-29

どっか行きたい、帰りのことを心配しなくていい旅に出たい。

汽車時間に間に合うように逆算して時間を使うとか、車で出ても暗くなると運転しづいからとか、家族心配するだろうとか、そういうことを一切気にしないで、どこかへ。

旅とか言ってる情勢じゃないんだけど、ここではないどこかに行って誰でもない感じで生きたい。

田舎からあそこんちの人だとかあの店に勤めてるとか、そういうしがらみがびっしりくっついてて、気にしなければいいんだけどすこし苦しくなる。

どこへ行ったって根を下ろせばまたしがらみができてしまうから、ふらふらと、どこにも帰らないでいきたい。

弟の部屋の天井からシロアリが湧き出てくる

二階の弟の部屋にシロアリが湧いててキモい

曰く一匹床を這っていたか天井を見上げてみたら、すごい数のシロアリが歩いていたとか。

弟の部屋から繋がってる物置にも湧いてる。

光とか白い壁や布団にとくに寄ってくるっぽい。

15年くらい前にもこんなふうに大量発生してた。キモいと思いながら、ガムテープ片手に這い回る茶色シロアリを潰しまくった記憶がおぼろげにある。

そのあとは大量発生することはなかった、と思う。

弟の部屋と物置に湧いてたのは、さっき母親と弟と私で掃除機ガムテキジェット装備して、その時目視できる分は退治して(100匹はいた)少し落ち着いたけど、時間がたつとぽつぽつ湧く。

ちなみに掃除機の紙パックを取り出してみたら軒並み息絶えてたようだったので、当座はこれでしのごうと思う。

父親は「いるもんはしょうがない」と電気消して寝た。それでも昭和生まれか?

一階のリビングにも降りてきてるのかちらほらいる。

階段廊下でも見かけた。

とりあえずバルサンを買ってきて弟の部屋で焚こうと思ったが、少し調べるとそのへんにいるシロアリは何とかできてもおそらく湧いて出てくる大本には届かなさそうで、根本的な解決にはならないようだ。

隣家とは距離のある一軒家なので夜中に掃除機をかけるのに躊躇しなくてもいいのだけは救いだ。

ニ匹くっついてうぞうぞ歩いているのが多いので、キモい上にイライラする。最悪。生殖をやめろ。

この家デカ蜘蛛は山ほど見かけるけど、蜘蛛シロアリ食べないのか?

ゴキブリよりよっぽどキモいウジ虫と同レベル

今も目の前に突然落ちてきたか掃除機で吸った。

天井から顔面に落ちてくるかもと思うと、とても眠る気分にならない。

どうせ寝れないので、書きかけのBL二次エロ小説の続きを徹夜で書いて、視界に入ったやつは適宜掃除機で吸うことにする。

もしかしてキモいシロアリも、かわいい推しカプに変換すればくっついて歩いてるのでかわいいのか? と思って想像してみたが、推しカプがショタ時代にくっついて汽車ごっこをする姿はマジで天使だが、シロアリビジュアルがあまりにもキモすぎて無理。天使とはかけ離れた容貌地獄の生き物はシロアリの姿をしてるまである

地獄の生き物に失礼かもしれん…と思って「地獄の生き物」で画像検索したらまあまあキモい虫が出できたのでやっぱり地獄の生き物のほうが近い。家の木材も食べるみたいだし。天井裏にはマジの地獄が広がってそう。最悪。

とにかくシロアリ推しカプに謝れ。生殖をやめろ。

なんで日曜の夜にこんなことになるんだ。攻めに虫とか使ったプレイしそう…って言った呪いか?

寒気が止まらない。誰か助けて

2020-06-03

anond:20200603203453

廃止されてるのは電車じゃなくて気動車路線な。

電車区間は札幌近郊のみ。

この前一部が廃止になった札沼線電化部分だけ生き残った。

北海道の人は電車とは言わずJRという。

年配の人はいまだに汽車という。

2020-05-26

緊急事態宣言あけましておめでとうございます

緊急事態宣言があけた。

Happy new year ならぬ、

Happy new life style.(新しい生活様式)

長いようで短い、短いようで長い、そんな在宅生活だった思う。皆それぞれの想いを持って新たな船出に出たことだろう。

本当に、人生で二度とない経験をしたと思う。(またあるかも)

私は社会人なので在宅ワークだが、これは子どもに置き換えたらある意味春休みである

しかし、長い休みを終える時の、休みを惜しむ反面ようやく好きな子にまた会えるというあのセンチメンタルさはもう無い。

ちょっと何を言っているのか分からないがとにかく、

あるのは出勤、ただそれだけだ。

久々にみんなに会えるというのに、電車に乗っても、魔法学校へ向かう汽車中のあの生熟れ達のようなワクワクを感じさせてくれるおじさんなどいない。

久々にみんなに会えるというのに、会社に好きな子などいない。きっといるのは嫌いな上司だけだ。(私は自分上司が大好きである)

まだ色々書こうと思っていたが疲れたので本題に入る。

今日、久々にホグワーツ急行に乗ったたくさんの生徒たち(会社員)を見てふと思った。

そういえば遠足ってなんで家に帰るまでが遠足なんだっけ?

緊急事態宣言あけましておめでとうございます

緊急事態宣言があけた。

Happy new year ならぬ、

Happy new life style.(新しい生活様式)

長いようで短い、短いようで長い、そんな在宅生活だった思う。皆それぞれの想いを持って新たな船出に出たことだろう。

本当に、人生で二度とない経験をしたと思う。(またあるかも)

私は社会人なので在宅ワークだが、これは子どもに置き換えたらある意味春休みである

しかし、長い休みを終える時の、休みを惜しむ反面ようやく好きな子にまた会えるというあのセンチメンタルさはもう無い。

ちょっと何を言っているのか分からないがとにかく、

あるのは出勤、ただそれだけだ。

久々にみんなに会えるというのに、電車に乗っても、魔法学校へ向かう汽車中のあの生熟れ達のようなワクワクを感じさせてくれるおじさんなどいない。

久々にみんなに会えるというのに、会社に好きな子などいない。きっといるのは嫌いな上司だけだ。(私は自分上司が大好きである)

まだ色々書こうと思っていたが疲れたので本題に入る。

今日、久々にホグワーツ急行に乗ったたくさんの生徒たち(会社員)を見てふと思った。

そういえば遠足ってなんで家に帰るまでが遠足なんだっけ?

2020-05-20

コロナ疎開

所属する会社コロナ対策に素早くて、3月上旬からずっとリモートワークだった。

3月中の生活

朝 :子供保育園に預け、自宅にトンボ帰り

午前:仕事

昼 :店でランチ帰宅して夕食の仕込み

午後:仕事

夕方:定時前にサボタージュ保育園にお迎え

夜 :家事育児、就寝

通勤不要恩恵謳歌していた。

しかし、3月末に、政府緊急事態宣言を発令するだのしないだので事態急変。

我が家流行りの住職近接を実践しており、会社は徒歩圏だ。しかし、家は狭い、古い、高いの三拍子揃ったジャパニーズウサギ小屋

子供の遊びは公園児童館。家は食事睡眠だけ。家事家電課金して物理で殴れ。こんまり最強と割きっていた。

そんな状態で、非常事態宣言保育園休園になったら、仕事子供邪魔され、ストレスから家庭内が険悪になるのは目に見えていた。

迷うことなく、非国民の謗りを受ける覚悟疎開スタートコンクリートジャングルから限界集落一歩手前の実家へ。

老親だけで暮らす実家は広い。1階は車庫と農作業場、2階は生活空間、3階は使用者のいない子供部屋。そして離れの倉庫。かつては酒を密造していたらしい。この広大な空間に3人ばかりが増えても何のことはない。

そして家に潜む沢山のモノ。それは、私が昔遊んでいた汽車飛行機トラックオモチャだったり、小学校の教材だったり、五月人形だったり。今の自分なら間違いなく断捨離しているモノたちが、子供達に娯楽を与えている。

さらに家の周囲は、山の裾野まで広がる田畑に囲まれている。仕事息抜きがてらに少し家から出ても、他者との濃厚接触や3密など望むべくもない。まあ、疎開者に厳しい目を向けられているのは感じるが。

しかし、これらの環境は老親による維持の賜物である長男の私をはじめ、兄弟全員が都会を選んだ我々は、早晩訪れる親の死によりこれらを失う訳である

田舎を出た時点で取るに足らないと切り捨てたはずの価値を今、見せつけられている。

私は、何もない、閉鎖的で、陰険風土田舎を憎んで、都会に出たのではなかったのか?そして良い学歴、良い職歴を得るために努力したのではないのか?

しかし、僅かばかりに高い給与を得るために、狭小で閉鎖された都会にひしめき合い、消費を強要されながら生きている。

コロナが終息した後には快適で便利な都会は戻ってくるのだろうか?

2020-05-03

大手金融機関新入社員200人に8%の消費税計算をさせたところ、半数が税抜き価格に1.08を掛けることができなかった。

https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00261/

芝居だろ仕込みだろ

汽車が来ると聞いて協力しているのだろ

2020-04-09

anond:20200409080746

これを真顔で言っていると思うと、病院船に汽車を突っ込ませようとしたアメリカ人とか、5G基地局放火して回ったイギリス人のこと笑えんわ

2020-04-02

新車怪人のみんな!

これから一緒に頑張ろうね!

汽車怪人のみんなは好きな食べものを教えてね!

2020-03-30

anond:20200330203842

総理に呼び出されたら駆けつけないと財務官僚みたいに自殺した状態発見されるから

会見には出席しなければならない

お前が汽車立場だったら安倍に会見に来いと言われて拒絶できます

2020-03-21

大学受験後のなにもわからない感

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所汽車が止まった。

受験勉強を終えた先に待っていたのは、社会についてなにもわからない自分であった。あのモヤモヤ感は、いまだになんとも言えない

2020-03-20

バックトゥザフューチャーパート3観た

三部作シメとしてキレイにまとまっててすごい

マーティ精神的な成長が見られてとても良かった

変な寝相は毎回変わんないけども

1の未来に道は必要ないに続いて、未来白紙だってのも使い方が上手いよなあ

クララを迎えに行っても行かなくても出逢って恋に落ちるんだから運命だよね

元々死んでた人だからま、いいのかなあ

汽車ハイジャックしたのはイーストウッドで崖に落ちて死んだってバレてんだね

ピースメーカー販促にはならなかったかセールスの人はかわいそうだけど

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2019-12-27

駅の近くの建物って、汽車ブレーキかける時の振動で壊れないの?

2019-12-14

機関車アニメに驚きまくった話

まれて初めてあの機関車アニメを見たけど、驚きポイントが多かった。

舞台インド

ストーリーから拾った情報普通にアメリカ発のアニメだと思っていた。

用事があるから国外に出たい!→なんか主人公自ら頼んで船に乗ってた。マジかよ……機関車の一存でどうにかなるんだ?

・急に歌い出す

インド映画は歌いまくり踊りまくりと聞いたことがある。そういうことなのか。

・なんとか卿の髪が薄い

名前だけは聞き覚えがあったけれど、まさか途中で頭を抱えていた金持ちふうのおじさまがなんとか卿だったとは。いや、毛髪は関係ないですよね。失礼しました。

・案外ヘビーな展開もある

普通にネタバレだけど、主人公雪山で知人に向かって叫ぶ→その衝撃もあってか雪崩発生。

主人公の中に人がいる

雪崩で落ちそうになった知人の汽車を助けるために中から出てきた。いや、そりゃ汽車ですから当たり前だけど、たいそう驚いた。人がいることを加味すると、主人公の一存で海外にわたれたのすごくない?

・最終的に汽車が激突して難を逃れる

知人の汽車が崖から落ちそう→主人公ふんばる→ムリってなる→知人の汽車その2が後ろから激突してきて主人公を支え、崖の汽車もまた山に戻ってこれた。アニメに何いってんのって話だけど、でも、つい先ほど主人公の中から人が出てくるのを目撃しているわけで。当然知人その2にの中にも乗客がいると思えて、おいおい大丈夫か?と心配してしまった。

そんな感じで大変新鮮なアニメだった。未就学児が見る内容かと勝手に思っていたけど、もっと対象年齢高めなのかな?

2019-12-13

anond:20191212003959

元増田です

トラバブコメでたくさんの修学旅行回をおすすめしてもらえてすごく嬉しい ありがとうございます

教えてもらったものこれから読む楽しみができてほくほくしてる 読むぞーー!ってなっている

「わたモテ」は「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」で合ってるかな 

少女漫画略称が同じになる「私がモテてどうすんだ」というのがあります旅行回あり)

2巻まではたぶん読んだけどその後の面白そうな展開をおすすめしてもらえてよかった、ぜったい読みます

スマイルプリキュア!」もそんなに楽しいのかー!と思ってめちゃくちゃ気になる

私のプリキュアYes!プリキュア5で止まってるのでそろそろ更新したい

とめはねっ!」「古見さんはコミュ症です」のおすすめコメント読んで、

その人物それぞれの特性や得意、能力がいつもと違う場所で発揮されたりそれを見ることで友達の新たな一面を知ったり見方が変わったり信頼が深まったり

ふだん交流のそんなにない子とちょっとしたこときっかけで関係を深めたりするところを見るのも修学旅行回の醍醐味だなって改めて思いました

あずまんが大王」は読んでたはずなんだけど、修学旅行回の覚えがないということはその巻まで到達してなかったんだろうか(なおよみちゃん派)(よみちゃんかわいい

アニメでも修学旅行回があるみたいだからこれを機に両方改めて見てみたいと思います ところでアニメ音楽がすっごくよかった

グリーンウッドは手元にあるので今晩から久々に少しずつ読み返そうかなと 「スプリガン」も絶対に読むすごく面白そう

あと少女漫画を読んでるブクマカ結構多くてなんだか嬉しい

河原和音高校デビュー』を挙げようと思ったら同作者さん『修学旅行』って短編も描いてたっけ

 河原和音先生作品もいいですね…修学旅行関係ないんだけど、私は「天晴(てんせい)」がとても好きです

暗殺教室修学旅行

 おもしろいよね…すごく好き

>僕は文化祭回が好き。

 私も好き いいよね それぞれの学校でかなりやることが違ってたりへんなジンクスがあったり踊ったりあれこれの展開が見られて楽しい

 夢路行という現在レディース誌で活躍してる作家さんがかつて少女誌で描いていた文化祭描写がすごくいいです

 画面も静かで淡々としてるけどちゃんときらきらしててすごく大事な時間が流れてる感じがあっていい

 太めというレベルでない本当に太った女の子主人公恋物語短編「踊りましょうか」、

 それと龍のうろこを飲んでしまった女の子の話の中編「荻の原日記」の文化祭描写特にとても楽しそうでいい

>とりあえずやっとくかーみたいなのも多くて当たりはずれ大きくね 文化祭劇中劇やるよりはましだが

 確かに当たりはずれはある 

彼氏彼女の事情」は念入りな修学旅行回(長い)とストーリーに関わる念入りな文化祭劇中劇(とても長い)のダブルコンボがある「当たり」のほう

テンプレウンザリさせられることの方がよっぽど多い

>糞みたいなハプニングサービスシーン見せられるだけだろ何が面白いんだと思って読んだら、

出てくる作品群に走馬灯みたいに情景が浮かんできて涙出た。ありがとう増田。週末、吉野朔実読み返そう。

修学旅行回」と聞いて想起される内容がその人の観測範囲というか普段読んでいる漫画ジャンル結構違うものなのかな、

というのは今回すごく感じて一概に分けられないけれどおおまかに少女漫画

(そのうちでもラブコメとそうでないもの掲載誌カラーによってかなり内容が違う)と少年漫画(これも掲載誌によるだろうか)では

物語構成する要素が相当異なるのだろうな、という風に思った 確かにテンプレハプニングラッキースケベ展開の多いものイベント消化回的なものも相当数あって

同じようなものをたくさん読めば確かにだんだん飽き飽きしてくるのかも それでもやっぱりどこかに特別」な要素があってそういうものを見つけながら読むのがすごく好き

私は今まで読んだ少年漫画では、ゆうきまさみ作品以外では「エンジェル伝説」をすごく愛しているんだけど、すごく時間経過の範囲の短い作品

あれに修学旅行回はなかった あったらどんなかなあ…読んでみたかったな、といまでも想像したりしま

吉野朔実の「記憶技法」は楽しい、という方面ではない修学旅行回かつひとつのある「旅」の漫画として大傑作で

あの内容をよく一冊分の紙幅でできるものだと読むたび惚れ惚れするサスペンスフルだけどすごく静かな一編で

少女漫画女性作家に興味のない人にも一度読んでみてもらいたいです 吉野朔実作品はとてもとても良い(お好きな方がいてすごく嬉しい)

あと書ききれなかった部分では修学旅行ではないけれど旅のある作品として猫十字社小さなお茶会」があった 

夫婦生活幸せのものだけれど突然どうしても一人になりたくなって汽車にのって赤い屋根の家がいくつか連続していたらそこでおりよう、とか

列車のなかの物売りの描写とか駅でのお茶とか自分たちでつくるおみやげ特別さとか細やかなところがすごく心にひっかかってくるかわいいきれいな作品

星野架名「青い銀河夜明け」は地球をなくした高校生たちが自分たちの身ひとつ校舎を宇宙船にして自分たち未来を探して宇宙を飛び回って旅するSF

窓の外に宇宙があって茶道室で布団敷いてそこで寝る、みたいな画面が楽しい 星野架名作品はいいぞ 絵もかわいいです

これからも古かったり新しかったりの楽しい修学旅行回ひいては旅回を読めたらいいなと思いつつエントリを終わります 

ブクマカ増田諸兄も楽しい漫画生活を!

2019-10-16

元々映画って汽車が迫ってくるだけのクソコンテンツだったのに

つの間に「芸術じゃない」どうこうで議論されるモンになったんだ?

 

2019-09-21

おまえらって油断したら電車のこと汽車って言いそう

2019-09-20

切符おじさんの話

アル中DVの親父と母親が別居し始めた時、小学三年生だった。

私は母についていき、離れたところに住んだので、しばらく1人で汽車通学をしなければならなくなった。

DVクソ親父は学校にも、通学路にも、駅にも見境なく現れた。いつもきまって白のライトバンに青いツナギ服姿。

親父は車の窓をあけて、恐怖で足を止めた私に、とても優しく私に話しかける。

学校でなにをやった?体は大丈夫か?かわいそうに、なんでこんなところにいるんだ。お母さんと話がしたいな。車に乗りなさい。駅まで送るから

その後、申し出を断ると激昂することがわかっていた。上手く断れたり友達に助けてもらった日もあったが、車に乗り込まなければならないこともあった。怖くて死ぬかと思った。今思うと性的虐待を受けなかったのは奇跡だと思う。

車の中、しばらく駅前で話をした。色々言い訳をしてなんとか、目の色が狂気じみてきた親父と別れ、待合室に入ることができた。

物凄く怖かった。クソ親父はまた来るかもしれない。3時間に一本の鈍行はまだ来ない。待合室には私以外だれもいない。

「さむいだろ、はいって」

声をかけられた。切符売り場のおじさんだった。

切符おじさんは寡黙な人で、いつも切符を買うとき喋ることはなかった。無言で硬券差し出してくるような人だった。駅員などではなくて、嘱託かなにかで働いていた人だったように聞いている。

声出るんだ、とか失礼なことを思ってから、ためらいつつ切符売り場部屋に入った。中は達磨ストーブが焚かれていてとても暖かかった。

切符おじさんはその後特に何も喋らず、ストーブを挟んで少し離れた椅子に座った。何も聞かないでいてくれるおじさんがありがたくて、11月の冷え込む夕方ストーブが暖かくて、私はうずくまった。

あの時私は切符おじさんに救われたんだと思う。私は当時人見知りだったし、その時抱いた気持ちを結局言葉にできなくて、汽車がきたタイミングでただ小さくありがとうございますを言って切符売り場の部屋を出た。

その切符売り場は今年閉鎖される。おじさんはご存命だがもう随分年だ。

今はクソ田舎から遠い所に住んでいる私に、そういう風の噂がとんできた。とても切ないけど、仕方ない。

切符おじさんありがとうあの日ストーブ本当に暖かかった。おじさんがいるから、私は今生きています

2019-08-16

戦争時、田舎は飢えもなく穏やかだったらしい

死んだばーさんは田舎漁師農家に生まれ戦時着物持った都会の人が食べ物と交換に来てたわよ、とよくオカンに話してたらしい。田舎平和もんだったって。

一方で同じ県でも県庁所在地に住んでたもう一人のばーさんは、空襲があった日にたまたま汽車で?田舎に行ってたんで、命からがら助かったみたいなこと言ってた。特にオチはない。

2019-06-06

運転免許は「できない」人に合わせて年齢上限を決めてほしい

高齢者には自動車運転をしないでほしい。

私は「65歳以上」は、免許を一律返納すべきという立場を取りたい。

なぜ65歳かというと、年金を貰えるのが65歳だから定年退職する年齢を65歳と仮定しての線引きである

例えば、トラックバス運転手などの職業ドライバーも、定年で「引退」すると考える。

再雇用云々……は今は置いておいて、例えばバス会社運転手を雇うのは「65歳の定年まで」とすれば、それが運転引退する年齢にすべきだと思うのだ。

よって、この年金を貰うラインを、一応「現役」か「引退」かの無慈悲に引くラインとして採用したい。

からトラックバスなど、プロ運転手に給料を払う企業に対して、厳密にその「現役」と「引退」の年齢ラインをしっかり決めて欲しい。

安心して雇い、安心して給料を払えるのは、何歳の運転手までか。

それを免許返納の年齢規定にしてよいと私は思う。

職業運転手は、人命や大切な荷を運ぶプロだ。事故を起こされたら会社もたまったものじゃない。

から、その業態は慎重に年齢制限を設けるだろう。

私は知らないが、もしかしたらすでに制限があるかもしれない。

職業運転手以外の一般運転手も、それに倣うべきだ。

なぜなら、高齢者はどうしても、認知判断操作能力が、衰えていくからだ。

60歳から65歳になって、年齢が若返ることはもうない。時間は過ぎる。

高齢者運転操作死ぬ人は後を絶たない。

池袋暴走事故の遺族は「少しでも運転不安のある人は免許を返納してほしい」と訴えた。

私もそう思う。

「年を取る」ことは「運転不安が増える」ことと同義だ。

足が衰え、ガニ股になり、バックなどで腰をひねった際、身体の柔らかさが衰えた身体では足の位置がずれてしまい、

その甘い感覚のまま、ブレーキに添えていたはずの足はアクセルにずれ、思い切りアクセルを踏んでしまう。

身体的衰え」が理由事故だ。

反射神経も鈍っているから、すぐにブレーキを踏みなおせない。

なぜなら「ブレーキを踏んだのに進んでいる」→「アクセルと踏み間違えている」→「ブレーキを踏みなおそう」という、

認知判断力も鈍っているからだ。

しろブレーキを踏んでるのにどうして進むの?」とパニックになり、踏み間違えたアクセルを踏み続ける。

その間も、轢いた歩行者を踏み続けていることになる。無慈悲だ。これは殺人と等しい。

これが高齢者運転操作による事故典型である

日々流れるワイドショー特集では、

「年を取っても元気に運転できる人がいる」とか「田舎では移動手段がない」とか、しまいには「生き甲斐」とか言い出す始末。

要は車を取ったら不便になるからギリギリまで運転したいということ。

そして「家族が顔色を窺って、免許返納を遠回しに勧めて」ほしいとか言っている。

子ども世代だって忙しい。そんな暇はない。

なぜそこまで気遣いをしなければならないのか。

そもそも注意する子ども世代がいない高齢者は?

少子化時代にそういう高齢者だって沢山いるだろう。

であれば、「一律」に「平等」に免許返納の年齢上限を設けるべきだ。

18歳未満は運転できないのと同じだ。

福岡市逆走暴走事故は、事故のほんの十分前はまともに運転をしていたそうだ。

しかしたら当時意識を失っていた(突然体調不良になった?)のかもしれないと、事故の原因を調査中だ。

高齢者は、いつどうなるかわからいから、運転はやめるべきだという事実が露呈したと言える。

ほんの十分前まともに運転していた人が、一瞬でまともな運転ができなくなったのだ。

今日できていても、明日できなくなってもおかしくない。

それが「年を取る」……ということなのだ。

これが一番言いたいことだが。

歩行者の命」に関わることだ。

健康寿命の長い、特異な人に合わせないでほしい。

平均点以下……むしろ運動神経の悪くおぼつかなくなってきた人に合わせて、年齢制限を決めて欲しい。

運転偏差値なるものがあるなら、30とか20とかの人に合わせて、年齢制限を決めて欲しい。

車は、踏んだら動く。

座ってるだけで移動できる。

力の弱くなってきた高齢者には便利なものだろう。

けれども、最低限「安全操作」ができる「身体能力」が必要だ。

それは、高齢になるとどうしても不足してくる。スポーツと同じだ。

アスリート自分引退を決める。

自分選手としての限界を認め、退く。

プロであればあるほど、自分が全盛期の動きができなくなったとすぐに気付く。

それだけ自分能力客観的に見ることができるのだ。

それができないなら、年齢制限を決めるしかない。

自動車運転にも、職業運転手の定年退職と同様に、年齢に上限を決める。

どうか、運転免許は「できない」人に合わせて年齢上限を決めてほしい。



*ちなみに我が家場合

私はペーパードライバーだ。

運転免許はほぼ身分証としてしか機能していない。

45歳までに車を買えなかったら、返納しようと思っている。

45歳以上になったら、ペーパードライバー講習を受けても無理だろうと思っているからだ。

21歳で免許取得したのに、自動車のものも維持費も高く、いまだに持つことができない。給料が低いのだ。

からどこにでも歩いていく。汽車に乗っていく。バスに乗っていく。そして歩く。

齢90の祖母、65の父もそうだ。

祖母免許を持っていない。運転できる祖父が亡くなってからは、ずっと歩いている。バスに乗ったり、バスがなければ歩いている。

祖母のような高齢者でも、車がなければないでなんとかやっている。

父は車の維持費が大変で、55歳ごろ車を手放した。

車を手放したらタクシー代が…という人は、車のほうが金食い虫と言えないだろうか。

父は、バスの通る場所引っ越したし、祖母は、生協宅配を利用して日々の買い物は賄っている。

車って、一度持ってしまうと手放せないんだなと、高齢者の誤操作による事故ニュースを見ていて、日々思っている。

そして不思議だ。

実家には車のある時期もあったが、私自身は車を持ったことがない。

そういう人間からしてみれば、なぜそこまで車に固執するのか不思議でならない。

事故ニュースだって、決して交通の便が悪くなさそうなところで起きている。本当に不思議だ。

おまけに、高齢者が若かったころ、そもそも車なんか発明されて間もなく高価で手が出せなかったのではなかろうか。

便利なものを知ると、手放せなくなる典型なのだなと思う。

便利なものはなかなか手放せない。仕方ない。踏めば走る。便利だ。

から自動車運転免許には、一律に年齢上限を決めるしかないと思う。

色々な手放したくない理由がある。それは理解できる。

からこそ無慈悲に年齢で線引きするのが、一番平等なのではないかと思い、この記事を書いた。

2019-04-30

「誰もお前のことなんか見てないからw」

アホぬかせと思ってたがもしかして都会は本当に「誰も見てない」のか

電車(正確に言うと汽車なのだが)に乗ると「もしかして知り合いかも!!知り合いだったら声をかけなきゃ!!」と一斉にじろじろ見つめられたり

出勤すれば「増田さんこの前○○歩いてたでしょwなんか楽しそうだったねw」と声をかけられたり

スーパーであまり交流のない同級生の親、兼 同業者なので仕事でたまに会うおばちゃんに出くわして回れ右したり

母親と歩けば「あの人○○さんのお母さんだ!」「あの人足短っw」「今の人カツラだったね!思ったよね!?えっ何で見てないの!?注意力が散漫!!もっと周りを見なさい!!」とか言われたりしないわけ?

そりゃ都会にも「趣味人間観察です(笑)」な奴もいるだろうけど仮にそんな奴にじろじろ見られたりしてもそれはその数秒もしくは数分の出来事だけで二度と会うことはないわけだ

から平気で、本気で、「誰もお前のことなんか見てないからw」とか言えちゃうわけだ

うわーーうらやましい

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