はてなキーワード: 良心とは
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https://anond.hatelabo.jp/20220830220250
わかった風に述べてきたが、俺自身はそこまでI店に貢献したわけでもない。最初の三ヶ月は時給800円以下の日払いアルバイトだった。社員の人や、キャストの女性が多くのお金をもらっているのを見て、自分もいつかはと考えていた。
キャッチ役になると、I店に連れてきた人数と支払額に応じてバックがもらえるが、代わりに固定給の時間換算が500円以下となる(実績主義)。閑古鳥が鳴くような平日火曜日とかだと、むしろ働くのが損みたいなことになる。
お客さんがゼロの日が三度あったのだが、さすがにキツかった。その日の給料は相当安いし、皆の目線もちょっと冷たい。でも、店長も、キャストの人も、ほかの人も、「ドンマイ!気にすんな」とか「お前は慎重だから」とか「あんたは人の表情を見る力はあるんど。今はそれでいいんじゃけ。焦るな」とかいろいろ言ってくれて、涙がじんわりと出てきたのを覚えている。
終りはあっけなかった。
働き始めて二年が経つ頃だったか。店長に呼ばれて、店内のソファに向かい合わせに座っていた。
それで、言われたのだ。より上のランクを目指してみないかと。要するところ、このグループの社員(と呼んでいいのであれば…)になって、さらに実績を出せば上のグループに入れてやれるというものだ。
入店してすぐに感づいていた。この人達が反社だということを。反社なんだけれども、本格的な人達ではなくて、中途半端な存在だった。店長だけは組に籍を置いていた。それで、俺に見込みがあるようなら入れてやろうという話を持ち掛けてきたのだと思う。
その場で断った。1年間ほぼ2年間、お世話になってきた店長だった。接客やキャッチの指導もしてくれたし、若い人間にとってよりよい生き方も教えてくれたし、居酒屋でも風俗店でもいつもおごってくれたし、従業員の前でキレたりすることもなかった(お客さんは脅したり殴ったりする)。いい人だった。
でも、こういうずる賢いところがあるのが俺だ。一本筋が通っていない。あれだけ世話になった店長に対して恩返しをしていない。誘いを断った理由はひとつで、もし自分が評価を受けて組に入ったが最後、まともな人生を送れないことが明らかだからだ。盆暗な自分でも、そのことだけは明白に、クリヤーに理解できた。
店長は、「いいよ。わかったまた考え直したら連絡がほしい」という感じでソファを立って、スタッフルームに入っていった。
二週間ほど後だった。休み明けに店に行くと、もぬけの殻になっていた。外観はちゃんとあるのだけど、店には鍵がかかっていた。ガラス越しに中を覗いてみると、主だった備品が無くなっている。
店長に電話してみようと思ったけど、やめておいた。多分しない方がいいと思ったから。それから一週間以内に、店長とほかのスタッフから電話があったけど、出ることはなかった。
……不義理なことをしたのだと思う。法や道理に反する行いはしていたけれども、俺達は仲間だった。(調子に乗ってると思われるのが嫌で)ここまで書かなかったが、当時の手取りは25万を超えていた。馬鹿な自分は、店長からの「税金は引いてあるからな。全部お前の金だ」という真っ赤な嘘を信じ込んでいた。
店長は俺を買ってくれていた。エピソードは言えないけど、とにかく評価してくれたのだ。そんな人を裏切ってしまった。俺がもっと任侠心のある人間だったら、きっと店長の誘いを受けて、その道に入っていたに違いない。仁義という意味では、それが正しい姿に違いない。
自分語りはここまでにして、ぼったくりに遭わないための方策を教えよう。
まずは、ぼったくり被害が生じる原因にして、ぼったくり店が存在し続ける最大の理由を述べよう。
どうして1時間飲み放題で3,500円などという話を信じるのか。この世界のどこかにぼったくり点店が存在することなど、社会人相当年齢の人なら皆知っているだろう。どうしてキャッチなんかにホイホイ付いていくのか。人が十分に賢くなれば、世の中に詐欺が溢れることはなくなる。悪徳業者は撲滅される。
個人的な話になるが、これまで俺が会ってきた優れた人間(特に経営者)は、利益を得るよりも不幸を避ける戦略を採用していた。ショボい利益額になっても、とにかく損失を避けるやり方を好んでいた。
繁華街を飲み歩く時は、酔って認識力が低下することまで含めて最悪への対応を考えておくべきだ。飲み歩きを是とする者にとっての正義のひとつだと思う。
【原則①】入るお店は1夜につき5店まで
(理由:酔いつぶれ防止のため)
(理由:〃)
(補足:もししたくなったら、密着警察24時で赤信号無視で免許取消になった自転車乗りのおじさんに思いを馳せる)
(理由:言うまでもない)
この原則を打ち立ててから早10年、失敗したことは一度としてない。たまに破って「失敗したかも」と感じたことは何度もある。人生の損失みたいなレベルの失敗はしていない。
もし、あなたが学生だったり、若手社会人だったり、地方から都会に出てきたばかり(※1)の場合、ぼったくり店に入ってしまう可能性がある。そうなった場合の対策も教えておこう。
まず、お店に入ったところから始めよう。身も蓋もないが、ぼったくり店かも?と思った時点で脱出することだ。あるいはメニュー表を見せてもらう。カウンターの上に等間隔でメニューが置いてあったり、店内に料金が掲示してあった場合は信じていい。
店員がカウンターの下から宵ショット出してきた場合はやや警戒(9/2追記 メニューをよいしょっと出してきたの意)。口頭のみだった場合は、さらに怪しいので帰った方がいい。席に座った時点で料金発生というのが業界標準だ。その前に帰ろう。先ほど述べたとおり、利益を得るよりも損失を減らす方針を採った方が人生におけるリターンが優れている。
さて、それなりに飲んで、サービスを受けて、さあ帰ろうとなったところで料金の請求を受けることになる。伝票に書いてある数十万以上の金額を見て、ぼったくり店だったと知ることになる。
ここからは、以下に従うことで脱出できる可能性が高くなる。手順以前に最も大事なのは、怯まずに粘ることだ。向こうは強気な態度に出るだろうが、法的な後ろめたさの現れだ。
ステップ①
これは正当な料金ではない、根拠を示せと言う。ぼったくり店は「これがうちの料金だから」とか、カウンターの下からメニューを出してきて「ここに書いてあるでしょ」とか、「キャッチの料金説明は間違い。あとでシメとくから」など、料金の正当性を主張する。
その場合でも、「これはぼったくりである。相場の料金しか払わない。解決しない場合は警察を呼ぶ」とはっきり主張する。相場の料金としては、普通の飲食店の料金想定額×2倍程度を言っておく。かなり運がいいと、割高の料金を支払うことで解放される。
なお、ぼったくり店が主張する請求額は絶対に払ってはならない(※2)。
ステップ②
彼らは、刑法上の詐欺罪となる『無銭飲食』を根拠として強い口調で攻めてくる。あなたを囲い込んだり、帰り道を塞ぐのは基本である。「払えないならおそろしい目に遭う」と口々に脅してくる。免許証のコピー取らせろとか、名刺を渡せとかも普通に言ってくる。従う必要はない。ステップ①のとおり金銭交渉を続ける。
もし話し合いがNGとなったら後は通報するだけだ。携帯電話を取り上げられるのでは、と思うかもしれないが、警察への通報を実力行使で止めた場合に公務執行妨害となることは向こうもわかっている。さりとて、無理やり監禁されてボコボコにされるのでは……と考える人もいるし、ぼったくり店もそのイメージを植え付けることを狙っている。
その場で携帯電話を取り出すか、○万円などの支払意思を示したうえで店を出て交番に向かう。相手も付いてくるだろうが心配しなくていい。
相手もプロだから逮捕リスクを考える。そこまでして金がほしいとは思わない。警察のお縄になったら、当然お店の営業はできないし、刑務所に入りたくないと考えるのはカタギと同じだ。
ただし、半グレ(特に若い衆)が経営している店は要注意。そんなことなどお構いなしに、暴力・監禁・脅迫などしてくる店がある。基本、そういう連中は未来のことは考えていない。良くも悪くも今を生きている。
ステップ③
ある日、福山市街のとある交番の前で、I店の近所のぼったくり店と引っかかったお客さんがモメていた。警察官数名が話を聞いている。
ぼったくり店はメニューに料金が書いてあるからと主張するが、お客さんは最初に聞いていた金額と話が違うと主張する。話は平行線でまとまりようがなかった。こうした場合、ぼったくり店もメンツがあるのでどこまでも食い下がる。最終的には、当初請求額の2分の1などで収まる場合が多い。
が、そのお客さんはできる部類の人間だった。狐並みの賢明さを有していたのは間違いない(そこまで飲んでなかったのかも)。
お客さんは「私は1万円を支払うと言っていますが、それだと無銭飲食ということですね」と店側に言った。店は当然、「○○万円払わないと警察に突き出す」と言う。
ここで、お客さんは警察に向かって、「私がここに1万円を置いて、福山駅の方に帰って行くとしましょう。彼らが実力行使に出た場合、傷害罪で刑事事件となりますか」と問うた。警察官は「そうなる可能性があります」と店のスタッフ側を睨んで言った。
「では、私が1万円を置いてそのまま去った場合、無銭飲食で私を逮捕しますか」とさらに問うと、なんと警察官は、「何もしません。帰ってもらっていいです」とはっきり言ったのだ。知性と粘りの勝利だった。
店側は「おかしいでしょ!法律に従ってくださいよ」と警察官に詰め寄るが、「民事不介入です(※3)」と突っぱねるばかりだった。お客さんは警察官に1万円を供託すると、そのままタクシーを捕まえて、駅の方まで帰っていった。
つまり、相手が主張する請求額を払ってはならない。その場から逃れて家に帰ることだ。それで九分九厘逃げられる。
ぼったくりは犯罪だ。お金を支払う道理はない。ぼったくる側もわかってやっている。
一応、これまでの判例を調べてみたが、警察も裁判所も、ぼったくり店の味方をすることは一切ない。問答無用でお客側の味方をする。
彼らの多くは、正義や真実に基づいて行動する。面倒くさいと思ってぼったくり店への苦情を放置する警官もいることはいる。かといって、ぼったくり店の味方をしてお客さんを逮捕した場合、おそらくは警察内部での白い目と恥の目線が待っているのではないか。
※1…
地方都市にぼったくり店は少ない。ぼったくり店は密集して初めて力を発揮する。その界隈に1店舗だけポツンとあってもすぐに悪い噂が広まるし、警察官も手柄欲しさに喜んで飛んでくる。ぼったくり店には都会性がある。かなり前に帰省した時、福山駅のI店跡周辺に行ってみたが、ぼったくり店と思しき店々は悉く消えていて、複雑な気分になった。悪が撲滅してよかったという想いと、地域の経済力が低下していることのもの悲しさを感じた。ついでに福山駅前がめっちゃ綺麗になっててビビったわ……。昔はヤンキー集団が屯していて、駅前には汚いものが色々と転がっていた(自主規制)。
※2…
民事不介入に関係するが、ぼったくり店にお金を渡していた場合は、あの警察官でもどうにもできなかった。なぜなら、サービス債務と金銭債務が共に履行されるという、まさに民法上の契約と支払が成っているからだ。真の意味での民事不介入となり、お店からお金を取り返すのは不可能に近くなる。
※3…
警察官はストリートレベルの行政職員の典型例だ。要するに、上司の許可がなくても裁量的に動くことができる。ほかにも、ケースワーカーなど現場に出る公務員はその仲間らしい。一般企業(働いたことないけどさ…)だと、上司の許可がないと○円払って下さいという納付書を切れないのだろう。しかし警察官は、自己の裁量で交通違反者に反則切符と罰金の納付書を発行する。上のぼったくりの例でも、警察官が「民事不介入です」と主張できたのは、社会的公正とか、後で上司に叱られる不安がゼロだったから自己判断でできたことだ(と推測する)。公務員には身分保障があるのも大きい。
【参考】
https://ik-law.jp/blog/bottakuri/
(2 警察に、お店との間に入ってもらうを参照)
それからお前はどうなったかって? サッと説明する。このへんはあまり言いたくないんだ。
コンビニのアルバイトで食いつなぐなど到底できるはずもなく、祖父を頼った。頭を下げて、実家に戻らせてほしいと頼んだ。そしたら「実家に戻ることは認めないが、最後の温情として職を案内してやる」と言われた。
祖父からは『面接でしゃべること』というメモをもらって、必死で覚えて採用試験に臨んだ。筆記試験は中学レベルの内容だったからどうにかなったが、面接がやはりしんどかった。じいちゃんからは、とにかく自信を!というアドバイスと、「儂の名前は絶対に言わないように」と釘を刺された。
それで、晴れて合格になって、市内の公園とか道路とか福祉施設とか、そういうところのベンチを直したり、壁をコンクリで補強したり、草木の剪定したり、道路に不法投棄されたごみを拾ったりとか、そういう仕事に就いた。
でも、俺はとんでもない馬鹿で、20代後半になる頃だったか。大声で絡んできた住民の人がいて、あまりにムカついて、ブチ殴って怪我をさせてしまった。
それで人事に呼ばれて、「謝罪の意思がないなら、もう雇い続けることはできない」と言われた。先輩や上司からは、「労働組合を通じてお願いできるよ、きちんと謝罪の意思を示せば人事もわかってくれる可能性はある。低いけれども」と言われたが、当時の俺は聞けなかった。自分がした行為は正しいと思い込んでいた。あのおっさんが醜い言葉で俺達をバカにしたのが悪いと主張して譲らなかった。
で結局、謝罪の意思を示すことなく、諭旨免職を受け入れて、ちょっとばかしの退職金をもらった。じいちゃんやほかの家族に挨拶をすることもなく、遠くにある自動車の期間工の仕事に申し込んで、1社目で運よく採用になって、それからずっと今まで続いている。
以上で、この日記は終わりだ。
辛い思い出もあったし、楽しいと思えることもあったけど、このまま惰性で生きていってもいいのかと思い始めたところで増田に投稿してみようと思った。読んでくれた人、ありがとうな。
【余談】
近年のぼったくり事案について思うところを述べたい。
近年の傾向としては、行政が消費者をより手厚く守るようになったことだ。昔だったら、「騙されたけど勉強になったやろ」的な観点で警察が対応することも多かったが、当時に比べると親身になっていると感じる。
そんなご時世、流行り出したのがプチぼったくりだ。いや、普通にぼったくりなのだが、キャバクラやバーと比べるとはるかに良心的(?)な価格に設定されている。レシートにも、それっぽい名目の料金が少しずつ加算されている。黒だとは言い切れないギリギリを攻める。
各都道府県のぼったくり防止条例は、居酒屋などの一般飲食店を対象としていないという事情がある。ぼったくり店側も、高額請求で逮捕されるよりはプチぼったくりで地道に稼いだ方が効率的ということだろう。
これについては、以下のはてなブログが詳しい。
バズってるけど評判の悪い店を紹介します
https://mazuimeshi1.hatenablog.com/
この至高の御方は、自分の足でぼったくり店を探して記事を書いている。残念ながら今は更新されていない。
この人の記事が好きだった。自分で身銭を切って、読者にぼったくり店の注意を促したり、ツイッターで気を付けるべきアルファツイッタラーを紹介したり、とにかく公益的な活動をされていた。
この当時、多くの人は森友学園とか、芸能人の賭博とかギャンブルとか、イケハヤとかはあちゅうがまた一般人から金を巻き上げてるとか、みんなで集団になって攻撃できる話題を探していた。
でも、この方は個人でぼったくりと孤独に戦い続けていた。そこまでバズるわけでもないのに、それでも粘り強く都内のぼったくり店を渡り歩いて、劣悪なサービスと屈辱を味わい続け、ブログにレシートをアップする。
そういうところに、同じ人間として憧れる。この人がYouTubeをやってたら、投げ銭をする確率は100%といっていい。またブログ再開しないかな。
安値で買って、高値で売り抜ければ儲かるというのは、子供でも分かる。
だけど、その高値で売り抜けるとき、高値で買ってる人たちは、だいたい損をする。
もし、社会が無尽蔵に成長することが約束されていたならば、ねずみ講は必ずもうかることになる。
無尽蔵に増える人口の中で、ねずみ講は永久に続けられることになるからね。
そいうふうに投資をみてしまうと、良心の呵責から始められないというのは理解できる。
そいう人にお勧めなのは、円としての貯金を別の外貨として持つ。ただそれだけ。
通貨そのものの価値は、上がるかもしれないし、下がるかもしれない。
20年後、円に戻すときに儲かってることもあれば、大損している可能性もある。
Twitterで回ってきたやつ。
もう沢山のクリエイターから注意喚起がなされてるけど、見れば見るほど本当に恐ろしい。
ご存じない方に簡単に説明すると、同一絵師が描いたイラストを15枚くらい学習させると、その絵師の絵柄そっくりのイラストをAIが排出してくれるようになるよって言うもの。
まず
規約上は「自分で描いた絵のみ」ってことになってるけど、学習させる際に本人確認がある訳ではない。
これではTwitterやPixiv上にある神絵師のイラストを学習させ、あたかも自作のように公開したり、神絵師にアイコンを依頼する金がないからAIに無料で描いてもらっちゃおう、が罷り通ってしまう。
トレパクなんてレベルではない。
利用規約に「ダメだよ!」って書くだけでみんなが「そっか〜自分の絵じゃないとダメだよね!」って引き下がってくれると思うのか?無理だろう。それができるなら今頃トレパク問題も自作発言もこの世から綺麗さっぱり消えているだろうよ。
次に
つまり、神絵師を学習させた神絵ジェネレーターから排出されるイラストを、この運営会社は広報なりなんなりに自由に活用できるわけだ。
んなことあってたまるか。
そして
厳密には1回は無料だけど、それ以降は課金してね〜みたいな感じ。
つまりこのツールで本気でビジネスをやろうとしているらしい。このガバガバ加減で有料化?正気なのか?
というわけでさまざまなクリエイターによって注意喚起がなされているわけだけど、正直リリースされちゃった以上もう手遅れだと思う。
アメリカはご存知の通りデブばかりだ。行き過ぎた資本主義でマズい割にカロリーだけ高い食品で溢れまくって大量のデブを生産している。
そんなデブだが最近のポリコレに感化されて弱者ぶることで凶暴化している。
例えば有名歌手のリゾという人がいる。この人自身はいたって普通の良心的なデブで、当然のごとく健康のためにダイエットを始めた。
そしたらどうだろう。凶暴なデブ活動家が彼女をボコボコに叩き出したのだ。
デブがアイデンティティになっている人達はダイエットする他のデブが自分達を否定していると感じるようである。
このような人達がいるので資本主義の犬であるメディアもこぞって「デブは健康である」という嘘を平気で広めだしている。
デブはおかしなことではない。デブは健康である。デブは健康である。デブは健康である。
完全なる嘘であるがポリコレの前に科学は通用しない。弱者を不快にさせたものが負けだ。
TikTokにも大量のデブ活動家がいる。ありのままの自分が美しいと自己陶酔しているバカどもが大量にいる。あらゆる物事がfat-shamingであると騒ぎ立て攻撃している。
本来のアジア人は古モンゴロイドつまりインディアン、アイヌ、琉球人のように二重で目がぱっちりして、顔の彫りが深く、輪郭もくっきりした美しい顔立ちをしていた。
しかし、ある日朝鮮人、弥生人のように一重、目が細く吊り目、面長、鼻が低く、アデノイド顔貌の醜い集団が発生した。
新モンゴロイドだ。
純粋なアジア人の一部はアメリカに渡り、インディアンとして高度な文明を気づいた。
一方、旧大陸では本来の美しいアジア人が新モンゴロイドの遺伝子に汚染されてしまい、醜い顔になってしまった。
日本人も本来はアイヌのような顔の彫りが深い美しい民族だったのが、朝鮮からの渡来人に汚染され、今日に至る。
温厚で心優しい一方、好戦的で勇敢という一見相反する基質を兼ね備える
彼らは敵対しない者に対してはお人好しとも言えるレベルで優しいが、一度敵対すれば極めて攻撃的で恐ろしい相手となる。その例はいくつかある。
・東北の蝦夷安倍氏は、一度朝廷との対立関係に陥ったが、すぐに恭順の意を示し、争いを避けた。しかし、陸奥守が口実をつけて、蝦夷を挑発すると恐ろしい敵となり、その鎮圧に12年を要した(前九年の役)
・アステカの王はスペインの征服者コルテスを神の化身と考え丁重にもてなした。しかし、スペイン人がそれをいいことに破壊・略奪・虐殺に走ると、怒り狂いスペイン人を一度撃退した(悲しい夜)。更にスペイン人は大軍でアステカの首都テノチティトランを包囲するが、激しい抵抗に遭い陥落に3ヶ月を要し、コルテス自身も危うく死にかけた。
・スペインの征服者ピサロはインカの皇帝アタワルパを殺し、その弟マンコ・ユパンキを擁立する。しかし、スペイン人の残虐行為に堪忍袋の緒が切れ、スペイン軍に蜂起を起こした。その後36年間にも及ぶ激しい抵抗を続けた。マンコ皇帝自身は度々和平を申出たが、スペイン人の不当な要求を飲めず抵抗を続けた。ピサロが仲間割れで暗殺されると、マンコは寛容にもその暗殺者たちを庇ったが、裏切られた暗殺された。インカの王族たちはスペイン人に虐殺され、抵抗は終わりを告げたが、アンデスの先住民たちはその後も幾度かスペインに対して反乱を起こした。
・ワンパノアグ族は飢え、寒さ、病気に苦しむ白人を助けた。しかし、白人が彼らの土地や命を奪ったため、白人と激しく闘った。(フィリップ王戦争)
・アイヌ人は松前藩と平和に取引をしていたが、不当な為替に激怒し、シャクシャインの元で蜂起した。
・アパッチ族の戦士ジェロニモは本来は心優しい性格であったが、白人に家族を虐殺され、その後は好戦的な戦士として恐れられた。
・スー族の勇者シッティング・ブルは心優しく非常にモテた。その一方で勇敢な戦士として誉れ高く、リトルビッグホーンの戦いでは米軍の騎兵部隊を全滅させた。最後まで白人に屈することを拒み、射殺された。
・日露戦争の名将、東郷平八郎、乃木希典、秋山好古、秋山真之と太平洋戦争の名将、本間雅晴、牛島満、樋口季一郎はいずれも縄文人顔の美形である。白人との戦いで活躍した一方、平時は温和な人格者であった。
以上の例の通りアジア人とは本来顔が美しいだけで無く、勇敢と温和という美徳を備えた優秀な人種なのだ。
一方、新モンゴロイドはどうか。
・弥生人顔の香淳皇后は陰湿な性格で美人であった美智子様に冷たく接した。
・悠仁も両親がお辞儀しているのに、自分だけ頭を下げなかったり、女子生徒から水筒を奪ったりした。
・東名高速煽り運転の犯人も、名古屋アベック殺害事件、市川一家殺人事件、光市母子殺害事件、コンクリ殺人事件の犯人弥生人顔だ。
しかし、東南アジアの人々は朝鮮人よりも更に残虐なことを日本軍にもされたにもかかわらず、それを許し現代は親日的だ。これは宗教も一つの原因だろう。
だが、それだけでは仏教国のビルマ・ベトナム、イスラム教国のマレー、インドネシアが日本を許したことは説明できるが、キリスト教国のフィリピンが日本を許したことは説明できない。
朝鮮人は純粋な新モンゴロイドだ。一方、東南アジアの人々は一部新モンゴロイドの遺伝子の汚染されているが、本来のアジア人としての性質も持っている。
これもアデノイド=弥生人顔が害悪な遺伝子である証明だ。勿論発達障害だから口呼吸してアデノイド顔貌になりやすいという事実を考慮してもだ。
本来は美しい民族だったアジア人が新モンゴロイドに汚染され醜くなってしまったのは嘆かわしい。
これからのアジアの繁栄のためにはそういった醜い遺伝子を少しでも減らし、アジア人の優秀な遺伝子を後世に残すことが大切だ。
縄文人顔の諸君は同じく縄文人顔の同士と結婚し、その遺伝子を残して欲しい。
そして弥生人顔の諸君はもし僅かでも良心があるなら、子作りは辞めて頂きたい。
縄文人と結婚すれば、その美しい遺伝子を汚染してしまう。だから頼む。
有川ひろの作品に出てきたヤクザ者を見て心が締め付けられる気分になった。小学生の頃の僕の作文にそのヤクザ者から想起する一節があったのを思い出したからだ。
『レンズ越しの世界はいつも他人事だ。テレビに映る世界と目の前で起きてる出来事なんて変わらない』
僕はいわゆる眼鏡小僧で、生まれつきの遠視から度の強い眼鏡をかけ続けることをずっと強いられていた。あだ名がのび太だったことすらある。馬鹿だとかアホだとか見下されることが嫌いだった僕はそのあだ名がすごく嫌いだった。
思えば、その作文は厨二病の一種だったのだろう。自分が特別であるように言動するなんてありふれた話。王家の血を引いてるとか、邪眼を移植しているとか、そういうレベルの痛々しい妄想でしかない。
でも、他方では思うのだ。心を締め付けられたのはその感覚を今でも肌で感じているからなのだと。
僕は小さい頃から自分が好きではない何かを始めるが苦手だった。レゴブロックを片付けないで叱られる。漢字の宿題をやっていなくて怒られる。水泳の習い事をサボって泣き喚く。とんだクソガキだった。
今も部屋のどこかで何かが腐ったような匂いが漂っていて、部屋の中を小さい無数の羽虫たちが我が物顔で飛んでいる。
きっと部屋の汚さは君たち常人が考える三倍どころじゃない。手元にある便利な箱で別のタブでも開いて「孤独死 老人 部屋」とでも調べるとすごく近い光景が広がっているから興味があれば調べてみてほしい。
ともかく僕の部屋は常識を絶するほど汚い。そして、僕はそんな部屋にへばりつく虫であることを許容してしまっていた。
腐臭に既に鼻は慣れ、物が置かれ過ぎて食事を作るに適さないキッチンではもう半年は食べ物を触っていない。
だから部屋に一番多いのは食べ物に関わるゴミだ。弁当の食べた空き箱や出前の使い捨て容器、パンの袋、カップ麺の器やかやくの袋。あとは酒の空き缶空瓶。目についたものを並べただけでこんな感じ。
よくもまあ、こんなに汚せるものだと自分でも感心してしまうほどだ。
閑話休題。
話は逸れたけれどつまり何が言いたいかというと、そういう汚い自分でありながら、僕は日常生活が送れているように装っている。
駅弁大学に所属する僕は三度目の三年生をむかえた。成績極めて不出来。春先からこの夏の終わりまで学校に行けてすらいないというのに、東京に住む遠距離恋愛の彼女には学校にはきちんと通えているとなんでもない顔で言っていた。滑稽な話である。
僕は嘘つきだ。嘘をつくことで生活している。嘘をついてしかまともであるように見せることができない。
何もうまくいっていない。辛い、苦しい、何もかもやめてしまいたい。死にたい。もう構わないでほしい。まともになりたい。
そんなこと言えるわけがない。
言ってしまえば自分がおかしいことが露見するし、きっと一人であることすら許されなくなる。要するに病院送りか、実家への軟禁だ。
盆も過ぎた。また新しい学期が始まる。
親にはまだ「まだ僕が三年生をやっている」のだという真実は伝わっていない。先延ばしにする方法があったから先延ばしにしてしまった。
帰省した時は嘘をついて急場を凌いだ。
こんなに嘘をついても僕には罪悪感がなかった。嘘をつくことに欠片も良心は痛まない。かろうじて嘘が露見して起きるアレコレが怖いという気持ちが生まれるくらいだ。
彼女とのデートで久々に眼鏡を、ただの伊達メガネだったけれど、かけた時に思い出した。僕にはずっと現実感がなかった。眼鏡をかけたレンズ越しの世界とスクリーン越しの世界に区別をつけられなかった。だから、眼鏡をかけることを嫌って、高校2年の冬に僕は眼鏡をかけることをやめた。目が見えなくなることなんてどうでもよかったのだ。ただ、現実感がない自分が嫌だった。現実感がないから、自分のことを自分のことのように思えないからきっと嘘を簡単につけてしまえるのだろうと思ったのだ。そんなことを思い出した。
でも、現実を見た。
僕は変わらず嘘つきで、今も親を騙し金を毟って生きる寄生虫。いわゆる社会のゴミだ。
生きている価値なんて冷静に考えて本当にあるのだろうか? 誰かに好かれるだけの何かを持っているのだろうか? 甚だ疑問で一杯だ。
親から騙し取った金で少し前に有川ひろの『キャロリング』を電子書籍で買った。この本は有川ひろが書いた作品の中で僕の読んだことのない数少ない作品だった。今見たら読み進めた場所は85%のところまで、結末までは読まずに本を閉じたことが明白だ。
残りを流し読みで適当に読み進めていくとヤクザ者は仲間と共に警察に連れて行かれていた。
救いのない話だった。物語の中では自分が一番共感した人物が幸せになるとは限らない。
僕もきっとこのヤクザ者のようにいつかどこにも行けなくなる日が来るのだろうと思った。そして、そんな日が来たときにまた僕は嘘をついて取り返しのつかないことになるのだろうと思う。
つらつらとどうでもいいことばかりを書いてきたけれど、結論なんてものはない。適当なところで適当な気分で読むのをやめてほしい。
感想も書きたくなったら書く、書きたくなかったら別に何も言わなければいい。偉そうに自分が勝手に目を通したくせにクレームをつけるタイプの人がここには沢山いるらしいことは知っている。なんであんなに傲慢に暮らせるのか、なんで傲慢に気付かないのか。正直、彼らってなんであんなに薄っぺらに生きれるんだろうね。
この文章だって氷菓子を齧りながら適当な気持ちで書いた嘘っぱちだ。今だって目線は沢山の小説が雑然と置かれた本棚を見て目を彷徨わせている。
誹謗中傷するユーザーは論外でクソだし、絶対に存在を認められないクズである事を前提で語るけどさ。
そういう輩に言われてメンタルが駄目になったとか休止しますとか引退するなんて言って側を変えたりする人がいるけどね、
というか、そういう事をする人があちこちに蔓延っているのがネットなんだよね。
良心を持っている人は居ないと言ってもいい。
良心を持ってそうな人も、結局過剰な擁護で悪質なユーザーへと変わっていくのがネット。
そんな世界に飛び込んで目立つ行動をしていたら、誹謗中傷なんて当たり前と思わないといけないし、それからは絶対に逃げられないという覚悟もしないといけないと思うんだよね。
YouTuberやVtuberもわかっていると思うんだよね、自分らの世界にはイエスマンしかいないわけがないって。
そんな世界はありえないのだから、誹謗中傷されたからメンタルが病みましたとかね、辛いとかそういう言葉よりもさ、大声で怒鳴ったほうが良いと思うんだよね。
君等が泣き言を言うたびに狂信的な信者は優しい言葉を投げかけるけど、泣き言を言えば言うほどアンチは煽ってくるし、どんどん攻撃的になる。
逆に怒鳴ったらどうか?
結果は大して変わらない。
でもね、鬱な気持ちは怒りで吹き飛ぶと思うよ。駄目なんて口に出したら、どんどん落ちていく。
怒りは逆に前に進んでいく。口汚くなったって良いと思うんだよね。
イメージが悪くなる?起こった原因はわかる人はわかると思うよ。
そこまで味方は減らない。
味方が減るのは、味方を蔑ろにしたり、やってはいけない事をやったり、口に出してしまったりした時だから。
むしろ正当に怒っているのであれば、味方は増える。
間違っているのに、それを認めないでブチギレているような行為をすれば自業自得で減るし、ネットの世界から迫害されるかもしれないけど。
真面目に生きてて、発言にも気をつけて活動してるなら泣き言を言って後ろに下がるより、怒って前に出たほうが度胸があって好感が持てると思うなあ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/6c50101137469e145adf1ec7ed3e660c9d3f08a9
↑を見て「法律がおかしい」ていう意見が多くてなんかホッとした。警察や検察で取り調べを受けているときは、自分の刃物の管理に対する認識がいかに世間ズレしているかをこんこんと説明された。
それでもう俺も自分が頭おかしいんじゃないかという気分になった。
運悪く警察に車を呼び止められて、車内を調べられて、よく山登りにフラっと行くから、週末とかに。山で使うときのナイフが出てきた。それでアウト。
その日のうちに取り調べを受けることになったんだけど、そのとき俺は警察に「書類送検されますか?」と尋ねたんだ。書類送検されることになったら面倒だから弁護士に依頼しようと思ってね。
俺もこんな取り調べを受けるとか初めてだったからよく分からなかったし、詳しい人に相談したかったんだ。
それで尋ねたんだよ、取り調べを受ける前に「書類送検されますか?」と。そしたら警察は「書類送検はしません」と、はっきり答えたんだよね。
そうか、じゃあ大したことないんだなと思って、警察の指示通り取り調べを何回か受けたんだけど、けっきょく書類送検になった。
意味分からないから弁護士に相談に行ったら、「取り調べを受けてサインをしたらもうどうしようもない」と言われた。
これで前科つくの!?? てなったね。前科ついたら海外旅行しにくくなるし、なんとかならないか、と思ったんだけど、なんともならない。と。
それで陰鬱な気分になって検察に行った。そこで俺は、刃物の管理の甘さは自覚し、反省していること、危なそうな文房具でさえ車に積んでいないこと、ただし、警察の捜査方法には不満があり不信感しかないこと、などを話した。
ちなみに検察に「車のナイフから出てきたのであって、所持という感覚はなかった」という理屈は通じないらしい。
まあそんなことがあった。今回でいろいろ勉強になったけど、はてブのコメントを見て、「アウトドア用ナイフを車に載せてたら書類送検」というのがふつうの感覚からしてズレていることが分かって、なんだかホッとした。
雑文失礼。
警察にはまともに取り合うな。
社食のかけそばの具がネギとうすっぺらいカマボコ2枚で、食べるたびに「ここにわかめがあれば…」と思っていた
ある日、俺の悪い方の心がささやいた 「増えるわかめちゃんを持ち込めばいいのでは?」
そうよ、だって社食なんて何も注文せず、弁当やパンを持ち込んでお茶だけ飲んでる悪党どもがワンサカいるんだから!
ということで昨日買った増えるわかめちゃん(ジッパー付き)を忍ばせて、ドキドキしながら社食に向かったら今日まで休みでやんの
今から数年前、アメリカでホットウィール(以下Hotwheels)収集に情熱を注いでいた。Hotwheelsというのはアメリカのミニカーブランドで、日本で言うトミカみたいなものだ。詳しくはWEBで。当時は血眼になって探しまわっていたので、足繁く店を訪ねたり情報を集めたりして、それなりに買い集めることができるようになった。
残念ながら今となってはアメリカに行く機会はほとんどなくなってしまった上に、当時ほどの情熱がなくなってしまったので、苦労して獲得した得たノウハウは使われることもなくこのまま記憶と共に薄れていく運命にある。ただその一方で、苦労して得たノウハウがこのまま自然消滅してしまうのがもったいないという思いもあった。そんな折、増田の存在を知り、思い出代わりに記録を残すのも悪くないなと思ったので、ここに書き連ねることにした。
この投稿を読む人はきっと日本に住んでいる人だろうから、あまりニーズはないとは知りつつも、それ故に読んだ人同士が競合する心配も少ないと考える。日本語でのここまでの情報は希少なはずなので、アメリカへ旅行、出張、赴任、移住するなど現地で買い物をする機会のあるコレクターにはちょっとは役立つだろう。当時は2年半で2000台以上購入し、良い時でスーパートレジャーハント(以下$TH)を1年間で12台見つけることができたので、その程度のノウハウだと捉えてほしい。話が右往左往して乱文になってしまい申し訳ないが、この情報で少しでもハンティングを楽しんでいただけると幸いだ。
文字数の関係で前編後編に分けた。コンテンツは下記のとおり。後編がより実践的な情報。
それではここから前編。後編はこちら→https://anond.hatelabo.jp/20220816012401
発売日など決まった予定はない。アソートの順番をある程度守りながらそれなりの時期にバラバラと入荷される。同じWalmartであっても店舗が違えば違う日に入荷することもある。どの店員に聞いてもいつ入荷するか知らない。急に古いアソートが入荷されることもある。入荷がランダムなので開店待ちする人は少ない。メインラインの実売価格は一番安くて約$1。それ以外は$1.25とか$1.5とか$2とかが多い。うらやましい。サイドラインは$1だったり$2だったりアソートによって異なるが理由はよく分からない。プレミアムは$6ぐらい、Team Transportは$14ぐらい、Mystery Modelsは$1。
非公式であるが、数年前まではBrickSeekというWEBサイトでWalmartの店舗ごとの在庫数が検索できた。残念ながら現在は在庫数ではなく在庫の「有無」だけの表示となり実質役に立たない情報になってしまった。WalmartでHotwheelsの在庫がなくなることはほぼあり得ないからだ。一応、メインラインの在庫はSKUコード「34253677」で検索できる。たしか店舗の値札にUPCコードが書いてあるので、それさえ分かればメインライン以外も検索できた。ただし私がプレミアムラインやサイドラインをウォッチしていた限りだと、メインライン以外の情報は実態と合ってなさそう。
今は使えないサイトだが、ここから得た情報がある程度参考になると思う。私がこのサイトの存在を知ってから数ヶ月間ほぼ毎日複数店舗のWalmartの在庫をウォッチした。その結果、ある程度Hotwheelsの流通量が見えてきた。集計したデータによると2~3週間ごとに数箱の入荷が近隣店舗でほぼ一斉にあり、在庫の多い店舗ではたまにDump Binと思われる500台以上の大量入荷があるような周期だった。それ以外にもランダムで1、2箱の入荷もあった。そしてThanks Givingが終わって間もない12月初旬には、クリスマス商戦に向けて数多くの店舗で大量入荷がある、といった感じだった。だが、BrickSeekの在庫増加と実店舗の陳列増加は残念ながら一致しないことも多くハンティングが空振りになることもしばしばだった。感覚的には打率5割強といったところかも。誤情報なのか陳列までの時間差なのかは判別できなかった。さらに、店に着いた時にはすでに開封済みだったということもよくあった。結局このBrickSeekの情報をもってしても$THの戦果は1ヶ月あたり1台ぐらいに留まった。
ここからは余談だが、これだけの頻度で入荷しているにも関わらず次の入荷までにはしっかりと在庫が減っている。入荷される箱には、一部の人気車種以外にも人気薄の実車や架空車などが多く同梱されている。要するに抱き合わせ販売だ。人気車種はもちろんすぐ売れてしまうのだが、在庫がちゃんと減っているということは、不人気の架空車もちゃんと売れているということになる。日本だと架空車といえば不良在庫という印象で、個人的にはなぜこんなに謎めいたミニカーをたくさん作っているのだろうと疑問を持っていたが、このデータによるとHotwheels発祥のアメリカではちゃんと架空車も市場に受け入れられているようだ。
アメリカはHotwheels本場だけあってコレクターが多いので基本的にはライバルだらけだ。いくら入荷がランダムだからと言っても、たまたま立ち寄った店に$THがぶら下がっているなんてことはほぼ期待できない。$THを手に入れようと思うと箱の開封直後か、何なら開封前に立ち会わないといけない。競争率には地域差があるようだが、Mattel社の地元ロサンゼルスはさらにコレクターが多いらしく、競争も激しいようだ。噂で聞いただけだが、定年後で時間を持て余しているベテランコレクターが店の裏でトラックが来るのをのんびり待ち構えているらしい。もし本当なら陳列どころか、店に入る前に狩られてしまうので勝ち目がない。大量の在庫を見つけても人気の1車種だけはどこに行っても見つからないということも少なくない。
まだ先述のBrickSeekが機能していた頃は入荷がある程度把握できたが、残念ながらガチのコレクターは当然のようにその情報を知っているから、これだけではライバルには勝てない。入荷日に店舗に行くとおもちゃ売り場からジッと倉庫の方を凝視しているおっさんがいたこともある。きっと私と同じように入荷情報を掴んで待ち構えているコレクターなんだと思う。強面で大柄なおっさんだったから、仲良く待つなんてことは考えずその店はあきらめて立ち去った。
ライバルについて非常に悔しい思いをしたことがある。今までで最大のチャンスに遭遇し、それを目の前でかっさらわれてしまった決して忘れられない記憶だ。いつものようにBrickSeekをチェックしているとWalmartのある店舗で2500台を超える大量の在庫増加があった。エラーじゃないのと思いつつ今晩その店舗行ってみることにしたが、その日は仕事がなかなか片付かず狙っている時間よりも遅くなってしまった。ようやく仕事を終え半信半疑でおもちゃ売り場に向かうと、なんとHotwheelsの箱がタワーのように積み上げられているではないか。入荷数はエラーじゃなく本当だったんだと興奮した次の瞬間、その場で写真を撮っている人物を見つけて敗北を悟った。彼の手にはすでに6個の$THがあった。聞いてみると30分前に来たらしい。惜しい!負けを噛みしめつつ箱を数えると72個入りが36箱だった。$THは6箱に1個の割合という計算になる。その勝者が教えてくれたのだが、72台入りの箱の上下2段のうち$THは常に上段に入っているらしい。もしもライバルと鉢合わせてスピード勝負になった場合には役立つ情報だ。ちなみにその彼は子供の頃からのコレクターで毎週のように$THをゲットしているらしい。しかも手に入れた$THは売らないとのこと。きっと膨大な数の$THを持っているんだろう。うらやましい。
実は、BrickSeekが機能しなくなった今でも、Instagramを見ると毎週のように$THを手に入れているコレクターがいる。きっとBrickSeek以外にもノウハウがあるんだろう。別のコレクターに聞いた話だが、そのInstagramのコレクターは常にそこらじゅうの店に行っているらしい。足で稼ぐというのも大事な要素のようだ。だが私も毎晩のように複数の店舗をパトロールしていたのでそれなりに足は使っていたつもりだ。にも関わらず$THを手に入れられたのは月に1個ペースだ。なので他に理由が考えられるとするならば、店の人間と仲良くなって情報をもらう、自分が行くまで陳列を待ってもらう、ぐらいだと推測する。実は私も一番良く行くWalmartの店員やセールスマネージャーと顔見知りになった。だが残念ながらセールスマネージャーさえ入荷を事前には知らず、彼らの恩恵にあずかれることはないままその店舗にはもう行かなくなってしまった。生活様式や英語も含め、ここまでがにわかコレクターである自分の限界だったんだろう。Instagramの彼ほどになるにはさらに何歩も先を行かなければならないようだ。いやー、本当にどうやって見つけてるんだろう。秘訣を教えてほしい。
一応アメリカにも買い占めや転売屋に対する批判はある。だが日本ほどではない。勝者が独り占めするということが受け止められやすい文化だと推測する。一方で、Walmartで出会ったコレクターは「次の人のために残す」と言って一部は買わずに置いて行った。層が厚いのでいろいろなコレクターがいるのだろう。あるいは、日本と違って一斉に発売しないから買い占められて終わりということが起きにくいのかもしれない。
ミニカーに限らずアメリカの小売店、特にチェーン店は返品に対して寛容だ。新品でレシートがあれば基本的に何でも返品できる。理由を聞かれることもあるが「要らないから」と中身のない答えでも受理される。Walmart同士なら買った店舗とは別の店舗でも返品することが可能だ。ここからはお勧めしない方法なのだが、とりあえず多めに買っておいて買い過ぎたと思ったら返品できちゃう。また、例えばA店で買った商品がB店でより安く売られていたとする。たとえA店で買った商品がすでに開封して新品じゃなくなってたとしても、B店で同じ商品を安く買ってA店で返品できてしまう。つまり事実上B店で安く買ったのと同じことになる。あくまでも理論上できるというだけで実際にやって良いかは分からない。もちろん不良品なら新品でなくてもほぼ返品できるだろう。ただし返品できるカスタマーサービスは24時間営業のWalmartでも昼間しか開いていない上に長い列ができていることが多いから、旅行中など時間に余裕がない時には不向きだ。
返品しやすいということは、裏を返せば中古品も新品のように売られているということだが、それだけではない。悪意のある人間が商品を購入し中身をすり替えて返品することもある。Walmartの店員はせいぜいバーコードを読んでレシートと照らし合わせるぐらいで、Hotwheelsのパッケージと中身が同じかなんて区別できる訳もない。よっぽど不自然な修復でもない限りすり替えは検知できないだろう。さらに残念なのはこれがそれなりの知識を持ったコレクターの仕業であるということだ。最小限の加工でパッケージを開け、用意しておいた安価な替え玉へとすり替え、目立たないようにパッケージを修復する、というのは知識と技術を持つコレクターにしかできない。ミニカーなんて高くても数ドルだろうし、自分の好きな趣味であるはずのミニカーのためにこれだけの計画的犯行に及ぶ気持ちが到底理解できない。私自身も実際に何度かすり替えられた商品を見たことはあるし、残念ながら買ってしまったこともある。マルチパック限定の特定のモデルが欲しくて、中身を見て買ったから結果オーライだったのだが、すり替えに気付いた時はすごく気持ち悪かった。たとえWalmartやTargetなどの正規販売店であっても中身には常に注意を払う必要がある。
アメリカでは有志(たぶん)によりコンベンションと言われるHotwheelsのイベントが年2回開催されている。こちらがMattel社やデザインセンターのあるロサンゼルスで毎年10月頃に開催される方だ。もう一方は後述。有志とは言えほぼ公式のイベントの様相で、コンベンション限定モデルが発売されたり、これから発売されるリーク情報がプレゼンされたり、いろいろなコンテンツが催される。残念ながら私がコンベンションの存在を知った時にはとっくにチケットは売り切れていたし、次のチャンスに買おうとしたがすぐ売り切れてしまい結局コンベンションに参加することは叶わなかった。そもそも日本からだと遠い。なので申し訳ないがコンベンションのコンテンツ自体はあまり知らない。
だが、チケットがなくても実は行く価値はそれなりにある。アメリカ中や外国からも集まったコレクターが会場となるホテルに宿泊するのだが、その客室でフリーマーケットのように大量のHotwheelsが売られるのだ。最新のモデル、古いモデル、$TH、RLC、カスタムカーなど非常に幅広いモデルが売られており、ここまでの種類と量が一度に買える場所はおそらく他にはないだろう。しかも値段も良心的な物が多い。人によってはメインラインが$1だったり$THが$10で売ってたりもする。もちろん業者が売っていたり、プレ値も普通にあるが相場以下で買えることも多かったように思う。私が直接買えなかったコンベンションカーもその場で転売されていて$50ぐらいだった。定価よりももちろん高いが日本で買うよりずっと安い。また、売っている人がコレクターだからと思うが子供にはとっても優しい。割引してくれたり無料でくれたりする。コンベンションが開催される数日間の間、ホテル内を歩くとあちこちのドアが開いていたり、張り紙がしてあるので、客室に入る敷居は高くない。ただし、コンベンションに参加するコレクターの客室なので、イベント中やそれぞれの用事がある時には閉まっている。つまり、全フロア1周しても、次回る時には別の部屋が空いてたりする。それぞれの部屋でたくさん売っているので、とても1日では見切れないぐらいのボリュームだ。これだけでも楽しい。私はチケットは買えなかったが、旅行のついでに会場のホテルに泊まり、たくさんのモデルを買い漁ることができた。コンベンションの公式サイトには一切こういうことは書かれていないので、もしコンベンションへの参加を検討するなら買い物を楽しめることも含めて考えてみると良いと思う。
先述のコンベンションのもう一方で、こちらは年ごとに開催地が変わりアメリカ各地で4月頃に開催される。コンテンツはおそらくロサンゼルスの方と同様と思われるが、こちらも私はチケットが買えなかったので、申し訳ないがよく分からない。ただ、少なくとも客室でたくさんHotwheelsが売られているのは同様で、私はこちらでも買い物を楽しんだ。
日本と同様だと思うが、地元のコレクターが集まりちょっとしたイベントやミニカーの販売をする。アメリカ内の各地で開催されているようだ。価格も良心的で相場より安い印象がある。
HotwheelsにはRed Line Clubという有料の会員制度がある。詳細はWebで。その会員だけが購入できるRLC限定モデルがあり、Hotwheelsのコレクションにある程度のめり込むと買いたくなる人もいると思う。私も最初はミニカーに$20も出せないとスルーしていたが今ではほぼ毎回買ってしまっている。高いがそれなりに良い物だと思う。日本からの購入方法はこの投稿の主旨から外れるので割愛する。私が知っているのは過去5年ほどだが、発売はいつも火曜日のカリフォルニア時間の午前9時だ。当然多くのアメリカ人は勤務時間内はずだが、よっぽどの不人気モデルでない限り数分で売り切れるのが常だ。日本のサラリーマンならとてもそんな時間にネットショッピングなどできないのが普通だが、すぐ売り切れるということはフレキシブルな働き方をしているアメリカ人が多いということなんだろう。こういうところでも文化の差が感じられて面白い。
・7年付き合い式場予約して新居も準備していた婚約者を、他の女に惚れたからという理由で「全部無かった事にしてくれ」の一言で切り捨てようとして
それを聞いた婚約者が自分から身を引く手紙を残して去って行ったその日に(婚約者に対する謝罪や自分の行為に対する良心の呵責等一切なく)他の女に告白
・沖縄戦における重苦しくて悲惨な体験談を老人から聞いた直後にその体験談を女への口説き文句として流用
・新婦がかつて振った男を騙し討ちで結婚式に無理やり参列させて「お似合いの二人です」とスピーチさせる←new!
・↑これら全てを「酷い奴が酷い事をしている」のではなく「良い話」「感動話」として扱っている
これを考えた人(脚本家だかプロデューサーだかディレクターだか知らないが)が人の心がなさ過ぎて怖すぎるんだが
どこまで酷くなっていくんだろうかこのドラマ
・母親を亡くした子供と一緒に母親との思い出の店で思い出の料理を食べながら
「新しい女と再婚するわ、因みにその女はお前の母親が闘病している頃から目をつけてた女な」と言い放って子供に再婚を認めさせる父親
もあったわ
これも中々の胸糞&考えた人が怖い話だった
ピカブイから最新のアルセウスまで書きます。主に第八世代を追記修正しました。
第三世代~第五世代:anond:20220812150701
第六世代~第七世代:anond:20220812184049
第七世代と第八世代の間に発売された「ポケットモンスター Let's Go! ピカチュウ・Let's Go! イーブイ」のことを
便宜上7.5世代と呼ぶ人もいる。ピカブイ限りのシステムもあるので参考程度に書く。
今作からイーブイの声が悠木碧のものになった。これは第八世代でも継続される。
ピカブイは一応初代のピカチュウバージョンをリメイクしたゲームという体裁だが
ポケモンGOとの連動を強く意識したゲームで、システムにもポケモンGOの影響がある。
ポケモンGOではポケモンを博士の研究所に送ったときにもらえるアメでポケモンを強化するが、
ピカブイでも同じようにアメをもらえ、ポケモンをレベルとは別に強化できる。
これは本編では導入されなかったが、第八世代では経験値アメという似て非なるアイテムが導入された。
ポケモンGOでのポケモンゲットはタッチパネルを使ってボールを投げるの方式だったが、
ピカブイではSwitchのJoy-Conを使って投げる動作を行うこともできる。
でも面倒なのでSwitchの携帯モードでボタンを押す方式のゲット方式にする人が多いと思う。
今まではポケモンセンターに行かなければパーティを編成できなかったが、
ピカブイではポケモンセンター外でもポケモンの入れ替えが可能になった。
メガシンカとZワザが廃止された代わりに導入された戦闘中1度だけ使える特殊システム。
ポケモンが数ターン巨大化して、その間はわざも「ダイマックスわざ」に変化する。
どのポケモンで、どのタイミングでダイマックスを切るかという駆け引きは結構好評だったと思う。
また、ポケモンによっては「キョダイマックス」という特別なすがたに変化して、
わざも通常のダイマックスわざとは違う「キョダイマックスわざ」を使うことができる。
今回はエメラルド・プラチナやウルトラサンムーンのようなマイナーチェンジは発売されなかったが、
その代わりに有償の追加ダウンロードコンテンツとして「鎧の孤島」と「冠の雪原」が遊べるようになった。
前回のウルトラサンムーンが「DLCみたいな内容なのにフルプライスなのはおかしい」と言われていたし、
料金も2000円ちょっとで以前と比べてかなり良心的になったと個人的には思う。
ガラル地方にはワイルドエリアというオープンワールド風フィールドがある。
ポケモンもシンボルエンカウントとなったがあくまでオープンワールド「風」なので
別にポケモンに襲われて死ぬ事は無い。後述のアルセウスでは死ぬ。
ワイルドエリアにあるポケモンの巣から光の柱が出ているときに、
倒せばそのポケモンを捕まえるチャンスが与えられ、またいろんなアイテムも手に入る。
これがまた大縄飛びを面倒臭くしたようなゲームで、正直面白くなかったんだよね…
DLC「冠の雪原」で歴代の伝説のポケモンと出会うチャンスもあるダイマックスアドベンチャーも追加された。
例えばルビサファで初登場した「マッスグマ」にはガラルのすがたがあるけれど、
そこからさらに「タチフサグマ」というポケモンに進化するようになった。
つまり従来のマッスグマには進化が与えられないわけだ…そこはちょっと悲しいね。
ちなみに伝説のポケモンのリージョンフォームが登場したのも第八世代で、
初代に登場したファイヤー・サンダー・フリーザーのリージョンフォームが登場した。
サンムーンまでに809種類ものポケモンが追加されてしまったので、いよいよ限界が来てしまった。
ポケモンは開発期間がビジネス上の都合で制約がある(ゼルダのように4年も5年も開発期間を裂けられない)ため
全てのポケモンを新しい作品に連れて行くことは今後できないという話だ。
例えばサンムーンで初登場した「ネッコアラ」は最新作の剣盾やアルセウスには連れて行けない。
ただ、リストラされてもポケモンHOMEのようなクラウドサービスには残せておけるため
今後リストラされたポケモンが復活するまでHOMEで寝かせることはできる。
とくせいパッチを使用するとポケモンのとくせいを隠れとくせいに変更できるようになった。
また、ミントで性格のステータス補正を別の性格のものに変更できるようになった。
これらによって厳選難易度が落ちた。
正直、とくせいパッチにしろミントにしろもっと早く実装して欲しかった要素だ。
俺はそういうの疲れちゃったからポケマスやってるよ。
わざレコードはマックスレイドバトルなどで手に入れることができる。
「Pokémon LEGENDS アルセウス」は今のところポケモン本編最新作だが、
従来のシリーズとは大きく違っているため便宜的に8.5世代とする。
次回作のスカーレット・バイオレットでも電子音が継続されるらしい。
なんと今回はポケモンと戦闘に入るまでが3Dアクションとなっている。
モンスターボールを自分で狙って捕まえられ、相手が気づかないうちに遠くから狙い獲ることもできる。
ただしポケモンもプレイヤーを襲うし、プレイヤーの体力が尽きると持っていたアイテムをフィールドに落としてしまう。
ヒスイで最初に出会うラベン博士も「ポケモンは怖い生き物です!」と言っている。
オヤブンと呼ばれるオーラをまとったポケモンは特に強く、プレイヤーにはかいこうせんを撃ってくるものもいる。
ポケモンを逃がしたり捕まえたりすると通称ガンバリアイテムと呼ばれるアイテムをもらえる。
今作のポケモンにはガンバレベルという個体値的なパラメータが設定されているのだけれど、
ガンバレベルはガンバリアイテムを与えていくと最終的にMAX(10)まで上昇する。
従来の個体値や努力値(ポケモンを倒すと取得できるいわゆる基礎ポイント)を統合させたような仕組みで、
今後はこれでもういいんじゃねえかという気持ちになってくる。
他にもいろいろあるけど、正直書き切れないわ。勘弁してくれ。
間違ってたらポケモンに詳しい他増田(not順一)が指摘してくれると思う。
書いてたら分量がアホみたいに増えちゃったから今回は第三世代から第五世代まで。
第六世代~第七世代:anond:20220812184049
ピカブイ・第八世代・アルセウス:anond:20220812213515
【追記】ブコメ返信・補足:anond:20220815093836
年齢などの要因もあるかもしれないけど、おそらく増田はこれが原因でポケモンから離れたんじゃないかな。
ちなみに第三世代から第八世代は互換性があるから、ルビサファからソードシールドにポケモンを持ってくることもできる。
めっちゃくちゃ面倒臭いしいつまでできるかわからないんだけど…
この互換切りによって当時リメイクが発売されなかった金銀のポケモンの入手性が下がってしまって、
ホウオウやルギアがイベント配布以外ではポケモンXDというゲームキューブのゲームが無いと入手できない
この問題はFRRGやエメラルドで金銀のポケモンが追加で登場することで多少緩和され、金銀リメイク自体も後にDSで発売された。
従来のポケモンバトルは1対1のシングルバトルだったが、第三世代では2対2のダブルバトルが登場した。
シングルでは活躍できないポケモンもダブルで活躍できる、といったこともままある。
各ポケモンがかならず1つ特別な能力を持つようになったのが第三世代の大きな特徴。
攻撃力が2倍になる「ちからもち」や戦闘後に何らかのアイテムを拾ってくる「ものひろい」だとか
同じ種類のポケモンでも違うとくせいを持っていることがある。
ポケモンに性格が追加され、同じポケモンを捕まえても性格が違うということになった。
性格は25種類あり、また性格は単なるフレーバーでなくステータス補正に影響するため
本気で対戦をする場合は厳選するのが当たり前だった。
金銀(第二世代)まではポケモンには性別や色違いくらいの違いしか無かったが、
第三世代では条件によって異なるすがたをとるポケモンが登場した。
たとえば「ポワルン」は天候によって3種類の異なるすがたに変化する。
第三世代(及びORAS)と第四世代(及びダイパリメイク)のミニゲーム。
ポケモンには従来のステータスの他に「かっこよさ」「うつくしさ」「かわいさ」「かしこさ」「たくましさ」の5つのコンディションを示すステータスがあって、
コンテストには1次審査と2次審査があって、ポケモンのわざを見せてアピールする2次審査が結構奥が深い。
うつくしさを一定以上にしないとヒンバスがミロカロスに進化できなかったけど
ポロックやポフィン(木の実から作る)を投与しまくればよくてコンテストに出させる必要すら無いんだよね。
ちなみにミロカロスはコンテストが無い世代では「きれいなウロコ」というアイテムを持たせて通信交換することで進化する。
世代によって進化条件の変わるポケモンは数あれど同じポケモンに進化するのに進化方法が複数あるのはミロカロスくらいじゃないかな?
シンオウ地方チャンピオンのシロナはプレイヤーからも制作側からも人気で、
第五世代と第七世代にも登場するしグッズも豊富。ポケマスでは不遇気味。
今回最初のポケモンをくれるナナカマド博士も「ポケモンの9割は進化に関係している」という説を唱えている。
それもあってかこの世代では結構な種類のポケモンに追加の進化が与えられた。
実はこの手の追加進化の大盤振る舞いはこれ以降あんまりなくて(第六世代のニンフィアくらいかも)、
その代わり後述するリージョンフォームなどで追加進化に相当する形態が追加されるようになっている。
第三世代までだとわざのタイプで物理わざ(こうげきを参照するわざ)か特殊わざ(とくこうを参照するわざ)かどうか決まっていた。
例えばほのおタイプなら特殊わざ、かくとうタイプなら物理わざといった具合。
ただこれだと「ほのおのパンチ」のような名前に「パンチ」が入っているわざでも特殊わざだったので、
攻撃力が高いポケモンがそのステータスを生かしたタイプ一致わざを使えないということも少なくなかった。
特にゴーストタイプはなぜか物理わざ扱いだったからゲンガーがシャドーボールをつかってもそこまで大きいダメージを期待できなかったわけだ。
第四世代からはわざごとにその区分が設定されるようになったおかげで、ゲンガーはシャドーボールをメインウェポンにできるようになった。
第四世代ではついに世界中の人と通信交換を行えるようになった。
掲示板やSNSなどでポケモン交換を呼びかけるようなことももちろん可能だが、
GTSにポケモンを預けて指定した条件のポケモンと交換するといったこともできる。
ただし、コラッタのようなその辺にいるポケモンでミュウツーのような伝説のポケモンを釣ろうとする子どもが非常に多かったし、
さらにそれに対して改造ポケモンを送りつけるという嫌がらせまであった。
何かとトラブルの絶えない仕組みだが、GTSは今でも形を変えて続いている。
なんとブラック・ホワイトではクリアするまで全てのポケモンが今までに見たことの無いポケモンだった。
追加されたのは総勢156種類。こんなにポケモンが追加されたのは後にも先にも第五世代だけ。
ピカチュウですらクリアするまで出てこない。(流石にアニメでは普通に登場しているが)
ただ、その反動か第六世代では新ポケモンは72種類と控えめになってしまった。
ポケモンのデザインの多様性が広がってきたのもこの頃で発売当時はアンチも少なくなかったけれど
今ではなんだかんだで受け入れられている。
第四世代まではジムを攻略しながら悪の組織を倒しつつ最後はチャンピオン戦という流れが確立していたが、
チャンピオンを越え人からポケモンを解放しようとするプラズマ団の王Nと
彼を傀儡としてポケモンの独占を企むNの養父にしてプラズマ団の真の首領ゲーチスは何かと人気。
今でもキャラ人気が根強いのもこの世代で、ポケモンマスターズというトレーナーに重心を置いたスマホゲーでは
別バージョン(季節限定衣装など)の実装がイッシュ地方のトレーナーで特に多い。今のところNは3種類実装されている。
第三世代でポケモンは各種類1~2種類とくせいを設定されるようになったけれど、
ただ、これは「ポケモンドリームワールド」というゲームと連動する(クソ)ブラウザゲームを遊ばないと捕まえられなかったり
メスのポケモンじゃないと子どもにとくせいを引き継がせられないなどの理由であまりにも入手性が低かった。
特に歴代の御三家の隠れ特性は攻略本やムックやポケモンカードのおまけとして限定配布された。
とくせい「かそく」(毎ターンすばやさランクが1段階上がるすごいとくせい)を持ったアチャモ(BW攻略本付録)や
とくせい「サンパワー」(天候が晴れの時に体力を犠牲にとくこうが1.5倍になるとくせい)を持ったヒトカゲ(ポケモンぴあ付録)
は特に需要が高かったが、付録に付いていたコードを使ってももらえるポケモンは
アチャモの時はアチャモ・ミズゴロウ・キモリからランダムで1匹、
ヒトカゲの時はヒトカゲ・フシギダネ・ゼニガメからランダムで1匹だった。
これらを入手するために攻略本やムックを複数購入するガチ勢も現れるなど
なお、この手のキャンペーンは「幻のポケモンゲットチャレンジ」などにも引き継がれる。
「幻のポケモンゲットチャレンジ」は期間中にポケモン関連商品を購入すると
貴重なアイテムや幻のポケモンなどを手に入れられるキャンペーンで、
加速アチャモなどとちがってお金さえ出せば確実に手に入るので多少は良心的。
今までわざマシンは使いきりだったが、第五世代からは一度手に入れたわざマシンは何度でも使えるようになった。
わざマシンのために周回する必要が無くなったが、その代わり店で入手するわざマシンの価格は高騰した。
例えばギガインパクトは90000円もする。
この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ。
清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口をTwitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。
続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」を書くかは未定。
つまり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが
最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。
とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ
を先に見ていることが前提。
の説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。
1998年 国際大学協会(IAU)声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」による定義です。
「学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由」
人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の載っているような形で説明している。
「一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」
「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」
世間一般の用法という文脈なわけですから、当然、スライドの引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、
同じく 辞書的定義 が与えられようとしているものと解釈されます。
実際に与えられた定義を見てみましょう。
ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります。
と非常に具体的な形になっています。
世間一般の用法として紹介される割には、議論のあり得るところで
「こういうのは多数派も少数派もない、学問の独立って話なんですが、多数派からの圧力は特に抵抗しにくいので」
というふうに説明するほうが世間の認識とあっているように思える。
とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部からの圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書的定義のままだと受け取ることもできる。
ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います。
「現代の誰かが主張している「学問の自由の侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生が定義していると読める箇所を、少し文言を修正の上、抜き出します。
見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生のブログで挙がっている
「中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全な外科的処置である」
などと同じ形式となっている。
ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、
中絶の例ならば、中絶の 辞書的定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、
清水先生は、この文脈での「学問の自由の侵害」とは 辞書的定義 の学問の自由の侵害とは全く異なるものだと論じていることです。
(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリックの解説なので
どう辛いのかについては、「批判対象の曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)
これらは学問の自由の侵害の定義として読むことができるものであり、
先に導入された説得的定義「社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。
ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書的定義)」学問の自由ではない、という論証。
しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。
先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書的定義と認めました。
逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生の独自見解です。
すなわち、この時点で辞書的定義として導入された学問の自由という概念が
「学問の自由を〜と私は定義します!」という約定的定義へとすり替えられているのです。
一旦まとめると、
「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、
「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的な定義の中に紛れこませる(定義のすり替え)」
学問の自由とは
「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの」
まさに、
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
そのものですね。
この一節は憲法学の理論を援用しているため、少し強引ですが理論的定義を示したものとも言えるでしょう。
実際、この定義を根拠に「学問の自由の侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、
要は憲法学の理論「憲法は原則としては国家権力を監督するものであり、私人間効力の議論も私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。
権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、
そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。
ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、
正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で
直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります。
ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。
清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、
書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、
Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。
ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」の事例が話されているのですが
これも抽象的な定義の操作に時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。
詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、
これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」に譲り、
当記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります。
清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、
とりあえずここは論点にせず、清水先生の解説をそのまま採用します。
ABORの主張は、
「ナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、 そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」
「ナチス肯定論文を学問の自由で擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?
むしろ、何が相手だろうと自由であると肯定する、過激な自由論者ほど否定する内容です。
「大学でナチスの擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか。
まとめると、
最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論の余地のないことしか言っていません。
じゃあなんで議論になるのか。
清水先生の立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が
清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります。
このちょうどいい2人については講演では全く触れない。
特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、
「ちょっとわからない」「詳しくない」「法律の専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」
との返事。
「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。
訴訟の原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば
この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。
またこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。
せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラ・パワハラを長年犯してきた超一流哲学者が大学から追放されたことを、学問の自由で擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。
文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しか出さない。
それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書的定義には触れないで、
何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。
2022.7.24 一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI
長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。
分割の境界はスライドにある番号に従うが、副題は増田の判断である。
スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。
講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしをベースに、
増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。
まず、江口聡先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。
加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセル・カルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生の記事、
なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルのタイプの言論の自由の擁護」として紹介されている。
また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、
他、法学の専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、
(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s
40:57~48:23
清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています。
研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体の他者性、自己表象と生存の戦略、可視性を巡る問題などがあります。
最近は英語圏のフェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。
主な著作に、
Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision、英語の本です、2008年、
「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」、2019年、
『フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります。
清水晶子:
はい、ご紹介ありがとうございます、清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、
本日は「学問の自由とキャンセル・カルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います。
少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。
学問の自由とは
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」
学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。
政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的な権力だったりというところからの圧力を受けることなく、
さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学の経営陣あるいは多数派の社会的通念・経済的な要請などからの
不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問的良心と手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。
例えば、1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるんですが、これによると
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者・教員・学生が、
倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、
そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」というふうにされています。
学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判の文脈における学問の自由の主張というのは、
ある意味まさにここに相当するもの、王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います。
「過激な性教育・ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム」
残念ながら、日本でフェミニズムとかマイノリティの政治に関わる研究者にとって、
今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。
だからこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。
2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、
ここでは与党自民党のプロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体の使用に疑義が提示されたりしている。
2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学の研究者の授業というのが、
先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、
批判や抗議が大学に殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由の侵害であるというふうにして、
産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。
もちろんさらに記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、
日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。
この任命拒否については、憲法23条の保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、
2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否の違法状態の是正を求める意見書」というものを総理大臣に提出をしていると。
この意味での学問の自由の重要性というのは、本日のシンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます。
差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由の侵害」とする言説
その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、
もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います。
今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、
国家とか、強力な宗教団体、経済団体、多数派の社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、
研究者の社会的通念と研究の手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています。
力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、
研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。
ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。
すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、
これは「学問の自由の侵害」であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。
二面での闘い
結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、
私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。
けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、
抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。
学問の自由を巡っては、フェミニストには現在そういういわば両面での闘いというものが要請されている。
この現状は忘れるべきではないと思います。
実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、
ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、
こういうタイプの、マイノリティの権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由の侵害」という枠組み、
この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、
これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います。
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜