はてなキーワード: 千差万別とは
見えてる世界が違うこと。
まず、男性はありとあらゆる女性の記号的な特徴にエロスを見出すので、
基本的にどんな絵が描かれていたとしても、それが女の絵なら、多かれ少なかれエロい視線で見てしまう。
水着姿なら欲情して、パンツスーツなら欲情しないなんて、そんな都合よく性欲は制御できない。
もちろん性欲は千差万別だから、巨乳に欲情しやすい人もいれば、貧乳に欲情してしまう人もいる。
中間サイズが一番欲情する人だっているのだから、胸はどんな大きさに描かれたとしても、
女性はしばしば、エロい絵をみつけては、これはいやらしい男の視線を感じるといい、
下着メーカーの下着の写真には、これはエロくない、いやらしい男の視線を感じないというが、
男からしたら、どっちもおなじくらいエロく、いやらしい視線で眺めている。
それを理解してほしい。
ハフポストが書いたような『作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのもの』(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7)と言うのは完全に否定出来る内容だった。
つい胸に目がいってしまうとか意識してしまうような展開だとかそう言うのは描かれつつも、大人としてコンプライアンスを意識して絶対に女子高生に手を出してはいけないとか、社会人ヒロイン相手にも変に意識してると思われたら気持ち悪がられるとか、そう言うシチュエーションをギャグとして描き出してる一種のラブコメ的な作品だった。
またこの文言、そもそもは『作品で描かれているのは数々の痴漢行為』としていたのを『作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待』と書き換えたもの(https://twitter.com/gerogeroR/status/1515599242773303296)だけど、法で定められる痴漢行為は無かったことから改めたものの、ある程度男性の加虐性があることにしないと自分達の言い分が通らないから『性的な虐待』と書いた程度のものだろうと思う。
次に、女子高生かくあるべしとしたステレオタイプを促す作品かどうかだけど、そんなもの皆無でしょ。
確かにこの作品は胸の大きな女性が好みな男性作者が理想の女子を描いてラブコメしてるけど、このミラーリングはせいぜいイケメン男子が好きな女性作者が理想の男子を描いてラブコメしてるくらいのレベルで、どちらにしても理想の異性を描くと言う行為は大前提として『こんな奴はいない』があると思う。だからこそ理想であり都合よく描けるのであって、ましやそれをステレオタイプだなんて対極にも程がある文句だなと思う。
ちなみに月曜日のたわわに所謂パンチラは一切出てこない。作者が興味ないらしい。私も興味ないけど。
対して胸が大きい女性は女子高生のみならずガッツリ会社員ヒロインも出てくる。何を描きたいかハッキリし過ぎてる。
むしろ個性のなさ(ステレオタイプ)で言えば男性描写の方に問題ありそう。顔がなくて髪型でしか見分けられないから、女子高生と電車に乗る男と会社員として働く男が別の男と認識するのに時間かかりました。
結局表現物は何を思ってどう描かれたかより、見た人がどう受け取ったかの方が圧倒的に重視されてる世の中だと思う。
描き手の0から100まで理解しましたなんてのは無理で、私はこう思ったと言う千差万別な感想で溢れてるから。
ましてや誰かの理想なんてカロリーの高いものが誰かにとってはキモいとも取れるのは当たり前で、それを楽しめる人は楽しんでると言うそれだけのこと。
以下、駄文
と言うか、着衣してても性的に表現してるからアウトなんて言うのは、あらゆる創作物を対象として考えた時、私はラインが引けない。
月曜日のたわわなら、大きな胸が男性からして性的な魅力を持って描かれたからアウト、とかなんだろうけど、じゃあイケメンが女性からして性的な魅力を持って描かれたからアウトも通る。
一々書かれたものに性的な意図を持ってるかどうか書いた人に確認しなきゃいけなかったり、それが性的なのかどうか男女平等に且つ曖昧なラインを誰の判定に任せるのか等、またそれだけコストかけてリターンはどれだけあるのか、色々と包括して私は今の規制派の意見じゃ全く割に合わないとしか思えない。
そんな必要はない、たわわは性犯罪を助長するからたわわは規制だなんてごり押しして特例の前例を作ってしまうと、後々誰がどうこの特例を悪用するか、一度でも特例の規制は作るべきではないと思う。ましてやたわわ程度のもので。
たわわも引っかかるラインでわかりやすいのは未成年描写はアウトだけど、創作物からあらゆる未成年描写を排他って、いかがですかね?
とりあえず、たわわ広告規制に反対する人へ表自戦士やらエロを守りたいだけやら馬鹿みたいな揶揄が飛んでますけど、上記を読んで貰えば分かる通り、反規制派なんてものじゃなくて、規制に然るべき理由とそのラインが腑に落ちるものであれば、大体の人は何が何でも規制に反対とかそんなんじゃないと思います。
トラベルシステムの魅力は、チャイルドシートのシート部分を外してベビーカーに装着できること。
車で移動中に赤ちゃんが寝てくれたとき、シートから下ろさずに、シートごと車の外に連れ出せるのが最大の魅力。
ものによってはバウンサー(首すわり前の赤ちゃんでももたれかかって座れるやつ)代わりにもなるから、家の中でも活躍できる。
と聞くといいこと尽くめに思えるが、そこまで普及してない理由はいくつかある。
・産まれた赤ちゃんがベビーカーに乗せると泣くタイプの子だった場合、やたら高いチャイルドシートになってしまう。
・寝たまま運べるというが、赤ちゃんは生後たった半年で6〜8kgになるのでシートの重量と合わせて結構な重さになる。それを揺らさず落とさず運べるか?親の筋力による。
ベビーカーが別なら赤ちゃんの重さだけ運べば良いが、トラベルシステムの場合、毎回その重さを持つことになる。
・上記を合わせると、軽くて運びやすいねんね期は便利だが、ベビーカーを不安がって泣く子が結構いる(結局抱っこする羽目になる)のでギャンブル。落ち着いて座れる頃には別ベビーカーの方が便利(軽くて使いやすくてオシャレで値段も安いベビーカーが沢山ある)
あと生後半年までは常に抱っこマンや24時間泣くタイプの場合、迷惑かけそうで出られないとか親に出かける体力がないとかの事情も。
そう、全ては産まれてくる赤ちゃんの気質次第なのだ。産まれるまで全くわからないし、子によって本当に千差万別だから。
でも、産院から退院する時に車に乗せるならチャイルドシートだけは先に買っておく必要がある。
トラベルシステムはどんなに泣いてもベビーカーで運ぶ覚悟があるか、ベビーカーで泣かずに寝れるタイプであることに賭けて勝てば大勝利。超便利だと思う。バウンサーも気に入れば家の中の居場所にもなって言うことなし。
「3人で生きていきたい」という文字があったので自分からアドバイス。
怒鳴るような喧嘩は毎日だし殴ったろうかと思ったことも何度もあるけど(自分は人生で暴力を一度も振るったことのないヒョロい人間です)、それでも多分ウチは軽い方なんだと思う。
最初は大変だった。
発達障害に対する偏見は自分の中にもあったしどう付き合っていけばいいのかひたすら悩んだ。
でも日々疲弊していく妻を見てこれはいかん、打開策を考えねばと気持ちを切り替えた。
で、こういうでかい問題が起きた場合、受容できるかどうかが全てってことに行きついた。
子供は〇歳になったらこれが出来て当然、夫婦はこんな関係性が当然、家族はこうあるべし。
ウチの奥さんの怒りや無力感はいろんな「普通」に縛られて、その枠から外れる不安から発生してた。
健常児でも発達障碍児でも千差万別で正解なんてないのにね。
だからその枠を壊す話し合いを徹底的にやった。
子供を立派に育てなくてもいい
別居してもいい
籍を抜いて同居してもいい
落ち着いたらまた結婚してもいい
役割を全うしなくてもいい
何年後には解散するチームと捉えてもいいし、子育てをお金がかかる趣味と割り切ってもいい
愛情をかけてもいい、かけなくてもいい
発達は遅くてもいい
ここまで壊して、それでもこのメンバーで家族を続けたいかって考えて、夫婦ともに同じ方向を向けたから今も家族でいられてる。
無意識に自分が当然と思っている思考の枠から離れてゼロベースで未来を考えられるか。
それが受容するってことかなと今は思ってます。
奥さんもいろんな「普通」をそぎ落としてそれでも「3人で」って考えられるなら、きっと再構築できるよ。
公的なカウンセリングも大事だけどウチで一番効果があったのは似たようなレベルの発達障害の子供の親との愚痴の言い合いをする場。できれば酒ありで。
みんな苦労してるし、3年、5年先はこうなるって実体験で言ってもらえるのがすっごく助かった。
「ウチもそれで悩んでたけど高学年になったらおさまった」って言葉に心底救われた(実際そうだった)。
なにより奥さんの顔が明るくなった。
読者の支持なんて千差万別だろ……
ネタとシャリの間にわさびが入ってる程度の寿司をたらふく食べたい。
いわゆる100円寿司各社がわさびを別添にするようになってどれほど経っただろう。
あれもそんなに嫌ってもないのだが、しかしわさびはネタとシャリの間にいてほしいし、ネタとシャリは横倒しにしても分離しない程度に握り固められていてほしいものである。
このささやかな願いに同調してくれる人は決して少なくないと信じているが、しかしこれを叶えることは存外容易でないものである。
百円寿司で一旦ネタを剥がしてわさびをつける戦略は思いの外満足度が低かった。
上記が叶う程度の回転寿司は採算がアレなのかコスパが良くなく、何よりレーンの中に板前が居たりしてコロナ禍において通いづらかった。
宅配寿司は1人前をなんとなく頼みづらかった。
持ち帰り寿司は最も理想に近かったが、ヘビロテすると飽きが来た。
ついでに言うと俺は今ほぼリモートワークなのだが、1人前の寿司を買いに日参するには絶妙に店舗立地が遠かった。
ここに至って俺は認めざるを得なかった。もはや自分の寿司は自分で握るしかない。
業務スーパーで冷凍のサクを買う。今日は寿司だと思い立ったら冷蔵庫で解凍し、白米を炊いてすし酢と合わせてええ感じに握る。これだ。これしかない。
今どきは便利なもので、寿司の握り方はyoutubeでいくらでも調べられた。
ちなみにこの過程で家庭向けの寿司を握る補助具的なものがないか調べたが、結果は芳しくなかった。
百円寿司のシャリ玉ロボットの人力版みたいなものはあったが、肝心のネタとシャリを一緒に握れる機能はなかったのだ。
アイスクリームスプーンのしゃもじ版みたいな奴は工夫次第でいけるんではと買ってみたが、逆に面倒だった。
とはいえはじめの数回は酷い出来だった。初めて作った寿司はずっしりと重く、太く、齧れるほどだった。
細くしてみたら底面が崩れて、自立しなくなった。
力を抜いて軽く握ったら形が整わず、あちこち米粒が飛び出した。
いい感じに出来たと思ったら握れておらず、箸で持つと折れた。寿司飯にして1.5合喰った。
もともと刺身はサクで買う主義だったので柳刃包丁は持っていた。しかしここでも問題が発生した。
狭いアパートでスーパーのサクを切るくらいしか想定していなかったので、柳刃と言いながら刃渡りが20cmしかなかったのだ。
平造りしかしないのであれば正直十分だった。だが寿司ネタを切りつけるには指四本よりもやや長い幅を切らねばならぬ。
我が家の包丁は三徳と出刃と柳の3本だったので、実はイワシや小アジを捌くのも多少不便だった。
なのでこの20cmの柳は片刃のペティというか小魚用の身卸というか、小刃でもつけて多目的に使うことにして、
9寸くらいの柳刃を追加しようと思った。しかしなかなか好みの包丁が見つからない。
あれは伝統的には朴の木で出来ていて、穴をくり抜いて口輪を付けて刃を挿すものだ。
口輪は経年で縮んで締まる水牛の角がいいとか、サビ防止に刃を挿す前によく熱して中を焼くとか、
あれこれあまり知られていないノウハウがあったりなかったりするものだが、これらは基本、その時代の工夫というものだ。
朴の木を使う理由にしたって、自然の木材の中では水に強いという程度のことでしかない。
耐水性の高いハンドル材がいくらでも選べ、ステンレス包丁なら中子が錆びる心配もない現代において、
敢えて朴の木に鋲もネジもなしに摩擦力で留めるだけの柄を使い続ける理由はなにもないと思うのだが、
何故か頑なに和包丁には朴の木のハンドルを使うというのが常識となっているようである。
しかもアレ大抵白木だから、魚の血や肝とか砥石の研ぎ汁とか付着した日には金たわしや最悪紙ヤスリなどで削るんである。
なんぼなんでも、あまりにも前時代的だと思うのだがなんとかならんか。
閑話休題、そういうわけで柄が積層材、鋲止めで刃はステンレスで口金もついて9寸の柳刃を探し回るのであるが、
これがまあ見つからないこと。なんとか探し当てても鋼材がなに使っているのか非公表だったりしてそれも気に入らない。
世の中にモリブデンバナジウム鋼と分類できる鋼材が一体何種類あると思っているのか。
まあ包丁問屋が日本鋼って鋼材がガチで在ると思い込んでいたりとかなくもないらしいのでその類なのやもしれぬ。ファック。
流石にそこまでいくとマニアックすぎないかと思われた向きもあるかもしれないが、これが結構実害があったりするんである。
例えばAmazonの検索アルゴリズムとか。「モリブデンバナジウム鋼」の包丁が合金鋼と表記されてるせいで(※間違ってはない)、
検索ページの絞り込みで「材質:ステンレス」にチェックを入れると表示されなくなったりとか、いざ遭遇すると割とびびる。
Amazon内で検索するのがマジで役に立たないので、色々辿ってメーカーのカタログから作ってることは確認した上で購入方法を
調べてみたらAmazonで普通に売ってた(でも検索からは出ない)とか、本当に勘弁してほしいものである。
包丁噺ついでにさらに脱線するが、和包丁の鋼への信仰心とでも言うべきものにも戸惑うものがある。
俺は趣味で切出しや肥後守とかも使うので炭素鋼の切れ味と扱いやすさは理解している。ついでにフライパンは鉄製に限る。
だが包丁についてはステンレスで統一する主義だ。たしかに差はある。他はまだしも出刃だけ(柳だけ)は鋼、と言う意見もわかる。
けれどそれは刃持ちに妥協できない業務用途に限った話ではあるまいか。
家庭用の包丁では、刃持ちを妥協して柔らかい鋼材を使う、と言う選択肢が取れるためだ。
正直な話、HRC56の謎ステンレスとHRC62の青紙だったら、ステンレスのほうが研ぎやすい。
粗悪な刃物だとカエリがペラペラしたりするのも知ってるが、今どきそこまで酷いのは中華の偽ブランドナイフくらいのものである。
わざわざ水気に弱いものを水に濡らして使うくらいなら、多少ヘタリが早くともステンレスを使ったほうが手間がないと俺は思う。
しかし、どうやらそういうのとは無関係に「鋼の包丁」という情報を食う連中がいるようで不気味なんである。
よくいる初心者には白2鋼おすすめ!などと勧める奴も、真に受けて購入した包丁を錆びさせる奴も大概アレであるが、そうではなく、
ちゃんと扱えたとしてもいらん苦労でしかないような怪しげな包丁をやけに目にするのである。
職人が手作りで仕上げた白2の包丁が必要な場面というのはもちろんあるであろう。
板長が本焼きを持っていることがステータスになる世界だってあって全然構わない。
だがこの異常に安い、4桁円で買えるが白1鋼という包丁は一体誰向けに作られているのだ…?
それはかけた手間に見合った性能を引き出せているか?ただ錆びたり柄が腐ったりするだけの包丁ではないか?
さて話を戻して、そうして多方面を呪いながら包丁を都合すると、道具の面ではもうあまり不足がない。
飯にすし酢をあわせるのにボウルでは不便だと思っていたが、これは代用できるものが見つかった。
どこでも手に入る土鍋である。市販の鍋セットをそのまま突っ込める大きめサイズを買っていたのが幸いした。
米自体を土鍋で炊くほど拘りはしない。炊飯器で炊いたのをお櫃代わりに鍋に移して酢と合わせる。おこげは寿司に出来ないのでこれでいい。
土鍋は保温については文句がない。調湿は流石に木の桶とは比べ物にならないが、ステンレスのボウルに比べれば水気を吸う。
むしろ木桶は水を吸いすぎるので事前に濡らしておくというくらいだから、土鍋でも十分なのではないかと思う。
そもそもシャリが一人分なのでそれほど乾く心配はしなくていい。何かの理由で台所を離れなければ行けない場合は
濡らしたペーパーを被せておいて、それでも足りなければ濡らして絞ったペーパーを直接触れない位置に置いておくとか、工夫次第である。
何より手入れに手間がいらないのが良い。ものにもよるが食洗機に突っ込むことだってできる。
ただ、冬場は冷えすぎるので事前に軽く温めたほうが良いみたいではあった。
自分で寿司を握ってみると、寿司というのは米料理なのだなぁと言う思いを強くする。
わかりやすいのは水分量の管理で、米を1合炊いてすし飯にした場合、最初と最後の1貫は米の状態が顕著に異なる。
米の状態を見て手につける手酢とかも調整していく必要がある。でないと米が手についたり寿司がベシャベシャになったりする。
反面ネタの方は自分で喰らう分には割と融通が効く。多少大きさが不揃いだろうと人に出さないなら問題ないし、
なんなら小さく切って1貫に二切れ使ったって良い。シャリはリカバリできない。
握りの技術については、未だにわからないことが多すぎて文章にできない。
ただ握り寿司にした米の総量でみて、大体1升を越えてくると、当初の目的であった
「ネタとシャリの間にわさびがあって、横倒しにしても分離しない程度の寿司」については達成できたと思う。
最初は量をこなさねばと思って一度に1合半とか2合とか炊いて喰っていたので、自宅寿司8回目とかでクリアした格好だ。
ただ本末転倒なことに、この達成水準の寿司は俺を満足させなかった。
何よりもわさびの風味が駄目だった。本わさび使用と大書された高級ラインでも、チューブわさびは寿司に向かないと知った。
わさびの味自体に問題があるというより、油脂などに由来する滑らかさが違和感の原因ではないかと思う。
脚を伸ばした遠いスーパーに本わさびのちょうどいい感じにすごく小さいやつが売ってはいたが、毎回それはしんどい。
いろいろ試したが未だ納得がいっていない。粉わさびを都度練ると良いらしいので次はそれを試すつもりだ。
ネタは切りつける上では自由でいいが、買ってくるときは悩ましいことが多い。
一貫分のネタの大きさは解説する人によって千差万別で、総合すると10g~15g、シャリの量は10~20g
ばらつきが大きすぎて正直参考にする気が起きない。
おそらく職人の技としては狙った大きさで握れることが要諦で、何グラムにするかと言うのは店舗経営の領域なのだろう。
歴史的には、江戸の屋台で売られてた頃はシャリだけで40gあってこれが右肩下がりで小さくなってるとか。
戦後の一時期に限れば米1合=10貫だったのでシャリは30~35gくらい(水分量による)だっただろうとか。
どっちかと言うと自宅寿司やる際に考えるのは、魚をサクで買うときに何グラム分買うかということである。
何度か試した限りだと、俺が適当に握る場合「端っこを除いて」200gの刺し身に米1合使っているっぽい。
そしてこれは多分、この比率は結構ネタが小さくて薄いパターンである。
よく商品画像的なもので見る、ネタの先端が地に付きそうな寿司を握ろうと思うと、ネタをかなり増やして考えないといけないと思う。
アジやイワシやその他の魚をまるまま買って捌く場合はまた考え方が変わる。
イナダを一匹買ってくれば小さいのでもデブ3人前くらいのネタが取れるので、下側の身は翌日塩焼きにでもしようか
みたいな悩み方をすることになる。
小さい魚の場合は魚体の身を2分割または4分割して考えることになる。
イワシなら手開きにして上身と下身それぞれ半分に切れば1尾から4貫取れるな、とか。
アジは血合い骨をいちいち処理したくないので、節を渡して半身から4貫取れればいいけど、そこまで大きくないならさてどうしよう、みたいな。
隠し包丁で骨を抜かずに切って済ませる、とかもあるみたいだがベストプラクティスは発見できていない。
何れにせよ、分量的にも予算的にも、何種類ものネタを一回で準備するのは難しい。
どうしてもやりたければ刺身の盛り合わせなどを買うことになるが、用途からして寿司ネタ用ではないのでいまいちである。
ただこれはバリエーションとクオリティの向上で克服できる課題だと考えている。
要は今日は寿司を食べよう、ではなく、今日はこれを握ろう、と考えるようにして、
その上で握った寿司の満足度が100円寿司の10皿を超えていれば良いのである。
あるいは冷凍庫に投資するのも一考の余地があるか。チルドで流通するサクを50gくらいに切り分けてからホームフリージングできれば理想ではある。
ただそこまで行くと引っ越すべきな気もしてくる。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/sci/1647778800/354-357
357ご冗談でしょう?名無しさん2022/03/28(月) 07:10:44.33ID:???
354へ
回答者が小卒。
小卒ってようは中学校の時点で学習内容がまるで理解できなくなってた劣等生だったみたいに言いたいんだろう。
でもそんな奴が曲がりなりにも専門用語使って知ったか回答するのかなあと。
成績で明確な格差が出始める中学では(もちろん公立)ではオール5かその手前ぐらいには優秀だったやつの方がコンプレックスこじらせて自分は今でも得意教科だけは誰よりも優秀なんだという自信過剰に陥りそうだ。それでネットで知ったか回答するようになると。
ホルンの元増田さんが追記で「ディスったつもりはない」と仰っておりますので、この議論に関してはこれ以上反論も補足もいたしません。
ただ一点、元増田さんには「あのような書き方をすれば尺八(またはマイナーな民族楽器全般)がディスられたと感じる読み手が私を含め一定数居る」ということだけはご認識いただきたいです。
それより私が驚いたのは、はてなの中でどのようなきっかけであれ尺八という楽器にここまで注目していただいたということです。
特に「面白い」「勉強になった」「尺八吹いてみたくなった」等のコメントは予想外で本当に涙が出るほど嬉しく、励みになりました。
これが元増田さんへのツッコミという形ではなく単発のエントリだったとしたら、たとえ同じ内容でもここまで反響を頂けなかったと思うのです。
こんなチャンスはもう二度と来ないと思うので、今回の件をきっかけに尺八に興味を持っていただいた方に向けて、もう少し書かせてください。
尺八がマイナーな楽器であることは十分承知していますが、少しでも楽器としての魅力をお伝えしたく、なるべく専門用語を使わずお伝えさせていただきます。
流派によって多少の違いがありますが、基本的にカタカナで縦書きに表記されます。
基本となる音は5種類で、順に「ロ、ツ、レ、チ、ハ(リ)」となっています。
このカタカナは音程ではなく指使いを表しています。ギターでいうところのTAB譜に近い表記です。ですので同じ音程でも指使いが違えば表記も変わりますし、逆に表記が同じでも尺八の長さが変われば出てくる音の高さも変わります。
音の種類は替え指や特殊奏法を全部カウントするとおよそ30種類です。殆ど全ての音が西洋音楽の12音に対応していますが、中には五線譜では表現できない替え指や特殊奏法もあります。
尺八の音域はおよそ2オクターブ半ですが、ホルンと同じく音域の高い音は正確に当てるのが難しいです。
しかも、高い音の中にたった一つだけ、なんと足(正確には太もも)を使わないと演奏できない音が存在するのです!足を使わなくても音自体は鳴ることは鳴るのですが、ピッチが上ずってしまい使い物にならないのです。
指使いや首振りだけではこのピッチのずれをカバーしきれないので、太ももで尺八最下部の息の出る穴を塞いでしまい、首振りのくだりでご説明した「開口端補正」を利用してピッチを適正な所まで下げているのです!
繰り返しになりますが、基本の尺八は指孔が5個しかありません。これによる最大のデメリットは「細かいパッセージが吹けない」ということです。
基本の音だけで構成されたパッセージなら吹けなくもないですが、半音や特殊音が混じってくると、かなり厳しいです。そう考えると5孔で平然とジャズを吹きこなすZac Zinger氏はマジで化け物です。
このデメリットを克服するために、指孔を増やした尺八が存在します。まとめて「多孔尺八」と呼んでいますが、メジャーなものは6孔と7孔で、多いもので9孔があります。
指孔が増えることで、本来であれば「首振り」や「指孔を少しだけ開ける」などの細かい動作を必要とする音も指孔の開閉だけで出すことが可能になります。
この多孔尺八を「邪道だ」と毛嫌いする奏者もいますが、私はこれにより尺八音楽の表現の幅が広がるのであれば良いのではないかと考えます。
プロの定義が曖昧なので何とも言えませんが、メディアに複数回登場したり、CDを出したり、定期的にリサイタルを開催している奏者に限定すれば、国内で100~150人くらいではないでしょうか。
最近活躍している若手プロはその多くが東京藝大の尺八科邦楽科尺八専攻出身です。https://hougaku.geidai.ac.jp/
そんな中、メディアへの登場頻度が図抜けて高い現役プロ尺八奏者が2人存在します。一人は「和楽器の貴公子」こと藤原道山氏、もう一人は「美人すぎる尺八奏者」こと辻本好美氏です。
辻本好美氏の演奏は、実は某テレビ番組で毎週必ず、それも何回も使われています。正解は以下の動画の1:55あたりから。
https://www.youtube.com/watch?v=2NfBpCQ5VYQ
お二人とも人気実力ともに申し分ないですが、私が個人的に一番好きなプロ尺八奏者は小湊昭尚氏です。彼の演奏がきっかけで尺八の世界に興味を持ったと言っても過言ではありません。
小湊さんがYOASOBIの「夜に駆ける」を尺八でカバーした動画は超絶オススメなので是非皆さんにご覧いただきたいです。先ほど紹介した「足を使わないと出せない音」や「首振り」も速いパッセージの中でバンバン使っていて、言葉がありません。
https://www.youtube.com/watch?v=LI0nzOKtTuk
尺八と聞いて多くの方がイメージされる「ブヒョ〜」という荒々しい音ですが、あれは口腔内や唇の形状を変えることで敢えて乱気流を発生させ雑音を含ませていて、専門用語で「ムラ息」と呼んでいます。
やり方は奏者によって様々ですが、基本的には舌の先端を下の歯の付け根あたりに巻き込んで通常より強めの息で吹き込むことで鳴らすことができます。
このムラ息、曲中であまり多用しすぎるとうるさい演奏になってしまいますので、ベースは綺麗な音で演奏し、ここぞという時に使用しています。ちなみに上記紹介の「夜に駆ける」動画の中では3:06あたりで使用されています。
本当はもっともっとお伝えしたいことがあるのですが、長すぎると逆に興ざめになってしまいそうなのでここまでにします。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。
尺八に関する質問があればトラバやブコメにお寄せください!可能な限り追記で回答いたしますので。
2/26 追記
皆様ありがとうござます。これまでに頂いたブコメからいくつか回答いたします。
兎にも角にもまず楽器が無いと始まらないのですが、これには明確な回答がございます。
ズバリ、「プラスチック尺八 悠」の一択です。初心者用の尺八としてはこれ以外の選択肢は無いと言っていいでしょう。価格は約16,000円です(昔はもうちょっと安かったんだけどなぁ…)。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00P2FXKRS/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_VR20JYRNZ0YEQJ2QWS28
ヤフオクやメルカリなどで中古の竹製尺八が売られていますが、初心者には高確率で地雷となりますので絶対に手を出さないでください。実家の押入れに眠っていた尺八も避けた方が無難です。
理由として、竹製は太さがまちまちで本人の口に合わない場合があること、手入れがされておらず割れていたり調律されていない場合があること、作者がわからないのでクオリティが玉石混淆なこと、などが挙げられます。
その点「プラスチック尺八 悠」はその名の通りプラスチック製なので太さ、仕上がりが均一で、乾燥などによって割れる心配がなく、プロ尺八奏者による監修もされております。
もし竹製の尺八が欲しくなっても絶対に一人判断して買わず、信頼できる師匠、尺八奏者、製管師と一緒に選んでください。
尺八選びを間違えたために最初の段階でつまづき、「私には無理だ」「やっぱり尺八は難しい」と思い込んでリタイヤする人の何と多いことか。残念でなりません。
楽器以外に必要なのは譜面台、チューナー、露切り(管楽器でいうところのスワブ)、テキストくらいでしょうか。
譜面台は尺八用をお勧めします。蛇腹式で横に広がるので主に縦書きの尺八用楽譜を置くのに適しています。
https://www.amazon.co.jp/dp/B000WMCB94/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_HKHG69Q886CJS94SFZAP
チューナーは一般的なものであれば何でも構いません。スマホのアプリでも大丈夫です。
露切りは購入すれば間違いないですが、自作で手ぬぐいやハンカチに紐とおもりを結びつけた物でも大丈夫です。
練習後に露切りで尺八内部に付着した水分を拭き取って終わりです。簡単ですね。これも尺八の魅力です。
不可能とは言いませんが、できれば信頼できる尺八奏者から直に教わってほしいですね。
オンラインレッスンを開講しているプロ奏者も何人かいらっしゃいます。レッスン料は講師によって千差万別です。
各流派の師範などの肩書を持った方もいらっしゃいますが、師範=プロではないので注意して下さい。実際にその人の演奏を聴いたり体験レッスンを受けたうえで決めた方が良いでしょう。
最近はプロ奏者がYoutubeで解説してくれている動画もありますので参考になるかと思います。
https://www.youtube.com/channel/UCzD1bRWJ6o9ECnHRUVGctMw/videos
初心者用のテキストですが、個人的なオススメは「鳴るほどザ尺八」です。
https://www.amazon.co.jp/dp/4991014433/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_Q2V39NSKQTAXAGBANXCG
著者の菅原久仁義氏は現役のトッププロ奏者で、多くの若手プロ奏者を育成した実績もお持ちです。
もしあなたが大学生であれば、「和楽器サークル」または「尺八サークル」に入会してください。懇切丁寧に教えてくれるはずです。
もし自分の通う大学にそうしたサークルが存在しない場合、近所の大学のサークルに相談するのも手です。
社会人になってから尺八に出会った私としては、同年代が集まって切磋琢磨できる環境と練習時間がある大学生が羨ましくて羨ましくて仕方ありません。
一緒に練習できる仲間って、本当にかけがえのない存在です。小中高の吹奏楽部での経験があるからこそ、尚更そう思います。
ホルンの知名度のくだりでも少し話題になりましたが、国内唯一の和楽器専門誌「邦楽ジャーナル」によれば、現在の尺八人口は国内におよそ2万人とのことです。
他の楽器の人口がわからないので、この数字が多いのか少ないのか、私には判断できません。詳しい方いらっしゃいましたら教えてください。
ご想像の通り、曲の調や音域に合わせて随時最適な尺八を選択しているからです。そのため、曲の中で転調があると動画のような持ち替えが発生します。
尺八は一寸刻みで長さの違うものがあり、一寸長くなると出る音が全体的に半音低くなります。
最も一般的な長さは一尺八寸(D管)で、次いで良く使われるのは一尺六寸(E管)、二尺三寸(A管)となります。
ちなみにこの「一尺八寸」が「尺八」という名の由来になっているといわれています(諸説あり)。
そうです。大甲のツです。
「夜に駆ける」動画では結構な頻度で使われていましたがこれは極めてレアケースで、通常の曲で使われることはほぼ無いのでご安心ください。
尺八が合奏用の「楽器」として使われ始めたのは明治時代以降で、それまでは禅宗の一派である普化宗の虚無僧が修行の一環として使う「法器」でした。
そのため、他の楽器と合奏することが禁じられていたのが原因と思われます。事実、虚無僧が吹いていた曲はそのほぼ全てが独奏曲となっております。
箏と三味線と尺八が合奏する曲がありますが、あの編成が成立したのも明治以降で、それ以前は胡弓という楽器が今の尺八のパートを担っておりました。
さらに、当時の尺八は現代の尺八とは違い管の内部が漆で整えられておらず細かい凹凸があったため、音程や音量が不安定でそもそも合奏に不向きだったことも原因かもしれません。
人は暇をどうやって潰すのか。
趣味だろうか
SNSだろうか
寝るんだろうか
食べるんだろうか
散歩だろうか
買い物だろうか
友人と話したり遊びに行ったり電話したりもある。
暇なときの時間の潰し方は千差万別ながら大概の場合は自分という範囲で閉じるか、合意を取った他者とつぶすアイデアを共有するように見える。
最近気が付いたのだけど、暇になると人に迷惑をかける人というのがいるようだ。
自分では暇をつぶすことができないから他者で暇をつぶす、その時他者との間には暇をつぶすことについての合意が全く存在しない。相手が忙しかろうが何だろうがお構いなしだ。
子供のころだと退屈なので大騒ぎしたりほかの子にちょっかいかけたりして授業妨害に走る子供というやつがそれかもしれない。
仕事だとどう考えても不要な報告を足す上司がそれかもしれない。
こういう人たちに共通しているのは、人を使って暇をつぶすということに何の疑問も持っていないということだ。
もっと言うならば「お前が私の暇をつぶす何かを出せ」ということを正当な権利位に認識しているといってもいい。
だがこういうのは成長と共に薄れていくと思っている。
子供のうちは結構ある、大人になっても多少はあるが成長と共にそれはすべきではない、コントロールすべき感情だということに自然に気づく。
だが全く気付かない人もいるばかりか指摘してくれる人に攻撃してまで守ろうとする人もいたりする。
なんでなんだろうか
誰も彼もが「推し」という言葉を使う中、いにしえのオタクたる私はどうしても「推し」という言葉を自分のものとできない。
他人が「このキャラ推し」「推し俳優出てるから観てほしい」などというのは問題なく、
それでも自分の好きな人や物について「推し」とは言いたくなかった。
なんでかなーと思っていたが、
好き、ならばその形は千差万別だ。
好きだと公言してもしなくても、
金を遣っても遣わなくても、
心のなかでこっそりと愛でるのでも、
いつもは忘れていて時々思い返すのでも、
それはひとそれぞれの「好き」の形だ。
けれど「推し」となると、途端に行動を迫られる気がする。
何かを好きだとてらいなく言える人のところには、その対象の情報が集まるし、行動を伴う趣味はきっとポジティブな影響を巻き起こすだろう。
ひっそりと本や漫画を買い噛みしめるように幾度も読む、好きなアルバムを歌詞カードが擦り切れるほど聞き返す、
たとえば作者や役者本人に影響を及ぼしたいなんて思わない。
そういう行動はもちろんとるけれど、
好きだからだ。
私は趣味においては私を喜ばせるためにだけ行動したい。
好きな人はたくさんいる。
充分not for meで済む事だと思います
対象が特定個人でもない限り、広義的な言葉を当事者だなんてnot for meな人達で全て担うのはそれこそ無理があるしただの傲慢だと思います
これまでも、ゾーニングやnot for meでこの世は成り立ってきた。
それでもまだまだ足りなくて、訴えは出るだろうけど、これからも、ゾーニングやnot for meでバランスとっていけば充分じゃん。
なぜそれを他人が欲しがるかなんて、なぜ楽しいかなんて、なぜ不快なのかと一緒で当たり前に千差万別で、いちいち理由わかるわけないじゃん。
けども、理解できないものを、一方的な主張で無理やり誰かの楽しみを失くしてしまうような非人権的な事象を是としたくない、それが現代の文化だと次世代へ遺したくない。
私はそれがあると生きづらいから、不快だからと弱者出されたところで、人間誰しも角度違えば皆弱者なの当たり前じゃん。
それで皆差し違えたら何もなくなるのが当然の理。
いや、アイツは絶対的強者だなんてあり得ないからね、それをフラットに考えてこそ人権でしょ。
それでも世の中は、ゾーニングやnot for meで誰かの楽しみと弱者への配慮を両面擦り合わせながら成り立ってきた。
これからもそれで地道に発展していくで充分じゃん。
私は意見を言っただけ、業者が勝手に販売停止を決定した、なんて言うのも防ぎたい。
批判するし文句も言うけど、コンテンツの提供自体は守るで良いじゃん。
むしろ自分達の意見で対象物が消えてなくなるなら何も言いたくなくなるよ。
そして無理やりコンテンツを消していってる現在のキャンセルカルチャーは、その強引さから世を分断し過ぎてる。
話を理解していないようだけど
「なぜ気になるのか」が大事なんだよ
例えばお金がほしいという人がいて、なぜお金が欲しいのかと聞いたとしよう。それは貨幣や紙幣を単に集めたかったり残額を増やしたいという欲求なのか、あるいは家やバイクを買いたいという欲求なのか、借金に苦しむ両親を救いたいという願望なのか。
そうしたら「お金がほしいから」と返ってきた。ならそれは単にお金を所有したいだけということになり、なぜ所有したいかが問題になる。
少なくとも君の考えは「知識としてもっておきたい」だけだよね。だとしたらなぜ知識として蓄えたいの?他人の心情を論理的な理由で納得するなんて不可能とわかっているのに。
「不快だ」という表明は自由にしたらいい。我慢する必要はない。どしどしやればいい。
私企業はマーケティングの問題を無視できないだろうし、公共機関が不快感の蓄積を見て配慮が必要だとする判断もありうるだろう。
問題となるのはそれを不快感の表明にとどまらず、広告が「性差別」のバリエーションだとする批判に踏み込んだ場合だ。
性的搾取とか性的モノ化とか性犯罪を誘発とか性犯罪と地続きとか。
これらは見逃すことができない。
ただし、ある表現が「性差別である」と認定された場合、いくらゾーニングされればOKと言われようが、表現としては決定的なスティグマを刻印されることになる。
そのことを踏まえて、もしその広告が性差別のバリエーションだという主張をするならば、
「性差別である=誰かの人権が侵害されているという十分なエビデンスをもとに、慎重に判断してくれよ」
という慎ましい要求をしているだけなんだ。
本当に誰かが搾取されているのか、モノ化は誰かの人権を損ねるものなのか、本当に性犯罪は助長されるのか。
【追記】
というコメントを見かけて。
「公共の福祉」は、「◯◯の自由」といった人権が制限を受けるのは、唯一その自由権の行使が別の人権を侵害している時に限る、というものなので、ちょっとイメージされてるものは違うんじゃないかな。
で、表現規制の問題こそ、この「公共の福祉」が適用されるべきだと思うのだけど。
「石に泳ぐ魚」事件は表現の自由とプライバシー権の相剋だけど、発想としては萌え絵も同じだと思うんだよね。
【追記2】
歴史的に見れば、「萌え」の起源はポルノグラフィである、と見るべき。この前提を否定しないまま議論を進めても、いずれ「性差別」の論点は避けられなくなる。
私の主張は、「本当に性差別であるかどうか慎重に問え」なんだから、最初から「性差別」は論点ではあるけど…。
よく分からないけど、萌え絵の起源がポルノグラフィだから、個別の絵柄はどうあれ性差別に相当するって意味?そんな雑な議論ある?
萌え絵っつったって千差万別(何でこんな当たり前のことを言わねばならんのだ)なんだから、萌え絵の起源がどうとか、全く関係ないでしょう。
性的搾取とか性的モノ化とか性犯罪を誘発とか性犯罪と地続きとかは、全て批判側が言ってるんですよ?
そう主張するなら言いっぱなしでなく、それをきちんと証明しなさいよ、という当たり前の話じゃないですか。
【追記3】
で、不快感の表明は好きにすればいいって言ってるの。
何でこんなことも読み取れないかなあ。
繰り返すと、不快感の表明に留まらず、ある表現を「性差別」であると踏み込んで批判するなら、そう主張する側が相応の論拠を示せと言ってるの。
https://anond.hatelabo.jp/20211213182433
上の記事を読んだので、書いてみることにした。
身バレしても困るし(しないだろうけど)、当方、アメリカと日本それぞれの教育機関でそれなりの経験ありとする。
こういうことを書くと出羽守みたいになるから普段はできるだけしないようにしているけど、はてな村の皆様の意見をもう少し聞いてみたいと純粋に思ったので書くことにしました。
以下前提として、アメリカの学校の様子しか知らないので、全てアメリカとだけの比較で語っています。
日本の学校は校則も含めて、アメリカと比べると軍隊みたいだし、北朝鮮的であると私も思います。もちろんアメリカの学校も様々ですが。
じゃあ私が今日本の学校で先生側にいて、校則をどんどんなくそうと声を上げているかというと、上げていません。
私がいた、あるいは見聞きしたアメリカの学校には校則はだいたいありませんでした。私学だと制服があるところもありますが、ごく少数派ではないでしょうか。
高校などでは、ドラッグや銃、刃物といった犯罪系のものはもちろん禁止で、あとはギャングにまつわるもの、ギャングを連想させるようなファッション等は禁止といった程度でした。
服はもちろん自由だし、髪をそめてもよく、ピアスも舌ピや鼻ピも全然オッケーで、タトゥーも全然ありました。というか、例えばオセアニア地域にルーツを持つ生徒だと、タトゥーを入れるのが文化であるので、普通に入れています。ディズニーのモアナの登場人物を思い浮かべてもらえればだいたいあの感じです。
多様さを尊重するのがポリティカリーコレクトですから、そのような生徒のタトゥーを指導するなんて言語道断です。文化を尊重するのが当然です。
髪をレインボーに染めている生徒もいます。これはLGBTQ+を背景とした場合も多いので、当然尊重します。
これらの生徒の容姿を指導するなんてことは、許されるでしょうか?
許されないでしょう。
こうした生徒は、日本の社会において果たしてどれくらい許容されるでしょうか。
駅や、公園や、ファミレスや、分かりませんがそのへんのいろんなところに、タトゥーを入れた生徒や髪をいろんな色に染めた生徒や、ピアスをした生徒やいろんなファッションをした生徒が中高生として歩いているときに、どれくらい日本の今の社会はそれに耐えられるでしょうか。
私はかなり疑問です。
もちろん、上記のような生徒のバックグラウンドがわかる場合には、ちゃんと許容できる人も多いと思います。たとえば、ああ、この生徒はオセアニアにバックグラウンドがあるからあのタトゥーをいれているんだな、ちゃんとしたルーツに基づいたものなんだな、とか、この子はおそらく性的マイノリティだからこういうスタイルなんだ、とちゃんとわかれば、許容できる人も多いでしょう。
しかし、生徒は本当に多様です。そのように、「ちゃんと」わかるような子だけではありません。また、ぱっとみで「ちゃんと」しているように見える子だけではありません。どこまでが、たとえば「ちゃんと」オセアニアにバックグラウンドを持っていると判断できるのか、どこまでが、たとえば「ちゃんと」性的マイノリティの当事者であるといえるのか、そんなクリアな線引きは存在しません。
君のバックグラウンドは「ちゃんと」したものだから、君にはそのスタイルを認めよう、しかし君のバックグラウンドはそれ「ちゃんと」したものじゃないよそれ、自称だろそれ、そんな物言いが許されるでしょうか? 許されるわけがありません。
いや、そんな0か100かの子供じみた極論ではなくて、ケースバイケースで丁寧にやっていけばいいんだという意見もあるかもしれません。しかしそれこそが理想論です。
なぜなら、こっちの生徒は「正統な」理由を持っているのでかくかくしかじかの身なりを認めて、こっちの生徒の理由は「正統」ではないのでその身なりは認めない、こんなことを1から100まで全部やっていられるはずがないのです。そんなことは理路をきちんと通そうと思えば無理です。
いや、実際校則がなくうまくいっている学校も日本にあるじゃないか、という意見もあるかもしれません。しかしよく見てください。全てとは言いません。しかしその多くは、本当に多くは、いわゆる賢い学校なのです。地域でも、あの学校は進学校で難しくてすごい子が集まっている、と認識されている学校がほとんどです。だから、ほとんどの場合、そうした学校の生徒は一線を踏み外すことはありません。地域の人たちから眉をひそめられて、学校を十把一絡げにあの高校は厄介でひどいやつらだと後ろ指さされるほど集団で間違ったことはしません。たとえびっくりするようなファッションをしていても、でもあの子は賢いんだよねと地域の人も思うし、実際その期待を大きくは裏切らない行動の範囲にとどまるものなのです。
校則がなくてうまくいっている学校というのは、校則がなくても「ちゃんと」した行動ができる生徒たちがいる学校なのです。
私も日本で先生をしていますから、なぜこれがだめなんですかと生徒から聞かれることがあります。あるいは直接そういうふうに聞かれなくても、なぜなのかとお互い思いながら生徒指導をしているなと感じる場面はあります。はっきりとブラック校則とまではいえなくても、これはまあ理詰めで生徒から聞かれたら最終的にはなぜダメなのか答えるのは苦しいよなぁと思うことは多々あります。
しかし、じゃあこれをやめましょう、これをやめましょう、というふうに話をもっていくかというと、私はしないです。
なぜか。
そんなことを言い出したら、学校が「このスタイルはだめ」などと言える理由は、理詰めでいけば無いからです。実際、アメリカの上記のような学校ではそんなルールはありません。無理が出るからです。
日本の学校に今ある校則を一つずつ撤廃していった場合、どこかで、ここまでは撤廃だけどここからは残すわ、となります。じゃあ、なぜここまでは撤廃してここからは撤廃しないんですか、ここの線引きには根拠があるんですかと聞かれたら、最終的にはそんな絶対的な根拠はないでしょう。法律に違反でもしていない限り。しかもその、ここまではオッケーでここからはだめでしょという線引きは、人によって違うのです。先生によっても違う、保護者によっても違う、地域の大人によっても十人十色です。万人が合意できる、ここ、というラインは存在しないのです。
ですから、校則を撤廃していくというのは、非常に難しく、また不毛な作業なのです。不毛というのは、議論したところで簡単に結論が出ないのです。
職員会議で話し合うとしても、先生によっても全員そのライン、感覚は違うし、地域の大人、日本の社会に生きる大人たちの感覚を想像しそれを折り込みながら議論すれば、それこそ千差万別すぎてラインはそう簡単に設定できないのです。結論がでません。そういう意味でその議論は不毛なのです。
結果、どうなるか。
校則を変えようという議論は、非常に保守的で、非常に遅々としたものになります。
つまり、これはもう誰がどう見ても、誰がどう考えても時代遅れでおかしくて、撤廃するのが当然だという結論が明らかだろう、地域や社会の誰がみてもまあ撤廃で納得できるだろう、という、一番おかしいものから、やっと撤廃されていくのです。それより先は、上記のような不毛な結論のないところにのみこまれていくことが目に見えているので、先生たちも誰も積極的にどんどん変えていこうとならないのです。そんなことに日常の限られた時間を際限なく費やしていくわけにはいかないのです。
ですから、ブラック校則ということが声高に世間で言われ始めたのはとてもよいことだと思います。
しかし、私はいつもブラック校則という言葉を聞くたびにおもうのです。
それをいうなら、なぜタトゥーはだめなんでしょうか? もちろん、日本には刺青という西洋とは異なる文脈を持った文化があることは承知しています。しかしでは、オセアニアをバックグラウンドにもってルーツに誇りをもって文化としてタトゥーを入れている生徒がでてきたとしたら、それも禁止したり指導したりするんでしょうか?私は当然認めたいと思います。じゃあ、オセアニアにバックグランドがあるんだと主張してタトゥーを入れた生徒がいたとして、それが疑わしい場合、ルーツを証明するようなことを迫るのでしょうか。そんなことは人権的に許されない。オセアニア以外にも様々な理由で、おそらく私たちが思ってもみなかった理由でタトゥーをいれたり、タトゥー以外にもいろんなスタイルを求める人が現れるでしょう。そのどれを認めて、どれをおかしいとするのか。そんなことを最終的に誰が決められるのか。
そんなことを考え出すと、旧態依然とした、すでにある校則でそのままいきつつ、絶対におかしいとなったことについて対応していく、ということしか、なかなかできなくなってしまうのです。
書き忘れましたが、日本でも定時制の高校では制服などはありません。校則が基本的にないところも多いです。これは、働いている生徒も多いし、そもそも制服だのなんだの校則を作ったところで運用が難しいという背景もあります。
しかし、これは非常に問題のある発言になることを承知でいいますが、そうした学校の多くは、地域のある一定の人たちからは、後ろ指さされていたり白眼視されていたりすることが少なくないでしょう。私もそうした高校で勤務していたことがあります。日常的に苦情の電話が入って、現場にいって謝ったり対応したりしていました。一生懸命やっている生徒たちに対して、心無い言葉を投げられたことも何度もありました。生徒たちの容姿のことを言われたこともあります。確かに例えば女生徒がものすごいミニスカートを履いていたりもします。しかし、それが何だというのでしょうか? でもそれは、そのこのことをよく知っている教員だから思うことであって、見知らぬ人からすれば違う見方をしてしまうのも無理のないことだと思います。
そうしたトラブルは、多少しんどい学校であっても校則で制服も含めきっちりおさえてかためているところでは、少ないのも事実なのです。
お米は見かけも中身も千差万別。
日本人が見慣れたジャポニカ米も、他の品種と比べるとかなり特徴があります。まず米つぶがずんぐりとラグビーボールのような形をしているので短粒種と呼ばれます。これに対してインディカ米はもっと細長い形なので長粒種と呼ばれます。ジャバニカ米はさらに大きいので中粒種と言われます。
見かけだけでなく調理した時の味にも品種によって大きな違いがあります。ジャポニカ米は炊いたり蒸したりすると、粘り気が出てふっくらとおいしく食べられます。日本人が大好きな白い「ごはん」はジャポニカ米の特徴を生かした食べ方です。インディカ米はよく知られているようにチャーハンやカレーに合うパラパラした食感が特徴です。炊くよりは煮るほうがおいしく食べられるようです。
お米の種類と適した料理
ジャバニカ米も熱を加えると粘り気が出ますが、ジャポニカ米ほどではありません。そのためリゾットやパエリアにするとおいしいお米といえます。
粘り気とパラパラ感に差が出るのは、品種によって米つぶに含まれるでんぷん成分に違いがあるからです。
粘りを出すアミロペクチンとパラパラ感を出すアミロースという2種のデンプンの含有量によって熱を加えた後の食感がかわります。
日本人が多く口にするジャポニカ米のうるち米ではアミロペクチン約80%に対してアミロースは約20%です。粘り気が持ち味のもち米ではアミロペクチンが100%です。これに対してインディカ米のアミロース含有量は22~28%ですから、ジャポニカ米よりもパラパラ感が強くなるわけです。
栽培される土地の気候や土壌によってお米の品種ごとの特徴が形作られ、やがて食べる人たちの好みや料理に大きな差が生まれてくる。お米という穀物はとても奥深い食べ物と言えるかもしれませんね。