はてなキーワード: 作曲者とは
オーーーーーーーーーホォーーーーーーーーーーーーーーーーーー
オーーーーーーーーーホォーーーーーーーーーーーーーーーーーーアアアアアアゥアア
オーーーーーーーーーホォーーーーーーーーーーーーーーーーーー
オーーーーーーーーーホォーーーーーーーーーーーーーーーーーー
の人とうまぴょいが同じ作曲者と知って腰抜かした
巨乳と自分を比較して卑屈になる貧乳、処女いじりされて泣きそうな顔で耐える処女、ババアなのにJK制服とか着せられて「うわキツw」されるババア、みたいないじられて可哀想な女を消費するジャンルがあるけど
この種のやつHey! Say! JUMPというジャニーズグループの「ファンファーレ」という曲をカラオケでいじめで歌わされた地味な男子のこと思い出して本当に嫌な気持ちになる
いま調べたら2019年リリースだった、もうそんなに経つのか…コロナ前だから普通にカラオケ行ったんだよな…
曲の終盤で山田涼介(Hey! Say! JUMPのメンバー)が「忘れられないよ…」ってキメ顔で言うセリフの箇所があって
地味な男子に言わせてもそりゃキツいことになるよ、というかアニソンでもセリフパートって相当キツい感じになるものだし
それでいじめみたいに曲を入れさせてから「忘れられないよ…」まで言わせて爆笑していた冷酷な陽キャの女子のことも思い出して本当に震え上がるというか
なんのためにあんなことするのだろうサディズムというやつなのかな
共感性羞恥みたいな感覚で見てても本当にきつくて何度も思い出して背筋がぞわってなる
陽キャがみんな冷酷ってこともない
冷酷な人が陽キャとしてカースト上位に行けた場合、やりたい放題に人を操作できるので、そういう風になっちゃったコミュニティ本当にえぐい
オタク度合いが強かったらファンファーレ知らないしあのカラオケの場にもいない
いろいろな場所があったけど2軍と1軍の間みたいな場所の治安は結構きつくて、あの場所に長居するくらいだったらオタクグループに埋没したほうが安定してた
Hey! Say! JUMPや作曲者が悪いわけじゃないけどファンファーレトラウマ
ワイはその人についてはくちびるnetworkの作曲者ということしか知らんやで。
ホロライブはプロデュース方針としてアイドル的なカワイイ売り方をしており、喋りやネタで盛り上げたにじさんじより魅力が伝わりやすかった?のか、JPメンバーにも英語圏のファンが多数いました。
それで満を持してデビューしたのがENメンバーです。あっという間に登録者数300万人超えてびっくりした記憶がある。(なお現在400万人超え)
燃え尽き症候群というのか、どうも意欲が著しく減退してしまったようで最近は配信が少なくなってしまったのが残念です。
ぐらちゃんは設定的にはアトランティスの末裔であり、サメのしっぽが生えてます。通称サメちゃん。
ホロメン(ホロライブメンバー)はたまにカラオケ配信をしたりするのですが、ENメンバーも例外ではなく、たまに歌配信をします。
ただし英語圏には日本のJASRACのような超大手の著作権管理団体が無いらしく、窓口が散在している故にYouTubeでライブをするのにも許可を取るのが大変だそうで(下手すると事務所とか作曲者直ってレベルらしい)、故にムメイをはじめとしたEN組の歌配信はアーカイブがなく、リアルタイムでしか聞けません。(ライブは問題なくて、動画に残す為の権利がめんどいらしい)
その中でもムメイの生歌はかなり上手い方で、英語曲オンリーですが一聴の価値ありです。(あとおすすめしたいほど上手いのはサメちゃん)
母国語はドイツ語ですが英語、日本語、イタリア語も普通に話せる才女。言語習得が得意?らしく、他のホロメンによるともっと話せるらしい。
[B! 校歌] 生徒の校歌「音程が低い」赴任した中学校長、始業式で抱いた違和感 もとの楽譜を調べてみたら
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.kobe-np.co.jp/news/himeji/202404/0017511004.shtml
ブクマカの論調は、作曲当時のニ長調への回帰派に比べて、改変したハ長調の維持派が優勢なように思える。
しかし、次のような視点にも留意したほうがいいんじゃないかと思う。
これらはいずれも記事から直接読み取ることはできない、あくまで可能性の列挙に過ぎない。
実際に、ハ長調にすることで歌いやすくなって大好評だった可能性もある。
改変した当時、実際に生徒に歌わせてみて誠実に比較したはずだとも思う。
しかし、このような記事を読んだ瞬間に、上記のような可能性をあれこれ連想することができるかどうかは、どんな記事を読むときにも役に立つ感性だろう。
なお、ハ長調への改変の理由として挙げられた「変声期の男子生徒への配慮や、アルトリコーダーで演奏しやすくするためでは」というのは、ニ長調への回帰を目指した校長による、あくまで推測である。
というより、音楽は聴くのに時間かかるけど、絵は一瞬で見れるっていう時間的な違い大きい。
たぶんその構造的な制約ゆえに反発が少なくなってると思う。
どういうことかというと、一言で言えば、絵は0.1秒で鑑賞できるけど音楽を聴くには少なくとも数十秒から数分間の時間を要する。
さらにいえば絵は一度に大量に見ることすらできるが、音楽は一度に1曲のみだ。
このことがどう影響するかというと、絵の場合、見たくもないのに目に入るという事態が起こりうる。しかも大量に。
XのタイムラインやYoutubeのサムネイル、webページのバナーがAIイラストで埋め尽くされる。
これは恐怖だ。見たくもないものが洪水のように迫ってくるのだから。
情緒が不安定になりヒステリックな反応を引き起こすのも無理はない。
一方でAI音楽の場合、再生ボタンを押さなければ再生されることはない。
動画などの素材で使われていたとしてもフリー音源との違いがわからないので違和感を抱かない。
ゆえに脅威を感じづらい。
これが両者の反応の違いとなっているのだと思う。
別の論点でいうと、絵と音楽は制作スタイルが大きく異なるので、その成果物に対して個人が抱く感情にも隔たりがあるのではないかという話がある。
絵は多くの場合一人で完結できるので作品に対する作家性(簡単に言うと「自分のモノ感」)が強い。
逆に音楽はほとんど分業制で作られていて、「個人のモノ感」が低い。作曲者と演奏者(歌手含む)が違うのは当たり前で、そこに作詞者や編曲者が加わることもよくある。
絵に例えるなら、ラフと線画と着色、仕上げを別人が担当するようなものだ。
1つの素晴らしい音楽作品があったとして、それが名作たり得るのが誰のおかげなのかを明言するのは難しい。
つまり絵の一次創作者が「すべてを統べる者」であるのに対して、音楽の一次創作者(作曲家)は、「作品の一部を作り出すもの」でしかなく、ゆえに「自分のモノ感」が低く、それが仮にAIに置き換わったとしてもダメージが少ないのではないか。隣接する他の仕事がいくらでもあるし。
どんなに超絶技巧プレイだったのとしても俺は注目されないだろう
というか、俺でなくても、超絶技巧プレイヤーはまったく注目されてない
俺はチェックしてるけど、多分、ほとんどの人は、なんかすごいね、で素通りしてしまっているのだろう
それより、初心者記事とかが強い、ギタースクールの講師とか、スタジオミュージシャンのうんちく語りとか、楽器屋店員の雑談の方が見られてる
あと、エッチなかっこのお姉さんが演奏した方が爆発的に注目される
ぼっちざろっく!でぼっちちゃんに水着でプレイしてもらおうという話はあながち間違っていない
際どいコスプレでピアノを弾くのと、普通のオッサンがピアノを弾くのと、どちらもレベルが同じだったら、みんなはどちらを見るのか?
つまり、デブでキモイ童貞で中年の俺ではギターヒーローどころか、視聴者を不快にさせたと運営に通報される方が近い
なるほど、となると音楽理論のうんちく、というか、俺はちゃんとした教育受けてないから偉そうなこと言えないし、間違ってる可能性もあるけど、
あの有名な曲は、こういう仕組みで作られていて、つまり、作者はこういうことを伝えたいという意図があると考えられる、
耳コピをすることで、作曲者の意図を推察することができる、みたいな話を書けばいいのだろうか
でも、それもそんなネタないしなあ
はなわはベースだったけど、イングヴェイやインペリテリがお笑いやったら面白いだろうか?
いや、それも違うか…
下半分については誤解だなぁ。昔のネットは他者と比較されるようなところではなかった。
それぞれが秘密基地を持っていて遊びに行く感じだね。
昔有名だった人たちは、今ではプロになって活躍してたりするからな。
昔ははてブもXもYoutubeもなくて、個人サイトのリンク集を辿って面白いものを探しにいったんだ。
私の目線だと90年代は日記サイト、素材やさん、FLASHアニメやGIFアニメなんかが流行っていたかな。
「彼女と彼女の猫」を見つけた時は興奮したよ。誰かの日常が凄い空気感で描かれていてさ。
「ほしのこえ」も当然応援したよ。天才が現れたって。当時はまだオタクにしか知られていなかった気がする。
それが「君の名は。」で世界的に有名な監督になってさ、今ではもう全部夢だった気がする。あのwebページに通った日々は本当にあったのかなって。
https://www.youtube.com/watch?v=8-ANtYTLMIY (Youtube に上がっていた)
機動戦士のんちゃんも好きで通ってたな。
今探したら残ってたよ!
https://nosferatunon.wixsite.com/nonchan/kn-non
上映会やってたんだ!見たかったーーー
https://www.youtube.com/watch?v=gvU8NhXBOG8&list=TLGGKNbBDANwZowyMzEyMjAyMw
それからさ、作曲者も昔はHPで作った曲を公開したりコミケで手売りしたりしてたんだ。
リンク集を辿っていった先の怪しいwebページで 「玲音の世界」と「Chronicle 2nd」を聴いて一目惚れしてさ。通販でCD買って・・・定額小為替だっけ?
それが「進撃の巨人」OPで大ヒットして紅白に出てさ・・・あれは夢だったのかな? そう思いきや個人ページが残っていてファン向けにこっそりメッセージがあったりしてさ。昔は距離が近かったんだよね。いろいろと。
もうちょっと時代が降るとニコニコ動画のハチかな。これはもう語らなくてもよいと思うのでやめる
どこにいるのだろう。Youtube? X ?
でも我々は探しに行くのをやめてしまった。はてなやXで口を開けて何かが流れてくるのを待っているだけだ。
Wikiにも書いてあるんで皆知ってるやろけどクイーンの「フラッシュのテーマ」って曲があって、フラッシュ・ゴードンてやつの主題歌なのよ。
ほんでビッグオーの主題歌作るにあたって製作者側が永井ルイに「フラッシュのテーマっぽい曲作って!」と依頼した結果、永井ルイが真剣にフラッシュのテーマっぽい曲作ったら、いくらなんでも似すぎちゃって、最終的にクイーンの知るところとなり、クイーンからクレーム入って、作曲者の表記が「永井ルイ」→「Brian May・永井ルイ」に変わった。
ボカコレ2023夏というドワンゴが主催の音楽イベントで、ルーキーランキングで一位を獲った楽曲の一位褒賞である音ゲーへの楽曲採用が、不明な理由により延期されている。
この楽曲には、その作者が前に投稿していた楽曲も含め、ある一つの音楽ジャンルを継承した特徴がある。作曲者から直接の言及はないが、そのジャンルに与する作品として作られており、それが延期となっている原因ではないかという説がある。
ここでは取り敢えず、近年呼ばれるようになった『界隈曲』という名前で便宜的に呼ぶこととして、ここに覚書を残しておきたい。
10年ほど前に、ある人が一部の楽曲を残し他のすべての作品を削除して引退した。その騒動についてはここに書かない。最終的に四つの作品だけ、一定の条件下であれば転載しても構わないとし、最後に『自分について話をするな』との旨を言い残し姿を消した。関連した業界で今なお仕事をしているのか、それとも完全に手を引いたのかはわからない。
そして、残された四つの作品を転載する条件には、使用されていた素材の規約を守ることといった一般的なものに加えて、「作者の名前を明示しないこと」というものがあった。一般的な引用が名前を明らかにしろというのに対し、その真逆を求めた。
こうした奇妙な結論に至るには、様々な騒動が原因となっている。騒動の経緯は全て割愛する。端的に言えば、氏引退の理由は『解釈に対する敵愾心』とでも呼ぶべきものかもしれない。この文章による言及それ自体が、氏に対しての敬意を欠いている。
氏の作った楽曲群は殆どが消えて、正式に残ったものはたった四曲。それすら名前を出さないようにと請われたのに、氏の願いを聞き届けられないほど良いものであり過ぎたのかもしれない。少なくとも、10年以上の時を経てなお、その歌詞が件の作品に引用される程には。
一般に、音楽のジャンルというものはその先駆者の後追い、リスペクトとも呼ばれる音楽が生まれていくことによって作り上げられるものだと思う。実際に、氏の音楽によく似た楽曲が、インターネットに生まれていった。具体的な楽曲名やアーティストを例示することは、ここでは避ける。例えばノイズミュージック・エレクトロニカであるとか、MVに四角形を種とした幾何学模様やドット絵がリズムやコードなどを示すというような特徴を上げることはできても、その根本的な特徴としての模倣性は、結局のところ、作り手側の意図ではなく聞き手側の意識によって観測される。
『界隈曲』という言葉で今括られている楽曲群には、その系譜を明示している作曲者もいれば、暗黙の了解とばかりに仄めかす作曲者もいる。一切言及していない作曲者もいるし、むしろ否定しているケースまである。
問題があるとするのなら、その『類似性』こそが求められたことだったろう。得てして後追いとなった楽曲群は、特にその当初においては、最初の4曲とよく似ていて、むしろ似せることこそが求められているかのようだった。
時を経て、近年は類似させることも緩やかになっている。しかし、むしろその『類似』であること、氏の系譜であることを求めている、という宗教じみた性質は確固たるものになっていった。
その一つの根拠に、今現在のこれらの楽曲群の呼び名である『界隈曲』という言葉そのものがある。
最初は、ある後追い(とされているが、当人の直接の言及がないため、含めるべきでないという説もある)の作曲者の名前を取って『◯◯◯◯界隈の曲』という枕詞で呼ばれていたことがある。しかし、その後追いの作曲者をして名前を示すことへの疑義はあり、時には氏の名前を取って『XXXXリスペクト(ここのXは最初から伏せ字)の曲』のように呼ばれることもあった。海外では、名前を伏せた最初の四曲に対し(楽曲群のモチーフが全て海産物であることから)「海鲜市场」という名前が付けられたり、一部の後追いの作曲者たちを合わせて「Nameless cult」と呼ばれることもあった。
どうあれ、名前を伏せているせいで、だんだん呼び名それ自体の意味が薄れていくうちに、前の言葉は『例の界隈の』『XXXXの界隈の』と曖昧になり続け、最後にはその頭すら取れてしまった。
呼び名がないことの不自由さに対して求められた名前であっても、『界隈曲』というジャンル名が指すものは、前述した通り端緒となった氏の音楽を起点とした系譜だ。
系譜そのものへの人気は歪なほどに高い。ある作曲者が『界隈曲』とされる楽曲をほんの数曲だけ発表した結果、その数曲だけで、それ以外に投稿してきた楽曲の全ての再生数を足し上げた数の、その数倍以上の再生数を叩き出した。
今回の端緒とした件の楽曲は、その要素を明らかに含めている。それがイベントで一位を獲った最大の理由とは考えないが、一定の役割を果たしていたと思うし、それ自体は悪いことではないと思う。
ただ、氏が引退した理由は最初から何も変わっていない。『自分について話をするな』と言って消えたことに変わりはないのに、それでもなお『界隈曲』という名前で、さも継承してきたことが美しい物語であるかのように語り諂うのは、あまりにも無邪気が過ぎるように思う。
好きな音楽だから聞きたいとして、良い曲であるから肯定するとして、その情報の中に態々『界隈曲』という言葉を組み入れ、その系譜を遡って死人の墓を掘り返し死骸を残骸にし尽くしているのは、作る側ではなく聞く側ではないのかと思ってしまう。その残骸の成れの果てを美しいものだと祭り上げて見せびらかすのは、趣味が悪い気がする。
侮辱してでも聞き足りないほどの音楽だからだと言われれば、返す言葉なんて無いかもしれない。
けれど、無邪気に語るのは嫌だなと思ってしまっている。
単刀直入に言おう、俺は「うっせぇわ」と「可愛くてごめん」が嫌いだ。
「可愛くてごめん」は最初気に入って何度か聞いていたが、しばらくしてからその歌詞から漂う人格にだんだん嫌気がさしてきて、気づくと聞くのをやめていた。
初めて聞いた時、なんて痛々しい歌詞だと思った。この歌詞考えたやつ絶対黒歴史になるだろ。
高校生が考えた歌詞に違いない。と思ったが調べてみたらこの歌詞を書いた作曲家は25歳らしい。嘘だろ。じゃあ天才だ。
まずこの曲の歌詞の大意は、社会に出るまでに敷かれたレールに対する反抗というこれまでの音楽で幾度となく繰り返されたありきたりなテーマだ。
こういった思考は中高生に多く見られるというのは同意してもらえると思う。
気づいたら大人になっていた』
というフレーズを見てほしい。この時点でこの歌詞における主人公は”大人”になっている。
俺の意見では、”社会のレールに乗ってしまった”という意味での”大人”だと思う。
精神的な成熟を示す”大人”という形容詞は”気づいたら”なっているものではないからだ。
さてここで作者の話に戻るが、作曲家は通常の社会のレールに乗ってなれるものではないので、この作者は仮想の主人公を立てていると考えられる。
そう考えると歌詞の奇妙さが浮き彫りになってくる。
それは、この”大人”像があまりにもディティールが低いということだ。
・最新の流行は当然の把握
・酒が空いたグラスあれば直に注ぎなさい
・皆みながつまみ易いように串外しなさい
・会計や注文は先陣を切る
ステレオタイプ過ぎないか? 俺が最初に高校生が考えた歌詞か? と感じたのはここが大きい。
俺の考えだと、この歌詞の仮想主人公は高校生くらいだ。というか社会に出た人間がこんなこと考えてたらヤバくないか? いくらなんでも幼稚すぎるだろ
『社会のレールに乗るくだらない社会人になりたくない、という中学生か高校生の痛々しいメンタリティを表現した曲』
だった。
現代は誰もが「何者」かになりたい時代だ、としばしば指摘される。「うっせぇわ」の歌詞は痛いほどその事実を体現させていると思う。
という歌詞は、自分はほかの者たちとは違う、一切合切凡庸ではない「何者」であるという宣言に他ならない。
他にも、
・頭の出来が違うので問題はナシ
・私が俗に言う天才です
自分が特別だ、と思うことがどれだけ特別じゃないことかとかそういうことも気づいていない青臭い歌詞だ。
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
“自身のお気に入りの歌詞は「あなたが思うより健康です」というフレーズだという。syudouはまだネットシーンでのみ活動をしていた当時に、ネットの音楽が「病んでいる」「暗い」というイメージで片づけられていたことに不満を持っていたといい、それに対してガツンと伝えたいという思いが上記の歌詞に込められている”
と言っていたそうで、これはつまるところ”大人”に対する反抗というこの曲のテーマに加えてもう一つ、”陰キャの復讐”というものがあるということだ。暗い、根暗な陰キャは実は強いんだぞ! というシンプルなテーマだ。
俺が最も気に食わないのは
『つっても私模範人間
殴ったりするのはノーセンキュー』
という部分だ。
昔の有名なコピペを思い出す。
“初カキコ…ども… 俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、 他に、いますかっていねーか、はは
今日のクラスの会話 あの流行りの曲かっこいい とか あの 服ほしい とか ま、それが普通ですわな
it'a true wolrd.狂ってる?それ、誉め 言葉ね。
なんつってる間に4時っすよ(笑) あ~あ、義務教育の辛いとこね、これ”
この最後のほうにある
という部分が「うっせぇわ」の歌詞とめっちゃ似てる。すごい似てる。
結局、この曲の歌詞とこの曲に共感している人々は、自身を社会のレールに乗ることを受け入れた”模範的な人間”なんだ、という肯定的な評価を(無理やり)することで、国家による法的な統治に安住している卑怯者に過ぎず、その自分が語る反抗もせいぜいSNSで(しかも匿名で)文句を言うくらいしかする度胸しかない。
うわあ、まさしく陰キャって感じだ。
と俺は思ったわけだ。ああ、もちろん犯罪行為を肯定しているわけではない。
この曲で最も頻発される「可愛くてごめん」という歌詞に関する俺の考察を述べておく。
まず想像してほしい、橋本環奈が「可愛くてごめん」と言ったとする。そんなことを言われてしまったら俺たちは何も返す言葉はない。「はい、可愛いです」と答える以外の余地はない。
さてここで考えてみてほしい、
と言うだろうか?
まあ俺の意見では、橋本環奈はそんなことを一ミリも思わないだろうし、言うわけがない。橋本環奈にとって自分が可愛いことは息を吸うことと同じくらい当たり前のことだからだ。わざわざ自慢する必要がない。
そして本当に可愛い女の子は、自分のことを可愛いなんて言おうものならほかの女子から総攻撃を受けるので、心のそこでそう思っていたとて口に出さないものだ。
つまり本当の勝者は他者の僻みに迷惑をかけられることはあれど、そこから一転攻勢、「むかついちゃうでしょ? ざまあw」などとは絶対に言わない。ここに「可愛くてごめん」に秘められた興味深いメンタリティが表現されている。
この「可愛くてごめん」の主人公は、学校では地味な女の子で(確かPVでもそう表現されてたかな?)、周りの、いわゆる”一軍”女子に憧れ嫉妬し、ある種、僻みさえしている。
そして休日になると自分の好きな可愛い服を着て、メイクをして、”可愛く”なって街に出かける。そう――”一軍”女子と肩を並べるために。
可愛い自分に嫉妬する誰かがいると思い込み(実際にいる可能性はもちろんある)、自分のことを僻む、顔の見えない誰かのことを意識し、自撮りをSNSに載せて、自分が可愛いことを証明することで、そうした誰かと一人孤独に戦っている。
その誰かとは実は、スクールカーストのてっぺんに位置する一軍の女子を僻み、コンプレックスを抱く自分なのだ。
「可愛くてごめん」について考察してるとなんか可哀そうだなという感情がわいてきて、執筆当初にあった嫌いという感情が薄れてきた
俺もこんな風に匿名掲示板で嫌悪を吐き出すという陰キャムーブをしてるなと今思ったw ダブスタかもしれん
誰もが「何者」になりたい世界はSNSの発展によってもたらされた。他人といくらでも比べることができる世界で、自分という唯一無二の存在が本当に唯一無二であるということを証明する必要がある。
俺もこんな記事を書いて「何者」になったつもりなんだろう。伸びるといいな。
ありがたいことにたくさんのコメントを頂いた。
いくつか興味深い指摘があったのでその点をもう一度考察してみた。
この指摘は、「可愛くてごめん」の歌詞はほかの人からバカにされたりする自身の趣味に対する偏見をはねのける少女の精神性を表現したものだ、というものだ。
そうした精神性からこの曲の歌詞を振り返ると真っ先に浮かぶ疑問はこれだ
“なぜ自身の趣味をバカにされたり、見下されたりすることへの反抗が「自身が可愛いこと」なのか?”
これはルッキズムに少女の価値観が支配されていることを示していると言える。しばしば言われるように”可愛いは正義”というやつだ。この価値観の元では”可愛い”者は強く、”可愛くない”者は弱いのだ。
人からバカにされたり、根暗や変わっていると思われる蔑まれがちな趣味を持っている私(≒いわゆる陰キャ)の私でも可愛いぞ(≒強いぞ)! という主張だ。これは”陰キャの復讐”という文脈に回収できるのではないだろうか?
そして、その精神性の内側には普段抑圧されているマイノリティのコンプレックスがある。
そのコンプレックスが最も示されているのは、「可愛くてごめん」の歌詞すべてと言っていい。
「可愛くてごめん」と連呼することは、可愛くない自分を無理やり鼓舞するために必死に主張しているように見える。私は可愛いのだ! ということを全身全霊で認めようとしている。それは他者に向かっているように見えて、自分自身を納得させるために繰り返されている。
そうすることで「私は強いのだ!」と納得しようとしているように見える。
あと、「うっせぇわ」も「可愛くてごめん」も作詞者がそう考えている、と俺自身が思っているわけではないよ。正直ここまで若者に刺さる歌詞を詳細に書くことはマジですごいと思う。
実際こうやって俺が嫌いになっているという事実こそがこの曲の歌詞が素晴らしいものであるということの証左でもあるしね。
あと、「それを嫌うお前の中にそういう精神性がまだ少し残ってるからだろ」的な指摘があって笑ったwww
美術館の絵わからない、感想で「すげー」とか言えばバカにされるから言わない、ってやつバズってたけど、最近の美術館普通に作品の横に解説貼ってあるし、解説音声サービスあるし、なんなら芸能人がナレーション吹き込んでたりしてそれ自体もエンタメ化していたり。作品の制作意図や時代背景わかったらホホーンってなるよね。それをブコメの「情報を食っている」と言われたらそうかもしれないけど、相手(作品や作者)の人となりを知ることって単純に嬉しいじゃないですか。
背景何も知らずに作品単品だけで楽しめるものは素晴らしいけど(例えばクラシックも含め大衆音楽だとその傾向は高いと思う)、作品ってその背景や制作意図までコミコミのものじゃないですか?あるいは、背景知らなくても楽しめて、背景知るともっと楽しめませんか。
(作家やミュージシャンのインタビュー記事、読みますよね。あれと同じ)
なので美術館行ったら作品の解説は読むなり聞くなりした方が面白さが上がるし、現代音楽なんかは特に作曲者の解説読むと面白さが桁違いに上がるので是非読んで聞いてほしい。
何も情報入れず、生まれ持ったセンスのみで第一印象で"わかって"しまう人がすごいとか、わからない自分は駄目だとか、そういうのは無しで。
曲調が似てる曲をエンドレスで聴きたい
SpotifyのラジオとかAWAのステーションとか、他のサブスク系アプリは試してないのだが、そういうことじゃないんだよなってのがレコメンドされる。
多分だけど、聴いてる人の傾向でチョイスされてるような気がするんだけど、そうじゃなくて例えば、ベースが似てるとかギターのリフ?がこうだとかでレコメンドしてほしい。
具体的にどういうの探してるかというと、chayの『あなたに恋をしてみました』と吉澤嘉代子の『手品』みたいな曲を探してる。
「60'sポップス調ていうのかな?ブラスがブパブパいって弦関係がシャララいって、途中でキメを揃えてて、割りと早いテンポな女性ボーカルの恋愛ソング」
みたいな曲
ふと、ルージュの伝言がそうかもと聴いてみたら記憶の中で思ったよりそうじゃなかった、バージョン違いとかあるんだろうか
音楽の素養あったりしたら、探し方違ったりするんだろうか?作曲者で追ってく?それだとしても、結局、数こなすしかないのかな?
良い方法あれば、教えて頂きたく🙇
追記)
反応ありがとうございます🙇
モータウンかー、大学生のころには知ってたやつだけど、すっかり忘れてたわー。
検索してみるとモータウンサウンドとかモータウン歌謡曲とかモータウン風JPOPとかあって、なるほど面白いと思いました。良いですよね。
なんだけど、求めているものとはちょーっと違うんですよね、めんどくさくてごめんて。
検索してみて近いのが、言及にもあった「夢見るシャンソン人形」の小林麻美カバーバージョンかなと思いました。
🙇