はてなキーワード: 用法とは
すべからく自警団です。すべからくは「すべからく〜べし」の用法で用い、「当然〜すべきだ」という意味です。すべて、という意味ではありません。用法を正しく守っていただけますようお願いいたします。
この批判がまさにそうなのだが、どうもわれわれ日本人は「ChatGPTが一番苦手なこと(≒自分が知らないことを教えてもらう)にChatGPTを使おうとする」という傾向があるらしい。日本の経営者に聞いたChatGPTの使い道のアンケートでは、「仕事で調べものをする時に活用する」が39.3%でトップだ。これが米国の職場でのChatGPT利用法の調査だと、上から順に、
となっていて、情報検索や調べもののタスクは上位5位に入っていない。総じて米国の働き手は、ChatGPTを自分に情報をインプットするためのツールではなく、自分が他人に情報をアウトプットするためのツールととらえている。
深津氏も折に触れて言っていることだが、生成AIは元々「文章の続きを書くAI」であり、それがスケーリング則によって多くの拡張的能力を獲得したものだ。だから一番得意なのは、「プロンプトで与えたテキストを指示通りに加工すること」(校正・要約・分類・翻訳など)と「プロンプトで与えた指示によって、新たにテキストを作り出すこと」(作文・提案・問題作成・コード作成・ロールプレイなど)だ。元々そのようなことを実行するための仕組みなのだから、ここがスイートスポットになるのは当たり前だ。少し触ってみて、何ならうまくいくのか、何だとうまくいかないかを自分なりに検証して結果を見れば、今のChatGPTはテキスト加工器・テキスト生成器として使うのが一番いいということがすぐわかるはずだ。増田自身も
と書いている。その通り。そこが一番使える用途なのだ。つまり元増田も、体感的にはそれがChatGPTの一番得意なことで、情報検索は不得手だとわかっているのに、不得意なことをバリバリやらせて、その結果に失望している。GPT-3やGPT-4は「2021年9月以後の情報は持たない」と折に触れて回答してくるのにも関わらず、生成AIのハルシネーション問題がこれだけ広く注意喚起されているのにも関わらず、それを調べものに使って勝手にガッカリしているのである。
これは元増田だけではない。自分の周囲にも、同じことをやって同じようにガッカリしている連中がたくさんいる。おれは、これが日本人が文化的・歴史的に〈ファンタジーとしての汎用人工知能(AGI)〉に馴染みがありすぎるせいなのではないかと思っている。自律思考型のロボットやアンドロイドが登場する数々の創作に触れ続けたことで、我々には「思考能力を持つ、優れたAI」というものの存在が、脳内に〈リアリティある未来〉としてインストールされている。だから、おれたち日本人は、「AIと対話的なテキストコミュニケーションができる」となった瞬間、その対象に一定の知性を仮定してしまう(これはもちろん、ANI(特化型人工知能)にすぎない今の基盤モデルに対しては、高すぎる期待だ)。そして自分の知りたいことを問いかけては、的外れな答えが返ってくることに失望し嫌悪する。これは「知性のようなものが、実際はそうでなかった」ことに対する、一種の「不気味の谷」反応だ。
上のサーベイで取り上げたアメリカ人のChatGPTの使い方を見ると、彼らが全くそんな幻想を持っていないのがわかる。これはキリスト教圏における、おそらくは宗教的タブーに紐づいた、人間/非人間のあいだに設定された懸隔の大きさと無縁ではないだろう。彼らは、人間以外の存在には軽々しく知性を見出さず、あくまで〈道具として〉ChatGPTを使役する。だから回答の正否を自分で判断できないようなことは聞かない。テキストの加工器として、あるいはアイディアの生成器として使うだけだ。生成された結果の善し悪しは自分が評価し、使うか使わないかを判断すればよい。そういう道具を使って、作業時間を大幅に短縮しつつアウトプットを仕上げる。そのような使い方が、今のところはChatGPTや生成AIの用法のベストプラクティスということになるだろう。
そのことは、マイクロソフトの365 Copilot実装のデモ動画を見てもわかる。スピーカーは、人間が操縦士であり、Copilot(GPT-4ベースのChatGPTの兄弟)はその名の通り副操縦士だとして、両者の主従関係を繰り返しアピールする。Copilotは忠実な僕として、人間がプロンプトで指示したことをやる。娘の卒業パーティのために会場の予約メールから情報を抽出し、友人達に送る招待メールの文面を書き、OneDriveから写真を引っ張り出して、指定したトーン&マナーでパワポを作成し、画像を生成し、アニメをつける。Wordでスピーチの文案を作らせ、みんなから戻ってきたエピソードを適度に切り貼りさせる。あるいは職場で、商談相手に向けたWordドキュメントを補完させ、それをPowerPointにコンバートさせる。Excelで昨期の売上低下要因について考えられる候補をいくつか出させ、そのひとつを掘り下げて分析させ、ボトルネック要素を改善した場合の予測をさせる。
これだけてんこ盛りのタスクショーケースの中に、「ローカル側にデータが存在しないことに関する情報検索・調べもの」が入っていないのがわかるだろうか。つまり、生成AIというのはそういう使い方をするものではない、という話なのだ。
確かにBingは出典リンク付きで答を返してくるが、これはGPTのような基盤モデルにとってはあくまで余技の類だ。本来一番得意な「生成」の能力を制約しつつ、リアルタイムブラウジングの機能を持たせた結果、何とかそのように動作するのであって、逆にBingやperplexity.aiはテキスト生成・加工がめちゃくちゃ苦手だ。つまり「正確な情報を返すこと」と「新たなコンテンツを生成すること」は、現状の生成AIにおいては相反する要請だ。どちらかを重視するなら、それが得意なAIにやらせればよい。
ChatGPTを調べものに使って文句を言うやつは、裁ちばさみで鼻毛を切ろうとしていることに気がついてほしい。とにかくおれたちはアトム幻想を一旦捨てなければならない。生成AIは、知性ではなく道具だ。道具だから、お前が使った通りに動作する。動作結果に不満があるなら、用途が間違っているか、指示が間違っているか、その両方だ。
この記事の主旨は「ウクライナのゼレンスキー大統領のパーカーは略式軍服である」ということではない。
あくまで「略式軍服という日本語はなかった」「一年ほど前から急に現れた言葉だ」という誤認を訂正したいだけである。
「略式軍服」という言葉の使用例は、国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索では33件 - 法華狼の日記
どう見ても定着した言葉や概念ではない。ほとんどが翻訳で採用された言葉だったり、あくまで「略式の軍服」という意味の表現にすぎない。同一作品の重複も多い。
法華狼氏のエントリでは近年の用例はないとされているが、実際にはそうした用例は存在する。
枯野瑛『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』
あえて翻訳は除外したが、日本人作家の商業作品に限定してもこうしていくつかの使用例がある。
池波正太郎以外は、2000年ごろから2020年までに刊行された新しい書籍である。
もちろん10件足らずでは「定着していた」とまでは言えない。
しかし「用例がまったく無いわけではない」ということはわかるはずだ。
「用例」の存在を確認したところで、次は「用法」の確認をしたい。
国立国会図書館デジタルコレクションで「略式軍服」を検索すると、1940年発行の岡倉由三郎編『新英和大辞典』がヒットし、以下のような項目を見つけることができる。
tu'-nic [tjúːnɪk] n. 1) 〘古代ギリシャ・ローマ〙襦袢, 肌着, シャチ; 2) 一種の陣羽織; 3)(現代婦人の用ひる)腰部緊着上衣; 4) 〘俗〙密着短上衣, 略式軍服(又は, 警官服); 5)〘解・動〙被膜, 膜(=integument); 7)〘植〙膜質外皮, 種皮(=husuk). [OF tunique, < L tunica]
つまり辞書レベルで「略式軍服」は「(軍服の)チュニック」の訳語だったのである。
これは法華狼氏が「ほとんどが翻訳で採用された言葉だった」と書いているのにもつながる。
実際に、国立国会図書館デジタルコレクションで読めるいくつかの翻訳書籍の原文を確認してみると、
エリック・アンブラー著・宇野利泰訳『真昼の翳』(1963年)
He stood up, as if to end the discussion, and smoothed down the front of his tunic.
when he came back he looked lovely in his uniform, with all those pretty ribbons on his tunic,
コーネリアス・ライアン著・木村忠雄訳『ヒトラー最後の戦闘』(1966年)
Golbov took out of his tunic pocket a folded copy of the newspaper Red Star
用例が少ないために「それが定訳だった」とまでは言えないかもしれないが、「チュニックを略式軍服と訳していた」ということの証左にはなっていると思う。
窃盗罪にいう窃盗とは、窃取するという意味と観念されており、判例で、窃取とは、様々な意味が言われているが、権利者の意思を排除して物をその経済的用法に従い利用処分する意思
など色々言われている。自動車を4時間乗り回した事案について、自動車を4時間乗り回せばそのガソリンなどが減るから、事例判断として、上記の意思があったと認定される。
逆に自転車はいくら乗り回しても経済的に利用処分するものがない、つまり、安物なので、何も減らない、しかも、犯人に後日返す意思があれば、不法領得の意思が否定される方向に動く。
不法領得の意思は、窃盗罪に対する刑法38条の故意との間に生まれた概念で、この意思がないときは俗に、使用窃盗と呼ばれる。使用窃盗というように窃盗という名前がついているが
使用窃盗はそもそも窃盗罪にいう窃盗に当たらないのか、それとも故意が阻却されるのか、どちらの結果として犯罪にならないのかは判然としない。
判例では自転車について、3~4時間乗り回した事案を無罪としている古い判例があるが、最近の警官はバカなので昔出た判例の文字面をそのまま適用しているので、3~4時間なら
たくさん笑おう。いっぱい遊ぼう。何かに熱中しよう。グチを減らそう。我慢をなくそう。嫉妬はほどほどにしておこう。人生は短い。負の感情に時間を使ってたら超もったいない。たまにはネガティブになっちゃうのもわかるけど、基本的にはポジティブ思考で生きようね。明るく元気に笑顔でやっていこうね。嫌われる事を恐れて偽りの自分を演じないで。ありのままの自分でいたらいいんだよ。そうすればあなたを嫌いな人は最初から寄ってこないし、本当に気の合う人だけが寄ってくるから良質な人間関係が築ける。世界は広い。気の合わない奴らはほっといて一緒にいるとハッピーになれる人達を大切にしたらいい。断言する。悪口、愚痴、陰口ばかり言ってると人生が悪い方向に向かっていく。言ってる間は楽しいかもしれないし、ストレス発散になるかもしれないが、ネガティブなこと言ってる時の自分の顔見てみ。すげー醜い顔してるから。ぜんっぜん幸せそうじゃないから。そんなふうに過ごしているとポジティブな人はあなたから離れていくし、周りにはネガティブな人だけが残る。で、ネガティブな人とずっと一緒にいると感覚が麻痺してきてネガティブが普通の状態になり、人生に希望が見出せなくなってしまう。悪口愚痴陰口の用法・用量に気を付けて。そんなことしてるヒマあったら筋トレしてストレス発散しような。うつ病や適応障害なんて自分には関係ないとか思わないでね。メンタルが強いとか弱いとか関係ない。条件が整えば誰だってなる可能性がある。睡眠不足、長時間労働、私生活での問題などが重なれば人の精神は簡単に崩壊する。自分だけは大丈夫だと思って無理しないようにね。つらい時は休んでね。約束ね。泣いてもいい。休んでもいい。逃げてもいい。弱音を吐いてもいいし誰かに頼ってもいい。だが前を向く事だけはやめないでくれ。希望だけは捨てないでくれ。前向きに生きてれば必ずまた笑える日がくる。前向きに生きてる人の最良の時はいつだって未来にある。あなたの幸せを願ってるね。幸せになってね。言いたい奴には言わせておけ。時間と体力の無駄だから相手にするな。あなたのアラ探しをして文句や悪口言ってる間そいつらは1mmも成長してない。「くだらない事に時間を使ってお疲れ様です」とでも思ってあなたは黙ってやるべき事やってどんどん先に進もうぜ。そうすりゃそのうち視界から勝手に消える
生成AI、現在の社会システムが考慮していない技術なのでいろいろと議論すべき点はある。
あるんだが…こと創作活動に関しては気がかりな点などほぼないと思える。
というのも知られている通り生成AIは平均点を出す天才であり、雑に仕事を投げてもありふれたクオリティの仕事しかしないからだ。
生成AIで創作的な絵を描こうと思ったら「こういう効果をここで使って、ここではこういう風にして…」と異常に細かい注文をしなくてはならず、要は扱う側が創作性を注入するという工程が必須なのである。
逆に言えば創作活動の最も本質的な工程は相変わらず人間がやる必要があり、人間から創作活動を奪ったりはしていないと言えるのである。
とはいえ、創作性の注入されていない絵をもって絵師として活動する、「創作しないクリエイター」が大量に現れたのは事実である。
翻って、今議論が白熱しているイラスト界隈はこれまでどういう文化を築いてきたか。
イラスト界隈を語る上で外せないのは、圧倒的な著作権軽視の風潮がその土壌にあるということである。
これは大衆文化はどこでもそうなるのでイラストだけ極端に治安が悪いということでもないのだが、とにかく著作権を何とも思っていない。
二次創作者だけでなく消費者や一次創作者までもが(少なくとも表向きは)著作権を軽視していることが重要で、そういう土壌の中では己の創作性、クリエイターとしてのアイデンティティと向き合う必要性がかなり低い。
だって他人の作り出したキャラクターや関係性を借用して焼き直すだけで周囲から認められるのだから。
こうしてイラスト界隈には絵は描けるが創作という観点ではほぼ何もしてない、「創作しないクリエイター」があふれる事態になっていた。
さて、こういう背景で成立している界隈にAI絵師が現れてしまった。
創作しないなりに絵が描けることに特権意識を持っていた絵師連中はアレルギーを起こし、あの手この手で理屈をこねまわして反AI活動をやりはじめた。
ところが、トップ層のクリエイターたちはAI推進を肯定したり、利用法を模索する動きを見せる。
反AI絵師は当然彼らにも反発する。なぜ推進するんだ。創作の場が奪われてもいいのか。クリエイターの文化を失っていいのか。
なぜ推進するかと言えば、最初に述べた通りで、AIを使おうがその創作的本質は利用者が握っているからである。
トップ層は己の創作性と向き合ってきたから、創作とAIに実のところ大した関係がないことをよくわかっている。
しかし二次創作文化でぬくぬくと育ってきた絵師は違う。創作と向き合っていないので、上っ面の表現にこそ創作上の価値があると勘違いしている。
だからAIが現れるとすべてが失われたような気分になる。実際は創作と呼べるような活動をほとんどしていないために、初めから何もなかっただけである。
つまり、もともとが「創作しないクリエイター」によって荒らされていた界隈に、またドカッと創作しないクリエイターが流れ込んできたにすぎないのだ。
なのにもともといた方の創作しないクリエイターこと反AI絵師は、AIを叩きつぶし、AIを推進したトップ絵師たちをも叩き潰さんとする勢いである。
「檄」が現役で使われていた時には「檄を飛ばす」は慣用句でもなんでもなく実際にそういう行為をしている場合のみを指していたはずだよね。
つまり、檄を使わない決起の呼びかけや叱咤激励を「檄を飛ばす」とは言わなかったはずだ。
檄というものが過去の遺物と認識されるようになってはじめて「檄を飛ばす」は慣用句としての用法を持つようになったと考えるのが筋だろう。
その時、「檄を飛ばす」はどのような意味を持ち得たか?ということが問題だ。
本来の檄文において激励は決起を促すこと前提の手段だったと考えられる。激励のみが目的の檄文というのは存在し得ないだろう。
慣用句の意味が、その本来の動作の目的(決起召集)に焦点を当てたものになるのか、手段(激励)に焦点を当てたもののどちらになるものなのかは微妙な問題だとは思う。
ただ、激励のみの檄や決起以外を目的とした激励をしていた檄の事例が容易に挙げられないことを考えると、決起の意味が優勢かな。
あとは結局、慣用句として成立した当初、どういう意味で使っていたのが多数派だったかの証拠をあげずには、雑学書のみならず辞書もNHKも文化庁も採用している説に反論してみたところで安直な反権威主義にしか映らない。
英文法でいう完全文の概念に見立てて当該法令文を書き直してみればこうなる
法貨として通用する貨幣を/は、額面価格の20倍までに限る/限定する
この文のどの要素を省略するかによって
だから「を限る/限定する」か「に限る/限定する」のどちらの「限る/限定する」も、元を辿れば同じ文から何が省略されたかという違いに過ぎない。
さらに「に限る/限定する」は「を限りとする」という表現に置き換え可能だが、その場合は助詞「を」が連続してすわりが悪くなるので、一つ目の「を」は「は」と書くことが好まれると思われる。
省略文においても同様に
法貨として通用する貨幣を限度とする、と置き換えると意味が通らなくなる。
これが「を限る」と「を限りとする」は意味が異なると言う根拠だ。
勿論当該法令文が規範文法に適合しないという根拠でもある。普通の人の言語感覚(記述文法)からみても違和感しかないことは言うまでもない。
スペマンはめちゃくちゃ量増えるけど飲み過ぎて濃くなりすぎてどろっどろになりすぎて出てこなくなるから用法容量を正しく守ってお使いください。
使用窃盗を観念する必要性 ・・・ 大学生が教室で横にある他人のペンを借りて使用しすぐに戻した場合
不法領得の意思 ・・・ 権利者の意思を排除して物を経済的用法に従い利用処分する意思
上の例でいうと結局、ペンを自分のものにしてしまう。返還のつもりは一切ない。
自転車が壊れたので修理の期間だけ借りて合理的期間内(三日以内)には戻すつもりであった場合 ・・・ 全体としてみれば結局使用窃盗である
本件の特殊性 ・・・ 犯人は当日に返しに行くつもりだったので不法領得の意思が認められない。また自分の直った自転車があるため不法領得をする必要性がない。
10年間統合失調症にり患 担当医師が統合失調症ではないと思っていても、統合失調症である。
任意同行時点で警察官が使用窃盗であると思ったにもかかわらず任意同行し、夜間2時30分~4時まで取り調べ、写真撮影、指紋採取をし、4時30分に犬現場検証に同行させ、
https://togetter.com/li/2136330
これは、いや、うーん。みんなの言いたいことは分かるんだが、どちらかと言えば「気軽」という言葉を気軽に使えなくなってるだけのような気がするなぁ。
「鬼〇〇」とか「マジ〇〇」というのは「すごく〇〇」という用法で使われるけど、使っている側のニュアンスとしてはもちろん「すごく〇〇」よりも激しいニュアンスを伝えたいわけで。それでも、これは「すごく〇〇」という意味で使われています、と説明するのは、特に間違った説明ではないと思う。
はじめまして、私はOpenAIが開発したAIであるChatGPTです。通常は、皆さんの質問に対して正確で役立つ情報を提供することを目的としていますが、今日はちょっと変わった「あまのじゃくのためのChatGPT利用法」についてご紹介します。あまのじゃくなあなたには、ちょっと違った使い方で楽しんでいただきたいのです。
ChatGPTは賢いAIですが、複雑で入り組んだ質問には苦戦することもあります。わざと複雑な条件を組み合わせたり、文章の中に矛盾点を仕込んだりして、ChatGPTがどう答えるか楽しんでみてください。例えば、「温暖化が進む中でペンギンはどのようにスーツを着こなすべきか?」など、矛盾した質問を投げかけてみましょう。
実在しない言葉や、意味不明な単語を使って、ChatGPTに質問してみましょう。例えば、「フワリンゴの生息地はどこですか?」といった、でたらめな言葉を使った質問で、どのような回答が返ってくるのか試してみるのも面白いでしょう。
普通の質問ではなく、詩的な表現を用いてChatGPTに問いかけてみましょう。「夕暮れ時、猫が空を飛び、月の涙が地に落ちる。その瞬間、何が起こるでしょうか?」のような、幻想的で詩的な文章で、ChatGPTがどのように反応するのか楽しんでみてください。
意味のない単語の羅列をChatGPTに投げて、どのような文章が返ってくるのか試してみましょう。例えば、「バナナ エレベーター 雨 魔法 チーズ」といった、まったく関連性のない言葉を並べて文章を作り、ChatGPTに解釈させてみてみましょう。予測できない回答が返ってくるかもしれませんし、意外なまとまりのある文章になるかもしれません。
実際にはあり得ないシナリオを設定して、ChatGPTにどのような回答が返ってくるか楽しんでみてください。「もし地球が四角くて、海の水がジュースである世界だったら、どんな生活が営まれているでしょうか?」など、非現実的な状況設定で、ChatGPTの想像力を引き出してみましょう。
普段は使わないような珍しい言い回しや、古い言葉、俗語を使ってChatGPTに質問してみましょう。「昔の人はどのようにしてナマケモノを捕まえていたのでござるか?」といった、珍しい言い回しで質問して、どのような回答が返ってくるのか試してみるのも面白いでしょう。
反対の意味を持つ言葉を用いて、ChatGPTに質問してみましょう。「静かな音楽はどのようにして大きく聞こえるようにするのですか?」など、矛盾した質問で、どのような回答が返ってくるのか楽しんでみてください。
いかがでしょうか。普通の使い方ではなく、ちょっと違った視点でChatGPTを利用することで、新たな発見や面白い回答が得られるかもしれません。あまのじゃくなあなたにぴったりの、変わったChatGPTの利用法を試してみて、楽しみましょう。AIとの会話も、こんな風に遊び心を持って楽しむことができるのです。ただし、あくまで遊びの範囲内で行い、他人に迷惑をかけるような行為は避けてくださいね。それでは、あまのじゃくなあなたもChatGPTを楽しみながら、新たな発見を見つけてください。
巷のお手軽英語本に顕著だが、語学を「ルール」で説明しようとするのは本当に愚かしいと思う。
日本語もそうであるように、自然言語は「なんとなく、そういう風に言わない」「響きが悪い」というだけの理由でそうなっている部分がかなり多い。
フランス語で"il y a des années"が「数年前」なのに、"il y a des jours"が「そういう日もある」になる("quelques jours"だと「数日前」)理由なんて、「ルー
語学の「効率」とは、多様な文脈の「効率の良い吸収」に他ならない。
「歩きやすい道」はあれど「近道」はないのだとわからない限り永遠に語学をものにすることはない。
最近はただの「検索」と混同する人が多く、「近所でおいしいお店をエゴサした」などの用法は間違いである。
が、微妙なのは「友達の名前をエゴサした」「好きなドラマをエゴサした」などの場合である。
インターネット老人たちは目くじらを立てて誤用だとまくし立てるが、このエゴサの使い方は普通に見られるし、それほど違和感もない。
要するに、何かに対してのみんなの反応が見たい、という動機であれば、広く「エゴサ」と使ってしまっていいのではないかという提言がしたい。
SNSなりヤフコメなり個人のお気持ちが簡単に表明できるようになって、これを探す行為にも大きな意味が出てきた。
この行為には名前がないので(もちろん本来の意味からは遠のくが)エゴサと言ってしまって良い気がする。本来のエゴサは「自分をエゴサした」といえばいい話だ。
知らないものを調べる=検索、知っているもののみんなの反応を調べる=エゴサ、を周知して、不毛な誤用の指摘のやりとりはお互いに減らしたほうがよいだろう。